イヴォン・アップルジャックは追い込まれていた。

 愛人であるエイリーンと共に、積み重なった負債から逃げるようにグレンカダムを脱したのだが、ベリーズ村まで来たところで事情を説明して自分と共に別の場所で再起を図ってくれるように頼んだところ、

「え、借金を全部シェリーに被せる気? ないわー。あと勘違いしているようだから言っておくけど、あたしはアンタの愛人なんかじゃないわよ。そもそも身体だって許してないでしょ。ただアンタが余計なことをしないようにって、エセルさんから頼まれて監視してただけ。大体アンタってヘタクソだし早いし、良いところ全っ然ないのよね~。達者なのは上辺の口先だけね」

 そう冷たく言われ、逆上して掴み掛かろうとしたのだがあっさり躱され、逆に有無を言わさず簀巻(すま)きにされて(うまや)へ放り込まれてしまった。

 そして現在は全く動けない状態で、なんでコイツを此処に置いてくんだ? とでも言いたそうに迷惑そーな視線を馬達に向けられている。後ろ足で飼葉やら謎の物体Xをぶっ掛けられたりしているし。

 ――あのとき、事実上アップジャック商会を運営していた妻のエセルが事故死し、それとほぼ同じく父である理事長のカルヴァドスが心労のためか急逝してしまった。

 正直に言うと、やっと解放されたと彼は思った。

 経営にはそれほど頓着していないが優秀な祖父のニコラス、食材の目利きや調理の方面で優秀な父カルヴァドス、そして――たった一度の過ちの所為で自分の妻になってしまった、経営や商品開発、更には調理レシピまで一通り(こな)してしまうエセル。

 イヴォンはそれらの何処にも立ち入ることが出来なく、そしてその隙間すら一切なかった。

 はっきり言えば、イヴォンにとってニコラスもカルヴァドスも、そしてエセルも邪魔で仕方なかったのである。

 自分はアップルジャック商会を継ぐ資格がある。そしてその資質もある筈だ。商会を運営する祖父や父親を、ずっと見て来た。だからその知識と技能(know-how)だって理解しているし、誰より巧く出来る筈なのだ。

 なのに――

『なにか違うな、もっと工夫をしなければ商会は継がせられないな』
『どうして当り前に出来ることが出来ないのでしょう。謙虚さが足りないのよイヴォンは』
『お前は残念ながら商才に乏しいようだ。だがエセルと出会えたのは僥倖という他はない。これからはエセルに支えて貰え』
『貴方はどうして努力をしないの。才能なんてなくても知識を蓄えればそれを補えるの。だから、これからも励みなさい』

 両親も祖父母も、一様に自分を認めようとしない。

 自分は出来る、こんなもんじゃない。俺はまだ本気を出していないんだ!

 だから()()()()、自分はアップルジャック商会の全てを手に入れたと思った。

 だが、違った。

 エセルが事故死して、そしてカルヴァドスも急逝して混乱する商会を、自分は全て掌握する筈だった。

 なのに――何事もなく自分をあっさりと飛び越えて、エセルの娘のシェリーが、まだ十に満たない子供のシェリーが、それを横から全て(さら)ってしまった。あの、エセルの生き写しの、()()()()()()()()()()()()

 そう、シェリーは自分の子供ではない。何故なら、エセルと入籍させられてから一度たりも夫婦生活をしなかったから。

 もっともそれに確証はない。もしかして自分が酔った勢いでそんなことをしたのかも知れないし、それに二日酔いの朝にエセルの寝室で目覚めたことも、一度や二度ではないから。

 だが、そんな確たる証拠はないのだが、自分には判る。

 シェリーは――エセルと同じく白金色の髪(プラチナ・ブロンド)と光の加減で色が変わる翠瞳(エメラルド・アイズ)を持つ、自分に一切似ていない少女は、自分の娘ではないということが。

 その混乱が収束し、落ち着きを取り戻した頃になりやっと、アップルジャック商会は正式にイヴォンのものとなった。

 しかし其処からの経営で、いきなり頓挫してしまった。

 自分が思う通りに行かない。

 自分が考える事業が出来ない。

 自分が目指している経営が理解されない。

 自分が思い通りに出来る筈の金が動ない。

 自分が指示する通りに従業員どもが動かない。

 そればかりか、(あまつさ)え自分に意見をする従業員(ヤツら)までいる。

 自分は、アップルジャック商会の会長なのだ。だから、従業員どもは自分の言うことを聞いていれば良いのだ!

