「本当に無関係の私たちが一緒でいいの、茜音?」
「うん。ちゃんと許可もらったよ。菜都実のお父さんにはあとで謝らなくちゃ……」
夏休みは菜都実の自宅でもある『ウィンディ』は目の前の海岸線もあって書き入れ時だ。
娘の菜都実はもちろん、佳織や茜音も用事がない日は仕事を入れていた。
それを突然2泊3日の空白を作ってしまったのだから。影響がないわけがない。
「夏休みはいつもどこにも連れていけないから、行ってこいって」
どうやら、行った先でのお土産を買って来ることで上村ファミリーでは落ち着いているらしい。
約束していた水曜日の夕方。茜音に菜都実と佳織を加えたいつもの三人組は2日間の宿泊の用意を持って珠実園に現れた。
「おぉ、こういう感じなんだ」
「まぁねぇ。ここは独立型だね。教会に併設とかいろいろな形があるけど。みんな最後には自立させるって目標は同じような感じかな」
二人とも茜音から施設の様子は聞いたりしているが、実際に中に入るのは初めてだった。
二人の挨拶が終わると、茜音の時と同じように人なつっこい連中が取り囲む。
もちろん、二人の名前は茜音の旅の立役者として知れているから、健が知らない茜音の探索記のエピソードはいくらでも出てくる。
「まー、この連中なら大丈夫だわぁ」
今は誰も入っていない部屋を借り、風呂上がりの菜都実は上機嫌だ。
「ずいぶんお風呂長かったじゃない。遊ばれてたの?」
「まーね。思い切り遊ばれちゃったわ」
佳織は茜音と二人で明日の用意を進めていた。
総勢二十人近く、しかも下は小学校低学年、上は高校生までが一度に動くには本当ならバスの方が都合がいい。
しかし健に言わせれば、自分で電車にも乗れないのではあとあと困るということらしく、毎年この移動は電車やバスなど公共機関を使うとのこと。
翌朝7時には出発することになっているので、準備は今の内にやっておく必要がある。
「まぁ、茜音が悩んでるって言うから、助っ人に来たけどね。明日じっくり聞かせてもらうわよ」
「うん、本当にごめんね。忙しいのに無理言って……」
「面白そうだからいいじゃん」
「考えたらこれ私の課題なのに……。健ちゃんが、二人もサポートで入ってくれたって報告に書いてくれるって」
「なるほど、昼間はここの職員なんだ」
「うん。今は学校に行っている時間だからね」
夕方5時に仕事を切り上げ、支度をしてから4年間の夜間高校に通っている。
「苦労人してるんだね。でも、茜音の彼氏だもん。しっかりしていて安心したよ」
「明日は朝早いから、早く寝ておいてね」
二人を先に寝せるために三人分の布団が用意されている部屋に案内する。
「茜音は?」
「うん、もう少し起きてる。小さい子たちがちゃんと寝ているかの見回りもあるから……」
「菜都実、先に寝よ」
佳織がウインクをして菜都実の背中を押していく。
茜音が健の帰りを待っているのは間違いないからだ。
「ただいま……。茜音ちゃん?」
普段は暗くなっているリビングに照明がついている。
「お帰りなさい。お風呂温めてあるよ」
言われるままに、部屋に荷物を置いて戻ってくると、きちんと畳まれているパジャマを手渡された。よく見ると、取れかかっていたボタンも縫いつけ直されてある。
その日、茜音が最後に一回りのチェックを終わらせて床についたのは、子供たちがみんな寝静まって珠実園の明かりが全て消えるのと同じだった。
「やっぱり朝早いから仕方ないねぇ」
夏休みとはいえ、朝の駅で各自に切符を買わせるだけでも一騒動。ようやく列車に乗り込んで出発するも、座席でぐっすり眠り込んでいる子もいる。
「考えたねぇ。テントとかどうするのかと思ったら、ちゃんと泊まるところは確保してあるんだ」
これだけの人数が泊まり込みで出かけるのだから、その荷物はさぞかし大変かとの予想とは少し外れて、年長組は少し多めに物を運んでいても、年少組は各自の着替えや現地での遊び道具を持ってきている程度だ。
そんな軽装備でフルスペックのキャンプなど、どうするのだろうと思っていたら、職員の親戚で大きな別荘を持っている人がおり、川釣りなども出来るという。
そこならば費用も浮くし、他の客に迷惑がかかるなどという心配をしなくていい。
出発してから2時間ほど、以前茜音の旅で訪れた場所も近い山の中で、一行は駅から乗ってきたバスを降りた。
「へぇ、ずいぶんと山の中だねぇ」
茜音は隣に歩いている健に話しかけた。
