鈴々から「内侍省の方がお見えになりました」と聞き、玲燕は首を傾げる。
「後宮内で過ごす心構えでも話してくれるのかしら?」
内侍省とは、後宮のことを取り仕切る宦官達が所属する組織だ。
用件が思い当たらないが、尋ねてきた宦官を追い返すわけにもいかない。玲燕はその宦官が待つ部屋へと向かった。
「甘栄佑にございます」
かしこまって挨拶するその人を見たとき、玲燕は目が点になった。
「天佑様、何やってるんですか?」
きっちりと宦官の袍服を着て、いつも下ろしている髪の毛は幞頭(ぼくとう)にしまわれているものの、それはどこからどう見ても天佑にしか見えない。
「なんだ。気づかれたか」
天佑は玲燕を見て、口の端を上げる。
「当たり前じゃないですか。どっからどう見ても同一人物です」
「行動する場所と格好が違うから、意外と気づかれないのだがな」
「残念ながら、一瞬でわかりました」
玲燕は真顔で答える。
「今は甘天佑の双子の弟──栄佑ということになっている」
「なるほど、双子ですか。これも、皇帝陛下の命で?」
双子だと言われれば、そうだと思ってしまうかもしれない。しかし、勝手にこんなことをしでかしたら大問題になるはずだ。
「まあ、そうだな」
天佑はなんでもないように頷く。
(どんだけ型破りな皇帝と臣下なのよ!)
平民の玲燕を偽りの妃として後宮に入れるわ、男の臣下に宦官のふりをさせて後宮に送り込むわ、やることが突拍子なさ過ぎる。玲燕は頭痛がしてくるのを感じた。
「甘様も玲燕様も、お茶でも飲んでくださいませ」
タイミングを見計らったように、鈴々がお茶を淹れる。
香ばしい香りが周囲に漂った。
「わあ、いい匂い」
玲燕が歓声を上げると、鈴々が「甘様からの差し入れですよ」と教える。
「茶の産地、宇利から取り寄せた。気に入ったなら、また取り寄せよう」
「ええ、是非。でも、茶葉では誤魔化されませんからね!」
玲燕はじとっと目の前の人──玲燕をここに送り込んだ張本人である天佑を睨み付ける。
「そう睨むな。だれか妃と交流したのか?」
「先ほど、廊下で蓮妃様とお話ししました」
「蓮妃と?」
「算木を廊下に落としてしまったので探している最中に遭遇したのです」
「算木? 見つかったのか?」
「いえ。『二』が見つかりません。廊下から中庭に降りて探したのに」
玲燕は首を横に振る。
地面を見回しても、算木はひとつしかなかった。
「場所はどこだ?」
「菊花殿から内侍省に向かう途中、梅園殿の手前にある小さな庭園の辺りです。椿の木がある──」
「あそこか。では、もし拾ったという知らせを受けたら、玲燕に届けよう」
天佑は言葉を止め、玲燕を見つめて口の端を上げる。
「なかなか自由に歩き回っているようではないか」
「出歩くなとは言われておりませんので」
「女官達もまさか菊妃本人がぷらぷらと歩き回ってるとは思わないだろうな」
天佑はくくっと笑う。
「幽鬼に憑かれたのではないかと噂が立ちそうだ」
「既に、変わり者の錬金術妃だという噂は立っているようです」
鈴々が口を挟む。
「錬金術妃か。いかにも玲燕にぴったりな名だな」
天佑は楽しげだ。
「全て天佑様のせいですよ!」
玲燕は口を尖らせる。
「悪い悪い」
天佑は鈴々が淹れたお茶を飲む。
会話が一段落したのを見計らい、鈴々が口を開いた。
「それにしても、先ほど通りかかったのが蓮妃様でよかったです。あそこは梅園殿が近いから、梅妃様だったらどうなっていたことか」
「梅妃様だと何か問題が?」
玲燕は鈴々の言い方に引っかかりを覚えて聞き返す。
「梅妃様は良くも悪くも後宮の方なのです。万が一あそこで玲燕様が花の一本でも踏み潰そうなら、大変なことになっていました。妃の身分であられるので、さすがに鞭打ちにはならないと思いますが──」
鈴々は肩を竦める。
「良くも悪くも──」
後宮は皇帝のためにある園だ。そこにあるものは、地面に落ちている小石ひとつをとっても皇帝のものであるという考え方をする人も多い。そして、梅妃はそういう考え方をする妃なのだろう。もし女官が花の一本でも手折ろうものなら、鞭打ちにすることも厭わないのかもしれない。
(つまり、妃の身分によって私はある程度守られているってことなのね)
玲燕は茶を啜る天佑を窺い見る。
とんでもないことをしてくれたものだと思ったけれど、彼なりに玲燕を守るために名ばかりの妃の座を用意したのかもしれない。
「まあ、鈴々を付けているからその辺は心配していないが、気をつけることだな」
天佑は茶碗を机に置く。
(どうして『鈴々を付けているから心配していない』なのかしら?)
