籠を池から拾い上げて干し、別の籠を持ってようやく薬草園へとやってきた明琳は、クコの実や柿、それにこの時期に取れる薬草などで籠をいっぱいにして医局へもどってくる。
 そのあと諸々の雑事を終えると、すっかり夜になっていた。
 日がとっぷりとふければ、そろそろ太医先生が毎夜、皇太子のところへお持ちしている薬湯を作りだす時間だ。なんでも、皇太子は常日頃から激務をこなしていらっしゃるので、疲労回復のために薬湯を飲んでから寝るのが常なのだという。
 明琳が薬草用のすり鉢を布で拭いていると、薬湯を淹れ終えた太医先生がにこにこと目元を下げて明琳に声をかけてきた。
「誰を共にしようかと思ったが、よし、今日は明藍。お主に一緒に来てもらおうかの」
「え、わ、私がですか!? え、呂成さんは!?」
 思わずすり鉢を取り落としそうになるが、寸前で持ち直してことなきをえた。それでもまだ、なぜ自分に白羽の矢が立ったのかと目を白黒させる。
「呂成は用事があるとかで外朝へ行っておるんじゃ。明藍はまだ鳳凰殿へ行ったことがなかったから、ちょうどいい機会じゃろ」
 明琳は今朝見たあの凍り付くような視線を持つ冷皇太子のことを考えると、ブルっと身体が震えそうになる。
(心の底まで冷たそうな視線だったわよね、あれは……)
 人の視線には、親しみだったり、侮蔑だったりいろいろな色が籠るものだ。旅暮らしをして様々な人間と出会ってきた明琳は、幼い時からいろいろな視線にさらされてきたため人一倍視線のもつ色には敏感だった。
 だけど、冷皇太子のような視線は初めてだ。見下すでもない。侮蔑するでもない。ただそこにあったのは、無機質な冷たさだった。
(もう二度と会いたくないけど……太医先生がいっしょだったら大丈夫よね……うん、きっと大丈夫)
 皇太子のお相手は太医先生がなさるはずだ。自分はただ後ろに付き従っていればいいだけ。そう心を落ち着かせると、明琳は薬湯の入った急須と温めた湯呑を盆にのせて、鳳凰殿へ向かう太医先生のあとについていった。
 鳳凰殿へと向かう回廊には等間隔に松明が焚かれており、うす暗いながらも歩くのに支障はない。鳳凰殿の門の周りには何人もの兵士たちが警備のために立っていた。それが余計、明琳には怖く感じる。もし何か失敗をしでかせば、彼らの持つ大きな剣で切られてしまうのではないかとびくびくしながら門をくぐる。奥に堂々とたたずむ鳳凰殿が見えた。後宮にあるどの宮よりも大きくて豪華な作りをしている。
 鳳凰殿の中に入ると、まっすぐ続く廊下に深紅の絨毯が敷かれていた。
 途中の小部屋で毒見役の女官に薬湯を毒味してもらって、さらに先へと進む。
 廊下を進んだ先の一番奥。行き止まりとなっている場所にひと際大きな両開きの扉があった。扉は朱に塗られており、見事な鳳凰が二対彫り込まれている。
 そのまま扉の前で待っていると、しばらくしてガチャリと中から扉が開いた。
 年配の女官が出てきて、恭しく太医先生に挨拶をする。
「どうぞ。お入りください」
「うむ」
 太医先生に続いて、明琳も盆をもったまま扉の向こうに足を踏み入れた。
 広い室内に、上等な調度品。しかしそんなものより、明琳の視線はすぐに奥の長椅子に腰かけて書を読んでいる人物に釘付けになった。
 彼を目にするのは二度目だが、一度目はほんの一瞬視界に入っただけですぐにひれ伏せてしまったため、こんなにしっかりと彼の姿を目にしたのは初めてだ。その御身を視界に入れることすら恐れ多いと言われる至高の存在。
(冷皇太子……!)
