「茜音、知ってる? その席は人気なんだからね?」
「えぇ?」
この席は、茜音たち三人が旅先や行程を考えるときにいつも使っている場所で、そこに座る席順もいつの間にか固定されてしまっていた。
あの当時から櫻峰高校の生徒たちも時々顔を見せる店でもあったから、いつの間にかその情報は流れていたに違いない。
「恋愛成就の願かけなんだって。あの茜音のストーリーにあやかって。うちの学校の生徒もよく来てるよ」
「えー? なんでまだ来てるの?」
「だって、あの時の1年はまだ3年生で残ってるんだから」
「それに、茜音は伝説のヒロインでしょ?」
「そんなことないのになぁ」
本人にはその気がなくても、学校中に知れ渡る話題を提供したのは事実だ。
「でも、あれは茜音が本当に頑張ったからだもん。それは胸を張っていいことだと思うけどね」
「ついでだから、知ってる? 櫻峰の女子の制服、着崩す人が少なくなったの?」
「なにそれ? まさかそれも?」
さすが、ここで後輩たちを迎えている菜都実だから気づいたのかもしれない。
「そうみたい。やっぱり茜音の名前って、櫻峰にずっと残り続けると思うよ?」
「えぇ-、それも嬉しいのか悲しいのか微妙だなぁ」
そんな話になってしまうほど、全力で駆け抜けた時代だから、思い出が一際大きいことは間違いない。
「ねぇ、茜音。ひとつ聞きたかったことがあったんだけどいい?」
「うん?」
「茜音は楽しかったのかなぁ? なんか、私たち周りが楽しんじゃって、悪いこともたくさんしちゃったかとも、今になってみれば反省ばかりなんだけどね」
それは佳織がいつか聞こうと思っていたことだった。
親友の異変に気付いたのは、茜音自身が思い出の場所を探す旅の後半。時折辛そうな表情を誰にも気付かれないように見せていたことだった。
彼女自身はそれには一言も触れなかったし、当時は最後の追い込みの探索に入っていたことで、若さがあるとはいえ肉体的にも厳しい日程があった。
また精神的にもかなり追い詰められていたことからも、佳織は自らそのスケジュールを考えながら、これ以上詰めこむことが本当にいいのかを考えていた。
もしかしたら、茜音は彼との再会を望んでいないのではないか。高校生になって現実的に見つめ直したとき、幼い二人が交わした約束は本当に無謀な話だ。その後もたくさんの苦労を重ねて、ようやく軌道に乗った今の暮らしに追い打ちをかけることはしたくないと思うのは当然の話だと思う。
その心配が現実味を帯びたのは、最後に茜音を一人送り出した旅の途中で彼女から連絡を絶ったこと。
翌日には確かな情報を持って帰ってきたことから胸をなで下ろすも、その後に憔悴していく変化は本当に予想外だったし、置き手紙を残し自分たちを振り切って出発した親友の心中を考えると、もっと自然な環境を整えてやるべきだったと反省していた。
「うん、大変だったし、辛かったこともたくさんあったけど、楽しかったよ。いろんな友達も出来たし。二人には本当に感謝してるから。佳織が責めたりしなくても大丈夫」
結果的には、もしそこでの再会が果たせなかったとしても、その後の課外活動で強制的に会うことにはなったのだろうと笑う。
「本当に、二人のおかげで楽しい高校生活だったよ。でも、そのことで今の楽しみを見逃しているんだとしたら、もったいないことなんだよね」
「そうだねぇ。高校時代が楽しかったじゃなくて、高校時代も楽しかったって言えなきゃいけないんだよね、きっと。茜音も大人になったねぇ」
「菜都実がそれを教えてくれたんだよ」
最大のきっかけになったのは、菜都実を連れての沖縄旅行だった。あの旅は本当に一か八かの賭けだった。内容的には茜音自身より深い傷を負っている菜都実にさらにダメージを与えてしまう可能性もあった。
それでも、菜都実と保紀は見事に乗り越えた。それどころか、数年のブランクと過去を全て受け入れて、二人で前を向くことを決心している。
「菜都実と保紀くんを見たときに、わたしも進まなくちゃって思ったんだよ。辛いことにも向き合わなくちゃいけないってね」
