イヴォン・アップルジャックは追い込まれていた。
愛人であるエイリーンと共に、積み重なった負債から逃げるようにグレンカダムを脱したのだが、ベリーズ村まで来たところで事情を説明して自分と共に別の場所で再起を図ってくれるように頼んだところ、
「え、借金を全部シェリーに被せる気? ないわー。あと勘違いしているようだから言っておくけど、あたしはアンタの愛人なんかじゃないわよ。そもそも身体だって許してないでしょ。ただアンタが余計なことをしないようにって、エセルさんから頼まれて監視してただけ。大体アンタってヘタクソだし早いし、良いところ全っ然ないのよね~。達者なのは上辺の口先だけね」
そう冷たく言われ、逆上して掴み掛かろうとしたのだがあっさり躱され、逆に有無を言わさず簀巻きにされて厩へ放り込まれてしまった。
そして現在は全く動けない状態で、なんでコイツを此処に置いてくんだ? とでも言いたそうに迷惑そーな視線を馬達に向けられている。後ろ足で飼葉やら謎の物体Xをぶっ掛けられたりしているし。
――あのとき、事実上アップジャック商会を運営していた妻のエセルが事故死し、それとほぼ同じく父である理事長のカルヴァドスが心労のためか急逝してしまった。
正直に言うと、やっと解放されたと彼は思った。
経営にはそれほど頓着していないが優秀な祖父のニコラス、食材の目利きや調理の方面で優秀な父カルヴァドス、そして――たった一度の過ちの所為で自分の妻になってしまった、経営や商品開発、更には調理レシピまで一通り熟してしまうエセル。
イヴォンはそれらの何処にも立ち入ることが出来なく、そしてその隙間すら一切なかった。
はっきり言えば、イヴォンにとってニコラスもカルヴァドスも、そしてエセルも邪魔で仕方なかったのである。
自分はアップルジャック商会を継ぐ資格がある。そしてその資質もある筈だ。商会を運営する祖父や父親を、ずっと見て来た。だからその知識と技能だって理解しているし、誰より巧く出来る筈なのだ。
なのに――
『なにか違うな、もっと工夫をしなければ商会は継がせられないな』
『どうして当り前に出来ることが出来ないのでしょう。謙虚さが足りないのよイヴォンは』
『お前は残念ながら商才に乏しいようだ。だがエセルと出会えたのは僥倖という他はない。これからはエセルに支えて貰え』
『貴方はどうして努力をしないの。才能なんてなくても知識を蓄えればそれを補えるの。だから、これからも励みなさい』
両親も祖父母も、一様に自分を認めようとしない。
自分は出来る、こんなもんじゃない。俺はまだ本気を出していないんだ!
だからあのとき、自分はアップルジャック商会の全てを手に入れたと思った。
だが、違った。
エセルが事故死して、そしてカルヴァドスも急逝して混乱する商会を、自分は全て掌握する筈だった。
なのに――何事もなく自分をあっさりと飛び越えて、エセルの娘のシェリーが、まだ十に満たない子供のシェリーが、それを横から全て攫ってしまった。あの、エセルの生き写しの、自分の子供ではない小娘が!
そう、シェリーは自分の子供ではない。何故なら、エセルと入籍させられてから一度たりも夫婦生活をしなかったから。
もっともそれに確証はない。もしかして自分が酔った勢いでそんなことをしたのかも知れないし、それに二日酔いの朝にエセルの寝室で目覚めたことも、一度や二度ではないから。
だが、そんな確たる証拠はないのだが、自分には判る。
シェリーは――エセルと同じく白金色の髪と光の加減で色が変わる翠瞳を持つ、自分に一切似ていない少女は、自分の娘ではないということが。
その混乱が収束し、落ち着きを取り戻した頃になりやっと、アップルジャック商会は正式にイヴォンのものとなった。
しかし其処からの経営で、いきなり頓挫してしまった。
自分が思う通りに行かない。
自分が考える事業が出来ない。
自分が目指している経営が理解されない。
自分が思い通りに出来る筈の金が動ない。
自分が指示する通りに従業員どもが動かない。
そればかりか、剰え自分に意見をする従業員までいる。
自分は、アップルジャック商会の会長なのだ。だから、従業員どもは自分の言うことを聞いていれば良いのだ!
苛立ちを抑え切れず、夜な夜な酒を浴びる日々が続いた。そんな自分を、エイリーンは献身的に支えてくれた。時々いなくなり、次に現れるときには妙に艶々していたけれど。
イヴォンにとって、傍で優しくしてくれるエイリーンは心の拠り所だった。
深酒をしてしまいそうになれば優しく止めてくれるし、自分が巧くいかないときも優しく励ましてくれる。そして色々溜まったときは、それを吐き出しさせてもくれた。
エイリーンが、エイリーンだけが、イヴォンの心を癒してくれる……筈だったのに。
――と、イヴォンは考えていた。だがそれは完全な脳内フィルターであり、実際はというと、
『ちょっとアンタ呑み過ぎ。バッカじゃないのこんな水みたいな酒に大金出して。え? なにこの金額? どう考えてもおかしいでしょ! ……払えないならあたしの体で払って貰う? ほぉ~、やれるもんならやってごらん!(後日廃屋が一つ増える)』
とか、
『なに落ち込んでんの? そんなことで落ち込んでたって仕方ないでしょ! 悩んでる暇があるなら努力しなさいよ! ただでも莫迦なんだから悩んだって粉も出ないわよ! さっさと働け!(後日励まされたと思って迷惑なくらい必要以上に頑張る)』
あとは、
『は? なに欲情してんの? 一人で勝手に処理すればいいでしょ? ほら魔法で空気人形作ったげるから勝手にしなさいよ鬱陶しい(魔法で空気を固めてイヴォン好みに作る)』
そんな感じで、一度たりともエイリーンは優しくしたり励ましたことなどなかった。それをそう感じるのは、きっと幼少期から厳しく育てられたからなのだろうが、それにしたっておかしな感覚の持ち主である。
まぁそうなれば、きっとカルヴァドスとその妻カミュの育て方が悪かったと言われそうだが、色々歪み始めたのが物心が付いた後であり、それにイヴォン自身が努力より楽を選択して逃げ回っていたため、ぶっちゃけ自分が悪い。そして親は関係ないし、なにもかもを親の所為にするのは些か乱暴であろう。
それはともかく、簀巻きにされたイヴォンは放り込まれた厩で屈辱に打ち震え、そして裏切ったエイリーンを呪いながら猿轡を噛み切らんばかりに歯を喰い縛っていた。
だがそうしたところでその猿轡が本当に嚙み切れるわけでもなく、筵が取れるわけでもロープが緩むわけでもない。川に放り込まれなかっただけまだマシである。
そして夕方になり、いい加減馬にすら路傍の石のような扱いを受け始めた頃になってやっと、彼は声を掛けられた。
「ようイヴォン、良いザマだな」
それは聞き慣れた声であった。いつも本店にいる、常に笑顔を絶やすことなく優し気に話し掛けて来る草原妖精。
副店長、リー・イーリー。
「おお、リーか! 助かった! 早くこのロープを取ってくれ! エイリーンが、あの尻軽女が俺をこんな目に! 絶対に後悔させてやる!」
見知った顔に安堵し、そしてこの後にエイリーンを追及してやろうと考えて厭らしい笑みを浮かべるイヴォン。
だがリーはそれを冷たく見下ろし、そして溜息を吐いてからその傍にしゃがみ込む。
「さて、どうして私がお前を解放するって思ったのかな? その辺をちょおっと詳しく教えて欲しいんだけど?」
冷徹に嗤い、腰に吊ってあるククリナイフを抜いて器用に回しながら訊く。その切っ先が鼻先を掠め、息を飲んで沈黙するイヴォン。その顔色がみるみる悪くなり、息も絶え絶えに呼吸が浅くなる。
「エイリーンは私の大切な教え子を誑かしはしたけれど、今では相思相愛になっているから問題ないよね。それに、あの子は昔馴染みで大切――かどうかは疑問だけど、とにかく仲間だ。それを悪く言うヤツの言うことなんて、聞く義理はあるのかい?」
回しているククリナイフを逆手に持ち、眼前に突き立てる。その切っ先と、リーから放たれている本気の殺気に、イヴォンは呼吸すら忘れて沈黙した。その下半身の一部が濡れているのにすら、彼は気付けない。
「そもそもイヴォン、お前は女癖が悪過ぎる。エセル様という素晴らしい、お前には勿体なさ過ぎる奥方がいるのに他の女にうつつを抜かすのは、些かどころか相当に謎だぞ」
「……素晴らしい、だと……!」
リーのその言葉に、イヴォンの中のなにかが弾けた。そしてそれが、一瞬だけだがリーの殺気を忘れさせた。
「素晴らしいだと! あんな不実な女の何処が素晴らしいというのだ!」
「……ほお」
その一瞬だけでも自身の殺気と殺意を克服したのが楽しくなったのか、リーはあえてそれを緩めた。イヴォンが次になにを言うのかを知るために。
「あの女は、俺という夫がいるくせに他の男と通じて子を生したんだ!」
「……」
「俺がなにも知らないと思って、いけしゃあしゃあと生みやがって!」
「……」
「しかもなんだあの可愛くない小娘は! 生き写しにもほどがあるほど似やがって腹が立つ!」
「……」
「やっと死んでくれたと思ったら、今度はあの小娘が商会を横取りしやがって!」
「……」
「だからあの小娘に借金を被せたんだよ! 身売りでもなんでもして返済しやがれ! ざまあみろ!」
「……」
一通り言い終え、荒い息を吐きながらリーへと目を向ける。知らないであろう真実を聞かされて、さぞ驚いているとイヴォンは思っていた。
だが――
「シェリー様がお前の子ではないだと? そんな当り前のこと、商会の従業員全てが知っているぞ。それからニコラスもカルヴァドスも、レミーやカミュだって判っている周知の事実だ。まぁ、事情があってザックは知らんが。そもそもお前のような愚鈍で暗愚で暗弱な男の種からシェリー様という鳳が生まれる筈がないだろう」
「な――!」
「『俺という夫』だと? 自惚れるなよ、小僧。放蕩の限りを尽くして女遊びを繰り返している分際で、どの面を下げてエセル様を不実だと?」
「お、男の女遊びは甲斐性だ! その程度で女がつべこべ言うのはおかし……」
「甲斐性だと!? お前にそんなものなど欠片もないだろうが! 女を見下げるのもいい加減にしろ!」
再びリーの全身から殺気が噴き出す。それに気圧され、言葉はおろか呼吸にすら詰まる。だが彼は、なぜそこまでリーが怒りを露にするのが判らない。同じ男であるなら、他の女を求める気持ちが判るとイヴォンは常々考えている。そしてそれが全ての男に当て嵌まる、そう信じていた。
「全ての男がお前と同じだと思うなよ! それにそれは獣の理屈だ! 理性と知性があると自称するのなら、その程度のことなど判っていて当然だろう! 本能を理性で抑え込めないのなら、お前はただの獣だ!」
「お、おおおお前だって男だろう、このくらい判るだろ……」
「判らないし判りたくもないね。それに――」
口元に妖艶な笑みを浮かべ、背を伸ばして胸を張る。そこには、僅かではあるが膨らみがあった。
「私は女だ。だが周りが男だらけだし普段から男の形をしているからある程度の男心は判るつもりだが、お前のような屑の気持ちなど一切判らないな。それから――」
驚愕に染まる表情のイヴォンを、その笑みを浮かべたまま楽しげに覗き込む。
「エイリーンから聞いているよ。お前のモノは大海原に縫い針だってな」
