その瞬間、周囲に今までで一番大きなざわめきが起きた。「黄殿が?」「信じられん」という声が方々から聞こえてくる。
一方の、名指しされた黄連泊は大きく目を見開き、次いで怒りに顔を真っ赤にした。
「貴様!」
黄連泊が憤慨して声を上げる。
「信じられぬ、許しがたい侮辱だ! 私ほど忠義に固い男はこの光麗国中を探しても──」
怒りにまかせて、黄連泊が玲燕に掴みかかろうとする。
しかしその手が玲燕に届く前に、さっと目の前に陰が現れた。
「潤王陛下の妃であられる菊妃様に手を出すとは、不敬ですよ」
颯爽と現れてそう言ったのは、玲燕の近くに控えていた女官の鈴々だった。か弱い女性とは思えぬ荒技で、黄連泊の腕を捻じ上げている。
「ぐっ!」
黄連泊の口から苦しげな声が漏れた。腕を掴む鈴々の手が外れないのか、額に血管が浮かび上がり、顔は先ほどより更に赤くなっている。
「鈴々、手加減してやれ。腕が折れてしまう」
潤王の制止で鈴々の手が緩む。黄連泊は慌てたように後ろに飛び退いた。
「誰ぞか、この女官を捕らえよ! 私にこのようなことをしてただで済むと思っているのか!」
「あら、むしろ感謝していただきたいです。私が制止しなければ黄様は菊妃様を傷つけた罪でこの場で処刑になっていましたよ?」
鈴々は涼しげな表情を崩さず、黄連泊に言い返した。
(鈴々って、ただの女官じゃない……?)
玲燕は驚いた。
今の身のこなしは、ただ者ではなかった。ふと、後宮に初めて来た日に天佑が『鈴々がいるから大丈夫だと思うが』と零していたことを思い出す。
(もしかして、私の護衛も兼ねていたの?)
今更ながらに知った事実に衝撃を受ける。
一方の黄連泊は、今にも射殺しそうな目で玲燕を睨み付けていた。
「菊妃よ。続きを」
潤王に促され、玲燕はハッとする。
「はい。あの事件を解決したとき、私は光琳学士院が事件を解決できないと言っていたことに強い違和感を覚えました。知識の腑である光琳学士院の面々に、あの手法が思いつかないなどあり得るのだろうかと。けれど、『解決するつもりがなかった』と考えれば納得がいきます」
「解決するつもりがなかった?」
潤王が問い返す。
「はい。あの事件は陛下の失脚を狙ってのもの。黄家にとっては都合がよかったのです」
「ふざけるな! 我が黄家は娘が陛下の妃になっているのだぞ。陛下の失脚が都合がいいわけがないだろう!」
黄連泊が叫ぶ。
「いいえ、都合がよかったのです。つまり、梅妃様は妊娠できないお体なのです」
玲燕はきっぱりと言い切った。
「皇后になれる可能性が高いのは、未来の皇帝を身籠もった女性。しかし、梅妃様にはそれができない。その事実を知られる前に、後宮が解体されることをあなた様は望んでいた。ところが、二月ほど前の宴の最中、食事が運ばれてきただけで桃妃が体調を崩した。そんな桃妃を見て、梅妃様と黄様はすぐに懐妊を疑いました。そして、どうやら間違いなさそうだと確信した黄様は、桃妃様を排除しようと企みます。それが、寒椿の宴の事件です」
「何を言うか! あれは、私が陛下をお助けしたのだ!」
「違います。なぜなら、陛下の酒杯には元々毒など入っておりませんでした」
玲燕は首を横に振る。
「どういうことだ?」
近くにいた天佑が玲燕に尋ねる。
「黄様の酒杯に盛られた砒霜。あれは、黄様ご本人が自分の酒杯に混入したのです。そして、次に酒を注がれた陛下が口にする前に陛下の酒杯を叩き落とし、毒が混入していると叫んだ」
「酒器に入っていた砒霜はどう説明するつもりだ!」
「それも、翠蘭から砒霜を取り上げた際に、混乱に乗じてご自分で入れたのでしょう。私はなぜ黄様の酒器は黒ずんだのに陛下の酒器は黒ずまなかったのか、疑問でした。答えは単純明快で、陛下の酒器に毒など入っていなかったのです」
玲燕はまっすぐに黄連泊を見返す。
「事件は非常に上手くいきました。犯人はどう考えても桃妃付きの女官。通常で考えれば、桃妃の地位剥奪は免れません。ところが、ここで想定外の出来事が起きます。陛下が桃妃の罪を疑問視し、罰しようとしなかったことです。だから、あなたは第二の手段、つまり、桃妃を殺すことにした」
「…………」
「方法は至って簡単です。ちょうど予定されていた輪軸の工事の際、工事の者の不手際を批難して工事する者を自分の息のかかった者に変える。そして、なんら疑われることなく関係者を桃林殿に入り込ませる機会を得ることに成功した。あとは、輪軸の交換のために桃林殿を訪れる工事の者に氷を持たせ、それを井戸の中に落とすように伝えるだけです。氷にしたのは、輪軸の工事の時間と井戸の水を飲んで死ぬ時間をできるだけ離したかったからでしょう。氷の中に砒霜を入れれば、溶けるまで時間を稼ぐことができますから」
「非常に面白い推理だが、お前が言っていることは全て推測の域を出ない。何を以て、そのようなことを言っているのか」
