あやかし憑き男子高生の身元引受人になりました

(9)

「え」
「疲れてル」「元気なイ?」

 知り合って間もない小鬼たちに指摘を受け、思わず苦笑する。
 自分はこんなにわかりやすい人間だったのか。

「ありがと。大丈夫だよ」

 気づけばデスクワークに数時間費やしていたらしい。
 久しぶりに無人になった事務所では、作業に没頭する暁を諫める声も、ご飯をねだる声も聞こえてこなかった。

 千晶がこの家を出て、丸二日が経った。
 甥に憑いてきた烏丸も当然のように姿を消している。

 つい数ヶ月前まではこれが普通だったはずなのに。

「赤い河童のこト。アキラ調べてル」「ル!」「ル!」
「赤い河童って、琉々くんのこと?」

 問うと、一様にうんうんと頷き返された。

「前に、車に乗ってっタ」「アキラ、女の子、気になってタ」「だから、お手伝イ!」
「ええっと……?」

 つまり、小鬼たちも三日前の車に秘かに乗り込んでいて、琉々の元いた川やそこで話した少女とのやりとりを見ていた、ということだろうか。
 まったく気づいていなかった。千晶や烏丸は、この小さな同乗者たちに気づいていたのだろうか。

「女の子の名前、サチ。家族、母一人、父いなイ」
「え?」
「家には、いなイ。母が電話で、喧嘩してタ」「してタ。母、怒ってたタ」「父に、すっごく、怒ってタ!」

 家鳴たちが我先にと報告してくるのは、どうやら先日に言葉を交わした少女──サチの家庭事情だった。

 正直プライバシー的に問題がある気がしないでもないが、サチと琉々の繋がりが見つけられるのであれば、正直とても助かる。
 恐らく軒下で観察してきたのだろう彼らからの報告に、今は有り難く耳を傾けることにした。

「ええっと。サチちゃんの家に、若い男の人はいなかった?」
「若い男、いなイ」「女の人だケ」「父は、若作りしてル、母に言われてタ!」

 なるほど。若いお父さんか。
 もしかすると、琉々の記憶にある少女と若い男はサチとその父親かもしれない。

「ね。ペンダントについては、何かお話してなかった?」
「ペンダント、地味」「茶色で、モクメ、地味」「父の、手作リ!」
「木目、手作り……それじゃあやっぱり」

 ペンダントは、父からサチへのプレゼントか。暁が一人呟くと同時に、小鬼の一人が「あ!」と嬉しそうに声を上げた。

「あと、もうひとツ! 父、テング!」
「……へ? 天狗?」

 呆気に取られた暁に、残りの二人が「違ウ」「違ウ!」と揃って首を横に振った。

「テング、違ウ?」「違ウ」「違ウ」
「じゃあ、父、何だっタ?」「……テーグ?」「……テンゲ?」

 どうやら、父に関する情報が錯綜してるらしい。
 円陣を組んで悩ましげにあぐらを掻いた小鬼たちに、暁は労いのクッキーを渡した。

「十分だよ。本当にありがとうね、家鳴くんたち」

 この事務所兼自宅には、もうあやかしをひきつける要素は何処にもない。
 きっとこの子たちも、数日以内には新たなねぐらへ移っていってしまうだろう。

 そんな、まるで子どもが拗ねたような呟きが胸にこぼれ、暁は秘かに自分を嫌悪した。



 一度引き受けた依頼は、完遂まで見届ける。
 それが七々扇よろず屋本舗の基本理念だ。

 日が傾き辺りがオレンジ色に染まっている。
 姿を見せてもらえるだろうか。一抹の不安を忍ばせながら、暁は間黒川でも人目の少ない緑生い茂る箇所まで足を運んだ。
 最近の琉々の潜伏地だ。

「……なな、おう……さま?」
「え……、琉々っ?」

 か細い声が自分を呼ぶことに気づき、急いで川沿いへ駆けていく。

 抱き上げた琉々の体はとても熱い。
 相当に衰弱していることが一目でわかった。



「われわれあやかしにとって、住み処の存在は非常に大切なものなのです……」

 慌てて自宅に連れ帰った琉々が、困ったように笑う。

「わたくしも、まさかここまで影響を受けるとは……元来暑さには強いはずなのですが、やはり少しずつ、体の不調の頻度が増して……おりまして……」
「わかった。今は無理しないで。とにかく休んで」

 本来赤茶色の肌のはずの琉々が、今は熱のせいか随分と赤い。
 ひとまず応急処置の濡れタオルを額と脇の下に設置して、ベッドに横たえた。

 三日前の遠出ではわからなかったが、あの長距離移動もかなりの負担だったのかもしれない。
 河童の好物とされるキュウリを浅漬けにして出してみたが、食欲はあまり戻らなかった。

 そして何より、この街から千晶がいなくなったことも影響しているのではないだろうか。

 存在だけであやかしに不思議な力を与える、無邪気な笑顔。
 自分を呼ぶ甥の声を聞きたくなり、素早くかぶりを振る。

 甘えるな。もうあの子はいないのだ。
 どうしよう。私は、どうしたらいい?

