――セシル達がグレンカダムを訪れて、早速一騒動が起きてそれを片付けてから一ヶ月が経った。
その間に、何故か済し崩し的にアップルジャック商会に就職したことになっていたセシル達は、気付けば唐突に積み上がる仕事に忙殺されていたりする。
更にその商会の仕事とは別に、お世話になっている本社兼社宅である郊外の邸宅でそのお礼にと炊事を、片付けられない汚部屋の主な某水妖精以外が担当したのだが、中でもセシルとクローディアとラーラのそれが非常に気に入られ、おかげで現在は朝食をシェリーとセシルが、昼食をシェリーとクローディアが、そして夕食をセシルとラーラが担当することになってしまった。
余談だが、クローディアとラーラが朝のそれを担当していない理由は、共に何故か朝が弱くなってしまったという怪奇現象があったからである。
そんな怪奇現象の犯人は非常にタフで、更にどういうワケかやる気に満っち満ち溢れちゃったらしく、平気で朝と夕食の担当になっているが。
一応ではあるのだが、仮にも会長であるシェリーがそれの人員に名を連ねているのを気にしてはいけない。
単に一緒に生活している某社長の某奥さんと、某会計監査の某恋人の、唯一と言ってしまっても良い女性陣二名は、炊事がちょっとアレなだけだ。
ちなみに野郎連中のソレは壊滅している。
まぁ、意外にもリーは料理上手ではあるが、アレはアレで別件を結構抱えていて忙しく、とてもじゃないがそれに時間を割くことなど出来ない。
そもそも実は社宅にいることすら稀であったりするし、最近ではセシルを見掛けるたびに、なにがあったのか何故か妙に恥じらって逃げ回っていたりする。
そんなリーの奇行を見て、思わず「可愛くなっちゃったよ」とか思ってしまうセシルではない。
その程度の奇行が増えたくらいで、過去に負ったセクハラ行為の心的外傷が払拭出来る筈はないのだ。
残念ながら、セシルの心には既にリーが入り込む隙間は一切存在しない。諦めて他所を当たって欲しいと切実に願うセシルであった。
――きっとその願いは叶わないであろうが。
そんな感じで、相談などは全然していないにも拘らず、いつの間にか、それこそ済し崩し的に炊事当番が決まってしまっていた。
ちなみに、それにデシレアが名前が連ねていないのには理由がある。
彼女は大変料理上手で、しかも大変美味しく、更に身体に優しい優れた出来栄えに仕上げるのだが、軒並み動物性の素材を一切使わない野菜類しかないために、肉食種や狩猟民族などの物理的な肉食系である皆様には残念ながら不評であった。
もっともデシレアは、自分がそれだからそんな料理しか作りませんとかワケの判らないことをほざく輩と同列ではなく、若干の忌避感はあるものの、ちゃんと動物性の物を含んだ料理も用意出来る。ただ慣れない所為か、それがちょっとアレなだけだ。
そもそも植物妖精は食事を必要とせず、水と陽光さえあれば生きて行ける。口からの摂取は付き合いと趣味程度なのである。
関係ないが、セシルが一度だけ「我儘を言うとデシレアの料理を喰わせるぞ」と商会員達に言ったことがあり、皆して平伏して「それだけは止めてくれ」と懇願されたそうな。
だがそんな罰ゲームよりなにより、プンプン怒ったデシレアにセシルが胸をポコポコ叩かれるという、傍から見ればイチャコラしているようにしか見えない場面を見せ付けられて、独り身が多い彼らは軒並み血涙を流しそうになったり、あらゆる甘いものを吐きそうになったという。
ある意味、罰ゲームより酷い仕打ちである。
そんな完全菜食主義な料理は、セシルやクローディア、そしてコーデリアさんには大変好評であったが。
余談。
クローディアとラーラの二人と同じ状況である筈のデシレアなのだが、彼女は変わらずセシルと同時刻に起床して、植物妖精の固有技能が薬師であるためそれを応用し、草魔法と木魔法を駆使して植物性の洗濯用洗剤を調合する。
