白金貨二枚――それは小さな商会であったなら、軽く十軒は成立する金額である。
そのとんでもない金額を目の当たりにし、一気に顔色が変わらないシェリー。それをどう思ったのか、きっとあまりの金額に呆然としているとでも思ったのだろう、ニチャニチャ笑いを更に気持ち悪くするハロルドだった。
「こっちはもう相当待っているんだよ! さあ! 耳を揃えて払って貰おうか!」
まるで用意してきたかのように、そんな啖呵を切るハロルド氏。声を張るたびにブルンブルン動く脂肪が相当鬱陶しい。
「宜しいかハロルド氏。総計以前に借金額に含まれている諸経費という謎の請求は何かな?」
まるで汚い物でも摘むようにして証文を見ているJJが、至極真っ当な疑問を口にする。
「ああ? 諸経費は諸経費だろうが! ド素人が口出ししてんじゃねぇ!」
「あ゛?」
まるで筋が通らない素人丸出しな理屈を捏ねるハロルドの色々愉快な仲間A。
それを聞いた瞬間、王定一級会計士――王国が定める正規の公認会計士――の資格持ちなJJの黄金の双眸が怪しい光を放つ。更にその吐息が異常な熱を帯び始めるのだが、
「JJ」
その背がシェリーに優しく叩かれ、一瞬で我に帰ると短く息を吐いて心を鎮める。
「んなくだらねぇこたぁどうでも良いんだよ! さっさと払って貰おうか! さもなくば、アップルジャック商会を抵当に入れるんだな!」
そんなJJの変化に一切気付かない、ハロルド氏と色々愉快な仲間達。命の危険に相当疎いようだ。
その証拠に、元凄腕冒険者であり現在も魔獣を素手で縊り殺せる店長と、いつの間にか復活していて糸のような細目を見開いている〝草原の災厄者〟 な副店長、同じく黄金の双眸から怪しい光を放ちつつ灼熱の吐息を漏らす会計監査、更に黄金の双眸を縦長に縮瞳させて両の指をゴキゴキ鳴らして今にも撲殺しそうな勢いの事務受付、そして色々謎な経歴持ちな従業員達も揃って酷い殺気を放っているのに、そんなの関係ねぇとばかりに一切なにも感じていないようである。
ある意味それは幸せなことなのだろうが、はっきり言ってしまえば野生として失格である。
ああ、コレは拙い。
皆の気持ちは痛いほど良く判る。
例え相手が莫迦丸出しな道理の通らない要求をしてきていても。
それが明らかに違うとすぐにバレるようなクソ下らない理屈を捏ねていようとも。
更にそれがまかり通ると信じて疑えないほどに蒙昧であったとしても。
まともにかどうかは知らないが、一応は税金を支払っている王国民なのだ。
非常に残念なことではあるけれど、王律で保護されている国民である以上は「プチっ」ってしちゃうわけにはいかないのである。
やりたいけど。
シェリーは短く嘆息し、とりあえず皆が暴走しないように肩越しに振り返り、視線で全員へ魔力を飛ばす。
それは全員の額へ見事に直撃し、龍人姉弟以外の全員が、どういうわけか蕩けるようなだらしない表情になったという。
特に副店長は、またしても引っ繰り返ってビクンビクンし始めてしまった。
今日の副店長は御褒美がいっぱいだ。彼は暫く色々捗ってしまい、安眠出来ないかも知れない。困った〝草原の災厄者〟である。
「ま、確かに借りたものは返さないといけないわよね」
酷いことになっている変態を視界に入れないように、更にハロルドの正面に立たないように移動するシェリー。
そんな行動を、金額に驚いて怯えているとハロルドは判断した。そしてその勝手な妄想で更に嗜虐心が擽られて興奮する。荒い鼻息がなにかの家畜のようだ。
そして堪え切れなかったのか、シェリーに近付き触れようとする。
当然そんなことを許すシェリーではない。近付くハロルドの側面に回り、一切焦ることなく余裕を持って華麗にヒラヒラとそれを躱す。
