「先生、よろしくお願いします」
教室の扉を開けて入ってきた女性を見て、佐々木秀一郎は何かを感じた。
「初めまして。深谷成実さんとおっしゃいましたか?」
申込書には確か19歳と書いてあったが、まだ高校生の少女と言っても通用してしまいそう。
でも、ダークブラウンの瞳は強い意志を感じさせながらも柔和な視線で自分を見ていた。
「はい。教師になるためにはピアノを弾ける必要がありまして……」
「なるほど」
成実に聞いてみると、ピアノは好きではあったけれど、特段に習ったりすることはなかったそうだ。
しかし、一度簡単な楽譜を見せて弾いてもらったとき、秀一郎はそれが単なる直感で無かったことを確信する。
誰かに習っていなかったことで、逆に変な癖がついていない。基本通りに一生懸命に弾いている姿は、逆に微笑ましいくらいだ。
「深谷さんは練習で絶対に伸びる」
「ありがとうございます。でも、うちは貧乏なのでピアノもありませんし、アルバイトもあるので、ずっと練習と言うわけにもいかなくて……」
このピアノレッスンだって、彼女の懐具合からしたら決して安くはないはずだ。
この街には昔から有名な音大があり、付属校は小学校からある。そのため、付属小学校に入るために幼稚園の時期に転居し、レッスンを受けてお受験に臨むという流れすらあった。
音楽家の佐々木家にとって、そんな要望もあって開いている教室は、コンクールなどには参加していなくても、教え方が上手だと人気で、子供から大人まで幅広い年代のレッスンを引き受けている。
個人レッスンともなると、なかなか時間をとることも大変だ。
「そうか……。家は遠くないですよね?」
「はい、歩いて15分と言うところでしょうか」
最初のレッスン時間が終わって、二人は秀一郎が練習で使っている庭の小屋に入った。
「このお部屋は?」
「もともと僕の部屋になる予定がレッスン室になってしまったので、こちらに作ってもらったんです。さすがに姉のグランドピアノをプレハブってわけにいかないしね。僕はバイオリンだから、防音さえしてあればどこでも大丈夫だし。ただ、アップライトピアノにはなってしまいますが」
確か、成実が教室の空きを聞いたとき、本課の学生かどうかを聞かれた。ピアニストである姉のクラスはいっぱいだけど、基本レッスンならばまだ空きがあると言うことで受けてもらえた。
「だから、僕は夕方以降は空いているんです。どうせ使わないから、こちらで好きなときに練習してください」
「で、でも……」
防音された部屋でピアノを弾けるという環境を借りるだけでも費用はかかってしまう。成実にそこまでの余裕はなかった。
「自主練ですから、レッスン費用はいただきません」
「えっ……?」
思わず顔を上げた成実に秀一郎はニコリとして頷いた。
「その代わり、僕がここで練習していてもいいですか?」
「も、もちろんです!」
こんな二人の出会いが単なる偶然でなかったと気づくまで、それほど時間はかからなかった。
自主練習と言いながら、「ひとりごと」という名目で秀一郎のアドバイスは入ったし、逆に彼の練習を聞いて感想を述べるなど、レッスン時間とは別の時間を深めていった。
ある日、秀一郎は自主練を終えた成実に自分の所属する楽団の演奏会のチケットを渡した。
「この日が千秋楽です。予定がよろしければ観に来ていただけると嬉しいです」
「え……、こんな券を私が頂いていいんですか?」
「いつも頑張っているご褒美です。たまには力を抜いて音楽に癒されてもいいと思いますよ」
成実も知っているこの公演のチケットは毎年プラチナチケットでB席ですらなかなか手に入らない。
当日、成実がそのチケットを手に会場に赴くと、指定されていた席はS席の中央という信じられない場所で、成実には夢のような時間だった。
「お待たせ。遅くなってごめんね」
ステージ衣装ではなく、普段着に戻した秀一郎は、楽器を手にしているということ以外、どこにでもいる普通の青年だった。