そして洗濯物を中心に(空)気魔法で気体の閉鎖空間を構成して調合したそれを入れ、水魔法で生成して精製した純水を熱魔法で温めつつ攪拌して洗濯を始め、洗い終わったら風魔法と熱魔法で乾燥させるという、魔法としては非常に高次で高度な技術をしれっと披露して、シェリーの憧憬の視線をほしいままにしていた。
そして洗濯物を良い塩梅に、なんでもないことのように攪拌している魔法は、ごく小規模で展開された〝潮流渦〟という、実はそれに巻き込まれた物体は生物だろうが岩だろうが鋼だろうが例外なく、漏れなく細切れにされるという、凶悪極悪極まりない戦略級魔法であったりする。
ついでに、デシレアは最大十五もの魔法を同時行使可能な、〝十五重詠唱〟の〝魔法使い〟としてその道の者達の中では有名だった。
ちなみに世界最高の〝魔法使い〟と謳われている森妖精の王は〝十三重詠唱〟の使い手である。
もっとも魔法使いの優劣は、そんな多重詠唱が出来る出来ないは関係ない。象徴や憧憬の対象になるのは否定出来ないが。
あと、同じ〝魔法使い〟でも男と女とでは呼び名が違う。男が〝魔法使い〟で女が〝魔法使い〟である。
どうでも良いことではあるが、念のため。
そして、そんなこんなな或る日――
日当たりの良い窓際で、嗜好しているブルーベリーのフレーバード・ティーの香りを楽しみながら、セシルは座り心地の良いソファに身を委ねて緩やかな時間を満喫していた。
そしてその隣には、チョコレートを口に含んでゆっくり溶かして味わいながら、オレンジのセンティッド・ティーを嗜んでいる茶系金髪と紫の瞳を併せ持つ、整った容姿の女性――クローディアが当たり前に座っている。
「良い天気じゃのう。のうクローディアさんや」
「……『そうですねぇセシルさん』――これで良い?」
「うん、ありがとう」
自分の望んでいる返答がちゃんと返って来て、ちょっと涙目になるくらい嬉しいセシル。なんだか色々お疲れである。
そしてこの遣り取りの意味がちょっと判らないクローディアなのだが、セシルがやりたいと言うのなら叶えてあげたいと思っていた。
もっとも、それ自体に意味などありはしないとも理解出来ているが。
そんな感じで優雅なティータイムを楽しんでいる風な二人なのだが、別に休日の昼下がりとかでは一切なく、現在交代制の昼休憩なだけであった。
セシルの担当している仕事は多岐に渡っており、忙しいところに必ず放り込まれる。
なにしろ彼は優秀で、出来ないことを探した方が早いくらいなんでも出来るのだ。
そして、同じくなんでも出来る会長様とセットで修羅場に放り込まれる場合が多く、互いに申し合わせてすらいないのに阿吽の呼吸で、常人にはちょっと無理なんじゃね? と思われるほどの仕事量を熟していた。
曰く――なにが必要でなにをすれば良いかが判るから楽。
だ、そうである。
そんな二人を見たクローディアも流石にちょっと驚いて、だが考えてもみれば、シェリーは僅か五年で商会の純利益を百倍以上にしたあのエセルの愛娘であり、セシルはそのエセルのお気に入りで、手塩に掛けて――かどうかは不明だが、とにかく特別な教育が成されていたのである。この程度は出来て当然であろう。
――その有能という範疇にすら収まらない鬼才なエセルの法律上の配偶者である誰かさんは、それら莫大な資産を僅か五年で丸ごと失くすばかりではなくマイナスにするという、ある意味では非常に優秀なコトをやってのけちゃった挙句に高飛びするという離れ業までやってのけたが。
それにセシルは体力が純粋に半端なくあり、シェリーならば疲労困憊してしまう仕事量も難無く熟し、しかもその速度が落ちないというバケモノぶりを発揮していた。
まぁ、例えどれだけ体力があろうとも、「出来る」ことが多いと「疲労」も多くなるのは当然だが。
そんなお疲れな上に気持ち良い陽光に当てられてうつらうつらしているセシルの隣に、クローディアはなにも言わずにただ傍にいるだけであった。
声を掛けるでもなく――
労うでもなく――
