余命半年の小笠原先輩は、いつも笑顔なんです

「それでは、新郎新婦のご入場です!」

 船井先輩の声が目の前のドアを震わせました。まもなくドアが開き、わたしは小笠原先輩と腕を組んでバーのフロアに歩き出します。来賓用の客席はほとんど埋まっており、わたしは拍手の嵐に思わず尻込みしそうになりましたが、小笠原先輩は得意気に笑って余裕綽々といった様子でした。

 床に敷かれている赤絨毯の上を歩き、テーブルにシーツをかけて作った高砂に辿り着きます。わたしたちが高砂の後ろに座り、拍手の音が会場から消えると、船井先輩が式の始まりを高らかに宣言しました。わたしはごくりと唾を飲み、とりあえず姿勢だけは良くしようと背筋を伸ばします。

 まずは新郎の挨拶。小笠原先輩は「パーティ楽しんでね」ぐらいのことをすごくゆるい感じで語りました。次は新婦の挨拶。わたしは「よろしくお願いします」ぐらいのことを全身カチコチになって語りました。

 そしていよいよ、わたしたちのサプライズが発動します。

「新郎、新婦、ありがとうございました。では続きまして、仲人の方からお祝いの御言葉を……と言いたいところですが、残念ながらこの結婚式に仲人はおらず、親族も来ておりません。ですが新郎に縁深い方々から、ビデオレターという形で祝言を受け取っております」

 船井先輩がこちらをちらりと見やりました。小笠原先輩の様子を確認して、再び司会に戻ります。

「今からそのビデオレターを流させて頂きます。では、どうぞ」

 会場の電気が消え、設置したイベント用スクリーンに映像が流れ始めました。小学生時代の小笠原先輩と丹波先生の写真を背景に、長野先輩のナレーションが説明を加える映像を眺め、小笠原先輩が懐かしそうに目を細めます。

 丹波先生。鴨志田さん。そして、飯村さん。大切な人からのメッセージを聞いている小笠原先輩は、終始うっすらと笑っていて幸せそうでした。やがて「ご結婚おめでとうございます」という〆のナレーションが流れ、会場が明るくなります。大きな拍手が起こる中、小笠原先輩がわたしの方を向いて優しく笑いました。

「ありがとう。こういうの、すごく嬉しいよ」

 満足げな小笠原先輩を見て、わたしは強い喜びを覚えます。良かった。協力した甲斐があった。わたしは新婦だから撮影にはついて行っただけだし、映像にも出番はなかったけれど、頑張ったことをちゃんと察してくれて――

 ――ん?

「なんでわたしが関わってるって知ってるんですか?」

 暗闇が、小笠原先輩の顔を覆いました。

 会場の電気が再び消え、来賓の方々がざわつき始めます。全く予定になかった展開に驚き、わたしは慌てて船井先輩を見やりました。そして挙動不審に周囲を見渡す姿を目にし、わたしと同じく事態についていけてないことを察します。

 小笠原先輩の方に向き直ります。小笠原先輩はわたしを見つめて唇の端を吊り上げていました。船井先輩とは反対の落ち着いた態度を前にして、わたしは控え室で小笠原先輩から聞いた言葉をふと思い出します。

 ――早くみんなを驚かせたいって思っちゃう。

 新しい映像がスクリーンに投影され、場がだいぶ明るくなりました。会場中の視線がスクリーンに集まります。映っているのは和室に正座して、困ったようにはにかむおばあちゃん。丹波先生です。

『えー、ではこれから新郎プレゼンツ、サプライズ返しの逆ビデオレターを撮りたいと思いまーす!』

 底抜けに明るい声が、スピーカーを通して会場に響きました。
『オープニングとか作れないから、まず説明するね。これ観てるってことは俺へのビデオレターは観たでしょ。あれ、俺の仲間と嫁さんからのサプライズなんだけど、ある筋から情報が漏れてきてさ。なんかやり返したくなっちゃったのね。そんでビデオレターの相手に俺がインタビューして、今度は俺の嫁さんへのメッセージを引き出したら面白いんじゃないかなって思った。そんな感じです』

 スクリーンの丹波先生が、やれやれという風に小さく首を振りました。小笠原先輩らしいと思っているのでしょう。わたしも同感です。やり返されているのがわたし自身でなければ、微笑ましく映像を観られたと思います。

『じゃあさっそく聞きたいんだけど、俺の嫁さんの印象どうだった?』
『そうねえ……優しい子、かしら』
『どうしてそう思ったの?』
『実はね、小笠原くんと同じように、わたしも余命宣告を受けているの』
『え』

 しばらく沈黙が流れた後、丹波先生が『そんな顔しないで』と笑いました。撮り手の小笠原先輩は映っていませんが、どんな顔かは何となく分かります。

『その話をあの子にして、小笠原くんに伝えてと言った。そうしたらあの子は、二人でまた来るから伝えませんと答えたわ。その時に本当に優しい子だと思ったのよ。小笠原くんもこの子のこういうところを好きになったんだろうなって』
『そうだね。他にもいいところ沢山あるし、それだけじゃないけど』
『惚気るわねえ』

 丹波先生が顔をくしゃくしゃにして笑いました。わたしたちの前でもよく笑っていましたが、それよりもずっと幸せそうな笑顔です。

『二人で来る約束を勝手に破ったこと、ちゃんと謝りなさいよ』
『うん。じゃあ先生、俺の嫁さんに一言よろしく』
『もう?』
『だって一回会っただけだし、そんなに話すことないでしょ』
『分かっているなら、祝言なんか取りに来ないでちょうだい』

 丹波先生が背筋を伸ばしました。そしてカメラをじっと見据えます。

『小笠原くんは、最適でも最善でもなく最高を選ぶ。あなたに言ったあの言葉の答えがこれよ。黙ってサプライズを受けるのが一番平和なのにそうしない。私の家に押しかけてまでやり返す。そういう子なの。そんな子があなたを選んだということは、あなたは小笠原くんにとって最高の存在ということ』