「うん。どうしようかなぁ……」
「どうしたの? なにか悩んでる?」
健がしきりに空を見ている。しかし、空はよく晴れた夏空だ。
「天気予報は午後に一雨来そうって言ってた。夕飯のバーベキューにかからなければいいんだけどなぁ」
「そうかぁ、川沿いでやるならねぇ」
「ま、そのときはウッドデッキがあるからそこでやらせてもらうよ。そういうときもあった」
健がそう茜音に答えたとき、後ろから来る者があった。
「兄さん! 仕事ばっかりしてないでちゃんと遊びに来てよ? 楽しみにしてたんだから」
「分かったって……」
その間に茜音は菜都実たちのいる後方に下がった。
「なるほどぉ。そーいうことか。茜音にライバル出現とはなぁ。しかもかなり手強そうじゃん?」
「うぅぅ……」
様子を見ていた二人にも、今茜音が何を迷っているのかが分かったようだ。
「でもほら、相手は中学生よ? 茜音が迷ってどうするの? 堂々としていればいいのよ」
「これで高校3年生と言わせるのもどうかと思うけどな……」
「わたし、年相応に見えないもんなぁ」
「見える見えないも、茜音は高3。そこは格の違いを見せつけてやんなさい」
そんなことを言いながら、目指す別荘に着いた。
「へぇ、なかなか凄いじゃない」
2階建ての建物自体はそれほど新しいものではない。1階はキッチンや、健の言っていたウッドデッキなどがある客間スペース。
2階が個別の部屋になっているので、各自部屋割りがされている。
「よーし、水着に着替えて川に行こうぜ」
男の子たちはすでに着替え終わり、そのまま庭の方に走っていく。
その先には沢があり、その河原が遊び場になると言う。
「危なくなったら帰って来いよ」
健の声が聞こえる。
声がした1階へ降りていくと、里見が昼食の、健が夜の用意を始めていた。
「……高校生のメンバーだって遊びたいんでしょ」
「ま、仕方ないよ。普段は結構仕事してもらってるし」
茜音は二人とは少し離れたところで、何かを見回している。
「茜音ちゃん、あとの二人は?」
「ん? みんなの見張り番に行くって。菜都実が遊びたくて仕方ないみたい」
「そっか。珠実のメンバーだけかと思ったけど、違いそうだね」
「茜音ちゃんはどうして行かないの?」
里見の問いにすぐに茜音は答えなかった。
その代わり何かを思い出すように周囲を見回している。
「どうしたの?」
茜音はパーティーが開けるような大広間の片隅に置いてある物を見つけて言った。
「多分、ここ、昔来たことがあるかも……」
「えぇ?」
意外な発言に二人とも驚いた。
「それはいつ?」
「んーと、多分幼稚園とかそんな感じだと思う……。だから健ちゃんたちと会う前だね。うちにあるのと同じだって……」
そう言いながら、茜音は置かれているグランドピアノを見た。手際よくふたを開け、鍵盤の上に指を走らせる。
「うん。ちゃんと調律されてる」
「茜音ちゃん、ピアノ弾けたんだっけねぇ。バイト先でも弾いてるってさっき菜都実さんから聞いてるよ」
「うん、お店にね、菜都実の亡くなった妹さんのピアノがあったんだよ。それを弾かせてもらってる」
茜音の生演奏はふとしたきっかけで始まって、もう常連たちの間では有名になり人気も出たため、彼女の仕事の内容が接客から演奏に変わってしまうほどだ。
「そういえばさぁ、昔、茜音ちゃんはピアノで大変なことやったんだよねぇ」
「はう?」
里見が健に話しかける。
「あー、あったあった。ほら小学校1年生のとき……」
三人が思い出したのは、もう10年以上前の、小学校1年生のことだった。
小学校1年生の音楽の授業。年度末に生徒たちは皆の前で歌ったり楽器を演奏することになっていた。
「茜音ちゃんどうする……?」
「うぅ……」
健の問いに茜音は困った顔をしていた。
茜音は事故のショックから言葉が話せない状況が続いていた。
声が全く出せないという状況よりかは少し改善し、声の状況である程度のコンタクトは出来る。
しかし、周囲の子たちからすれば、そこに至った理由などは関係なく、茜音を嘲笑することは続いていた。
そんな状況だから、彼女が当然歌うことは出来ない。楽器の演奏と言っても、1年生では、まだそれほど難しい楽器は想定されていなかった。
「佐々木さんはどうしようかぁ」
先生は二人のところにやってくる。休んでいる子を除いて評価の試験も終わって、残っているのは茜音だけとなった。