――ただ、その傍にいるだけだ。
やがて、そのクローディアの肩になにかが乗り、青みを帯びた黒の――濡烏色の髪が流れ落ちるように零れる。
「……こんなところで寝ちゃうなんて、バカね」
ティーカップをソーサーに戻し、テーブルに置く。
そして空いた手で自分の肩に乗っているセシルの頭を優しく撫で、そのままゆっくりと、自身の大腿を枕にして横にした。
「いくら仕事が出来るといっても、一人じゃあ限界があるのよ。まったく、なんだかんだ言ってても昔からお人好しよね。ホント、私がいないと何処までも無理しちゃうんだから」
そう、昔から。
エセルが彼を伴って孤児院を訪れ、名も無く番号でしか呼ばれていなかった彼に「セシル」という名を与えたときから、彼は――セシルは誰よりも働いていた。
当時まだ九歳でしかなかったのに、誰よりも、成人間近な子供達よりも、働いていたのだ。
元々孤児院での食事は、一〇歳前後の女の子達が担当していたのだが、気付けばそれすらセシルが全て請け負っていた。
結果的には、一人に任せるのはいけないことだと言ったクローディアと、見様見真似でやっているうちに料理の楽しさに目覚めたリオノーラの三人が主に請け負うこととなったが。
そればかりではなく、孤児院内の全ての掃除や其処で生活している子供たち全ての洗濯も始めてしまい、流石にそれは皆のためにもならないと、孤児院を管理していたレミーに注意され、それだけは皆で協力してやることになったのだ。
――可能性としての憶測ではあるが、もしかしたら誰かさんが片付けられない汚部屋の主となったのは、セシルにも責任の一端があるのかも知れない。
それはともかく。
そんな風に一人で大量に抱え込んで、だが仕事が回らないなどは一切なく、逆に全てを完璧に仕上げてしまう。
セシルはそんな危うい離れ業を、幼少期から当たり前に熟していた。
「――貴方は昔からそう。他人に頼らず、常に全部を背負って努力して頑張って。でもきっと、貴方は言うんでしょうね。『頑張ってはいない』って」
努力は必要だ。
頑張ることも必要だし価値あるものだ。
だが――過ぎればそれは猛毒になる。
自分にとっても。
他人にとっても。
そしてそれらは、本人は元より周囲すら判断も理解も出来ない内に簡単に閾値を超え、場合によってはその全てを巻き込んで盛大に瓦解する。
交易都市バルブレアで教育校を設立したとき、同じく設立仲間であったデシレアもそれを感じていたようで、そのときは実力行使で休ませていた。
もっともそれが出来るのは、同じく仕事が出来るデシレアだけであり、クローディアには出来る筈もない。
だから、彼女は常にセシルの傍にいる。
生き急いでいるようにしか見えないセシルが、仮に閾値を超えてしまったときに、仮にその全てが終わってしまったときに、共に終わるために――
『ねぇセシル。どうしてそんなに頑張るの? そんなに急いだら疲れちゃうわよ』
『急いで……いるかな? でも、そうしないと全部無くしちゃう気がするんだ。今まで失うばかりで得られなかったから……だから、頑張って「今出来ること」をしておきたいんだ』
『……そう。判ったわ。じゃあもしもセシルが力尽きたときには、私が一緒にいてあげる。独りは――淋しいから』
――*――*――*――*――*――*――
商業ギルドの監査特務隊がイーロ・ネヴァライネン邸を強制捜査し、ある意味で色々と甚大な被害が出ちゃって一ヶ月後。
既に提出して受理印が押印されている報告書を前にして、ユーイン・アレンビーは引き攣った笑みを浮かべていた。
報告書が置かれているのは、サブマスターであるデリック・オルコックの机上であり、更に言うなら其処は彼の執務室であった。
「まぁ、あれだ」
脂汗を滴らせているユーインを、極上の笑顔で迎えるデリック。だが組んでいる手にとてつもない力が込められているのに、目敏いユーインは気付いている。
彼が――デリックがそうなっているときは、間違いなく碌でもないことしか起きない。
