ハロルドが突き付けた、雑な工作処理が施された証文を目の当たりにしてフリーズしたデリックとユーインだが、ほどなく再起動を果たし、ほぼ同時に深い深い溜息を吐いた。
「ハロルド、本気でこれが有効だとでも思っているのか? 借入明細もなくただ金額が雑に書かれただけの紙は借用書とは呼べないし、この程度の落書きは領収書にすら成り得ない。お前は商業を莫迦にしているのか?」
そして始まる、ユーインのマジ説教。だがその程度が理解出来るハロルドではなく、
「なんだと貴様! このオスコション商会の会長ハロルドをバカにするのか! ワシが先代から商会を継いで五年! ずっとこうやって来たのだ! 誰にも文句は言わせん!」
「……一度オスコション商会に査察に入る必要があるようだな。それはともかく、お前って商会を継いでまだ五年だったのか……」
頬杖を突いて再び溜息を吐き、イヴォンの総資産を詳細に纏めた書類をシェリーから渡され、それをデリックと、そしてとても嫌だがハロルドへも差し出した。まぁ差し出されたところでそれに目を通すわけでもなく、後ろに控える愉快な仲間Aと一緒に激昂している。
「ああ? もう五年も商会を回して繫栄させているのだ! そこの無能商会とは違ってな!」
そんなことを鬱陶しく口走りながらニチャリと笑う。その笑顔が、この上なく気色悪くて気持ち悪い。
「五年……五年、かぁ……」
ユーインはそう呟き、隣で我関せずで澄まし顔をしているシェリーを見る。
そういえばシェリーの母であるエセルが事故によって他界し、そして立て続けに二代目のカルヴァドスが急逝したのも、五年前だ。
エセルの逝去という報せが与えた衝撃は凄まじく、一時的に商業ギルドでさえその機能が滞ったほどだ。
それほどエセルは優秀であり、将来的にシェリーが成人した後でギルドの幹部に招聘しようとする流れさえあった。そしてあわよくば、イヴォンと離縁させて優秀なギルド幹部とくっつけてしまおうと、本気で裏工作を始めようと過激派が暗躍していたそうな。
そのときの大混乱を乗り越えるだけの器はイヴォンには到底ないと誰もが思い、そして当時は企業としてあまりに巨大であったアップルジャック商会を守るために、商業ギルドは人材を出向させるように動いていた。
だがそうする前に、エセルとカルヴァドスの喪が明ける間もなく、イヴォンを押し退けて陣頭に立ったシェリーが、瞬く間にその混乱を鎮めてしまったのである。
――鷹が鳳凰を生んだ。
この事実を目の当たりにした商業ギルドや他の商会は、母と祖父を亡くしてなお挫けず輝きを放つ幼いシェリーを、そう評価したという。
――そんな回顧をしながらユーインは、同じ五年でもどうしてここまで違うのだろうかと、海の底より感慨深く思ってしまう。
「ふふん! 若くしてオスコション商会を継いで繫栄させているハロルド様を崇め奉るがいい!」
「商業ギルドをなんだと思っているんだこの勘違い豚。というかお前……幾つになるんだ?」
「豚だと!? 言うに事欠いてワシを豚と言うか! それにワシはまだ三一歳だ!」
「はあ!?」
子供の手抜き借用書や豚体系よりなにより、その年齢で衝撃を受ける一同。その驚きはきっと、かつて無いほどのものであろう。
「え? ウッソだろ? 水中でも5キロメートル先に落ちた針の音すら聞き分けられる、この海妖精の俺が聞き間違えた? おかしい……きっと今日は体調が悪いんだ……デリックさん、早退して良いっスか?」
「ユーイン君、その意見には全面的に賛成で認めてあげたいところなんだけど、残念ながら聞き間違いじゃないよ。10キロメートル先の狼の遠吠えすら聞き分けられるワタクシもそう聞こえたからね。というかね、なんでアップルジャック商会さんは落ち着いているんですか?」