「佐々木はしゃべれないもん。歌えないよぉ」
「しゃべれないもんねぇ」
それぞれの番が終わってしまったので、がやがやと騒ぎ出す音楽室。
「どうする、佐々木さんは何か楽器でやってみる?」
そうだとしても、これまであまり練習など出来なかった状況では、とても演奏できるとは先生も思っていない。
とにかく何かをやった上での評価を付けなければならないと思ったときだった。
「うぅ……」
それまで黙って下を向いていた茜音が、突然顔を上げた。
「やってみる? なににしようか?」
先生の問いかけに茜音は、音楽室の前方に置いてあるものを指さした。
「え、ピアノ?」
茜音はこくりと頷く。
「茜音ちゃん、ピアノ弾けるの?」
健も彼女が楽器を演奏するところなど、これまで見たことがない。
茜音はそれには答えずに、ゆっくりと席から立ち上がって前に向かった。
グランドピアノの前に立つと、先生は椅子の高さを調整してくれた。
「これで高さ大丈夫?」
「……ぅん」
小さく頷き、鍵盤に手を乗せたまま時間が過ぎていく。
「やっぱ弾けないんじゃない?」
誰かがそう言いかけたとき、茜音は鍵盤の感触を確かめるように、一気に指を走らせた。
教室の中が、笑いに包まれた。
「静かにして!」
しかし、その様子を見ていた先生は子供たちを黙らせた。
「……佐々木さん。好きな曲でいいわ……」
音を聞いているだけの子供たちから鍵盤の手元は見えない。それに聞いただけでは単純な7オクターブの連続した音は遊びでも出すことは出来る。
先生が目にしたのは茜音が非常に素早い正確な動きで指を動かしているところだ。
しかも座っている姿がすでに様になっていて、素人とは思えないほどの貫禄がある。
背筋を伸ばし、鍵盤に手を置いているところは、何かに集中しているように見えた。
「なにか楽譜いる?」
茜音は目をうっすらとあけて、頭を横に振ると、再びゆっくりと鍵盤の上に指を滑らせ始めた。
がやつき始めた教室の中がしんとなった。
ゆっくりとした、柔らかいピアノの旋律。
「佐々木さん、あなたはいったい……」
シューマン作曲のトロイメライ・子供の情景。
落ち着いた曲調は非常に親しまれ、名前は知らなくても聞いたことがある曲だろうし、音楽室にもCDはある。しかし小学1年生が弾いているとは思えないほど、それは完成しているように聞こえた。
しかも、譜面台には何も置かれていない状況でだ。
小さく鼻をすする音が聞こえる。見れば、茜音の目から涙がこぼれていた。
「佐々木さん、もういいわよ。ありがとう」
そのまま約2分半の1曲を弾き終えたところで、座っていた先生は立ち上がって大きな拍手を送った。
他の生徒たちも信じられないものを見たように呆然としていた。
もちろん、その時の茜音の通知票には最高得点が付けられたのは言うまでもない。
「そんなこともあったねぇ」
里見が片付けをしている間、ピアノの前に座っている茜音はそのときのことを思い出すように、ゆっくりと同じ曲を弾き始めた。
「そのときに話は聞いていたのよね。茜音ちゃんのピアノって今になって初めて聞いた。あの当時にこれを生でいきなり弾かれたら誰だって驚くわよ」
里見が感心したように腕組みをしての感想だ。
「昔からこんな才能をもってたのに、どうして言わなかったの?」
「話したとしても、あんまり他の人には面白い内容じゃないですし……」
しばらく話し込んでいると、急に空が暗くなった。
「これは来るな……」
健が呟いて数分が経ったとき、空から大粒の雨が落ちてきた。
「あぁ、降って来ちゃったねぇ」
ピアノから立ち上がり、茜音は窓から外を見た。
朝の天気予報のとおり、夕立と分かるような大粒の雨だった。
「戻ってくるかな?」
「さぁ、あの子たちだから、そのまま遊んでいる気がするけどね。みんな水着だし」
三人で窓の外を見ていたが、誰も戻ってくる気配がない。
「まぁねぇ、菜都実と佳織も一緒だから大丈夫だと思うけど」
「茜音ちゃんは行かないの?」
「うん……。ちょっと体調が……」
「え、そうだったの? 誘ったりしてごめん」
健が慌てた。茜音の様子にはそんなことは微塵にも感じさせなかったから。
「ううん、さっき着いてからだからいいんだよぉ。大丈夫だからぁ」
茜音は逆にすまなそうに言った。せっかくの日に、自分の体調で周囲を心配させたくはない。
「健君、女の子はね、好きな男の子の前では強がったりするものよ」
