交易都市バルブレアはダルモア王国の北西に位置しており、北の武装国家と物騒な通称で呼ばれているブレアアソール帝国と、南の温暖で農耕と牧畜が盛んなストラスアイラ王国との国境沿いにあり、それぞれ街道一本で各国への移動が可能な、まさしく交易のための都市である――
――と蘊蓄が続きそうだが、とりあえずは各国への道が交わっているため、交易が盛んな街という認識で問題ない。詳細な説明は面ど――目が滑るため端折ることにする。
そんな交易都市の中心部は、半径約20キロメートルの外周を10メートル強の高さの壁で囲まれており、だがそれの外にも街が発展していた。
その街の外周にも5メートルの壁が作られ、更にその外にも町が作られている。そしてその発展は未だ止まるところを知らず、今尚都市として成長を続けていた。
簡単に予想出来ると思うのだが、壁で隔てられたその街の名称は最初に作られた中心街からそれぞれ順番に、第一街、第二街、そして第三街と、そのまんまで呼ばれていたりする。
リンゴに口付ける森妖精の紋――アップルジャック商会の商標が入った馬車は、そのバルブレアの第三街東端にある、門構えがやたらと立派で、その先に頑丈そうな作りの宿舎が立ち並ぶ住居に入って行った。
その立派な門の上には大きな看板が横に取り付けてあり、そこにはやけに丸い書体で、
「cache-cache,coucou」
と、書かれている。
何故「cache-cache,coucou」なんだろうと、リーに抱かれながら幌の隙間から目敏くそれを見た少年は疑問に思う。
だが取り分け大きな宿舎前に馬車が停まると、方々の扉が勢い良く開いて大人数の子供達が駆け寄って来る様を目の当たりにして、全てを理解した。
ここは孤児院なのだろう。ならば赤子をあやすためにする「いないいないばぁ」と書かれているのも納得出来る。
ちなみに少年は、識字などの語学に関しては完璧だ。暗殺者は知識と教養がなければ務まらない。そして貴族の常識も礼も、全て知識として学ばせられていた。
その程度が出来ない暗殺者は三流以下だし、そして使えない三流は生きて行けないから。
「ああ、なるほど。この子を此処に預けるのですか」
そんな独白をするリー。だが少年を離す気は一切ないようで、相変わらず対面で抱き付かせて頭ナデナデ背中ポンポンしている。よほど気に入ったらしい。
「そんなところね。まさか突然グレンカダムに連れて行くわけにはいかないでしょ? イヴォンの莫迦になに言われるか判らないし。ま、カルヴァドスお義父さんだったら笑って許してくれそうだけど」
若干――いや、相当嫌そうな表情でそんなことを言うエセル。イヴォンに昏睡強姦されて妊娠させられ、そして現在に至る彼女にしてみれば、そうなるのは当たり前だろう。
もっとも経過はどうあれ、とても良くしてくれる義父母がいる現在は満足しているが。
本当に、どうやったらあの優秀なカルヴァドスとカミュからイヴォンなどというアレなのが生まれたのだろう。
実に不可解だ――と、他ならぬその二人が珍しく酔っ払ってエセルに愚痴を零したことがあったりする。
ちなみにそんなことを言われているイヴォンはというと、両親からすら無能の烙印を押されているなど露知らず、夜毎歓楽街に繰り出し「ヒャッハー!」していた。
カルヴァドスは一度、全てを器用に熟して成果を上げるエセルに、無論冗談でだが自分の第二夫人にならないかと言ったことがあった。
だがそれに対してエセルは、一瞬キョトン顔をしたのだが即座に、
「え? お願いして良いんですか? あたしは全然構いませんよ」
などと言っちゃっていた。
それは全くの予想外であり、だがカルヴァドスとカミュはその返答から数十分以上も悩み、
「エセルちゃんを俺の嫁にしたい! だが莫迦息子の嫁を取るわけにはいかない! きっとこの娘を逃したら大莫迦息子に嫁は二度と来ない! それにエセルちゃんのお腹には孫がいる! 屑莫迦息子はどうでも良いが、エセルちゃんが義理とはいえ娘になるんだ! それで納得しろカルヴァドス!」