そんなことをされれば、必死に逃げていると思い込んで更に嗜虐心刺激されるハロルド氏。
ぶよんぶよんと脂肪を弾ませて、荒い鼻息を更に荒くして追い掛ける。
そしてその様を、やっぱり必死に逃げていると思い込んでいる色々愉快な仲間達が囃立て始めた。
だがその前に、深い青の鋭い瞳を更に鋭くした店長、アイザック・セデラーが立ち塞がる。
「なんだ! 下賤な使用人風情が邪魔をするな!」
ハロルドが高圧的にそう言う。だがその息は相当上がっており、控えめに見なくてもぶっ倒れる寸前にしか見えない。
「お嬢に触れるなこの豚が。屠殺されたいか」
静かに、だが明確な殺意を込めてアイザックが言う。こうなってやっと、ハロルドは彼の殺気に気付いた。
「ハロルドさんを豚だと!? そんなわけがあるか! ハロルドさんはぽっちゃり系なだけだ!」
「そうだ! 言うに事欠いて豚だと!? ふざけるんじゃねぇ!」
「ハロルド様が豚なわけがない! 豚がこんなに速く動けるわけはないだろうが!」
口々に文句を言い始める色々愉快な仲間達。だがそれをまともに聞くアイザックではない。
肩を回してゴリゴリ解し、その頭を鷲掴みにしてしまおうと動き出す直前、
「ザック、止めなさい」
シェリーがそれを静止した。そうしなければきっと、今頃ハロルドはアイザックに頭を握り潰されていたに違いない。
そしてその後は、犯罪奴隷に堕ちて生涯強制労働者として日の目を見ることなく朽ちて行くこととなるだろう。
だがそれでも構わないと、このときアイザックは真剣に思っていた。敬愛するエセルの忘れ形見を守れるのだ、何を迷う必要がある。
しかし、その考えを読み取ったのか、シェリーはそれを即座に止めた。
こうなった以上、アイザックの思考が読み取れた以上、それを続けさせることは出来ない。
かくして、何事もなかったように下がるアイザックを、冷や汗を垂らして表情を強張らせたハロルドが、これみよがしにせせら笑う。
「この使用人風情が! 誰に向かってなにをし――」
「ザック、ダメでしょう豚さんと一緒にしちゃあ」
だがそれをガン無視して、アイザックを指差し唇を尖らせて注意し始めるシェリー。
その仕草に、ちょっとどころか相当キュンキュンしちゃうアイザック。
ありがとうございます最高の御褒美です!
もうハロルド氏のことは、ぶっちゃけどうでも良くなった。
「ふ、ふはは! 飼い主に叱られるとは、とんだ駄犬だ――」
「豚さんは体脂肪率が15%なんだから、明らかに40%と倍以上な脂肪ダルマと一緒にしたら流石に豚に悪いでしょ! あと豚さんって結構素早いし、それの起源の猪は5メートルの距離を認識外の速度で詰め寄ることも出来るし急停止だって出来るのよ! 猪突猛進なんてウソなんだから! あの見るからに鈍そうで肉食獣ですら胸焼け起こしそうで要らないって言われそうな脂肪ダルマなんか目じゃないんだからね! 失礼だから豚さんに謝りなさい!」
「あ、はい。豚さん、済みませんでした?」
「宜しい」
ニカっと最高の笑顔を見せるシェリー。そして言っていることは相当酷い。
そしてそれとは対照的に、暗にどころか明確に豚以下と言われたハロルド氏は、屈辱に震えていた。
「許さんぞ小娘ー! 借金の額を倍にしてやるー!」
鼻息も荒くそんな無茶苦茶なことを言い出し始めるハロルド氏。そんなことが出来るわけでもまかり通るわけもないのに。
そもそも借金の金利は王律で決まっているため、無茶な金利を掛けても全却下され、結局借金自体がなくなる仕組みとなっている。
因みにこのことも、案外知られていなかった。
「あーもー煩いわね。じゃあこのあと一四時から商業ギルドで借金の精算をしてあげるわよ。本っ当邪魔な脂肪一塊よね!」