「いえ。本当に今日はありがとうございます。なんだか途中で涙が出てきちゃって。秀一郎さん、素敵でした」
恥ずかしそうな彼女の顔を見ると、目元のメイクを直しているのが分かった。
「まだまだ。目指すはコンサートマスターですよ」
「凄いです。それに比べたら、私なんて全然……」
落ち込んでしまった成実に何があったのか尋ねる。
「せっかく、あんなに教えていただいたのに、教員採用試験には落ちてしまいました。ただ、演奏は満点だったそうです。秀一郎さんのおかげです」
そのため、今から遅くはなってしまうが職探しに入らなければならないとのこと。
「きっと、レッスンの時間もお金も割けなくなってしまいます。だから……」
「成実さん」
俯いた成実を抱きしめる。思っていたよりもずっと華奢な体だった。
「それなら、うちの楽団に来ませんか? ピアニストが先日引退してしまって、今日の演奏会でもほかから借りてきた状態です」
「そ、そんな……。私は……。お姉さんがいらっしゃいますよ?」
あの眩しい光のステージ。一度は憧れたこともある。でも、自分はそんな英才教育を受けたこともないし、娘を演奏家に出来るような家庭の余裕もない。
「僕がついています。姉はソロが好きですからね、成実さんはセッションがお上手なのでこちらの方が向いていますよ」
成実は気付いていない。この僅か数ヶ月で、教員などというレベルはとうに通り越し、すでに師範を取れるくらいまでその実力は十分に上がってきている。自分の姉とすら対等に渡り合えるであろう。
この才能をこのまま消してしまうなど、勿体ない。
それなら、就職が決まるまでかもしれないという条件で、秀一郎は成実を楽団の練習に連れて行った。
みんなの前で一曲を弾き終えると、全員がスタンディングオーベーションで答えた。
「佐々木さん、どこでこんな逸材を?」
これまでコンクールにも出ていない無名の成実。
噂はあった。佐々木秀一郎に弟子がいるのではないかと。それがピアニストの卵だったとは。
全員が確信する。まだ荒削りな部分はあるけれど、絶対に伸びると。
「いかがでしょう。深谷さんを当楽団のピアニストとしてお迎えするのは?」
「異議なし!」
全員の声が練習室に響いた。
その実力は嘘をつかない。秀一郎や楽団のメンバーの耳に狂いはなかった。
十分な練習時間と環境を与えられた成実の腕はこれまでにも増して上達していった。
2年後の定期コンサートでは、ピアノのメインも務め、コンクールでもトップレベルのピアニストとしての賞も総なめに獲るほどに成長した。
「成実さん……」
「えぇ……。でも、まわりは許してくれませんよ。私はお仕事の間だけでも秀一郎さんと一緒にいられるだけで十分幸せです」
成実だって自分の気持ちくらい、彼に言われなくても分かっていた。
仕事の時間以外にも、ずっと二人でいたい。
しかし、そこには二人だけでは解決できないハードルがいくつもあった。
佐々木家は昔からの音楽一家だから、秀一郎の伴侶についてもそれに相応しいと思われる人選をしてくるだろう。そうなれば、近所に住んでいた一生徒との結婚など許してもらえるわけがない。
一方の深谷家でも、成実がこのまま音楽家として食べていけるのか。今からでも会社に就職させて、自分たちの家に相応しい相手を選んだ方がいいのではないかという声が大きかった。
「でも、僕は成実さんを諦めたくありません」
「私だって、秀一郎さんと一緒にいたいです。ずっと一緒に……」
そこで、二人は楽団のメンバーを集めて画策をした。
楽団を通じて、海外に修行に出るという口実を作り上げた。
それは両家にも内緒にされており、発表されたのは出発の三日前だった。
「……飛び出してきちゃいました」
「うちも。怒鳴られて楽器だけ持って出てきたよ……」
空港で無事に落ち合えた二人は笑った。もう、きっと家には帰ることはない。