「……家鳴くんたち、いる?」
「いル」「いル!」「どうしタ? 河童、きタ?」
「ごめんなさい。少しの間、この子の面倒をお願いしたいの。できるかな?」

 念のため、通信連絡用のワイヤレスイヤホンを起動させたまま、テーブルの上に置いておく。
 軒下からわらわらと姿を見せた家鳴たちにあとを頼むと、暁は車のキーを乱暴に掴み取った。
 今はとにかく自分に出来ることをしよう。

 今すぐに住み処を見つけなければ──琉々の命が危ない。


(10)

 ここ数日かけて調べ上げたのは、三日前に訪れた川の流れと下流域の堆積岩の分布図だった。

 琉々の元いた住み処にあの少女、サチが関わっているのは間違いない。
 父親も同様とすれば、二人をつなげる鍵はやはりペンダントではないか。
 ペンダントと住み処がどう繋がるのかはまだわからないが、今はこの推測に賭けてみるしかなかった。 

「永居川下流域……ここだ」

 サチのペンダントの情報は、茶色のペンダント。
 木目、という言葉から察するに木製。つまり、流水に浮かびやすく金属製のものより流される距離も長い。

 通常上流から流された石は、流れの中で徐々に形が削られ、小さく丸くなりながら河底に堆積していく。
 あらゆる情報を踏まえた結果、ペンダントが順調に流されてきたとすると、到達ポイントはこの辺りだ。
 もちろん上流のどこかで引っかかったり、何者かに拾われなければ、という条件付きだが。

「よし。探すか」

 自分に活を入れると、暁はゆっくりと川の中へ入っていく。

 あらかじめ用意していた長靴とゴム製のズボン。
 なかなか動きがとりにくいが、すでに何度か使用経験のある暁にはすぐに慣れた。
 すっかり日が落ちた川の下流は橋も民家もなく、いよいよ人目がない。見つからずに作業できるのはいいことだが、その分辺りの明かりも殆どなかった。

 額に取り付けたヘッドライトのスイッチを入れる。
 家鳴三兄弟を見つけたときと同様、照り具合は上々だ。
 今夜はこの光がなければ手も足も出ない。頼むよ、相棒。

『これ、話せるカ?』『アキラ?』『アキラ!』
「家鳴くんたち?」

 イヤホン越しに賑やかな声が耳に届いた。
 孤独な作業中にこの無邪気な声は、非常に活力が沸いてくる。家にイヤホンを残してきてよかった。

『俺たち、一生懸命、思い返しタ!』『それで、やっと、思いだしタ!』『父、テング、違っタ!』
「お、おお」

 サチの父はテング。
 三兄弟は、まだその討論をしていたらしい。

『父、テングじゃなイ。テーゲー!』
「テーゲー……?」

 聞き慣れない言葉にしばらく眉をひそめた暁だったが、はっと大きく息をのんだ。

 赤茶色の肌の河童。暑さに強い体質。お礼の品の魚。
 そして、木製のペンダント──。

『あ、起きタ』『起きタ』『赤い河童、起きタ!』
『な、七々扇さまで、ございますか?』
「琉々くん! ごめんね留守にして。体調はどう?」
『流水音……まさか、この時間に川に入っておられるのですか……っ?』
「大丈夫だよ。もう当たりはついてるから。探しものが見つかったら、私もすぐに戻るね」

 それは半分嘘だった。
 琉々の住み処の正体は掴めたが、結局それをこの広い下流域から見つけ出さなければならない。

 月明かりとヘッドライトしか頼れないこの場所で、人手は暁一人。
 一晩かけたとしても、見つかる確率は相当に低いだろう。

『……っ、あなたという御方は』
「え? ……わ、あ」

 その時だった。
 闇夜に黒く沈んでいた河面に、突如としてオレンジ色の明かりが浮かぶ。

 ぽこ、ぽこと次々浮かぶそれは手のひらほどの大きさの炎で、水面に浮かぶのに何故か消えることはなかった。
 湖に集って浮かぶ蓮の花のように、目を見張るほど美しい。

「これは……火? でも、一体どこから」
『人様の前で使ったのは、初めてにございます』

 イヤホンから聞こえてきた琉々の声は、先ほどに比べやや息苦しそうだ。

『なにせ周りの河童たちにはできない、異種の術であったので。排他されるのを恐れ、今まで人前で使用したことがなかったのです』
「もしもし琉々くん? まさかこの明かりを届けるために、また体力を削ってしまったんじゃ……!」
『この問題はもとよりわたくし自身のもの。七々扇さまにばかり負担をかけていては、せっかく見つけた住み処も、情けないわたくしを拒絶しましょう』
「琉々くん……」
『どうか無理はなさらずに、宜しくお願いいたします。……暁さま』


(11)

「うん。任せて!」

 通話が途切れ、暁は再び目の前に広がる河面を見つめる。

 琉々が灯しだしてくれた、水の上に浮かぶオレンジの炎。
 それのお陰でこの川の水がとても澄んで綺麗なことがわかった。

 これならまだ、どうにかなる。どうにかしなくては。

 水深が浅くて助かった。ゆっくり慎重に歩みを進め、視線は常に河底を見据える。
 求めるのはもちろん、ペンダントの姿だ。

 サチの父が母から投げかけられていたらしい、「テーゲー」という言葉。
 それは確か、沖縄の方言だ。

 以前親交があった沖縄出身の依頼主曰く、「絶望的なまでのいい加減さ」という意味らしい。
 サチが川に放ってしまったという、父から贈られたプレゼント。
 それは恐らく、ガジュマルの木で出来ている。

 ガジュマルの木は熱帯から亜熱帯の地域に分布する木で、日当たりのいい温かな場所を好む。
 日本では鹿児島県及び沖縄県での生息が見られ、沖縄では特に、とある「あやかし」と関連付けて知られることが多い──と。

「……はは。こんなあやかし関連の知識も、あの二人が来るまでは見向きもしなかったんだけどな」

 ぽつりとこぼした独り言が、河原にやけに寂しく響く。

 今は仕事中だ。今すべきことだけを考えろ。
 言い聞かせながらも、もう一人の自分の声が嫌でも浮かんできた。

 昨日の夜ご飯を食べないままだったな。
 ちゃんと何か食べているだろうか。
 熱帯夜ではあるけれど、風邪は引いてないだろうか。
 悪い大人やあやかしに、どこかへ連れ込まれてはいないか──。