シェリーがそう言うと、またしてもなにかギャーギャー言ったような気がしたが、それらを全て無視する。
だがいつまでも出て行こうとしないハロルド氏と愉快な仲間達へ、意図を理解した従業員が出入口を開け放ったのを見計らい、
「〝暴風〟!」
局所的に発生させた風の塊を叩き付け、全員外へと放り出した。その技量に、思わず感嘆の拍手をするヒュー。見事な魔法コントロールである。
その後一息ついたシェリーへ、アイザックが傍に来て深々と首を垂れる。
まぁシェリーとしては当たり前のことをしただけだし、それほど気にすることもないと言い、それはそれで良いじゃないかとアイザックの肩を叩く。
そしてそのアイザックは、たったそれだけなのに感動し、
「ありがとうございますお嬢」
再び深々と頭を下げた。
ところで、後見人関連で無茶なことをしたヒューは、お礼もなにもないのに肩を落としていた。
いい加減面倒になっていたシェリーは、なにか適当なお礼の品でも見繕おうと思案する。だがコレといって思い浮かばなかったため、本人へ直接訊いた。
なにか欲しいものはないか――と。
するとヒューは真剣に思案し始め、そしてなにかに思い当たったらしく、手をポンと打ち鳴らしてから、
「では嬢ちゃんのパンツをくれないか?」
とんでもないことを真顔で言い出した。
途端に先程放ったものの倍以上な本気の殺気と本気の殺意が従業員達から噴き出すが、その程度など微風程度にしか感じないヒュー。年齢数百歳な森妖精の実力は侮れない。
「え、そんなので良いの? じゃあちょっと待ってて」
『お嬢!?』
サラッとヒューの要求に応じるシェリーちゃん。こっちもこっちで相当とんでもない。
そして奥に引っ込んで待つこと暫し、アップルジャック商会の商標――リンゴに口付ける森妖精が描かれた紙袋を持参したシェリーは、僅かに頬を染めてそれをヒューに手渡した。
「さすがに恥ずかしいから、帰ってから開けてね」
上目遣いでそんなことを言う。たったそれだけで、ヒューの心は全焼し、謎の言葉を発しながら風を纏って外へと飛び出して行った。
その日のグレンカダムは、局所的に季節外れな暴風に見舞われたという。どうでも良い話だが。
「お嬢! なんて羨まけしからんことをするのですか!?」
「そうです! お嬢のパンツなんて希少で貴重なものを手放すなんて!」
「お嬢のパンツに比べたら、借金なんかどうでも良いです!」
「可能なら私だって欲しいのに! 女の子が易々とそんな男にパンツを渡しちゃいけません! 私に下さい!」
そしてヒューが去った後で、シェリーは一様に血涙を流す勢いな従業員達(男女問わず)に詰め寄られ、若干どころか相当引いた。
「え? まぁ、良いじゃない。所詮パンツだし」
『良くない!』
その物凄い食い付きに、思わず数歩下がるシェリー。たかがパンツ如きでどうしてそこまで必死になるのだろう。理解不能だった。
それに――
「別に良いでしょ、お母さんのパンツなんてもう誰も履かないし需要ないわよ」
サラリとそんなことを言い、全ての従業員をフリーズさせる。
「でもまさかお母さんがスケスケレースのTバックなパンツ持ってたなんて、私もビックリだよ。一体誰を誘惑しようとしたんだろうね? それともあんなのでも旦那だからって、夫婦仲を良くしようと努力したのかな?」
カラカラ笑いながら、故人の曝露話しを始めちゃうシェリーだった。
そしてそんなことを聞かされる従業員達は、なんとも言えない微妙な表情になっていたが。
「お嬢」
そんな中、エイリーンが効果線付きの瞳のない目で「シェリー、恐ろしい子!」とお約束のように言っているのをよそに、何故か鼻血をだくだく流しているアイザックが、真剣な表情でシェリーの前に跪いた。