 小笠原先輩は最高を選ぶ。そんな小笠原先輩が、わたしを選んだ。

『結婚おめでとう。お幸せに』

 映像が切り替わりました。現れたのは、どこかの部屋のベッドに腰かけている鴨志田さん。下からのアングルなので小笠原先輩は床に座っているのでしょう。丹波先生と同じように自宅に押しかけたのが、始まりの画からすぐに伝わります。

『じゃあ、インタビュー始めるよ。俺の嫁さんどうだった?』
『かわいそうだった』
『かわいそう?』
『普通にかわいくてモテそうなのに、お前に捕まるのはかわいそうじゃん』
『俺、お祝いのメッセージを貰いに来たんだけど』
『お前と結婚する女を祝福できるわけないだろ』

 鴨志田さんが笑いました。きっと昔も同じように笑っていたのでしょう。わたしたちがインタビューした時もフランクでしたが、それよりずっと砕けています。

『まあぶっちゃけると、分かんないんだよ。ほとんど話してねえし。どうせ面白い子なんだろうなとは思うけど』
『なんでそう思う?』
『お前が好きになる女が面白くないわけないだろ。高二の夏休みとか……』
『ストップ! 今の質問ナシ! 俺の嫁さんへのメッセージ、どーぞ!』

 小笠原先輩が強引に流れを断ち切りました。鴨志田さんが大きなため息をついてから語り出します。

『結婚、ご愁傷様。こいつはこういうやつだから、きっとこれからも君のことをかき乱す。何だこいつって思うこともきっとある。そういう時は溜め込まないで俺のところに来なよ。こいつの弱点、たくさん知ってるから』

 眩しいものを見るように、鴨志田さんがまぶたを薄く下ろしました。

『仲良くしてやってくれ。それじゃあ、また』

 鴨志田さんが手を振り、再び映像が切り替わりました。場所はどこかの喫茶店かレストランの座席で、映っているのはもちろん飯村さん。飯村さんの前のテーブルには手つかずのミルクレープが置いてあり、食べてから撮ってあげればいいのにと少しやきもきします。

『じゃあ、撮るね。準備いい?』
『……わたしはいいですけど』
『何か気になる?』
『元カノが元カレに祝福のメッセージを送るのはギリ分かるんですよ。でも元カノから今カノへのメッセージは、さすがにありえなくないですか?』
『そうかな。大差ないと思うけど』

 あると思います。もっとも、元カノから元カレへの祝言も小笠原先輩じゃなきゃ成立しない程度には変だと思うので、そういう意味では大差ないかもしれません。

『これはないわって思ったら使わないからさ。協力してよ』
『はあ……分かりました』
『ありがと。じゃあ聞くけど、沙也香ちゃんから見てあの子の印象ってどう?』
『……いきなり答えづらい質問が来ましたね』

 飯村さんが下を向いて黙りました。そして数秒後、こわごわと様子を伺うようにカメラを下から覗き込みます。

『少しポヤッとしてるなと思いました。肩肘張っていないというか』
『ボケてるってこと?』

 せっかく良い言い方をしたのに、小笠原先輩が台無しにしました。そして小さくなる飯村さんに追撃を加えます。

『どうしてボケてると思ったの?』
『ボケてるとは思ってないですけど……普通、元カノから彼氏の昔話なんて聞きたくないじゃないですか。それなのに動じていなかったので、あまり深く考えてないのかなと思って――』

 飯村さんが言葉を切り、まぶたを大きく上げました。そしてさっきと同じように下を向いて黙り込み、小笠原先輩から話しかけられます。

『どうしたの?』
『いや、気づきたくないことに気づいちゃって』
『なに?』
『あの人、わたしに全く脅威を感じてないんですよ』

 図星を突かれ、心臓が縮こまります。確かに、同じ人を好きになった仲間としての共感はありましたが、ライバルとしての警戒心はほとんどありませんでした。

『沙也香ちゃんがいい子だから、大丈夫だと思ったんじゃない?』
『初対面ですよ。そんなの分かるわけないじゃないですか』
『じゃあ、シンプルに舐められてたんだ』
『そうですね。シンプルに舐められてました』

 さっきは悪い表現を訂正していたのに、今度は素直に繰り返す。良くない方への心境の変化を感じます。

『じゃあそんな人を舐め腐った俺の嫁に、一言バシッと言ってくれる?』
『コンセプトそれでいいんですか?』
『いいよ。普通にお祝いもらうより面白そうだし』

 良くありません。心の中で映像の飯村さんに抗議します。抗議はもちろん届かず、飯村さんが『それじゃあ』と言って姿勢を正しました。

『えっと、気持ちは複雑ですけど、わたしに少しも脅威を感じないのはすごいとも思います。自由な小笠原さんをそこまで信用するの、わたしには無理です。そういう人だからわたしと違って、小笠原さんに愛されているんだと思います。でも――』

 右のひとさし指をカメラにつきつけ、飯村さんが不敵に笑いました。

『ダメだったら、次はわたしが行きます。覚悟しておいてください。では』

 映像が切り替わります。

 わたしの喉から、ひゅうと呼吸音が漏れました。ホラー映画の怖いシーンに直面した時の反応です。ビデオレターに出た三人のインタビューが終わったから、逆ビデオレターも終わりだろう。そういう油断を突かれて、息が乱れます。

 漆塗りのテーブルの向こうで正座をし、カメラを見つめる男の子。場所にも人物にも見覚えがあります。場所はわたしが小笠原先輩の家族と顔合わせをした和室。そして人物は――

「俊樹くん」

 わたしの口から、呟きがこぼれました。
『えー、こいつは俺へのビデオレターに映ってないし、ほとんどの人は誰か分からないと思うので、まず説明します。俺の弟です。十七歳。好きな食べ物は唐揚げ。彼女募集中なんで興味のある人は俺に連絡してください』
『募集してない』
『そうなの? まあ、どうでもいいじゃん。気にすんなよ』

