「そんなこともあったねぇ」
里見が片付けをしている間、ピアノの前に座っている茜音はそのときのことを思い出すように、ゆっくりと同じ曲を弾き始めた。
「そのときに話は聞いていたのよね。茜音ちゃんのピアノって今になって初めて聞いた。あの当時にこれを生でいきなり弾かれたら誰だって驚くわよ」
里見が感心したように腕組みをしての感想だ。
「昔からこんな才能をもってたのに、どうして言わなかったの?」
「話したとしても、あんまり他の人には面白い内容じゃないですし……」
しばらく話し込んでいると、急に空が暗くなった。
「これは来るな……」
健が呟いて数分が経ったとき、空から大粒の雨が落ちてきた。
「あぁ、降って来ちゃったねぇ」
ピアノから立ち上がり、茜音は窓から外を見た。
朝の天気予報のとおり、夕立と分かるような大粒の雨だった。
「戻ってくるかな?」
「さぁ、あの子たちだから、そのまま遊んでいる気がするけどね。みんな水着だし」
三人で窓の外を見ていたが、誰も戻ってくる気配がない。
「まぁねぇ、菜都実と佳織も一緒だから大丈夫だと思うけど」
「茜音ちゃんは行かないの?」
「うん……。ちょっと体調が……」
「え、そうだったの? 誘ったりしてごめん」
健が慌てた。茜音の様子にはそんなことは微塵にも感じさせなかったから。
「ううん、さっき着いてからだからいいんだよぉ。大丈夫だからぁ」
茜音は逆にすまなそうに言った。せっかくの日に、自分の体調で周囲を心配させたくはない。
「健君、女の子はね、好きな男の子の前では強がったりするものよ」
「里見さぁん……」
里見は茜音に牛乳を温めて持ってきてくれた。
「お砂糖は2つでいいのよね?」
「あのぉ、使っちゃって平気なんですか?」
「平気平気。茜音ちゃんは変わってないねぇ。健君もそれが気に入ってるんだろうけどさ」
役目を終えた里見は茜音に向かい合ってテーブルに座った。
「昔話のついでに、もう一つ二人が知らない話をしてあげようか?」
「はい?」
里見が微笑みながら二人に話しかける。
「なんですか?」
「あのねぇ、二人が駆け落ちしちゃった夜があったでしょ?」
「ま、まぁ……。ずいぶん無茶しましたけど」
「そうねぇ。実はね、あのとき何人かは知ってた。二人がこっそり出て行くのをね」
「ほえ~~?」
「本当ですか?」
そのことはこれまで何も知らなかった。皆が捜してくれたことはいろんな人から聞いている。
迷惑をかけたことを、まだ全員に謝ることも出来ていない。二人にとってそれが残っている気がかりなことでもある。
「ついでに、園長先生もあの晩は何かがあるって予想していたのよ。まさかあそこまで遠くに行っちゃうとは思っていなかったみたいだけどね。だから誰も出てこなかったでしょ? 二人が出て行くの、あたしは知ってた」
「どうして。止めなかったんですか……?」
当時低学年の自分たちが夜中に無謀なことをするのを分かっていたなら、園内の決まりでは高学年の子はすぐに注意することになっていたからだ。
「だって、みんな思ってたんだもん。二人を引き離すのはあんまりだって。最後くらい許しちゃえってね。あたしも賛成組。ちょっと心配だったけど、二人なら大丈夫って思ってたの。一応何かがあってからでは遅いから捜索願だけは出したけど、二人が戻ってくるまで待つって決めてたんだよ」
「そうだったんですか……。みんなに借りがあるんだなぁ」
里見は笑って続けた。
「いいんだって。みんな二人のことは応援してるよ。もう結婚したり、茜音ちゃんみたいに家庭に入った子もいる。いつかみんなで集まりたいね」
里見の様子だと、恐らく彼女は各自の連絡先を知っているように思えた。
「あ、茜音ちゃんは動きが早くて追いかけられなかったんだよ。だから、健君にも茜音ちゃんの連絡先を教えられなかったの」
雨に洗われている緑を見ていた時、聞き慣れた大きな声が響いてきた。
「茜音、健君大変!!」
「どうした!?」
佳織は走り通してきたらしい。水着にTシャツを重ねた状態で雨に打たれるまま、三人の前に現れた。
「未来ちゃんが……」
「どうしたの?」
その名前を聞いて、茜音にも緊張が走る。
「川の……、反対側に取り残されちゃって……。帰ってこられなくなって……。雨で水かさが増えちゃってるし……」
「分かった。すぐに行く」
健が立ち上がったとき、茜音は先に濡れるのも構わず走り出していた。
「茜音ちゃん! 無茶はするなよ!」
健の声は聞こえていたが、それに振り向いている余裕はない。茜音は他のメンバーがいる河原へ急いだ。