(12)
烏丸の手のひらが、暁の濡れた髪をそっと撫でる。
「昔から俺の周りは、面倒な人間ばかりだ」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その口角には至極穏やかな微笑みが浮かんでいる。
こんな表情、初めて見た。
瞳を瞬かせる暁に気づかないまま烏丸は双眼を閉ざし、両手を胸の前に合わせる。
いくつかの指を立て、囁くような小声で言葉を結んでいた。
「烏丸?」
「──水の理よ」
今、須く、我の望みを聞け──。
まるで二重にも三重にもなるような、鼓膜の奥まで震わせる声。
その声が届くと、辺りの川の流れる音が大きく変容した。
地響きのような、大きな力が湧きあがる音。
何だ。一体何が起こる?
次の瞬間、真っ白な光に突然包み込まれる。
反射的に瞑った目を再び開くと、広がる光景に大きく息をのんだ。
「か、川の水が……っ」
「こうすりゃ、川の底も探しやすいだろ」
「っ、烏丸……!」
川の中流から流れてきた水が、重力に反して大きな山を越えるように河面を浮いていた。
暁たちが佇む一帯の水は、凄まじい流水音を立てながら頭上をアーチ状に越えていく。
こんなこともできるなんて、並大抵のことじゃない。
烏丸の力とは、一体どんなものなのだろう。
「呆けてねえでさっさと探せ。長いこともたねえぞ」
「……はい!」
考えるのはあとだ。今はただ、ペンダントを探すだけだ。
全身濡れそぼった状態のまま、暁は河底に手をつく。
何か物陰はないか、慎重に見極めながら移動していくが、なかなか求めているものにはたどり着けなかった。
ペンダントがここに流れ着いているというのは、あくまで可能性の話だ。
そもそも、ここにたどり着いていない可能性だってある。今のこの捜索は、果たして意味があるのだろか──。
「……うるさいな」
弱気な自分の囁きを一蹴する。
この稼業を営むようになってから、こんな葛藤は数え切れないほど経験してきた。重すぎる責任感と期待の狭間に押しつぶされそうになることも。
そんな中でも、最後は自分の信念を信じてやってきたのだ。
今さらこの姿勢は曲げられない。例え、周りから見てどんなに不格好で醜くても。
「アキちゃん!!」
その時、流水音に包まれたはずの空間で、確かに覚えのある声がした。
「……千、晶?」
「アキちゃんから見て左側の! 少し大きめの二つの石! そこの間を見て!!」
川べりに生い茂る草原の向こうから、千晶が腹の底から声を飛ばしているのが見えた。
千晶まで、どうしてこんなところに。
そんな疑問を投げかける間もなく、四つん這いの状態で告げられた場所へと移動する。
少し大きめの二つの石、その間。
「あった……!」
楕円形の木がモチーフの、可愛らしいペンダント。
全然地味じゃないじゃないか。
「暁、退け! もう保たねえ!」
「なら、烏丸も」
「アキちゃん、早くこっちに……!」
三人三様の声を飲み込むように、河原一帯に巨大な水飛沫が上がった。
ここはね、私の大好きな場所なの。
初めて訪れた小さな建物を見つめながら、保江はそう言った。
実家の裏手に広がる緑生い茂る山。その細道を進んだ先に、人目から逃れるようにひっそりと佇む御社だった。
血の繋がらない姉の保江は、穏やかで芯が強く、そして優しい。
そんないつもの姉とはどこか違う、感情が素直ににじみ出るような横顔に、暁は思わずみとれた。
この御社が保江にとって特別だということは、当時まだ十二歳の暁にも容易に理解できた。
その腕に抱かれた生まれたばかりの甥に、そっと目をやる。
穏やかで愛らしいその寝顔は、まるで日だまりに優しく撫でられているようだった。
その御社を初めて一人で訪れたのは、それから四年後。滝に打たれてるみたいな大雨の夜だ。
雨ガッパのフードをきつく締めて、暁は裏山道を走っていく。
御社の横には、履いてきた長靴が雨風に晒されていた。
夕刻、幼い千晶が高熱を出した。
この村に大きな病院はなく、救急車を待たずに家の車で隣町の病院へ向かうことになった。
千晶はまだ二歳だ。当然母の保江が付き添っていく。
夜の山なんて入るもんじゃない、と暁は常々思っている。
暗いし不気味だし、加えて今は大嵐だ。
辺りの木々は鞭のように大きくしなり、枝葉がぶつかりあっては大きな音を響かせる。息をするのも苦しいくらい、細いあぜ道を雨風が吹き付けていた。
暁は幾度となく風上から顔を背け、大きく噎せ込む。
それでも保江がいない以上、御社まで駆けつけられるのは暁しかいないのだ。
「っ……これで、百……」
御社の階段に、最後の小石をそっと積み上げる。
乱れた息をなんとか整え、暁は両手を合わせた。
「御社さま、御社さま」
どうかちーちゃんの熱が、早く治りますように──。
「……、……え」
まぶたを開けると、見慣れた天井が広がっていた。
視線だけをゆっくり左に動かすと、窓にかかったカーテンから眩しい日差しが漏れている。
見覚えのある無地のカーテン。自宅のベッドだ。
じわじわと記憶が蘇ってきたあと、暁は慌てて上体を起こす。
すると服の裾が、誰かに掴まれていることに気づいた。
「……千晶?」
烏丸の手のひらが、暁の濡れた髪をそっと撫でる。
「昔から俺の周りは、面倒な人間ばかりだ」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その口角には至極穏やかな微笑みが浮かんでいる。
こんな表情、初めて見た。
瞳を瞬かせる暁に気づかないまま烏丸は双眼を閉ざし、両手を胸の前に合わせる。
いくつかの指を立て、囁くような小声で言葉を結んでいた。
「烏丸?」
「──水の理よ」
今、須く、我の望みを聞け──。
まるで二重にも三重にもなるような、鼓膜の奥まで震わせる声。
その声が届くと、辺りの川の流れる音が大きく変容した。
地響きのような、大きな力が湧きあがる音。
何だ。一体何が起こる?