「……大丈夫」

 大丈夫。
 だってあの子は一人じゃない。漆黒に包まれたもう一人の姿が頭を過る。

 暁よりもずっと長い付き合いの連れ添いがそばにいる。それこそ、暁が村を去ってからもずっと。
 それだけで、強い安堵の気持ちが胸を包み込む。

 自分も目の前の仕事に戻らなければ。

「っ、きゃ!?」

 まずい。
 そう思った瞬間には、体が不自然に傾いていた。

 見落としていた河底の段差に足をとられ、慌ててもう片足をつける。しかしそれも、さして機能できないまま──。

「なに、してやがんだ!」

 夜の静けさが落ちるこの河原に、轟くような怒声が飛んだ。

 襲いかかるはずだった飛沫の冷たさは訪れず、固く閉ざされていた暁のまぶたがそっと開かれる。
 藍色に染まった夜空をなかで、その人物は吸い込まれるような黒だった。

「こんな人目のねえ場所で! 無茶にも限度ってもんがあんだろが!」

 叱咤する男に繋がれた手が、酷く熱い。

 水面から離れた両足が、小さく空を切る。
 闇夜に吊し上げられた手の先には、いつになく余裕のない表情の男がいた。

 夜空に広がった黒い翼が、月光に照らされ不思議な混色を浮かべている。

「おい、聞いてんのか!?」
「……烏丸」

 ぽつりとその名を呼んだ瞬間、暁は咄嗟に繋がれていない他方の手を無理やり男に伸ばした。
 何とか届いた胸ぐらにぐっと力をこめ、烏丸の体を無理やり引き寄せる。

「ってめ、何を」
「ど、してっ、あんたがここにいるの!」
「……暁?」
「どうして! あんたが側にいるって信じてたから、私はっ!」
「おいっ。いいから、ひとまず落ち着け……、あ」
「え」

 ぐらりと体勢が崩れる。
 気づけば妙な浮遊感が体中を突き抜け、今度こそ、辺り一帯に大きな水音と飛沫が飛んだ。

 どうやら、絶妙なバランスを持って暁を河面から引き上げていたらしい。
 大人二人が落水した衝撃音は意外と大きく、しばらく辺りに薄くこだましていた。
 被った水量はゴム製のズボンでは到底遮れず、上の服までぐっしょり濡れている。

「……、冷た……」
「誰のせいだ、おい」
「……だ、だって」

 巻き込まれ入水を果たした烏丸の、眉間に怒りを溜めた表情。
 その表情に安心と不安の両方を抱くのは、おかしいことだろうか。

 相反する感情が胸でせめぎ合い、目の奥がつんと痺れる。

「千晶には、あの子には、烏丸がいてくれると思ってたから。だから、私がいなくてもきっと安心だって、そう思ってたから……」
「……」
「千晶を、一人にしないでよ」

 ぼろ、と大粒の涙がこぼれる。

 川の水がしたたる状況でもそれは明らかで、暁自身隠す余裕もなかった。
 同様に髪まで川の水で濡れそぼった烏丸が、長く細い息を吐く。

「『千晶を一人にしないで』か。『私を一人にしないで』って、聞こえるな」


(12)

 烏丸の手のひらが、暁の濡れた髪をそっと撫でる。

「昔から俺の周りは、面倒な人間ばかりだ」

 ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その口角には至極穏やかな微笑みが浮かんでいる。
 こんな表情、初めて見た。

 瞳を瞬かせる暁に気づかないまま烏丸は双眼を閉ざし、両手を胸の前に合わせる。
 いくつかの指を立て、囁くような小声で言葉を結んでいた。

「烏丸?」
「──水の(ことわり)よ」

 今、(すべから)く、我の望みを聞け──。

 まるで二重にも三重にもなるような、鼓膜の奥まで震わせる声。
 その声が届くと、辺りの川の流れる音が大きく変容した。
 地響きのような、大きな力が湧きあがる音。
 何だ。一体何が起こる?

 次の瞬間、真っ白な光に突然包み込まれる。
 反射的に瞑った目を再び開くと、広がる光景に大きく息をのんだ。

「か、川の水が……っ」
「こうすりゃ、川の底も探しやすいだろ」 
「っ、烏丸……!」

 川の中流から流れてきた水が、重力に反して大きな山を越えるように河面を浮いていた。
 暁たちが佇む一帯の水は、凄まじい流水音を立てながら頭上をアーチ状に越えていく。

 こんなこともできるなんて、並大抵のことじゃない。
 烏丸の力とは、一体どんなものなのだろう。

「呆けてねえでさっさと探せ。長いこともたねえぞ」
「……はい!」

 考えるのはあとだ。今はただ、ペンダントを探すだけだ。

 全身濡れそぼった状態のまま、暁は河底に手をつく。
 何か物陰はないか、慎重に見極めながら移動していくが、なかなか求めているものにはたどり着けなかった。

 ペンダントがここに流れ着いているというのは、あくまで可能性の話だ。
 そもそも、ここにたどり着いていない可能性だってある。今のこの捜索は、果たして意味があるのだろか──。

「……うるさいな」

 弱気な自分の囁きを一蹴する。
 この稼業を営むようになってから、こんな葛藤は数え切れないほど経験してきた。重すぎる責任感と期待の狭間に押しつぶされそうになることも。