「なんか、茜音に言われると照れるなぁ。まぁ、あたしの場合、もうある意味レール敷いちゃってたしさ。そこに帰るって意味では茜音と変わらないかもね」
「この先も、チーム茜音は鉄壁だし。それでいいんじゃないかね。解散する気なんかないからね」
「チーム茜音かぁ。いいかもなぁ。でもそれだったら、うちら三人だけじゃないでしょ」
「みんな元気かなぁ……。そうそう、千夏ちゃんはいま看護学校に行ってるって言ってたよぉ」
茜音が旅先として一番最初に訪れた高知県で出会った河名千夏は高校を卒業したあと、地元を出て高知市内の看護学校に通っているという。
下宿は幼なじみの西村和樹と一緒で、こちらも学校を出てめどが付けは籍を入れたいとの話も聞いている。
この二人にも茜音は大きな影響を受けている。千夏が看護を目指しているのは、腕に故障を持つパートナーの和樹の存在が大きいからだ。
「みんなに比べたら、わたしの目標の決め方なんてちっぽけかもしれないけどね」
「それ以上の適任はないよ、茜音センセ」
「大丈夫、みんな進んでるんだもん。ときどきこうやって集まってやろうよ。あたしは好きだよこういう時間」
「わたしたちが駆け落ちした頃とは違って、今はいくらでも連絡取れたりするし、菜都実の意見を素直に出していいと思うよ?」
少し前に話していたのは、やはり保紀と菜都実は二人ともこの横須賀生まれで愛着もある。しかし、いきなりウィンディを継ぐにはやはり高いハードルがいくつもあった。
中学時代の騒動の本質を知っている同級生はこの二人を除いてほとんどいないはずだが、どこから話が湧いて来るか分からない。保紀が単身で菜都実の家に来ることで、蒸し返されてしまう可能性もあるからだ。
それならば、一度、保紀のもとに行き、きちんと結婚し、家族を固めた上で決めてみるのもいいかと話していた。
「まだ起きてたんだね」
「マスター」「お父さん……ごめん」
ふと横を見ると、三人が大好きな甘いココアを用意してくれたマスターが立っていた。
「菜都実、ここのことは心配しなくていい。菜都実がいなくても、茜音ちゃんと佳織ちゃんは好きなときに来てくれればいい。父さんの役目は、この三人の娘たちが帰ってくる場所を守っておくこと。そして、菜都実たちが本当にここを引き継ぐことを決めたときに、安心して渡せるように用意しておくことだと思う。それなら、由香利も納得してくれるだろう。保紀くんのお父さんとも、いくつかのパターンは考えてある」
菜都実は涙をこぼしながらうなずいた。彼女もやはり自分の思いと周囲の期待や立場との間で身動きが取れなくなっていたから。
「菜都実、中3の時に言っただろう。お前が身ごもったとき、歳さえ許せば祝ってやれると。あの頃から、もう心の準備はできていたよ。今度こそ幸せになれ。父さんたちに元気な孫を見せてくれるのが、今の菜都実と保紀くんにお願いする親孝行だ。それで充分だ」
「うん……。頑張るよ。今度こそ、だね」
「よかったね菜都実」
「先越されちゃったぁ。おめでとうだね」
涙で顔がぐしゃぐしゃになりながら、菜都実は三人に頭を下げた。
「みんなごめん。あたしのわがままで……」
「わがままじゃないよぉ。菜都実の決断だもん。わたしたちは応援するだけだよ」
「茜音は気が楽になったんじゃない? あんたはいつも自分より他人を優先する癖があるから」
タオルで顔を何度も拭いているうちに、菜都実の化粧もすっかり落ちてしまったし、ほかの二人も目の周りは見せられた物ではない。思わず笑い出してしまう。
「今夜はもう遅いから泊まって行きなさい。菜都実、お風呂の準備と毛布出してあげなさい」
「うん、ちょっと待ってて」
奥に消えた菜都実を見送る三人。
「マスター、凄いですね」
「親としてしか出来ないことだよ。君たちも何十年かすれば言うことだ。娘の幸せは、親なら誰もが願うことだ。もちろん寂しいけどな。佳織ちゃんも、茜音ちゃんのどちらのご両親に聞いてみても同じことを言うと思うよ」
「さ、茜音。大変だよ?」
「ほぇ?」
佳織は席を立って、いつも茜音が演奏するピアノの蓋を開けて指を走らせた。