リーの言葉に、今度は別の意味で絶望するイヴォン。そんな筈はないと心の中で叫ぶ。娼館でもそんなことは言われなかった。逆に褒められたこともあったのに――
「まぁそういう商売女は口と心は別物だ。思ってもいないことを言って気分良くさせればまた来て金を落として行くからな。そもそも死産だったとはいえよくぞ縫い針のお前がエセル様を孕ませられたと感心する。もっともエセル様は、自身が子が出来易い体質だと言っていた……一晩で五回も十回もされれば出来易いどころの話しではないと思うが。改めて考えると、ザックめ無茶をする」
絶望しているところへ更に追撃するリー。そしてその言葉に絶望しているイヴォンに、呟くように言った最後の言葉は届かない。
「それから、お前はシェリー様に借金を被せたつもりだろうが、残念ながら親の借金は子に引き継がれないぞ。それは王国法で決まっているし、それに未成年だからという問題なら、業腹だが既にJJが後見人となっている。よってお前の借金はお前のものだ。算出してみたが、合計白金貨二枚(二億円)ほどあるらしい。自分に才覚があると自称するならば、再起して返済するがいい。もっとも――」
そこまで言うとリーは立ち上がり、縛ってあるロープを切った。だがそれでも、呆然としているイヴォンは動かない。よほど「大海原に縫い針」が効いたらしい。
「お前は商業ギルドの黒い名簿に名を連ねているからな。もうグレンカダムはおろかストラスアイラ王国で商人としては生きて行けないだろうな。それから――」
今現在起きている現実を受け入れられないのか、呆然として動かないイヴォンにイラっと来たのか、とりあえずその背を踏みつけるリー。多少加減はしたが、体幹の骨が軋む音が響いて絶叫され、周りにいる馬が驚いて嘶いてしまった。
それを落ち着けてとりあえず馬達に謝ってから、リーは言葉を続ける。
「さっさとこの国を出ないと、怖ぁ~いサブマスターとか凶悪なマスターとかがお前を捜しに来るぞ」
踏みつけとその言葉でやっと我に返ったイヴォンは、常に笑みを浮かべてなにを考えているのか判らない商業ギルドのサブマスターと、身長2メートル越えで更にその身長すら超える大剣を振り回すゴリゴリマッチョな鬼人族のマスターを脳裏に浮かべ、悲鳴のような良く判らない意味不明な言葉を残して何処かへと逃げて行った。
そしてその後、イヴォンの姿を見たものは誰もいない――。
――*――*――*――*――*――*――
さて、此処までシェリー・アップルジャックの物語を綴って来たが、これにて序章は終了となる。
彼女が今後どのように暮らし、また誰と出会い、そして誰と出逢うのか。
それは後の物語。
何れまたの機会を、請うご期待――。
〇アップルジャック商会
シェリー・アップルジャック
主人公 女 ヒト種(?) 一四歳→一五歳
白金色の髪
光の加減で色が変わる翠瞳
現在〝六重詠唱〟の練習中
イヴォンの借金問題で商会を廃業させた
しかしアイザックの商会立ち上げのときにうっかり会長になった
エセル・アップルジャック
シェリーの母親 神人族 故人 享年二七歳。
白金色の髪
光の加減で色が変わる翠瞳
〝十重詠唱〟が使えると言われていたが、
実は〝二十重詠唱〟が使えていた
イヴォン・アップルジャック
エセルの夫 ヒト種 シェリーの父親ではない
借金のために夜逃げした
〇〝無銘〟
アイザック・セデラー
アップルジャック商会が経営する店舗の店長
シェリーの実の父親 ヒト種(?) 三〇歳→三一歳
栗毛の長髪を三つ編みにしている
よくシェリーに長髪を弄られて幸せそうにしている
エイリーンの夫
すべての武器を使い熟す 実はヒト種最強
素手でエイリーンとJJの祖父をぶっ飛ばした経歴あり
神龍の加護と龍人の寵愛持ち
物理と魔法が殆ど効かないし超再生能力も持っている
だがその自覚はない
〝仲裁者〟
エイリーン・エラ・ジャービス→エイリーン・エラ・セデラーへ改姓
アップルジャック商会の事務受付
アイザックの妻 龍人族(黄金龍) 四四歳→四五歳
白銀の髪 黄金の瞳
素手で巨岩をも割ると言われているが、
実際は割るのではなく衝撃で砂に変える
〝撲殺龍〟
ジャン・ジャック・ジャービス(JJ)
アップルジャック商会の会計監査
エイリーンの弟 龍人族(黄金龍) 三五歳→三六歳
白銀の髪 黄金の瞳
灼熱の吐息を吐く龍らしい龍
盾は持たないが、太古より継承されている魔法障壁、
思考誘導蜂巣型逐次展開式積層障壁
〝次元空間充填障壁〟を持っている
リーと仲が悪い
〝灼熱の黄金龍〟
リー・イーリー
アップルジャック商会が経営する店舗の副店長
草原妖精 女 四六歳→四七歳
黒の短髪 頭にバンダナ 黒の瞳 目が細い
自称斥候だが、実は一人で一個師団を壊滅させる実力を持つ
JJと仲が悪い
実はデリックの元妻
〝草原の災厄者〟
〝姦しい三人娘〟
メイ・スコールズ
土妖精 女
アップルジャック商会仕入れ担当野菜係
シャーロット・エフィンジャー
ヒト種 女
アップルジャック商会仕入れ担当果実係
レスリー・レンズリー
鬼人族 女
アップルジャック商会仕入れ担当精肉鮮魚係
ザカライア爺とザカリー
アップルジャック商会にリンゴ酒を卸している酒蔵の主
金毛妖狐族
ザカリーはザカライア爺の妻
孫が20人いる
〇その他
ヒュー・グッドオール
特級国法士 シェリーを何故か信仰している
森妖精 男 年齢不詳 というか本人すら忘れた
細く短い金髪 空色の瞳
口癖は「愛を愛を愛を」
〝十二重詠唱〟が使える
〝法廷の断罪者〟
トレヴァー・グーチ
二級国法士 アップルジャック商会担当
ヒト種 男 二七歳 根性と気合で空も飛べる謎の人
「ヤ」がつくヤヴァイ職業人にしか見えない
趣味はスイーツ作り 時々シェリーと一緒に研究している
既婚者
奥さんは超絶美人だが家事が一切できないステイシー
娘は奥さんに良く似ているが時々眼光が鋭くなるマーシア
〝極道聖人〟
コーデリア・ハーネス
元修道女 シェリーが神殿に監禁されたときの世話係だった
後に助け出されたシェリーと共にお持ち帰りされた
ヒト種 二一歳
茶系金髪 青の瞳
聖魔法を無詠唱で使えるが、内向的であったために気付かれなかった
実は司祭の資格持ちで、結婚の誓約を取り仕切ることが可能
いつの間にかJJとくっ付いていた
〇商業ギルド
デリック・オルコック
商業ギルドのサブマスター
黒髪 黒目 やっぱり目が細い
草原妖精 男 四六歳→四七歳
リーと共にマクダフ平原を二分し取り仕切っていた
実はリーの元夫
〝草原の破壊者〟
ユーイン・アレンビー
商業ギルドの監査官
金髪碧眼
海妖精 男 年齢不詳 本人も忘れた
〝四重詠唱〟の使い手
妹のルシールを溺愛しているシスコン
ルシールもユーインを溺愛している
妹は森妖精であり血の繋がりはない
どんなプレイだ? と周囲から言われている
だが最近になって部下である白虎族のヘスターも気になっている
ヘスターに耳を嘗められ撫でられ甘噛みされて目覚めたようだ
耳をピコピコ動かしていたら、それは仕方ない
シオドリック・グレンヴェル
商業ギルドのマスター
鬼人族 男
身長2メートル超えゴリゴリマッチョな大剣使い
元々商業ギルドは傭兵団であり、そのときからの団長
少年が育った村を、狩りに行くという体で後にして半日後、その村は炎に包まれていた。
そうなる心当たりは全く無いわけではない。
何故ならその村は、暗殺を生業とする者どもが住む場所だからだ。
とはいえ、なんの目的もなく無作為にそのようなことをしているわけではない。
その村は職業としての暗殺者が生活している、いわば隠里であった。
その里は個人的な依頼などの小さなものや、大きなものでは権力者や国家の依頼を受けて「仕事」をしたりしていたのである。
だが暗殺者の仕事は、なにもその名の通りのものだけではない。
暗殺者はそもそも陰に潜む者どもであり、暗殺以外にも人の影となり様々な活動をするものだ。よって直接的に人を殺める仕事は、実は少ない。
最も多いのは諜報活動であり、それも身近な街の近隣情報だったり、大きなものは他国に潜伏する場合もある。
更にいえば、その里は完全に中立で、どのような人物の依頼でもどのような国の依頼でも受けるのだ。
もっともあまりに胡散臭い依頼は、里長が弾いて断ることも多々ある。
村の場所はストラスアイラ王国とブレアアソール帝国、そしてダルモア王国の三国が交わるリンクウッドの森にあり、その森には多数の魔獣が生息するためよほど酔狂な者でなければ這入ることはない。
そのため、その村は天然の要害のような場所であった。
村の者であれば魔獣との遭遇を最小限にする道や、また魔獣除けの匂い草も作り出せる。
そう――そのようにして村はその存在を隠蔽し、歴史の陰として、そして影としてそこに在り続けて来た。
そうまでして隠し続けていた村が、どういうわけか帝国軍の強襲を受けた。
村の住民は性別年齢問わずに全て惨殺され、そしてその跡を消し去るように油を撒かれて火が放たれたのである。まるで全ての禍根を断つように、全ての証拠を消し去るように。
村は森と隣接するようにあるため、そのような暴挙をすれば当然のこととして森へと延焼する。
そして更にこの村にある最後の罠が発動し、それによって火は瞬く間に燃え広がってしまい、結果といて広大なリンクウッドの森ごと強襲部隊を全て焼き払った。
リンクウッドの森には、村人が長い年月を掛けて定間隔に可燃性の油を多く含む木――松や杉、檜、そして白樺を植え込んでおり、もし村に火を放ったとしたのならば、それらへ容易に延焼することとなる。
暗殺者は、無闇に殺しはしない。
だが、自らに牙を剥く者どもには容赦しない。
このリンクウッドの森にある木すらも、村が強襲したものが絶対にそうするということを想定した罠なのだ。
こうして、古よりそこにあった暗殺者が住む名もない村が、リンクウッドの森ごと世界から消え去った。
――ただ一人、生き残った少年を除いて。
少年の名は、八〇六号という。なんのことはない、生まれたのが八月で、その年の村で六番目の子供であったためである。
その村では子に名付ける風習はない。名は暗殺者として使えるようになった後で、自ら考え名乗るしかないのだ。
その少年は物心つく前から暗殺者としての教育が施されており、そしてそれの才能が非常に高かった。
一を教わり十を知るとはよく言ったものだが、少年は誰からもなにも教わらなくとも、百を学んでいた。
最初から知っていたかのように。
更にその少年は、生まれ出たときからそのような環境にいたにも関わらず、暗殺業が正常な職業ではないということまで完全に理解していたのである。
そう、それも最初から知っていたかのように。
凄まじい速度で延焼する森の中から、その少年は慌てることなく脱出する。
だが火の手が伸びていないとはいえ、立ち込める煙は避けられない。火災の被害は熱と炎だけではなく、それよりも煙によるものが多いのだから。
身を低くして煙を吸わないように移動するのだが、そうするとどうしても足が遅くなる。そして延焼の速度が、少年が想定していたより遥かに速かった。
――死ぬ――
少年はそう考え、だが諦めずに身を低くして息を思い切り吸い、そのまま止めて走り出す。