 勝手に脱線しておいてこの言い草。長野先輩が俊樹くんに言った「あの性格で誰一人ムカつかないわけがない」という評価は、本当に正しいと思います。

『で、なんで俺の弟がここで登場するかって話なんだけど、実はこいつ、俺宛ビデオレターの撮影現場にいたんですよ。そんで――』

 画面外から小笠原先輩の手が現れました。ひとさし指が俊樹くんを示します。

『こいつが俺にビデオレターの話を漏らしたから、逆ビデオレターの企画が生まれたわけです』

 俊樹くんが目を伏せました。小笠原先輩の手が画面から消えます。

『じゃあ、俺の嫁さんの印象を聞かせてもらおうか。お前はだいぶ思うところあるみたいだし、ガッツリ話してもらうよ』

 小笠原先輩に迫られ、俊樹くんが少し上目づかいにカメラを見やりました。そして観念したように身体を起こし、ボソボソと語り始めます。

『最初は、嫌いだった』
『どうして』
『兄貴の彼女だから』

 沈黙。しかし小笠原先輩も何も言いません。それで終わりじゃないだろというプレッシャーに負け、俊樹くんが再び動きます。

『自我がないように見えたんだよ。菓子折りなんか持ってきてさ。結婚式とか顔合わせとか、普通はホイホイ乗っかるようなもんじゃないだろ』

 自我がない。やはり、わたしがパセリに見えていたようです。

『ただその後、ビデオレターを撮りたいから兄貴の元カノのことを教えてくれって言われて、少し印象変わった。俺と兄貴があいつで揉めたことも知ってるって話してきて、想像より神経太くてびっくりした。そこが最初かな』
『何が』
『兄貴の彼女だなって思ったの』

 張りつめていた俊樹くんの頬が、ほんの少しだけゆるみました。

『とりあえず動く。そういうところが兄貴っぽいと思った。それで、焦ったんだ。俺の話なのに勝手に先に行かれるのがイヤで、撮影について行くことにした』
『お前らしくないね』
『うん。いつもなら放っておく。きっと俺も無意識の内に、兄貴がこんな状態なのに意地張ってる場合じゃないだろって思ってたんだ。そこを刺激された』

 俊樹くんの視線が下がりました。声のトーンも低くなります。

『撮影で会う人たちは、当たり前だけど兄貴のことが好きで、俺はどんどん惨めになっていった。でも素直に認める気にもなれなくて、最後に爆発したんだ。それまで一緒に撮影してきた人たちに、あなたたちのような人がいるから兄貴が調子に乗るんだみたいなことを言った。そうしたら、色々と説教食らってさ。特に兄貴の彼女から言われた言葉が一番響いた』
『なんて言われたの?』
『自分が世界の中心で何が悪い、だよ』

 そこまで強い言い方はしていません。うろ覚えなのか、脚色したのか、あるいは――それぐらい強く響いたのか。

『兄貴といる時、俺は世界の中心を兄貴だと思ってた。他人に自我を持て、兄貴を甘やかすなと思ってるやつが、誰よりも自我を持っていなかった。それに気づいて恥ずかしくなって、兄貴とちゃんと話したいと思ったんだ』
『それが、ビデオレター企画の暴露に繋がったわけね』

 小笠原先輩が口を挟みました。俊樹くんが頷きます。

『そういうこと。体験抜きで話すのは無理だと思ったから、俺の都合を優先させてもらった。兄貴っぽいだろ?』
『どうだろ。俺は越えちゃいけないラインは守るよ』
『どこがだよ』

 俊樹くんが笑いました。初めて見る、高校生の男の子らしい無邪気な笑顔です。

『じゃあ、もう俺の嫁さんに悪い印象はないわけだ』
『ない』
『そんじゃ義理の弟として、そろそろメッセージちょうだい』
『分かった』

 俊樹くんが姿勢を正しました。真摯な視線がわたしを射抜きます。

『まずは勝手な感情をぶつけたことと、ビデオレターの話を暴露したことを謝罪します。あなたを見くびっていました。あの兄貴の傍にいてなお、自分が世界の中心だと思えるあなたは、兄貴とは本当にお似合いの恋人だと思います』

 俊樹くんが背中を曲げ、カメラに向かって深々とお辞儀をしました。

『兄貴の残りの人生を、あなたに任せます。よろしくお願いします』

 スクリーンの俊樹くんが、涙でぼやけます。

 感情に任せて泣くわたしの肩に、小笠原先輩が手を置きました。振り返ると同時にスクリーンの映像が消え、小笠原先輩の表情が闇に隠れて見えなくなります。わたしは急に不安になり、目の前の小笠原先輩を呼ぼうとしました。

「おが……」

 か細い声が、小笠原先輩の唇に奪われました。

 電気がつき、会場が明るくなります。キスをするわたしと小笠原先輩が衆目に晒され、来賓の方々から黄色い声が上がりました。わたしは慌てて小笠原先輩から離れ、そんなわたしを見て小笠原先輩は満足そうに笑います。

「何してんだよ!」

 船井先輩が近づいてきました。小笠原先輩はあっけらかんと答えます。

「キスだけど、何か問題ある?」
「あるわ! 誓いのキスまで待てや! 流れがあるだろ!」
「そう言われても、したい気分だったから」
「気分って……」
「やっぱ俺、式典とか向いてないみたい。まだるっこしいわ」

 小笠原先輩が立ち上がりました。そして船井先輩の手からマイクを奪い、来賓席に向かって声を張り上げます。

「みんなー、グラス持って。もう乾杯しちゃいまーす」
「お前! 俺がどんだけ苦労してプログラム作ったと思って……」
「持った? じゃあ行くよ。せーの、カンパーイ!」
「「「「カンパーイ!」」」」

 会場のあちこちから、グラスのぶつかり合う音が響き渡りました。こうなったらもう収集はつきません。喧騒の中、呆けて立ちすくむ船井先輩を置いて戻ってきた小笠原先輩に、わたしは笑いながら言ってやります。

