――というわけで、一旦時を戻そう。
今、私の目の前には、黒い笑顔をたたえた時の皇帝・蔡颯懍様がいらっしゃる。
近くで見ると、陛下は驚くほど整った容姿をしていた。絹のように柔らかそうな長い髪はひとつに束ねられ、瞳はまるで、星空を閉じ込めたかのような深みのある藍色。すっと切り立った頬には長い睫毛の影が落ち、形のいい唇はかすかに三日月形をしていた。
そして、ときおり流星が流れていそうな神秘的な藍色の瞳で、陛下は私をじっと見下ろしている。
そうだった。見惚れている場合ではなかった。私は今、絶体絶命の状態だった。
ばれたのだ。皇帝に、私たちの正体が。
「雪玲。いや、暁明だったかな?」
陛下の細く長い指先が、さらりと私の首筋を掠める。びくり、と肩が震える。
「お……お止め下さい、陛下。ここは外廊。誰が通るか分かりません」
「悪い。聞こえないな」
陛下がにやりといたずらに笑う。
鬼がいる。美しい鬼が。
私はひとまず、すうっと息を吸った。
誰かー!!
暁明ー! 助けてー!
叫んでも意味がないのに、必死に叫ぶ。もちろん、口に出すほどの度胸はないので、心の中で。
なぜ、陛下に私の正体がばれたのか。私はつい数刻前のできごとを思い出そうと、頭を必死に動かした。
――事件が起こったのは、柳が風にさわさわと揺れる初夏。城に忍び込んで、半月が経ったつい昨日のことだった。
私はいつも通り、薄鼠色の袍から女官の華やかな翡翠色の襦裙に着替え、こっそりと暁明のいる後宮に忍び込んだ。
暁明は運良く貴妃に取り立てられ、麗和宮という宮で侍女になっていた。個室が与えられ、割と贅沢な暮らしを満喫している。なんだかんだ、運と人にだけは恵まれる弟である。
そんな麗和宮は、なにやら騒がしかった。
侍女たちの慌てた様子から、今晩妃の元へ皇帝のお通りがあることを知った私は、急いで暁明の部屋に向かった。
「これから、陛下のお通りがあるのね」
「うん、そうなんだ。だから早く入れ替わらないと。雪玲、大丈夫? これから雹華妃は陛下と夕餉をとる。配膳も食後のお茶も、全部僕の仕事だからね。手順は分かってるよね?」
「うん、大丈夫、まかせて!」
胸を張りながらも、そういえば、と、私は気になったことを訊ねてみる。
「でもさぁ。なんで全部暁明がやるのよ。ほかにも侍女いるんでしょ?」
「それはそうだけど……」
暁明が口ごもる。
まさか、いじめられているのだろうかと、私は帯を巻きながら、ちらりと暁明をうかがい見た。しかし、暁明は戸惑うというより、少し照れたような顔をしている。
「なんか、雹華妃に気に入られちゃって」
「あらまぁ……」
口元がにやける。ちょっとからかってやろうかと口を開きかけると、それを察したかのように、暁明に帯を強く締め上げられた。
「うぐっ……ちょ、暁明! 苦しいっ!」
「雪玲、ちょっと太った? 宮廷料理食べ過ぎなんじゃない?」
ぎくり。
「そ、そんなことないよ」
「食べ過ぎはだめだよ」
「分かってる分かってる」
「お腹、鳴らしちゃだめだからね!」
「だから、分かってるって」
そして、暁明の部屋で無事入れ替わると、私はせっせと侍女としての勤めを果たすのだった。
その後、朝になると、私たちはまた入れ替わるために衣服を交換していた。
着替えながら、暁明に言う。
「昨日は皇帝陛下が来てたから、ちょっと焦ったよ」
「うん。でも問題なかったでしょ」と、翡翠色の襦裙をまとった、美しい青年がしとやかに笑う。暁明だ。相変わらず女装が良く似合う。
「さっきそこですれ違って、ちょーっとひやひやしたけどね」と、袍の丸衿を整えながら、私はそう返した。
「それにしても、雹華妃ってさ、なんだかすごく距離が近かったんだけど、いつもああなの?」
「あぁ……」
暁明が遠い目をする。
「うん、まあ」
吕雹華妃は、儚い感じの美女だ。暁明からは、気が弱く、お妃様の中では、化粧も衣服もそこまで着飾ることをしない人だと聞いていた。