息が続かなくなると再び身を低くし、煙を吸わないように呼吸をする。それを何度も繰り返し、やがて遂に森を抜けて街道に出た。
その街道はリンクウッドの森の南端からダルモア王国へ続く道の一つであり、少年が転げ出るようにして街道に姿を現したときも、複数の荷馬車が通っていた。
そしてそれらの馬車に乗る人々は、空が赤く染まっている異常事態を不可解に思い、街道沿いに停車させてそれを眺めている。
だが暫くの後、それが出火であると解ると、我先にと逃げ出して行った。
それは当然の判断であり、少年がそれらと同じ立場だったとしても同じことをしたであろう。
だから――
「あらあら、なんでこんな場所で森林火災が起きてるの? 誰かが火でも点けたのかな。ただでもこの森って松とか杉とかいっぱい生えてるから燃えやすいのに。あ、檜とか白樺まで生えてるじゃない。誰かが意図的に植樹したのかな?」
リンゴに口付ける森妖精の紋が幌に描かれている馬車から、そんなのんびりしたことを言いながら若い女が降りてきたときは、正気を疑った。
彼女は土塗れで汚れ、更に擦り傷だらけの少年に気付いて目を瞬かせ、だがすぐに微笑むと、傍にいる細目の性別がイマイチ判らない草原妖精へなにかを言い、延焼が続く森の方を向く。
なにをするのか興味があったが、その草原妖精が少年を軽く抱き上げ、馬車の荷台に防水布を広げて乗せたためにそれは叶わなかった。
一体何事かと驚き、だがすぐに臨戦態勢に入るのだが、そんな少年の行動などどうでも良いとばかりに手の平を上に向けると、大きな水の塊が浮き上がる。それをその草原妖精は回転させ、それが十を超えたとき、少年の頭からそれをぶっ掛けた。
突然の出来事に驚く少年。だがそれよりなにより驚いたのが、掛けられたそれは水などではなく、程よく温まった湯であったことだ。
宙に浮いたそれ全てを使い終わり、続けてその草原妖精は柔らかいタオルを取り出して少年をワシャワシャ拭く。
だが幾らお湯で洗い流したといっても汚れ全てが落ちるわけではなく、そのタオルはあっという間に真っ黒になった。
草原妖精はそれを見てもなにも言わず、だが今度は少年が着ている服を脱がし始める。
流石にそれは抵抗したのだが、そんなことなど全く意に介していないかのようにツルツルと脱がし、最終的にはパンツすら脱がされた。
――暗殺者として幼少の頃からその技術を叩き込まれて来たのに、まるで抵抗出来ずにそうなったのである。
「ふむ……ショタも良いかも知れない。というか、脱がせてから楽し……じゃなくて洗えば良かったかな」
足でがっちりホールドされて動けない素裸の少年を見て、その草原妖精はそんな若干危なく相当問題のあること呟いた。
これには流石に身の危険を感じたのか、脱出するべくその胸を強く押す。
そして――そうすることで意図せずに、控えめにある膨らみを両方鷲掴んでしまった。
「ほう、さすが男の子。たとえこんな小さいモノでも興味があるのか? だがあと五年ほど早いかな。そこまで経ってまだ私を覚えていたら、そのときは相手をしてやっても良いぞ。良い男になっていたら、だが」
その草原妖精は悪戯っぽくそう言い、今度は荷物から子供服を取り出して脱がせたときと同じようにツルツル着せる。
少年と草原妖精が、そんな犯罪臭が軽く漂うようなことになっているのを呆れたように見ていたその女は、ヤレヤレとでも言いたげに額を指先で押さえながら頭を振り、だが気を取り直して森に向き直る。
そして集中して魔力を高め、空高く魔法陣を展開し、
「〝積層積乱雲〟」
風と水の複合魔法が展開された。
太陽が分厚い雲に隠れ、周囲が暗くなる。その陽光すら遮るほど厚く発生している雲は、幾重にも重なった積乱雲。
それがどんどん厚みを増し、遂に臨界を超えた。
最初、それは数滴だけだったが、すぐにその数を増して大量に零れ、やがて――
「〝豪雨〟」
その女がそう呟くと、僅か先すら目視出来ないほどの雨が降り始める。
それにより延焼していた森から凄まじい水蒸気が立ち昇り、だが続く豪雨により、やがてそれは消えて行った。
「こんなもんかな~」
自身の周りに結界を展開して一切濡れていないその女が、そう独白すると魔法を破棄し、雲を散らして雨を止める。
「あんまり雨雲を集めちゃうと局所的に干魃が起きちゃうからね」
その凄まじ過ぎる天候操作魔法に絶句する少年をよそに、それを事もなげに行使した女は、の~んびりとそんなことを言っていた。
物凄く良い顔で満足げに少年を自らの膝の上に有無を言わさず乗せてご満悦な草原妖精をよそに、そこに乗せさせられているだけではなく、どういうわけか対面で抱き付かさせられて呆然としている少年は、
(どうしてこうなった)
心中で独白し、だがその温かさだったり抱かれることの心地良さだったりを初めて味わい、そして僅かに存在する胸の膨らみに顔を埋めて意識を朦朧とさせる。
そう、街道沿いを除く全てを焼き尽くした森林火災の現場から、少年は何故かお持ち帰りされていた。
それから、朦朧としているのは具合が悪いとかではない。控え目とはいえ女の胸に抱かれているのだ、むしろ良いくらいである。
少年は、生まれてこの方このように抱かれたことなどないのだから。
「ねぇねぇリー、あたしにも抱っこさせてよ」
夢心地でうつらうつらしている少年を見て羨ましくなったのか、例のとんでもない魔法で森林火災を鎮火させた女が頬を膨らませて言う。
だがそのリーと呼ばれた草原妖精は即座に嫌な顔をし、だがすぐに真顔に戻って頭を振った。
「それはいけませんエセル様。子供だと油断していると寝首を掻かれますよ。それに――」
夢心地な少年の頭を愛しむ様に撫で、
「リーが女の顔してる……だと……!」
とか言われて、今度は物凄く不本意そうな表情になって憮然とするが、その表情を引き締めてから続けた。
「この子の体術とか体捌きを見るに、恐らく出身は暗殺者の村でしょう」
草原妖精――リーがそう断定した瞬間、少年は自分を抱き締める腕を振り解こうとその身を起こし、
「……ん……コラコラ、おっぱいはもっと優しく揉むものだぞ。そんなに乱暴にしたら特殊性癖の持ち主しか喜ばない」
またしても胸を鷲掴んでしまい、途端に真っ赤になる少年。そしてリーは自身の胸を鷲掴んでいるその手を軽く左右に払い除け、再び抱き締める。
「ちなみにその性癖の持ち主は私だがな!」
「リーはどMさんだからね~」
自分の性癖を何故か誇らしげに暴露し、更にどういうわけか胸を張りドヤ顔で少年を抱き締めるリー。その手は左で頭を撫で、右手で背中をポンポン優しく叩いている。どちらにしても、愛情たっぷりだ。
「安心しろ、私達はお前をどうこうするつもりはない。あと、リンクウッドの森に暗殺者の村があることくらい知っているよ。村長のカリスタ婆は昔馴染みだし」
頭ナデナデ背中ポンポンされて夢心地な少年。しかし村を把握していると言うリーを警戒し、それでもカリスタの鬼ババァぶりを思い出してザワっとする。
そしてリーもそれを知っているためなのか、そして突然寒くもないのに僅かに震え始めている少年の心情を察したのか、撫でる手をそのままに、僅かにその手に力を込めて柔らかく抱き締めた。
――物理的な柔らかさは乏しいのに。
それを胡乱げに見ていたその女――エセルがそんなことを考え――
「……なにか今、とても失礼なことを考えませんでしたかエセル様?」
「エスパーか!?」
だがそれを見事に悟られ、思わずそんなことを口走る。
「? その『えすぱぁ』なるものは良く判りませんが、エセル様が私を貧乳だと言っているのは理解しました」
「いえいえ、なに言ってるのリー。ちっぱいは尊いのよ! 価値あるものなの! 世の男どもは巨乳好きって言われてるけど、それはおっぱい星人の声が大きいだけで実はそれほど需要は無いの! ザックだってちっぱい好きなの知ってた?」
「『ちっぱい』とか『おっぱいせいじん』とか、更にそこで何故にザックが出てくるのかはちょっと判りませんが……まぁ一回で種付け成功するくらいザックが貧乳好きっていうのは理解しました。エセル様もそれほど大きくありませんからね」
「え? えーと……なんのことかあたしには判らないにゃあ?」
「すっ恍けなくても大丈夫ですよ誰にも言いませんから。それにザックはそっち方面では非常に達者ですから仕方ないです。なにしろ性的に鈍感って言われている龍種の女をそっちの虜にするくらいですからね。あと個人的に、シェリー様にあのクズの血が一滴たりとも混じっていないのは非常に喜ばしい限りです。もっともザックが私を選ばなかったのは業腹ですが」
「あー……残念だけどザックがリーを選ぶのはナイかなぁ~……」
そう断定するエセル。リーはザックことアイザックの冒険者としての師匠だし、色々苦手らしいし、更に言うなら互いにどM気質だから相性が悪いだろう。
「おっぱい談義はともかくとして、リンクウッドの森が燃えたということは、この子の故郷、名もない暗殺者の村が滅びたと同義でしょうね。そしてそれをしたのは、恐らくブレアアソール帝国」
少年を撫でる手を止めず、リーはそう断定した。諜報活動に一家言持ちは伊達ではない。
「ふうん、そうなの。流石リーだわ。その辺の事情に詳しいのね。変態なのに」
「まぁ二十年はこの仕事をしていますし。蛇の道は蛇ということで。あと『変態』と言うときはもっと吐き捨てる様に言って下さい。それだと濡れません」
「それあたしとかシェリー相手にやらないで。貴女先日シェリーに『もっと罵って』とか言ったでしょう? あれ以来あの子、貴女のこと苦手になっちゃったから」
「ほほう、それは重畳。その調子で将来的にもっと私めを罵ってくれれば……ああ、想像しただけでもゾクゾクしちゃう……」
言いつつ、恍惚の表情を浮かべながらフトモモを合わせてモジモジする。
リーは真性の変態だった。あまりの変態ぶりに、いたってノーマルな旦那が付いていけなくなって離縁されてしまった経歴持ちである。
ちなみに離縁調停のとき、
「なんでキミはそんなに変態なんだ! 昔はもっとまともだったろう!」
「それは我慢してたに決まっているでしょう。それに貴方だって『あるがままのキミを受け入れる』って言ってたくせに、ちゃんと縛ってくれないしお尻を叩いてもくれないし、◯◯を◯◯してくれないし! ◯◯だってしてくれないし! ◯◯◯◯するときにせめてちゃんと罵って欲しかった!」
などと自身の性癖を大暴露して調停員をドン引かせたという。
その後は一部の調停員が、リーと同じくちょっとアレだったために互いに同情され、結局は両成敗という形で治まったという。
そんなリーの変態話しはどうでも良い。
問題はこの少年である。
「それでエセル様、この少年をどうするおつもりで? まさか育てて燕にするつもりでもないでしょうね?」
「まさかそんなことしないわよ。それにそういうの、あたしはもういいわ。一晩で一生分くらいされちゃったから」
「なにを言っているのですかエセル様。一晩でそんなに出来るわけないでしょう。なんなら協力しますよ? 私としましてはエセル様にもっと子を生して欲しいと思っています。良いじゃないですかこの際ザックと爛れた関係になっても。全然まったく、完全に問題なしです。きっとエイリーンだって許してくれますよ。ついでに私にも摘み喰いさせてくれれば尚、問題ありません」