「あたしたちのウィンディ卒業ライブ」
「そっかぁ……。マスター、大丈夫ですかぁ?」
「大丈夫だ。君たちの好きにやればいい」
その夜はいつまでも菜都実の部屋の明かりが消えることはなかった。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」
「気をつけてね。保紀くんによろしく」
新年の空気も消えた早朝、帰省ラッシュもなく落ち着いた羽田空港には、いつもの三人のうち菜都実だけがキャリーケースを引いていた。
「ちゃんと保紀くんには連絡してあるの?」
「うん、でも空港じゃなくて家で待っていてもらうことにした。二人で決めたんだ。あたしが、もう一回、やすに会いに行くところからにしようって。前に一人で行ったときにはそれが出来なかったからさ」
今回は、菜都実と保紀がもう一度自分たちの進路を決めてくる。そのために一人での旅路だ。
「そっか。でも、戻ってくるんでしょ?」
「うん、今回はすぐに戻るよ。学校をちゃんと卒業することが、あたしたちがみんなにした約束だし」
勤め先はともかく、春から越してくるための街をもう一度案内してもらうと同時に、不動産屋を回り部屋を大まかに決めてくるのが今回の主な目的で、部屋だけでなく現地で必要なものもある程度目星をつけてくるとのこと。
横須賀では容易に手には入るものも、沖縄本島ならまだしも離島になると入手しにくいものもある。それらを洗い出してくるのも大切な調査だ。
「帰ってきたら、ちゃんと報告してよね?」
「うん。……茜音、ちょっといい?」
「うん?」
一歩前に出た茜音を菜都実はぎゅっと抱きしめた。
「茜音、あんたのおかげ。何度お礼言えばいいか分からない……。頑張ってくる」
「ここまできたんだもん、自信を持ってやればいいんだよ。気を付けて行ってらっしゃい」
久しぶりの一人でのフライト。指先にはまだ茜音の涙の感触が残っている。
いつか彼女が言っていた。『本当の親友に出会えた』と。
「まったく、それはこっちのセリフだっての……」
昨年はそんな仲間たちを入れ四人で降り立った宮古空港にも、今回は久しぶりの一人。数ヶ月後には今度は暮らすために訪れることになる。
路線バスに揺られて、何度目かの市街地に入り、小さな看板だけのバス停で、宮古島の青い空を見上げた。
「さて、行きますか……」
数年前、このバス停は見覚えがある。一人で原付バイクを借りて島を走った。あの時はこの先にどうしても進めなかったことを思い出す。
「菜都実」
「やす……。家で待っててって言ったのに?」
「ここまで来たら家と変わらないだろ?」
「うん。でも、追い返されちゃうかも知れないんだよ?」
保紀が笑いながら菜都実の荷物を取り上げた。
「もし菜都実を追い返すなら、俺も家を出る。そのくらいの覚悟はしたさ。行こう。みんな待ってる」
「うん」
彼の差し出した手を菜都実は握り返した。
「おはようございます~」
「あ、茜音かぁ。おはようさん。どうする? リハから先にやる?」
茜音がお店の扉を開けて中に入ると、ステージのセッティングの手を休めて立ち上がった菜都実。
「佳織が来たら先にやっちゃおうか。ステージの方が先だもんね」
ほどなくして、佳織ともう一人が荷物を持って入ってきた。
「茜音、未来ちゃん来たよ」
「あ、ありがとぉ。未来ちゃん今日はよろしくね」
「お願いします。本当にいいんですか? 私が入っちゃっても?」
譜面を抱えてきた田中未来はステージに置かれた楽器を見て緊張気味に聞いた。
「いいの。うちはパーカッションいなかったからね。まさか練習であれだけ一発で行けるとは思わなかった。もう即決」
ギターを取り出して、調律をしながら佳織も笑う。
この日のウィンディは特別営業だ。お昼は行わずに、夕方から茜音たちのウィンディ卒業演奏会となり、その後は通常に戻るという具合。
新年頭、看板娘が三人とも同時に卒業するというニュースが流れて、店内には惜しむ声が止まなかった。
それならばと、きちんとした形で卒業ライブをやろうと決めてから3ヶ月。