「実は先日、離婚れた妻と偶然に逢ってね」
「はあ」
突然なにを言い出すかと思えば。確かにデリックには離婚歴があると聞いたことがあるが、それに触れる命知らずはいない。
なにしろ彼は、名実共に商業ギルドのナンバー2であり、過去には〝草原の破壊者〟と呼ばれて怖れられていたのだから。
「ある不一致で離婚れたとはいえ、一度は夫婦であったからある程度は情が湧くものでな。酷く落ち込んでいたから話を聞いたんだ」
その後で有り得ないくらい絞られたが。一瞬だけだが半眼になり、えらく疲れた表情で独白するが、そんな些事などどうでも良いだろう。
「彼女は変態だから痴情の絡れだろうと思ったが、意外に操を立てていたのにはちょっと可愛いかなとは思ったが、問題は其処じゃない」
ちょっと惚気始めるデリックを、珍獣でも見つけたかのような視線を向けるユーインだが、目が真剣な笑顔を向けられて瞬時に凍り付いた。
「ネヴァライネン氏の装備品は、やはり帝国製で間違いないようだ。オスコション商会のときに騒動の種になった〝機関砲〟と入手経路は同じらしい。どうやら裏できな臭いことを始めているようだ」
「なんと!」
予想は出来ていた。
そもそも他国の介入なくして、このストラスアイラ王国で〝機関砲〟や〝魔導鎧〟などという兵器が手に入る筈がない。
「それは由々しき事態ですね。それで、どうするおつもりですか?」
表情を引き締め、真剣な眼差しを向けるユーイン。それに対してデリックは深い溜息を吐き、
「ああ、避妊する暇すら与えてくれなかったから、元妻が懐妊していないことを祈るばかりだよ。まぁでも以前に比べてちょっとまともになっていたから、そうなったらなったで復縁しても良いかな、とも考えているが」
「は?」
デリックの口からまさかな言葉が飛び出し、思わずユーインは自身の耳を疑った。
「あの、俺が訊きたかったのは帝国の動向とかであって――」
「そんなのは国が考えることだ。情報は提供するが後は知らん。それはさておき、そのときのピロトークで耳にしたのだが、ネヴァライネン邸の強制捜査があった夜、誰かが〝大海嘯〟を構築していたらしい」
とても良い笑顔で、だがやっぱり笑っていない目を向けられて、再び凍り付くユーイン。
実は実害が一切なかったために、その事実は報告書には上げていなかった。それにギルドの目撃者もおらず、いたとすればそれを強制詠唱破棄した誰かだけである。
よって、それが露呈するなど無いと考えていた。
「ちなみに、お前の大海嘯を〝 強制詠唱破棄〟したのは、私の元妻が勤務している商会の客人らしい。なんでも十年以上前からの顔見知りだそうだ。さて、申し開きはあるかな?」
その後、部下との痴情の絡れや他の諸々がコロコロ露呈しちゃったユーインは、チームを解体された上に半年間の85%減俸処分となったそうな。
まぁだからといって、高給取りな彼が生活に困るほどの減俸ではなく、更に言うなら財布をしっかり自称妹に握られているため、そういう面では大して痛くなかったそうな。
だが――
「あらお兄様。どうしてそのような処分が下されてしまわれたのですか? まさかとは思いますが、あの泥棒猫に現を抜かしてしまわれたのでしょうか? 困ったお兄様です。浮気が許しますが、本気は赦しませんよ」
「待て誤解だルシール! 俺はやましいことなど何一つしていない!」
「あらそうなのですか? これは申し訳ありませんでした。ではこのケネス様とデメトリオ様から報告書と、泥棒猫――へスター様からの離縁状に御心当たりは一切ないのですね?」
「何故そんなものが!?」
「皆様、それはとてもとても協力的で好感が持てる方々でしたわ。泥棒猫――へスター様も、お兄様と一時とはいえ身体の繋がりがなかったのなら、良いお友達になれそうでしたのに。残念です」
それから一週間ほど、ユーインは体調不良で休暇を貰ったそうである。