黄連泊は話にならないと言いたげに、手を振る。
「証人ならおります。輪軸の工事をした者が、黄様より氷を持たされたと言っておりました。それに、昨晩翠蘭のところに確認に行っていただきました。『陛下の酒が減っているようだ』と黄様から言われたと証言しています。あとは……梅妃様の診察をした医師の証言も必要ですか?」
昨日事件の真相を見抜いた玲燕は、天佑に頼んで一通りの証言取りをした。その結果は全て、玲燕の推理を売らづけるものだった。
「なっ!」
冷ややかな表情のまま玲燕が聞き返すと、黄連泊は怯んだように目を見開く。
「黄。そなたの負けだ」
玲燕と黄連泊の様子を眺めていた潤王は、片手を上げる。
「その者を捕らえよ」
潤王の命令で、黄連泊が衛士達に取り押さえられる。黄連泊は潤王を見上げ、観念したように肩を落とした。
両脇を抱えられて連行されてゆく黄連泊は、ふと玲燕に目を向けた。
「私にとっての一番の想定外は、お前のような女が妃に迎えられたことだ」
悔しげに口元をゆがめた黄連泊は聞き取れるか聞き取れないかのぎりぎりの声で、そう言った。
半ば引きずられるように歩くその後ろ姿を、玲燕はいつまでも見つめた。
◇ ◇ ◇
昨日は怒濤の一日だった。
最初は容疑を否定していた黄連泊だったが、様々な状況証拠や証言が出てくるにつれて言い逃れができないと判断したのか、今は黙秘をしているという。
「待たせたな。細々とした雑務に追われていた」
昼頃、そう言いながら菊花殿に入ってきたのは玲燕の待ち人である天佑その人だった。今日、玲燕は潤王と謁見することになっているのだ。
昨日とは打って変わり、天佑は袍服を着て幞頭を被った宦官の姿をしている。
「朝来るつもりだったのだが遅くなって悪かったな。昨日、色々あって疲れているだろう? よく眠れたか?」
玲燕は無言で首を横に振る。
事実、昨晩もその前日も、気持ちが昂ぶっていたせいかほとんど寝ていない。けれど、まだ興奮が続いているのかさほど眠気はなかった。
「睡眠不足は万病の元だ。きちんと寝ろよ」
天佑は肩を竦める。
「気になることがあり、確認するまでは眠れそうにありません」
「ほう。どんな?」
天佑は玲燕の向かいに座ると、興味深げにこちらを見る。
「天佑様のことです」
「俺?」
天佑は怪訝な顔をする。
玲燕はぎゅっと両手を握り、息を吸った。
「それとも、〝栄祐様〟と呼んだ方がよろしいでしょうか?」
楽な態度で聞いていた天佑の眉がピクリと動く。
「この格好のときは、栄祐だな」
「そうではありません」
「なら、どういう意味だ?」
「あなたは甘天佑ではなく、甘栄祐様ですね。本当の甘天佑様はもう亡くなっているのでしょう?」
玲燕は射貫くように、天佑を見つめる。
天佑の形のよい唇が、弧を描いた。
「なぜ、そう思った?」
「思い返せばこれまでに、たくさんの諷示がありました」
本当にたくさんの諷示があった。
兄が天嶮学を習っているいう天佑に対し、兄の存在が確認できないこと。
逆に幼少期から天佑を知る桃妃は、彼こそが天嶮学を習っていたということ。
甘栄祐が消えたのと同時に、甘天佑も全く別の部所に異動していたこと。
その前後に体調を崩し、以前の記憶が曖昧だということ……。
「三年前のある日、光琳学士院にいた甘天佑様は過去の資料を眺めていてとある事件に疑問を覚えました。菊妃が自害した事件です。彼は光琳学士院が導き出した公式の見解に強い違和感を覚え、独自に調査しようとした。そして、そのことを李空様達に気付かれた」
天佑は何も言わなかった。玲燕はそれをいいことに、話を続ける。
「菊妃様は自害ではありません。殺されたのです。──それも、とても親しい相手に」
「それは誰だ?」
天佑が問う。
「私の予想では、李空様です。当時、菊妃様はなんらかのきっかけで菊花殿と後宮の外をつなぐ秘密の経路があることを偶然知った。そして実際に後宮の外に出てしまい、光琳学士院に勤めていた李空様と知り合い男女の仲になった」
玲燕は話しながら、手をぎゅっと握り目を伏せる。
「ただの女官だと思っていた恋人が菊妃だったと知ったとき、李空様はたいそう驚かれたはずです。そして、すぐにその関係を清算しようとした。だが、菊妃は納得しなかった。だから、殺すことにしたのです。妃との姦通は重罪です。もしこのことが誰かに知られれば、処刑となることは免れませんから」
菊妃は死に際に、『愛していると言ったのに、どうして──』と呟いたという。
最初にそれを聞いたとき、玲燕は彼女が『愛していると言ったのに、どうしてわたくしを夜伽に呼んでくださらないのか』と言おうとしていたのだと思っていた。
けれど菊妃は、『愛していると言ったのに、どうしてわたくしを殺すの?』と言いたかったのだ。
そして、菊妃の事件が墨で塗りつぶされていたのは李空の仕業だろう。余計な証拠が記載されていると、自身の破滅が近づくから。