茜音と菜都実の卒業式も無事に終わり、春休みを利用して調整を行ってきた。後期試験が終わった佳織、就職も決まっている茜音と菜都実だから、久しぶりに毎日のように集まっては、お店と茜音の生家を往復した。
茜音の家には演奏家だった両親らしく、本格的な防音室がある。時間を気にせず楽器を弾くことができるからだ。
これまでとは布陣を少し変えて、佳織がギター、茜音にピアノとバイオリンに加えて、菜都実のピアノとパーカッションに未来を加えた。
菜都実はもともと姉妹で店にあるピアノを弾いていた経験もあるから、実際に弾かせてみると、粗削りながら十分に素質はあった。
そして驚きの未来の発掘は思わぬところからだった。
4月からは高校3年生になる未来。中学生の頃にあった刺々しさは全くなくなり、つり目がちだった表情も別人のように柔和になった。
そんな未来の成長は誰もが認めていたし、一番喜んだのは、彼女からライバル視されていた茜音だったけれど、茜音はそんな未来の本来の性格を数年前に言い当てていたのだから、それを覚えていた周囲はその先見性に驚くしかなかった。
今回も珠実園でのクリスマス会のときに、未来が小さな子たちに向けた弾き語りをしていたのを見て、茜音は確信した。
未来が知った彼女の両親も音楽関係者だ。未来にはその筋がある。後日、家に連れてきて譜面を渡してみると、数日で形にしてきたことで、今回のステージに加わるようにお願いをした。
「だって、あのウィンディは、姉さんたちの大切な場所じゃないですか?」
「だからだよぉ。他の人には頼めないんだ」
そんなことがあって、あっという間に楽しい時間は過ぎていく。
「そう言えば、私たち抜けるってのに、マスターずいぶん元気だよね。ステージとか手入れしちゃったり?」
「うん、せっかくこういう場所があるって市内でもけっこう有名になってきちゃったんで、常設のライブハウスにできるようにしたみたい。安くしたから申し込みも結構あるみたいでさぁ」
もうすぐこの家を旅立つ菜都実にして、わが父親ながら、店の新たな進路を見出していたのには感心していた。
「今日は、お集まりいただいてありがとうございます。このお店でBGM代わりに弾かせていただいて、4年になります。わたしと菜都実が学校を卒業したことで、今日で一度、わたしたちの定期の演奏会は最後になります。いつもと変わりませんが、ゆっりとお時間を過ごしてください」
いつまでも、拍手が鳴り止まなかった。
「マスター、ときどきはこの子たちに頼んでよ。菜都実ちゃん上手いじゃん」
「あんな子ですけどね。ときどきはやってもらいたいね。年に1回とかは何かしら出来るんじゃないか?」
菜都実の父親でもあるマスターから、菜都実と茜音の進路が決まったこと、佳織の司法試験に向けての準備を本格化させるため、三人揃って店での仕事も卒業となることが発表された。
ライブ時間を終えて、来てくれたお客さん一人ひとりを見送る。
「みんな、頑張ってね」
「たまには帰ってきてよ?」
「はい、ここ実家ですし」
「ありがとうございました」
「茜音さん、またお洋服作らせて下さいね」
「もちろん。萌ちゃんにはこれからもずっとお世話になるよ。ここよりもお家の方が近いもんね」
本当は夜の部までいたいけれど、家の食事当番という萌と固い握手をして、見えなくなるまで手を振った。
扉を閉めて、振り返ると、まだ店内には多くが残っている。
「はぁ~、終わったぁ!」
「あー、緊張した」
「お疲れさま。みんな綺麗になったわね」
店内に残っているのは、茜音がこの数年間で世話になった面々だ。
「理香さん、まだまだですよぉ」
「どうぞぉ」
エプロン姿に戻った茜音は、いつもの自分たちのテーブルに座っていた二人にも声をかけた。
「遠いところ、ありがとうね」
「茜音ちゃん、会わないうちに凄くなってたんだね」
この日のために高知から来てくれた河名千夏と西村和樹の二人。遠いので来られるか分からなかったけれど、茜音が個人的に一番来て欲しかったのがこの千夏だったから。
「そんなことないよぉ。あの頃から変わらないはずなんだけどなぁ」