混乱しているギルド職員二人に対して、シェリー達は一切動揺していなかった。そしてそればかりではなく、なぜ二人が混乱しているのか理解出来ないといった表情すらしている。
「え? なにを仰っているんですかデリックさん。貴方は路傍の石の年齢なんて気にします? 残念ながら我々はそのようなものには興味がないので一切気になりませんわ」
そう言いながら、口元を抑えて嫋やかにコトコト笑うシェリー。そして一切悪びれてなどいない。
「愛」の対義を知っているだろうか。
それは「嫌悪」でも「憎悪」でもなく「無関心」である。
「ワシを石といったかこの小娘ー! イヴォンの資産がワシのものになったらお前もワシのも――」
「そんなどうでも良いことよりも、ユーインさん!」
「え? あ、はい」
激昂するハロルドをその場にいないものとして扱い一切の視線も興味も向けず、隣のユーインを上目遣いで見上げながら注意する。
「ダメですよ、豚さんと脂肪ダルマを一緒にしちゃ! 豚さんは体脂肪率が――」
そして始まる豚さん講座。どうやらシェリーは豚さんがお好みのようだ。美味しいし捨てるところがないから。
「な!? こ、ここここここここのこここここここここむす――」
「豚さん否定されたら今度は鶏さんなのヤダー。どう見ても鶏には見えないじゃないコワーイ」
「お嬢、その辺にしてやって下さい。話が進まなくて面倒なんで」
「あーらごめんなさい。イヴォン名義の資産の話しよね。良いわよ、全てそちらにお渡しします」
興奮して真っ赤になりながら地団太を踏んで床を撓みさせているハロルドに、サラリと何事もなかったかのようにシェリーは言い、デリックとユーインの度肝を抜く。
だがその言葉が理解出来なかったのか、
「いいから! 黙って! 資産をワシに! よこすんだ!」
「〝二重詠唱〟展開。〝土壁〟ならびに〝氷水流〟」
ドッスンドッスンやっているハロルドに、さすがにイラっとしたシェリーが即座に〝二重詠唱〟の魔法式を展開し、次いでハロルドの周囲と床の接地面を土の壁で囲み、その頭上から水魔法で作った氷水を大量にぶっ掛ける。
「〝二重詠唱〟かよ凄ぇな。シェリーちゃんって確か例の騒動で忙しくて『齢の儀』を受けていないんだよな? なんで魔法使えるんだよヒュー」
「なんとなく使えるそうだよユーイン。それにしても、難解で使える者がほぼいないと言われている〝二重詠唱〟で、しかも属性違いの魔法をほぼ時間差なく展開出来るのか。素晴らしい! まさに俺が愛を捧げる相手に相応しい!」
「いや、信じられないだろうと思うが、お嬢はただいま属性別の〝六重詠唱〟を練習中だそうだ」
「はあ!? それマジなのか!? 俺でさえ〝四重詠唱〟しか出来ないぞ! しかもそこまで行くと同属性が精一杯なんだけど! というかそれでも俺って一応優秀な方なんだぞ!」
「お嬢が言うには、エセル様は〝十重詠唱〟が使えたらしい。しかも属性別で」
「いやそれバケモノだろう。俺の中ではそんなバケモノはヒューとか森妖精の王とかしかいないんだけど!」
「うむ! 愛するシェリーには俺の秘奥である〝十二重詠唱〟を伝授しても良い! そう、愛を込めて! 愛のために! そしてその愛によって道を踏み外しても良い! シェリーにはあんなコトやこんなコトをされても全然良い! むしろ望むところで是非して欲しい!」
シェリーの魔法の技量を目の当たりにして驚愕するユーイン。更に隠しているわけでもないため色々暴露するJJ、そして一人で恍惚としながら「愛を愛を愛を」と騒いでなにかがおかしい発言をしている変態紳士。こっちもこっちで混沌としている。
「ではそのように進めさせて頂きますが、本当にそれでよろしいですかシェリー様」
「ええ、私はそっちが良ければ全然問題ないわ」