 そんな中でも、最後は自分の信念を信じてやってきたのだ。
 今さらこの姿勢は曲げられない。例え、周りから見てどんなに不格好で醜くても。

「アキちゃん!!」

 その時、流水音に包まれたはずの空間で、確かに覚えのある声がした。

「……千、晶?」
「アキちゃんから見て左側の! 少し大きめの二つの石! そこの間を見て!!」

 川べりに生い茂る草原の向こうから、千晶が腹の底から声を飛ばしているのが見えた。

 千晶まで、どうしてこんなところに。
 そんな疑問を投げかける間もなく、四つん這いの状態で告げられた場所へと移動する。
 少し大きめの二つの石、その間。

「あった……!」

 楕円形の木がモチーフの、可愛らしいペンダント。
 全然地味じゃないじゃないか。

「暁、退け! もう保たねえ!」
「なら、烏丸も」
「アキちゃん、早くこっちに……!」

 三人三様の声を飲み込むように、河原一帯に巨大な水飛沫が上がった。



 ここはね、私の大好きな場所なの。

 初めて訪れた小さな建物を見つめながら、保江はそう言った。
 実家の裏手に広がる緑生い茂る山。その細道を進んだ先に、人目から逃れるようにひっそりと佇む御社だった。

 血の繋がらない姉の保江は、穏やかで芯が強く、そして優しい。

 そんないつもの姉とはどこか違う、感情が素直ににじみ出るような横顔に、暁は思わずみとれた。
 この御社が保江にとって特別だということは、当時まだ十二歳の暁にも容易に理解できた。

 その腕に抱かれた生まれたばかりの甥に、そっと目をやる。
 穏やかで愛らしいその寝顔は、まるで日だまりに優しく撫でられているようだった。

 その御社を初めて一人で訪れたのは、それから四年後。滝に打たれてるみたいな大雨の夜だ。
 雨ガッパのフードをきつく締めて、暁は裏山道を走っていく。
 御社の横には、履いてきた長靴が雨風に晒されていた。

 夕刻、幼い千晶が高熱を出した。

 この村に大きな病院はなく、救急車を待たずに家の車で隣町の病院へ向かうことになった。
 千晶はまだ二歳だ。当然母の保江が付き添っていく。

 夜の山なんて入るもんじゃない、と暁は常々思っている。
 暗いし不気味だし、加えて今は大嵐だ。
 辺りの木々は鞭のように大きくしなり、枝葉がぶつかりあっては大きな音を響かせる。息をするのも苦しいくらい、細いあぜ道を雨風が吹き付けていた。
 暁は幾度となく風上から顔を背け、大きく噎せ込む。

 それでも保江がいない以上、御社まで駆けつけられるのは暁しかいないのだ。

「っ……これで、百……」

 御社の階段に、最後の小石をそっと積み上げる。
 乱れた息をなんとか整え、暁は両手を合わせた。

「御社さま、御社さま」

 どうかちーちゃんの熱が、早く治りますように──。



「……、……え」

 まぶたを開けると、見慣れた天井が広がっていた。

 視線だけをゆっくり左に動かすと、窓にかかったカーテンから眩しい日差しが漏れている。
 見覚えのある無地のカーテン。自宅のベッドだ。
 じわじわと記憶が蘇ってきたあと、暁は慌てて上体を起こす。

 すると服の裾が、誰かに掴まれていることに気づいた。

「……千晶?」


(13)

 眠っているらしい。
 長い睫が揃ったまぶたを静かに下ろし、規則的な寝息がかすかに耳に届く。
 ベッド脇の床に座り込んだ状態で、千晶の手は暁の裾を握ったままになっていた。

「綺麗な寝顔しちゃって……」

 苦笑しつつ手から裾をそっと引き抜くと、布団を肩からかけてやる。
 夏とはいえ、体を冷やして風邪をひいてはまずいだろう。どうせ眠るなら、ベッドに入ればいいのに。

「起きたか」
「烏丸」

 千晶を起こさないようにベッドから降り立つと、リビングのソファーからむくりと上体を起こした烏丸が見えた。
 いつもは嫌みなほど艶めいた黒髪が、今は無造作に乱れている。まるで寝起きのそれみたいだ──って。

「あれ。もしかして烏丸も眠ってた? この家の中で?」
「昨夜は誰かがぷっつり意識を飛ばしやがったからな。後処理で余分な体力を使いすぎた」
「う。ごめん」
「謝るくらいなら、ちったあ反省しろ。経営者だろが」

 ぴしゃりと正論を告げられ、二の次もない。

 そのあと続いた烏丸の説明によれば、川の水をもろに浴びた暁はそのまま気を失ってしまったのだという。
 千晶と烏丸で自宅に運び入れ、このベッドに運んだのだと。

「ちなみに、ベッドの占領していた赤河童は事務所のソファーに移したぞ。念のため小鬼の三匹もついている。お前の様子を見て、酷く動揺していた」
「はは……。結局、琉々くんには心配をかけちゃったね」
「琉々だけじゃねえだろ。他の全員にもだ」
「……」

 それはつまり、烏丸も、ということでいいのだろうか。
 聞いてみたい気もしたが、怒らせるような気もしたのでひとまず黙っておいた。

「さっき眠ってたときにね、夢を見たの。十年以上昔の、嵐の日の夢」

 ふと口についてしまった言葉に、烏丸の金目が小さく見開かれた。

「私が十四歳くらいのときだったかな。千晶が高熱を出したことがあってね。近くの山の御社に、お百度参りに行ったんだ」
「……」
「保江姉さん、あの御社のことをとても大切にしてた……」

 その後のことは、あまり覚えていない。

 気づけば暁は、今のように自宅の布団で横たわっていた。
 大嵐の夜に抜け出していた問題児の暁に家の者は気にかける様子すらなかったが、保江だけは泣きそうな顔をして微笑んだ。

