――それからというもの。
私の環境は、また少し変わった。暁明宛の手紙を書き、知り合いの女官を介して事の顛末を伝えると、私はすぐに引越しをした。陛下に正体がばれてからというもの、私と暁明は入れ替わっていない。
陛下の考えていることは、よく分からない。脅しのつもりか、それともからかっているだけなのか。陛下付きの文官となってからというもの、陛下はこれみよがしに、私を女扱いしてくる。
周囲の視線を感じるし、いつかばれるのではと、こちらは気が気ではない。けれど、陛下はそれをやめようとする気配はなく、むしろ楽しんでいるようだった。
「つまり、私はおもちゃなんですね……」
とほほ。
昼下がり、書院で調べ物をしていると、一人の武官を連れて陛下が現れた。
陛下は、両手にたくさんの書簡を持っていた私を見て、
「よく働くな、暁明。疲れていないか? 重いだろう。持ってやるから、貸せ」などと、気遣ってきたのである。
「い、いえ、これくらい問題ありません。男ですので」
「そういうな、ほら」
私は陛下から距離を取ろうと、一歩下がる。しかし、私の一歩と陛下の一歩はかなり違う。一瞬で距離を詰められる。
「なぜ逃げる?」
近くには、同じ陛下付きの武官の柏葉さんや、その他大勢の官吏たちがいる。
「こんにちは、暁明」
「あわわ……こ、こんにちは、柏葉さん」
「ここは遠慮せず、素直に陛下に甘えたらどうです?」
挨拶しつつ、私にそんな助言したのは、新しい上司である柏葉さんだ。彫りが深い顔立ちの、大男だ。並ぶと自分が子供になったかのように思てしまうほど、彼はでかい。
柏葉さんは言葉数は少ないものの、分からないことを聞けばちゃんと答えてくれるし、面倒見もいい。それになにより、私によくお菓子をくれる。文句なしのいい人である。
柏葉さんに言われて一瞬迷うが、すぐに周囲の視線に気づく。その場に居合わせていた官吏たちは、怪訝な顔をして、窺うように私たちを覗き見ていた。
ひそひそと囁き声が聞こえてくる。
「陛下とあの新人は、随分と仲がいいのだな」
「陛下は美しい者がお好きだからな」
「もしや、陛下には男色の気が……?」
「たしかに顔も手も小さくて可愛らしい男子ではあるが」
まずい。陛下が男色を疑われるのはまずい。というか、私までそんな偏見の目で見られるのは嫌だ。それに、注目されたら、いつどこで正体がばれるか分からない。
「いえ! 大丈夫です! これくらい持てますから! だって男ですから!」
「まったく、そなたは本当に頑固だな」
しかし、陛下は私のことなんかおかまいなしで。書簡をひったくると、さっさと執務室に戻っていく。
「あっ! ちょっと陛下ー!」
「男の割に非力なんだな」
「非力違いますー! それぐらい持てますー」
もう本当に、なにがしたいのでしょうか、このお方は。
陛下は椅子に腰を下ろすと、書簡をひとつ、手に取った。
「なにを調べているんだ? 手伝おう」
「結構です。私の仕事ですので」
私は書簡を奪い返しながら、陛下を睨んだ。
「では、茶にしよう。ちょうど、献上品の中に桃があったな。なぁ、葉?」
「そうでしたね」
「えっ、桃」
桃、と言われ、ついごくりと喉が鳴る。瑞々しくて、甘い果肉が脳内を侵食していく。
あぁ、食べたい……。
ふと、視線を感じ顔を上げると、陛下が私をにっこりとした顔で見つめていた。
「食べるだろ?」
「い、いけませんいけません! 仕事中ですから」
「葉」
陛下が目配せをする。
すぐに「すぐにお持ちいたします」と、柏葉さんが答える。
「だ、だめですって」
「そうか。そなたはいらないのか。ならば私と葉だけでいただくことにしよう」
「がーん」
そんなぁ……。桃。私の桃……。
ほどなくして、柏葉さんが玻璃の器にたくさんの桃を入れてやってきた。爽やかな甘い香りが鼻腔をくすぐる。私は思わず身を乗り出して、宝石のように煌めく果実を見た。なんて美味しそうな桃だろうか。
これ、絶対いいやつだ。
「……暁明。本当にいらないのか?」
意地悪にも陛下は余裕の笑みを浮かべて、私に尋ねてくる。
「……う。い、いりません」
「そうか。残念だ」
陛下の整った唇に、白い果肉が吸い込まれていく。歯を立てると、唇の隙間からたらりと果汁が溢れてくる。
あぁあ。なんて美味しそうに食べるの。食べたい食べたい食べたい。
見ているだけで、じゅるりと唾液が出てきてしまう。
「うん、良い桃だな」
「陛下、私もいただいてよろしいですか」
「食べろ」
「えっ、柏葉さんまで」
ちゃっかり柏葉さんまで桃を食べ始めている。
「あぁ……」
私が悩んでいる間にも、陛下と柏葉さんはぱくぱくと桃を食べている。器の底がどんどん見え始める。
陛下がちらりと私を見た。
「美味いぞ?」
「う……!」
陛下は、にやっと意地の悪い笑みを浮かべて私を見下ろした。
「あーもう!! 陛下たちばかりずるいですー!!」
耐え切れず、私は陛下に飛びかかった。陛下の手の中の桃にかぶりつく。
「おぉっ?」
一瞬、驚いた顔をした陛下が、その後満足そうに目を細める。しまった、と思うけれど、口の中に広がった爽やかな甘みに、私の理性は完全にどこかへ吹っ飛んでいる。