今度は何事かと思い僅かに身構えるのだが――
「エセル様のパンツを俺にも下さい!」
その瞬間、その場にいる全ての者の時間が、感覚的に停止した。
「………………ザック?」
そして暫くの後、再起動を果たしたシェリーが、本気の憂慮をアイザックへ向ける。一体なにが、彼れをそこまで追い込んだのだろうか。
戸惑いながら、だがあることに気付いてエイリーンを見る。彼女は「シェリー、恐ろ(略)」状態から脱しており、そしてそんな行動に出ているアイザックを一瞥して「やれやれ」とでも言い出しそうな表情で頭を振っていた。
アイザックは、本人の自覚がなかっただけで、実はシェリーの母親であるエセルを誰よりも愛していた。彼女が急逝したときは、何故自分がその場にいなかったのかと自らを責め、見ていられないくらい激しく落ち込んでいたのである。
まぁ、だからといってアクセサリーとか写絵や写真といった遺品ではなくパンツが欲しいというのも、些かどころか相当問題があるが。
「あー、うん、そっかぁ、ザックって、まだお母さんのこと好きなんだ……。じゃあ、ちょっと待っててね」
言い残し、再び奥に引っ込むシェリー。
そして暫くののち、30センチ四方の桐の箱を持って来てアイザックに渡した。
「はい、これザックにあげる。私が五歳のときに撮った写真もあるから、大切に使ってね。因みにネガは怒ったお母さんに燃やされちゃったから、それしか残ってないよ」
シェリーは五歳の誕生日にエセルから、当時としては高級品であるカラーの写真機を買って貰ってその辺を撮り捲っていた。然も結構腕が良かったし、現像までシェリー自身が熟していたりする。
現在もそれは手元にあって使えるのだが、忙しくてそれどころでがないのが現状だ。
それにしても、怒った?
そんな疑問を持ちつつそれを受け取ったアイザックは、感動に咽び泣いた。
――*――*――*――*――*――*――
全く関係ない後日談。
シェリーから紙袋を受け取ったヒューは、後生大事にそれを抱えて文字通り風のように自宅へ戻り、早速植物魔法で祭壇を作ってパンツを御神体として祀ったという。
そしてアイザックは、桐の箱に入っている、飛び切りの笑顔を浮かべているエセルの写真を見付けて号泣した。
だがその下に入っている白と水色のストライプ柄のビキニを見付けて仰天し、更に普段遣いのブラとパンツの下着一式、何処で使うのか、または何処で使ったのか、明らかに勝負のための色々透けてる下着一式とガーターベルトにストッキングを見付けて何かが大変なことになったという。
しかし、問題はそれではなかった。
箱の一番底から出てきたのは、水着に着替え途中で色々見えちゃいけないところが下から見上げることで見えちゃっている写真とか、着替え途中で前屈みになっているのを後ろから撮った写真とか、きっと撮っているシェリーを怒っているのであろう表情のトップレス写真とか、暑かったのかピンクのスケスケネグリジュのみを着て掛け物なしで寝ている、やっぱり色々見えちゃいけないところが見えちゃっている写真とかがザクザク出て来たのである。
然も一切ピンボケしていない、それでいてやたらと鮮明でクォリティが高水準な写真が大量に。
――その日を境に、暫くアイザックは自宅に籠もって殆ど出掛けなくなったという――
「ねぇシェリー、ザックになに渡したの? 最近あたしが絞る前にもう枯れてるんだけど」
「え? えーと、ザックの希望通りの品と……お母さんの写真、かな?」
「なんで疑問符なの? もう……暫くザックが相手してくれないからあたし大変なんだけど」
「えーと、私そういう経験ないから、ちょーっと判らないかなぁ……」