「問題だらけだよ! 問題しかないよ! それにあたしは別にザックとは……」
「今更誤魔化しても無駄ですよ。エセル様を常に警護している身として言わせて貰えば、あの日の夜は凄かったです」
「ちょっと待ってどういうこと! 見てたの!?」
「思わずこの私めが独りで捗ってしまうくらいに凄かったですね。エセル様って案外好きも――」
「あー! あー! きーこーえーなーいぃ!」
「そういうことにしておきましょう。でももう一人産んで欲しいというのは、紛れもない本音ですよ。そして、女の子も良いですが出来ればしっかり出来る男の子をお願いします。私が責任を持って女と技を教えて差し上げます」
「作る予定もない息子の予約をしないで!」
そんなバカな遣り取りをしながら、リンゴに口付ける森妖精の紋が幌に入っている馬車は、ゆっくりとリンクウッドの森沿いの街道を進んで行く。
行く先は、ダルモア王国東端。リンクウッドの森と同じくブレアアソール帝国とストラスアイラ王国、そしてそのダルモア王国の三国が街道を介して交わる都市。
――交易都市バルブレア。
交易都市バルブレアはダルモア王国の北西に位置しており、北の武装国家と物騒な通称で呼ばれているブレアアソール帝国と、南の温暖で農耕と牧畜が盛んなストラスアイラ王国との国境沿いにあり、それぞれ街道一本で各国への移動が可能な、まさしく交易のための都市である――
――と蘊蓄が続きそうだが、とりあえずは各国への道が交わっているため、交易が盛んな街という認識で問題ない。詳細な説明は面ど――目が滑るため端折ることにする。
そんな交易都市の中心部は、半径約20キロメートルの外周を10メートル強の高さの壁で囲まれており、だがそれの外にも街が発展していた。
その街の外周にも5メートルの壁が作られ、更にその外にも町が作られている。そしてその発展は未だ止まるところを知らず、今尚都市として成長を続けていた。
簡単に予想出来ると思うのだが、壁で隔てられたその街の名称は最初に作られた中心街からそれぞれ順番に、第一街、第二街、そして第三街と、そのまんまで呼ばれていたりする。
リンゴに口付ける森妖精の紋――アップルジャック商会の商標が入った馬車は、そのバルブレアの第三街東端にある、門構えがやたらと立派で、その先に頑丈そうな作りの宿舎が立ち並ぶ住居に入って行った。
その立派な門の上には大きな看板が横に取り付けてあり、そこにはやけに丸い書体で、
「cache-cache,coucou」
と、書かれている。
何故「cache-cache,coucou」なんだろうと、リーに抱かれながら幌の隙間から目敏くそれを見た少年は疑問に思う。
だが取り分け大きな宿舎前に馬車が停まると、方々の扉が勢い良く開いて大人数の子供達が駆け寄って来る様を目の当たりにして、全てを理解した。
ここは孤児院なのだろう。ならば赤子をあやすためにする「いないいないばぁ」と書かれているのも納得出来る。
ちなみに少年は、識字などの語学に関しては完璧だ。暗殺者は知識と教養がなければ務まらない。そして貴族の常識も礼も、全て知識として学ばせられていた。
その程度が出来ない暗殺者は三流以下だし、そして使えない三流は生きて行けないから。
「ああ、なるほど。この子を此処に預けるのですか」
そんな独白をするリー。だが少年を離す気は一切ないようで、相変わらず対面で抱き付かせて頭ナデナデ背中ポンポンしている。よほど気に入ったらしい。
「そんなところね。まさか突然グレンカダムに連れて行くわけにはいかないでしょ? イヴォンの莫迦になに言われるか判らないし。ま、カルヴァドスお義父さんだったら笑って許してくれそうだけど」
若干――いや、相当嫌そうな表情でそんなことを言うエセル。イヴォンに昏睡強姦されて妊娠させられ、そして現在に至る彼女にしてみれば、そうなるのは当たり前だろう。
もっとも経過はどうあれ、とても良くしてくれる義父母がいる現在は満足しているが。
本当に、どうやったらあの優秀なカルヴァドスとカミュからイヴォンなどというアレなのが生まれたのだろう。
実に不可解だ――と、他ならぬその二人が珍しく酔っ払ってエセルに愚痴を零したことがあったりする。
ちなみにそんなことを言われているイヴォンはというと、両親からすら無能の烙印を押されているなど露知らず、夜毎歓楽街に繰り出し「ヒャッハー!」していた。
カルヴァドスは一度、全てを器用に熟して成果を上げるエセルに、無論冗談でだが自分の第二夫人にならないかと言ったことがあった。
だがそれに対してエセルは、一瞬キョトン顔をしたのだが即座に、
「え? お願いして良いんですか? あたしは全然構いませんよ」
などと言っちゃっていた。
それは全くの予想外であり、だがカルヴァドスとカミュはその返答から数十分以上も悩み、
「エセルちゃんを俺の嫁にしたい! だが莫迦息子の嫁を取るわけにはいかない! きっとこの娘を逃したら大莫迦息子に嫁は二度と来ない! それにエセルちゃんのお腹には孫がいる! 屑莫迦息子はどうでも良いが、エセルちゃんが義理とはいえ娘になるんだ! それで納得しろカルヴァドス!」
「エセルちゃんを私の妻仲間にしたい! きっと一緒に楽しく過ごせるだろうし、カルヴァドスとエセルちゃんの子供なら絶対に可愛いと思う! 孫も良いけどカルヴァドスの子供をまた見たいわ! でも我慢よカミュ! 今エセルちゃんを逃してしまったらあの莫迦は碌でもない女に引っ掛かって商会ごと滅びるに違いないもの!」
などと散々なことを口走り、二人して血涙を流す勢いで腸が捻じ切れるんじゃないかとばかりな覚悟を決めてそれを断念した。
結果的にその子はとある事情で死産となり、その原因を作ったイヴォンをカルヴァドスは遂に見限り、そしてあのときエセルを嫁にしておけば良かったとカミュ共々死ぬほど後悔したという。
関係ないが、カミュはイヴォンを生んだ後の肥立ちが悪くて死に掛け、それ以降は子を生せなくなっていた。
ちなみに出産時に色々あったためにイヴォンがそうなったとかでは、決してない。
彼はなんの問題もなくスクスク成長し、学校に入学してから遊ぶ楽しさと楽を学習してしまい、勉学はほぼしていなかった。
結果的に彼がそんな有様になったのは、誰の所為でもなく勉学を疎かにして楽しかしていないイヴォン自身の所為である。はっきり言って、親は関係ない。
そんな懐かしい六年前の出来事を思い出し、反対されてもカルヴァドスの妻になるべきだったか? とか、いやそうなるとシェリーは生まれていないしアイザックともムニャムニャ……とか考えて「はふぅ」と熱い吐息を漏らすエセル。なんとなく考えていることを悟ったリーの白い目には気付かない。
「ザックとの逢瀬を思い出して欲情しているところ申し訳ないのですが、そろそろ降りて頂かないと用が足せません。まったく、本能と煩悩に忠実に素直になってザックとまた◯◯◯◯したいって言えば良いのに面倒臭いですねエセル様は。エイリーンならきっと喜んで『一緒にしよう』って言いますよ」
「そんなこと思ってないからね! それに複数人は嫌よ! というか面倒臭い言わないで!」
「つまり一対一ならオーケーってことですね? その独占欲、流石はエセル様です。判りました、セッティングしてみましょう。ザックならきっと大丈夫ですよ。ノリノリで快諾するでしょう。それに彼はヒト種としても優秀ですから、エセル様もきっと満足出来ますよ。なにしろ素手で神龍を殴り倒すくらいな化物ぶりですから、床でも無双してくれます」
「オーケーじゃないからセッティングしないで! お願いだから黙ってて誰にも言わないで! それにザックが色々と凄いっていうのはもう知ってるから!」
エセルに対して、リーの直接攻撃が容赦ない。言い分としては、煮え切らないではっきりさせないから苛々する、だそうである。
そんな風に二人して戯れたあと、渋って離さないリーから少年を取り上げて、勿論おふざけではあるが、子供から無理に別離させられる母親よろしく軽く絶望させ、一際大きな宿舎へと案内する。
その宿舎は正面玄関を潜ると一段高くなっており、左右の壁にある棚に子供達の靴が並んでいた。
少年を案内するエセルも其処で靴を脱ぎ、その棚――靴棚に置いて中に入る。
そして少年も、なんの違和感もなく戸惑うこともなく靴を脱いでそこへ置く。
そう、まるで最初から土足で入らない場所だと知っているかのように。
「……ふぅん、此処じゃあこういうのを知っている人なんていないのに、キミはコレを知っているんだね」
エセルの独白にも似た呟きを耳にして我に返った少年は、半身を引いて身構える。
それは幼少期より以前から繰り返えされた、本能に刷り込む凄絶な訓練により身に付けさせられた自衛の術。
暗殺者は目的を達成しその成果を報せるまで、死ぬことは許されないから。
「あ、警戒しなくて良いよ。別にキミが何者で、どういった経緯で此処に至ったとか、ハッキリ言って興味ないから。それに――」
肩を竦めて溜息を吐き、エセルが言う。その言葉が意外で肩透かされたのか、少年は目を瞬かせる。
だが次の瞬間、影が差したと眼と脳が理解しただけなのに、エセルの人差し指が少年の喉元に僅かに触れる程度にだが突き立てられていた。
「どれだけ警戒しても、少年は弱いからそんなのするだけ無駄だよ」
――いつでも殺せる。
暗にそう言われ、村では既に一人前だと言われていた筈の自信が崩れるのを、少年は感じた。
そう、今のエセルの動きは、少年には全く見えなかったのである。
それは動きが速いということではなく、瞬きをして視界が瞬間的に暗転した「虚」を突かれたのだ。
瞬きの「虚」を突くと簡単に言うが、それを現実に実行するのはほぼ不可能。
可能とするためには、視覚情報の伝達を経由させては間に合わない。それに一秒を一秒と認識するのではなく、最低でも一秒を百分割して行動しなければ到底間に合わないのである。
つまり、常人には不可能。
「ま、でもそんなのどうでも良いのよね~。強くなりたいんならリーが色々教えてくれるだろうし、それに魔法を学びたいならあたしが教えてあげるよ」
喉元から指を離し、そしてしゃがんで目線の高さを合わせてから頭をワシャワシャ撫でる。
そのエセルの行動一つひとつに殺気や邪気が一切なく、少年の本能的な自衛行動が一切働かない。さっきのリーは色々邪な考えが透けまくっていたが。
こんなことは初めてだ。少年は独白する。どれだけ熟練した暗殺者でもその瞬間は達人ですら気付かない程度のごく僅かにだがそれが漏れるというのに。
潺湲のように乱れず、呼吸すら乱れないエセルのその動きに、少年の心は昂揚した。
そしてそればかりではなく、まだ歳若い筈のエセルという女に興味が湧き、更にその美しさに、先程の会話を聞く限り子持ちの人妻であるにも関わらず、別の意味でも胸が高鳴るのを感じてしまう。
そんな熱の籠もった視線を感じたのか、今度はちょっと困った表情を浮かべるエセル。
「えーとね、キミが以前は幾つだったかは知らないけど、コッチでは親子くらい歳が離れてるからね? あたしに『トゥンク』されても困るから。あ、リーになら幾らでもして良いよ。草原妖精だからヒトの倍以上生きるし今からでも充分釣り合い取れるよきっと!」
「別に『トゥンク』なんてしていない!」