「エセルちゃんを私の妻仲間にしたい! きっと一緒に楽しく過ごせるだろうし、カルヴァドスとエセルちゃんの子供なら絶対に可愛いと思う! 孫も良いけどカルヴァドスの子供をまた見たいわ! でも我慢よカミュ! 今エセルちゃんを逃してしまったらあの莫迦は碌でもない女に引っ掛かって商会ごと滅びるに違いないもの!」
などと散々なことを口走り、二人して血涙を流す勢いで腸が捻じ切れるんじゃないかとばかりな覚悟を決めてそれを断念した。
結果的にその子はとある事情で死産となり、その原因を作ったイヴォンをカルヴァドスは遂に見限り、そしてあのときエセルを嫁にしておけば良かったとカミュ共々死ぬほど後悔したという。
関係ないが、カミュはイヴォンを生んだ後の肥立ちが悪くて死に掛け、それ以降は子を生せなくなっていた。
ちなみに出産時に色々あったためにイヴォンがそうなったとかでは、決してない。
彼はなんの問題もなくスクスク成長し、学校に入学してから遊ぶ楽しさと楽を学習してしまい、勉学はほぼしていなかった。
結果的に彼がそんな有様になったのは、誰の所為でもなく勉学を疎かにして楽しかしていないイヴォン自身の所為である。はっきり言って、親は関係ない。
そんな懐かしい六年前の出来事を思い出し、反対されてもカルヴァドスの妻になるべきだったか? とか、いやそうなるとシェリーは生まれていないしアイザックともムニャムニャ……とか考えて「はふぅ」と熱い吐息を漏らすエセル。なんとなく考えていることを悟ったリーの白い目には気付かない。
「ザックとの逢瀬を思い出して欲情しているところ申し訳ないのですが、そろそろ降りて頂かないと用が足せません。まったく、本能と煩悩に忠実に素直になってザックとまた◯◯◯◯したいって言えば良いのに面倒臭いですねエセル様は。エイリーンならきっと喜んで『一緒にしよう』って言いますよ」
「そんなこと思ってないからね! それに複数人は嫌よ! というか面倒臭い言わないで!」
「つまり一対一ならオーケーってことですね? その独占欲、流石はエセル様です。判りました、セッティングしてみましょう。ザックならきっと大丈夫ですよ。ノリノリで快諾するでしょう。それに彼はヒト種としても優秀ですから、エセル様もきっと満足出来ますよ。なにしろ素手で神龍を殴り倒すくらいな化物ぶりですから、床でも無双してくれます」
「オーケーじゃないからセッティングしないで! お願いだから黙ってて誰にも言わないで! それにザックが色々と凄いっていうのはもう知ってるから!」
エセルに対して、リーの直接攻撃が容赦ない。言い分としては、煮え切らないではっきりさせないから苛々する、だそうである。
そんな風に二人して戯れたあと、渋って離さないリーから少年を取り上げて、勿論おふざけではあるが、子供から無理に別離させられる母親よろしく軽く絶望させ、一際大きな宿舎へと案内する。
その宿舎は正面玄関を潜ると一段高くなっており、左右の壁にある棚に子供達の靴が並んでいた。
少年を案内するエセルも其処で靴を脱ぎ、その棚――靴棚に置いて中に入る。
そして少年も、なんの違和感もなく戸惑うこともなく靴を脱いでそこへ置く。
そう、まるで最初から土足で入らない場所だと知っているかのように。
「……ふぅん、此処じゃあこういうのを知っている人なんていないのに、キミはコレを知っているんだね」
エセルの独白にも似た呟きを耳にして我に返った少年は、半身を引いて身構える。
それは幼少期より以前から繰り返えされた、本能に刷り込む凄絶な訓練により身に付けさせられた自衛の術。
暗殺者は目的を達成しその成果を報せるまで、死ぬことは許されないから。
「あ、警戒しなくて良いよ。別にキミが何者で、どういった経緯で此処に至ったとか、ハッキリ言って興味ないから。それに――」
