タムドゥー渓谷橋が落ちたとの報せを無線電話で受けたトミントール公国の元首、クレメンティーネ・フォン・ブランケンハイム大公夫人の行動は迅速だった。
その渓谷橋の携わった全ての技術者と救助のための兵を即日掻き集め、救援と支援物資を積み込んだ特別列車を手配し、自ら陣頭に立ってその日のうちにタムドゥー渓谷へと出立した。
人員を掻き集めて今後について話し合い、そして掛かる予算の概算を出してあーだこーだ机上で議論するなどという無駄はしない。説明と調査、そして救助活動の計画などは移動中に出来るのだから。
だがそれでも、公都クラガンモアから東端であるタムドゥー渓谷への道程は、トーモア塩湖があるノッカンドオ高地を大きく迂回しなければならないため、例え列車を無休で走らせても三日は掛かる。
そのまま手を拱いていれば、助かる者も助からないと判断したクレメンティーネは、湖上都市カードゥの領主であるディートフリード・フォン・シュパールヴァッサー辺境伯へ直接電話をして協力を仰いだ。
しかし、ディートフリードはそれを拒否した。
何故なら――その連絡を受けた即日、彼は誰に許可を得るでもなく、既に救助隊を現地へと派遣していたのだから。
――*――*――*――*――*――*――
その日、快晴のタムドゥー渓谷壁面にある鳥人族の邑では特産である養蜂の収穫最盛期を迎えていた。
タムドゥー渓谷は、実は非常に緑豊かな土地であり、様々な草花が咲き乱れる温暖な場所でもある。
そして其処には昔から鳥人族の邑が点在しており、前述の通り養蜂で生計を立てていた。
鳥人族が出荷している蜂蜜は質が良く、トミントール公国は元より他国でも高級品として高値で取引されている。
そのため鳥人族は非常に豊かであり、だがそれでもその生活形態は昔から変わっていない。
鳥人族の容姿は、両の腕が羽根になっているとか、足が三前趾足になっているとかではなく、見た目だけならヒト種と変わりない。
そして知能も低いわけではなく、個体によっては高度な知識と技術を持つ者もいる。
ただ違うのが、その背に大きな翼があることだ。
そしてその翼は飾りや伊達ではなく、自由に空を飛べるのは勿論、長距離の飛行すら可能なのである。
空を飛べるということは、戦いにおいて非常に大きな優位性があるのは知っての通りであり、当然それを生かそうと時の権力者が種々様々な方法で取り込もうとした。
だが彼らは非常に穏和であり、争いを好まない性質をしていたため、それらを頑なに拒絶し、そしてそれが元で争いが起きてしまった。
鳥人族は、争いを好まない。
だが――穏和であることと、戦闘能力がないことは別である。
それに彼らは、自分たちに牙を剥く者どもを、決して許さない。
恩には恩を、仇には仇で返すのが、鳥人族が古より培って来た教えであり、そして最早それは習性と言ってしまっても良い行動原理であった。
その戦いは、空を制した鳥人族の一方的な蹂躙で終わり、そして戦いを仕掛けた者どもは、容赦なく須く皆殺しにされたと、当時を物語る書は伝えているという――
――のだが、実際は追い払っただけで、殺傷は出来る限りしていなかったようである。