「里見さぁん……」
里見は茜音に牛乳を温めて持ってきてくれた。
「お砂糖は2つでいいのよね?」
「あのぉ、使っちゃって平気なんですか?」
「平気平気。茜音ちゃんは変わってないねぇ。健君もそれが気に入ってるんだろうけどさ」
役目を終えた里見は茜音に向かい合ってテーブルに座った。
「昔話のついでに、もう一つ二人が知らない話をしてあげようか?」
「はい?」
里見が微笑みながら二人に話しかける。
「なんですか?」
「あのねぇ、二人が駆け落ちしちゃった夜があったでしょ?」
「ま、まぁ……。ずいぶん無茶しましたけど」
「そうねぇ。実はね、あのとき何人かは知ってた。二人がこっそり出て行くのをね」
「ほえ~~?」
「本当ですか?」
そのことはこれまで何も知らなかった。皆が捜してくれたことはいろんな人から聞いている。
迷惑をかけたことを、まだ全員に謝ることも出来ていない。二人にとってそれが残っている気がかりなことでもある。
「ついでに、園長先生もあの晩は何かがあるって予想していたのよ。まさかあそこまで遠くに行っちゃうとは思っていなかったみたいだけどね。だから誰も出てこなかったでしょ? 二人が出て行くの、あたしは知ってた」
「どうして。止めなかったんですか……?」
当時低学年の自分たちが夜中に無謀なことをするのを分かっていたなら、園内の決まりでは高学年の子はすぐに注意することになっていたからだ。
「だって、みんな思ってたんだもん。二人を引き離すのはあんまりだって。最後くらい許しちゃえってね。あたしも賛成組。ちょっと心配だったけど、二人なら大丈夫って思ってたの。一応何かがあってからでは遅いから捜索願だけは出したけど、二人が戻ってくるまで待つって決めてたんだよ」
「そうだったんですか……。みんなに借りがあるんだなぁ」
里見は笑って続けた。
「いいんだって。みんな二人のことは応援してるよ。もう結婚したり、茜音ちゃんみたいに家庭に入った子もいる。いつかみんなで集まりたいね」
里見の様子だと、恐らく彼女は各自の連絡先を知っているように思えた。
「あ、茜音ちゃんは動きが早くて追いかけられなかったんだよ。だから、健君にも茜音ちゃんの連絡先を教えられなかったの」
雨に洗われている緑を見ていた時、聞き慣れた大きな声が響いてきた。
「茜音、健君大変!!」
「どうした!?」
佳織は走り通してきたらしい。水着にTシャツを重ねた状態で雨に打たれるまま、三人の前に現れた。
「未来ちゃんが……」
「どうしたの?」
その名前を聞いて、茜音にも緊張が走る。
「川の……、反対側に取り残されちゃって……。帰ってこられなくなって……。雨で水かさが増えちゃってるし……」
「分かった。すぐに行く」
健が立ち上がったとき、茜音は先に濡れるのも構わず走り出していた。
「茜音ちゃん! 無茶はするなよ!」
健の声は聞こえていたが、それに振り向いている余裕はない。茜音は他のメンバーがいる河原へ急いだ。
茜音が河原へ走り込んだときには、菜都実がすでに全員を一カ所に集め、状況を確認しているところだった。
「茜音! あんた平気なの? 健君は?」
「うん。健ちゃんは引率の先生を呼びに行ってる。なにがどうなってるの?」
「ほら、あそこわかる?」
菜都実が指さしたところは、川がカーブを描いている場所。こちら側は浅いが反対側が深くなっているような場所だ。
「未来ちゃん、あそこから動けないのよ」
「なんであんなことに……?」
「原因はあそこよ」
菜都実はこちら側で固まっている男の子のグループを見た。
「未来ちゃん泳げないの分かっているのに、無理矢理あそこに上らせちゃって身動きできなくなっちゃったのよ。水が急に増えて、他は帰ってこられたけど、未来ちゃんは動けないわけ」
「それじゃぁ困ったな……。この雨じゃ、水かさが戻るのを待つなんてできないし……」
二人は一人残っている未来を見た。普段は強気な視線の彼女だが、今は心細そうにこちら側を見ている。
もう雨に打たれ体温も奪われて動けないのだろう。泳げたとしても一人では危険だ。茜音の読みでは、残された時間はあまり長くない。
「……わたしが行く」
「茜音? あんた正気?」
菜都実は叫んだ。三人で海やプールに行くことも多く、茜音が泳ぎが上手なことは分かっている。しかし、泳げない人間をこの急流でもう一人抱えて渡るなど、自殺行為にも等しい。
