【茜音・年長・秋】
幼い頃の断片の記憶。夕暮れの幼稚園の教室。茜音は教室の窓際に座ってうつむいていた。
通常の保育時間は終わっており、残っていたのは両親の共働きなどの理由で帰れない子どもたちだが、その姿も他には見えない。
もともと最後の一人になってしまうこと自体、彼女が幼稚園に入ってからよくあることなので慣れている。
しかし、今日の茜音が落ち込んでいるのには別の理由があった。
「茜音、待たせてごめんね」
聞き慣れた声を聞いて、はっと顔を上げる。
開いていた窓から、母親が声をかけてくれていた。
「茜音ちゃん、忘れ物ないようにね。また明日まってるからね」
「はぁい。先生さようなら」
かばんを肩から斜めにかけ、下駄箱で上履きから履き替えて外に回ると、担任が茜音の母親に頭を下げている。
「ママぁ!」
娘に飛びつかれた彼女は、サラサラの頭をなでて笑った。
「さぁ、茜音。帰りましょ」
「うん!」
夕暮れの道、手をつないで家路へ歩いていく。
「茜音、ケーキ屋さん寄っていこうか」
「え? いいのぉ?」
「うん、シュークリーム好きだもんね」
帰り道の途中にある小さなケーキ屋さん。茜音の好物はそこのシュークリーム。
パイ生地に近い固めのシューが上下にカットされ、カスタードとホイップのクリームがたっぷりはさまっているから、小さい子には少々食べにくい。
それでも茜音はその味が好きで、幼稚園の年長になってようやく上手に食べられるようになった。
「今日はパパが帰ってこられないから2つね」
「そっか……、パパお泊りなんだ……」
父親が仕事で帰って来られないのはよくあることだった。時には両親で行かなければならないこともあったようで、そのときは茜音も一緒に連れて行かれた。
そんなとき、茜音はよく大きな大人たちからいろいろな言葉をかけてもらったのを覚えている。日本語でなかったものも多かった。
小さな白い箱を大事そうに持って一戸建ての家に帰る。ダイニングテーブルにケーキの箱と空っぽのお弁当箱を出して2階の自分の部屋に上がっていく。
この部屋も幼稚園の年長になって初めて自分の部屋になった。
この家自体が少し高台にあるため、その窓からは夕焼けの町並みがきれいに見える。茜音はそんな窓際に椅子を置いて外を見るのが好きだった。
教えられたとおり、幼稚園の制服をハンガーにかけて普段着のシャツとスカートに着替える。まだ少し自分には高い階段を下りていく頃には、紅茶とケーキが用意されていた。
「夕ご飯は少し少なくするからね」
「ん~」
キッチンからの声には答えるが、口はすでにクリームでいっぱいだ。
「茜音、今日、幼稚園でみんなからいじめられちゃったんだって?」
「うん……」
昼間のことを思い出したのか、返事の声は小さかった。
「茜音に嫌な思いさせちゃったね。ごめんね……」
「ううん……」
敬老の日を間近に控え、幼稚園の中では祖父母への贈り物を作るという時間があった。
しかし、茜音は父方も母方もその存在を知らない。そのことが原因で、茜音は周りの子達から仲間はずれにされてしまったといい、それを担任の先生は茜音の母親に謝っていたというわけだった。
「茜音のおじいちゃん、おばあちゃんはちょっと理由があって遠くに行ってるのよ」
「そうなんだぁ。それじゃあとで会えるんだねぇ」
「そうね……」
複雑そうな表情を浮かべる母親の真意が分かるにはその後10年以上の時間が必要だ。
その後、幼稚園では同じような事情を抱えた子供たちのための対策が採られたおかげで茜音たちが萎縮することもなくなり、気にして思い出すようなこともなくなった。
彼女にはそれを気にしているような余裕は無かったのだ。
茜音のこんな平和な暮らしはその年の冬に終わりを迎えてしまったのだから。