顔を真っ赤にして、思わず少年はそんなことを言う。しかし即座に失言に気付き、だが逆に意外そうな表情を浮かべて驚いているエセルを目の当たりにして、今度は諦めたように溜息を吐いた。
「……イチャイチャしているところ大変申し訳ないのですが、とっとと入って貰えないと邪魔で荷物を運べません。『運送屋』さんも困ってますのでそういうことは密室でして下さい。そして私めも混ぜて下さいませ。技を駆使してエセル様も少年も満足させてみせます」
「イチャイチャしてないわよなに言ってるのよ! それに少年相手にそんな犯罪臭漂うことなんてしません!」
「おやおやぁ? 合意の元なら良いではないですか。でもそういうのに抵抗があるのなら、判りました、私がエセル様を満足させてみせましょう。男もいいですが、女同士もなかなかイイですよ?」
「待って! リーって両刀だったの!? あたしは正常だからね!? おかしな性癖に巻き込まないで!」
「気持ち良いならなんだって良いじゃないですか。それに女同士の方が種付けされない分安全なんですよ?」
「……その発想はなかったわ。でもあたしは別に、快楽を求めて生きているワケじゃないから。あとこの会話まだ続ける? 後ろでその『運送屋』さんが凄く困ってるんだけど?」
「おっと、これは失礼」
エセルとリーの猥談を耳にして、言われた「運送屋」さん達はちょっと困った表情だったり妙に照れていたり、更にはやけに眼をギラつかせてハァハァしているヤツもいたりする。
まぁ可愛い系美人のエセルや、見ようによっては合法ロリで可愛いリーがそんな会話をしていたら、それは仕方のないことだろう。
そんなバカなことをしながら、若干の身の危険を感じつつ、少年は促されるままその宿舎の奥へと、警戒を強めて歩を進めた。
少年が案内されたところは、南向きの窓から暖かな陽射しが差し込む広間だった。
そこには、恐らく十に満たないであろう年齢の子供たちが沢山おり、思い思いに遊んでいる。
しかもそれら遊び一つとっても、絶妙に考えて遊ぶように促す玩具だったり、置いてある本もちょっとした専門書を判り易く、そして退屈しない程度に詳細に説明されているものばかりだ。
見ようによっては此処は孤児院などではなく、幼少期から専門的知識と教養を育むための学習院だと説明されても納得がいく。
少年はそう思い、それを成している此処の経営者へ畏敬の念を抱いた。
――最初のうちは。
例えば、魚屋さんごっこをしているヒト種と土妖精と鬼人族の女の子たち。
「今日はダルウィニーで漁れた新鮮な魚が目玉だよ!」
「待って、ダルウィニーは遠いから新鮮な魚なんて有り得ないでしょ。それが目玉になるなんておかしいよ」
「そんなことはないよ! 朝イチで水揚げされた魚を〝冷却箱〟で急速冷蔵して列車輸送すれば新鮮なまなだ! 多少コストは嵩むけど味は折り紙付きだ!」
「なるほどそれなら新鮮なままだね。でも味が良いのはもっともだけど、それがコストと釣り合いが取れるかな?」
「そこは大量仕入れで――」
「それでも仕入値が――」
例えば、食堂ごっこをしているアルビノで純白の髪と赤い瞳なヒト種の女の子とその他の子供たち。
「今日の日替わりメニューはなにかしら?」
「アクアパッツァだよ」
「え、それがランチなの? それだと原価率が高くならない?」
「ダメかな? 目玉になるかなーって思ったんだけど」
「んー、ダメではないけど、でも注文する人は少ないかな? そもそも時間が掛かっちゃうからランチ向きじゃないよ」
「あ、そうか。じゃあ短時間で出来る小さめのステーキをメインにした軽めのコースとか、単品で煮込み料理とかを作っておいて提供したり、短時間で出来るパスタとかにすれば良いかな? パスタは乾麺を使うんじゃなくて生を用意して置けば更に時間短縮になるし」
「それも良いわね。時間のない人は単品を注文するでしょうし、ちょっと贅沢をしたい人はランチコースがお勧めね」
「あとはランチの原価率だけど、ちょっと高め設定にしてまず味を知って貰えば、夜の部の宣伝にもなるよね!」
「それ良いわね! 宣伝も兼ねれば原価率問題も――」
「集客のためのランチメニューも――」
例えば、宿屋さんごっこをしている岩妖精の子供たち。
「宿泊客を増やすには、まず清潔な寝具と清掃が行き届いた部屋が必要だと思うんだ」
「そうだね、それが大前提だね。あと以外に行き届いていないのが防音設備かな」
「そっかぁ。大人だけが泊まるんじゃなくて、中には子連れでって場合もあるね」
「そうそう。特に乳飲み子を連れた夫婦は壁が薄かったら周りに迷惑が掛かるんじゃあないかって思うよね」
「防音に優れた部屋にするとして、でもそうなると宿泊料もそれなりになっちゃうよ? 一人旅だったり宿にお金をあまり掛けたくない人って多いから、集客問題が出て来るよ」
「そこは部屋を二種類用意しよう。防音に優れた部屋を幾つか用意して、あとはある程度で良いと思うよ。勿論清潔な寝具と清掃は行き届かせて。それからウォーター・クローゼットがあるなしの部屋も用意して、勿論ありな部屋にはアメニティ・グッズを完備して」
「そうだ、防音の部屋を可能な限り予約制にしない? そうすれば客室に無駄がなくなると思う」
「それ良いね! あとはレストランだけど、何処かと提携して店子として入って貰えば――」
「複数入って貰って客が店を選べるようにすれば企業競争が発生してより良いものが――」
――などなど。中には「優しい初級魔法」と書かれた絵本を真剣に熟読している幼児すらいる。
ちなみに先程の会話は、どう見ても五歳くらいにしか見えない子供たちのものだ。
それ以外にも様々な種族の子供たちがいて、それぞれ大人でもしないような起業だったり経営だったり、果ては各国の経済だったり物価情報に対して効果的な商売についてなどの議論をしたりしている。
(なんだこの賢いのに頭がおかしい空間は?)
その一種異様な光景に少年は絶句し、そしてその傍にいるエセルはそれを見透かしたのか、何故かとても良い顔で満足げに頷いている。
「ここはね、あたしのおっ――えーと名義上の配偶者になっちゃうひ――ヤツのお婆様が経営している孤児院なのよ」
何故か誇らしげに、胸を張ってそう言うエセル。どうして二回も言い直したのかがちょっと気になったが、それは突っ込まないでおこうと考える少年だった。なんだか大火傷をしそうだし。
そんなことより、胸を張ったことでそこが強調されて無意識に目が行ってしまう。さっきの某草原妖精とは大違いである。
「ふ……少年のクセにおっぱい比べをするなんて、なかなか将来有望じゃないか。そういう性に貪欲な姿勢は、嫌いじゃない」
瞬間的にエセルとリーを見比べてそんなことを考える少年の視線を目敏く察知したリーは、後ろから抱き付いて自分の胸を後頭部に押し付ける。
その感触も悪くはなかったが、此処でされるがままになっていると、なにか大切なものを無くしそうだと即座に判断した少年は、取り敢えず少年らしく暴れて脱出しようとした。
「おやおや、遠慮しなくてもいいんだぞ。さっきみたいに私のおっぱいに顔を埋めて微睡んでも」
淀みなく流れるように変態行為をしながら、そんなことを声を潜めずに平気で言っちゃうリー。勿論それはそこにいる子供たちに丸聞こえだ。
よって少年とリーは全員の視線を恣にしてしまうのだが、大半の子供たちは数秒だけ目を向けただけで、すぐに「いつものコト」と言わんばかりに議論に戻る。
そんな助けが一切ない空間で、少年が僅かに絶望していると、
「いやらしい! 離れなさいよこの変態!」
子供たちを見守りながら角の机に着いている少女が徐に立ち上がり、読んでいた本を小脇に抱えて詰め寄って来る。
そんなことを言われた少年は、心底心外とばかりにゲンナリするが、
「来たばかりの人に変態行為をするの止めなさいよ! 何回言ったら判るの!?」
その持っている本――やたらと分厚いハードカバーで、タイトルが「十二属性魔法書」とあるそれの角でリーの頭を叩く。そして手が緩んだところで少年の手を取り自分の後ろへ引き寄せ、鼻息も荒くリーの前に立ち塞がる。
そして少年は、てっきり自分が罵倒されたと思っていたため、それが違うと判明して胸を撫で下ろした。
「ふふ、イイねぇディア」
叩かれた箇所を撫で、口角を吊り上げて笑いながら、リーは二人を半眼で見る。
その視線は怒りや憎しみ、嫉妬などという攻撃性のものではなく、むしろ恍惚や愉悦といったものだった。
「もっと罵って叩いてくれないか? 久しくそれを味わっていないんだ」
などととんでもないことを言っちゃう。その少女――ディアの鳥肌が止まらない。
「リーの変態! 近付かないで!」
そしてディアは、本を両手で振り被って言うのだが、
「ふふふ、そう、私は変態なのだ。ほらほらもっと罵って叩かないとお前も抱き締めちゃう――」
「いい加減になさいリー」
その声と共に、リーの頭頂で「ゴッ!」とちょっとヤバ目な音がした。
「その性癖は否定しないけど、子供たちを巻き込むのは良くないわよ。あと、早くそういう趣味のパートナーを見付けなさい」
頭を押さえて蹲るリーの後ろから、赤毛混じりな金髪の長い髪を後ろで縛った、背が高く細身な女が広間に入って来る。
そして蹲り、だが「これもなかなかイイ」とか頭がおかしなことを言っているリーを、その青灰色の瞳が宿る双眸で呆れたように一瞥してからディアの背後にいる少年へと目を向けた。
「キミは……ああ、そうか。またエセルちゃんが拾って来ちゃったんだね」
頭をボリボリ掻いて、呆れたようにエセルをジロリと睨む。そして見られているエセルは、全力で素知らぬ顔をしてそっぽを向いた。
「ああ、ああ、責めてるわけじゃないんだよ。そういう子供を放っておけないって気持ちは判るからね。それに、『持っている』ヤツが『持っていない』ヤツに施すっていうのは、言ってしまえばウチらの不文律みたいなモンだからね」
言いつつ、彼女は聖職者のメダリオンを豊かな胸の谷間から取り出して見せる。
それを目の当たりにした少年は、メダリオンにも豊かな胸にも目を奪われることはなく、強いて言うなら「収納にもなって便利だな」程度にしか感じなかった。別に胸の大きさなどどーでも良いし。
「ふふ、レミー様の巨乳を目の当たりにして眉ひとつ動かさないとは……。やはり少年は貧乳好――」
何故か勝ち誇って満足しているリーを華麗にスルーする少年。いちいち相手にしていたら痛くもない腹を探られそうだし。
「この人はレミー。あたしの義理のお祖母さん。こう見えても聖職者なんだよ」
そして同じくリーをスルーし、少年へレミーを紹介するエセル。だがそうされたところで、
「ふふ、発言をスルーされて放置される感覚……それもまた新鮮でイイ! 放置プレイも捨て難い!」
などと宣いながら自身を抱き締めて頰を上気させ、足をモジモジさせているリー。彼女はもう、駄目かも知れない。
「ばあさんって言うんじゃないよ。これでもまだまだ若いって思ってんだ。ま、あのバカ孫よりも体力と力が有るのは否定しないけどね。で、この子はなんていうんだい? 名前が判らないと不便で仕方ないよ」
そしてその背が高い細身の女――レミーもリーの言葉を聞かなかったことにしてエセルへ目を向け、ばあさん呼ばわりは不本意だとばかりに口を曲げてむふぅと鼻息を吐く。