「うそだぁ、別人だよ」
あの夏に初めて出会ってから、いつも一緒に泣いたり笑ったりしてきた千夏は茜音には特別な存在だ。
だから、健と茜音はこの千夏たちに特別なお願いをしていた。
学校を卒業したら、新生の珠実園に来て欲しいと。
国家資格を持ち、正式な看護士がいてくれるということだけでも、大助かりになることは自分たちの経験で身をもって分かっているからだ。
「茜音ちゃん?」
「うん」
「あのお話なんだけどね? 和樹も一緒に来てもいいかな?」
千夏の真剣な顔で、茜音もすぐに状況を理解した。
「健ちゃん? ちょっといい?」
茜音の代わりに店の手伝いをしていた健を呼び、すぐに相談をする。
「もちろん、男手もたくさん必要だし、家賃も補助できると思うから、二人とも来ていただけるなら、大歓迎だよ」
「うん、私たちを助けてくれた茜音ちゃんのお願いだし、高知だとなかなか職探しも上手くいかなかったりするから。でも、私が卒業するまで1年、和樹も2年あるけど、それでもいいの?」
それでもと、健は頷いた。
「僕たちの仕事は目立たないし、裏方だということには間違いない。でも、たくさんの子どもたちの親として、責任ある仕事なんです。だから、絶対に信頼できるメンバーしか選びたくないからお願いしたいんです。そのためなら1年2年は大丈夫です」
まじめな顔をしたあとに、健は笑った。
「茜音ちゃんが、千夏ちゃんならいい先生になれるって推したんですよ」
「なんだか、初めて会ったときから、茜音ちゃんてほんと、人生変えちゃう力があるよねぇ。いいよ。茜音ちゃんたちとなら、一緒にやれると思うよ」
健も自分の体制で落ち着きを持てるようになるまで、数年かかるだろうと思っていたから、このくらいは誤差として考えることにしていた。
「ねぇ、考えてみれば、茜音のチームって、結果的に全員相手見つけてるんだね」
各テーブルに飲み物と食事を配り終わったあと佳織が気付いた。
「え? 未来ちゃんは?」
「今日は来られなかったけど、それもクリア済み」
「そうか……、それって凄くない?」
「みんな、頑張ったからだよ。それに、みんな次に進んでるんだよ。ね、菜都実?」
いまここに残っているのは、何を話しても平気なメンバーしかいない。
「そうだなぁ、やっぱリーダーが半端じゃないから。これからも頼むわよ?」
「へっ? わたしぃ?」
「みんな、茜音を中心にして集まったんだもん。あんたの求心力は凄いのよ。だから、茜音がこれからもずっとリーダーなの」
「そ、そっかぁ……。みんなそれでいいの?」
ぐるりと見回してみると、みんな納得しているとばかりに笑顔で頷いている。
「えっと、じゃぁ。まずはみんなに謝るところからだね。健ちゃん来てくれる?」
二人で前に立ってから、少し目をつぶって考える。
「ここにいるみんなには、本当にお世話になって、迷惑もたくさんかけてしまいました。こうやって、わたしたちが二人で並んでいられるのも、本当にみんなのおかげです。ありがとうございました」
「茜音ちゃんがそれだけピュアだったのよ。みんなが助けたくなっちゃうくらい。それがあなたの魅力だから」
「理香さん……。せっかくのこの繋がり、わたしには一生の宝物です。これからも、いろいろ相談させてもらうことも、心配させてしまうことも、きっとたくさんあると思うけど、みんな、一緒にいてください……」
深々と頭を下げる二人に、いつまでも拍手が鳴り止まなかった。
「あーあ、菜都実行っちゃった」
風呂を終えた後のリビングで茜音はソファーに勢いをつけて座った。
「みんなで笑顔で送り出せたんだよ。今度は遊びに行かなくちゃ」
「そうだねぇ。でも珠実園の宿泊キャンプにはちょっと遠いよなぁ……」
「いいんじゃないか? あれとは別に企画すればいい」
春休みも最後の日、佳織と茜音に健を加えて早朝のウィンディに集まった。
「じゃぁ、行ってくる。いままでありがとう」
両親に抱きついている菜都実に涙はなかった。
「頑張ってきなさい。幸せになるのよ」
「うん、ちゃんと届けとか式をやるときは相談するから。あと、赤ちゃんも準備が出来たら頑張る」