 ただ長椅子に足を延ばして書を読みふけっているだけなのに、見る者をひれ伏せさせるような空気が漂う。王者の風格とはこういうものをいうのだろうか。
 黒豹を思わせる漆黒の黒髪。さらりと垂れた少し長めの前髪の下にのぞく瞳は、深い海の底を思わせるような深青色をしている。精悍な顔立ちは整いすぎているがゆえに、人あらざるものではないかと疑いたくなるほどの怖さを覚えた。
 しかも、いまは自室にいるためか緩やかな夜着をお召しになられていた。そのため、少しはだけた襟の間から鍛え上げた胸元が見えていて目のやりどころに困ってしまう。
 太医先生とともに二人が長椅子に近づくと、冷皇太子は書を閉じて視線をこちらに向けた。彼の傍らにはいつでも抜けるようにだろうか立派な長剣が立てかけてある。
 太医先生は冷皇太子と何か言葉を交わしていたが、明琳は盆をもったまま傍に控えているので精一杯だった。冷皇太子が恐ろしくてたまらない。
 太医先生に言われて長椅子の傍の台へ盆を置くときも、手が震えていた。一刻も早くこの場を立ち去りたいと頭の中でそれだけを願っていたのに、
「太医はもういい。そこの若いの。お前は残って肩をもめ」
 と、冷皇太子に言われてしまう。彼の深青の瞳がこちらを見ていた。ひっと心臓が縮み上がりそうだ。
 太医先生に助けを求める視線を向けたが、太医先生は、
「ほっほっほ。そうですか。じゃあ、私は戻るとします」
 と朗らかに言うと、明琳を残して帰ってしまった。
 取り残された明琳は、いまにも泣きそうだった。だって、冷皇太子と言われる相手と二人っきりなのだ。黒豹の檻に入れられたも同然だ。
「ほら、早くしろ」
 そう言いながら、冷皇太子は長椅子にうつぶせになった。本当に肩をもんでほしいようだ。皇太子の命令に背くなどあってはならない。そんなことしたら待っているのは死罪だ。
 泣きそうになりながら、明琳は冷皇太子に向き直る。
「し、失礼いたします!」
 声が裏返ってしまう。恐る恐る、夜着の上から彼の肩に触れた。
 しかし、彼の身体に触れた瞬間、明琳の手は慣れた動きで彼の強張った筋肉をほぐしていく。
 昔からよく、父の肩を揉んでいた。病で身体が強張った患者たちの筋肉を何度も揉んでほぐしたりもしたこともある。
 そんなことを思い出しながら丹念にもみほぐしていく。
 冷皇太子の肩はとてもしなやかな筋肉がついている。しかし主に右側にところどころ凝りがあるのは、執務によるものだろう。普段彼がどのように執務をしているのか見たことはないが、沢山の書類をよみ、手紙などを書き、印を押す姿が目に浮かぶ。きっと右利きに違いない。凝っているところを中心に肩と首、それに背中をもみほぐしていくと、始めは少し緊張していた彼の身体も明琳の手に身体をゆだねてくれる。
 明琳の彼に対する恐怖感も、それに合わせて徐々に薄らいできた。
 静かな時間が部屋を満たしていた、そんなとき。
 冷皇太子がふいに顔をあげる。
「お前、いい手つきをしてるな。不覚にも寝てしまいそうになった。だが」
 彼は素早い動作で起き上ると、パッと明琳の手を掴んだ。咄嗟のことに逃げることなんてできなかった。
「きゃっ……!」
 思わず、そんな言葉が口をついて出てしまう。
 突然のことに驚きと恐怖で混乱しそうになる明琳に、彼はぐいっと顔を近づけた。
「この手のやわらかさは女だろ。なぜ、宦官の姿をしている? どうやって入り込んだ」
 彼の言葉で、明琳の頭の中が真っ白になる。
