多かれ少なかれ、事件というものは日々起こるものだ。そして人は、常に新たな興味に惹かれ、毎日己の記憶を上書き更新し生きている。

 勿論私も例外ではない。日々遭遇する全ての物事を取得選択し、残すもの、忘れ去るものを無意識で振り分けている。そしてその作業を繰り返す事で、毎日新たな私として生まれ変わり、生きている。

 よって、市中で捕物(とりもの)騒ぎがあったのち、落武者(おちむしゃ)様と共に天英寺(てんえいじ)へ駆け込んだ一件があってから、二ヶ月ほど。しばらくの間、私の記憶を埋めていた謎の落武者様の存在はだいぶ奥底に沈みかけていた。

 そんな時、世間を騒がせるような大きな事件が起きた。

 将軍東雲(しののめ)光晴(みつはる)様が寵愛されていた側室、伊桜里(いおり)様が突然病に倒れ、お亡くなりになったと言うのである。そのため光晴様は九十日の喪に服すと、突然公儀より公示されたのである。

 突如直面した、あまりに不幸な出来事に江戸の町を悲しみの雨が襲う。
 そして「伊桜里様の突然死」という痛ましい一件は、町方(まちかた)でも、くノ一仲間の間でも、井戸端会議の議題を占領するようになった。

 
 ***


 その日私は、我が家に連なる伊賀者の詰め所。その中にある、鍛錬場(たんれんば)の端っこにいた。そしてくの一連い組の仲間と仲良く輪になり、揃って商売道具であるクナイの刃を砥石(といし)でせっせと研いでいた。

「何でも本当は毒を盛られたらしい」
「えっ、公示通り病死って聞いたけど」
「いいえ、短刀でグサリと胸を一突き。自害されたって噂を聞いたわ」
「胸をグサリじゃ、やっぱり殺害されたんじゃない?」

 私達にとって、目下の関心事はやはり伊桜里様のことだ。

「まさかー、だって将軍家の妻でしょ?そんな簡単に殺せるわけないし」
「馬鹿、伊桜里様は側室。というか正式には、まだお世継ぎを産んでなかったから、お手付き御中臈(おちゅうろう)でしょ?」
「そうよ、正室は京からいらした皇女様、貴宮(たかのみや)様だよ」
「だったらさ、公方(くぼう)様が九十日の喪に服すって公示されてたけど、まずくない?」

 誰ともなく投げかけられた疑問に一同うなずく。

 何故ならどんなに寵愛されようと伊桜里様は、先程誰かが指摘した通り、妻ではないからだ。

 (それなのに正妻が亡くなった時と同じ期間、公方様は喪に服すって事で)

 正妻である貴宮様からしてみれば、面白くない話しだろう。

「でも正直、貴宮様は影が薄いよね」
「だって公方様と伊桜里様は幼い頃から相思相愛の仲だったわけで、となると、伊賀者(いがもの)としてはさ、断然そっちを応援したくなるってもんじゃない?」

 (確かに)

 そもそも伊桜里様は、西大平藩(にしおおひらはん)の藩主であり、江戸町奉行(まちぶぎょう)に四十代という驚くべき早さで就任した、太田忠敬(おおたただたか)様の娘である。

 よって何かと町奉行と関わり合いの深い伊賀者達は、どうしても伊桜里様に対し、身内贔屓(みうちびいき)になってしまいがちだ。

「それにここだけの話」

 神妙な顔をした一人が、言いかけて口を噤む。

「何よ」
「言いかけて黙るなんて気になるし」
「そうよ。まさかいい人が出来たとか?」
「え、そうなの?」

 皆の興味が一人に(そそ)がれる。

 それもそのはず。今年は何故かくノ一連の面々に、恋の嵐が吹き込む事が多かったからだ。

 (まさかここでも嵐が吹くのかな?)