「まだ未来ちゃんに体力が残っている今じゃなきゃダメなんだよ」
「ならあたしが行くのに」
「ううん、菜都実はこっち側にいて」
茜音はそう言い切ると、様子を見ている集団のところにやってきた。
「誰か釣り糸を持っていたよね。それを出してちょうだい」
さっきまでの、皆が知っている茜音とは思えないほどの厳しい口調だった。有無を言わせないような迫力に、釣りをしていた子から糸が差し出される。
「何をする気?」
「これをわたしがなんとかあっちまで持って行くから。健ちゃんが来たら、糸の端にロープを付けて反対側まで渡して。あとはこっち側で引っ張ってくれる? だからこっちに力のある菜都実じゃなきゃダメなんだよ。わたしと未来ちゃんを二人引っ張らなきゃならないから」
ずいぶんと危険な方法だが、確かに一番早く片付けるにはこれしかない。茜音が反対岸にたどり着けるかどうかにかかっている。
「あそこを泳ぎ切るのはどんなに凄い人でも無理だよぉ。行くとしたらもう少し上流から探してみようか」
菜都実と二人で川を上流に歩いてみる。数分のところに、川の流れがよどんでいる場所があった。
「あそこから?」
「うん。あそこなら泳ぎ切れると思う」
「水着じゃなくて平気?」
服を着たままの泳ぎはとてもきつい。服が抵抗になってしまい、手を動かすにも大変な力が必要になる。
「着替えに戻る時間はないよ。うまく飛び込めばあっちの岸に流れが行ってるから、大丈夫だと思う」
茜音は借りた釣り糸を体に巻きつける。
「茜音、これ短いけど、あんたが向こうに着くくらいの長さはあるから。こっちで持ってるから」
「うん、ありがと」
同じように菜都実が差し出した細いロープも体に結びつけた。
「健ちゃんがみんなを連れてくるはずだから、それまでにあっちに行かなくちゃ」
ブラウスとスカートをその場で脱ぎ捨て、キャミソールとスパッツの上下になる。靴は逆に必要だからとロープに靴紐で結び付けた。
「じゃ、こっちお願いね」
深呼吸をした茜音はそう言うと、助走をつけて淀みに向かって飛び込んだ。
「くっ、引かれるな。茜音、大丈夫!?」
予想以上に流れが速い。あれに巻き込まれたら茜音が流されてしまう。今は彼女の運に任せるしかなかった。
少し予定よりも流されたあと、彼女は無事に渡りきった。
「はぁ……。よかった……」
向こう岸で膝と両手を地面につき、大きく息をしている茜音は思った以上に消耗している様子だ。
「茜音! 大丈夫なの?」
しばらくして、彼女はOKサインを菜都実に返した。
「はぁ、はぁ……ふぅ……。絶対……また健ちゃんに怒られるなぁ……」
服を脱いでおいてよかった。自分の体力の回復を待つ間に裸足に靴を履いておく。
菜都実に合図をして、互いに持っている糸を切らないように、茜音はこちら側の岸を先ほどの場所まで進んでいく。水かさが上がっているため、道はないに等しかった。
足を取られないように気をつけながらようやく未来の取り残された現場にたどり着く。
「未来ちゃん、大丈夫?」
「え?」
膝を抱えて顔を伏せていた未来は、突然の声に驚いたようだ。
「どうやってこっちに?」
「ちょっと泳いじゃったぁ」
未来も茜音の姿を見て大体の流れは察したようだ。
「でも……、茜音さんに助けられたら、私……」
「ほえ?」
意外な未来の言葉に面食らう。
「茜音さんに助けられたら、私もう兄さんと……」
「バカっ! こんな時に何を言ってるのよ!」
「茜音さん……?」
彼女も普段とは違う茜音の様子に驚いていた。
「生きるか死ぬかの時に、そんな小さいことで悩まないの。助かってから考えればいいんだよそんなこと! それとも、もう二度と健ちゃんに会えないでいいの?!」
未来の水着の肩ひもをつかみ、茜音は怒鳴った。
「ごめんね大きな声出して。でもね、誰も悲しませたくないんだよぉ」
怯えてしまった未来の頭をなでる。いつもの調子に戻った茜音の声。
「わたしだって、未来ちゃんっていうライバルが出来たから、ちょっと焦っちゃった。でも、選ぶのは健ちゃんだよ」
反対側を見ると、菜都実が戻ってきた佳織や健と引率の職員に状況を説明している。
「あはは、健ちゃんが『また無茶して』って顔してるよぉ」
菜都実から説明を受けた健はこちらを向いて腰に手を当てている。
しばらくして、言っていたとおり、長いロープと浮き輪が両岸をつないでいる釣り糸に結びつけられた。