「さすがにひどくないですか?」
「でもこれ、俺らのための式だからさ。俺らが楽しいのが一番でしょ」

 小笠原先輩の口角が、大きく上がりました。

「それとも、楽しくない?」

 分かり切った答えを尋ねる不敵な笑み。わたしも同じように笑って答えます。

「めちゃくちゃ楽しいです」

 来賓席の方で、誰かが「結婚おめでとー!」と叫びました。わたしたちはお互いに顔を見合わせ、どちらからともなくまた口づけを交わします。今だけは、わたしの世界も小笠原先輩の世界も消えて、わたしたちの世界が一つだけ在る。そんな気がしました。




 小笠原先輩は、十月生まれのてんびん座です。

 聞いた時、小笠原先輩から「いかにもって感じでしょ?」と言われて、さっぱり分かりませんでしたが「そうですね」と合わせました。その後、わたしが三月生まれのうお座だと教えたら「分かるー。なんかうお座っぽいよね」と言っていたので、誰がどの星座だろうとそれっぽく思えるだけなのかもしれません。ちなみに血液型はAB型です。こっちはすごく小笠原先輩っぽいと思います。

 そんな小笠原先輩は誕生日への思い入れが強く、秋が来ると「俺の季節が来た」と感じるそうです。なんでも小さい頃はお母さんが誕生日をすごいテンションで祝ってくれて、生まれたことで世界平和に貢献したと本気で思っていたとのこと。その話を聞いて、わたしは「なんて素敵なお母さんなんだろう」と思いました。ですが今はちょっと違う感想も抱いています。

 後続が困るので、少しは手加減して欲しかったです。

「いやー、良かったねー。マジ良かった」

 映画デートの後に入った喫茶店のテラス席で、ひたすら「良かった」を繰り返す小笠原先輩に相槌を打ちながら、わたしはずっと小笠原先輩の誕生日のことを考えていました。映画に誕生日のお祝いをするシーンが出て来たからです。そのシーンを観て小笠原先輩の誕生日が一か月後に迫っていることと、小笠原先輩が自分の生誕と世界平和が結びつくほどの祝福を受けて来た人であることを思い出しました。ちなみに映画は小笠原先輩イチオシの少年漫画を原作としたアニメ映画で、誕生日をお祝いされたキャラクターはその後にやられました。死亡フラグというやつです。

「原作未読勢なんだよね。どうだった?」
「……面白かったです。原作読みたくなりました」
「本当に? 本当なら借すよ?」
「本当ですけど……嘘くさいですか?」
「いや、なんかテンション低いから」

 指摘されてハッと気づきました。確かに小笠原先輩の目線だと、映画が肌に合わなくて気分が沈んでいるように見えます。

「無理しなくていいよ。合う合わないはあると思うし」
「無理なんかしてないです。ただ、別のことが気になって……」
「別のこと?」
「はい。小笠原先輩、誕生日に何が欲しいですか?」

 小笠原先輩が目を丸くします。当たり前です。意味が分かりません。話をあちこちに飛ばす小笠原先輩の癖が伝染しています。

「映画に誕生日のシーンがあったじゃないですか。あれを見て、小笠原先輩の誕生日が近いのを思い出したんです」
「まだ一か月先だよ?」
「もう一ヵ月先じゃないですか。すぐですよ」
「そうかな」

 小笠原先輩が首をひねりました。そしてウッドテーブルに片肘をつき、頬杖をついて中空を見上げます。

「でも、欲しいものって言われても困るなあ。特にないし」
「本当ですか?」
「だってすぐ死ぬのに、モノなんか貰ってもしょうがないじゃん」

 あっさりとした言い方が、わたしの胸を深く抉りました。小笠原先輩は平然と話し続けます。

「あ、でもやりたいことならあるかも」
「何ですか? 出来ることなら何でもしますよ」
「んー、でも、さすがになー。俺らだけの話じゃなくなっちゃうし」
「なら、他の人にも話をすればいいんですよ」

 小笠原先輩の視線がわたしに合わさりました。わたしは声に力を込めます。

「小笠原先輩がやりたいことをやるのが一番大事です。何なら誕生日まで待つ必要ないですよ。今すぐやりましょう。何がしたいんですか?」

 嬉しそうに、小笠原先輩がくしゃりと顔を潰して笑います。それを見てわたしも嬉しくなりました。何を言われても驚かずに受け止めようと決意し、心の準備を整えて返事を待ちます。

 わたしの密かな決意は、あっけなく崩れ去りました。

「同棲」
「それで、本当に同棲しちゃうんだもんね」

 長野先輩がローテーブルの上にトランプを三枚捨てた後、山札から三枚引いて手札を五枚に戻しました。続けて船井先輩が、同じように二枚捨てて二枚引きながら言葉を重ねます。

「親とか大丈夫だったの?」
「大丈夫でしたよ。ずっと同棲するわけじゃなくて、三日おきに戻りますし」
「そこ、そんなに違うもんかな」

 首をひねる船井先輩の横で、安木先輩が無言で手札と山札を三枚交換しました。次に手番の回って来た小笠原先輩が、五枚の手札を全て捨てます。

「俺もちゃんと許可取りに行ったからね。誠意が伝わったんでしょ」
「家賃とか生活費とかはどうしてるんだよ」
「親父から貰ってる。積み立ててた俺の学費がダダ余りなんだって。じゃあ、みんなチェンジ終わったね。行くよ。俺ワンペア」
「勝った。俺はツーペア」
「私もツーペア」
「フラッシュ」
「……ブタです」

 手札を表にしてテーブルに置きます。これで三連敗。小笠原先輩が唐突に言い出した「アイス食べたくない?」の一言から始まった、買い出しに行く人を決めるポーカーはわたしの負けです。立ち上がってみんなに声をかけます。

