「今日先輩が連れてきてくれたのは遠い世界なんかじゃない。ずっと憧れていた舞踏会なんです。だから私をシンデレラにしてください」

「礼……」

「私がモデルだから、いつもと代わり映えしないかもしれないけど」

冗談めかしてそう言うと、先輩はハッと目を見張ってから、「ばかだな」と言って笑った。

「俺に任せろ。どこの誰にも負けない、とびきり美しいシンデレラにしてみせる」

「はい、先輩。私に魔法をかけて」

今はまだ何も持たない私に、勇気と自信をください。

「始めるぞ」

先輩の力強い声に頷き、ドレッサーの前に座る。
サポート役がいなくなったため、私は自分でスキンケアを行い、そのあいだに先輩がヘアセットをすることになった。
スキンケアはその後のメイクの出来を左右する大事な工程だ。
先輩の足を引っ張らないよう、鏡に向かいながら、いつも以上に丁寧に肌を潤していく。

「そ、そういえば私、動画は撮ってもらったことがないんですよね」

顔にスチームを当てつつマッサージをしながら、私は今さらになって不安を口にしていた。
よく考えてみれば、今回の私の役目はモデルというよりも女優のお仕事なのだ。
それなのに、今まで静止画しか撮ったことがない私に務まるものなのだろうか。

「別にセリフがあるわけじゃないだろ。それならいつもみたいに、カメラの前で役になりきればいい」

私の髪をコテで巻きながら、先輩はなんてことないようにそう言った。
前にカーミラになりきって撮影をしたことがあるけれど、あの要領でやればできるかもしれない。

「いいか、舞台は仮面舞踏会。礼は心優しい庭師見習いに恋をする伯爵令嬢なんだ」

「はい」

「仮面を被り、身分を隠して舞踏会に潜り込んだ相手に気づき、大階段を駆け下りる。それだけだ」

先輩の声を聞きながら、目を閉じて想像してみる。
貴族のお嬢様なんて、普段の自分とは正反対な人物像だ。
けれどそれは私にとって、むしろ演じやすい役所なのかもしれないと思った。
つまりは仕草や表情は上品にしたりと、すべてをいつもとは真逆に振る舞ってみればいいのだ。
そうすれば、下手に演技プランを考えるよりもずっとやりやすい。

うん、そうだ、きっといける。
……あれ、でも待って。
そういえば私はまだ、恋なんてしたことがない。

「ヘアセットはこれで終わり。メイクに移るぞ」

そう言って、先輩が私の頬に触れる。
その指先のあたたかさを感じるとき、いつも少しだけ緊張するのだけれど、今の私にはそんなことを考えている余裕すらなかった。

――礼は心優しい庭師見習いに恋をする伯爵令嬢なんだ。

先輩の言葉が脳裏で反響する。
たとえ見た目だけ伯爵令嬢に化けることができたとしても、恋する女の子の心はどう表現すればいいのだろう。
恋って、恋ってなんだ?

「よし、できた。目を開けていいぞ」

役作りに苦戦する私に対し、先輩はこんな状況でも冷静さを欠かず、いつもの手際のよさを持ってヘアメイクを完成させた。
期待を込めながら、ゆっくりとまぶたを開く。
すると鏡の中には、“いつもと同じようにいつもと違う私”がいた。