 バレてしまった。よりにもよって、最も恐ろしい冷皇太子に女だということを知られてしまった。
「この後宮で性別を偽るのは死罪にあたるのは知っているな?」
 彼の深青の瞳がまっすぐに明琳を見ていた。鋭く射るような瞳に、ガタガタと足が震えそのまま地面にへたり込むようにして、明琳は床に頭をつけた。
「も、も、もうしわけ、ございません……!!」
 今にも彼が傍らに置いている剣で、首を切られてしまうのではないかと恐ろしくてたまらない。
 しかし、彼は責めるでもなく、
「いますぐどうこうしようとは思わんから、お前がそんな姿でいる理由を話せ。とりあえず顔をあげろ」
 彼は長椅子に座り直して足を組むと、ただ不思議そうにそう尋ねてくる。
 顔をあげろと言われればあげないわけにはいかない。
 明琳は顔をあげると、ここに来るまでの事情を彼に正直に話した。旅暮らしで医師の父を手伝っていたこと。父の死。天涯孤独の身となった自分には医術と薬の知識しかなく、父の紹介状をあてに仕事を探しているうちにここにたどり着いたこと、など。
 冷皇太子は明琳の話を黙って聞いていた。
「……それが、私がここにいる理由のすべてでございます」
 声が震えていた。つい怖ろしくてうつむきそうになる明琳の顎を、冷皇太子はくいっと指で上向かせる。じっと数秒、見つめられた。
「お前、名は何という」
「め、明藍でございます」
「ちがう。それは男の名だろう。本当の名を聞いている」
「明琳……です」
 正直にそう言うと、冷皇太子は「明琳。そうか……」と口の中でつぶやいた。
「お前は何のためにこの後宮にいる」
「な、なんのために……ですか?」
 少し考えてから、明琳は素直に言葉を返す。
「……生きるため、でございます」
 その言葉を聞いた冷皇太子は、じっと明琳を見つめた後、ふいに明琳の顔から指を離した。ほっと明琳は息を漏らす。その明琳の耳に届いたのは予想外の言葉だった。
「わかった。お前の罪を見逃してやろう」
「……え?」
 驚く明琳に、冷皇太子はにやりと片方の口端をあげた。
「そのかわり、一つだけ条件がある」
「条件……ですか?」
「そうだ。これから毎晩、お前ひとりが薬湯を持ってこい。いいな」
 それは意外な条件だった。これから毎晩、明琳が一人で薬湯をもってくるならば、宦官と偽って医局で働いていることも後宮にいることも罪には問わないという。
「は、はい……」
 なぜ彼はこんなことを言うのだろう。その意図を測りかねて困惑しながらも、明琳はこくりと頷く。その明琳の頭にポンと何かが載せられる。数秒遅れて、それが冷皇太子の手だとわかり明琳は固まった。しかしその明琳の様子がおかしかったのか、彼は小さく笑みをこぼした。
「とって喰いはしないから、そんなに怯えるな。またお前に肩をほぐしてほしいだけだ」


 それから、夜の薬湯運びは明琳の仕事になった。
 それから数日はただ薬湯を部屋に置いてくるだけですぐに返されたが、一週間ほどたったある夜。
 いつものように鳳凰殿に薬湯を持っていくと、すぐに長椅子の端に座るよう言われる。
 びくびくしながら薬湯の盆を台に置いて、言われた場所に腰を下ろす。
 すると、冷皇太子がそばまでやってきたかと思うと、長椅子の上にごろんと横になった。彼の頭が、明琳の膝の上に乗る。膝枕というやつだ。
(え……え……!?)
 内心慌てて身体を硬直させるが、しばらくしてすーすーという寝息が聞こえてきた。
(えええええ!? 寝てらっしゃる!?)