捕まえて高度千メートルまで急上昇するとか、高速で背面ループするとか、錐揉み状態で自由落下するとか、紐なしバンジーをさせてから追い付いて捕まえるとか、高所が苦手な著者だったら絶対失禁するであろうことをフルセットで行い、ちょっと死ぬほど怖がらせはしたのだが。
その鳥人族が蜂蜜の収穫作業をしているとき、遥か上にある、数年前に出来た橋から大気を震わせる轟音が響き渡り、そして列車が落ちて来た。
橋から鳥人族が育てている養蜂場は離れており、それに関しては問題ない。
だが、その橋の真下付近には、子供たちが遊び場にしている広場があった。
そこへ、爆発と共に破壊された橋桁と列車が落ちて来たのである。
セメントで固められた橋桁が砕け、それが瓦礫となって降り注ぐ。だがそればかりではなく、十両編成の列車もそれと共に落ちてくる様は、悪夢さながらであった。
総重量30トンを超える乗客列車や、それを超える貨物列車、そして更に重い機関列車は、それだけで既に質量兵器と同義であろう。
鳥人族も落ちて来るそれを、ただのうのうと見ていたわけではない。
彼らが得意とする風魔法を使って瓦礫や列車を吹き飛ばそうとするのだが、それほどの質量をどうにか出来るわけもなく、それの軌道は一切変わらず子供たちへと降り注いだ。
最早成す術もないと思われたそのとき――
「〝二十重詠唱〟展開」
何処からともなく、涼やかな女の声がした。そして、凄まじい魔力の奔流が渓谷内を満たす。
「十連〝水球〟」
その声と共に巨大な水が空を満たし、瓦礫と列車を受け止める。
だがそれは僅かばかりに落下速度を遅らせただけであり、質量そのものが発するであろう破壊力は殺せていなかった。
絶望と共にそれらを呆然と見上げる鳥人族の子供たち。悲鳴を上げる暇すら、既にない。
「五連〝激流〟」
子供たちの上空数十メートルまで、その水に包まれた瓦礫と列車が迫ったそのとき、その水が渓谷に流れる河川の方向へずれた。あたかも、其処が急流であるかのように。
「三連〝水蒸気爆破〟」
そしてその流れを加速させるように、水の一部が弾けて周囲に衝撃波を撒き散らす。それによって子供たちはおろか大人の鳥人族たちまでも軽く吹き飛んだのだが、それは仕方がない。
瓦礫と列車は激しい水飛沫を上げて川に落ち、今度はそれを包んでいた水が津波となって邑へと流れ込む。
「二連〝風嵐《トルナード》〟」
それが村を飲み込もうとしたそのとき、それの正面に巨大な竜巻が発生して水を巻き上げる。
それは不思議なことに水だけに作用し、空高く巻き上げて散らせ、やがて霧雨となって降り注いだ。
「――詠唱破棄」
渓谷を満たしていた魔力が消失し、降り始めた霧雨に濡れながら、そんな奇跡のような光景に呆然とする鳥人族達の前に、遅れてなにかが落ちた。
それは赤く血濡れ、そして――右腕と両足を失い、更に腸が飛び出しているヒト種の女であった。
彼女はこの列車の乗客なのだろう。鳥人族達はそう考え、そして手足の欠損ばかりか腹にすら穴が開いている状態の彼女を見て、成す術もなく立ち尽くすしかなかった。
自分達には医療技術はなく、そして傷を癒せる魔法を使うことも出来ないのだから。
何も出来ない、何もしてやれない。ただ、見守るしか出来ない。
そうやって呆然としている鳥人族へ、そのヒト種の女は目を向け、
――誰も、怪我していないよね……?