昨日は親子三人、川の字で寝たという。
店の準備で抜けられない両親の代わりに、三人が車で羽田まで送ることにしていた。
「いいよ、行こう」
車に乗り込んで菜都実は頷いた。
「いい?」
「うん。忘れ物ない。あっても国内だし」
「そーいう問題じゃないでしょ」
「佳織、あたしを泣かそうったってそうはいかないぞ?」
「バレたか」
すでに大きな荷物は現地に送ってある。最初の数日分と送れなかった手回り品を持っての出発だった。
「絶対に遊びに行くからね」
「あたしだって、里帰りはするわよ。それに、将来的には戻ってくる予定だから。だから、あのお地蔵様もそのままにしたんだ。三人であの街で暮らしていた記憶だから。お寺にもちゃんと言ってきたよ。留守は任せなさいってさ」
数カ月前と同じように、ゲート前で手を振る。
「ねぇ、二人とも?」
「なに?」
「茜音が先か、うちが先か分からないけど、うちは入籍はしても式はしばらく出来ないから、みんなで一緒にやらない?」
「3組同時? 大変そう~」
「あのチームならなんとかなるっしょ」
「だれか、ウエディングプランナーの就職いたっけ?」
「まだ先の話だから、ゆっくり考えよう。じゃぁ、行ってきます!」
「菜都実、いってらっしゃい」
最後にとびきりの笑顔を見せて、彼女はゲートの奥に消えた。
「健ちゃん……。わたしたちも、落ち着いたら、結婚できるよね……」
茜音の家での風呂上り。最近は健も自分の荷物をこの家に移しつつあり、二人で暮らす時間が多くなっている。
「うん。茜音ちゃんのドレス姿見たいなぁ」
本当なら、もういつでも構わない。茜音自身はその準備も済ませた。二人で話し合って、健が正式に落ち着いたら、そのタイミングで入れようと決めたのがつい先日。
本当なら婚約指輪を買うと言っていたのに、茜音はシンプルなシルバーリングを自分で買って健に渡した。
「これをつけて。健ちゃんにはめてもらえば、それでエンゲージリングだよぉ」
「まったく、茜音ちゃんはしっかりしてるなぁ」
分かっている。こんなリングなどでは表しきれない。彼女はすでに仕事も含めた人生をパートナーに預けているのだ。楽しいことはもちろん、大変なこともあるに違いない。
昨年の沖縄で誓った。真っすぐではないけれど、二人で手をつないで人生を歩くと。
8歳の時に、茜音を連れ出すと決めたときと似ている。
「茜音ちゃん……」
「なぁに?」
あの時のあどけなさはだいぶ大人っぽく変わったけれど、大好きなダークブラウンの瞳は当時と変わらない。
「あの時から、いろんなこと言って、茜音ちゃんにも苦労かけちゃった。それなのに、僕のところに来てくれた。ありがとう。茜音ちゃんとのゴール、一緒に目指していいかな?」
パジャマ姿の茜音が隣に座る。ふんわりとシャンプーの香りがした。
「あの日、二人だけの列車の中で約束したよ。どこまでも健ちゃんについて行くって。だから、ずっと一緒なの」
自分を見上げて笑った茜音が目をつぶる。健はそんな彼女の唇をそっとふさいだ。
【茜音 22歳 秋】
「茜音先生、先生をご指名のお客さまなのですが、お通ししてもよろしいですか?」
「は、はぃ。こんな時間に?」
児童福祉施設、珠実園の職員室。
今日の仕事を終え、交代で入ってくれる夜勤の先生への引継も終わらせた。
帰り支度を始めていた片岡茜音は受付からの電話を受けた。
時間はもう夕方の5時を回っている。
この珠実園は、2年前の春に大幅なリニューアルをした。
それまでは児童保護施設という役割を中心としていたが、その時から地域の児童センターを併設することになって、子育て支援などにも力を入れた市の施設として稼働している。
もちろん、もともと入居している子どもたちの中には家族との関係が上手くいかずに預けられているなどの境遇などもあるため、積極的に関与させるようなことはしていない。
本人の興味や希望がある場合は、支援センターでの活動に学業や生活に支障がないように手伝いをお願いする程度に留めている。