「じゃあ、行ってきますね」
「待って。夜に女の子の一人歩きは怖いし、私も行くよ」

 長野先輩が動きました。船井先輩も口を挟みます。

「それなら女子二人で行くより俺が――」
「いいから。男三人は適当にダベってて」

 長野先輩にはねつけられ、船井先輩が腰を中途半端に浮かせて止まりました。わたしと長野先輩は気にせずマンションの部屋を出ます。廊下に出てすぐスーツを着た男性とすれ違い、長野先輩がひそひそと話しかけてきました。

「このマンション、やっぱああいう社会人が多いの?」
「仕事の関係で短期間だけこっちに住む人が多いらしいです。こういうマンションはだいたいそうみたいですけど」
「結婚前のカップルが同棲の練習をするみたいなパターンはないのかな」
「あるみたいですよ。わたしたちは契約する時、それだと勘違いされたので」

 エレベーターで一階に下りてマンションの外に出ると、夏の残り香を含んだ風がふわりと頬を撫でました。散歩をするにはちょうどいい温度と湿度で、近くのコンビニに行くだけなのが勿体なくなります。長野先輩が自分たちの出てきたマンションを見上げて、はーと息を吐きました。

「結婚したら一緒に住むのは普通だけど、ガチでやるとはねえ」

 全くです。

 小笠原先輩が同棲したいと言い出した時、わたしがさすがにそれは難しいと思いました。しかしそこからわずか一週間で、お互いの親に話をして、家具付きのマンスリーマンションを契約して、レンタカーを借りて荷物を部屋に運び込むところまで済ませてしまいました。荷物運びを手伝ってくれた船井先輩、安木先輩、長野先輩が帰ったら、いよいよ本格的に同棲の始まりです。

 とはいえ、ずっと一緒に住み続けるわけではなく、わたしも小笠原先輩も三日間の同棲と三日間の実家暮らしを繰り返すことになっています。このやり方はわたしのお父さんが「小笠原くんの最後の時間を一人が独占するのは良くない」という理由で提案しました。わたしもそれはそう思います。小笠原先輩を大切に思っている人は、わたしだけではありません。

「断ろうとは思わなかったの?」
「思いませんでした。小笠原先輩にはやりたいことをやって欲しいので……」

 おかしなことを言ったつもりはありませんでした。だけど長野先輩はムッと顔をしかめます。

「実は忠告があって買い出しについてきたんだけど、言っていい?」
「忠告?」
「そう。あのね、小笠原の望みを叶えてあげたいって気持ちは分かるよ。でも本当に何でもかんでも無制限に受け入れないようには気をつけて。小笠原がいなくなった後も人生は続くんだから、長く影響を残しそうなものはきっぱり断ること」
「例えば?」
「子孫を残したい、とか。っていうか私の心配はぶっちゃけそれ。そういうこと言って避妊なしで来たらちゃんと断りなよって言いたかったの」

 ひゅう。

 生暖かい秋風が、わたしと長野先輩の間をぬるりと抜けていきました。硬直するわたしを見て、長野先輩が何かを察したようにまぶたを大きく上げます。長野先輩は鋭い女性です。その気づきは、見事に的中していました。

「……まだ?」

 わたしはこくりと頷きました。長野先輩が気まずそうに口を開きます。

「えー……もう結婚式までやってるんだし、そこまでは行ってると思うじゃん」
「そう言われても、行ってないものは行ってないので……」
「そっか。じゃあ、まず迫られた時にどうするってところからだ」

 話が想像しやすいレベルまで落ちて、わたしは息を呑みました。長野先輩がまたしてもわたしの思考を読み切ります。

「まさか、そういうの、具体的に考えてなかったの?」
「……はい」

 わたしは首をすくめて縮こまりました。小笠原先輩がわたしの前で「男の人」にならないから、何となく想定からすっぽり抜け落ちていました。それでもわたしたちは恋人で、これから同棲をするのです。ベッドだってダブルベッド。考えれば考えるほど、ぼんやりしていた自分がバカに思えてきます。

「なるほど」

 長野先輩がにやりと笑いました。そしてコンビニの方に歩きながら、楽しそうに呟きます。

「アイスと一緒に、ゴムも買っといた方がいいかもね」

 耳たぶがカッと熱くなりました。長野先輩は上機嫌に鼻歌を歌っています。どこかで聞き覚えのあるその歌が、サークル潰しの時に使った『雌豚音頭』であることに気づいたのは、コンビニに着いて長野先輩が鼻歌を止めた後でした。
 夜もだいぶ深まり、長野先輩たちが家に帰っていきました。

 部屋の間取りは1LDKで、キッチンとワンフロアになっているリビングの広さは約十畳。五人いた時は狭い印象があって、次にみんなで集まる小笠原先輩の誕生日パーティに不安を覚えていたのですが、いざ二人きりになってみるとやたら広く感じました。同じ部屋に二人で同居している。昨日まではあり得なかった現実が当たり前のように圧しかかって来て、息が上がります。

 やがてお風呂が沸き、わたしが先に入りました。待っている小笠原先輩には申し訳ないですが、人生一と断言できるほど丁寧に身体を洗いました。お風呂を出て、パジャマに着替えてからリビングに行くと、わたしが遅すぎたせいか小笠原先輩はソファで眠りかけていました。

 小笠原先輩がお風呂から上がる前に、わたしは髪を乾かして寝室に行きました。そしてダブルベッドの奥で布団をかぶって眠ろうとしますが、寝つけません。目をつむりながら耳をそばだてて気配を感じ取ろうとしている感覚が、寝たふりをしてサンタさんを待っていた子どもの頃と重なります。あの時のわたしはサンタさんがドアを開けて部屋に入ってくるのを待ち望んでいました。今のわたしは――自分でもよく分かりません。

 ギィ。

 寝室のドアの軋む音が聞こえて、わたしの心臓が大きく跳ねました。脈拍が小笠原先輩に聞こえているんじゃないかと思うほどの跳ねっぷりです。寝息を偽装するのも大変になりながら、どうにかこうにか寝たふりを続けます。