微笑みを浮かべ、呟いた。
そう、彼女は、浅く息をしながら朦朧とし、自らが死に瀕して尚、初めて会う自分たちを気遣った。
そして悟った。先ほどの奇跡のような光景を生み出したのは、このヒト種の女なのだと。
――彼女を死なせてならない。
鳥人族の誰もがそう思い、そして族長をはじめとし、どうしたら良いのかを検討した。だが彼らが扱う薬草程度では、軽い怪我しか癒せない。つまり、此処にいては確実に死んでしまう。
それは絶対に避けなければならない。
自分達は、彼女に命を救われた。しかも救われたのは大人ではなく、未来ある子供たちだ。その命の恩は、命で返さなければならないから。
今にも息絶えようとしている彼女を、血が流れ出る手足を縛って邑にある薬草で傷口を覆い、腸を戻して皮膚を縫い留め、そして最も速く空を翔ける者へ託し、ヒト種の街へと飛び立った。
向かった先は――湖上都市カードゥ。領主であるシュパールヴァッサー辺境伯は、この邑で採れる蜂蜜を好んでおり、懇意に取引してくれているから。
そう、鳥人族は、その一縷の望みに賭けたのである。
彼女を託されたその鳥人族は最速で空を翔け、100キロメートルはある距離を僅か一〇分で翔け抜けた。
更にそのまま街の城壁を飛び越え、あろうことか領主館の、更に領主の執務室へ直接向かったのである。
窓をノックされ、不審に思い振り向いたシュパールヴァッサー辺境伯の眼に、全身を赤く染めながら血まみれの女を抱き締め、咽び泣いている鳥人族が映る。
明らかに尋常ではない様相に驚きながら、だが鳥人族が其処までするのは理由があるのだろうと考え、窓を開けて招き入れた。
その鳥人族は酷く消耗していたが、そんな自分のことなど構わずに、その腕の中にいる血だらけの女を助けてくれと訴えた。
突然そんなことを言われても戸惑うばかりであり、事情を詳しく聞こうとするのだが、ただ繰り返しそう言うばかりで話にならない。
そしてシュパールヴァッサー辺境伯は決断した。
事情は後で幾らでも聞ける。だが今は、この鳥人族の願いを聞き入れることが優先だ、と。
なにしろ温和で知能も高く、清廉であり、更に滅多なことでは人里に来ることすらない鳥人族が、禁忌を犯してまで来たのだ。無下に出来る筈もない。
辺境伯は即座に医師と治癒魔術師を手配し、領主館にある客室へその女を連れて行った。
そしてこのとき初めて、鳥人族が連れて来たのがヒト種の女だと知り、更にその惨憺たる有様に絶句したのである。
だがそんな辺境伯の考えとは別に、城壁を飛び越えるのは禁忌とされており、それは例え空を翔ける鳥人族も例外ではなかった。まして領主館へ直接向かい、領主へ直談判するなどという行為は、例えなにがあろうと許されるものではない。
その鳥人族は捕縛され地下牢へと収監されたのだが、一切の抵抗をすることなく、逆に自ら進んで刑罰を受け入れた。
それを知った辺境伯は怒りを露にしたのだが、けじめは大切と部下達に言われて押し黙るしかない。
シュパールヴァッサー辺境伯は優秀ではあるのだが、情に流され易いと常々言われていた。そして領民も、そこがまた良いんだよなぁ~とか異口同音に言っていたりするが。
ヒト種の女の治療を医師と治癒魔術師に任せ、彼は捕縛された鳥人族へ面会し、なにがあったのかを訊き、そして――タムドゥー渓谷橋が落ちたのを知ることとなる。
その後は部下を集め、列車を手配して状況把握と救助のため現地へ派遣し、公都クラガンモアへ無線電話をして事故と現時点での状況を報せるなど、慌ただしく動いていた。
ちなみに捕縛されていた鳥人族は、事故を真っ先に知らせたという理由で超法規的措置が取られ、その一切の罪を問われることはなく、逆にそうしたことにより栄誉領民の褒章すら与えられる運びとなったのだが、そんなどうでも良いことなんかよりも彼女を助けてくれと言われて、結局は辞退となったのである。
三日後、彼女はなんとか一命を取り留め、だが血を流し過ぎたことと腹に受けた傷が非常に悪く、一週間は保たないであろうと医師は言った。
ベッドに横たわり、蝋のように蒼白な顔でありながら、彼女は辺境伯が面会に現れると、花のように微笑んだ。
――美しい女性だ。
彼が最初に受けた印象は、それだった。
シュパールヴァッサー辺境伯は独身である。そして浮いた噂すら一切ないほど真面目であり、そのあまりの真面目ぶりから領民からすら「堅物領主」と揶揄されるほどであった。