肩を竦めて溜息を吐き、エセルが言う。その言葉が意外で肩透かされたのか、少年は目を瞬かせる。
だが次の瞬間、影が差したと眼と脳が理解しただけなのに、エセルの人差し指が少年の喉元に僅かに触れる程度にだが突き立てられていた。
「どれだけ警戒しても、少年は弱いからそんなのするだけ無駄だよ」
――いつでも殺せる。
暗にそう言われ、村では既に一人前だと言われていた筈の自信が崩れるのを、少年は感じた。
そう、今のエセルの動きは、少年には全く見えなかったのである。
それは動きが速いということではなく、瞬きをして視界が瞬間的に暗転した「虚」を突かれたのだ。
瞬きの「虚」を突くと簡単に言うが、それを現実に実行するのはほぼ不可能。
可能とするためには、視覚情報の伝達を経由させては間に合わない。それに一秒を一秒と認識するのではなく、最低でも一秒を百分割して行動しなければ到底間に合わないのである。
つまり、常人には不可能。
「ま、でもそんなのどうでも良いのよね~。強くなりたいんならリーが色々教えてくれるだろうし、それに魔法を学びたいならあたしが教えてあげるよ」
喉元から指を離し、そしてしゃがんで目線の高さを合わせてから頭をワシャワシャ撫でる。
そのエセルの行動一つひとつに殺気や邪気が一切なく、少年の本能的な自衛行動が一切働かない。さっきのリーは色々邪な考えが透けまくっていたが。
こんなことは初めてだ。少年は独白する。どれだけ熟練した暗殺者でもその瞬間は達人ですら気付かない程度のごく僅かにだがそれが漏れるというのに。
潺湲のように乱れず、呼吸すら乱れないエセルのその動きに、少年の心は昂揚した。
そしてそればかりではなく、まだ歳若い筈のエセルという女に興味が湧き、更にその美しさに、先程の会話を聞く限り子持ちの人妻であるにも関わらず、別の意味でも胸が高鳴るのを感じてしまう。
そんな熱の籠もった視線を感じたのか、今度はちょっと困った表情を浮かべるエセル。
「えーとね、キミが以前は幾つだったかは知らないけど、コッチでは親子くらい歳が離れてるからね? あたしに『トゥンク』されても困るから。あ、リーになら幾らでもして良いよ。草原妖精だからヒトの倍以上生きるし今からでも充分釣り合い取れるよきっと!」
「別に『トゥンク』なんてしていない!」
顔を真っ赤にして、思わず少年はそんなことを言う。しかし即座に失言に気付き、だが逆に意外そうな表情を浮かべて驚いているエセルを目の当たりにして、今度は諦めたように溜息を吐いた。
「……イチャイチャしているところ大変申し訳ないのですが、とっとと入って貰えないと邪魔で荷物を運べません。『運送屋』さんも困ってますのでそういうことは密室でして下さい。そして私めも混ぜて下さいませ。技を駆使してエセル様も少年も満足させてみせます」
「イチャイチャしてないわよなに言ってるのよ! それに少年相手にそんな犯罪臭漂うことなんてしません!」
「おやおやぁ? 合意の元なら良いではないですか。でもそういうのに抵抗があるのなら、判りました、私がエセル様を満足させてみせましょう。男もいいですが、女同士もなかなかイイですよ?」
「待って! リーって両刀だったの!? あたしは正常だからね!? おかしな性癖に巻き込まないで!」
「気持ち良いならなんだって良いじゃないですか。それに女同士の方が種付けされない分安全なんですよ?」
「……その発想はなかったわ。でもあたしは別に、快楽を求めて生きているワケじゃないから。あとこの会話まだ続ける? 後ろでその『運送屋』さんが凄く困ってるんだけど?」
「おっと、これは失礼」
エセルとリーの猥談を耳にして、言われた「運送屋」さん達はちょっと困った表情だったり妙に照れていたり、更にはやけに眼をギラつかせてハァハァしているヤツもいたりする。
まぁ可愛い系美人のエセルや、見ようによっては合法ロリで可愛いリーがそんな会話をしていたら、それは仕方のないことだろう。