戻るところがない二人は、音楽の都であるウィーンに渡り猛特訓に明け暮れた。平日は朝から晩まで練習に費やし、休日は二人でオペラやコンサートを観て過ごす。
もともと素質のあった二人だ。こちらの楽団でも頭角をあらわすまで長い時間はかからなかった。
その名前が徐々に日本でも紹介されはじめたのは、二人がそれぞれの家を飛び出してから5年の月日が流れていた。
「楽団の方から、戻って来いって話なんだけど……」
「仕方ないでしょう。ここまで勉強させてもらったんですもの。これからは恩返ししていかなくちゃなりません」
しかし、二人はその用意をしている中で、不穏な情報をつかんだ。
佐々木家が成実に絶縁を突きつけるということ。彼らにしてみれば、跡取り息子の人生を狂わせた邪魔な女というわけだろう。手切れ金を払って今後一切近づくなと言うことだ。
「お別れなんかしたくないです。帰る場所もありません」
「当たり前だ。成実と離れてたまるか!」
普段から一緒のベッドで休む二人。そして、この日、愛し合う二人はひとつの願いをかけて何度も身体を重ねた。
『わたしたちの愛の結晶が天から降りてきますように……』
1ヶ月後、帰国直前の成実は一通の手紙を書き残し、ウィーンを後にした。
帰国する空港を当初の予定から変更し、そのまま姿をくらませた二人。
「まったく、二人ともよくやるよ。いいとも。ここなら誰も来ることはないからね。好きなだけ過ごしていてくれ」
楽団でも世話になっており、二人を極秘に出迎えた小峰は自身の別荘に二人を連れて行った。ここならば二人の練習にも、成実の身の安全にもちょうどいい。
国内での復帰公演を準備する秀一郎のもとに、電話が入った。成実からだった。
「秀一郎さん、今度のお休みの日、病院に一緒に来てくれませんか?」
成実と訪れたのは、町の産婦人科。
「お二人は、このあとどうされますか?」
診察を終え結果を告げた医師は、まだ二人とも未婚だと知って今後に向けての面談があった。
父親としてこの子を認知するか、その結果によって、お腹の子をどうするのかといった内容だ。
「私一人でも産みます。産ませてください」
「結婚します。この子は間違いなく僕の子です」
二人の答えがあまりにも即答だったので、医師は目を白黒させ、事情を聞くと大きな声で笑った。
「なるほど。お二人とも強攻策ですな。でも、そういう時はご両家からの援助が受けられないことも多い。お二人はお子さんを守っていけますかな?」
「はい」
二人は手を重ねて肯いた。
しかし、初孫が生まれると知っても、二人の周囲は厳しかった。秀一郎の籍は佐々木家から外されていた。
成実の家からも、飛び出した子に縁はないとも言われた。
「これでいいんだ。これならもう誰も関係がなくなる。成実とこの子を守っていけばいいんだ」
小峰の厚意で出産が落ち着くまで別荘を借りることにし、生まれてくる子のために住民票なども移した。
秀一郎はそこから新幹線で仕事に出かけ、成実はそのときを静かに待っていた。
こうして9月10日の夕方。誕生を待ち望んだ両親の腕に抱き抱えられたのが二人の長女、佐々木茜音だった。
「茜音ちゃん……」
静かに日記のページを閉じる。
大きなため息をついて、よろよろと立ち上がった。
「ごめんね。ちょっと一人になってもいい? 危ないことはしないと約束するから」
「うん。分かった」
こんなとき、健は彼女が自分から話すまで深く追及はしない。茜音がどこに行くかは大抵決まっていて、家の一番奥にある防音の練習室だから、落ち着くまでそっと見守ることにしている。
「……ごめんね、パパもママも……」
幼稚園の敬老の日に、誰もいないことをからかわれたことがある。
茜音のおじいちゃんとおばあちゃんは遠くにいるとママは言っていた。きっと自分に伝えることも辛かったに違いない。
これなら、あの事故があって、自分が無事だと報道されても誰も名乗り出ない理由もわかる。
そうなのだ、わたしは……。