それについては様々な憶測が飛び交ったのだが、真相は闇の中であったとさ。
その間に、何故か済し崩し的にアップルジャック商会に就職したことになっていたセシル達は、気付けば唐突に積み上がる仕事に忙殺されていたりする。
更にその商会の仕事とは別に、お世話になっている本社兼社宅である郊外の邸宅でそのお礼にと炊事を、片付けられない汚部屋の主な某水妖精以外が担当したのだが、中でもセシルとクローディアとラーラのそれが非常に気に入られ、おかげで現在は朝食をシェリーとセシルが、昼食をシェリーとクローディアが、そして夕食をセシルとラーラが担当することになってしまった。
余談だが、クローディアとラーラが朝のそれを担当していない理由は、共に何故か朝が弱くなってしまったという怪奇現象があったからである。
そんな怪奇現象の犯人は非常にタフで、更にどういうワケかやる気に満っち満ち溢れちゃったらしく、平気で朝と夕食の担当になっているが。
一応ではあるのだが、仮にも会長であるシェリーがそれの人員に名を連ねているのを気にしてはいけない。
単に一緒に生活している某社長の某奥さんと、某会計監査の某恋人の、唯一と言ってしまっても良い女性陣二名は、炊事がちょっとアレなだけだ。
ちなみに野郎連中のソレは壊滅している。
まぁ、意外にもリーは料理上手ではあるが、アレはアレで別件を結構抱えていて忙しく、とてもじゃないがそれに時間を割くことなど出来ない。
そもそも実は社宅にいることすら稀であったりするし、最近ではセシルを見掛けるたびに、なにがあったのか何故か妙に恥じらって逃げ回っていたりする。
そんなリーの奇行を見て、思わず「可愛くなっちゃったよ」とか思ってしまうセシルではない。
その程度の奇行が増えたくらいで、過去に負ったセクハラ行為の心的外傷が払拭出来る筈はないのだ。
残念ながら、セシルの心には既にリーが入り込む隙間は一切存在しない。諦めて他所を当たって欲しいと切実に願うセシルであった。
――きっとその願いは叶わないであろうが。
そんな感じで、相談などは全然していないにも拘らず、いつの間にか、それこそ済し崩し的に炊事当番が決まってしまっていた。
ちなみに、それにデシレアが名前が連ねていないのには理由がある。
彼女は大変料理上手で、しかも大変美味しく、更に身体に優しい優れた出来栄えに仕上げるのだが、軒並み動物性の素材を一切使わない野菜類しかないために、肉食種や狩猟民族などの物理的な肉食系である皆様には残念ながら不評であった。
もっともデシレアは、自分がそれだからそんな料理しか作りませんとかワケの判らないことをほざく輩と同列ではなく、若干の忌避感はあるものの、ちゃんと動物性の物を含んだ料理も用意出来る。ただ慣れない所為か、それがちょっとアレなだけだ。
そもそも植物妖精は食事を必要とせず、水と陽光さえあれば生きて行ける。口からの摂取は付き合いと趣味程度なのである。
関係ないが、セシルが一度だけ「我儘を言うとデシレアの料理を喰わせるぞ」と商会員達に言ったことがあり、皆して平伏して「それだけは止めてくれ」と懇願されたそうな。
だがそんな罰ゲームよりなにより、プンプン怒ったデシレアにセシルが胸をポコポコ叩かれるという、傍から見ればイチャコラしているようにしか見えない場面を見せ付けられて、独り身が多い彼らは軒並み血涙を流しそうになったり、あらゆる甘いものを吐きそうになったという。
ある意味、罰ゲームより酷い仕打ちである。
そんな完全菜食主義な料理は、セシルやクローディア、そしてコーデリアさんには大変好評であったが。
余談。
クローディアとラーラの二人と同じ状況である筈のデシレアなのだが、彼女は変わらずセシルと同時刻に起床して、植物妖精の固有技能が薬師であるためそれを応用し、草魔法と木魔法を駆使して植物性の洗濯用洗剤を調合する。