心当たりがありまくるシェリーは、極力知らん顔を貫いたという。
そのとんでもない金額を目の当たりにし、一気に顔色が変わらないシェリー。それをどう思ったのか、きっとあまりの金額に呆然としているとでも思ったのだろう、ニチャニチャ笑いを更に気持ち悪くするハロルドだった。
「こっちはもう相当待っているんだよ! さあ! 耳を揃えて払って貰おうか!」
まるで用意してきたかのように、そんな啖呵を切るハロルド氏。声を張るたびにブルンブルン動く脂肪が相当鬱陶しい。
「宜しいかハロルド氏。総計以前に借金額に含まれている諸経費という謎の請求は何かな?」
まるで汚い物でも摘むようにして証文を見ているJJが、至極真っ当な疑問を口にする。
「ああ? 諸経費は諸経費だろうが! ド素人が口出ししてんじゃねぇ!」
「あ゛?」
まるで筋が通らない素人丸出しな理屈を捏ねるハロルドの色々愉快な仲間A。
それを聞いた瞬間、王定一級会計士――王国が定める正規の公認会計士――の資格持ちなJJの黄金の双眸が怪しい光を放つ。更にその吐息が異常な熱を帯び始めるのだが、
「JJ」
その背がシェリーに優しく叩かれ、一瞬で我に帰ると短く息を吐いて心を鎮める。
「んなくだらねぇこたぁどうでも良いんだよ! さっさと払って貰おうか! さもなくば、アップルジャック商会を抵当に入れるんだな!」
そんなJJの変化に一切気付かない、ハロルド氏と色々愉快な仲間達。命の危険に相当疎いようだ。
その証拠に、元凄腕冒険者であり現在も魔獣を素手で縊り殺せる店長と、いつの間にか復活していて糸のような細目を見開いている〝草原の災厄者〟 な副店長、同じく黄金の双眸から怪しい光を放ちつつ灼熱の吐息を漏らす会計監査、更に黄金の双眸を縦長に縮瞳させて両の指をゴキゴキ鳴らして今にも撲殺しそうな勢いの事務受付、そして色々謎な経歴持ちな従業員達も揃って酷い殺気を放っているのに、そんなの関係ねぇとばかりに一切なにも感じていないようである。
ある意味それは幸せなことなのだろうが、はっきり言ってしまえば野生として失格である。
ああ、コレは拙い。
皆の気持ちは痛いほど良く判る。
例え相手が莫迦丸出しな道理の通らない要求をしてきていても。
それが明らかに違うとすぐにバレるようなクソ下らない理屈を捏ねていようとも。
更にそれがまかり通ると信じて疑えないほどに蒙昧であったとしても。
まともにかどうかは知らないが、一応は税金を支払っている王国民なのだ。
非常に残念なことではあるけれど、王律で保護されている国民である以上は「プチっ」ってしちゃうわけにはいかないのである。
やりたいけど。
シェリーは短く嘆息し、とりあえず皆が暴走しないように肩越しに振り返り、視線で全員へ魔力を飛ばす。
それは全員の額へ見事に直撃し、龍人姉弟以外の全員が、どういうわけか蕩けるようなだらしない表情になったという。
特に副店長は、またしても引っ繰り返ってビクンビクンし始めてしまった。
今日の副店長は御褒美がいっぱいだ。彼は暫く色々捗ってしまい、安眠出来ないかも知れない。困った〝草原の災厄者〟である。
「ま、確かに借りたものは返さないといけないわよね」
酷いことになっている変態を視界に入れないように、更にハロルドの正面に立たないように移動するシェリー。
そんな行動を、金額に驚いて怯えているとハロルドは判断した。そしてその勝手な妄想で更に嗜虐心が擽られて興奮する。荒い鼻息がなにかの家畜のようだ。
そして堪え切れなかったのか、シェリーに近付き触れようとする。
当然そんなことを許すシェリーではない。近付くハロルドの側面に回り、一切焦ることなく余裕を持って華麗にヒラヒラとそれを躱す。