別に異性に興味がないわけではない。ただ、自分の興味が湧く異性がいないだけである。彼はそう考えているのだが、青い血が絶えるのを殊の外怖れる貴族である以上、好き嫌いに限らずいつかは娶らねばならない。
それがいつであるのかは明言していなかった。そして、本当にそれが訪れる日が来るのかすら怪しいかった。
だが――
彼女を見た瞬間、彼は――シュパールヴァッサー辺境伯は、それがいまだと感じてしまった。
ベッドに横たわる彼女の前で恭しく片膝を吐き、唯一残っている、だが動かせない左手をとって口付けをする。
そして言った。
自分の妻になって欲しい――と。
傍付きや医師、看護人は度肝を抜かれ、そして言われた彼女も意味が分からず呆然としていた。
ギャーギャー騒ぎ出す傍付きや頭を抱える医師、何故か頬を赤らめ夢現で「禁断の恋 (ハァハァ)」とか言っている看護人を悉く無視して、彼は彼女の返答を待った。
彼女は溜息を一つ吐き、寂しげに微笑んで、正面から彼を見詰め――
――ごめんなさい、あたしは既婚者で、子供もいるの――
そう言い、彼の求婚を断った。
それでも構わないと言い出すシュパールヴァッサー辺境伯だが、そんなことは許さないとばかりに傍付きに連行され強制退場となった。
そんなドタバタがあったりしたのだが、確実に彼女の命の火は消えて行く。
辺境伯は暇さえあれば彼女の元を訪れ、諦めることなく求婚し続け、そして部下や執事に連行されるといったことを繰り返し、そして彼女は、手記代行士を呼んで貰い、遺書ともいうべき手紙を記していた。
そして一週間後。
助けてくれた礼がしたいと鳥人族の長老と子供たちが彼女の元を訪れる。
このときの彼女は、既に意識すら保っているのが奇跡というほどの状態であった。
だがそれでも、彼らと子供たちを認めると朦朧としていた意識が戻り、持参した彼らの特産である蜂蜜を口に含み、
――美味しい。シェリーにも、食べさせてあげたいなぁ――
それが最後の言葉となり、医師や看護人は元より、シュパールヴァッサー辺境伯と鳥人族の長老と随行した子供たち、そして手記代行士のフレデリカが見守る中、エセル・アップルジャックはその生涯を閉じた――
――享年二七歳であった。
その渓谷橋の携わった全ての技術者と救助のための兵を即日掻き集め、救援と支援物資を積み込んだ特別列車を手配し、自ら陣頭に立ってその日のうちにタムドゥー渓谷へと出立した。
人員を掻き集めて今後について話し合い、そして掛かる予算の概算を出してあーだこーだ机上で議論するなどという無駄はしない。説明と調査、そして救助活動の計画などは移動中に出来るのだから。
だがそれでも、公都クラガンモアから東端であるタムドゥー渓谷への道程は、トーモア塩湖があるノッカンドオ高地を大きく迂回しなければならないため、例え列車を無休で走らせても三日は掛かる。
そのまま手を拱いていれば、助かる者も助からないと判断したクレメンティーネは、湖上都市カードゥの領主であるディートフリード・フォン・シュパールヴァッサー辺境伯へ直接電話をして協力を仰いだ。
しかし、ディートフリードはそれを拒否した。
何故なら――その連絡を受けた即日、彼は誰に許可を得るでもなく、既に救助隊を現地へと派遣していたのだから。
――*――*――*――*――*――*――
その日、快晴のタムドゥー渓谷壁面にある鳥人族の邑では特産である養蜂の収穫最盛期を迎えていた。
タムドゥー渓谷は、実は非常に緑豊かな土地であり、様々な草花が咲き乱れる温暖な場所でもある。
そして其処には昔から鳥人族の邑が点在しており、前述の通り養蜂で生計を立てていた。
鳥人族が出荷している蜂蜜は質が良く、トミントール公国は元より他国でも高級品として高値で取引されている。
そのため鳥人族は非常に豊かであり、だがそれでもその生活形態は昔から変わっていない。
鳥人族の容姿は、両の腕が羽根になっているとか、足が三前趾足になっているとかではなく、見た目だけならヒト種と変わりない。
そして知能も低いわけではなく、個体によっては高度な知識と技術を持つ者もいる。
ただ違うのが、その背に大きな翼があることだ。
そしてその翼は飾りや伊達ではなく、自由に空を飛べるのは勿論、長距離の飛行すら可能なのである。