 あの御社に願いを届けてくれたんだね。ありがとう、暁──。

「保江には、あやかしと打ち解ける力があった」

 ソファーの背もたれに背を預けたまま、烏丸が口を開く。

「暇を見つけては山に通い、社を気にかけ、集うあやかしと語らっていた。……生前の俺の父上とも、何故か交流が深かった」
「保江姉さんが、烏丸のお父さんと?」

 初耳だった。

 確かに保江は実家の土地開発事業の方針を巡っては常に自然保護の姿勢を崩さなかった。
 古株の連中には反対派も勿論いたが、決して敵と思わせない人となりと巧みな交渉術でいつの間にか周囲を懐柔していた。

 幼い暁は、保江は単純に自然破壊を防ごうとしているのだと思っていた。
 しかし、あれももしかしたら、あやかしの住み処を守るためだったのかもしれない。

「それがいつからか、保江に連れられてお前も姿を見せるようになった。保江の見よう見まねで、お前はただ手を合わせるだけだったがな」

 滔々と語られる過去の日の自分に、暁は気づかざるを得なかった。

「私のこと、知ってたの? 子どもの頃から?」
「手前の父親の墓を定期的に訪れてる奴のことだ。嫌でも記憶に残る」

 拙く淡い昔の記憶の破片が、星座を象るようにはっきりと浮かび上がってくる。

 確かにあの御社に行くときは、毎回保江が準備した花を供えていた。
 そして時折こちらを監視するように止まり木に佇む──黒い鳥の姿も。

 あの御社には、烏丸の父親が眠っていたのだ。

「その後お前は、願掛けをしに一人で現れた。一度目は千晶が高熱で伏せったとき。二度目は保江が死んだとき。嵐の中の百度参りを、どちらもあそこの馬鹿のためにな」
「それは……」

 保江の急逝を知って帰省した挙げ句、実家から閉め出された日の夜のことだ。

 心身ともにボロボロになった暁は、日が落ちるのを待って敷地内の山に入り込んだ。
 雨が降っても、風が吹いても、気にならなかった。
 黒のパンプスを御社の隣に置き、ひたすらに山道を往復する。

 御社の階段に、最後の小石をそっと積み上げる。
 乱れた息をなんとか整え、暁は両手を合わせた。

 御社さま、御社さま。どうかお願いします。

 どうかちーちゃんの未来が、幸せなものでありますように──。

「俺があいつの前に姿を見せたのは、そんなお前の姿を二度も見たからだ」
「……え?」


(14)

 思いがけない言葉に、鼓動が大きく胸を打つ。

「興味が沸いた。二度も百度参りで祈りをこめられる『ちーちゃん』とやらが、一体どんな奴なのか。母を亡くしたあいつは相当に荒んだ目をしていたな。保江とともに幾度か社を訪れていたあの餓鬼だとは、にわかに信じがたかった。でもまさか、」

 暁の瞳から、堪えきれなくなった滴が一筋こぼれた。

「こんな長い付き合いになるとは、俺自身思ってもみなかったが」
「っ、烏丸……」

 あの時の暁は自身の不甲斐なさに打ちのめされていた。
 大切な人の大切な子ども一人、この手で守ることも出来ない。気休めの百度参りしか出来ない自分が、嫌で嫌で仕方なかったのに。

 まさかあの時の願いが、誰かに届いていたなんて。

「ありがとう」

 次々溢れてくる涙を拭いながら、暁は震える唇を必死で動かす。

「ありがとう、ありがとう。ずっと千晶の側にいて、見守ってくれて。ありがとう、烏丸……っ」
「っ……おい。いいからさっさと泣き止め。目玉が溶ける」
「だって、私何も知らなくて、何も、できなかった」
「……この馬鹿」

 一度決壊したように涙が止まらない暁を、烏丸がぐいっと引き寄せた。
 大きな手のひらに肩を包み込まれ、目の前の漆黒の着物に顔を押しつけられる。

「お前も、とんだお人好しだな」
「え……?」
「俺はもともと人間は好かん。ここに移り住んだときは、お前のことも当然警戒していた」

 そう言うと、烏丸の瞳はベッドにもたれる甥の姿を映し出す。

「どんなに大人ぶっても、あいつはまだ餓鬼だ。大人の目論見に巻き込まれ悪戯に心を砕かれる姿を見るのは、毎度のこととはいえ気分のいいもんじゃねえ。あいつがお前には妙に懐いていたから、余計にな」

 心配、してくれていたのか。千晶のために。

「だが、杞憂だったな」

 烏丸の長く白い指が暁の目尻に残る泣き痕をそっと拭う。
 その手つきは普段の尊大さが嘘のように優しかった。

「お前は何も変わらねえ。嵐の中、あの馬鹿のために走り回っていた時と同じだ」

 純粋で、実直で、傷つきやすくて。

「綺麗なまま、だ」
「……っ」

 紡がれたその言葉が、暁の胸にじわじわとしみ込んでいく。
 それが次第に熱を帯び、暁の頬に浮かび上がった。そしてふと、あることに気づく。

 烏丸の暁に対する口調が──いつのまにか千晶に対するそれと、同じになっていたことに。

「あのな。わかりやすく照れてんじゃねえよ」
「で、でも。だって今のは……」
「いいから喋んな。しばらく黙っとけ」

 有無を言わさぬ様子で、再びその胸に閉じ込められる。

 おしろいのような不思議な香りが、かすかに鼻腔をくすぐった。
 ああ、これが烏丸の香りなんだな、と暁は思う。

 あれだけ溢れ出ていた涙はすっかり乾き、胸の鼓動だけが規則的に鼓膜を揺らす。
 それは暁の鼓動のようにも、烏丸の鼓動のようにも聞こえた。

「──アキちゃん?」

 突如部屋に響いた声色に、二人はもの凄いスピードで後ずさる。

 すぐさま生まれた適正距離を前に、胸には落胆よりも安堵のほうが濃く広がった。

「アキちゃん……? あれ?」
「千晶。こっちにいるよ」

 寝ぼけ眼を擦る千晶が、ゆらりとこちらを向く。

 徐々に覚醒してきたことを現すように、もともと大きな垂れ目がまん丸に見開かれた。
 その反応に一瞬逃げ出したくなる。
 千晶と真正面から顔を合わせるのは、数日前に家を出て行ったとき以来だ。