そんなことをされれば、必死に逃げていると思い込んで更に嗜虐心刺激されるハロルド氏。
ぶよんぶよんと脂肪を弾ませて、荒い鼻息を更に荒くして追い掛ける。
そしてその様を、やっぱり必死に逃げていると思い込んでいる色々愉快な仲間達が囃立て始めた。
だがその前に、深い青の鋭い瞳を更に鋭くした店長、アイザック・セデラーが立ち塞がる。
「なんだ! 下賤な使用人風情が邪魔をするな!」
ハロルドが高圧的にそう言う。だがその息は相当上がっており、控えめに見なくてもぶっ倒れる寸前にしか見えない。
「お嬢に触れるなこの豚が。屠殺されたいか」
静かに、だが明確な殺意を込めてアイザックが言う。こうなってやっと、ハロルドは彼の殺気に気付いた。
「ハロルドさんを豚だと!? そんなわけがあるか! ハロルドさんはぽっちゃり系なだけだ!」
「そうだ! 言うに事欠いて豚だと!? ふざけるんじゃねぇ!」
「ハロルド様が豚なわけがない! 豚がこんなに速く動けるわけはないだろうが!」
口々に文句を言い始める色々愉快な仲間達。だがそれをまともに聞くアイザックではない。
肩を回してゴリゴリ解し、その頭を鷲掴みにしてしまおうと動き出す直前、
「ザック、止めなさい」
シェリーがそれを静止した。そうしなければきっと、今頃ハロルドはアイザックに頭を握り潰されていたに違いない。
そしてその後は、犯罪奴隷に堕ちて生涯強制労働者として日の目を見ることなく朽ちて行くこととなるだろう。
だがそれでも構わないと、このときアイザックは真剣に思っていた。敬愛するエセルの忘れ形見を守れるのだ、何を迷う必要がある。
しかし、その考えを読み取ったのか、シェリーはそれを即座に止めた。
こうなった以上、アイザックの思考が読み取れた以上、それを続けさせることは出来ない。
かくして、何事もなかったように下がるアイザックを、冷や汗を垂らして表情を強張らせたハロルドが、これみよがしにせせら笑う。
「この使用人風情が! 誰に向かってなにをし――」
「ザック、ダメでしょう豚さんと一緒にしちゃあ」
だがそれをガン無視して、アイザックを指差し唇を尖らせて注意し始めるシェリー。
その仕草に、ちょっとどころか相当キュンキュンしちゃうアイザック。
ありがとうございます最高の御褒美です!
もうハロルド氏のことは、ぶっちゃけどうでも良くなった。
「ふ、ふはは! 飼い主に叱られるとは、とんだ駄犬だ――」
「豚さんは体脂肪率が15%なんだから、明らかに40%と倍以上な脂肪ダルマと一緒にしたら流石に豚に悪いでしょ! あと豚さんって結構素早いし、それの起源の猪は5メートルの距離を認識外の速度で詰め寄ることも出来るし急停止だって出来るのよ! 猪突猛進なんてウソなんだから! あの見るからに鈍そうで肉食獣ですら胸焼け起こしそうで要らないって言われそうな脂肪ダルマなんか目じゃないんだからね! 失礼だから豚さんに謝りなさい!」
「あ、はい。豚さん、済みませんでした?」
「宜しい」
ニカっと最高の笑顔を見せるシェリー。そして言っていることは相当酷い。
そしてそれとは対照的に、暗にどころか明確に豚以下と言われたハロルド氏は、屈辱に震えていた。
「許さんぞ小娘ー! 借金の額を倍にしてやるー!」
鼻息も荒くそんな無茶苦茶なことを言い出し始めるハロルド氏。そんなことが出来るわけでもまかり通るわけもないのに。
そもそも借金の金利は王律で決まっているため、無茶な金利を掛けても全却下され、結局借金自体がなくなる仕組みとなっている。
因みにこのことも、案外知られていなかった。
「あーもー煩いわね。じゃあこのあと一四時から商業ギルドで借金の精算をしてあげるわよ。本っ当邪魔な脂肪一塊よね!」