空を飛べるということは、戦いにおいて非常に大きな優位性があるのは知っての通りであり、当然それを生かそうと時の権力者が種々様々な方法で取り込もうとした。
だが彼らは非常に穏和であり、争いを好まない性質をしていたため、それらを頑なに拒絶し、そしてそれが元で争いが起きてしまった。
鳥人族は、争いを好まない。
だが――穏和であることと、戦闘能力がないことは別である。
それに彼らは、自分たちに牙を剥く者どもを、決して許さない。
恩には恩を、仇には仇で返すのが、鳥人族が古より培って来た教えであり、そして最早それは習性と言ってしまっても良い行動原理であった。
その戦いは、空を制した鳥人族の一方的な蹂躙で終わり、そして戦いを仕掛けた者どもは、容赦なく須く皆殺しにされたと、当時を物語る書は伝えているという――
――のだが、実際は追い払っただけで、殺傷は出来る限りしていなかったようである。
捕まえて高度千メートルまで急上昇するとか、高速で背面ループするとか、錐揉み状態で自由落下するとか、紐なしバンジーをさせてから追い付いて捕まえるとか、高所が苦手な著者だったら絶対失禁するであろうことをフルセットで行い、ちょっと死ぬほど怖がらせはしたのだが。
その鳥人族が蜂蜜の収穫作業をしているとき、遥か上にある、数年前に出来た橋から大気を震わせる轟音が響き渡り、そして列車が落ちて来た。
橋から鳥人族が育てている養蜂場は離れており、それに関しては問題ない。
だが、その橋の真下付近には、子供たちが遊び場にしている広場があった。
そこへ、爆発と共に破壊された橋桁と列車が落ちて来たのである。
セメントで固められた橋桁が砕け、それが瓦礫となって降り注ぐ。だがそればかりではなく、十両編成の列車もそれと共に落ちてくる様は、悪夢さながらであった。
総重量30トンを超える乗客列車や、それを超える貨物列車、そして更に重い機関列車は、それだけで既に質量兵器と同義であろう。
鳥人族も落ちて来るそれを、ただのうのうと見ていたわけではない。
彼らが得意とする風魔法を使って瓦礫や列車を吹き飛ばそうとするのだが、それほどの質量をどうにか出来るわけもなく、それの軌道は一切変わらず子供たちへと降り注いだ。
最早成す術もないと思われたそのとき――
「〝二十重詠唱〟展開」
何処からともなく、涼やかな女の声がした。そして、凄まじい魔力の奔流が渓谷内を満たす。
「十連〝水球〟」
その声と共に巨大な水が空を満たし、瓦礫と列車を受け止める。
だがそれは僅かばかりに落下速度を遅らせただけであり、質量そのものが発するであろう破壊力は殺せていなかった。
絶望と共にそれらを呆然と見上げる鳥人族の子供たち。悲鳴を上げる暇すら、既にない。
「五連〝激流〟」
子供たちの上空数十メートルまで、その水に包まれた瓦礫と列車が迫ったそのとき、その水が渓谷に流れる河川の方向へずれた。あたかも、其処が急流であるかのように。
「三連〝水蒸気爆破〟」
そしてその流れを加速させるように、水の一部が弾けて周囲に衝撃波を撒き散らす。それによって子供たちはおろか大人の鳥人族たちまでも軽く吹き飛んだのだが、それは仕方がない。
瓦礫と列車は激しい水飛沫を上げて川に落ち、今度はそれを包んでいた水が津波となって邑へと流れ込む。
「二連〝風嵐《トルナード》〟」
それが村を飲み込もうとしたそのとき、それの正面に巨大な竜巻が発生して水を巻き上げる。
それは不思議なことに水だけに作用し、空高く巻き上げて散らせ、やがて霧雨となって降り注いだ。
「――詠唱破棄」
渓谷を満たしていた魔力が消失し、降り始めた霧雨に濡れながら、そんな奇跡のような光景に呆然とする鳥人族達の前に、遅れてなにかが落ちた。
それは赤く血濡れ、そして――右腕と両足を失い、更に腸が飛び出しているヒト種の女であった。
彼女はこの列車の乗客なのだろう。鳥人族達はそう考え、そして手足の欠損ばかりか腹にすら穴が開いている状態の彼女を見て、成す術もなく立ち尽くすしかなかった。
自分達には医療技術はなく、そして傷を癒せる魔法を使うことも出来ないのだから。
何も出来ない、何もしてやれない。ただ、見守るしか出来ない。
そうやって呆然としている鳥人族へ、そのヒト種の女は目を向け、
――誰も、怪我していないよね……?