茜音は短大を卒業した後、この珠実園の職員として正式に採用され、今ではすっかり「あかね先生」と定着して子どもたちにも人気だ。
心理カウンセラーの資格や、幼稚園の教員免許を持つ彼女の役目はなかなか忙しい。
平日は珠実園に入居している中でも幼い子どもたちの教室を開催したり、地域の未就園児を対象にした教室。
それらに伴う相談や市の保健師などとの打ち合わせなど毎日は予想以上に多忙だ。
休日も可能な限り入所している子どもたちとの時間を大切にした。
もちろん、これは珠実園の次期園長であり、茜音の婚約者でもある松永健の協力と理解があってのことだ。
今日は金曜日で、明日は久しぶりの完全オフをもらっている。
昨日の夜、熱を出してしまった子の看病をしていたので、昨日は家に帰らずに療養室で仮眠をしただけだ。
まだ22歳の若さがあると言っても、夕方になってはあまり他人に見せられる顔ではなかったのだけれど。
「お待たせしました。片岡です」
応接室に待っていたのは、二人の男性で、片方は茜音もよく知っている人物だった。
「小峰さん!」
「お久しぶりですね。お疲れのところ申し訳ありません」
初老の男性は、珠実園の運営や子どもたちの夏休み遠足などでも世話になる。また、存命だった頃の茜音の両親と一緒の楽団にいたこともあり、当時の二人だけでなく、幼い頃の茜音のことも覚えていた。
「実は、テレビである企画があがりまして、その関係で私のところにお話が来たのですが、私一存では決めかねる内容でして、これはお嬢様の判断をいただきたいと思いまして」
「はぃ……」
「あ、あの……、こちらの方は、あの佐々木茜音さんなんでしょうか?」
小峰との会話を聞いていたもう一人の男性が目を丸くする。
「ご紹介が遅れましたな。こちらがお宅さんたちが探していた佐々木さんご夫婦のお嬢様です。丁重に頼みますよ」
話を聞いてみると、テレビの取材と出演協力という話だった。
茜音の一家が飛行機事故に遭ったのはもう17年前の話だ。
事故の検証や遺族の証言などを集めている中で、助けられた生存者を探していた。
茜音の両親は当時から世界的に著名な演奏者として名前も挙がっている。その娘が助かっていることは当時の記録にも残っているものの、彼女の足取りは忽然と消えていたからだ。
「ちょっといいですか? 私の一存では決められないので……」
茜音は内線で園長室を呼び出した。
「ごめん、来てもらってもいいかなぁ?」
電話の主はすぐ行くと言ってくれ、間もなく二人の男性が入ってきた。
「おや、小峰さん。これはどうも」
入ってきたのは、珠実園の園長先生と松永健の二人だった。
もちろんこの二人とも、小峰氏のことはもちろん知っているし、一時的には茜音の保護者でもあったわけで、これまで茜音をメディアに出さないようにしてきた二人の意見が聞きたかった。
取材の趣旨を聞いた二人も唸った。
番組は非常に真面目な物だったし、それを否定したりはしない。
心配しているのは茜音のメンタルだ。
茜音が事故後、初めて当時の施設、ときわ園にやってきたとき、彼女は言葉を発することが出来ないほど傷ついていたからだ。
両親を失い、親戚が誰も迎えに来ないことを絶望したこと。また周囲の好奇の目に晒されて、子供らしく笑うことすら出来ず、小さくなって怯えていた。
園長先生と同い年の健が中心になって、それこそ総力戦で必死に茜音の笑顔を取り戻した。
そして、ようやく一人の女性としての幸せを手に入れられるところまで持ってきた。
ここで対応を間違えば、また茜音を突き落としてしまいかねない。
「どうする? 珠実園としては取材そのものは構わないけど、茜音ちゃんの気持ちだよ」
しばらく考えて、茜音はとうとう口を開いた。
「分かりました。でも、スタジオはごめんなさい。事故の後や両親についてはお話しします。あとは、お仕事中の撮影は、子どもたちのプライバシーをちゃんと守ってあげてください」
当日、内容については別途打ち合わせということで、その日は切り上げることになった。
「茜音ちゃん、本当に大丈夫?」
こちらも仕事を終えた健と車で二人の家に帰る。もともとは茜音が事故前に佐々木家の一人娘として両親と暮らしていた場所だ。