氷水を浴びせられてやっと動きを止めて、だが今度は体が悴んで歯の根が合わないほど震えているハロルドに掛かっている魔法を破棄し、土の壁も氷水も一切合切消失させる。
実は魔法を発生させるのは、素養さえあればそれほど難解ではない。だがその魔法を破棄して消滅させるのが、意外と難しいのである。
魔法を使う者の腕前は、魔法を発生させる速度と強度で決まるわけではない。その魔法をどれだけ巧く破棄させられるかで、その技量が決まる。
それはともかく、滴らない程度に濡れさせるという地味な嫌がらせをしたシェリーは、用意していた資産譲渡の魔法契約書を取り出し、デリックへ差し出した。
それに細かく目を通し、デリックは僅かに首を傾げたのだが、次いで差し出された後見人証明書を見て納得した。
個人の資産には、実は成人前の被扶養家族を含める場合が多い。資産を譲渡することと破産は同義であり、よって家族を扶養出来なくなるということだから。
「ではイヴォン氏の総資産の詳細を提出して下さい」
デリックが促し、シェリーは頷いて淡々とその書類を提出していく。そしてそこまで来てやっと事態を理解したハロルドが、そのシェリーへと好色な視線を向けた。
「確認しました。ではハロルド、この資産証明書に目を通して、問題なければこの契約書へサインをしなさい」
そう言いながら、やたらと分厚い資産証明書と契約書をハロルドの方へ寄せる。それを一瞥し、後ろに控える愉快な仲間Aからやたらと派手派手しい万年筆を受け取ってサインをしようとする。資産証明書には目を通していない。
「おおお待ち下さいハロルド様」
ここにきてやっと、傍に控えているオスコション商会の担当国法士が口を挟む。書類を一切確認しないハロルドにそう言うのは、国法士として真っ当なことなのだが、
「なんだパーシー。ワシに口出しするばかりではなく指図するのか!」
不機嫌も露に舌打ちをされ、それに恐縮して身を縮めるパーシー。そのあまりに理不尽な扱いに、デリックは眉根を潜めた。
「パーシー氏は当り前のことを言っただけだ。それは口出しでも指図でもなく助言というものなのだぞ。その程度も判らないほどお前は蒙昧なのか?」
言葉が通じないハロルドに口を挟みたくはなかったが、あまりにパーシーの扱いが酷いため、つい正論が口を吐くユーイン。
だがそんなものが通じるハロルドではなく、
「なんだと貴様! この無能の肩を持つのか! さてはパーシー、貴様はギルドのスパイだな!」
更に逆上し、今度はあらぬ疑いを掛けるだけだった。
「そそんなわけはありません! 我ら国法士は常に公平であるのです! スパイなどする筈もありません! それにそんなことをしても何の利にもなりません!」
「ええい黙れ黙れ! ワシのやることにイチイチ口を挟みおって鬱陶しい! イヴォンが持つアップルジャックの資産が手に入るのだ! もう貴様は用済みだ! どこへなりとも行くがいい!」
そんなことを喚き、パーシーを突き飛ばす。それを素早く動いたトレヴァーが支え、デリックとユーイン、そしてヒューが視線を交錯させ頷き合った。
そして、碌に確認もせずにその資産譲渡の魔法契約書に汚い字でサインをするハロルド。理屈もなにもあったものではない。
そしてサインをした直後に魔法が発動し、アップルジャック商会が保有するイヴォン名義の総資産はハロルドへ譲渡された。
「ふはははは! これでシェリー、お前はワシの物だ! さあ、こっちへ来い!」
「はぁ? なにを寝ぼけたことを言っているのよ。なんで私がアンタの物にならなくちゃいけないわけ? 巫山戯るのは顔面と体脂肪率だけにしてくれない?」
「所有者に対してなんという口の利き方! まあいい! それを調教するのもまた楽しみ――」