 自分のいまの状況がどういうことなのか分からず慌てながらも、動くこともできずにただ枕としての役割に徹した。
 整った端正なお顔が膝の上にある。寝入ったお顔は、あの冷皇太子とは思えないほど無防備に見えた。冷皇太子はたしか御年24歳。16の明琳とは8つもちがう。だけどなぜだろう。寝顔を見ていると恐怖感は薄れ、なんだか守ってあげたくなるようなそんな不思議な感覚に襲われる。
 さらさらの前髪が目元にかかっていた。これはうっとうしいかもしれないと思い、つい彼の無防備な寝顔に油断した明琳は、指で彼の前髪をはらった。
 そのとき、彼がぱちりと目を開けて深青の瞳で明琳を見上げた。
「ひっ、も、もうしわけありませんっ」
 血の気が引く明琳だったが、冷皇太子はくっと喉を鳴らして笑った。
「そんなことは別にかまわんが、それより俺の寝首をかかなくていいのか? 一番のチャンスだったのだがな」
「な、なにをおっしゃられているんですか!?」
 訳がわからず明琳は語気をわずかに強めた。なぜ、自分が冷皇太子の寝首など狙わなければならないのか。
 冷皇太子は身体を起こすと、明琳の隣に座りなおす。
「言葉どうりのことだ。この後宮には、俺に取り入りたいやつか、俺を目障りに思って殺したいやつのどちらかしかいない。お前がその後者かと思って様子をうかがってみたんだが、やっぱり違うのか?」
 冷皇太子は、不思議そうな表情で明琳を見る。
 やっぱり、もなにも、明琳にそんな不敬な気持ちなど微塵もない。
「……そんなつもり微塵もありません。私は単なる医師手伝いです」
 そう答えるのが精いっぱいだった。冷皇太子はまだ明琳を観察するように見ていたが、やがて一つため息をついた。
「お前はこの前、この後宮にいるのは生きるためだと言ったな」
「は、はい……」
 こくりと頷く。もしかして宦官として偽って後宮にいることをやっぱり罰したくなり、先日の話を蒸し返してきたのかと明琳はびくびくしていたが、冷皇太子は静かな瞳でじっと明琳を見つめた。
 こうして二人だけでおそばにいると、なぜだろう。
 蓬莱池で彼の視線から感じた冷たさや無機質さをまったく感じない。同じ深青色の瞳なのに、いまは春の日の凪の海のように静かな暖かさを感じるのだ。
 その瞳に見つめられると、つい明琳も目が離せなくなる。
 冷皇太子は真摯に明琳を見つめながら言った。
「俺もお前と同じだ。ただ生きるためにここにいる」
「……え? 同じ、でございますか?」
 どういうことだろう。明琳には、後宮の最下層に位置する自分と、後宮を統べるものとして君臨する彼とが同じだと言われてもまったく意味がわからなかった。
 戸惑いを浮かべる明琳に、冷皇太子は口元へ小さな苦笑を浮かべる。
「この後宮には、いやこの李龍城には俺に取り入りたいか、俺を殺したいやつしかいないと言っただろう。誇張でもなんでもない。ここには四夫人をはじめ李国の重鎮たちが娘を差し出している。自分たちの一族のより一層の栄華のため、娘に俺との子をなさせようと虎視眈々と狙っている。かと思えば、俺の存在を疎ましく思う一派もいる。主に俺の義母の一派だな。弟はまだ幼いが、次期皇太子にと推すやつらがいる。お前がどちらの一派の手のものなのかここ数日で調べさせたが……お前がどことも関わりがないことがわかった。お前、本当に天涯孤独な孤児なんだな」
「う……」
 いまさらながら、天下の冷皇太子にそれを指摘されるとは思わなかった。返答に困っていると、突然彼に腰へ手を回され、引き寄せられた。身体同士が密着し、すぐ間近に彼の顔があった。神の手によってつくられたかのように端正で、それでいて意志の強さを感じる目元。強く見つめられて、明琳の視線は吸い寄せられるように彼を見つめ返した。
「まあいい。誰のものでもないのなら、俺のものになれ」