シェリーがそう言うと、またしてもなにかギャーギャー言ったような気がしたが、それらを全て無視する。
だがいつまでも出て行こうとしないハロルド氏と愉快な仲間達へ、意図を理解した従業員が出入口を開け放ったのを見計らい、
「〝暴風〟!」
局所的に発生させた風の塊を叩き付け、全員外へと放り出した。その技量に、思わず感嘆の拍手をするヒュー。見事な魔法コントロールである。
その後一息ついたシェリーへ、アイザックが傍に来て深々と首を垂れる。
まぁシェリーとしては当たり前のことをしただけだし、それほど気にすることもないと言い、それはそれで良いじゃないかとアイザックの肩を叩く。
そしてそのアイザックは、たったそれだけなのに感動し、
「ありがとうございますお嬢」
再び深々と頭を下げた。
ところで、後見人関連で無茶なことをしたヒューは、お礼もなにもないのに肩を落としていた。
いい加減面倒になっていたシェリーは、なにか適当なお礼の品でも見繕おうと思案する。だがコレといって思い浮かばなかったため、本人へ直接訊いた。
なにか欲しいものはないか――と。
するとヒューは真剣に思案し始め、そしてなにかに思い当たったらしく、手をポンと打ち鳴らしてから、
「では嬢ちゃんのパンツをくれないか?」
とんでもないことを真顔で言い出した。
途端に先程放ったものの倍以上な本気の殺気と本気の殺意が従業員達から噴き出すが、その程度など微風程度にしか感じないヒュー。年齢数百歳な森妖精の実力は侮れない。
「え、そんなので良いの? じゃあちょっと待ってて」
『お嬢!?』
サラッとヒューの要求に応じるシェリーちゃん。こっちもこっちで相当とんでもない。
そして奥に引っ込んで待つこと暫し、アップルジャック商会の商標――リンゴに口付ける森妖精が描かれた紙袋を持参したシェリーは、僅かに頬を染めてそれをヒューに手渡した。
「さすがに恥ずかしいから、帰ってから開けてね」
上目遣いでそんなことを言う。たったそれだけで、ヒューの心は全焼し、謎の言葉を発しながら風を纏って外へと飛び出して行った。
その日のグレンカダムは、局所的に季節外れな暴風に見舞われたという。どうでも良い話だが。
「お嬢! なんて羨まけしからんことをするのですか!?」
「そうです! お嬢のパンツなんて希少で貴重なものを手放すなんて!」
「お嬢のパンツに比べたら、借金なんかどうでも良いです!」
「可能なら私だって欲しいのに! 女の子が易々とそんな男にパンツを渡しちゃいけません! 私に下さい!」
そしてヒューが去った後で、シェリーは一様に血涙を流す勢いな従業員達(男女問わず)に詰め寄られ、若干どころか相当引いた。
「え? まぁ、良いじゃない。所詮パンツだし」
『良くない!』
その物凄い食い付きに、思わず数歩下がるシェリー。たかがパンツ如きでどうしてそこまで必死になるのだろう。理解不能だった。
それに――
「別に良いでしょ、お母さんのパンツなんてもう誰も履かないし需要ないわよ」
サラリとそんなことを言い、全ての従業員をフリーズさせる。
「でもまさかお母さんがスケスケレースのTバックなパンツ持ってたなんて、私もビックリだよ。一体誰を誘惑しようとしたんだろうね? それともあんなのでも旦那だからって、夫婦仲を良くしようと努力したのかな?」
カラカラ笑いながら、故人の曝露話しを始めちゃうシェリーだった。
そしてそんなことを聞かされる従業員達は、なんとも言えない微妙な表情になっていたが。
「お嬢」
そんな中、エイリーンが効果線付きの瞳のない目で「シェリー、恐ろしい子!」とお約束のように言っているのをよそに、何故か鼻血をだくだく流しているアイザックが、真剣な表情でシェリーの前に跪いた。