 私もクナイの刃を研ぐ手をとめ、含みを持たせたまま黙り込む同輩の顔をじっと見つめる。

「いや、全然私の事じゃないんだけどさ」

 みんなの注目を浴びた子は、私達に前置きする。

「なんだ。良かった」
「内緒の色恋は、抜け(にん)になる事と同罪よ」
「え、そうなの?」
「冗談に決まってるでしょ」

 呑気なやりとりにその場が和み、一同声を漏らし笑い合う。

「それがさ、伊桜里様はご懐妊されていたんじゃないかって話」

 声を落として告げられた言葉に、その場を包む和やかな雰囲気は、瞬時に鳴りを潜めた。そして私を含む、みんなの顔が一気に引き()ったものと変わる。

「そうなの?」
「その根拠は?」
「誰がそんな噂を流しているの?」
「だとしたら、まずくない?」

 矢継ぎ早に質問が投げかけられた。

「でもさ、確かに前将軍秀光(ひでみつ)様の服忌令(ぶっきりょう)が明けて一年が経つし、その可能性が全くないとは言い切れないよね」
「しかも伊桜里様は確実に公方様の寵愛を受けていただろうし」
「でも、どうせ側室候補の御中臈なんて、大奥に掃いて捨てるほどいるんでしょ?」
「どうだろう。今の公方様は質素倹約を良しとしてるって言うし、まだ実質一年だしねぇ」

 しみじみとした声をあげるくノ一仲間。

 将軍が変わると大奥内も当たり前だが入れ変わる。よって「まだ一年」というのは、光春様の代になってからの大奥を指しているのだろう。

 (でも、光晴様が公方様になられて、もう二年)

 つまり正確には、光晴様の代となる大奥は二年目を迎えた事になる。けれど先程仲間が口にしていた通り、二年の内一年は喪に服していたわけで。

 (きっと政務の引き継ぎとかで忙しかっただろうし)

 積極的にお世継ぎを作る。
 それはなかなか難しい事のような気がする。

 それに、結局のところ大奥で得た情報は門外不出だ。よって外にいる私達には中で起こる、正しい情報は伝わってこない。
 だから御中臈という、表向き将軍や御台所(みだいどころ)といったお偉方の身辺の世話をする役でありながら、実のところ将軍の夜伽(よとぎ)の相手となる役職についた女性が、果たして何人大奥にいるか。

 その事を外にいる私達は正確に把握できない。

 とは言え、全く漏れないわけではない。御目見得以下(おめみえいか)の奥女中に許された「宿下(やどさが)り」と呼ばれる休暇により、ちらほら大奥の情報が市井に漏れ伝わる事はある。しかしそこからもたらされる話は、かなり脚色したような、それこそ眉唾物(まゆつばもの)では?と疑いたくなるような話が多い。

 (信憑性(しんぴょうせい)に首を傾げるようなものばかりだしなぁ)

 一概に信じて良いとは思えないのである。

 (でも確か)

 漏れ聞いた情報の中でも比較的多くの人が噂する事柄を思い出す。

 先程話題に上がった通り、今のところ正妻として貴宮様を京から迎える以前に、既に光晴様から寵愛を受けていた、伊桜里様が変わらず寵愛を受けているらしいとのこと。

 (そしてそんな噂が流されているせいで伊桜里様は……)

 いつまで経っても光晴様のお世継ぎ誕生の知らせが届かないのは、寵愛されている伊桜里様に問題があるから。

 そんな風に世論は伊桜里様に対し、若干風当たりが強くなっていた。

 (そこにきて、伊桜里様が亡くなるというまさかの事態が起こったわけで)

 現在桃源国(とうげんこく)の上空には、「お世継ぎ問題」と言う、実に人の力ではどうにもならない暗雲が、以前より濃く、垂れ込めてしまっている状況だと言える。

「というか、あんたは懐妊なんて、どこでその話を聞いたのよ」

 噂の出所を確かめようと、最初に話題に挙げた子に再度みんなの視線が集まる。

越後屋(えちごや)に出入りする商人の話だと、どう見てもめでたい柄の入った、反物(たんもの)の注文が大奥からあったって聞いたし、蔦屋(つたや)には改訂版(かいていばん)父兄訓(ふけいくん)とか、赤本とか、そんな感じの注文が一気に大奥から入ったって聞いたから」