だがそれでも満更でもなさそうに見えるのは、きっとそれはエセルの実力と人柄の為せる技であろう。
そのエセルはというと、言われて首を傾げて思案し、そして手を打ち合わせてから眩しいくらいの笑顔を浮かべてから、
「そういえば聞いてなかった。いや失敗失敗」
全く悪びれる素振りを見せずにそんなことを言いつつ「あはは」と笑う。
「まったく、この娘は……。まぁ今更だしそれは良いだろう。で? お前はなんていうんだ?」
そんなエセルの頭をペチンと叩き、レミーは少年の傍に蹲み込んで訊く。
少年はその質問に対して、一切躊躇することなく答えた。
――八〇六号――と。
その名前ですらない呼称を聞き、レミーはおろかその広間で討論をしながら聞き耳を立てていた子供たちですら、言葉を失った。
それはそうだろう。少年は思う。生まれた子に名を与えるのは、人として「普通」であるから。
だが少年には、その本来与えられて然る可き名がない。それがあまりに異常で有り得ないことであるために、そこにいる聡い子供たちは声を失ったのだ。
そして絶句するレミーや子供たちは、その少年になんと声を掛ければ良いのかが判らない。名を付けられない者など、いままで見たことも聞いたことも、ましてや接したことすらないのだから。
「ふぅん、そうなんだ。でもなんで八〇六号なの? その数字に理由はあるの?」
その皆が声を失い、押し黙る沈黙を破り、何事もなかったようにエセルが少年を見ながら素朴な疑問を口にする。
空気など、一切読んでいない。
勘違いしないで欲しいのだが、エセルは空気が読めないのではなく読まないのである。読んだところで、良いことなどなにも無いばかりか悪いことしか起きないから。
「八月生まれで、その年で六番目に生まれた。だから八〇六号」
皆が憐んだ目を向ける中、少年はその呼称が当然であるとばかりに淡々と、エセルの質問に答えた。自分が生まれ、人として与えるべき「当たり前」を貰えなかったとしても、それでも自分は自分だから。
「うーわー、そのまんまなのねぇ。同じ呼称にしても、もうちょっと独創的なモノって無かったのかしらねぇ」
そして更にそんなダメ出しをするエセル。それにはレミーも若干慌てた。
「じゃああたしが名前をあげよう。今日からキミは『セシル』だ」
「……『セシル』?」
「そう、セシル」
「『六番目』だから?」
「へぇ、キミはそっちがお好み? あたしはウェールズの『六番目』の方が良いな」
最初は警戒していた少年だが、敵意が一切なく、且つ明け透けに互いにしか判らないようなことを平然と言って来るエセルに、それを隠すのがバカらしくなったようだ。
それに、どうせ他人に言ったとしても妄言としか受け取って貰えないから。
そんな二人にしか判らない会話を、その場にいる約一名を除く全てが、どう声を掛けて良いのか判らず沈黙していた。
「ふふ、セシル……良い名だ。セシルが大人になって私と……」
床に転がってそんな妄言を呟きつつ恍惚と仰け反るリーは――リーだけが、変た――平常運転だった。
少年がエセルから「セシル」と名付けられてから六年の年月が経ち、彼は一五歳になっていた。
それまでの月日は特筆すべきことはほぼなく、強いて言うなら経営者であるレミーから提供される種々様々な知識と技術を、同じ孤児院にいる子供たちと共に吸収していたくらいである。
更に時々ではあるが訪れるエセルから魔法を、そしてそれと同じく訪れてしまうリーから戦闘技術の享受――
「ふふ、来たよセシルくん。さあ、キミの濡烏の髪と白磁の肌、そして灰色の瞳をよーーーーーーーーく見せておくれ。そして今日こそ組んず解れつ一晩中◯◯◯◯をしようじゃないか!」
――と銘打つ、スキンシップが異常に多いセクハラを躱して必要なことのみを学んでいた。
というか、セシルが一五歳の成人を迎える前後あたりからリーのセクハラが本格的に酷くなり、最近では筋肉の付き方を見ると言われて脱がそうとするわ、組み手をしていたら何故かリーが頬を赤らめハァハァ言いながら全裸になり獲物を狙う眼になっているわ、挙句深夜に寝室へ忍び込もうとしていたりで、本気で貞操の危機を感じるセシルであった。
まぁそれのおかげというか怪我の功名というか、罠の設置と気配の感知だけは、リーですら唸るほどの腕前になってしまっていたが。
「はう!? こんなところに罠が! くぅ! 荒縄が躰に喰い込んで……ああ、でもこれもまたイイ! やるなセシルくん! どうしてキミは常に私が想像する少ーし斜め上を行くんだい? 本気で惚れちゃいそうだよ。さあ今からでも遅くない、共に爛れた性を謳歌しようじゃないか!」
「……それに『はい』と答えれば、夜中に俺の寝室へ突撃するのを止めてくれるのか?」
「ああ、それはもう二度としない。さあ言え! 言っておくれ!」
「だが断る」
「な、なにぃ!?」
「このセシル・アディが好きなことの一つは、自分が優位だと思っているヤツに『No!』と言ってやることだ……!」
などと何処かで聞いたような受け答えをし、何事かと駆け付けたエセルと、
「ふ……やるじゃあないかセシルくん。リーを縛った上でその遣り取りをするとは。グレートだよ、こいつぁ!」
「この程度、出来て当たり前ですよ。それにしても……いつもいつも、懲りずに相変わらずでやれやれだぜ」
互いに真剣な表情で劇画調な顔になり、両手で髪を掻き上げるエセルに対し、被ってもいない帽子の鍔を摘んで間深く被るセシル。
背景に「ドドドドドド」という文字を背負いながら、そんな謎のポーズで同じくそんな謎の会話をする二人。とてもご満悦である。
ちなみに前述のエセルとの遣り取りは、ポーズ以外は二人の脳内変換で繰り広げられていた身内ネタであるために、物音に気付いて駆け付けた、当然それが判らない皆を須く置き去りにしていた。
――セシルもエセルも、実はそっち方面には結構傾倒していたため、互いに誰にも通じない会話が出来ていたりする。
そしてそんな二人を見たリーが、ハンカチを噛み締めながら「キー!」と言っていた。
これはエセルから教わった、嫉妬をしたときの作法(?)であるらしい。実行してみると不思議と様になるために、彼女はそれを結構愛好している。
まぁ二人のそっちがどっちかは謎であるが。
そんなアホな茶番劇が繰り返されたある日、例によってセシルの罠を掻い潜り、そして遂に寝室に到達したリーは、ベッドで仲良く全裸で抱き合って眠るセシルとディアを目の当たりにして絶句し、それ以降この孤児院へ来ることは二度となかったという。
どうやらリーは、出会った頃からセシルをちょいちょい揶揄ってはいたのだが、どんどん大人になって行く彼にいつの間にか本気になってしまっていたらしい。
肩を落としてエセルと共に帰って行く彼女は、ちょっとだけ可哀想だったという。
だからといって、セシルがリーに色々されるのはごめんである。それとこれとは話が別だ。
そしてそのセシルとディア――正式にはクローディア。ディアは愛称である――は、その時点で別に「そういう仲」であったわけではない。
セシルに対してリーのセクハラがあまりに酷く度を越してきたため、レミーとエセルが一計を案じ、そしてクローディア本人が文字通り一肌脱いだのである。
この事件(?)には実は続きがあり、常にリーを嗜めていたクローディアが、知らず知らずのうちにリーから色々と影響を受けてしまっていたため、本来はちょっと着崩した感じで横になる筈だったのが、なにを思ったのか小気味よく全裸になってしまった。
そしてその裸身がセシルの好みのど真ん中であったため、若い二人は止まれずそのまま色々直行してしまっていたのである。
それから、そんな仲になっちゃったからといって二人が恋人同士になったかというと、そういう事実は一切無い。
「ディアは可愛いし身体も好みだけど、性格が合わないから」
「セシルは凛々しいし色男だし身体も好みだけど、万能過ぎて付いて行けないわ」
などと互いに言いつつ、そういうことだけはしっかりする仲になってしまった。
これには流石にレミーもエセルも想定外であったらしく、なんとか止めさせるか、もしくはきちんとけじめをつけさせようと画策したのだが――
「いや、別に身体だけの関係で満足してるから。それにちゃんと『森妖精式避妊法』実行してるから大丈夫だよ」
「身体だけの関係で快楽を共にしているだけのなにが悪いの? 不特定多数としてるわけじゃないから良いでしょ別に。それにセシルはちゃんと避妊してくれるから問題ないわ」
明け透けにそんなことを言われ、更に部屋は一つの方が良いとばかりにクローディアがセシルの部屋に引っ越してしまって一切聞く耳を持たなかった。
そしてエセルは、やはりリーを連れて来ていたのが間違いであったのかと後悔し、だが、考えてみれば何故に成人後の男女のアレコレに口出ししなければならないのだと思い至り、本人達も満足しているし問題ないだろうと判断して放置することに決めたそうな。
つまり、匙を投げたのである。
そしてレミーも遂には諦め、だがもしなにかあったときにはちゃんとケジメを付けるようにキツく言い含めて納得させ――
「まぁそのときは仕方ないか。ディアは性格が合わないだけで良い女だし、良き妻で良き母になると思うよ」
「そうね、そのときは仕方ないわよね。セシルは万能過ぎて鬱陶しいところがあるけど、夫や父親としてならこれ以上ないくらい優良物件だし」
――た筈なのだが、おかしなところで達観していて、若干どころか相当心配になるレミーであった。
そんなこんながあってわちゃわちゃしてはいたが、意外に充実した日々をセシルは送っている。
この孤児院に来てから、今までは知識としての普通の生活を識ってはいたが、それを実際に送るなど無いであろう生活をしていたセシルにとっては、その全てが新鮮であり、そして懐かしいものだった。
そしてそんな彼の一日は、朝四時から始まる。
季節によっては日の出より早く起きだし、隣で寝息を立てているクローディアを起こさないようにベッドを抜け出して着替えをする。
その後は音もなく寝室を後にして洗面場で身支度を整え、台所へ行って孤児院にいる仲間たち全員分の朝食を作り始めるのが日課となっていた。
パン種を仕込んで二次発酵まで終わらせ、形成してパン窯へ入れて焼成する。
その後副菜の下拵えをしている途中で、白髪赤目の色素欠乏症である女の子のリオノーラが合流し、下拵えが終わって本格的に調理を開始する時間になって、レミーが合流した。
その後もヒト種のシャーロットと土妖精のメイ、そして鬼人族のレスリーも合流し、協力して百を超える人数の孤児たちの朝食を作るのである。
そんな中でセシルは、調理はレミー達に任せてリオノーラとあれこれ相談しながらレシピを考え、昼食用の下拵えやら夕食用の食材を形成したりしていた。
朝食が完成間近になり、まだ寝ている子供たちを起こして身支度を整えさせる。ちなみに一番最後に起き出すのは大抵クローディアで、その原因はセシルにあった。
詳細は省くが、所謂一般的に言うところの夜の営みで、彼は相当凄いらしい。よってそのお相手であるクローディアがそんなことになっちゃうのは、当然なのである。
そんなポワポワした状態であるクローディアの隣に座ったセシルは、まだ半分以上眠っている彼女の世話を甲斐甲斐しくしていた。