そんなバカなことをしながら、若干の身の危険を感じつつ、少年は促されるままその宿舎の奥へと、警戒を強めて歩を進めた。
――と蘊蓄が続きそうだが、とりあえずは各国への道が交わっているため、交易が盛んな街という認識で問題ない。詳細な説明は面ど――目が滑るため端折ることにする。
そんな交易都市の中心部は、半径約20キロメートルの外周を10メートル強の高さの壁で囲まれており、だがそれの外にも街が発展していた。
その街の外周にも5メートルの壁が作られ、更にその外にも町が作られている。そしてその発展は未だ止まるところを知らず、今尚都市として成長を続けていた。
簡単に予想出来ると思うのだが、壁で隔てられたその街の名称は最初に作られた中心街からそれぞれ順番に、第一街、第二街、そして第三街と、そのまんまで呼ばれていたりする。
リンゴに口付ける森妖精の紋――アップルジャック商会の商標が入った馬車は、そのバルブレアの第三街東端にある、門構えがやたらと立派で、その先に頑丈そうな作りの宿舎が立ち並ぶ住居に入って行った。
その立派な門の上には大きな看板が横に取り付けてあり、そこにはやけに丸い書体で、
「cache-cache,coucou」
と、書かれている。
何故「cache-cache,coucou」なんだろうと、リーに抱かれながら幌の隙間から目敏くそれを見た少年は疑問に思う。
だが取り分け大きな宿舎前に馬車が停まると、方々の扉が勢い良く開いて大人数の子供達が駆け寄って来る様を目の当たりにして、全てを理解した。
ここは孤児院なのだろう。ならば赤子をあやすためにする「いないいないばぁ」と書かれているのも納得出来る。
ちなみに少年は、識字などの語学に関しては完璧だ。暗殺者は知識と教養がなければ務まらない。そして貴族の常識も礼も、全て知識として学ばせられていた。
その程度が出来ない暗殺者は三流以下だし、そして使えない三流は生きて行けないから。
「ああ、なるほど。この子を此処に預けるのですか」
そんな独白をするリー。だが少年を離す気は一切ないようで、相変わらず対面で抱き付かせて頭ナデナデ背中ポンポンしている。よほど気に入ったらしい。
「そんなところね。まさか突然グレンカダムに連れて行くわけにはいかないでしょ? イヴォンの莫迦になに言われるか判らないし。ま、カルヴァドスお義父さんだったら笑って許してくれそうだけど」
若干――いや、相当嫌そうな表情でそんなことを言うエセル。イヴォンに昏睡強姦されて妊娠させられ、そして現在に至る彼女にしてみれば、そうなるのは当たり前だろう。
もっとも経過はどうあれ、とても良くしてくれる義父母がいる現在は満足しているが。
本当に、どうやったらあの優秀なカルヴァドスとカミュからイヴォンなどというアレなのが生まれたのだろう。
実に不可解だ――と、他ならぬその二人が珍しく酔っ払ってエセルに愚痴を零したことがあったりする。
ちなみにそんなことを言われているイヴォンはというと、両親からすら無能の烙印を押されているなど露知らず、夜毎歓楽街に繰り出し「ヒャッハー!」していた。
カルヴァドスは一度、全てを器用に熟して成果を上げるエセルに、無論冗談でだが自分の第二夫人にならないかと言ったことがあった。
だがそれに対してエセルは、一瞬キョトン顔をしたのだが即座に、
「え? お願いして良いんですか? あたしは全然構いませんよ」
などと言っちゃっていた。
それは全くの予想外であり、だがカルヴァドスとカミュはその返答から数十分以上も悩み、
「エセルちゃんを俺の嫁にしたい! だが莫迦息子の嫁を取るわけにはいかない! きっとこの娘を逃したら大莫迦息子に嫁は二度と来ない! それにエセルちゃんのお腹には孫がいる! 屑莫迦息子はどうでも良いが、エセルちゃんが義理とはいえ娘になるんだ! それで納得しろカルヴァドス!」