「えっと。おはよう、ちあ」
「アキちゃん……!」

 掛けられていた布団を勢いよく剥ぐ。
 まるで飛びつくような勢いで、千晶はリビングにいた暁にきつく抱きついた。

 固く広い胸板をぎゅうっと押しつけられ、思わず噎せ込んでしまう。

「千晶、ちょ、苦し……」
「ごめん。本当にごめんなさい。アキちゃん……っ」

 首筋に埋められた千晶の顔の温もりが、ふわりとくすぐったい。
 細く長い深呼吸が聞こえたかと思ったら、ゆっくり千晶の顔が持ち上げられた。

 その顔に浮かぶ臆病な色に、暁は思わず目を瞬かせる。

「アキちゃんにあんな酷いことを言って……して、本当にごめん。アキちゃんは俺のことをちゃんと考えてくれてたのに、俺は自分の感情ばっかで……めちゃくちゃ自分勝手だった」
「千晶……」
「信頼を踏みにじったってわかってる。でも俺、本当は気づいてたんだ。本当は血の繋がりなんてなくてもいい。アキちゃんといられれば、それでいいんだって」

 血の繋がり。
 その言葉が出たときに心臓が大きく跳ねたが、続く言葉にその衝撃がじわりと熱に変わっていく。

「昨日の罰として、何度殴られてもいい。寝る場所が別になっても、食事番全部任されても、俺、ちゃんとさぼらない。それでも」

 やっぱり俺、アキちゃんと一緒にいたいよ。


(15)

「……っ」

 大人のプライドは、呆気なく決壊した。

 情けなく眉を歪めた暁が、口元に手を当てたままその場に崩れ落ちる。
 それを慌てて支えた千晶の腕を、暁が小さく握った。

「……もう、家出なんてしたら許さないからね」
「はい」
「それと、自分は独りだなんて思い込みも捨てること。失礼でしょ。私と烏丸に」
「何で俺だ」

 不服げに口を開いた烏丸だったが、それ以上の反論は飛ばなかった。
 頬に伝う、熱い感触をぐいっと拭い去る。

「お帰りなさい。千晶」
「……ただいま。アキちゃん!」



「暁さま! もう体のお加減はよろしいのですか!」

 一階事務所に姿を見せた暁に、琉々は声を上げた。

「大丈夫だよ。琉々くんにも逆に心配をかけちゃったね」
「いいえ、いいえ、そんなことは! 暁さまがお元気になられたとわかって、とてもほっとしております……!」
「ありがとう。琉々くんの体調はどう?」
「琉々、もう、げんキ!」「昨日、暁が帰ってくる、ちょっと前かラ!」「段々、顔色、良くなっタ!」

 琉々に代わって、家鳴三兄弟もぴょんぴょんと暁を出迎えてくれた。
 こんな小さな子たちにも心配をかけてしまったようだ。
 安心させるように微笑み、暁はソファーに腰を下ろした。二階で入れてきた、温かいお茶を差し出して。

「実は今、上で甥が朝食を作ってくれてるの。慣れない料理だから出来な保証できないけれど、よかったら君たちも食べてってね」
「そ、そんなそんな! ご迷惑をお掛けした挙げ句食事まで!」
「まあまあそう言わないで。それよりも、琉々くん。君の探していた住み処が、見つかったよ」

 そう告げると、暁はポケットからあるものを取り出した。
 昨夜広大な河底から探し当てた、木製のペンダントだ。

「これは……」
「このペンダントはガジュマルの木で出来てるの。その木はここよりもずっと暖かい気候で育って、沖縄ではあるあやかしがこの木に宿っていると言われてるんだって」

 そのあやかしとは、ガジュマルの木の精霊とも言われる──『キジムナー』だ。

「『キジムナー』……?」
「その姿は赤い肌と髪。河童と習性と酷似しているとされているけれど、伝承される姿形には、甲羅や嘴、そして頭の皿はないことが多い」
「で、ですが私の頭にはこの皿がっ」

 琉々が言い募ろうとした瞬間のことだった。

 頭上の白い皿が眩しく光ったかと思うと、まるで溶けるように消えてなくなった。
 まるで、もう役目は終えたと自ら悟ったように。

 呆気にとられた様子で自らの頭に触れる琉々に、暁は静かに口を開いた。

「推測だけど……今まで頭にあったお皿は、君を見つけた河太郎さんが君に授けた仮の皿、だったんじゃないのかな」
「河太郎どのが……?」

 ある日突然、河童の住み処である川で発見された琉々。

 外見は河童に非常に近しいが、象徴ともいえる頭上の皿がない。
 これでは仲間に引き入れ助けることが困難になると考えた河太郎は、急場しのぎで琉々の頭に皿を授けたのだ。

「だからだろうね。河太郎さんが琉々の皿のことを何かと気遣っていたのは」

 暁の言葉に、琉々自身も心当たりがいくつかあるらしい。
 そのうち膝の上でぎゅっと両手を握り、「河太郎どの……」と小さく漏らしていた。

「そして何より……水でも消えない火」

 琉々の瞳が、大きくきらめいた。

「その火は『キジムナー火』といって、キジムナーが使う術の一つなの。魚を捕まえるのが得意で、仲良くなると人間にもわけてくれる。出会う人を幸せにする妖怪なんだって」
「暁どの……」
「わかった? 君はやっぱり、出来損ないなんかじゃない。君は立派なあやかしだよ。人を幸せに出来る心の優しい、素敵な存在」