「殿下のものに……ですか? で、でも後宮のものはすべて殿下のものだと教えられて……」
 ここに来てすぐに太医先生から教えられたのだ。この後宮のものはすべて、人も物もみな皇太子のものなのだと。
 しかし、明琳の言葉に皇太子はハハと笑った。
「そういうのじゃなく、俺個人のものになれと言っている。皇太子じゃなく、永翔(えいしょう)のものにな」
「永翔様のものに……」
 初めて知った、彼の名前。
 口の中で彼の名を繰り返すと、冷皇太子……いや、永翔はふわりと嬉しそうに頬を緩める。その表情に、不覚にも明琳の心はトクンと大きく高鳴った。
「ああ。俺のことを名で呼ぶものはいない。唯一呼んでくれた母ももうとっくに亡くなった。だから、お前が呼んでくれ。お前だけに許す。そのかわり、俺にもお前のことを明琳と呼ばせろ」
「え、で、でも……」
 明琳と呼ばれると女であることがバレてしまう。それはまずいとあわあわする明琳の様子が面白かったのか、永翔はくくくっと楽しそうに喉を鳴らす。
「二人のときだけだ。人払いしてあるから、心配するな」
 そう言うと、永翔は明琳の背中に手を回して優しく抱きしめた。冷皇太子と呼ばれる彼の身体は、その言葉とは裏腹にとてもあたたかい。いつまでもこうしていたいと、明琳はつい願いたくなるのだった。


 それからというもの、明琳は毎夜、鳳凰殿に薬湯をお持ちするのが待ち遠しくなる。
 あれだけ恐ろしかった鳳凰殿に向かうのが楽しみでたまらない。医局で仕事をしながらも早く時間が過ぎればいいのにと願っていた。
 永翔は、ときどき強引な面もあるものの、明琳のことを大事にしてくれているのが言動の端々からうかがえた。それが明琳には何にも代えがたく嬉しかった。
 薬湯をお持ちして永翔が人払いをしたあとは、互いを名前で呼び合い、他愛もない話に花を咲かせる。いつも執務で忙しい彼の肩や背中の凝りをほぐしてさしあげるのもまた、明琳の大事な仕事の一つとなっていた。
 とはいえ、鳳凰殿に薬湯をお持ちするのは皇太子が寝る前の時間帯だ。つまり深夜になることが多い。そのため、明琳は宦官用の食堂で夕食を済ませたあと、医局に残ってやる仕事がない日はいったん自分の部屋に戻って待機していることもあった。
 今夜もそうで、明琳は自室に戻ると文机に小さな蝋燭を灯して、本を読んでいた。医局には医術や薬に関する貴重な本がたくさんある。それを勉強のために借りてきて読み進めているのだ。夢中で読み進めていたが、しばらくして目に少し疲れを感じて、ふぅと息を吐きだした。
 文机の引き出しをそっと引き出す。そこに入っていた小袋を手に取り、中のものをとりだした。それは父から受け継いだ緑白色の石のペンダントだった。翡翠のようにも見えるが、この石、不思議なことに明琳が手に取ると輝きだすのだ。白濁していた色も透明感を増し、ふわりと明るく輝いている。そのうえ、石の中ではキラキラと金粉が舞うように煌めくので、明琳はこの石の輝きをみるのが好きだった。
 昔、この石が何なのか調べてみようと思ったこともあったが、父にみつかってしまいひどく叱られたことがあった。普段穏やかで怒るところなど見たことがなかった父が、このときばかりは「これは絶対に人に見せてはいけない大事なものなのだ」と言って、珍しく声を荒げていたっけ。
(でも、一人でたまに見るだけならいいわよね)
 この輝きを見ていると、父との過酷ではあったが楽しかった旅暮らしを思い出す。
 そのとき、コンコンと明琳の部屋の戸が叩かれた。
「は、はい!」
 明琳は慌ててペンダントを小袋に入れると、引き出しにしまった。
 戸を開けると、立っていたのは医局の人間だった。明琳よりちょっと前に入ったという若い宦官だ。
「何の御用でしょうか」
「太医先生がお呼びだ。皇太子殿下が戻られたらしい」
「わ、わかりました!」