 そこで一息つくと、皆が静かに聞き耳を立てていることに気をよくしたのか、情報通な同輩が得意げな表情で再び口を開く。

「それに極めつけは大奥出入り問屋でもある小間物屋、若狭屋(わかさや)の旦那。あいつの羽振りが最近やたらいいことよ。噂によると、店で一番高価だった、江戸鼈甲(えどべっこう)で作った平打簪(ひらうちかんざし)が売れたとかなんとか言ってたけど」

 伊桜里様が懐妊した。
 彼女がそう考えたという根拠を次々と明かされ、私達は言葉を失う。

 反物はともかくとして、父兄訓は「父としてかくあるべし」という武士の教育本だ。そして赤本と呼ばれるのは、正月のお年玉として購買される事の多い、子供向けの縁起物。
 さらに男性が女性に簪を贈ることは良くあることではあるが、その意味は「あなたを守る」だとか「一生を添い遂げよう」だとか、とにかく愛情が含まれているというのが常識。

 (もし、その高級な簪を公方様が伊桜里様に贈ったのだとしたら、お子を授かった労いの意味を込めてという感じ?)

 そう考えてしまいたくもなる。

 勿論ただ単純に「似合いそうだったから」という理由も考えられなくはない。
 けれど、若狭屋の旦那が目に見えて羽振りが良くなるほど高級な簪だ。質素倹約であると噂される光晴様のことだから、よっぽどの事がない限り購入されないはず。

 (ちょっと待ってよ……)

 私はゾワゾワとした嫌な気配を全身に感じた。

 (伊桜里様がご懐妊されていた)

 それはかなり信憑性(しんぴょうせい)が高い話に思えなくもないからだ。

「勿論、私が江戸へ出入りする商人達を見張る任についているから、越後屋に蔦屋、それに若狭屋。この三つを関連付けられたんだと思う。だからこの事は皆が気付いている訳じゃないとは思うけど」

 あくまで個人の考えだと、付け足すように主張する同輩。

「でもきっと、人の噂には戸を立てられぬと言うから、私以外にもその事に気付く人は遅かれ早かれ出てくると思うんだよね」

 厳しめの表情と声で彼女は話をしめくくった。

「そうだね」
「それがほんとだとしたら、伊桜里様が亡くなった理由。それがやっぱり気になってくるわけだけど」
「それと、死因もね」
「つまり、病死というのが本当なのかどうか」
「きな臭い話が隠れてなきゃいいけど」
「大奥だしね」

 人の暗部を探る事を生業とする、くノ一という職業柄もあるのだろう。

 それぞれ無言で思案に(ふけ)る顔になる。

 そんな中、私の脳裏には生前何度かお会いした、伊桜里様の姿が浮かび上がる。

 筋の通った鼻梁(びりょう)に、澄み切った利発そうな瞳。春爛漫(はるらんまん)を知らせる満開の桜のように、明るく桃色に染まる可憐な頬と口元。同性から見ても羨むを通り越し、つい見惚れてしまうほど、世にも優れた容色を持つ女性。

 それが伊桜里様だ。

 その上とても思慮深く、優しい御心(おこころ)を持つ方だった。

 (だった、か)

 伊桜里様を形容する時。
 既に過去形で語る自分に気付き、私は砥石をギュッと握り込む。

 (伊桜里様がお亡くなりになってしまった)

 もう二度と、全ての花が(かす)んでしまうような、そんな可憐な笑顔を拝見する事ができない。その事実をこの時私はようやく理解する。

「あんた達、サボってないで、鍛錬の時間だよ」

 くノ一連の姉弟子達がギシギシと床を鳴らし、鍛錬場に現れた。

「ほら、さっさと片付けて。時は金なり。千里の道は一歩から。今日もビシバシ行くからね!」

 いつも通りやる気に満ちた声に急かされ、私達は慌てて片付けに入る。

「先ずは準備運動。そのあと腕立てから行くわよ。あんた達、今日は私のお陰でぐっすり眠れる事間違いなし。感謝なさい」

 筋肉を鍛える系に特化した姉弟子は腕をぐるぐる回しながらにこやかに告げた。

 この日私は彼女の予言通り、満身創痍(まんしんそうい)と言った感じ。倒れ込むように布団に入った途端、意識を失ったのであった。