「そもそも私、もうイヴォンの娘じゃないのよね。今はまだ未成年だから後見人が必要だけど、成人したらただの『シェリー・アップルジャック』になるのよ」
「ん? 後見人? そんな屁理屈を捏ねてないでないでこっちに来いと言っているのだ! これから親代わりになるワシの言うことが聞けんのか!」
「聞けるわけないじゃない、莫迦じゃないの? ああごめんなさい、莫迦だったわね。それに、私の扶養主はここにいるわよ」
そう言いながら、隣にいるJJの腕に抱き着いた。その仕草は、既に扶養主というより恋人に近い。というか、シェリーはそう錯覚させるように接している。ヒューのJJに対しての殺気と殺意が酷い。
そしてそうさせているJJはというと、黄金色の瞳を怪しく揺らし、輝かせながらハロルドを睨む。
「見ての通り、シェリーは自分の娘になった。よってお前の元に行く必要はない」
「何を訳の判らんことを喚いているのだ! 後見人だかなんだか知らないが、そんなものより資産譲渡でワシの物になったのだからワシの元に来い!」
「それは不可能だハロルド」
後見人の意味が判っていないハロルドが、特大のブーメランを投擲しつつ喚き散らすが、そこへ特級国法士であるヒューが冷たく言う。
「イヴォンが夜逃げをした時点で保護責任者遺棄と見做され、シェリーは法的に保護された。そしてもうすぐ成人であることを考慮され、そこまでの期間を扶養するために後見人を立てたのだよ。訳の判らないことでは一切無く、法的順序と手段を適正に取って認可された正式な処置だ。これを覆すことは出来ない。もしどうしても認めないと言うのなら、法廷で勝負するか? トレヴァーには悪いが、俺が直接相手をしよう。そろそろ仕事をしたくなってきたしな」
空色の瞳を蒼白にしたまま、口元を歪めて邪悪に嗤いながら、射抜くような視線を向けてヒューは一気にそう言った。
だが残念なことに、言われた半分も理解出来ないハロルドは、頭から湯気を出しそうなくらいに真っ赤になって歯噛みする。
あ、さきほどのシェリーの魔法でちょっと濡れていたから、本当に湯気が出ていた。
「おのれ三流国法士が偉そうに! 良いだろう勝負してやる! パーシー! 今すぐに訴える準備だ!」
挙句そんなことを言い始める始末。言われたパーシーは、さすがに絶句して言い返せない。というか言い返す気力すら湧かない。
「ハロルド、お前はたった今そのパーシーを担当から外したばかりだろう。それはこの商業ギルドのサブマスターであるデリック・オルコックと監査官ユーイン・アレンビー、二級国法士トレヴァー・グーチ、そしてグレンカダム唯一の特級国法士にして魔法契約官であるヒュー・グッドオールが確認して認可した。よって三級国法士パーシー・カーゾンは既にオスコション商会とはなんの関わりもない。
ああそれから、一方的な契約解除は違約金が発生するからな。後日商業ギルドと国法士協会の連名で、適正金額の支払いを命じる督促状が届くからそのつもりで」
完全に笑顔が消えたデリックが、机の上で手を組んでそう言う。まぁ半分も理解出来ないだろうとは思っているが。
「それから、一方的に後見人の破棄を迫る行為は脅迫罪にも該当するからな。だが今回はイヴォン名義の総資産を相続したから勘弁してやろう」
次いでユーインが、作業は終了とばかりに書類を整理しながらハロルドを見下しながら、口元に笑みを浮かべて言った。これの意味は、きっと理解出来ないだろう。
そしてシェリー達は、またしても地団駄を踏んで暴れるハロルドを放置して退室した。
「ところでシェリーちゃん、従業員の退職金に関しては商業ギルドが責任を持って支払わせれば良いんだよな?」
「そうですね、お願いします」
この日、創業百余年の老舗酒造商会が、その看板を下ろした。
「さあ! オスコションの莫迦どもがちょっかい出してくる前に店を畳むわよ!」