 慌てて医局へ戻ると、ちょうど太医先生が皇太子のための薬湯を作り終えたところだった。
「やぁ、ちょうどよかった」
「いますぐ、お持ちします!」
 せっかく作った薬湯が、冷めてしまったら大変だ。
 明琳は薬湯の急須を載せた盆を手に取ると、すぐに鳳凰殿へと向かった。
 しかし、皇太子の部屋へ来てみたものの、部屋はぼんやりと明かりが灯るのみ。永翔の姿はどこにもなかった。
「皇太子殿下、薬湯をお持ちしました……」
 鳳凰殿のどこか別の部屋にいらっしゃるのかなと思いながら盆を台に置いたとき、後ろから誰かに抱き着かれた。
「きゃっ!」
「待ってたぞ。俺の明琳」
「で、殿下……!」
 驚いてついそう呼ぶと、永翔は少し不服そうに返してくる。
「ここでは俺のことは何て呼んでくれるんだったかな?」
 背中から包み込まれるように抱き着かれ、彼の腕の中にすっぽりと入り込んでいた。彼の鼓動がすぐ間近に聞こえてくる。
 さっきは驚いて心臓が口から飛び出しそうだったが、いまは別の意味でドキドキと鼓動が暴れてしかたがない。
「え、永翔様……です……」
「お前になら、呼び捨てにされても構わんがな」
 耳のすぐ間近でそう囁かれる。
「そんな恐れ多いことできませんっ」
 明琳が慌てて言うのに、永翔はハハと笑って応えた。
「他の誰も聞いてやしない。ここにいるのは俺とお前だけだ」
 彼は明琳を離して部屋の奥へと歩いて行く。彼から解放されてホッとする反面、彼のぬくもりを少し恋しく思った。
 永翔は青磁でできた大きな菓子皿を手に戻ってくると台に置き、長椅子にどかっと腰を下ろした。
 彼が手を差し伸べてくるので、明琳はその手を取って隣に座る。
 台に置かれた菓子皿には、ごつごつとした焦げ茶色の皮の果物のようなものが山盛りになっていた。
「これは……?」
茘枝(れいし)という、南方の国でしか採れないという実だ。今日、外国の使節団が持ってきた土産の一つだ。傷みやすいからなかなか手に入らないが、南国では貴族の女性たちはみなこの茘枝を好んでよく食べるという。それを聞いたら、お前に食べさせてやりたくてたまらなくて、執務を大急ぎでこなして持ってきたんだ」
 なんと! 明琳にこの茘枝を早く食べさせたいがために、こんなに早く鳳凰殿に戻ってきたのだという。
「こうやって食べるんだ」
 永翔は茘枝の実を一つ手に取ると、目の前で剥いて見せた。中からは閉じた花びらのような美しい白色の実が出てくる。それを永翔はぽんと自分の口に入れた。
「うん。急いだかいがあった。まだみずみずしいな。ほら、お前も食べてみろ」
 永翔に勧められて、明琳も茘枝を一つ手に取る。一見堅そうな見た目をしていたが、ちょっと爪を立てればパラパラと焦げ茶色の皮は向けて、中から白い実がでてきた。
 ぱくりと一口で口に入れてみる。噛んだ瞬間、じゅわっと甘い果汁が口の中に広がり、それと同時にふわりと花のように芳醇な香りが鼻に抜ける。
 今まで食べたことのない味わいだった。
「どうだ? 美味いか?」
 永翔に聞かれ、明琳はこくこくと何度も頷いた。永翔の顔にもパッと笑みが広がる。
「そうか。ほら、もっと食え。全部お前が食ってもいいぞ」
 ご機嫌で勧めてくるので、明琳はお言葉に甘えてもう一つ実をとる。永翔の深く青い瞳が、やさしく明琳を見つめていた。
 ここにいると、彼が冷皇太子と陰で呼ばれていることなんてまるで嘘のように思えてくる。
 彼がたくさんの茘枝が乗った菓子皿をここまで運ばせたなんて、きっと他の人が見ていたら驚いたことだろう。そんなに茘枝がお好きなのかと、今後、南国から大量の茘枝が届くかもしれない。そんな絵を想像してしまって、くすりと明琳は笑みを零す。
(でももし、その優しさや、朗らかなお人柄をもっと他の人にも出していたなら、陰口を叩かれるようなこともないだろうし、彼の評判ももっと上がるだろうにな……)