 苛立ちを抑え切れず、夜な夜な酒を浴びる日々が続いた。そんな自分を、エイリーンは献身的に支えてくれた。時々いなくなり、次に現れるときには妙に艶々していたけれど。

 イヴォンにとって、傍で優しくしてくれるエイリーンは心の拠り所だった。

 深酒をしてしまいそうになれば優しく止めてくれるし、自分が巧くいかないときも優しく励ましてくれる。そして色々溜まったときは、それを吐き出しさせてもくれた。

 エイリーンが、エイリーンだけが、イヴォンの心を癒してくれる……筈だったのに。

 ――と、イヴォンは考えていた。だがそれは完全な脳内フィルターであり、実際はというと、

『ちょっとアンタ呑み過ぎ。バッカじゃないのこんな水みたいな酒に大金出して。え? なにこの金額? どう考えてもおかしいでしょ! ……払えないならあたしの体で払って貰う? ほぉ~、やれるもんならやってごらん!(後日廃屋が一つ増える)』

 とか、

『なに落ち込んでんの? そんなことで落ち込んでたって仕方ないでしょ! 悩んでる暇があるなら努力しなさいよ! ただでも莫迦なんだから悩んだって粉も出ないわよ! さっさと働け!(後日励まされたと思って迷惑なくらい必要以上に頑張る)』

 あとは、

『は? なに欲情してんの? 一人で勝手に処理すればいいでしょ? ほら魔法で空気人形(ダッチワイフ)作ったげるから勝手にしなさいよ鬱陶しい(魔法で空気を固めてイヴォン好みに作る)』

 そんな感じで、一度たりともエイリーンは優しくしたり励ましたことなどなかった。それをそう感じるのは、きっと幼少期から厳しく育てられたからなのだろうが、それにしたっておかしな感覚の持ち主である。

 まぁそうなれば、きっとカルヴァドスとその妻カミュの育て方が悪かったと言われそうだが、色々歪み始めたのが物心が付いた後であり、それにイヴォン自身が努力より楽を選択して逃げ回っていたため、ぶっちゃけ自分が悪い。そして親は関係ないし、なにもかもを親の所為にするのは(いささ)か乱暴であろう。

 それはともかく、簀巻きにされたイヴォンは放り込まれた厩で屈辱に打ち震え、そして裏切ったエイリーンを呪いながら猿轡(さるぐつわ)を噛み切らんばかりに歯を喰い縛っていた。
 だがそうしたところでその猿轡が本当に嚙み切れるわけでもなく、(むしろ)が取れるわけでもロープが緩むわけでもない。川に放り込まれなかっただけまだマシである。

 そして夕方になり、いい加減馬にすら路傍(ろぼう)の石のような扱いを受け始めた頃になってやっと、彼は声を掛けられた。

「ようイヴォン、良いザマだな」

 それは聞き慣れた声であった。いつも本店にいる、常に笑顔を絶やすことなく優し気に話し掛けて来る草原妖精。

 副店長、リー・イーリー。

「おお、リーか! 助かった! 早くこのロープを取ってくれ! エイリーンが、あの尻軽女が俺をこんな目に! 絶対に後悔させてやる!」

 見知った顔に安堵し、そしてこの後にエイリーンを追及してやろうと考えて厭らしい笑みを浮かべるイヴォン。

 だがリーはそれを冷たく見下ろし、そして溜息を吐いてからその傍にしゃがみ込む。

「さて、どうして(わたくし)がお前を解放するって思ったのかな? その辺をちょおっと詳しく教えて欲しいんだけど?」

 冷徹に嗤い、腰に吊ってあるククリナイフを抜いて器用に回しながら訊く。その切っ先が鼻先を掠め、息を飲んで沈黙するイヴォン。その顔色がみるみる悪くなり、息も絶え絶えに呼吸が浅くなる。

「エイリーンは(わたくし)の大切な教え子を(たぶら)かしはしたけれど、今では相思相愛になっているから問題ないよね。それに、あの子は昔馴染みで大切――かどうかは疑問だけど、とにかく仲間だ。それを悪く言うヤツの言うことなんて、聞く義理はあるのかい?」

 回しているククリナイフを逆手に持ち、眼前に突き立てる。その切っ先と、リーから放たれている本気の殺気に、イヴォンは呼吸すら忘れて沈黙した。その下半身の一部が濡れているのにすら、彼は気付けない。

「そもそもイヴォン、お前は女癖が悪過ぎる。エセル様という素晴らしい、お前には勿体なさ過ぎる奥方がいるのに他の女にうつつを抜かすのは、(いささ)かどころか相当に謎だぞ」
「……素晴らしい、だと……!」

 リーのその言葉に、イヴォンの中のなにかが弾けた。そしてそれが、一瞬だけだがリーの殺気を忘れさせた。

「素晴らしいだと! あんな不実な女の何処が素晴らしいというのだ!」
「……ほお」

 その一瞬だけでも自身の殺気と殺意を克服したのが楽しくなったのか、リーはあえてそれを緩めた。イヴォンが次になにを言うのかを知るために。

「あの女は、俺という夫がいるくせに他の男と通じて子を生したんだ!」
「……」
「俺がなにも知らないと思って、いけしゃあしゃあと生みやがって!」
「……」
「しかもなんだあの可愛くない小娘は! 生き写しにもほどがあるほど似やがって腹が立つ!」
「……」
「やっと死んでくれたと思ったら、今度はあの小娘が商会を横取りしやがって!」
「……」
「だからあの小娘に借金を被せたんだよ! 身売りでもなんでもして返済しやがれ! ざまあみろ!」
「……」