 ひたひたと足音が近づいてきた後、かぶっている布団が動きました。小笠原先輩がわたしの隣で横になります。手を伸ばせば触れる距離に小笠原先輩がいる。その事実で頭がいっぱいになります。

 ――アイスと一緒に、ゴムも買っといた方がいいかもね。

 買いませんでした。でも買っておけば良かったかもしれません。とはいえ、わたしが買わないと持っていないのだとしたら、それはどうなのでしょう。持っていないのに迫って来るような人は、そもそも受け入れてはいけないのではないでしょうか。誰にだって衝動で動くことはあるにせよ、限度はあるわけで――

 布団の下で、小笠原先輩の指がわたしの指に触れました。

 思わず「ひあっ」と声を上げてしまうところでした。何なら「ひ」の半分ぐらいは出ていました。心臓はもう大変なことになっています。胸の中で小人が運動会を開いていて、今の種目は騎馬戦です。

 指と指が触れ合っている部分はほんのわずか。きっと爪の面積よりも狭いです。なのに今、身体中の血液がそこに集まっているんじゃないかと思えるぐらい、接点がかっかと熱くなっています。小笠原先輩の体温とわたしの体温だけでは全くもって説明できないエネルギーが、物理法則の壁を突き破って発生しています。

 小笠原先輩の指が動きました。わたしの指との接点が無くなり、燻っていた熱がふわりと解けます。そして散らばった熱は布団の中にこもったまま、どこにも逃げ出せずにわたしの身体を温めます。

「あの」まぶたを上げます。「わたし、いいですよ」

 声が震えてしまいました。仰向けに寝そべっていて、お腹に上手く力が入らないからではありません。

「色々ちゃんとしてくれるなら、いいです。覚悟はできています。わたしたち、もう結婚式も挙げたんですから。全然おかしなことじゃないです」

 口を閉じます。そして横を向きます。わたしの言葉を聞いた小笠原先輩がどういう顔をしているのか見て、目と目を合わせてきちんと話そうと試みます。

 小笠原先輩はまぶたを下ろし、健やかな寝息を立てていました。

「……もしもし?」

 上体を起こし、声をかけます。返事はありません。というか、規則的に呼吸を繰り返している以外に動きはありません。これは素直に解釈するなら――

 寝ています。

 先にベッドに入ったわたしはまるで寝つけなかったのに、後から入って即座に熟睡しています。指が動いたのはシンプルに寝相。わたしの存在は欠片も睡眠の妨げになっていません。

 ひとさし指で小笠原先輩の頬をつつきます。反応なし。わたしは両手をだらりと下げて天井を仰ぎ、嘆きの言葉を吐き出しました。

「なにそれ……」
「そんなこと聞かれてもねえ」

 テーブルの対面に座っている長野先輩が、お皿に乗っている白身魚のフライを箸で切って口に運びました。そしてしばらく噛んでから言葉を続けます。

「私から見たら普通に魅力的に見えるよ」
「本当ですか? さすがに胸小さすぎとか思いません?」
「私と同じサイズだよね?」

 そうでした。長野先輩が箸をお皿に置き、周囲をぐるりと見渡します。

「少なくとも私は、今ここにいる女子全員と比較して、女性的な魅力が突出して劣っているとは思わない。自分でも見てみたら?」

 長野先輩に促され、わたしも周りに目を向けました。お昼の学生食堂は学生たちで混雑していて、中には女の子もたくさんいます。太っている子も痩せている子も、背の高い子も低い子も、胸の大きい子も小さい子もいます。この中でわたしの性的魅力がぶっちぎりで最下位かというと、確かにそんなことはないように思えます。

「じゃあ、わたしの魅力と小笠原先輩の好みが合わないんでしょうか」
「それなら同棲しないでしょ」
「でもその同棲で、もう六日間も何もないんですよ?」

 長野先輩が顎を引きました。そして「まだ六日間だよ」と呟いてコップの麦茶を飲みます。本音では「まだ」ではなく「もう」だと思っているのが丸わかりです。そもそも長野先輩はわたしから相談を受けてすぐ「嘘っ!?」と全力で驚いており、今さら取り繕っても遅いです。

 小笠原先輩と同棲を初めてから、今日で半月が経ちました。

 三日毎に三日間の同棲なので、二サイクル六日間の同棲生活を行ったことになります。そしてその六日間で小笠原先輩は、一度もわたしに手を出してきませんでした。一緒にテレビを観たり、食事をしたり、買いものに出かけたりと、同棲っぽいことはそれなりにしているのですが、恋人っぽいことは何もしていません。同棲六日目にして結婚二十年目の貫禄が漂っています。

 今日からまた同棲期間に入るにあたって、わたしは悩んでいました。そしてお昼の学生食堂で長野先輩を見かけたので、一緒にご飯を食べるついでに相談を持ちかけました。しかし残念ながら長野先輩も理解できないらしく、とりあえずわたしに女性としての魅力が皆無であるという説は却下されましたが、それ以外にはっきりと言えることもなさそうです。

「そもそも小笠原先輩って、どういうタイプの女性が好きなんでしょう。聞いたことあります?」
「ない。っていうか逆に聞きたいんだけど、知らないの?」

 長野先輩がお皿の箸を手に取り、先端をわたしに向けました。

「もう同棲までしてるんだよ。そりゃ家族とかには勝てないかもしれないけど、私ぐらいには勝たなきゃダメでしょ」

 厳しい言葉に、わたしは黙ってしまいました。勝てる自信がなかったからです。そんなわたしを逃がさずに長野先輩が追撃を加えます。

「小笠原の一番好きな食べ物は?」
「……何でも美味しそうに食べるので分かりません」
「小笠原の一番好きな漫画は?」
「……何でも面白そうに読むので分かりません」

 長野先輩の視線が、じっとりと湿っぽくなってきました。長野先輩はやるべきことをやっている人には結果が出ていなくても優しいですが、やるべきことをやっていない人にはだいぶ厳しいです。例えばわたしは教育学部なので、先生になるために幅広い分野の講義を受けたりレポートを書いたりするのですが、それを愚痴って「必要なことなんだから仕方ないでしょ」とばっさり切り捨てられたことがあります。