陛下の膝の上に乗っていようが、陛下にあーんをされていようが、気にしない。だって、絶品の桃を食べるためだもの。
「ははっ……そなたは本当に食い意地がはっているのだな。良い。食べろ食べろ」
すべての桃を食べ終える頃、私はようやく我に返った。
「……はかりましたね」
「餌に食らいついたのはそなたの方だ」
もぎゅもぎゅと咀嚼しながら陛下を睨む。釣り上げられた魚の気分である。
私はいそいそと陛下から離れた。
「美味かったか?」
陛下はなんとも優しげな表情で私を見ている。私はといえば、条件反射とはいえ時の皇帝に飛びかかったのだ。居心地が悪いことこの上ない。
「まったく、暁明は本当に食べ物には目がありませんね」
柏葉さんにも笑われてしまう。
「……すみません。官吏になるまで、ずっと具なし粥だったもので」
「葉。包子もあっただろう」
「すぐにお持ちしましょう」
柏葉さんは、さっそく厨へ向かう。
「え? ちょっと」
「そなたはここで、私と大人しくお留守番だ」
「私は子供ではありません!」
「子供より食いしん坊な気がするがな」
「なんですと!?」
「ははっ」
まったくもう。
ふう、と息を吐き、私は荒立った心を落ち着ける。
ちらりと隣を見ると、陛下は格子窓の先に広がる青空を見つめていた。
二人きりだ。そう思うと、なんだか緊張してくる。
「……なんだ?」
陛下はこちらに目を向けないまま、私に尋ねた。
「え?」
「視線を感じる」
この人は、頭の後ろにも目がついているのだろうか。
「……失礼いたしました」
私は視線を手元の書簡に戻し、仕事に戻った。しばらく読み耽っていると、こめかみを、陛下の指先がさらりと撫でた。
「な、なんですか」
思わず身を引きながら見ると、陛下は驚くほど穏やかな顔をして、私を見下ろしていた。世界の時がふっと止まったように感じる。窓から差し込んだ陽光が、陛下の形を美しく象っていた。
「べつにかまわない。もっと見ても」
柔らかな声で、陛下が言う。一瞬、なんのことだと首を傾げるが、すぐに先程の視線のことだと思いいたり、恥ずかしくなる。
「い、いえ、大丈夫……です」
陛下の手が、私の腰元に伸びる。力任せにぐいっと引き寄せられ、距離が一気に縮まった。ふわり、と甘い香りがする。
「ちょっ、陛下! 柏葉さんが戻ってきますから!」
小声で訴えるが、陛下は涼しい顔で「気にするな」とか言ってくる。
「するわ!」
つい、言葉が雑になる。
「私も、もっとそなたのいろんな顔が見たい。見せろ」
目眩がする。女同士ならともかく、異性とこんな近い距離で触れ合うのには慣れていないのだ。勘弁してほしい。
「じ、時間! それから場所を弁えましょう、陛下!」
今は仕事中で、しかもここは執務室。寝所ではない。
「……うん。分かってる」
「分かってません……!」
「分かっていないのはそなただろう。私を拒んでいいと?」
「私は、男です、から!」
「……聞こえない」
「嘘つけい」
私は、耳がおかしくなってしまったのだろうか。いつもの陛下と、まったく違う声のように思える。なんというか、ひっそりとしていて、甘い。
とにかく、この変な空気を取り替えなくては。私はふう、と深いため息を漏らした。
「……あの、陛下」
「ん?」
やっぱり甘い声だ。なんだか背中がむずむずしてくる。
「ひとつ、お伺いしたいことが」
「なんだ?」
「どうしてこんなことになっているのでしょうか?」
「……こんなこと?」
陛下は眉を寄せ、心底不思議そうに私に聞き返した。
「私が女だと分かっているのに、どうして罪を問わないのですか? 雹華妃のお付きの雪玲のこともそうですし……」
陛下は私たちの正体を知ってから、何度も麗和宮へお通りしている。そのたびに雪玲として侍女のふりをしている暁明にも会っているはずだ。それなのになぜ、お咎めがないのか。
陛下は雹華妃に会いに行くたび、私も傍付きとして同行させられている。そのたびに私と暁明は心臓が縮み上がる思いをしているのだ。自業自得だと言われればそれまでだが、それにしてもこれはなかなかひどい仕打ちである。
すると、陛下は言った。
「いきなりなに寝惚けたことを言っているんだ? そなたは文官。男だろう」
「えぇ……」
今さらなにを言っているんだ、この人は。ついさっき、私が男だと言ったとき、聞こえないと言ったのは、どの口だっただろうか。都合がいいにも程がある。
「科挙は男しか受けられない。そなたはそんなことも知らなかったのか?」
「……はぁ」
それはつまり、聞かなかったことにしてくれる、ということだろうか。
なんかもう、意味が分からない。
「さて、雹華妃のところへ行くか」
出た。また嫌がらせか。都合が悪くなると、すぐに私を後宮に連れ込もうとするのだから、困ったものである。
仕方なく立ち上がると、陛下に手で制された。
「今日は、そなたは来なくていい」
「え」
「ここで、葉と包子でも食べて待っていろ」
とうとう、同行まで拒絶される。
「そうですか……」
ああ、もう。
擦り寄ってきたかと思えば、急に離れていく。
まったくもって、陛下の考えが分からないー!