これは毎度のことであり、これで恋人同士ではないとか言われても説得力が全くない。確かにある意味では、恋人同士ではないのであろう。既に夫婦みたいだし。
そしてそういうことを毎度毎度繰り返している二人を、孤児院の仲間たちは砂糖を丸呑みしたような表情で眺めて――
「ねぇリオちゃん、このニンジンスープめっちゃ美味しいし。あと柑橘系の香りも良い感じ。どうやって作ったし?」
「あ、それボクも気になってた。ニンジンに柑橘系の風味が合わさってるって意外な組み合わせなのねん」
「ああ、それは普通のニンジンスープにオレンジを皮ごとミキサーしたのを濾してから入れて、沸騰しないように温めただけだよ。エセルさんのレシピ本にあったから作ってみたの」
「ほわ~、柑橘類と根菜の夢のコラボだし」
「ふへぇ~、野菜の新たな可能性を見出せて、ボクは満足だよ。サスガはエセルさんなのねん」
「……あちきは肉も魚も入っていないのが残念で仕方ないでありんす」
「ニンジンじゃなくて葉物野菜とかで作って、そこに鶏肉入れるってのも悪くないんだけどね。でも今はちょっと食材が不足気味なの。エセルさん忙しいみたいでなかなか来られないみたい。えーと、確か今はトミントール公国に行ってるんだっけ?」
「そうなのねん。湖上都市カードゥってところに行ってるみたいなのねん」
「カードゥかぁ。あそこで採れる『水瓜』はとっても美味しいって話だし。ウチも行ってみたいし」
「あ、でも『水瓜』って野菜なのねん。果物じゃないのねん」
「ウソぉ!?」
「肉が少ないとはほんざんすか? それは残念でありんす。ではこの機会に、あちきが一狩り行きとうござりんす。ついてはディアはん、セシルはんを貸しておくんなんし」
――いなかった。
そんなのどうでも良いとばかりに、今朝のスープの出来栄えについて議論を始める果物大好きヒト族シャーロットと野菜大好き土妖精メイ、肉魚大好き鬼人族レスリー、そしてそれに答えるリオノーラ。
レスリーに至っては、セシルへ一狩り行こうぜとばかりにクローディアに許可を求めちゃう始末。
そして訊かれたクローディアは、セシルに「あーん」して貰いながら、
「ふえ? 良いんじゃない? 別にセシルがレスリーと一狩り行こうが◯◯◯◯しようが一向に構わないわよ。というかなんであたしに訊くの?」
「主さんがたがなんとおっせえましょうが、どう見ても夫婦にしか見えないでありんす。妻の許可なくセシルはんと共するなどという好かねぇことは出来ないでありんす」
「えー? 夫じゃなくてただのトモダチだよ? ヤだなぁレスリーったら、おかしなことを言うんだから」
「なにをおっせいす。でも主さんがたが良いならそういうことにしなんす」
そんな会話をし、そして言われている当人の承諾など一切無視して済し崩し的に、セシルとレスリーが狩りに出ることが決まった。
――のだが――。
セシルが狩りの準備をするため、防刃服を身に纏い、急所に硬皮で作った簡単な防具を着ける。
そしてクローディアが彼愛用の刺突剣と、御守り代わりの防御の聖魔法が付与された指環をネックレスに通してセシルの首に着けた。
……どう見ても、出掛ける夫の身支度を整える妻である。
胸に晒しを巻いて着流しを羽織り、大太刀を背負って腰に大鉈を帯びた鬼人族らしい出立ちになっているレスリーも、流石にそこまでイチャコラされればゲンナリするのだが、やはり二人には一切の自覚はない。
そんな感じで身支度をしてはいたが、結局二人は出掛けることはなかった。
孤児院の御用商人であるアップルジャック商会バルブレア支店の店長が、馬車を飛ばしてレミーを訪ねて来たのである。
そして何事かと面倒そうに出て来るレミーに、店長が息を切らせて伝えた。
エセルが列車事故に巻き込まれた――と。
トミントール公国は、交易都市バルブレアがあるダルモア王国の西方に位置している、通称「水の国」とも呼ばれるほどに湖沼が多く点在し、更にその標高が三千メートルを超える高地にある国である。
そのように呼称されてはいるものの、それでも海に面しているわけではなく、だがその湖沼の中には岩塩が採掘出来る塩湖も存在していた。
存在する最大のものはトーモア塩湖であり、湖に分類されてはいるのだが実は水はほぼ存在していなく、一面に拡がる純白の塩と、水深数十センチメートルしかない僅かばかりの湖水で満たされている場所である。
塩分濃度が強い――いや、塩しかないその場所は生物が存在出来ない死の世界ではあるのだが、その僅かばかりに存在している水が鏡面となり、凪には得も言われぬ光景が拡がっていた。
日中であれば青空と雲を映し出し、日の出には昇る朝日を、日の入りには沈む夕日を映し出す。
そしてそればかりではなく、夜は満天の星空をも、その湖面に映し出すのである。
そのトーモア塩湖は、トミントール公国の中でも標高が四千メートル級の山脈の頂上に位置しているため、現地に行くには過酷な山道を登り、更に高山病を克服しなければならない。
だがそんな難所であっても、その絶景を欲して訪れる者は後を絶たない。
そのためトミントール公国では、国を挙げてその四千メートル級の山脈に鉄道を通す計画を立てた。
湖沼が多く点在するこの国では街道の整備は困難であり、そのためレール一本で済む鉄道技術が発展していたから。
だが問題は、そのように高低差がある場所にどうやって鉄道を通すか、であった。
平地と僅かな斜面であれば問題なく運用出来るのだが、傾斜が60‰を超えると通常のレールでは登れない。そして計画されている列車の傾斜は80‰を超える計算となる。
それほどの傾斜地にレールは敷けても、列車を走らせるなど不可能。
とてもではないが、現実的とは言えなかった。
そうして計画が頓挫してしまったあるとき、トミントール公国の玄関口とも言うべき場所――湖上都市カードゥの商業ギルドを訪れていた、ストラスアイラ王国から来た商人の女が、鉄道技師達がその傾斜を登る技術開発の困難さを喧々囂々と議論という名の愚痴を零しているのを耳にしたとき、
「傾斜がキツくて登れないなら、軌条レールの内側に歯軌条レールを付ければいいじゃない。耐久性が不安なら、歯車を太くしたり複数付ければ問題ないでしょ? そりゃあ速度は落ちるでしょうけど、安全確実に人や荷物を運べるようになる筈よ。出力が必要なら蒸気機関車を前後に付けて『押し引き』式にするとか、機関を直列に繋げるとかすれば良いんじゃない? まぁ機関に関しては素人だからなんとも言えないけど」
彼女が何気なく言ったそれがまさしく解決策であり、たまたまそんな愚痴を零しにそこに来ていた技術者が啓蒙を得て、そこからその計画は一気に進み始めた。
そうして、僅か五年の年月で高山鉄道は完成し、その列車は「EA-01」と名付けられた。
後日談として、その商人の女が再びその地を訪れたときに、その列車名を聞いて即座に元ネタを理解しちゃったため全力で改名を依頼したのだが、
「なんと奥ゆかしい! まさしく女性の鏡! いや、聖女だ!」
などと見当が遥か彼方にぶっ飛んでいるとしか思えないことを言われ、何故かそのまま宴会へと突入したという。
彼女にしてみればそんな歓待は迷惑以外の何物でもなく、一刻も早くその場を離れたかった。
強いて良かったことを探すとしたならば、持ち込んだリンゴ酒が数日で、しかも定価の倍額で捌けたことくらいだろう。
というか、何かしらがあればすーぐ「聖女」とか呼ぶのは本気で勘弁して欲しいと、割と本気で怒った彼女はそう言ったのだが、どうやらそんな訴えは一切届かないらしい。
「コレが『馬の耳に粘土』というヤツか……」
ちょっと違う。意味は概ね合っているが。
まぁ、宴会自体は参加者した技術者がほぼ岩妖精であったため、僅か三〇分程度で死屍累々となってお開きになったが。
ちなみに列車名の「EA」とは、彼女の名をそのまま無断で付けちゃったものだ。
すなわち―― Ethel・Applejack。
そんな鉄道技術が発達したトミントール公国への入国も、勿論鉄道が主体となっていた。
その他の入国方法はというと、他国とを完全に隔てているタムドゥー渓谷の険しい道を延々と降りて行き、真下に流れる河川に掛かる橋を越えて、再び渓谷を登るしかない。
現在はその渓谷に、橋脚と主桁、橋台を剛結させた鋼構造骨組の橋――タムドゥー渓谷橋が架かっており、そこを走る鉄道によって出入国が容易になっている。
鋼構造骨組は元々ブレアアソール帝国が開発したものであり、その友好の証として技術供与されたものだ。
もっともトミントール公国側とすれば、国が接しているわけでも友好的に盛んに交易しているわけでもないため、それとして供与される利点は特にない。
敢えて言うのならば、渓谷橋の建造費用を帝国が負担したことであろうか。
帝国にしてみれば、その技術力を世に知らしめたいとの思惑はあったのかも知れないが。
その渓谷橋は頑丈であり、余程のことがあっても落ちないと言われていた。
それを鵜呑みにしていたわけではないが、だがあの技術大国である帝国が太鼓判を押したほどの橋であるため、その可能性は極めて低いと思われていた。
――だが――
その日、タムドゥー渓谷に掛かる渓谷橋は、列車が丁度中央部に差し掛かったとき、その中心から真っ二つに折れ――500メートル下の谷底へと落ちて行った。
――多数の乗客を乗せたまま。
タムドゥー渓谷橋が落ちたとの報せを無線電話で受けたトミントール公国の元首、クレメンティーネ・フォン・ブランケンハイム大公夫人の行動は迅速だった。
その渓谷橋の携わった全ての技術者と救助のための兵を即日掻き集め、救援と支援物資を積み込んだ特別列車を手配し、自ら陣頭に立ってその日のうちにタムドゥー渓谷へと出立した。
人員を掻き集めて今後について話し合い、そして掛かる予算の概算を出してあーだこーだ机上で議論するなどという無駄はしない。説明と調査、そして救助活動の計画などは移動中に出来るのだから。
だがそれでも、公都クラガンモアから東端であるタムドゥー渓谷への道程は、トーモア塩湖があるノッカンドオ高地を大きく迂回しなければならないため、例え列車を無休で走らせても三日は掛かる。
そのまま手を拱いていれば、助かる者も助からないと判断したクレメンティーネは、湖上都市カードゥの領主であるディートフリード・フォン・シュパールヴァッサー辺境伯へ直接電話をして協力を仰いだ。
しかし、ディートフリードはそれを拒否した。
何故なら――その連絡を受けた即日、彼は誰に許可を得るでもなく、既に救助隊を現地へと派遣していたのだから。
――*――*――*――*――*――*――
その日、快晴のタムドゥー渓谷壁面にある鳥人族の邑では特産である養蜂の収穫最盛期を迎えていた。
タムドゥー渓谷は、実は非常に緑豊かな土地であり、様々な草花が咲き乱れる温暖な場所でもある。
そして其処には昔から鳥人族の邑が点在しており、前述の通り養蜂で生計を立てていた。
鳥人族が出荷している蜂蜜は質が良く、トミントール公国は元より他国でも高級品として高値で取引されている。
そのため鳥人族は非常に豊かであり、だがそれでもその生活形態は昔から変わっていない。
鳥人族の容姿は、両の腕が羽根になっているとか、足が三前趾足になっているとかではなく、見た目だけならヒト種と変わりない。