「エセルちゃんを私の妻仲間にしたい! きっと一緒に楽しく過ごせるだろうし、カルヴァドスとエセルちゃんの子供なら絶対に可愛いと思う! 孫も良いけどカルヴァドスの子供をまた見たいわ! でも我慢よカミュ! 今エセルちゃんを逃してしまったらあの莫迦は碌でもない女に引っ掛かって商会ごと滅びるに違いないもの!」
などと散々なことを口走り、二人して血涙を流す勢いで腸が捻じ切れるんじゃないかとばかりな覚悟を決めてそれを断念した。
結果的にその子はとある事情で死産となり、その原因を作ったイヴォンをカルヴァドスは遂に見限り、そしてあのときエセルを嫁にしておけば良かったとカミュ共々死ぬほど後悔したという。
関係ないが、カミュはイヴォンを生んだ後の肥立ちが悪くて死に掛け、それ以降は子を生せなくなっていた。
ちなみに出産時に色々あったためにイヴォンがそうなったとかでは、決してない。
彼はなんの問題もなくスクスク成長し、学校に入学してから遊ぶ楽しさと楽を学習してしまい、勉学はほぼしていなかった。
結果的に彼がそんな有様になったのは、誰の所為でもなく勉学を疎かにして楽しかしていないイヴォン自身の所為である。はっきり言って、親は関係ない。
そんな懐かしい六年前の出来事を思い出し、反対されてもカルヴァドスの妻になるべきだったか? とか、いやそうなるとシェリーは生まれていないしアイザックともムニャムニャ……とか考えて「はふぅ」と熱い吐息を漏らすエセル。なんとなく考えていることを悟ったリーの白い目には気付かない。
「ザックとの逢瀬を思い出して欲情しているところ申し訳ないのですが、そろそろ降りて頂かないと用が足せません。まったく、本能と煩悩に忠実に素直になってザックとまた◯◯◯◯したいって言えば良いのに面倒臭いですねエセル様は。エイリーンならきっと喜んで『一緒にしよう』って言いますよ」
「そんなこと思ってないからね! それに複数人は嫌よ! というか面倒臭い言わないで!」
「つまり一対一ならオーケーってことですね? その独占欲、流石はエセル様です。判りました、セッティングしてみましょう。ザックならきっと大丈夫ですよ。ノリノリで快諾するでしょう。それに彼はヒト種としても優秀ですから、エセル様もきっと満足出来ますよ。なにしろ素手で神龍を殴り倒すくらいな化物ぶりですから、床でも無双してくれます」
「オーケーじゃないからセッティングしないで! お願いだから黙ってて誰にも言わないで! それにザックが色々と凄いっていうのはもう知ってるから!」
エセルに対して、リーの直接攻撃が容赦ない。言い分としては、煮え切らないではっきりさせないから苛々する、だそうである。
そんな風に二人して戯れたあと、渋って離さないリーから少年を取り上げて、勿論おふざけではあるが、子供から無理に別離させられる母親よろしく軽く絶望させ、一際大きな宿舎へと案内する。
その宿舎は正面玄関を潜ると一段高くなっており、左右の壁にある棚に子供達の靴が並んでいた。
少年を案内するエセルも其処で靴を脱ぎ、その棚――靴棚に置いて中に入る。
そして少年も、なんの違和感もなく戸惑うこともなく靴を脱いでそこへ置く。
そう、まるで最初から土足で入らない場所だと知っているかのように。
「……ふぅん、此処じゃあこういうのを知っている人なんていないのに、キミはコレを知っているんだね」
エセルの独白にも似た呟きを耳にして我に返った少年は、半身を引いて身構える。
それは幼少期より以前から繰り返えされた、本能に刷り込む凄絶な訓練により身に付けさせられた自衛の術。
暗殺者は目的を達成しその成果を報せるまで、死ぬことは許されないから。
「あ、警戒しなくて良いよ。別にキミが何者で、どういった経緯で此処に至ったとか、ハッキリ言って興味ないから。それに――」
肩を竦めて溜息を吐き、エセルが言う。その言葉が意外で肩透かされたのか、少年は目を瞬かせる。