「これが切れたらおしまいだからねぇ。未来ちゃんも手伝ってぇ」
二人で力を合わせて、そのロープをたぐり寄せる。
「よぉし、これでつながったよぉ」
ようやく二人の手元にロープが届いた。茜音はそれを輪にして体に結びつける。
「それじゃぁ、こっちで未来ちゃんをとめるねぇ」
最初から持ってきていた短い方のロープを未来の腰と浮き輪に通し、もう一本に結びつける。
「未来ちゃんは泳げないんだよね?」
「うん……」
「わかった。じゃぁ、浮き輪の上に座っていても、わたしにつかまっていて。どんなことがあっても離しちゃダメだよ。浮き輪のバランスは頑張ってね」
二人で水面ギリギリのところに降りる。足が水の中に入ったところで未来は言われたとおり浮き輪の上に腰掛け、茜音の腕をつかむ。
「最初はわたし潜っちゃうかもしれないけど、何があってもこの手を離しちゃダメだからねぇ」
未来がうなずいて、茜音は岸の方を見る。万一のことがあってもこれ以上流されないよう、ロープの端が木に巻き付けられているのを確認し、菜都実たちとのタイミングを合わせる。
「いくよぉ。ちょっとだからがんばれぇ」
巻き付けてあるロープが引かれた。
「よぉし、いくよぉ!」
思い切って岸を離れる。急に深くなり足が着かなくなった。未来のバランスを崩さないために、泳ぐと言うよりも姿勢を保っているのがやっとだ。ぐいぐいとロープに引かれるのがわかった。実際には1分もかからなかったはず。濁った水の中ではずいぶんと長く感じられた。気がつくと浅瀬に来ていて、顔を水の上に出せるところまで来ている。
「未来ちゃん、もう大丈夫だよぉ。降りて立てるよぉ」
ぎゅっとつぶっていた未来の目が開いた。
「ありがとぅ……」
「もう、大丈夫だからねぇ……」
未来が自分の足で立ち上がり、他の面々にに迎えられたのを見届けると、茜音はその場に崩れ落ちた。
「未来ちゃん、そこにいるんだろ? 入りなよ」
「うん……」
中から彼の声がして、未来はドアを開けた。
ベッドには茜音が寝かされており、健が横に置いた椅子に座っていた。
「大丈夫だったか?」
「うん。もう平気」
一度入浴して体を温めたのでもう水着ではなく、元の服を着たいつもの姿に戻っていた。
「さっきは、頼んじゃって悪かったな……。本当は僕がやるはずだったんだけど……」
「兄さんが茜音さんのお風呂入れたら、ちょっとここじゃマズイでしょ。そのくらいは私でもできるよ……。でも……」
「でも、どうした?」
口を閉ざした未来に、健はたずねた。
「茜音さん、すごく軽かった……。思ったよりずいぶん痩せてた……。服が厚手で気がつかなかったけど、私でも抱え上げられた……」
「そうか……」
健は黙って未来の前に小さな薬の瓶を見せた。
「それ、持ち物の中にあった栄養補助剤だ。数日前からなにも喉を通らなくなったらしい。仕方ないから、そんな薬で持たせていたんだ」
「えぇ? でも……、そっか」
そんなバカなと思ったけれど、振り返ってみると、食事の時間も茜音は給仕などに徹していて、ほとんど食べていないことに今更ながら気づく。
「昔と同じだ。神経で胃がやられると何も食べられなくなるんだ。昔も薬とか点滴で持たせたことがあったんだ」
健は、茜音の額にかかった髪を、そっとのけてやる。
「兄さんは、それを分からせるために……?」
「違う、それは偶然。調子が悪いってのは聞いていたんだけど、どう悪いのかはさっき里見さんから聞いて知ったんだ。誰にも知られたくなかったんだよ。だから本当は僕がやるべきだったのかもしれない」
未来は改めて寝かされている茜音を見た。
さっきはあんなに大きな声で恐く見えたのに。目の前に寝かされているのは、頼りなく見えるほど自分と大差ない小柄な少女だ。
「茜音ちゃんはいつもそうだ。ギリギリまで我慢しちゃうから……。それを見抜けなかった僕に全部責任がある……」
「兄さん……」
こんなに心配そうに声を絞り出す健を未来は見たことがない。
「恐かったかい?」
「えっ、うん……、私泳げないから」
「違うよ、あのとき怒鳴った茜音ちゃんだよ」
普段は大きな声を出すことはない茜音。だからこそのギャップに驚いたのは事実……。
「うん……。でも、仕方なかったと思う。私を助けに来てくれたのに、一人で意地張って……。まさかこんなことになるとは思ってなかったし」
それは健以外の誰にとっても茜音が倒れる事態は想定外だ。