 一通り言い終え、荒い息を吐きながらリーへと目を向ける。知らないであろう真実を聞かされて、さぞ驚いているとイヴォンは思っていた。

 だが――

「シェリー様がお前の子ではないだと? そんな当り前のこと、商会の従業員全てが知っているぞ。それからニコラスもカルヴァドスも、レミーやカミュだって判っている周知の事実だ。まぁ、事情があってザックは知らんが。そもそもお前のような愚鈍(ぐどん)暗愚(あんぐ)暗弱(あんじゃく)な男の種からシェリー様という(おおとり)が生まれる筈がないだろう」
「な――!」
「『俺という夫』だと? 自惚(うぬぼ)れるなよ、小僧。放蕩の限りを尽くして女遊びを繰り返している分際で、どの面を下げてエセル様を不実だと?」
「お、男の女遊びは甲斐性だ! その程度で女がつべこべ言うのはおかし……」
「甲斐性だと!? お前にそんなものなど欠片もないだろうが! 女を見下げるのもいい加減にしろ!」

 再びリーの全身から殺気が噴き出す。それに気圧(けお)され、言葉はおろか呼吸にすら詰まる。だが彼は、なぜそこまでリーが怒りを露にするのが判らない。同じ男であるなら、他の女を求める気持ちが判るとイヴォンは常々考えている。そしてそれが全ての男に当て嵌まる、そう信じていた。

「全ての男がお前と同じだと思うなよ! それにそれは獣の理屈だ! 理性と知性があると自称するのなら、その程度のことなど判っていて当然だろう! 本能を理性で抑え込めないのなら、お前はただの獣だ!」
「お、おおおお前だって男だろう、このくらい判るだろ……」
「判らないし判りたくもないね。それに――」

 口元に妖艶な笑みを浮かべ、背を伸ばして胸を張る。そこには、僅かではあるが膨らみがあった。

(わたくし)は女だ。だが周りが男だらけだし普段から男の(なり)をしているからある程度の男心は判るつもりだが、お前のような屑の気持ちなど一切判らないな。それから――」

 驚愕に染まる表情のイヴォンを、その笑みを浮かべたまま楽しげに覗き込む。

「エイリーンから聞いているよ。お前の()()()()()()()()()だってな」

 リーの言葉に、今度は別の意味で絶望するイヴォン。そんな筈はないと心の中で叫ぶ。娼館でもそんなことは言われなかった。逆に褒められたこともあったのに――

「まぁそういう商売女は口と心は別物だ。思ってもいないことを言って気分良くさせればまた来て金を落として行くからな。そもそも死産だったとはいえよくぞ縫い針のお前がエセル様を孕ませられたと感心する。もっともエセル様は、自身が子が出来易い体質だと言っていた……一晩で五回も十回もされれば出来易いどころの話しではないと思うが。改めて考えると、ザックめ無茶をする」

 絶望しているところへ更に追撃するリー。そしてその言葉に絶望しているイヴォンに、呟くように言った最後の言葉は届かない。

「それから、お前はシェリー様に借金を被せたつもりだろうが、残念ながら親の借金は子に引き継がれないぞ。それは王国法で決まっているし、それに未成年だからという問題なら、業腹だが既にJJが後見人となっている。よってお前の借金はお前のものだ。算出してみたが、合計白金貨二枚(二億円)ほどあるらしい。自分に才覚があると自称するならば、再起して返済するがいい。もっとも――」

 そこまで言うとリーは立ち上がり、縛ってあるロープを切った。だがそれでも、呆然としているイヴォンは動かない。よほど「大海原に縫い針」が効いたらしい。

「お前は商業ギルドの黒い名簿(ブラックリスト)に名を連ねているからな。もうグレンカダムはおろかストラスアイラ王国で商人としては生きて行けないだろうな。それから――」

 今現在起きている現実を受け入れられないのか、呆然として動かないイヴォンにイラっと来たのか、とりあえずその背を踏みつけるリー。多少加減はしたが、体幹の骨が軋む音が響いて絶叫され、周りにいる馬が驚いて(いなな)いてしまった。

 それを落ち着けてとりあえず馬達に謝ってから、リーは言葉を続ける。

「さっさとこの国を出ないと、怖ぁ~いサブマスターとか凶悪なマスターとかがお前を捜しに来るぞ」

 踏みつけとその言葉でやっと我に返ったイヴォンは、常に笑みを浮かべてなにを考えているのか判らない商業ギルドのサブマスターと、身長2メートル越えで更にその身長すら超える大剣を振り回すゴリゴリマッチョな鬼人族のマスターを脳裏に浮かべ、悲鳴のような良く判らない意味不明な言葉を残して何処(いずこ)かへと逃げて行った。

 そしてその後、イヴォンの姿を見たものは誰もいない――。



 ――*――*――*――*――*――*――



 さて、此処までシェリー・アップルジャックの物語を綴って来たが、これにて()()は終了となる。

 彼女が今後どのように暮らし、また誰と出会い、そして誰と()()()のか。

 それは後の物語。

 何れまたの機会を、請うご期待――。