そして、あれよあれよという間に季節は巡り、その日はやってきた。雹華妃の下賜の日である。
雹華妃はなんとも幸せそうな表情で、後宮を出ていった。天気さえもそれを祝福しているように、青紫色の空は高く、甘い花の香りがする。
その清々しい空の下、私は城壁の影に隠れてこの世の終わりのような顔をしていた。こっそり柏葉さんと雹華妃を見送りにきたのである。私は今、華やかな笑顔の彼女を見て、絶望している。
「なんて顔をするんです。せっかくの門出ですのに」
柏葉さんは、ため息混じりに私の額をぺっと小突く。
「そりゃ雹華妃は門出でしょうけども」
ため息をつきたいのはこちらの方だ。というか、今ため息をついたら魂までもがひゅるると抜け出してしまいそうな気がする。
「妃がそんなにお嫌ですか?」
「……私はやっぱり、生まれてくる性別を間違えたみたいです」
「そんなことありませんよ、雪玲妃」
柏葉さんは、私の肩にぽん、と手を置いた。
「これは、陛下なりの優しさです。このままあなたをそばに置いておけば、いつか必ずあなたの正体はばれて、処罰を下さなければならなくなっていたでしょうから」
「……柏葉さんは、いつから私の正体を知っていたんですか」
じっとりとした視線を送ると、柏葉さんはくすと笑って話し出した。
「麗和宮に陛下のお通りを告げるために足を運んでいたとき、たまたまあなたたちが入れ替わるところを見てしまったのですよ。すぐに陛下に伝えて捕らえようとしたのですが、陛下がいいと言われるので、少し泳がせて様子を見ていたのですよ」
「……まさかの、随分前からばれていたのですね」
つまり、以前二人きりのときにした、産まれてくる性別を間違えた、というくだりの話も、わざとか。
「柏葉さん、いい人だと思っていたのに、怖いです」
口を尖らせると、柏葉さんはまたもくすりと笑う。
「そもそも、入れ替わること自体無茶なことだったのですよ」
「……陛下はどうして、私を処罰なさらなかったのでしょうか」
「そうですねぇ。あなた方の目的が国家の転覆を図るようなものであれば、それはもちろん処罰したでしょうが」
さらりと視線を向けられ、私は慌ててぶんぶんと首を振る。
「そ、そんなことは考えてません! 食べるためです」
すると、柏葉さんは今度はにっこりと柔らかく笑った。
「だからですよ。陛下は、この国の民が健やかであるようと願っていますから。それに、運が味方したというのもあるでしょうね」
「はあ……運?」
「陛下は、気品よりも素直で野性的な女子が好みなのですよ」と、耳打ちされる。
一瞬ときめきかけて、待てよ、と考え直す。
……これは、絶対に褒められてはいない。
「誰が野生じゃ!!」
「はは。そういう、誰に対しても本音を隠しきれないところも、陛下の御心を掴んで離さないのですよ」
「まったく嬉しくない……」
なんだかんだいっても、結局すべて、陛下の思い通りになっている気がする。
「とにかく、あなたは今日より、雪玲に戻って妃として生きるのです。暁明のことは、私がしっかり文官として育てますのでご心配なく」
私は、青紫色の空を見上げる。
今日から妃。
「妃かぁ……」
華道にお茶会に侍女や他の妃との交流。考えただけでも……。
「おえぇ」
「こら、はしたない」
「……う、すみません。つい拒絶反応が」
すると。
「なんだ、食べ過ぎか?」
突然、背後から失礼極まりない台詞が飛んでくる。しかも、甘い声で。
「違いますよ! 私はただ、これからのことに嘆いているだけで……」
勢いよく否定しながら振り返ると、そこには麗しの陛下がいる。相変わらず、同じ生き物とは思い難い浮世離れした美しさをまとって。
すらりとした長身に、きめの細かい白い肌。白目は青白く澄んでいて、長い睫毛に縁取られた藍色の瞳は、空の星々を散りばめたかのようにきらきらと光を反射している。
……こころなしか、以前より瞳に光が多い気がする。その煌めく瞳に映る自分自身を見て、私はげっと、小さく声を上げた。
「……へ、陛下ではないですか」
私は、その人を見て青ざめる。
「なんだ、人を化け物でも見たかのような目で見つめて」
「……いえ、ぶっちゃけ化け物より恐ろしいです」
「ほう。言うようになったな」
陛下が黒い笑みを浮かべる。咄嗟に、私は陛下から目を逸らした。
沈黙が落ちる。
心がざわついて、どうにも落ち着かない。
「……いいじゃないか。そなたはやはり、鼠色より桃色の方が似合う」
陛下は、薄桃色の襦裙を身につけた私を見てすっと目を細めていた。
「こんなもの、私には似合いません。暁明の方がよっぽど……」
「そんなことはない」
陛下が私の手を引いた。
「わっ……!?」
突然強く引き寄せられた私は、よろけてしまう。すっと、陛下の手に髪を梳かれる。かと思えば、すぐにその手は離れた。
「なんですか……?」
不思議に思い、頭に手を持っていくと、慣れない感触があった。取って見てみると、淡い紫色の宝石があしらわれた簪があった。
「おお。固くて冷たい」
思わず零した言葉に、陛下と柏葉さんはがくっと崩れた。
「……宝石の感想として、それはどうなんだ?」
「すみません」
「……これは、水晶の簪だ。私のものである証。これから外へ出るときは、それを忘れずにつけるように」
「水晶……?」
「良かったですね、雪玲。お似合いですよ」
たしかに綺麗だけど、なんか違うような……。もんもんと考えて、ようやく解が見つかる。
そうだ。これは食べられない!
「陛下! 私はこんなもので騙されませんよ! 全部いい感じに収まった雰囲気出てますけど、私は妃なんてごめんなんです!」
思い切り言うと、陛下はぷっと吹き出して笑った。その隣で、柏葉さんは「こんなものって……」と、顔色を青くして嘆いている。
「そうだったな。そなたは花より団子だった。では、入内の祝いにたくさんの菓子と果実を用意しよう」
「えっ……お菓子?」
ぐらり、と、心が揺らぐ。
「元宵団子に包子に瓜に桃。それから、林檎と梨も用意しよう」
「本当ですか!?」
「あぁ。妃になれば、これからずっと世界中の菓子や果実を食べられるぞ」
「これからずっと?」
その言葉は、私の理性を吹っ飛ばすには十分の威力だった。
私は、陛下に向き直った。
「やります! 妃!」
「よし。聞いたからな?」
「任せてください。妃からの嫌がらせでも、侍女同士のどろどろも、なんでも来い!」
すべては、お菓子のために!
柏葉さんは満足そうな陛下の隣で、やれやれと苦笑している。けれど、私はこれから巡り会うであろう菓子や果実のことで頭がいっぱいで、ちっともそのことに気付かなかった。
こうして、私の妃生活はちょっと変わった形で、幕を開けたのである。