「小笠原の誕生日パーティさ」

 小皿に乗っているキャベツの漬物に、長野先輩が箸を伸ばしました。

「プレゼントは要らないみたいだけど、好きなケーキぐらいは調べておいた方がいいと思うよ。アレルギーとかあるかもしれないし」

 長野先輩が漬物を口に運びました。わたしは消え入るような声で「はい」と答えます。そして小笠原先輩はどんなケーキが好きなのか考えて、どんなケーキでも幸せそうに食べていたことを思い出し、ため息を漏らしそうになりました。
 わたしと小笠原先輩が同棲しているマンションは、大学から見てわたしの実家とは逆方向にあります。

 いつもとは逆方向の電車に乗って、いつもは下りない駅でおりて、いつもは歩かない道を歩きます。前回の同棲中で発見したパン屋さんに立ち寄って、わたしも小笠原先輩も激推しのクリームパンを二つ買って、一緒に食べることを考えながらマンションを目指します。この程度のことがとても楽しいです。だから満足してしまっていたのかもしれません。十分に幸せだから、それ以上を求めなくなっていた。

 マンションに着きました。エレベーターで上の階に向かい、玄関のドアを開けて部屋に入ります。鍵はかかっていません。小笠原先輩は今、大学にもアルバイトにも行っていないので、わたしが大学帰りにマンションに行くとだいたい先に居ます。自分が中に居ても鍵をかける人はいくらでもいますが、小笠原先輩は鍵どころかドアが半開きになっていても気にしなさそうです。何なら鍵の一本を「いつでも遊びに来ていいよ」と船井先輩に渡していたりします。

「ただい……」
「お前、それズルだろ!」

 小笠原先輩の叫び声。どうやら誰か来ているようです。わたしは船井先輩を想像しながらリビングに入り、小笠原先輩と一緒にテレビゲームをしている学生服の男の子を見て「あ」と声を上げました。

「お邪魔してます」

 カーペットの上であぐらを掻いている俊樹くんが、わたしに向かって頭を下げました。小笠原先輩は俊樹くんの隣で仰向けに倒れています。なぜ倒れているのかは分かりませんが、テレビには対戦格闘ゲームのリザルト画面が映っているので、たぶんコテンパンにやられたのでしょう。

「久しぶり。部屋を見にきたの?」
「いえ。学校帰りに兄貴とたまたま会って、なんか連れてこられました」
「お! それ、あのクリームパン?」

 小笠原先輩が身体を起こして話しかけてきました。わたしはパン屋さんの袋に目をやります。

「はい。でも二個しか買ってないんですよね。俊樹くんがいるならもう一個買ってきたんですけど」
「俺はいいですよ。兄貴と二人で食べてください」

 俊樹くんが気をつかってくれました。小笠原先輩の弟とは思えないぐらいによく出来たいい子です。でも小笠原先輩は、小笠原先輩でした。

「食えよ。マジで激ウマだから」
「でも二個しかないんだろ」
「いいよ。俺の分は自分で買ってくるから」

 小笠原先輩が立ち上がりました。わたしと俊樹くんが突飛な行動に驚く中、小笠原先輩は平然と問いかけてきます。

「他に買ってきて欲しいものある?」
「え? えっと、じゃあ、ミネラルウォーター」
「りょーかい」

 小笠原先輩がリビングから出ていきました。流れに置いて行かれてフリーズするわたしに、わたしより早くフリーズから復帰した俊樹くんが声をかけます。

「なんか、すいません」

 俊樹くんの謝罪で、わたしもフリーズから復帰しました。ソファに座って俊樹くんと向き合います。

「謝らなくていいよ。俊樹くんは連れてこられただけで、わたしがクリームパン買ってるなんて分かるわけないんだし」
「そこじゃないです。兄貴はあんな感じで自由だから、同棲生活でも迷惑かけてるんだろうなと思って」
「そんなことないよ」
「本当ですか? 夜中にいきなり『ラーメン食いたくなったから食いに行こう』とか言って連れ出されたりしてません?」

 ――しました。深夜、唐突に「なんか明太子な気分」と言われて、駅前の居酒屋に明太子を食べに行きました。わたしはデート気分で楽しんでいましたが、確かに捉えようによっては迷惑かもしれません。

「そういうの、断っていいですからね。イヤだけど断りにくい人の気持ちが分からないから、イヤなら断ればいいじゃんってノリで声かけてるんですよ」

 なるほど。さすが弟だけあって、小笠原先輩のことをよく理解しています。わたしは小笠原先輩と出会ってまだ半年ですし、船井先輩たちも二年半。年下の家族として十年以上は振り回されてきたであろう俊樹くんこそが、小笠原先輩の真の理解者なのかもしれません。

 ――そりゃ家族とかには勝てないかもしれないけど。

「俊樹くん」

 お兄ちゃんの好きな女性のタイプって、分かる?

 お昼の会話から連想した質問を、わたしは危ういところで留めました。兄の彼女からの質問としてあまりにも不自然です。軌道修正を図ります。

「お兄ちゃんの好きなケーキって、分かる?」
「ケーキですか?」
「うん。あと半月ぐらいでお兄ちゃんの誕生日でしょ。俊樹くんも家族でご飯食べに行くって聞いたけど、わたしたちもこの部屋でパーティするの。でもどんなバースデーケーキを用意すればいいか分からなくて…‥」
「ケーキ……」

 俊樹くんが顎に手を当てました。真面目に考えてくれていて、誤魔化すために適当に出した質問であることを申し訳なく感じます。

「強いて言うなら、ブッシュ・ド・ノエルかな」
「それってクリスマスに食べる薪みたいなやつだよね?」
「そうです。子どもの頃、兄貴は誕生日もあれだったんですよ。兄貴がそうして欲しいって言ったから」
「へー」