 暁が告げた一言に、琉々はぼろぼろと涙をこぼした。
 そんな琉々の様子を心配した小鬼たちが駆け寄り、涙の粒を懸命に払っていく。

 このペンダントに使われたガジュマルの木が、琉々くんの探していた住み処だったのだろう。
 それがペンダントが川に放られたときに、弾みでペンダントと離ればなれになってしまった。

 ペンダントをその小さな手のひらに乗せると、琉々はとても穏やかな泣き笑いを浮かべた。



「あなたはこの間の」
「こんにちは。また会ったね」

 サチちゃん、と言いかけて、なんとか言い止まった。

 この少女からしてみれば、暁は以前もこの橋の上で会った女の人に過ぎない。
 どうして名前を知ってるのかと問われれば、即刻不審者の烙印を押されることになるだろう。

「お姉さんも、またこの橋に用事ですか」
「うん。お姉さん、この橋が気に入っちゃってね」
「そうですか。それじゃあ、私はこれで」
「あ、ちょっと待って」

 そそくさときびすを返しそうになったサチを慌てて引き止める。
 やはり、千晶不在の世間話は長続きしないようだ。

「実は今日は、あなたに用事があったの」
「私に?」
「うん。これを」
「……っ、これ!」

 大きな声とともに、元気なポニーテールがぴょこんと揺れた。

 ペンダントを小さな手に乗せると、少女が感慨深げに吐息を漏らす。
 彼女の探しものがこれだという、何よりの証しだった。

「私のペンダント……! でも、どうしてお姉さんが?」


(16)

「実は私も数日前に川に落ちちゃってね。そのとき偶然、そのペンダントを見つけたんだ」
「それで、私が探してたものじゃないかと思って、わざわざ?」
「とても一生懸命探していたからね。間違っててもいいから、確認したいと思ったんだ」
「っ、ありがとう、ございます……!」

 涙を滲ませたサチが、ペンダントをぎゅっと胸の中に閉じ込める。
 その瞬間、ペンダントの内側に宿った琉々の笑顔を見た気がした。

 琉々の住み処はやはりここだった。戻してあげられて、本当に良かった。

「あの、何かお礼をさせてください」
「いいのいいの。こっちが勝手にやったことに、お礼なんていただけないよ」
「え、でも、でも何かっ」
「……サチ! 何をしてるの、そんなところで!」

 押し問答をしていた中に、第三者の声が響いた。

 サチとともに顔を上げると、三十代半ばとおぼしき女性がこちらに駆け寄ってくる。
 目鼻立ちが整っていることもあってか、ジーパンにTシャツというシンプルな格好がとてもよく似合っていた。

「ママ!」
「あんたはまたこんなところで! 性懲りもなく川を探険しようとしてたんじゃ……、え。あの、あなたは?」

 肩を怒らせていたサチの母だったが、暁の姿を確認した途端勢いをなくしていった。

「怪しい人じゃないよ。この人がね、わたしのなくしものを見つけ出してくれたの!」
「え、あなた、なにか無くし物をしてたの?」

 どうやら、ペンダントを無くしたことは内密にしていたらしい。
 適当に言葉を濁そうとするサチに首を傾げる母だったが、次の瞬間、はっと大きく息をのんだ。

 視線の先は、娘を追い越した向こう側の橋の端だ。導かれるように、サチも後ろを振り返る。

「っ──、パパ!?」
「サチ! サリナ!」

 サチが飛び込んでいったのは、肌が浅黒く焼けた短髪の男だった。
 パパ、と判断するにしては随分と体も引き締まり若く思える。両手で迎えた父は、軽々と娘の体を抱き上げた。

「久しぶりだなあ! 元気だったか? 母ちゃんの言うことちゃんと聞いてるか?」
「ふんだ! 少なくとも、怒られてばっかりのパパより、よっぽどサチの方がいい子だもん!」
「ははっ、そりゃそうだな!」

 久しぶりの再会らしい親子は、笑顔のまま額をぐりぐりと押しつけ合う。
 その横顔は、傍目から見てもとてもよく似ていた。

「サリナ! お前も元気そうだな。よかった!」
「……何を、能天気なことを言ってるのよ」

 話を向けられた母が、絞り出すように返答する。
 ここにまだ他人の暁がいることで、仕方なしに返した言葉にも思えた。

「はっはっは。まあ、能天気だけが取り柄みたいなもんだからなあ」
「本当よ! 突然故郷で事業をするって沖縄に戻っちゃって、私たちのことはほったらかしで! サチがどれだけ寂しい思いをしていたのかわかってんの!? 私が、どれだけ大変な思いをしていたのかも……!」
「サリナ」
「もう、帰ってこなくてもいい! そんなに好き勝手したいなら、私たち、もう」
「サリナ!」

 歯止めが聞かなくなっていた母の肩が、小さく震える。

 その細い体を包み込むように、父の腕の中に娘ともどもぎゅうっと閉じ込められた。

「っ……ちょ、ここ、外……!」
「悪かった。寂しい思いも大変な思いもいっぱいさせて。本当に申し訳なかった」

 先ほどまでと違う、熱く低い口調に、母の言葉がふっと途切れた。

「実はな。沖縄で手伝わせてもらった事業を、こっちでも展開することになったんだ。社長も俺のことを信用してくれて、東京の責任者を任せてくれた」
「……え」
「それじゃあ、これからは三人で一緒に暮らせるのっ?」
「ああ。その通りだ!」