そして洗濯物を中心に(空)気魔法で気体の閉鎖空間を構成して調合したそれを入れ、水魔法で生成して精製した純水を熱魔法で温めつつ攪拌して洗濯を始め、洗い終わったら風魔法と熱魔法で乾燥させるという、魔法としては非常に高次で高度な技術をしれっと披露して、シェリーの憧憬の視線をほしいままにしていた。
そして洗濯物を良い塩梅に、なんでもないことのように攪拌している魔法は、ごく小規模で展開された〝潮流渦〟という、実はそれに巻き込まれた物体は生物だろうが岩だろうが鋼だろうが例外なく、漏れなく細切れにされるという、凶悪極悪極まりない戦略級魔法であったりする。
ついでに、デシレアは最大十五もの魔法を同時行使可能な、〝十五重詠唱〟の〝魔法使い〟としてその道の者達の中では有名だった。
ちなみに世界最高の〝魔法使い〟と謳われている森妖精の王は〝十三重詠唱〟の使い手である。
もっとも魔法使いの優劣は、そんな多重詠唱が出来る出来ないは関係ない。象徴や憧憬の対象になるのは否定出来ないが。
あと、同じ〝魔法使い〟でも男と女とでは呼び名が違う。男が〝魔法使い〟で女が〝魔法使い〟である。
どうでも良いことではあるが、念のため。
そして、そんなこんなな或る日――
日当たりの良い窓際で、嗜好しているブルーベリーのフレーバード・ティーの香りを楽しみながら、セシルは座り心地の良いソファに身を委ねて緩やかな時間を満喫していた。
そしてその隣には、チョコレートを口に含んでゆっくり溶かして味わいながら、オレンジのセンティッド・ティーを嗜んでいる茶系金髪と紫の瞳を併せ持つ、整った容姿の女性――クローディアが当たり前に座っている。
「良い天気じゃのう。のうクローディアさんや」
「……『そうですねぇセシルさん』――これで良い?」
「うん、ありがとう」
自分の望んでいる返答がちゃんと返って来て、ちょっと涙目になるくらい嬉しいセシル。なんだか色々お疲れである。
そしてこの遣り取りの意味がちょっと判らないクローディアなのだが、セシルがやりたいと言うのなら叶えてあげたいと思っていた。
もっとも、それ自体に意味などありはしないとも理解出来ているが。
そんな感じで優雅なティータイムを楽しんでいる風な二人なのだが、別に休日の昼下がりとかでは一切なく、現在交代制の昼休憩なだけであった。
セシルの担当している仕事は多岐に渡っており、忙しいところに必ず放り込まれる。
なにしろ彼は優秀で、出来ないことを探した方が早いくらいなんでも出来るのだ。
そして、同じくなんでも出来る会長様とセットで修羅場に放り込まれる場合が多く、互いに申し合わせてすらいないのに阿吽の呼吸で、常人にはちょっと無理なんじゃね? と思われるほどの仕事量を熟していた。
曰く――なにが必要でなにをすれば良いかが判るから楽。
だ、そうである。
そんな二人を見たクローディアも流石にちょっと驚いて、だが考えてもみれば、シェリーは僅か五年で商会の純利益を百倍以上にしたあのエセルの愛娘であり、セシルはそのエセルのお気に入りで、手塩に掛けて――かどうかは不明だが、とにかく特別な教育が成されていたのである。この程度は出来て当然であろう。
――その有能という範疇にすら収まらない鬼才なエセルの法律上の配偶者である誰かさんは、それら莫大な資産を僅か五年で丸ごと失くすばかりではなくマイナスにするという、ある意味では非常に優秀なコトをやってのけちゃった挙句に高飛びするという離れ業までやってのけたが。
それにセシルは体力が純粋に半端なくあり、シェリーならば疲労困憊してしまう仕事量も難無く熟し、しかもその速度が落ちないというバケモノぶりを発揮していた。
まぁ、例えどれだけ体力があろうとも、「出来る」ことが多いと「疲労」も多くなるのは当然だが。
そんなお疲れな上に気持ち良い陽光に当てられてうつらうつらしているセシルの隣に、クローディアはなにも言わずにただ傍にいるだけであった。
声を掛けるでもなく――
労うでもなく――
――ただ、その傍にいるだけだ。