微笑みを浮かべ、呟いた。
そう、彼女は、浅く息をしながら朦朧とし、自らが死に瀕して尚、初めて会う自分たちを気遣った。
そして悟った。先ほどの奇跡のような光景を生み出したのは、このヒト種の女なのだと。
――彼女を死なせてならない。
鳥人族の誰もがそう思い、そして族長をはじめとし、どうしたら良いのかを検討した。だが彼らが扱う薬草程度では、軽い怪我しか癒せない。つまり、此処にいては確実に死んでしまう。
それは絶対に避けなければならない。
自分達は、彼女に命を救われた。しかも救われたのは大人ではなく、未来ある子供たちだ。その命の恩は、命で返さなければならないから。
今にも息絶えようとしている彼女を、血が流れ出る手足を縛って邑にある薬草で傷口を覆い、腸を戻して皮膚を縫い留め、そして最も速く空を翔ける者へ託し、ヒト種の街へと飛び立った。
向かった先は――湖上都市カードゥ。領主であるシュパールヴァッサー辺境伯は、この邑で採れる蜂蜜を好んでおり、懇意に取引してくれているから。
そう、鳥人族は、その一縷の望みに賭けたのである。
彼女を託されたその鳥人族は最速で空を翔け、100キロメートルはある距離を僅か一〇分で翔け抜けた。
更にそのまま街の城壁を飛び越え、あろうことか領主館の、更に領主の執務室へ直接向かったのである。
窓をノックされ、不審に思い振り向いたシュパールヴァッサー辺境伯の眼に、全身を赤く染めながら血まみれの女を抱き締め、咽び泣いている鳥人族が映る。
明らかに尋常ではない様相に驚きながら、だが鳥人族が其処までするのは理由があるのだろうと考え、窓を開けて招き入れた。
その鳥人族は酷く消耗していたが、そんな自分のことなど構わずに、その腕の中にいる血だらけの女を助けてくれと訴えた。
突然そんなことを言われても戸惑うばかりであり、事情を詳しく聞こうとするのだが、ただ繰り返しそう言うばかりで話にならない。
そしてシュパールヴァッサー辺境伯は決断した。
事情は後で幾らでも聞ける。だが今は、この鳥人族の願いを聞き入れることが優先だ、と。
なにしろ温和で知能も高く、清廉であり、更に滅多なことでは人里に来ることすらない鳥人族が、禁忌を犯してまで来たのだ。無下に出来る筈もない。
辺境伯は即座に医師と治癒魔術師を手配し、領主館にある客室へその女を連れて行った。
そしてこのとき初めて、鳥人族が連れて来たのがヒト種の女だと知り、更にその惨憺たる有様に絶句したのである。
だがそんな辺境伯の考えとは別に、城壁を飛び越えるのは禁忌とされており、それは例え空を翔ける鳥人族も例外ではなかった。まして領主館へ直接向かい、領主へ直談判するなどという行為は、例えなにがあろうと許されるものではない。
その鳥人族は捕縛され地下牢へと収監されたのだが、一切の抵抗をすることなく、逆に自ら進んで刑罰を受け入れた。
それを知った辺境伯は怒りを露にしたのだが、けじめは大切と部下達に言われて押し黙るしかない。
シュパールヴァッサー辺境伯は優秀ではあるのだが、情に流され易いと常々言われていた。そして領民も、そこがまた良いんだよなぁ~とか異口同音に言っていたりするが。
ヒト種の女の治療を医師と治癒魔術師に任せ、彼は捕縛された鳥人族へ面会し、なにがあったのかを訊き、そして――タムドゥー渓谷橋が落ちたのを知ることとなる。