帰り道、とても良い笑顔を浮かべながらシェリーは晴々と宣言した。
「ハロルド、本気でこれが有効だとでも思っているのか? 借入明細もなくただ金額が雑に書かれただけの紙は借用書とは呼べないし、この程度の落書きは領収書にすら成り得ない。お前は商業を莫迦にしているのか?」
そして始まる、ユーインのマジ説教。だがその程度が理解出来るハロルドではなく、
「なんだと貴様! このオスコション商会の会長ハロルドをバカにするのか! ワシが先代から商会を継いで五年! ずっとこうやって来たのだ! 誰にも文句は言わせん!」
「……一度オスコション商会に査察に入る必要があるようだな。それはともかく、お前って商会を継いでまだ五年だったのか……」
頬杖を突いて再び溜息を吐き、イヴォンの総資産を詳細に纏めた書類をシェリーから渡され、それをデリックと、そしてとても嫌だがハロルドへも差し出した。まぁ差し出されたところでそれに目を通すわけでもなく、後ろに控える愉快な仲間Aと一緒に激昂している。
「ああ? もう五年も商会を回して繫栄させているのだ! そこの無能商会とは違ってな!」
そんなことを鬱陶しく口走りながらニチャリと笑う。その笑顔が、この上なく気色悪くて気持ち悪い。
「五年……五年、かぁ……」
ユーインはそう呟き、隣で我関せずで澄まし顔をしているシェリーを見る。
そういえばシェリーの母であるエセルが事故によって他界し、そして立て続けに二代目のカルヴァドスが急逝したのも、五年前だ。
エセルの逝去という報せが与えた衝撃は凄まじく、一時的に商業ギルドでさえその機能が滞ったほどだ。
それほどエセルは優秀であり、将来的にシェリーが成人した後でギルドの幹部に招聘しようとする流れさえあった。そしてあわよくば、イヴォンと離縁させて優秀なギルド幹部とくっつけてしまおうと、本気で裏工作を始めようと過激派が暗躍していたそうな。
そのときの大混乱を乗り越えるだけの器はイヴォンには到底ないと誰もが思い、そして当時は企業としてあまりに巨大であったアップルジャック商会を守るために、商業ギルドは人材を出向させるように動いていた。
だがそうする前に、エセルとカルヴァドスの喪が明ける間もなく、イヴォンを押し退けて陣頭に立ったシェリーが、瞬く間にその混乱を鎮めてしまったのである。
――鷹が鳳凰を生んだ。
この事実を目の当たりにした商業ギルドや他の商会は、母と祖父を亡くしてなお挫けず輝きを放つ幼いシェリーを、そう評価したという。
――そんな回顧をしながらユーインは、同じ五年でもどうしてここまで違うのだろうかと、海の底より感慨深く思ってしまう。
「ふふん! 若くしてオスコション商会を継いで繫栄させているハロルド様を崇め奉るがいい!」
「商業ギルドをなんだと思っているんだこの勘違い豚。というかお前……幾つになるんだ?」
「豚だと!? 言うに事欠いてワシを豚と言うか! それにワシはまだ三一歳だ!」
「はあ!?」
子供の手抜き借用書や豚体系よりなにより、その年齢で衝撃を受ける一同。その驚きはきっと、かつて無いほどのものであろう。
「え? ウッソだろ? 水中でも5キロメートル先に落ちた針の音すら聞き分けられる、この海妖精の俺が聞き間違えた? おかしい……きっと今日は体調が悪いんだ……デリックさん、早退して良いっスか?」
「ユーイン君、その意見には全面的に賛成で認めてあげたいところなんだけど、残念ながら聞き間違いじゃないよ。10キロメートル先の狼の遠吠えすら聞き分けられるワタクシもそう聞こえたからね。というかね、なんでアップルジャック商会さんは落ち着いているんですか?」
混乱しているギルド職員二人に対して、シェリー達は一切動揺していなかった。そしてそればかりではなく、なぜ二人が混乱しているのか理解出来ないといった表情すらしている。