「未来ちゃん。茜音ちゃんは、もう大切な人を誰も失いたくないんだ。だから、きっと僕があそこにいたとしても、きっと作戦は同じだったと思う。茜音ちゃんは未来ちゃんを認めたんだよ。自分の大切な家族の一人として」
「家族……?」
未来は、自分の家族を知らない。この世に生を受けすぐに、彼女は珠実園の門のところに置き去りにされていたという。
健のことを兄と呼ぶのは、そんな幼い頃から自分の面倒を見てくれたことに由来する。
「茜音ちゃんは事故で両親を亡くすまで、仲のいい家族の中で大事に育てられてきたんだ。だから、家庭がどんなに暖かい物かを知ってる。僕たちが茜音ちゃんから学ばなきゃならないものはたくさんあるんだよ」
「そっか……」
うなずいた未来を健は見て続けた。
「未来ちゃん。僕は言っておかなくちゃならないことがあるね……」
「うん?」
未来の表情が少しこわばった。
「言わなくちゃいけないことがある」
ついにそのときが来たと、未来は理解していた。
「ごめんな。未来ちゃんの気持ち分かってて、ずっと何も言わなくて」
「うん……」
「知ってるとおり、未来ちゃんと会う前から、僕と茜音ちゃんは二人だった。当時から将来のことは言っていたけど、それがどこまで本当になるかは分からなかったけどね。でも、僕もこの10年、茜音ちゃんことを忘れた日は1日もなかった。そして、それは茜音ちゃんも同じだった。先月再会したときに、僕はずっと思ってきたことを茜音ちゃんに言った。これからは何があっても茜音ちゃんを守っていくって」
「兄さん……」
ずっといつかは告げられると分かっていた答えだ。
健たち二人の話は、珠実園の中でも十分すぎるほど有名だったし、そんな二人の恋愛物語は、年頃を迎えた女の子たちにとって憧れとさえ言われているほどになっている。
一方で、幼い頃から健に面倒を見てもらってきた未来。
兄と呼びながらも本当の兄妹でないことは十分承知していた。
だからこそ、伝説となるほどの恋愛ストーリーの主人公である健のそばにいられることが自慢だったし、淡い期待も抱いた。
「私は、結局負けちゃった……。最初からそう思っちゃいけなかったんだよね。兄さんが茜音さんに会いに行くとき、本当は行って欲しくなかった。聞けば聞くほど、茜音さんが約束を破る人には思えなかったし、茜音さんが兄さんのことを真剣に探してるって知っちゃっていたから……」
「え?」
健には初耳だ。そうなると健がずっと探し出せなかった茜音の所在を彼女は知っていたことになる。
「学校でね、プログラミングの時間に見つかったんだよ。兄さんたちの名前を入れて検索したら出てきた。中を読んで、この人がそうなんだって……。でも、書き込みはできなかったし、兄さんにも知らせること出来なかった……。ごめんなさい」
「そっか。未来ちゃんの気持ちを考えれば、仕方ないことだよ。もう過ぎたことだ」
もしそのときに互いの情報を知ったとしても、結局二人はあの日まで会うことはなかっただろう。気持ちの上での雲泥の差はあったとしても。
「だから……、今度来る人が同じ名前だって知ったとき、もうどうしていいか分からなくて……」
「僕を取られるって思ったのか……?」
無言の返事を返した未来。
「だって、兄さん、もう珠実園を出て行かなきゃならない歳だし。きっと茜音さんのところに行っちゃうと思ったし……」
「まだ何も決まってないし。決まったとしてもまだ先の話だよ。いきなりいなくなることはないさ」
健にも未来が急に密着度を上げてきたことは分かっていた。分かっていても、自分には普段通りに接してやることが、彼女に出来るせめてものことだった。
「うん……、本当に茜音さんって凄い人なんだね。兄さんが惚れるのが分かった気がする。なんか、素直に祝福してあげられるような気がしてきたなぁ」
「なに言ってるんだか。そろそろ菜都実さんか佳織さんが来るはずなんだ。僕はみんなの夕飯の支度をしに行くから、しばらくついていててあげてくれるか?」
顔を赤くしながら、健は立ち上がって部屋を出て行こうとした。
「うん……、分かった。私ももう少し休んでるね」
「寝てるからって、いたずらしちゃダメだぞ」
「大丈夫。今度茜音さんになんかしたら、それこそ兄さんに愛想つかされちゃう」
未来の顔がいつも通りに笑ったのを確認すると、健はその部屋をあとにした。
「あれ佳織、茜音は?」