翌日、健と茜音は仕事を休んだ。
茜音はすっかり憔悴していたし、健もそんな彼女を置いていけなかった。それに、佳織が結果を持ってくるとなれば尚更だった。
夜にチャイムが鳴り、健に促されて仕事を終えた佳織が入ってきたときも、茜音は表情を戻すことが出来なかった。
「茜音……」
「ごめんね、佳織……」
「分かってる。見つけちゃったのね」
親友のこんな顔は見たくはなかった。でも、自分で見つけてしまったのなら調査結果を話すことも出来る。
「佳織さんはその日記を知っていたんですか?」
「ううん。でも、調べさせてもらったの。茜音の戸籍。ご両親に遡っていくと、どちらからも除籍になってた。婚姻の事実すら消されていた。だから、分かったのよ。これまでの謎と今回の騒ぎの原因が」
つまり、両家とも二人の子どもがいたことを放棄したのだ。婚姻することで、新しい籍を作ることが出来る。そこで、二人の記録を消してしまったのだ。
これなら、仮に茜音の父親である秀一郎に姉がいたとしても、データ上では無関係となってしまう。
「なんてこった……。僕と同じか……」
健も自分の戸籍が浮いていることを知っている。今の保護者は珠実園の園長になっているからだ。
「でも、それならなんでずっとそっとしておいてくれなかったの?」
「それも見当がついたよ。茜音……」
佳織は1枚の通知書と1冊の通帳を見せた。
「茜音、この通帳見たことがある?」
「知らないなぁ。佐々木茜音で作られてる?」
茜音がいつも利用しているのとは別の銀行の通帳。しかし、途中で名前が変わっているため、苗字の修正履歴が印字されていた。
「これ、今のご両親が、茜音が困った時用に預かっていたって。お嫁に行くときに渡す予定だったそうよ」
最後に通帳記帳されたのが先日だが、その中身を見たときに。健も茜音も息をのんだ。
「すごい……」
恐らく、普通に暮らしていけば、この先茜音も健も働く必要がないだけでなく、十分すぎるほどの余裕があるだろう。
「そのお金はね、佐々木のご両親の貯金と生命保険。どちらも受取人は茜音だけに指定してあるの。このお家もすべて茜音名義になるようになってた。これを知っちゃえばね……」
法務局で生前の二人が残した遺言書の写しを見せてもらったときに、佳織もため息をついたのを思い出す。
あれほど早くとは予想していなかったにせよ、彼女の両親は自分たちに万一のことがあったときのことを常に考えてあったのだと。
「茜音、ご両親はちゃんと今でも茜音のことを守ってくれているんだよ。あんたが幸せになる時に苦労しないようにって」
「そういうことか……」
本当はこういう問題に他人が口を出せるものではない。
「健ちゃん、佳織。連絡取ってくれる? 会いますって」
「茜音、大丈夫なの? もう成人なんだし、拒否もできるのよ?」
こんな茜音に、大人の事情をぶつけたところで、傷つくのは彼女自身だ。
「ううん。ちゃんと自分で言わなくちゃ。それでハッキリさせる」
「分かった。その代わり私も公的証人として行く。いいでしょ?」
佳織は親友の手を握った。
一週間後、茜音と健、佳織の三人は打ち合わせてあったホテルに出向いた。
そこにはすでに、片岡夫妻も到着しており、こちらも緊張の面持ちだ。
「大丈夫です。状況的に見ても、茜音が正しいのは間違いないです」
佳織は今日までの時間で、先輩の弁護士たちに今回のケースを聞いて回った。
実の姉弟だったとしても、茜音の父親は一方的に実家から縁を切られたこと。そこで自分にかかった保険や両親が自らの収入で建てた財産一式を「自分たちの一人娘に」と公的な遺言書をつけて相続させたのであれば、茜音が圧倒的に優位であるとお墨付きももらってきた。万一の時は先輩弁護士たちも力になってくれると。
時間になって、ロビーに現れた一行。そこに初めて見た存在に茜音は緊張が体を走り抜けた。