「え? なにを仰っているんですかデリックさん。貴方は路傍の石の年齢なんて気にします? 残念ながら我々はそのようなものには興味がないので一切気になりませんわ」
そう言いながら、口元を抑えて嫋やかにコトコト笑うシェリー。そして一切悪びれてなどいない。
「愛」の対義を知っているだろうか。
それは「嫌悪」でも「憎悪」でもなく「無関心」である。
「ワシを石といったかこの小娘ー! イヴォンの資産がワシのものになったらお前もワシのも――」
「そんなどうでも良いことよりも、ユーインさん!」
「え? あ、はい」
激昂するハロルドをその場にいないものとして扱い一切の視線も興味も向けず、隣のユーインを上目遣いで見上げながら注意する。
「ダメですよ、豚さんと脂肪ダルマを一緒にしちゃ! 豚さんは体脂肪率が――」
そして始まる豚さん講座。どうやらシェリーは豚さんがお好みのようだ。美味しいし捨てるところがないから。
「な!? こ、ここここここここのこここここここここむす――」
「豚さん否定されたら今度は鶏さんなのヤダー。どう見ても鶏には見えないじゃないコワーイ」
「お嬢、その辺にしてやって下さい。話が進まなくて面倒なんで」
「あーらごめんなさい。イヴォン名義の資産の話しよね。良いわよ、全てそちらにお渡しします」
興奮して真っ赤になりながら地団太を踏んで床を撓みさせているハロルドに、サラリと何事もなかったかのようにシェリーは言い、デリックとユーインの度肝を抜く。
だがその言葉が理解出来なかったのか、
「いいから! 黙って! 資産をワシに! よこすんだ!」
「〝二重詠唱〟展開。〝土壁〟ならびに〝氷水流〟」
ドッスンドッスンやっているハロルドに、さすがにイラっとしたシェリーが即座に〝二重詠唱〟の魔法式を展開し、次いでハロルドの周囲と床の接地面を土の壁で囲み、その頭上から水魔法で作った氷水を大量にぶっ掛ける。
「〝二重詠唱〟かよ凄ぇな。シェリーちゃんって確か例の騒動で忙しくて『齢の儀』を受けていないんだよな? なんで魔法使えるんだよヒュー」
「なんとなく使えるそうだよユーイン。それにしても、難解で使える者がほぼいないと言われている〝二重詠唱〟で、しかも属性違いの魔法をほぼ時間差なく展開出来るのか。素晴らしい! まさに俺が愛を捧げる相手に相応しい!」
「いや、信じられないだろうと思うが、お嬢はただいま属性別の〝六重詠唱〟を練習中だそうだ」
「はあ!? それマジなのか!? 俺でさえ〝四重詠唱〟しか出来ないぞ! しかもそこまで行くと同属性が精一杯なんだけど! というかそれでも俺って一応優秀な方なんだぞ!」
「お嬢が言うには、エセル様は〝十重詠唱〟が使えたらしい。しかも属性別で」
「いやそれバケモノだろう。俺の中ではそんなバケモノはヒューとか森妖精の王とかしかいないんだけど!」
「うむ! 愛するシェリーには俺の秘奥である〝十二重詠唱〟を伝授しても良い! そう、愛を込めて! 愛のために! そしてその愛によって道を踏み外しても良い! シェリーにはあんなコトやこんなコトをされても全然良い! むしろ望むところで是非して欲しい!」
シェリーの魔法の技量を目の当たりにして驚愕するユーイン。更に隠しているわけでもないため色々暴露するJJ、そして一人で恍惚としながら「愛を愛を愛を」と騒いでなにかがおかしい発言をしている変態紳士。こっちもこっちで混沌としている。
「ではそのように進めさせて頂きますが、本当にそれでよろしいですかシェリー様」
「ええ、私はそっちが良ければ全然問題ないわ」
氷水を浴びせられてやっと動きを止めて、だが今度は体が悴んで歯の根が合わないほど震えているハロルドに掛かっている魔法を破棄し、土の壁も氷水も一切合切消失させる。