不思議に思ったものの、玲燕が聞き返す前に天佑が話題を変える。
「さて、本題だ。これを玲燕に」
玲燕は天佑が差し出したものを見る。分厚い資料だ。中身を見なくとも、今回の鬼火騒ぎに関するものだろうと予想が付く。
「再度これまでの目撃情報を元に調査を行った。鬼火が素早く横切ったという証言がある場所のいくつかから、玲燕が見つけたのと同じ棒が新たに見つかっている」
「逆に、それ以外の場所からは見つかっていないということですね」
「ああ、そうだ」
天佑は頷く。
それは即ち、ゆらゆらとひとつの場所に留まっている鬼火が目撃された場所では玲燕が解明した方法とは別の方法で鬼火を熾していることを意味する。
「……例えば、釣り糸に鬼火をぶら下げて人が持っているということは考えられないでしょうか?」
「それにしては鬼火の位置が高すぎる。一番高い目撃情報は、十メートル近く上だ。そんな釣り竿を持ち歩く人間がいれば、すぐに誰かが気付くはずだ」
「それもそうですね。周囲に背の高い建物か木があったということは?」
「俺もそれを疑って何カ所か確認したが、周囲には何もなかった」
「何も? どの場所も何もなかったということですか?」
「そうだ」
天佑は頷く。
「……そうですか」
玲燕は今さっき手渡された資料をぱらりと捲る。
ゆらゆらと揺れる鬼火も、目撃場所が川沿いに集中しているのは同じだ。玲燕が鬼火を目撃した日以降も、二件ほど目撃情報が寄せられていた。
「それと、玲燕から頼まれたとおり、前回渡した各家門の情報をさらに詳しく調べたものも後ろに載っている。……これでいいか?」
「はい。まずはこれで十分でございます」
玲燕は頷いた。思った以上に早い情報収集に、感謝する。
「では、俺は戻る。また定期的に会いに来るよ」
「はい。あっ」
「どうした?」
立ち上がりかけた天佑は動きを止め、玲燕を見る。
「……私から天佑様に会いたいときはどうすれば?」
「そんなに俺に会いたいのか? 見知らぬ場所で寂しくなったか」
天佑は器用に片眉を上げる。
「連絡経路を確認したいだけです」
玲燕は表情を変えずに答える。
「だろうな」
天佑はくくっと笑うと、玲燕の後ろに控える鈴々を指す。
「そちらにいる鈴々に言えば連絡はつく」
「わかりました」
「では、またな」
天佑は今度こそ部屋を出る。
玲燕はその後ろ姿を見送ってから、今渡された書類をぱらりと捲る。
鬼火の犯人捜しは錬金術とは違うが、あらゆる情報を読み解き真理を探るという点では錬金術と似ている。
(なんとか情報を集めて、解決の糸口を探さないと)
玲燕は書類を睨みながら、頭を悩ませたのだった。
◇ ◇ ◇
その日、後宮の空に見慣れぬ物体が浮いた。
「あら、あれは何かしら?」
回廊を歩く女官達が口々にそう言い、空を見上げる。
「凧? 蓮桂殿(れんけいでん)からだわ」
赤と黄色の鮮やかな色合いのそれは、優雅に空を舞っていた。
蓮桂殿は後宮の西側に位置する、蓮妃の住む殿舎だ。
その蓮桂殿では、明るい声が響いていた。
「菊妃様、見て! こんなに高く!」
糸を操りながら得意げにしているのは、この殿舎の主である蓮妃その人だ。
「すごいですね。お見事です」
玲燕は菊妃を褒めるように、手を叩く。
あの日約束したとおり、玲燕は翌日には蓮妃の住む蓮桂殿に凧の手直しに向かった。
過度に付けられた飾りを取り去って軽量化を図り、バランスを取るための尾を付けることで華美さを失わないように調整した。また、軸となる竹棒は最低限の本数にし、糸を結びつける位置は左右の端に対称になるようにした。
一時間ほどかけて手直ししただけで、凧は面白いように飛ぶようになった。その縁で、蓮妃より蓮桂殿に招かれるようになり、今日もご招待いただいたのだ。
「菊妃様はすごいわね。以前、皇城で凧揚げ大会があったのだけど、もし出場したら優勝していたかもしれないわね」
「凧揚げ大会?」
「ええ。どの家門が一番高く、安定して凧を揚げられるか競ったの。郭家が優勝したわ」
「そうなのですか」
玲燕は相づちを打つ。
(そんな催しがあるのね)
凧は遊びでも使われるが、主な使い道は軍事目的だ。高く上げることで遠くからでも目視できるので、遠方にいる部隊とのやりとりに使用される。
なので、凧の優れた技術を持っていることはただ単に『凧を揚げる』という以上に重要な意味を持つ。多くの有力者が錬金術師を囲ってその技術を磨くほどだ。
「蓮妃様が仰る郭氏とは、州刺史(しし)の郭様でございますか?」
「ええ、そうよ。ご子息のひとりが内侍省にいるの」
「なるほど」
天佑から貰った資料から得た知識によると、郭氏は刺史と呼ばれる地方行政を監督する役目を負う職にいる有力貴族だ。刺史は地方の警察や軍事にも多大な影響力を持つので、懇意にする錬金術師がいてもおかしくはない。
「ねえ、菊妃様。よかったら、お茶になさらない? 実家からとても美味しい粉食の菓子が届いているの」
蓮妃は凧を操る手を止め、ゆらゆらと下に落ちる凧を拾い上げると玲燕を見つめる。
「はい、ご一緒させていただきます」
玲燕は微笑む。
菓子は好きだし、玲燕は鬼火事件解決のために色々と情報を集める必要がある。お茶をできるのは願ってもいないことだ。