ラーメン屋『小池亭』は、小笠原先輩が通っていた高校の近くにありました。

 土曜日なので店内に学生服の子はいませんでしたが、普段はそういう子たちで賑わっているのでしょう。入口近くの本棚に置いてある漫画本のラインナップや、学生証提示で受けられるサービス一覧を書いた張り紙からそれが分かります。店の造りはカウンターとテーブル席に分かれたどこにでもあるラーメン屋で、食券機はなし。素朴でエネルギーのある、小笠原先輩の好きそうな店です。

 四人がけのテーブルに座り、メニュー表を見てわたしと長野先輩と安木先輩の頼むものを決めます。船井先輩が頼むものはもう決まっています。そわそわと小刻みに身体を揺らし、定期的に深呼吸をする船井先輩は、はっきり言って挙動不審でした。大丈夫かな。素直にそう思ってしまいます。

「いらっしゃい」

 いかつい顔に口ひげとあごひげを生やし、頭に店名の入ったバンダナを巻いた男性が話しかけて来ました。ラーメン屋店主という情報から想像していた通りの人が現れて、わたしはちょっと笑ってしまいそうになります。長野先輩もそうだったのでしょう。目の前の人が電話の相手だと決まったわけではないのに、確認を飛ばして話を進めました。

「はじめまして。小笠原くんの友人の長野です。よろしくお願いします」
「君が長野さんか。じゃあそっちが小笠原の彼女ってことだな」

 男性が長野先輩から、その隣のわたしに視線を移しました。そして続けてわたしの向かいに座る安木先輩を見やります。

「お前が安木だな?」
「はい」
「ということは……」
「俺が、チャレンジャーの船井です」

 安木先輩の隣で、船井先輩が自分の胸をどんと叩きました。威勢の良さを見せつけたつもりなのでしょう。しかし男性は乗ってくることなく、苦笑いを浮かべて長野先輩に話を振ります。

「じゃあ、注文頼む」
「私は味噌ラーメンでお願いします」
「わたしは醤油で」
「僕も」

 長野先輩、わたし、安木先輩の順に注文を済ませます。男性がボールペンで伝票を書き込みながら、わたしたちの注文を繰り返しました。

「味噌一つ、醤油二つ」男性が船井先輩を見やります。「ジャンボ一つ」

 船井先輩が無言で大きく頷きました。男性は特に何の反応もせず、伝票を持ってカウンターの中に引っ込みます。長野先輩が船井先輩に「もうちょっとリラックスしたら?」と声をかけ、船井先輩は「してる」と表情筋を動かさずに答えました。少なくともわたしの目には、とてもリラックスしているようには見えません。

 第一の試練は、ジャンボラーメンチャレンジでした。

 電話の相手は小笠原先輩が高校生の時に通っていたラーメン屋の店主で、小池さんという方でした。ラーメン大好き小池さんという有名なキャラクターがいて、そのキャラクターと絡めて周りから色々言われているうちにラーメンを意識し、気がついたらラーメン屋の店主になっていたという不思議な経歴の持ち主。小笠原先輩はそのエピソードがとても気に入ったらしく、「小池さんには小池さんに生まれて良かったと思って貰いたい」と友達を何人もお店に連れてきていたそうです。

 そしてその小池さんのお店『小池亭』の名物が、三十分で食べきったら無料になるジャンボラーメンです。完食したら名前が店に張り出される名誉を求めて男の子たちが次々と挑戦し、大半は見るも無残に散っていったとのこと。小笠原先輩も散った戦士の一人でした。そして時は流れ、大学生になってお店に現れた小笠原先輩は、普通の醤油ラーメンを食べながら小池さんに言いました。

 俺の今の友達なら、あのジャンボラーメンをクリアできると。

 その時は、それ以上の発展はありませんでした。話が進んだのはつい最近、小笠原先輩が再び現れてから。自分の命が残り少ないことを語り、没後に友人を寄越すから対応して欲しいと頼まれたそうです。小池さんはその頼みを一も二もなく引き受けました。頼み事だけをして、ラーメンを食べないで帰って行ったのが本当に悔しかったと、今にも泣きそうな声で語っていました。