 いい情報を聞きました。さすが、兄弟です。

「ねえ。お兄ちゃんのこと、もっと色々聞いていい? わたし、俊樹くんが当たり前に知ってることも知らないと思うから」
「そうなんですか?」
「うん。でも同棲までしてるのにそれは情けないでしょ。だからもっと、わたしだけが知ってることを増やしていきたくて」
「それなら、俺に聞いても意味なくないですか?」

 ずばりと言い切られ、わたしの返事が止まりました。俊樹くんはバツが悪そうに視線を逸らします。

「俺に聞いても、俺の知ってることしか出てこないですよ。自分だけしか知らないことって、誰かに聞くんじゃなくて自分で発見するものだと思うんですけど……」

 説教のようになったのを気にしてか、最後の方は言い淀んでいました。わたしはわたしで、年下の子に正しいことを言われてしまった恥ずかしさで小さくなります。俊樹くんの言う通りです。俊樹くんが小笠原先輩のことをよく知っているのは小笠原先輩と接してきたから。誰かに教わったからではありません。

「……じゃあ、一つだけ教えますね」

 気まずい雰囲気の中、俊樹くんが右のひとさし指をピッと立てました。

「兄貴が嘘をついた後にやる癖があるんですけど、気づいてますか?」
「そんな癖があるの?」
「はい。漫画のキャラがすっとぼける時に舌出したりしますよね。たぶんあのイメージで顔が動いて、唇から舌がちょっと出るんです。こんな風に」

 俊樹くんが自分の唇を指さして、そこから舌先をちろりと覗かせました。確かにこれを毎回やるなら分かりやすいです。

「嘘ついてそうだなって時にガン見してください。兄貴は適当にはぐらかすことはあっても嘘はあまり言わないんで、役に立たないかもしれませんが」
「分かった。助かる」
「あと、それと――」

 俊樹くんが、何か言いかけて口を閉じました。そしてしばらく迷っているような素振りを見せた後、真剣な眼差しをして続きを語ります。

「兄貴は、好きでもない人間と同棲するタイプでは絶対にないんで、そこは安心していいと思いますよ」

 ――本当に、よく出来た弟さんです。わたしは俊樹くんを心配させないよう、にっこりと明るく笑いました。

「ありがと」
 夕方、近くのイタリアンのお店に行き、三人でパスタを一皿ずつとみんなで食べるサラミのピザを一枚頼みました。

 食事の後は俊樹くんを駅まで送りました。改札で小笠原先輩は俊樹くんに「いつでも遊びに来いよ」と言い、俊樹くんは「二人の家なんだから、そういうのは一人で決めない方がいいと思うよ」と返しました。本当によく出来たいい子です。どっちがお兄ちゃんなのか分からなくなります。

 俊樹くんと別れた後は、小笠原先輩とマンションに向かいます。外は薄暗くなっていて、住宅街の裏道に人の気配はあまりありません。街が眠りかけている。そんな雰囲気を感じます。

「あ、猫」

 電信柱の傍にうずくまるトラ模様の猫を見て、小笠原先輩が声を上げました。そして近づこうとしますが猫はそそくさと離れてしまいます。建物と建物の隙間にするりと逃げ込んだ猫を見て、小笠原先輩が残念そうに「あー」と声を上げました。

「猫、好きなんですか?」
「うん、鬼好き」

 ただの好きではなくて、鬼好き。でも小笠原先輩はきっと犬でも馬でもペンギンでもダイオウグソクムシでも、それが好きなら似たようなことを言う人です。小笠原先輩を知るためには、自分から踏み込まなければいけません。

「あの」一歩。「小笠原先輩の好きなケーキって、なんですか?」

 小笠原先輩が目を丸くしました。わたしは説明を付け足します。

「誕生日パーティにどういうケーキを用意しようか悩んでるんです。それでもう本人に聞いた方がいいなと思って」
「別になんでもいいよ。ケーキならだいたい好きだから」
「でも特に好きなものってあるじゃないですか。せっかくの誕生日なんだし、そういうものを用意しないと」
「それはそうかもね。次の誕生日はないと思うし」

 次はない。重たい発言が何の気なしに飛び出しました。わたしは声のボリュームを上げて動揺を隠します。

「俊樹くんから、子どもの頃は誕生日のケーキをブッシュ・ド・ノエルにしてもらってたって聞いたんですけど、好きなんですか?」
「うん。好きなのは味というより雰囲気だけどね。なんか特別感あるじゃん」
「じゃあ、ブッシュ・ド・ノエルでいいですか?」
「いいよ。すごく俺の誕生日って感じがする。そうして」

 歩きながら、小笠原先輩が夜の帳が下りかけている空を見上げました。街灯が横顔をぼんやりと照らします。

「俺の誕生日のことをちゃんと考えてくれるの、嬉しいね」
「そりゃ好きな人の誕生日なんだから、ちゃんと考えますよ」
「そうだけど、誕生日の話が出て俺が最初にやりたいって思ってことは同棲で、それはもう実現したからさ。今はボーナスステージにいる気分なんだよね。もう望むことはないから、逆に戸惑っちゃう」

 ――え?

 足が止まりそうになりました。どうにか堪えて、無理やり歩みを進めます。普段はオートで動いているものをマニュアルで動かしているから、動作がぎこちなくなっている気がします。

「……同棲できて、良かったですか?」
「うん。めっちゃ楽しいよ」
「これ以上は何も要らない?」
「そうだねー」

 また。わたしは「なら、良かったです」と言って会話を止めました。声が震えかけていたからです。幸い、小笠原先輩も特に話すことが無くなったのか何も言わず、気持ちを落ち着かせる時間を確保することができました。

 二回、ありました。

 もう望むことはないと言った時と、これ以上は何も要らないかと聞かれて肯定した時。一回だけなら偶然かもしれませんが、二回は偶然だとは思えません。唇の隙間から覗いていた舌先に、どうしても意味を見出してしまいます。

 すでに満足しているから、これ以上は何も要らない。

 ――嘘です。