しかし、それでもその美貌は別格で、暁明が仕立てた絢爛な襦裙を着せてみたところ、誰もが見惚れ、嘆息したという。
我が弟、よくやった。
雹華妃は元々陛下と良い仲らしいが、彼女のお父上は宰相ということで、陛下はその点も考慮して雹華妃を貴妃としたらしい。とはいっても、後宮とはありもしない噂が飛び交う場所でもあるので、信憑性は分からないが。
現に、私が見た限りでは、雹華妃はあまり陛下と良い仲のようには思えなかった。
「雹華妃は臆病なお方なんだ。後宮ではいろいろと言われているけど、実際には、陛下とか他の妃のこともあまり得意でないみたいだし」
「そうねぇ。でも、よくそれで人見知りの暁明が侍女になんかなれたよね」
すると、暁明は「あぁ」と頷いた。
「まだ部屋付きの侍女じゃなかったとき、雹華妃に会ったんだ。そのとき雹華妃、別の妃の侍女たちに影口叩かれてたんだけど、言い返すこともしないで、だんまりだったからさ。なんか悔しくて庇っちゃったんだよね」
「おおー勇敢」
いつもは私の後ろでめそめそ泣いてたくせに、と思ったけれど、黙っておく。
「なんだか、雪玲になってると思うと、少しだけ強くなれてるような気がして」
えへへ、と照れくさそうに笑う暁明。
「ちょっと待ちなさい。なんですって?」
今のは聞き捨てならないぞ。
「冗談だよ」
暁明はけろりと笑う。
「だから、雪玲のおかげでもあるってこと。ありがとう」
「まったく調子がいいんだから……」
まぁ、後宮で一番の妃に気に入られたみたいで良かったけれど。
「それにしてもさぁ。こうして入れ替わって身の回りの世話をしてみて、あらためて思ったけれど、お妃様って大変ね」
「そうだねぇ」
陛下の子を身篭ることが一番の仕事だが、それだけではいけない。人望も必要だし、賢さも必要だ。
食い意地を張っている暇はないし、唯一楽しい食事のときだって、常に毒が入っている可能性を考えなければならない。
妃って、なにが楽しいんだろう。
私は思わず遠い目をしてしまう。
「……私には絶対無理だわ」
「うん、無理だね。気品とかないし」
即座に、暁明が頷く。
「なんだと、こら」
素直に同意されると、なんだかいらっとくる。
「ごめんごめん。冗談だって。とにかく、僕たちには、この程度がお似合いだってことだよ。こうしてお妃様と陛下のために生きるくらいが、さ」
「そうね。ここなら美味しいものもたくさん食べられるしね!」
「そこなの?」
「そこでしょ!」
二人、顔を見合わせて笑い合う。
「まぁ、なんでもいいけどさ」
雹華妃は気弱だが、優しく聡明で、とても可愛らしい妃だ。私は夜の間しか彼女のことを知らないけれど、素直にそう思う。
野心剥き出しの妃なんかより、雹華妃のような、優しくて聡明な妃に出世してほしい。
「暁明、雹華妃のこと、しっかり助けてあげなさいよ」
「当たり前でしょ。僕の主なんだから」
暁明の思ってもみない返事に、私は一瞬面食らう。けれど、すぐに頬が緩んだ。
「へぇ……」
いつの間にか少したくましくなった弟に、私は思わず感心する。
「……な、なにさ?」
じっと見つめていると、暁明は怪訝そうに眉を寄せ、私を見る。
「いや、珍しいなって。暁明も随分気に入ってるんだね、雹華妃のこと」
「……そうかな」
暁明は、少しだけ恥ずかしそうに目元を赤らめ、ぽりぽりと頬をかいている。どうやら、我が弟にもようやく春が来たのかもしれない。
「もしや、恋か」
「ちち、違うよ!」
暁明の顔が、さらに赤くなる。私は小さく吹き出した。素直でなによりだ。
とはいえ、皇帝のものに手を出すのはご法度だ。もし万が一にでも暁明の想いが通じて雹華妃と良い仲になったとしても、陛下にばれれば死罪である。気弱な暁明にそんな度胸があるとは思えない。可哀想だが、弟の初恋が実ることはないだろう。
「ねぇ、暁明……」
「なに?」
「……いや」
牽制の言葉を言いかけて、口を噤む。
わざわざ言う必要もないことだ。それくらい、暁明も重々分かっていることだろうから。