だが次の瞬間、影が差したと眼と脳が理解しただけなのに、エセルの人差し指が少年の喉元に僅かに触れる程度にだが突き立てられていた。
「どれだけ警戒しても、少年は弱いからそんなのするだけ無駄だよ」
――いつでも殺せる。
暗にそう言われ、村では既に一人前だと言われていた筈の自信が崩れるのを、少年は感じた。
そう、今のエセルの動きは、少年には全く見えなかったのである。
それは動きが速いということではなく、瞬きをして視界が瞬間的に暗転した「虚」を突かれたのだ。
瞬きの「虚」を突くと簡単に言うが、それを現実に実行するのはほぼ不可能。
可能とするためには、視覚情報の伝達を経由させては間に合わない。それに一秒を一秒と認識するのではなく、最低でも一秒を百分割して行動しなければ到底間に合わないのである。
つまり、常人には不可能。
「ま、でもそんなのどうでも良いのよね~。強くなりたいんならリーが色々教えてくれるだろうし、それに魔法を学びたいならあたしが教えてあげるよ」
喉元から指を離し、そしてしゃがんで目線の高さを合わせてから頭をワシャワシャ撫でる。
そのエセルの行動一つひとつに殺気や邪気が一切なく、少年の本能的な自衛行動が一切働かない。さっきのリーは色々邪な考えが透けまくっていたが。
こんなことは初めてだ。少年は独白する。どれだけ熟練した暗殺者でもその瞬間は達人ですら気付かない程度のごく僅かにだがそれが漏れるというのに。
潺湲のように乱れず、呼吸すら乱れないエセルのその動きに、少年の心は昂揚した。
そしてそればかりではなく、まだ歳若い筈のエセルという女に興味が湧き、更にその美しさに、先程の会話を聞く限り子持ちの人妻であるにも関わらず、別の意味でも胸が高鳴るのを感じてしまう。
そんな熱の籠もった視線を感じたのか、今度はちょっと困った表情を浮かべるエセル。
「えーとね、キミが以前は幾つだったかは知らないけど、コッチでは親子くらい歳が離れてるからね? あたしに『トゥンク』されても困るから。あ、リーになら幾らでもして良いよ。草原妖精だからヒトの倍以上生きるし今からでも充分釣り合い取れるよきっと!」
「別に『トゥンク』なんてしていない!」
顔を真っ赤にして、思わず少年はそんなことを言う。しかし即座に失言に気付き、だが逆に意外そうな表情を浮かべて驚いているエセルを目の当たりにして、今度は諦めたように溜息を吐いた。
「……イチャイチャしているところ大変申し訳ないのですが、とっとと入って貰えないと邪魔で荷物を運べません。『運送屋』さんも困ってますのでそういうことは密室でして下さい。そして私めも混ぜて下さいませ。技を駆使してエセル様も少年も満足させてみせます」
「イチャイチャしてないわよなに言ってるのよ! それに少年相手にそんな犯罪臭漂うことなんてしません!」
「おやおやぁ? 合意の元なら良いではないですか。でもそういうのに抵抗があるのなら、判りました、私がエセル様を満足させてみせましょう。男もいいですが、女同士もなかなかイイですよ?」
「待って! リーって両刀だったの!? あたしは正常だからね!? おかしな性癖に巻き込まないで!」
「気持ち良いならなんだって良いじゃないですか。それに女同士の方が種付けされない分安全なんですよ?」
「……その発想はなかったわ。でもあたしは別に、快楽を求めて生きているワケじゃないから。あとこの会話まだ続ける? 後ろでその『運送屋』さんが凄く困ってるんだけど?」
「おっと、これは失礼」
エセルとリーの猥談を耳にして、言われた「運送屋」さん達はちょっと困った表情だったり妙に照れていたり、更にはやけに眼をギラつかせてハァハァしているヤツもいたりする。
まぁ可愛い系美人のエセルや、見ようによっては合法ロリで可愛いリーがそんな会話をしていたら、それは仕方のないことだろう。
そんなバカなことをしながら、若干の身の危険を感じつつ、少年は促されるままその宿舎の奥へと、警戒を強めて歩を進めた。