次の瞬間、真っ白な光に突然包み込まれる。
反射的に瞑った目を再び開くと、広がる光景に大きく息をのんだ。
「か、川の水が……っ」
「こうすりゃ、川の底も探しやすいだろ」
「っ、烏丸……!」
川の中流から流れてきた水が、重力に反して大きな山を越えるように河面を浮いていた。
暁たちが佇む一帯の水は、凄まじい流水音を立てながら頭上をアーチ状に越えていく。
こんなこともできるなんて、並大抵のことじゃない。
烏丸の力とは、一体どんなものなのだろう。
「呆けてねえでさっさと探せ。長いこともたねえぞ」
「……はい!」
考えるのはあとだ。今はただ、ペンダントを探すだけだ。
全身濡れそぼった状態のまま、暁は河底に手をつく。
何か物陰はないか、慎重に見極めながら移動していくが、なかなか求めているものにはたどり着けなかった。
ペンダントがここに流れ着いているというのは、あくまで可能性の話だ。
そもそも、ここにたどり着いていない可能性だってある。今のこの捜索は、果たして意味があるのだろか──。
「……うるさいな」
弱気な自分の囁きを一蹴する。
この稼業を営むようになってから、こんな葛藤は数え切れないほど経験してきた。重すぎる責任感と期待の狭間に押しつぶされそうになることも。
そんな中でも、最後は自分の信念を信じてやってきたのだ。
今さらこの姿勢は曲げられない。例え、周りから見てどんなに不格好で醜くても。
「アキちゃん!!」
その時、流水音に包まれたはずの空間で、確かに覚えのある声がした。
「……千、晶?」
「アキちゃんから見て左側の! 少し大きめの二つの石! そこの間を見て!!」
川べりに生い茂る草原の向こうから、千晶が腹の底から声を飛ばしているのが見えた。
千晶まで、どうしてこんなところに。
そんな疑問を投げかける間もなく、四つん這いの状態で告げられた場所へと移動する。
少し大きめの二つの石、その間。
「あった……!」
楕円形の木がモチーフの、可愛らしいペンダント。
全然地味じゃないじゃないか。
「暁、退け! もう保たねえ!」
「なら、烏丸も」
「アキちゃん、早くこっちに……!」
三人三様の声を飲み込むように、河原一帯に巨大な水飛沫が上がった。
ここはね、私の大好きな場所なの。
初めて訪れた小さな建物を見つめながら、保江はそう言った。
実家の裏手に広がる緑生い茂る山。その細道を進んだ先に、人目から逃れるようにひっそりと佇む御社だった。
血の繋がらない姉の保江は、穏やかで芯が強く、そして優しい。
そんないつもの姉とはどこか違う、感情が素直ににじみ出るような横顔に、暁は思わずみとれた。
この御社が保江にとって特別だということは、当時まだ十二歳の暁にも容易に理解できた。
その腕に抱かれた生まれたばかりの甥に、そっと目をやる。
穏やかで愛らしいその寝顔は、まるで日だまりに優しく撫でられているようだった。
その御社を初めて一人で訪れたのは、それから四年後。滝に打たれてるみたいな大雨の夜だ。
雨ガッパのフードをきつく締めて、暁は裏山道を走っていく。
御社の横には、履いてきた長靴が雨風に晒されていた。
夕刻、幼い千晶が高熱を出した。
この村に大きな病院はなく、救急車を待たずに家の車で隣町の病院へ向かうことになった。
千晶はまだ二歳だ。当然母の保江が付き添っていく。
夜の山なんて入るもんじゃない、と暁は常々思っている。
暗いし不気味だし、加えて今は大嵐だ。
辺りの木々は鞭のように大きくしなり、枝葉がぶつかりあっては大きな音を響かせる。息をするのも苦しいくらい、細いあぜ道を雨風が吹き付けていた。
暁は幾度となく風上から顔を背け、大きく噎せ込む。
それでも保江がいない以上、御社まで駆けつけられるのは暁しかいないのだ。
「っ……これで、百……」
御社の階段に、最後の小石をそっと積み上げる。
乱れた息をなんとか整え、暁は両手を合わせた。
「御社さま、御社さま」
どうかちーちゃんの熱が、早く治りますように──。
「……、……え」
まぶたを開けると、見慣れた天井が広がっていた。
視線だけをゆっくり左に動かすと、窓にかかったカーテンから眩しい日差しが漏れている。
見覚えのある無地のカーテン。自宅のベッドだ。
じわじわと記憶が蘇ってきたあと、暁は慌てて上体を起こす。
すると服の裾が、誰かに掴まれていることに気づいた。
「……千晶?」