「お待ちどう!」

 小池さんが戻ってきて、ラーメンをテーブルに置き始めました。まずはわたしと安木先輩の醤油ラーメン。そして長野先輩の味噌ラーメン。最後に、船井先輩のジャンボラーメンです。

 長野先輩が「バカじゃないの?」と率直な感想を述べました。

 四つ並んだラーメンの器を見て、わたしは太陽系をイメージしました。船井先輩のジャンボラーメンが太陽、それ以外が火星とか地球とかです。初めにジャンボラーメンがあり、その周りを普通のラーメンが回っている。そんな普通ラーメン動説を唱えたくなるような主従関係を器のサイズ差から感じました。わたしと長野先輩と安木先輩のラーメンを全て足しても、船井先輩のジャンボラーメンの量に到底届きそうもありません。

「食べられる?」

 安木先輩が素朴な疑問を口にしました。船井先輩は固まって答えません。今になって考えてみると、船井先輩ならいけると判断したのは小笠原先輩です。何の根拠もない適当な判断という可能性は事前に考慮しておくべきでした。

「スープは飲み干さなくていい。じゃあ今から三十分、始めるぞ」

 小池さんがラーメンと一緒に持ってきたデジタルタイマーを動かしました。船井先輩が割り箸をスープの海――本当に、海と呼ぶに相応しい量です――に沈めます。わたしは船井先輩を応援したい気持ちはありつつ、応援したところで何がどうなるわけでもないので、とりあえず自分の醤油ラーメンに箸をつけました。

 五分後。

 わたしたちはまだ、誰も食事を終えていませんでした。ジャンボラーメンに至っては減っているか減っていないかも分かりません。長野先輩が「味噌おいしいよ」と言うので少しシェアし、本当においしかったので幸せな気分になりました。

 十分後。

 長野先輩がラーメンを食べ終えました。男性の安木先輩より早いですが、安木先輩が遅いだけで長野先輩が特別に早いわけではないと思います。わたしは安木先輩と同じぐらいのペースで食べ進めていました。ジャンボラーメンは見ていて「減ってきたかな?」と感じる具合の進行度でした。

 十五分後。

 わたしと安木先輩がラーメンを食べ終えました。長野先輩は一足先にラーメン屋の漫画本を読んでいます。船井先輩は顔を真っ赤にしてジャンボラーメンをすすっていました。時間を考えると半分は食べ進めていないとマズいのですが、わたしの目には八割ほど残っているように見えました。

 二十分後。

 船井先輩は何だか泣きそうになっていました。ラーメンを食べて泣く人は今まで見たことがなく、わたしはハラハラしながら船井先輩の様子を見守っていました。長野先輩は変わらず漫画を読んでいました。安木先輩はスマホでラーメン早食いの情報を調べ、船井先輩に「序盤の熱いうちはペース落とした方がいいらしいよ」と今さらすぎるアドバイスを送っていました。

 二十五分後。

「……はあ……はあ……」

 ジャンボラーメンの器を見つめ、汗だくの船井先輩が肩で息をしています。雰囲気はマラソン後のランナー。つまり、走っていません。しかし右手は割り箸を離しておらず、まだ走る意志は消えていないのも伺えます。

「もうちょっとですよ!」

 立ち止まった船井先輩を鼓舞します。実際、もうちょっとではあります。そのもうちょっとでもわたしが十五分かけて食べた量を越えていそうですが、その点に目を瞑ればクリアは目前です。目を瞑れる話ではないという点にも目を瞑り、わたしはひたすら漫画を読み続けている長野先輩に声をかけました。

「マイさんも応援してあげて下さい」
「えー」

 漫画本から顔を上げ、長野先輩が露骨に嫌そうな顔をしました。そして刻一刻とゼロに近づいているタイマーのデジタル表記とジャンボラーメンの残りを見比べ、あっさりと結論を下します。