自分の両親と同じくらいの夫婦と自分と同い年くらいの女性。それにもう少し年下と思われる少年の四人。
そうか、彼女が『あの服』を着るべきだった人物なのかと思う。よく見ると自分と似ている部分も多い。
考えるまでもなく、彼女は自分とは従姉妹になるのだ。これまでの人生に雲泥の差はあれど……。
展開から、あまり他人に聞かれたくないこともあるので、レストランでも個室を用意してもらっていた。
簡単な自己紹介の後、話題は本題に入った。茜音の親権を移したいと。
「最初にお伺いしたいことがあります。なぜあの当時、これだけ多くの報道がされながら、茜音に声をかけなかったのでしょうか」
新聞の記事をまとめたファイルを取り出して、テーブルの上に置く。
「お父さん……」
普段は柔和な父親。それが声を押さえつつも厳しい口調で切り出した。
「茜音は、本当によくできた子でした。自分の置かれた状況をきちんと理解しており、里親である私たちに迷惑をかけたことはひとつもない。そんな子をあなた方は見捨てたのです。それが茜音に対するどんなに残酷な仕打ちだったのか、ご存知ではないでしょう」
「当時は私たちもこの子を育てながら、海外公演などもありまして。そこにもう一人を迎え入れることは出来ませんでした」
「そういった事情も承知しております。ですが、それならば、せめて頼れる身寄りがいると、誰かを通じてでも茜音に伝えてあげることが出来なかったのですか。いつか迎えに来てもらえるという希望すら持てず、孤独に耐えてきた。私たちの家で初めて三人で眠ったとき、茜音は一晩中温もりを求めてきました。私たちは自ら子どもを授かることは出来ません。ですから茜音を実の娘として育て上げました。そして、ようやく一人の女性として歩き出せるところまできた。それを皆さんは大人の事情でまた蒸し返そうというのですよ」
茜音は父親を見上げた。大人の事情。そう、佳織と一緒に調べてくれていたのだ。
茜音が莫大な財産を受け継いでいること。そしてもう茜音は成人しているから養育義務は負わなくて済むこと。その上で養育者という立場であれば、弟の残した財産の一部を養育費として請求できると。
「そ、それは片岡さんでも同じでは?」
言ってしまった。つまり、その計画を認めてしまったと同じだ。
茜音の表情が一気に堅くなったのが分かった。
予想どおりの証言を引き出し、父親は怒りに声を震わせた。
「なんてことを……。私たちは茜音の養育費をもらったことは一切ない。私たちの娘は自分たちで養育するのが当たり前の話だ。不動産を含めたすべての相続財産は、相続税も我々で負担し、茜音に返してある。これらの使い方は茜音が自分で決めることだ」
そこで一息ついた。
「しかし、これも私たちの大人の話であることには間違いない。佐々木家の皆さんの元に戻るというのも選択のひとつだ。最後は茜音の判断を尊重する。私たちはそれをサポートするだけだ。茜音、あとは自分で決めなさい」
茜音の肩を大きな手が優しくたたく。あとはおまえに任せる。いつもの仕草だった。
「茜音さんは、どうされます? みんな戻ってくるのを待っていますが」
「…………。いいえ。わたしは……、帰りません。帰れるはずがないんです」
長い沈黙の後、茜音は口を開いた。
「わたしは……、佐々木家の皆さんから見たら、いらない子です。本当は産まれてはいけなかった存在です……」
「茜音……」
母親が口元を押さえた。
「わたしが産まれたとき、誰も、わたしの両親以外に誰も祝福してくれた親族はいなかったそうです。わたしの妊娠が分かって結婚したとき、みんな、パパとママが最初からいなかったことにした。わたしは存在しちゃいけなかった。産まれちゃいけなかった! だから、あの事故で死んじゃえばよかった……」
あの日記を読んでしまった日、茜音は自分の出生とこれまでの人生についてすべてを知ってしまった。