やがて、そのクローディアの肩になにかが乗り、青みを帯びた黒の――濡烏色の髪が流れ落ちるように零れる。
「……こんなところで寝ちゃうなんて、バカね」
ティーカップをソーサーに戻し、テーブルに置く。
そして空いた手で自分の肩に乗っているセシルの頭を優しく撫で、そのままゆっくりと、自身の大腿を枕にして横にした。
「いくら仕事が出来るといっても、一人じゃあ限界があるのよ。まったく、なんだかんだ言ってても昔からお人好しよね。ホント、私がいないと何処までも無理しちゃうんだから」
そう、昔から。
エセルが彼を伴って孤児院を訪れ、名も無く番号でしか呼ばれていなかった彼に「セシル」という名を与えたときから、彼は――セシルは誰よりも働いていた。
当時まだ九歳でしかなかったのに、誰よりも、成人間近な子供達よりも、働いていたのだ。
元々孤児院での食事は、一〇歳前後の女の子達が担当していたのだが、気付けばそれすらセシルが全て請け負っていた。
結果的には、一人に任せるのはいけないことだと言ったクローディアと、見様見真似でやっているうちに料理の楽しさに目覚めたリオノーラの三人が主に請け負うこととなったが。
そればかりではなく、孤児院内の全ての掃除や其処で生活している子供たち全ての洗濯も始めてしまい、流石にそれは皆のためにもならないと、孤児院を管理していたレミーに注意され、それだけは皆で協力してやることになったのだ。
――可能性としての憶測ではあるが、もしかしたら誰かさんが片付けられない汚部屋の主となったのは、セシルにも責任の一端があるのかも知れない。
それはともかく。
そんな風に一人で大量に抱え込んで、だが仕事が回らないなどは一切なく、逆に全てを完璧に仕上げてしまう。
セシルはそんな危うい離れ業を、幼少期から当たり前に熟していた。
「――貴方は昔からそう。他人に頼らず、常に全部を背負って努力して頑張って。でもきっと、貴方は言うんでしょうね。『頑張ってはいない』って」
努力は必要だ。
頑張ることも必要だし価値あるものだ。
だが――過ぎればそれは猛毒になる。
自分にとっても。
他人にとっても。
そしてそれらは、本人は元より周囲すら判断も理解も出来ない内に簡単に閾値を超え、場合によってはその全てを巻き込んで盛大に瓦解する。
交易都市バルブレアで教育校を設立したとき、同じく設立仲間であったデシレアもそれを感じていたようで、そのときは実力行使で休ませていた。
もっともそれが出来るのは、同じく仕事が出来るデシレアだけであり、クローディアには出来る筈もない。
だから、彼女は常にセシルの傍にいる。
生き急いでいるようにしか見えないセシルが、仮に閾値を超えてしまったときに、仮にその全てが終わってしまったときに、共に終わるために――
『ねぇセシル。どうしてそんなに頑張るの? そんなに急いだら疲れちゃうわよ』
『急いで……いるかな? でも、そうしないと全部無くしちゃう気がするんだ。今まで失うばかりで得られなかったから……だから、頑張って「今出来ること」をしておきたいんだ』
『……そう。判ったわ。じゃあもしもセシルが力尽きたときには、私が一緒にいてあげる。独りは――淋しいから』
――*――*――*――*――*――*――
商業ギルドの監査特務隊がイーロ・ネヴァライネン邸を強制捜査し、ある意味で色々と甚大な被害が出ちゃって一ヶ月後。
既に提出して受理印が押印されている報告書を前にして、ユーイン・アレンビーは引き攣った笑みを浮かべていた。
報告書が置かれているのは、サブマスターであるデリック・オルコックの机上であり、更に言うなら其処は彼の執務室であった。
「まぁ、あれだ」
脂汗を滴らせているユーインを、極上の笑顔で迎えるデリック。だが組んでいる手にとてつもない力が込められているのに、目敏いユーインは気付いている。
彼が――デリックがそうなっているときは、間違いなく碌でもないことしか起きない。