実は魔法を発生させるのは、素養さえあればそれほど難解ではない。だがその魔法を破棄して消滅させるのが、意外と難しいのである。
魔法を使う者の腕前は、魔法を発生させる速度と強度で決まるわけではない。その魔法をどれだけ巧く破棄させられるかで、その技量が決まる。
それはともかく、滴らない程度に濡れさせるという地味な嫌がらせをしたシェリーは、用意していた資産譲渡の魔法契約書を取り出し、デリックへ差し出した。
それに細かく目を通し、デリックは僅かに首を傾げたのだが、次いで差し出された後見人証明書を見て納得した。
個人の資産には、実は成人前の被扶養家族を含める場合が多い。資産を譲渡することと破産は同義であり、よって家族を扶養出来なくなるということだから。
「ではイヴォン氏の総資産の詳細を提出して下さい」
デリックが促し、シェリーは頷いて淡々とその書類を提出していく。そしてそこまで来てやっと事態を理解したハロルドが、そのシェリーへと好色な視線を向けた。
「確認しました。ではハロルド、この資産証明書に目を通して、問題なければこの契約書へサインをしなさい」
そう言いながら、やたらと分厚い資産証明書と契約書をハロルドの方へ寄せる。それを一瞥し、後ろに控える愉快な仲間Aからやたらと派手派手しい万年筆を受け取ってサインをしようとする。資産証明書には目を通していない。
「おおお待ち下さいハロルド様」
ここにきてやっと、傍に控えているオスコション商会の担当国法士が口を挟む。書類を一切確認しないハロルドにそう言うのは、国法士として真っ当なことなのだが、
「なんだパーシー。ワシに口出しするばかりではなく指図するのか!」
不機嫌も露に舌打ちをされ、それに恐縮して身を縮めるパーシー。そのあまりに理不尽な扱いに、デリックは眉根を潜めた。
「パーシー氏は当り前のことを言っただけだ。それは口出しでも指図でもなく助言というものなのだぞ。その程度も判らないほどお前は蒙昧なのか?」
言葉が通じないハロルドに口を挟みたくはなかったが、あまりにパーシーの扱いが酷いため、つい正論が口を吐くユーイン。
だがそんなものが通じるハロルドではなく、
「なんだと貴様! この無能の肩を持つのか! さてはパーシー、貴様はギルドのスパイだな!」
更に逆上し、今度はあらぬ疑いを掛けるだけだった。
「そそんなわけはありません! 我ら国法士は常に公平であるのです! スパイなどする筈もありません! それにそんなことをしても何の利にもなりません!」
「ええい黙れ黙れ! ワシのやることにイチイチ口を挟みおって鬱陶しい! イヴォンが持つアップルジャックの資産が手に入るのだ! もう貴様は用済みだ! どこへなりとも行くがいい!」
そんなことを喚き、パーシーを突き飛ばす。それを素早く動いたトレヴァーが支え、デリックとユーイン、そしてヒューが視線を交錯させ頷き合った。
そして、碌に確認もせずにその資産譲渡の魔法契約書に汚い字でサインをするハロルド。理屈もなにもあったものではない。
そしてサインをした直後に魔法が発動し、アップルジャック商会が保有するイヴォン名義の総資産はハロルドへ譲渡された。
「ふはははは! これでシェリー、お前はワシの物だ! さあ、こっちへ来い!」
「はぁ? なにを寝ぼけたことを言っているのよ。なんで私がアンタの物にならなくちゃいけないわけ? 巫山戯るのは顔面と体脂肪率だけにしてくれない?」
「所有者に対してなんという口の利き方! まあいい! それを調教するのもまた楽しみ――」
「そもそも私、もうイヴォンの娘じゃないのよね。今はまだ未成年だから後見人が必要だけど、成人したらただの『シェリー・アップルジャック』になるのよ」