「そんなわたしに、帰るお家をつくってくれたのが、お父さんとお母さんです。わたしは片岡茜音です。そして、佐々木秀一郎と成実の一人娘です。それより他にわたしの親戚はいません。もう、これまでと同じく、わたしのことは知らずに、見知らぬ他人としてください。もう、いやだよ……。これ以上……もう……パパとママをいじめないでぇ……」
泣きじゃくる茜音を健と佳織が抱きしめる。言葉を出したくても、もう出てこない。
これ以上は茜音を壊してしまう。限界だった。
「これが茜音の答えです。今日はお引き取りください。また、手続きを強行されるのであれば、私たちもすでに弁護士さんにはお話しをしてあります」
一行はそれ以上続けようとはせず、部屋を出ていった。
「よく、頑張ったな」
みんな同じだ。辛かったに違いない。
あの答えを出したことで、本当に退路を断つことになる。それが正解なのかは誰も答えることなど出来ないけれど、茜音が自分の意思をハッキリと告げた。それで十分だ。
「お父さん、今日はありがとう。あれで頑張れたよ。佳織も、お仕事で忙しいのにありがとう」
健が付き添い、ロビーの喫茶室で落ち着かせて帰ることにする。こんな赤い目では電車にも乗れないから……。
両親と佳織を先に返し、健と二人でアイスティーに口を付けたときだった。
「あの……、すみません……」
見上げたところにあった顔に、茜音は表情をこわばらせた。
さっき、あれだけ拒絶した佐々木家の一行で、一番隅に座っていた女性。本当ならば従姉妹と呼べる存在の彼女だった。
「両親と弟は先に帰しました。私一人です……」
その表情は、先ほど感情をむき出しにした茜音に怯えているようにも見えた。
「どうして……」
とにかく、立っていても始まらないので、空いている席に座ってもらう。
「本当に、今日は申し訳ありませんでした。あんなことをするべきではないと何度も言ったのに、聞いてはもらえませんでした」
「えぇ?」
意外な展開に二人は面食らった。ここまでの話では佐々木家の全員が茜音を取り戻しにきているように聞こえていたのだが、少なくとも彼女はそうでなかったことになる。
美鈴と彼女は名乗った。少し年上に見えたけれど、それは身長があるだけの話で、茜音よりも半年違いの同学年と判明した。
「片岡さんのことは、本当に先日のテレビで知ったんです。凄いなって素直に思いました。私もそんなふうに強くなりたいって」
美鈴はぽつりぽつりと話し始めた。茜音が見つかったことで、彼女の母親が今度こそ弟の遺した物が手にはいると話しているのを聞いてしまった。
「その話をこっそり聞いてしまって、本当に恐ろしくなりました。なんて酷いことを考えてるんだろうと。あんなに一生懸命に頑張っているのに。同時に嬉しくなったんです。そんなすごい尊敬しちゃう人が従姉妹だって分かったんです」
当初は美鈴も親戚として接触をするのは難しいと考えていた。恐らく茜音は自分たち一族を恨んでいるに違いない。
「きっとお話しすら出来ないだろうと。だから、私が佐々木家を飛び出してからにしようと思っていました」
「どういう……こと?」
「片岡さんにもご婚約された方がいらっしゃるように、私も将来を誓った方がいます。でも、それは両親には内緒です」
「え?」
ここまで来ると、茜音の興味は別なところに移った。この美鈴は、家の中で苦労してきたのではないかと。
さっきの短時間でも感じることができた。美鈴の母はかなりの強気の持ち主でもある。きっと秀一郎という人材を失ったため、当時の彼女に音楽一族の将来を委ねたのだろう。
「私も音楽は好きです。でも、私のそれは人に安らぎや希望を与えるためです。お金のためではありません。それもあって、私は音楽家としては進んでいません」
そうなると、彼女の立場は微妙になる。それを良しとしてくれる家庭環境ならばいい。きっとそうではないだろう。
「私は家族の中でも変わり者扱いです。そこに、一般男性を好きになったと言ったところで、許してもらえることはないと思います」