「実は先日、離婚れた妻と偶然に逢ってね」
「はあ」
突然なにを言い出すかと思えば。確かにデリックには離婚歴があると聞いたことがあるが、それに触れる命知らずはいない。
なにしろ彼は、名実共に商業ギルドのナンバー2であり、過去には〝草原の破壊者〟と呼ばれて怖れられていたのだから。
「ある不一致で離婚れたとはいえ、一度は夫婦であったからある程度は情が湧くものでな。酷く落ち込んでいたから話を聞いたんだ」
その後で有り得ないくらい絞られたが。一瞬だけだが半眼になり、えらく疲れた表情で独白するが、そんな些事などどうでも良いだろう。
「彼女は変態だから痴情の絡れだろうと思ったが、意外に操を立てていたのにはちょっと可愛いかなとは思ったが、問題は其処じゃない」
ちょっと惚気始めるデリックを、珍獣でも見つけたかのような視線を向けるユーインだが、目が真剣な笑顔を向けられて瞬時に凍り付いた。
「ネヴァライネン氏の装備品は、やはり帝国製で間違いないようだ。オスコション商会のときに騒動の種になった〝機関砲〟と入手経路は同じらしい。どうやら裏できな臭いことを始めているようだ」
「なんと!」
予想は出来ていた。
そもそも他国の介入なくして、このストラスアイラ王国で〝機関砲〟や〝魔導鎧〟などという兵器が手に入る筈がない。
「それは由々しき事態ですね。それで、どうするおつもりですか?」
表情を引き締め、真剣な眼差しを向けるユーイン。それに対してデリックは深い溜息を吐き、
「ああ、避妊する暇すら与えてくれなかったから、元妻が懐妊していないことを祈るばかりだよ。まぁでも以前に比べてちょっとまともになっていたから、そうなったらなったで復縁しても良いかな、とも考えているが」
「は?」
デリックの口からまさかな言葉が飛び出し、思わずユーインは自身の耳を疑った。
「あの、俺が訊きたかったのは帝国の動向とかであって――」
「そんなのは国が考えることだ。情報は提供するが後は知らん。それはさておき、そのときのピロトークで耳にしたのだが、ネヴァライネン邸の強制捜査があった夜、誰かが〝大海嘯〟を構築していたらしい」
とても良い笑顔で、だがやっぱり笑っていない目を向けられて、再び凍り付くユーイン。
実は実害が一切なかったために、その事実は報告書には上げていなかった。それにギルドの目撃者もおらず、いたとすればそれを強制詠唱破棄した誰かだけである。
よって、それが露呈するなど無いと考えていた。
「ちなみに、お前の大海嘯を〝 強制詠唱破棄〟したのは、私の元妻が勤務している商会の客人らしい。なんでも十年以上前からの顔見知りだそうだ。さて、申し開きはあるかな?」
その後、部下との痴情の絡れや他の諸々がコロコロ露呈しちゃったユーインは、チームを解体された上に半年間の85%減俸処分となったそうな。
まぁだからといって、高給取りな彼が生活に困るほどの減俸ではなく、更に言うなら財布をしっかり自称妹に握られているため、そういう面では大して痛くなかったそうな。
だが――
「あらお兄様。どうしてそのような処分が下されてしまわれたのですか? まさかとは思いますが、あの泥棒猫に現を抜かしてしまわれたのでしょうか? 困ったお兄様です。浮気が許しますが、本気は赦しませんよ」
「待て誤解だルシール! 俺はやましいことなど何一つしていない!」
「あらそうなのですか? これは申し訳ありませんでした。ではこのケネス様とデメトリオ様から報告書と、泥棒猫――へスター様からの離縁状に御心当たりは一切ないのですね?」
「何故そんなものが!?」
「皆様、それはとてもとても協力的で好感が持てる方々でしたわ。泥棒猫――へスター様も、お兄様と一時とはいえ身体の繋がりがなかったのなら、良いお友達になれそうでしたのに。残念です」
それから一週間ほど、ユーインは体調不良で休暇を貰ったそうである。
それについては様々な憶測が飛び交ったのだが、真相は闇の中であったとさ。