「……ま、そのうちいいことあるだろうからさ! お互い頑張ろう!」
「う、うん……?」
きゅうっと帯をきつく締めて、長く伸びた髪を結うと、私は暁明を振り返って言った。
「とにかく、今日もよろしくね。私は暁明」
「僕は雪玲」
手と手をぱちんと合わせて、私たちは今日もまた入れ替わるのだった。
それから私は後宮を出て内廷に入り、外廊を歩いていた。ちょうど角を曲がろうとしたとき、突然人が現れた。慌てて立ち止まり、深々と頭を下げる。
「顔を上げよ」
声と態度に覚えがある。
顔を上げれば、そこにはやはりといった人がいた。薄紫色の生絹の衣を着た、端正な顔立ちの男だ。しゅっと鋭い輪郭に、まだ空に昇りきっていない太陽の光が当たっている。長い睫毛が目元に憂い気な影を落とし、男の美貌をさらに際立たせていた。
ふと、視線が絡み合う。
青白く澄んだ白目が、星空を宿した藍色の瞳をくっきりと縁取っている。その瞳には、小さな私が映り込んでいた。
相変わらず、美麗な人だ。
あらためてその美貌にうっとりしていると、背後に立つ大柄な武官に気付き、私は慌てて表情を引き締めた。
「これは、陛下」
時の皇帝陛下、蔡颯懍である。
まさかの鉢合わせだ。動揺が顔に出ないよう、なるべく表情を消して挨拶をする。
背筋が伸びる。声色も気をつけなければ。
「そなた、名は」
不意に名前を訊ねられ、心臓が跳ねる。
「……黎暁明と申します」
危うく本名を言いそうになる。
危ない危ない。ついうっかり口を滑らせるところだった。
「暁明。少しいいか。実は、そなたに話があるのだ」
「は……話?」
ちょうど良かったとは、なんだろう。
私は首を傾げながらも、陛下とお付きの武官の後に続いた。
陛下は執務室へ入ると、お付きの武官を下がらせた。
「えっと……これは?」
嫌な予感しかしない。
正真正銘、執務室に二人きりになる。これは、どういうことだろう。私はまだ官吏になりたてで、目立った成果もなければ、特別陛下の覚えがあるわけでもないのに。
「あの……陛下?」
声をかけると、陛下がくるりと振り返る。陛下はゆっくりと一度だけまばたきをする。
「そなた、昨日麗和宮にいたな」
どきり、と心臓が弾む。ばくばくと激しく鳴り始める鼓動に、全身から、冷や汗がぶわっと吹き出る。
「おかしいな。後宮は男子禁制のはずなんだが」
まずい。疑われている。なんとか誤魔化さなければ。
「……まさか、そんな。私はしがない文官でございます。陛下の花園に入るなど、そんなこと有り得ません」
すると、陛下は大きく一歩足を踏み出して、私に近付いた。耳元で、ひっそりと囁かれる。
「そなたと、雹華妃付きの侍女が入れ替わるところを見た。あの侍女、雹華妃の話では雪玲と言うらしいが。雹華妃はその雪玲という侍女のことを、いたく気に入っているようでな。会いに行くと、いつも私にその話をしてくるのだ」
冷や汗がだらだらと背中をつたった。
「……あ……はは。まさかまさかです。陛下が見られたのは、きっと私のそっくりさんです。昔からよく、女に間違われたりするので」
「ほう……そなた、私の間違いだと申すか」
「そ、そういうわけでは……」
目が泳ぐ。陛下の目が細められる。
いけない。無になれ、私!
「おかしいな。はっきりと、この目で見たんだが」
「う……」
ここにきて、上手い言い訳が思い付かないなんて。考えろ、私!
ぐるぐると頭の中をかき混ぜていると、陛下が音もなく立ち上がった。
「では、確かめよう」
「へ?」
「そんなに言うなら、今ここで確かめればよいのだ。脱げば分かることだからな」
陛下は目をすっと細めて、口角を上げた。
鬼とは、まさにこの男のことを言うのではなかろうか。
陛下の手は、躊躇いもなく私の袍にかかる。全身から、さーっと血の気が引いていく。
「まっ、ままま、待ってください!」
私は、慌てて陛下の手を掴んだ。
夜伽の覚悟はしてたけど、これは違う。なんか、めちゃくちゃに違う!