そこで、勘当されることを覚悟の上で、家を飛び出す準備をしていると。
「苦労してしまいますね、わたしたちどちらも」
美鈴は顔を上げた。正面に座っている茜音、その瞳に自分が映っている。そして、彼女の顔が笑った。
「片岡さん……」
「茜音でいいんです。美鈴さん。本当に、こんな従姉妹がいるなら、もっと早く知っていればよかった」
きっと、いろいろ問題は起きてしまうかも知れないけれど、最後は美鈴の意志の強さだ。
「どんなに好きでも嫌いでも、親子なんですよ。だから、話してみるのが最初の一歩だと思います」
「強いなぁ、茜音さん」
茜音はスマートフォンを取りだした。
「連絡先渡します。一緒にがんばろう。応援する」
「ありがとう、茜音さん」
最後、二人は固い握手を交わした。
佐々木家との断絶を宣言してから1ヶ月。茜音は一人、珠実園の教室で作業をしていた。
もう少し先だけど、冬から春へ飾り付けの模様替えも自分の仕事であるので、その準備に入っている。
そこに一人の来客が扉を開けて入ってきた。
「こんにちは」
「遅い時間に申し訳ありません。どなたもご予約がなく、教室にいらっしゃるとのことでしたので」
いつも、この教室に相談に来る年代ではない高齢の女性だった。
「いえ、構いませんよ」
折り紙とはさみを片付けて、机を直した。
ドアの所に『相談中』の札を出す。どうしてもプライベートの話が多いため、他人には中に入って欲しくない相談者も多いため、取り次ぎなどはドアの所に張り付けておいてもらうのが暗黙の了解になっていた。
「実は、行方が分からない孫を捜しております」
「お孫さんですか?」
それならこの年代でも納得がいく。同じような相談は時折受けることがある。
この時間ならもう他の相談もないだろう。受付に電話をして、自分宛の面会を止めてもらった。
センシティブな事情を聞くために、座る場所と向きを変えて、小声で会話が出来るようにした。
「私の娘は、ずいぶん身分違いの恋をしてしまいまして。昔ではありませんから、問題はないのでしょうが、娘が苦労することや相手のお家のこともあり反対をしておりました」
「せっかくのお話なのに、それを言わなければならないというのも辛いですよね……」
彼女は茜音を見て微笑んだ。
「仕方ありません。しかし、二人は意を決して家を飛び出してしまったのです」
「そんな……。駆け落ちですか……」
相談ノートに事情を書き綴っていくうちに、なにかが引っかかる。でもこれは仕事だ。続けてもらった。
「そのときが、娘を見た最後でした。後に娘は事故で亡くなったのです」
「残念なことに……。そこでお孫さんがいたことを?」
「娘が飛び出したことに主人は本当に怒り、籍を抜いてしまったのです。孫がいたことやその子にはなんの罪もないことは以前から分かっておりましたが、主人の手前、それを口に出すことは出来なかったのです」
「はぃ……」
「きっと、こちらのような施設にお世話になっているのではないかと、探し始めたのです」
「それはどうして……」
必死に冷静を保ちながら、メモを取る。この件はかなり自分には重そうだった。
「昨年、そんな主人も亡くなりました。口では娘のことを最後まで怒っておりましたが、本音は寂しかったのでしょう。亡くなる直前に、娘と孫の名前を口にしたのです。一度だけ知る機会があり、それをちゃんと覚えていたんですね。今さらその子に対して言う事はありません。元気に過ごしているならそれでいい。ただ、私も動けるうちに、主人の代わりに謝罪をしなければなりません。それを止められなかったのは私も同罪なのですから」
「うん……」
仕事中に引き込まれてはいけないと知っていながら、こらえきれなくなった涙をそっとハンカチで拭い、再びペンを取る。
「申し訳ありません……。あの……、そのお孫さんのお名前を教えていただけませんか?」
茜音は視線を上げた。そして気づく。
自分と同じ瞳の色だと……。