今度は何事かと思い僅かに身構えるのだが――
「エセル様のパンツを俺にも下さい!」
その瞬間、その場にいる全ての者の時間が、感覚的に停止した。
「………………ザック?」
そして暫くの後、再起動を果たしたシェリーが、本気の憂慮をアイザックへ向ける。一体なにが、彼れをそこまで追い込んだのだろうか。
戸惑いながら、だがあることに気付いてエイリーンを見る。彼女は「シェリー、恐ろ(略)」状態から脱しており、そしてそんな行動に出ているアイザックを一瞥して「やれやれ」とでも言い出しそうな表情で頭を振っていた。
アイザックは、本人の自覚がなかっただけで、実はシェリーの母親であるエセルを誰よりも愛していた。彼女が急逝したときは、何故自分がその場にいなかったのかと自らを責め、見ていられないくらい激しく落ち込んでいたのである。
まぁ、だからといってアクセサリーとか写絵や写真といった遺品ではなくパンツが欲しいというのも、些かどころか相当問題があるが。
「あー、うん、そっかぁ、ザックって、まだお母さんのこと好きなんだ……。じゃあ、ちょっと待っててね」
言い残し、再び奥に引っ込むシェリー。
そして暫くののち、30センチ四方の桐の箱を持って来てアイザックに渡した。
「はい、これザックにあげる。私が五歳のときに撮った写真もあるから、大切に使ってね。因みにネガは怒ったお母さんに燃やされちゃったから、それしか残ってないよ」
シェリーは五歳の誕生日にエセルから、当時としては高級品であるカラーの写真機を買って貰ってその辺を撮り捲っていた。然も結構腕が良かったし、現像までシェリー自身が熟していたりする。
現在もそれは手元にあって使えるのだが、忙しくてそれどころでがないのが現状だ。
それにしても、怒った?
そんな疑問を持ちつつそれを受け取ったアイザックは、感動に咽び泣いた。
――*――*――*――*――*――*――
全く関係ない後日談。
シェリーから紙袋を受け取ったヒューは、後生大事にそれを抱えて文字通り風のように自宅へ戻り、早速植物魔法で祭壇を作ってパンツを御神体として祀ったという。
そしてアイザックは、桐の箱に入っている、飛び切りの笑顔を浮かべているエセルの写真を見付けて号泣した。
だがその下に入っている白と水色のストライプ柄のビキニを見付けて仰天し、更に普段遣いのブラとパンツの下着一式、何処で使うのか、または何処で使ったのか、明らかに勝負のための色々透けてる下着一式とガーターベルトにストッキングを見付けて何かが大変なことになったという。
しかし、問題はそれではなかった。
箱の一番底から出てきたのは、水着に着替え途中で色々見えちゃいけないところが下から見上げることで見えちゃっている写真とか、着替え途中で前屈みになっているのを後ろから撮った写真とか、きっと撮っているシェリーを怒っているのであろう表情のトップレス写真とか、暑かったのかピンクのスケスケネグリジュのみを着て掛け物なしで寝ている、やっぱり色々見えちゃいけないところが見えちゃっている写真とかがザクザク出て来たのである。
然も一切ピンボケしていない、それでいてやたらと鮮明でクォリティが高水準な写真が大量に。
――その日を境に、暫くアイザックは自宅に籠もって殆ど出掛けなくなったという――
「ねぇシェリー、ザックになに渡したの? 最近あたしが絞る前にもう枯れてるんだけど」
「え? えーと、ザックの希望通りの品と……お母さんの写真、かな?」
「なんで疑問符なの? もう……暫くザックが相手してくれないからあたし大変なんだけど」
「えーと、私そういう経験ないから、ちょーっと判らないかなぁ……」
心当たりがありまくるシェリーは、極力知らん顔を貫いたという。