幼い頃の断片の記憶。夕暮れの幼稚園の教室。茜音は教室の窓際に座ってうつむいていた。
通常の保育時間は終わっており、残っていたのは両親の共働きなどの理由で帰れない子どもたちだが、その姿も他には見えない。
もともと最後の一人になってしまうこと自体、彼女が幼稚園に入ってからよくあることなので慣れている。
しかし、今日の茜音が落ち込んでいるのには別の理由があった。
「茜音、待たせてごめんね」
聞き慣れた声を聞いて、はっと顔を上げる。
開いていた窓から、母親が声をかけてくれていた。
「茜音ちゃん、忘れ物ないようにね。また明日まってるからね」
「はぁい。先生さようなら」
かばんを肩から斜めにかけ、下駄箱で上履きから履き替えて外に回ると、担任が茜音の母親に頭を下げている。
「ママぁ!」
娘に飛びつかれた彼女は、サラサラの頭をなでて笑った。
「さぁ、茜音。帰りましょ」
「うん!」
夕暮れの道、手をつないで家路へ歩いていく。
「茜音、ケーキ屋さん寄っていこうか」
「え? いいのぉ?」
「うん、シュークリーム好きだもんね」
帰り道の途中にある小さなケーキ屋さん。茜音の好物はそこのシュークリーム。
パイ生地に近い固めのシューが上下にカットされ、カスタードとホイップのクリームがたっぷりはさまっているから、小さい子には少々食べにくい。
それでも茜音はその味が好きで、幼稚園の年長になってようやく上手に食べられるようになった。
「今日はパパが帰ってこられないから2つね」
「そっか……、パパお泊りなんだ……」
父親が仕事で帰って来られないのはよくあることだった。時には両親で行かなければならないこともあったようで、そのときは茜音も一緒に連れて行かれた。
そんなとき、茜音はよく大きな大人たちからいろいろな言葉をかけてもらったのを覚えている。日本語でなかったものも多かった。
小さな白い箱を大事そうに持って一戸建ての家に帰る。ダイニングテーブルにケーキの箱と空っぽのお弁当箱を出して2階の自分の部屋に上がっていく。
この部屋も幼稚園の年長になって初めて自分の部屋になった。
この家自体が少し高台にあるため、その窓からは夕焼けの町並みがきれいに見える。茜音はそんな窓際に椅子を置いて外を見るのが好きだった。
教えられたとおり、幼稚園の制服をハンガーにかけて普段着のシャツとスカートに着替える。まだ少し自分には高い階段を下りていく頃には、紅茶とケーキが用意されていた。
「夕ご飯は少し少なくするからね」
「ん~」
キッチンからの声には答えるが、口はすでにクリームでいっぱいだ。
「茜音、今日、幼稚園でみんなからいじめられちゃったんだって?」
「うん……」
昼間のことを思い出したのか、返事の声は小さかった。
「茜音に嫌な思いさせちゃったね。ごめんね……」
「ううん……」
敬老の日を間近に控え、幼稚園の中では祖父母への贈り物を作るという時間があった。
しかし、茜音は父方も母方もその存在を知らない。そのことが原因で、茜音は周りの子達から仲間はずれにされてしまったといい、それを担任の先生は茜音の母親に謝っていたというわけだった。
「茜音のおじいちゃん、おばあちゃんはちょっと理由があって遠くに行ってるのよ」
「そうなんだぁ。それじゃあとで会えるんだねぇ」
「そうね……」
複雑そうな表情を浮かべる母親の真意が分かるにはその後10年以上の時間が必要だ。
その後、幼稚園では同じような事情を抱えた子供たちのための対策が採られたおかげで茜音たちが萎縮することもなくなり、気にして思い出すようなこともなくなった。
彼女にはそれを気にしているような余裕は無かったのだ。
茜音のこんな平和な暮らしはその年の冬に終わりを迎えてしまったのだから。