その後は部下を集め、列車を手配して状況把握と救助のため現地へ派遣し、公都クラガンモアへ無線電話をして事故と現時点での状況を報せるなど、慌ただしく動いていた。
ちなみに捕縛されていた鳥人族は、事故を真っ先に知らせたという理由で超法規的措置が取られ、その一切の罪を問われることはなく、逆にそうしたことにより栄誉領民の褒章すら与えられる運びとなったのだが、そんなどうでも良いことなんかよりも彼女を助けてくれと言われて、結局は辞退となったのである。
三日後、彼女はなんとか一命を取り留め、だが血を流し過ぎたことと腹に受けた傷が非常に悪く、一週間は保たないであろうと医師は言った。
ベッドに横たわり、蝋のように蒼白な顔でありながら、彼女は辺境伯が面会に現れると、花のように微笑んだ。
――美しい女性だ。
彼が最初に受けた印象は、それだった。
シュパールヴァッサー辺境伯は独身である。そして浮いた噂すら一切ないほど真面目であり、そのあまりの真面目ぶりから領民からすら「堅物領主」と揶揄されるほどであった。
別に異性に興味がないわけではない。ただ、自分の興味が湧く異性がいないだけである。彼はそう考えているのだが、青い血が絶えるのを殊の外怖れる貴族である以上、好き嫌いに限らずいつかは娶らねばならない。
それがいつであるのかは明言していなかった。そして、本当にそれが訪れる日が来るのかすら怪しいかった。
だが――
彼女を見た瞬間、彼は――シュパールヴァッサー辺境伯は、それがいまだと感じてしまった。
ベッドに横たわる彼女の前で恭しく片膝を吐き、唯一残っている、だが動かせない左手をとって口付けをする。
そして言った。
自分の妻になって欲しい――と。
傍付きや医師、看護人は度肝を抜かれ、そして言われた彼女も意味が分からず呆然としていた。
ギャーギャー騒ぎ出す傍付きや頭を抱える医師、何故か頬を赤らめ夢現で「禁断の恋 (ハァハァ)」とか言っている看護人を悉く無視して、彼は彼女の返答を待った。
彼女は溜息を一つ吐き、寂しげに微笑んで、正面から彼を見詰め――
――ごめんなさい、あたしは既婚者で、子供もいるの――
そう言い、彼の求婚を断った。
それでも構わないと言い出すシュパールヴァッサー辺境伯だが、そんなことは許さないとばかりに傍付きに連行され強制退場となった。
そんなドタバタがあったりしたのだが、確実に彼女の命の火は消えて行く。
辺境伯は暇さえあれば彼女の元を訪れ、諦めることなく求婚し続け、そして部下や執事に連行されるといったことを繰り返し、そして彼女は、手記代行士を呼んで貰い、遺書ともいうべき手紙を記していた。
そして一週間後。
助けてくれた礼がしたいと鳥人族の長老と子供たちが彼女の元を訪れる。
このときの彼女は、既に意識すら保っているのが奇跡というほどの状態であった。
だがそれでも、彼らと子供たちを認めると朦朧としていた意識が戻り、持参した彼らの特産である蜂蜜を口に含み、
――美味しい。シェリーにも、食べさせてあげたいなぁ――
それが最後の言葉となり、医師や看護人は元より、シュパールヴァッサー辺境伯と鳥人族の長老と随行した子供たち、そして手記代行士のフレデリカが見守る中、エセル・アップルジャックはその生涯を閉じた――
――享年二七歳であった。