私はひとり、頭を抱えた。
陛下と入れ替わるようにして、柏葉さんが戻ってきた。包子のいい匂いがする。
「暁明。包子ですよ」
「ありがとうございます、柏葉さん」
「陛下は麗和宮ですか?」
「はい。とうとう置いていかれました」
「おや、まあ」
まあいいけど。私はここで、のんびりと包子食べながら仕事するし。
窓の向こうの外廊に、陛下の姿がちらりと見える。
「どうしました?」
「……べつに」
なんとなく、胸がもやもやした。
「もしかして、嫉妬ですか? 陛下がいないと寂しい?」
柏葉さんに言われ、耳まで熱くなるのを感じる。私は慌てて否定した。
「ちち、違いますよ!」
すると、柏葉さんがくすりと笑う。
「……暁明は本当に、生まれてくる性別を間違えましたね」
「……どういう意味です?」
柏葉さんは、私が女であるということを知らないはずだ。
「ああ、いえ。べつに悪い意味ではないのですよ。ただとても女の子らしいので、男にしておくにはもったいないというか……」
「え」
思ってもみない言葉に、私は面食らう。柏葉さんはそんな私を見て、にっこりと微笑んでいる。
「そんなこと、初めて言われましたが……」
いつも男っぽいだとか、美男子だとかしか言われたことはなかったのに。
「陛下は、あのようにお美しいですからね、あまり男臭い者を近くに置かないのです。以前、とある武官が陛下にいたずらをしようとしたことがありまして……」
柏葉さんはげんなりした顔で遠くを見ている。
「美男子というのは大変なのですね……」
「それはあなたもでしょう。あなた、結構女官から人気があるのですよ。可愛らしくていろいろと教えたくなる、とか」
にやり、と柏葉さんが笑う。ぞわりとした。
……一体、なにを教えたいというのだろう。
「まぁ、好かれるのはいいことではあるのですがね。とはいえ陛下が男色に目覚めたら、それはそれで国が傾きますので、陛下を唆すのもほどほどにしてくださいね?」
笑顔が黒い。
「……そ、そうですね。というか、私は唆してなんていません!」
私は柏葉さんの目にはどう映っているのだろう。絶対害獣的な感じに映っている気がする。
「さ、どうぞ」
「なに餡ですか?」
「あなたが言っていた、柚を餡にしたものですよ」
「ふぉお! 柚餡!」
私はきらりと目を輝かせて、包子を手に取った。ぱくり、と包子を頬張ると、甘酸っぱい柚餡の味が口いっぱいに広がっていく。
「うんまぁ……」
やっぱり、甘いものはいつどんなときに食べても甘いからいい。
もうなんだっていいや。
「……なんとなく、陛下があなたに餌付けをする理由が分かった気がします」
「ふぇ?」
「ゆっくり食べなさい。誰も取りませんから」
ごっくん、と口の中を綺麗にしてから、私は柏葉さんを見る。柏葉さんは苦笑しつつ、卓に頬杖をついて私を眺めていた。
「柏葉さんは食べないんですか?」
「私は、あなたの幸せそうな顔でお腹いっぱいです」
「そんな馬鹿な。私の笑顔に柏葉さんの胃を膨らませる力はありませんよ」
言いながら、私は包子をもうひとつ手に取る。
「とにかく、これから忙しくなりますから、よく食べてよく働きなさい」
忙しくなる? なにかあるのだろうか。特別なにか行事があるとは聞いていないけれど。
「ふぁい」
私はとりあえず返事をして、包子を頬張る。
「あ、そうそう」
ふと、なにかを思い出したらしい柏葉さんが、私の耳元にそっと口を寄せる。
「陛下から伝言です。この仕事を予定より早く終わらせたら、ご褒美に暁明の食べたいものを国のどこからでも取り寄せてやる、とのことでしたよ」
「えっ!? 本当ですか!?」
「ええ」
「なんでも? いくらでも?」
「ええ」
「柏葉さん! 私、頑張ります!!」
とりあえず今のところ、陛下は私と暁明のことを糾弾するつもりはないみたいだ。もう少し、このお魚生活を満喫しよう。だって、ご褒美が待っている。
しかし、私たちの宮廷ものがたりは、そうのほほんとしたものとはならないらしい。
それからひとつ、季節が流れた頃。私と暁明は、思いもよらない事態に巻き込まれたのである。