「無理じゃない?」
「そんなこと言わないで下さいよ!」
「そう言われても、頑張ってどうにかなることとならないことが……」
「無理じゃない」

 船井先輩の低い声が、わたしたちの会話を遮りました。

 タイマーが残り三分を切りました。船井先輩が深く息を吸い、そして吐きます。厚い胸板が上下し、ただでさえ大きな船井先輩の身体がより大きく見えます。

「無理じゃない。俺はやれる。小笠原、見ていてくれ」

 死ぬんですか? そんな不謹慎なことを聞きたくなるぐらい、船井先輩の表情は鬼気迫っていました。船井先輩が箸を構えて大声で叫びます。

「行くぞおおおおおお!」

 箸がスープに沈みました。大声に釣られ、店中の視線が船井先輩に集まります。中には自分の席を立って見に来ている人もいました。恥ずかしくなって肩をすくめるわたしをよそに、船井先輩は一心不乱にラーメンを食べ進めます。

「兄ちゃん、頑張れ!」
「もう少しだぞ!」

 ギャラリーから声援が上がり始めました。そうしている間にもタイマーの時間は減り続けています。残り十、九、八、七、六、五、四、三、二、一。

 ピピピピピピ。

 電子音が、戦いの終わりを告げました。船井先輩がゆっくりと顔を起こします。そして右の拳を高々と掲げ、雄叫びを上げました。

「食ったああああああ!」

 ギャラリーから歓声と拍手が上がりました。洗面器のようなジャンボラーメンの器には、まるで飲み物のように茶色いスープだけが並々と注がれています。正確に言うとモヤシやネギの切れ端のようなものは浮かんでいますが、クリア判定を出しても問題なさそうな程度です。

「おめでとさん」

 小池さんが船井先輩にねぎらいの言葉をかけました。そしてズボンのポケットから封筒を取り出して手渡します。

「小笠原からだ。受け取れ」
「第二の試練ですか」
「知らん。開けてないからな。ただ、俺の役割はここまでだ」

 小池さんが満足そうにあご髭を撫でました。そしてわたしたち全員を見やり、大きく顔を崩して笑います。

「小笠原は昔から、何をしていても楽しそうなやつだったけど」ほんの少し、声量が下がりました。「君たちの話をしている時は、特に楽しそうだったよ」

 ちくりと胸が痛みました。小池さんがタイマーをポケットにしまい、ジャンボラーメンの器を抱えて厨房に戻ります。ギャラリーの方たちも同じようにわたしたちの周りから離れる中、船井先輩が席に座り直して封筒をわたしに差し出しました。

「はい」
「……わたしが開けるんですか?」
「俺、不器用だから」

 わたしだって器用ではありません。文句を言いたくなりましたが、ジャンボラーメンチャレンジを達成した船井先輩の功績に免じて引き下がります。とはいえ二通目ともなると、遺書とはいえ扱う側の気持ちもだいぶ楽です。封筒を開いて中から紙を取り出し、テーブルの上に広げます。

『第二の試練』

 予想通りの文言の下に、前とは違う十一桁の番号が続いています。長野先輩が「今度はわたしが電話するね」と言ってスマホを取り出しました。その役割はちゃんと交代するんだと、微妙に納得のいかないものを感じます。

 さんざん騒いでおいて今さらではありますが、お店の中なのでスピーカーモードにしてみんなで話を聞くことは出来ません。長野先輩にやりとりを任せます。見る限り話は通じているようでした。小笠原先輩の名前がちょくちょく出てきて、特に引っかかっている様子もありません。

「はい。では、今から伺います。よろしくお願いします」

 長野先輩が電話を切りました。誰が出たのか。相手は小笠原先輩とどういう関係だったのか。第二の試練はいったい何なのか。無数にある聞きたいことの中から、船井先輩は自分たちがこれからやるべきことを一番に尋ねます。

「どこに行けばいいんだ?」

 長野先輩が振り向き、質問に答えました。

「ゲーセン」