茜音を最後に施設から引き取り、片岡家の家族として迎えてくれた両親は茜音が遺産として引き継いだ彼女の生家と財産には手をつけず、18歳の誕生日に返した。
そのおかげで茜音がまだ社会人2年目でありながら戸建ての家に住める理由だ。
「うん、迷ったんだけどね。珠実園の子どもたちにも、『あかね先生もこんなだった』って説明する必要もあると思うし。あの子たちがこういう生き方もあるって知ってもらえるようになれば、それでもいいかって思ってね」
もう自分は誰かを導く立場になっている。特別なことは出来ないけれど、自分の半生を話すことくらいはしてもいい。
「強くなったんだねぇ」
「ううん、違うよ。わたしには健ちゃんっていう帰れるところができたから。だから、弱虫な茜音はそのまんまなの」
以前なら、あの話題を持ち出すことすらタブーになっていた茜音。長い年月を経た今でも、決して忘れている物ではない。それでも少しでも前に進みたいと努力を続けてきた彼女の気持ちを健も解っている。
「辛かったら、当日でもストップをかけるから。無理はしないでね」
「うん、ありがとう」
いつものように、茜音は健の手を握りながら床についた。
「あかね先生、昨日のテレビに出てたねぇ」
朝、教室の準備をするために食堂の前を通ると、中から声がした。
「あれぇ、みんな見てくれたんだぁ。おはようございます」
中に入ると、もうすぐ食事も終わりの時間で、少しずつ後片付けが始まっている。
「茜音ちゃんて苦労してたんだねぇ」
職員室に入っても、話題はそれで持ちきりだ。茜音の要望どおり、スタジオ入りはなく、代わりに珠実園での収録もあったので、大半のメンバーはどのような内容になるのか興味があったようだ。
「えぇ? でも里見さんとか、未来ちゃんは知っていたはずだけど、言ってなかったの?」
食堂の中で片付けをしていた田中未来に声をかける。
「言えないですよ、姉さんの大事な秘密ですから」
「テレビに出ちゃったくらいなんだから、もう秘密でもなんでもないけどねぇ」
この未来も昨年高校を卒業して、同時に珠実園を卒園しているが、高校時代の成長を認められて、今でも資格の勉強をしながら職員として通いで働いている。
「施設名は出ていなかったけど、知っている人はすぐに分かるだろうし。問い合わせがあるかも知れません。そのときはわたしが直接対応するので知らせてください」
朝のミーティングでそんな話題を振っておいた。茜音が小さい頃に受けた嘲笑などとは、さすがに大人になると変わる。
教室に通う子供たちのお母さんたちからは、そんな境遇からここまで成長してきた茜音への賛辞がほとんどだったし、それが原因で彼女の元を去ってしまうような事態にはならなかった。
「茜音先生も気が楽になりました?」
お昼の時間、子供たちを食べさせた後に支援センターの休憩室で昼食を摂っていた茜音に保健師さんが話しかけてくれた。
「そうですねぇ。正直、今朝は怖かったですよ。でも、みんな受け入れてくれて、ありがたかったです」
「そもそも、胸を張って生きていけるはずなのに。なんでそうなっちゃうのかしらね」
「あまりにもこれまでと違うから、拍子抜けしちゃって。珠実園の子どもたちへのメッセージってところでしょうか」
そう。これまで謎とも言われていた茜音の半生を公表した最大の理由がこれだ。
「大丈夫。みんな分かってるわよ」
「だといいなぁ」
午前中とは違い、午後はスケジュールも比較的余裕がある。
園庭で遊ぶ子どもたちを見ながら遊具の片づけと点検をしていたときだった。
胸ポケットに入れていた業務用の携帯が鳴った。
「はぃ、片岡です。あ、健ちゃ……じゃなかった、副園長。どうしました?」
業務中なので仕方ない。プライベートゾーンになる住居棟では、家族として子どもたちと接することも多いから、この切り替えには気を使う。
「えぇ? そんなことって……。分かったよ。あとで園長室に行くね」
通話を切って、元通りにポケットに入れた後、茜音はため息をついて夕焼け空を仰いだ。