そして知能も低いわけではなく、個体によっては高度な知識と技術を持つ者もいる。
ただ違うのが、その背に大きな翼があることだ。
そしてその翼は飾りや伊達ではなく、自由に空を飛べるのは勿論、長距離の飛行すら可能なのである。
空を飛べるということは、戦いにおいて非常に大きな優位性があるのは知っての通りであり、当然それを生かそうと時の権力者が種々様々な方法で取り込もうとした。
だが彼らは非常に穏和であり、争いを好まない性質をしていたため、それらを頑なに拒絶し、そしてそれが元で争いが起きてしまった。
鳥人族は、争いを好まない。
だが――穏和であることと、戦闘能力がないことは別である。
それに彼らは、自分たちに牙を剥く者どもを、決して許さない。
恩には恩を、仇には仇で返すのが、鳥人族が古より培って来た教えであり、そして最早それは習性と言ってしまっても良い行動原理であった。
その戦いは、空を制した鳥人族の一方的な蹂躙で終わり、そして戦いを仕掛けた者どもは、容赦なく須く皆殺しにされたと、当時を物語る書は伝えているという――
――のだが、実際は追い払っただけで、殺傷は出来る限りしていなかったようである。
捕まえて高度千メートルまで急上昇するとか、高速で背面ループするとか、錐揉み状態で自由落下するとか、紐なしバンジーをさせてから追い付いて捕まえるとか、高所が苦手な著者だったら絶対失禁するであろうことをフルセットで行い、ちょっと死ぬほど怖がらせはしたのだが。
その鳥人族が蜂蜜の収穫作業をしているとき、遥か上にある、数年前に出来た橋から大気を震わせる轟音が響き渡り、そして列車が落ちて来た。
橋から鳥人族が育てている養蜂場は離れており、それに関しては問題ない。
だが、その橋の真下付近には、子供たちが遊び場にしている広場があった。
そこへ、爆発と共に破壊された橋桁と列車が落ちて来たのである。
セメントで固められた橋桁が砕け、それが瓦礫となって降り注ぐ。だがそればかりではなく、十両編成の列車もそれと共に落ちてくる様は、悪夢さながらであった。
総重量30トンを超える乗客列車や、それを超える貨物列車、そして更に重い機関列車は、それだけで既に質量兵器と同義であろう。
鳥人族も落ちて来るそれを、ただのうのうと見ていたわけではない。
彼らが得意とする風魔法を使って瓦礫や列車を吹き飛ばそうとするのだが、それほどの質量をどうにか出来るわけもなく、それの軌道は一切変わらず子供たちへと降り注いだ。
最早成す術もないと思われたそのとき――
「〝二十重詠唱〟展開」
何処からともなく、涼やかな女の声がした。そして、凄まじい魔力の奔流が渓谷内を満たす。
「十連〝水球〟」
その声と共に巨大な水が空を満たし、瓦礫と列車を受け止める。
だがそれは僅かばかりに落下速度を遅らせただけであり、質量そのものが発するであろう破壊力は殺せていなかった。
絶望と共にそれらを呆然と見上げる鳥人族の子供たち。悲鳴を上げる暇すら、既にない。
「五連〝激流〟」
子供たちの上空数十メートルまで、その水に包まれた瓦礫と列車が迫ったそのとき、その水が渓谷に流れる河川の方向へずれた。あたかも、其処が急流であるかのように。
「三連〝水蒸気爆破〟」
そしてその流れを加速させるように、水の一部が弾けて周囲に衝撃波を撒き散らす。それによって子供たちはおろか大人の鳥人族たちまでも軽く吹き飛んだのだが、それは仕方がない。
瓦礫と列車は激しい水飛沫を上げて川に落ち、今度はそれを包んでいた水が津波となって邑へと流れ込む。
「二連〝風嵐《トルナード》〟」
それが村を飲み込もうとしたそのとき、それの正面に巨大な竜巻が発生して水を巻き上げる。
それは不思議なことに水だけに作用し、空高く巻き上げて散らせ、やがて霧雨となって降り注いだ。
「――詠唱破棄」
渓谷を満たしていた魔力が消失し、降り始めた霧雨に濡れながら、そんな奇跡のような光景に呆然とする鳥人族達の前に、遅れてなにかが落ちた。
それは赤く血濡れ、そして――右腕と両足を失い、更に腸が飛び出しているヒト種の女であった。
彼女はこの列車の乗客なのだろう。鳥人族達はそう考え、そして手足の欠損ばかりか腹にすら穴が開いている状態の彼女を見て、成す術もなく立ち尽くすしかなかった。
自分達には医療技術はなく、そして傷を癒せる魔法を使うことも出来ないのだから。
何も出来ない、何もしてやれない。ただ、見守るしか出来ない。
そうやって呆然としている鳥人族へ、そのヒト種の女は目を向け、
――誰も、怪我していないよね……?
微笑みを浮かべ、呟いた。
そう、彼女は、浅く息をしながら朦朧とし、自らが死に瀕して尚、初めて会う自分たちを気遣った。
そして悟った。先ほどの奇跡のような光景を生み出したのは、このヒト種の女なのだと。
――彼女を死なせてならない。
鳥人族の誰もがそう思い、そして族長をはじめとし、どうしたら良いのかを検討した。だが彼らが扱う薬草程度では、軽い怪我しか癒せない。つまり、此処にいては確実に死んでしまう。
それは絶対に避けなければならない。
自分達は、彼女に命を救われた。しかも救われたのは大人ではなく、未来ある子供たちだ。その命の恩は、命で返さなければならないから。
今にも息絶えようとしている彼女を、血が流れ出る手足を縛って邑にある薬草で傷口を覆い、腸を戻して皮膚を縫い留め、そして最も速く空を翔ける者へ託し、ヒト種の街へと飛び立った。
向かった先は――湖上都市カードゥ。領主であるシュパールヴァッサー辺境伯は、この邑で採れる蜂蜜を好んでおり、懇意に取引してくれているから。
そう、鳥人族は、その一縷の望みに賭けたのである。
彼女を託されたその鳥人族は最速で空を翔け、100キロメートルはある距離を僅か一〇分で翔け抜けた。
更にそのまま街の城壁を飛び越え、あろうことか領主館の、更に領主の執務室へ直接向かったのである。
窓をノックされ、不審に思い振り向いたシュパールヴァッサー辺境伯の眼に、全身を赤く染めながら血まみれの女を抱き締め、咽び泣いている鳥人族が映る。
明らかに尋常ではない様相に驚きながら、だが鳥人族が其処までするのは理由があるのだろうと考え、窓を開けて招き入れた。
その鳥人族は酷く消耗していたが、そんな自分のことなど構わずに、その腕の中にいる血だらけの女を助けてくれと訴えた。
突然そんなことを言われても戸惑うばかりであり、事情を詳しく聞こうとするのだが、ただ繰り返しそう言うばかりで話にならない。
そしてシュパールヴァッサー辺境伯は決断した。
事情は後で幾らでも聞ける。だが今は、この鳥人族の願いを聞き入れることが優先だ、と。
なにしろ温和で知能も高く、清廉であり、更に滅多なことでは人里に来ることすらない鳥人族が、禁忌を犯してまで来たのだ。無下に出来る筈もない。
辺境伯は即座に医師と治癒魔術師を手配し、領主館にある客室へその女を連れて行った。
そしてこのとき初めて、鳥人族が連れて来たのがヒト種の女だと知り、更にその惨憺たる有様に絶句したのである。
だがそんな辺境伯の考えとは別に、城壁を飛び越えるのは禁忌とされており、それは例え空を翔ける鳥人族も例外ではなかった。まして領主館へ直接向かい、領主へ直談判するなどという行為は、例えなにがあろうと許されるものではない。
その鳥人族は捕縛され地下牢へと収監されたのだが、一切の抵抗をすることなく、逆に自ら進んで刑罰を受け入れた。
それを知った辺境伯は怒りを露にしたのだが、けじめは大切と部下達に言われて押し黙るしかない。
シュパールヴァッサー辺境伯は優秀ではあるのだが、情に流され易いと常々言われていた。そして領民も、そこがまた良いんだよなぁ~とか異口同音に言っていたりするが。
ヒト種の女の治療を医師と治癒魔術師に任せ、彼は捕縛された鳥人族へ面会し、なにがあったのかを訊き、そして――タムドゥー渓谷橋が落ちたのを知ることとなる。
その後は部下を集め、列車を手配して状況把握と救助のため現地へ派遣し、公都クラガンモアへ無線電話をして事故と現時点での状況を報せるなど、慌ただしく動いていた。
ちなみに捕縛されていた鳥人族は、事故を真っ先に知らせたという理由で超法規的措置が取られ、その一切の罪を問われることはなく、逆にそうしたことにより栄誉領民の褒章すら与えられる運びとなったのだが、そんなどうでも良いことなんかよりも彼女を助けてくれと言われて、結局は辞退となったのである。
三日後、彼女はなんとか一命を取り留め、だが血を流し過ぎたことと腹に受けた傷が非常に悪く、一週間は保たないであろうと医師は言った。
ベッドに横たわり、蝋のように蒼白な顔でありながら、彼女は辺境伯が面会に現れると、花のように微笑んだ。
――美しい女性だ。
彼が最初に受けた印象は、それだった。
シュパールヴァッサー辺境伯は独身である。そして浮いた噂すら一切ないほど真面目であり、そのあまりの真面目ぶりから領民からすら「堅物領主」と揶揄されるほどであった。
別に異性に興味がないわけではない。ただ、自分の興味が湧く異性がいないだけである。彼はそう考えているのだが、青い血が絶えるのを殊の外怖れる貴族である以上、好き嫌いに限らずいつかは娶らねばならない。
それがいつであるのかは明言していなかった。そして、本当にそれが訪れる日が来るのかすら怪しいかった。
だが――
彼女を見た瞬間、彼は――シュパールヴァッサー辺境伯は、それがいまだと感じてしまった。
ベッドに横たわる彼女の前で恭しく片膝を吐き、唯一残っている、だが動かせない左手をとって口付けをする。
そして言った。
自分の妻になって欲しい――と。
傍付きや医師、看護人は度肝を抜かれ、そして言われた彼女も意味が分からず呆然としていた。
ギャーギャー騒ぎ出す傍付きや頭を抱える医師、何故か頬を赤らめ夢現で「禁断の恋 (ハァハァ)」とか言っている看護人を悉く無視して、彼は彼女の返答を待った。
彼女は溜息を一つ吐き、寂しげに微笑んで、正面から彼を見詰め――
――ごめんなさい、あたしは既婚者で、子供もいるの――
そう言い、彼の求婚を断った。
それでも構わないと言い出すシュパールヴァッサー辺境伯だが、そんなことは許さないとばかりに傍付きに連行され強制退場となった。
そんなドタバタがあったりしたのだが、確実に彼女の命の火は消えて行く。
辺境伯は暇さえあれば彼女の元を訪れ、諦めることなく求婚し続け、そして部下や執事に連行されるといったことを繰り返し、そして彼女は、手記代行士を呼んで貰い、遺書ともいうべき手紙を記していた。
そして一週間後。
助けてくれた礼がしたいと鳥人族の長老と子供たちが彼女の元を訪れる。
このときの彼女は、既に意識すら保っているのが奇跡というほどの状態であった。
だがそれでも、彼らと子供たちを認めると朦朧としていた意識が戻り、持参した彼らの特産である蜂蜜を口に含み、
――美味しい。シェリーにも、食べさせてあげたいなぁ――
それが最後の言葉となり、医師や看護人は元より、シュパールヴァッサー辺境伯と鳥人族の長老と随行した子供たち、そして手記代行士のフレデリカが見守る中、エセル・アップルジャックはその生涯を閉じた――
――享年二七歳であった。