 ついそんなことを考えながら彼の瞳をじっと見ていると、彼は「ん?」という顔をした。
「どうした?」
「……い、いえ。その、とても美味しいのですが、私一人ではこんなに食べきれないので他の妃嬪様たちにもお分けしたらどうかとふと思ったんです」
 そう明琳が言ったとたん、それまで優しかった永翔の瞳に固さが宿る。
「……それは、できんのだ」
「そうなの……ですか?」
 何か事情があるのだろうか。彼が正妃を選ばず、四夫人をはじめとする後宮に集う妃嬪たちの誰とも夜を共に過ごさない理由ともつながっているのだろうか。
 永翔は、ぱりぱりと茘枝の皮を剥くと、
「口を開けてみろ」
 と、明琳に言う。明琳が言われたとおりに口を開けたら、その中に茘枝の実を入れられた。驚いて目を白黒させてもぐもぐと口を動かす明琳を、永翔は微笑ましそうに眺めながら語り始めた。
「この国にはかつて、『五家』と言われる有力貴族があったことはお前も耳にしたことがあるだろう」
 明琳はまだもぐもぐしながら、こくりと頷いた。
「だが、俺の祖父。前皇帝が、五家のうちの二家。軍に強い影響力をもつ伯家と、商いで莫大な富を築いていた泉家の口車に乗り、当時五家の中でもっとも力をもち五家筆頭といわれていた『朴家』を謀反の罪で潰したんだ。朴家は優秀な文官や医官を輩出する家柄だった。政の中心にいた朴家一族たちをことごとく処刑して排斥し、一部は国外追放となった。分家の中でも下位のものたちはいまも下位文官として李龍城で働いてくれているが、肩身の狭い思いをしていることだろう。優秀な者も多いのにな」
 ごくんと明琳は茘枝を飲み込んだ。永翔の話は、まだ続く。
「その後、朴家のものたちが謀反を企んでいたことなど事実無根だったことがわかったんだ。そのころには、優秀な文官医官たちを失ったこの李龍城はガタガタになっていた。いまもその傷跡は大きい。前皇帝は死の床につく直前まで、悔やんでらしたよ。すまないことをした、と。それを傍で見てきたから俺は、どこの家門にもくみしたくないのだ。正妃をもらったり、子をもうけたりということは、その家門と近しくなるということだ。そうなるとまた家門同士の争いを招きかねない。もし次にまた朴家のようなことが起きれば、この李国はおしまいだ。跡取りのことは皇族の分家の中から優秀な者を選んでもいいとも考えている」
 彼が正妃を選ばず、どの妃嬪とも夜を共にしないことに、まさかそんな深い理由があったなんて思いもしなかった。そこでようやく、蓬莱池で見た妃嬪たちに向ける彼の瞳の無機質さの意味に気づいたのだった。あれは、誰のことも寄せ付けないための鉄壁の演技だったのだ。
 こんなに沢山の人の中で暮らしているのに、誰からも気づかれない彼の演技。それはなんて見事で、そして孤独なものだろう。
 でも、ただ一人、明琳だけがその演技の意味を知ったのだ。
「そんなに重いものを一人で抱えてらっしゃったんですね……」
 ふぅと吐き出すように呟く明琳に、永翔は長椅子から立ち上がるとすっと手を差し出した。
「でもお前だけは別だ。俺の明琳。お前だけいれば、俺は皇太子として今まで以上に役割を立派にこなしてみせる。だから、これからも俺の傍にいてくれ」
 そう言いながらも彼の瞳は不安そうに揺れる。きっと明琳がどういう反応を示すのか不安なのだろう。
 明琳は彼を見上げ、ふわりと笑みを浮かべると彼の手に自分の手を重ねた。
「はい。明琳はずっと、永翔様のおそばにおります」
 彼の瞳が一瞬泣きそうに揺れたかと思うと、彼の胸へと引き寄せられて強く抱きしめられた。
「ありがとう、明琳」
「はい。永翔様」
 お互いの存在を確かめ合うようにぎゅっと抱きしめあった二人。
 その日、二人ははじめて彼の寝台で夜を共に過ごしたのだった。