「なんだ? 男同士なら問題ないだろう?」
「おっ、男、同士……?」
「安心しろ。私に男色の趣味はない」
陛下の手に力が篭もる。私も負けじと陛下の腕を掴む手に力を入れた。
「じ、実は今、朝餉を食べたばかりでお腹が出ているのです!」
「……は?」
陛下は一瞬、ぽかんとした顔をした。
「そ、そんな見苦しい姿を、陛下の目に入れるわけにはいきませんから!」
「……ほう?」
陛下は氷のように冷たい視線で、私をじろりと睨めつけてくる。けれど、私もここだけは引けない。なにがなんでも男であると貫き通さなくては、我が身と弟が散ることになる。
「それにほら、陛下。男の服を脱がせるなんて気分もよろしくないでしょう? こういったお戯れは、後宮の妃たちにするべきです! 残念ながら、私は男ですので! しがない文官ですので!」
声がひっくり返るけれど、今はそんなことを気にしてはいられない。
「……この期に及んで、まだ言うか」
視線が刺さる。
「そそ、それともあれですか。陛下はそういったいたずらをするのがご趣味で!?」
「はぁ?」
心底不機嫌そうな顔つきで、陛下は私を見下ろした。
やばい。死ぬ。
さすがに、挑発が過ぎた。
「……いえ、あの、大変失礼いたしました」
だめだ。終わった。まさかこんなに早くばれるなんて。まだ宮廷料理を制覇してなかったのに……。
すると、頭上からため息が降ってくる。
「暁明、顔を上げよ」
陛下が言う。
「ひとつ聞きたい」
おずおずと顔を上げる。
なにを言われるのだろう。
「な、なんでしょうか……」
「なぜ、このようなことをした? ばれたら死罪だと分かっていたはずだろう」
目が泳ぐ。ここで認めたら、本当に終わりだ。私も、暁明も。でも、ここまできたら誤魔化せるような気はしなかった。
迷った挙句、私はどうせならと、まっすぐに陛下を見つめて言った。
「……賊に襲われ、両親と家を失いました。この先生き抜くためには、自分たちでどうにかするしかないと思い、勉強が苦手な弟の代わりに私が科挙を……」
どんどん尻すぼみになっていく。結局黙り込むと、陛下は呆れたようにため息をついた。
「それで、弟はそなたの代わりに女装をして後宮に紛れ込んだのか」
「……申し訳ありません……」
今さらだけど、私はしゅんと肩を落とす。
これからのことを考えると、ぞっとする。とりあえず、死刑は決定事項だ。私に化けている暁明もすぐに捕えられるだろう。
ごめん、暁明。まさかこんなに早くあの世に招かれるとは。
「……あの、陛下。これはすべて、私が企んだことです。弟は巻き込まれただけです。ですのでどうか、弟の命だけは……」
すると、おもむろに口を塞がれた。
「むぐっ!?」
「やめろ。それ以上は言うな」
目を丸くして陛下を見上げる。陛下は困ったような顔で、何度か私を見ては視線を逸らしを繰り返した。
そして、
「もう仕事に戻っていいぞ」
「え、あの……?」
首を傾げる。
どういうことだ?
「だから、そなたの説明に納得したと言っている」と、陛下が苛立ったように言う。
「へ?」
しかし、言葉の意味を理解できない私は、陛下に阿呆面をさらす。
「暁明、所属は」
「……中書門下省ですが……?」
「そなたは中書門下省の文官。ここへは、私のお付になりたいと私に直に打診に来ただけ。そうだな?」
「……は?」
理解が追いつかない。
陛下のお付になりたい?
私が?
……このお方は、一体なにを言っているんだ?
「だから、そういうことにしておいてやると言っているんだ」
私はきょとんと陛下を見つめたまま、首を傾げる。
「あの、それはつまり……?」
助かった……ということなのか。
「そなたは今日より、私付きの文官とする。近くに置いておく代わりに、しばらく単身での後宮への出入りを禁ずる」
「はぇ……?」
唇の隙間から、吐息のような声が漏れる。
「良かったな? 異例の大出世じゃないか。そうと決まったら、さっさと荷物をまとめて、紫水宮に来るがいい」
陛下はにやりと意地の悪い笑みを浮かべ、私を見下ろしている。
紫水宮とは、皇帝の住まいだ。その場所は、皇帝とごく一部のお付きしか入ることは許されない。
そこに、私が? 入居? え、出世……?
――ぴーひょろろろ。
空は抜けるように高く、澄み切っている。遠くで、鳶が鳴きながら旋回している。
「――はぁぁあああ!?」
どこまでも真っ青な空に、私の悲鳴が響き渡った。