夕立は上がったものの、地面がぬかるんで危ないとの判断で、その日の夕食はウッドデッキでのバーベキュー開催となった。
健や里見と一緒に手伝いをしていた菜都実は、佳織が一人下に降りてきたのを見つけた。
「目も覚ましたし、あとで降りてこられると思うよ。今はここの家主さんとお話し中」
「は? 茜音になんか関係あんの?」
菜都実は一瞬訳が分からなかったが、すぐに思い直した。
「茜音ってさぁ、どこに味方がいるか分からないよなぁ」
「まぁ、ただでさえあちこち出歩いているから、そんなところかもしれないけどね」
食事が終わる頃になると、子供たちは自然にデッキのあるダイニングキッチンではなく、大きな客間の方に集まりだした。
「今年はどんな曲かなぁ」
「なんかあるの?」
未来が健と話しているところに、菜都実が割り込んだ。
「ここの家主さんってさ、有名なオーケストラのコンサートマスターなんだって。だから毎年このタイミングでいつも演奏してくれるんだよ。その時々で曲が違うってのがあってさ」
「なるほどねぇ……」
珠実園の子たちがなかなかプロの生演奏というものに触れることは容易ではないだろうから、楽しみにしているということも理解できる。
その話をまた横から聞いて、佳織は納得したように腕組みをしていたけれど、それと同時にその人物が茜音と会っているということに、何かがあると感じた。
日も暮れ、周囲も暗くなった頃、その人物は客間に姿を見せた。
「皆さん、お久しぶりですね。ずいぶん大きくなられた方もいるようですが、お元気で何よりです」
バイオリンを手に現れたその男性は小峰と紹介されていた。普段は東京のオーケストラに所属し、コンサートマスターをしている身でありながら、この珠実園には何かと縁があって協力をしてくれているという。
「うわぁ……。あの楽団のコンサートなんて、とても取れないわ……」
小峰の自己紹介に佳織が目を丸くしている。
「本日は、思いがけない方とお目にかかれたので、特別な演奏でお聴かせできることになりました」
小峰氏はドアを開けて、玄関ホールで待機していた人物を招き入れた。
「あ、あのぉ……、本当にいいんですか……?」
そう言いながら楽譜を抱えて入ってきたのは、
「あれ、茜音だよな……?」
「珍しい。髪型まで変えてくるなんて」
「っていうかさぁ、あんな服を持ってきていたっけ?」
菜都実と佳織の指摘のとおり、その人物は茜音以外にないわけだが、いつも見ている彼女の姿ではなかった。
普段、両サイドの前の方で三つ編みを2本作っている髪型を、このときは後ろ側に垂らしている髪も入れて二つに分けて太い編み込みにしている。
服もこれまで見たことがない、白い丸襟のブラウスに青と白のギンガムチェックのエプロンドレスを合わせ、上品さというよりも、素朴さが強調されているようなデザインだった。白いストラップパンプスも持参品ではない。
「皆さんもご存じの、片岡茜音さんが本日の特別ゲストです」
小峰は茜音の隣に立って説明を続ける。
「以前のお名前は佐々木茜音さんとおっしゃいます。そして以前、私は茜音さんのご両親とは家族ぐるみのお付き合いをさせていただいていました」
「えっ?」
菜都実が驚いた顔をしているが、佳織は謎解きが終わったような表情だった。
「この茜音さんのご両親は、佐々木秀一郎さんと成実さんとおっしゃいまして、お父様の秀一郎さんは当時、楽団の先代コンサートマスターをしておられました。世界でも有数のバイオリニストです。そして、お母様の成実さんは、新人でありながらトップのピアニストでしたから。お二人はいつもこの家で練習をされていたんですよ。そして、そのお嬢さんの茜音さんも幼い頃によくこちらに見えていますからね」
「えぇー?」
一斉に視線が茜音に注がれる。
「やっぱりかぁ……」
「なによ、知ってたの?」
納得している佳織に、健と菜都実が目を向けた。
「知らなかったわよ。だとしても、お店であれだけ弾ける茜音の才能を考えたら、なんかあるって普通思うじゃない」
「そっかぁ」
「『茜音』さんのお名前は、お生まれになった9月10日当日の夕焼けを茜色と、ご両親を結びつけてくれた音楽への感謝を込めてつけられています。茜音さんもご存知ではなかったでしょう?」
「はい。そんな話、はじめて聞きました……」
準備も終わり、茜音はピアノの前に座った。使い込まれたピアノだから、彼女が昔触った記憶があるという謎も解けていた。