「ん? 後見人? そんな屁理屈を捏ねてないでないでこっちに来いと言っているのだ! これから親代わりになるワシの言うことが聞けんのか!」
「聞けるわけないじゃない、莫迦じゃないの? ああごめんなさい、莫迦だったわね。それに、私の扶養主はここにいるわよ」
そう言いながら、隣にいるJJの腕に抱き着いた。その仕草は、既に扶養主というより恋人に近い。というか、シェリーはそう錯覚させるように接している。ヒューのJJに対しての殺気と殺意が酷い。
そしてそうさせているJJはというと、黄金色の瞳を怪しく揺らし、輝かせながらハロルドを睨む。
「見ての通り、シェリーは自分の娘になった。よってお前の元に行く必要はない」
「何を訳の判らんことを喚いているのだ! 後見人だかなんだか知らないが、そんなものより資産譲渡でワシの物になったのだからワシの元に来い!」
「それは不可能だハロルド」
後見人の意味が判っていないハロルドが、特大のブーメランを投擲しつつ喚き散らすが、そこへ特級国法士であるヒューが冷たく言う。
「イヴォンが夜逃げをした時点で保護責任者遺棄と見做され、シェリーは法的に保護された。そしてもうすぐ成人であることを考慮され、そこまでの期間を扶養するために後見人を立てたのだよ。訳の判らないことでは一切無く、法的順序と手段を適正に取って認可された正式な処置だ。これを覆すことは出来ない。もしどうしても認めないと言うのなら、法廷で勝負するか? トレヴァーには悪いが、俺が直接相手をしよう。そろそろ仕事をしたくなってきたしな」
空色の瞳を蒼白にしたまま、口元を歪めて邪悪に嗤いながら、射抜くような視線を向けてヒューは一気にそう言った。
だが残念なことに、言われた半分も理解出来ないハロルドは、頭から湯気を出しそうなくらいに真っ赤になって歯噛みする。
あ、さきほどのシェリーの魔法でちょっと濡れていたから、本当に湯気が出ていた。
「おのれ三流国法士が偉そうに! 良いだろう勝負してやる! パーシー! 今すぐに訴える準備だ!」
挙句そんなことを言い始める始末。言われたパーシーは、さすがに絶句して言い返せない。というか言い返す気力すら湧かない。
「ハロルド、お前はたった今そのパーシーを担当から外したばかりだろう。それはこの商業ギルドのサブマスターであるデリック・オルコックと監査官ユーイン・アレンビー、二級国法士トレヴァー・グーチ、そしてグレンカダム唯一の特級国法士にして魔法契約官であるヒュー・グッドオールが確認して認可した。よって三級国法士パーシー・カーゾンは既にオスコション商会とはなんの関わりもない。
ああそれから、一方的な契約解除は違約金が発生するからな。後日商業ギルドと国法士協会の連名で、適正金額の支払いを命じる督促状が届くからそのつもりで」
完全に笑顔が消えたデリックが、机の上で手を組んでそう言う。まぁ半分も理解出来ないだろうとは思っているが。
「それから、一方的に後見人の破棄を迫る行為は脅迫罪にも該当するからな。だが今回はイヴォン名義の総資産を相続したから勘弁してやろう」
次いでユーインが、作業は終了とばかりに書類を整理しながらハロルドを見下しながら、口元に笑みを浮かべて言った。これの意味は、きっと理解出来ないだろう。
そしてシェリー達は、またしても地団駄を踏んで暴れるハロルドを放置して退室した。
「ところでシェリーちゃん、従業員の退職金に関しては商業ギルドが責任を持って支払わせれば良いんだよな?」
「そうですね、お願いします」
この日、創業百余年の老舗酒造商会が、その看板を下ろした。
「さあ! オスコションの莫迦どもがちょっかい出してくる前に店を畳むわよ!」
帰り道、とても良い笑顔を浮かべながらシェリーは晴々と宣言した。