 快活に笑う父に、サチは諸手を挙げて喜ぶ。
 対して母はというと、何とも言えない複雑な表情だった。

「なんだ。喜んでくれないのか、サリナ」
「……責任者だなんて、あんた、本当に大丈夫なの?」
「ははっ。大丈夫だ、心配ない!」
「心配ない、ねえ……」

 はっきり言い切った父に、母は頭を抱え込む。
 どうやらこれがお決まりのやりとりのようだ。

「まあいいや。私も今度また昇給する予定だし。万一何かあっても、食うに困らないくらいは稼いでるあげるから」
「お、そうだったのか? それは帰ってお祝いしないとな!」
「ねえママ! パパが帰ってきたことも、一緒にお祝いだよ。ね!」
「まったく仕方ないわね。……この、テーゲー男」
「はは。面目ない」

 詫びながら、父は母の頬をそっとなぞった。
 そのとき交わされた視線はとても温かく、他人が決して入り込めない夫婦の繋がりが見てとれた。

 そう。その眼差しはまるで、保江があの御社を訪れたときの眼差しと、とてもよく似ていて──。

「お姉ちゃん!」

 思考の海に飲まれそうになっていた暁を、サチの声が呼び戻す。
 父の肩車に乗せられた少女の首からは、木製のペンダントが提げられていた。

「本当にありがとう、お姉ちゃん。ばいばい!」
「うん。ばいばい!」

 見送る三人親子は、三人三様の表情を浮かべているものの、とても幸せに溢れている。
 ほらね。やっぱり君は、素敵なあやかしじゃないか。

 ペンダントに宿った心優しいあやかしの笑顔を過らせながら、暁はしばらく川の水面を眺めていた。


(17)

 夕暮れ時のスーパーは、やはりいつも盛況だ。

 夕飯の買い出しを済ませ、自宅兼事務所までの道を歩いて行く。
 緩い上り坂になっている道の先にある間黒新橋の中央で、暁はふと歩みを止めた。

「すっかり桜は緑色、だなあ」

 キジムナーの琉々が、仮住まい先の間黒川からペンダントの住み処へと戻っていって、一週間が経った。

 橋の向こうに続く間黒川を、挟むように植わっている桜の木。
 真夏になれば当然の光景の変化に、今年は何故だかしみじみと浸る。

 桜の花が、河面につきそうになるまで溢れていた春、暁の生活は一変した。
 自分の手が届く範囲のことを必死にこなして生きてきた。そんな暁にとって、拓けた世界はあまりに未知で不可思議なものだったが──。

「おい。何を突っ立っている?」
「突っ立ってるんじゃなくて、物思いに耽ってるんだよ」
「は。お前に何を耽る思いがあるって?」

 小馬鹿にしてくる烏丸をしれっと無視して、暁は両手の買い物袋を抱え直した。
 最近は外回りが多かったこともあり、冷蔵庫にろくな食材が残っていなかったのだ。

 三人分の食料はずっしり重い。こんな量を買い込むようになったのも、この春からだ。
 そう考えると不快でしかないはずの重量感も心地よく思えてしまう。

 人間変わるものだな、と暁は思った。

「歩くのが遅え」
「え」

 両手にあったはずの買い物袋がひとつ、ひょいと持ち上げられる。
 軽くなった手の方を振り返り、暁は目を大きく見開いた。

「こっちは暑いんだよ。とろとろ歩いてねえで、さっさと行くぞ」
「あ、りがとう。ええっと……烏丸、だよね?」
「他に誰がいるんだよ」
「いや、だって」

 今隣に佇む男は、声や顔立ちこそ見知った烏丸だ。

 しかし、その纏いは高貴さ溢れる黒い着物ではなく、黒いシャツにチノパンといった人間の服装だった。
 いつもは耳元に伸びているはずの長髪も、今は一般的な長さにまで短くなっている。

「烏丸って……人の姿にもなれたんだ」
「初対面の時も、人間のガキの姿になってただろうが」
「あ、そういえばそうだった」

 しかし、烏丸が人間に変化したのも、言ってみればその時だけだ。

 姿形を変化させる力といい、川の流れを操作する力といい、烏丸の持つ力は一体なんなのだろう。
 聞いてみようかと口を開いた瞬間、川の向こうから夏の薫りをのせた風が来る。

「アキちゃん?」

 帰宅時の喧噪の中ではっきりと届いた声に、二人は揃って視線を移した。

 ……かと思ったが、それよりも早く声の主が暁の背後をとった。
 首元に腕を巻きつけ、後ろから密着するように抱き寄せる。

「ただいま、アキちゃん。夕飯の買い出し?」
「千晶」

 振り向きながら名を呼ぶと、それすら嬉しそうに微笑む甥と目が合った。

「あのねえ、人前で抱きつくなって、何度も言ってるでしょ」
「ふふ。だってアキちゃん、抱き心地がいいんだもん……あ。逃げた」

 後頭部に頬ずりされる気配を察し、私はいち早く屈んで状態を脱した。

 最近の千晶は、過度なスキンシップが目立つようになった気がする。
 もともと狭かったパーソナルスペースが、先日のプチ家出騒動以降さらに狭まった。というより、殆どゼロ距離だ。

 改めて向き合うと、少し着崩された制服シャツのボタンが涼しげに開いている。
 襟元に滲む汗粒と相まって、こちらを見つめる大きな瞳がきらきらと眩しかった。

 この甥っ子のイケメンレベルは、どこまで上昇を続けるつもりだろうか。

「お疲れさま。今日はソフトボール部の練習試合の助っ人だったっけ。結果はどうだった?」
「もちろん試合は勝ってきたよ。あ、買い物袋、俺持つよ」
「あ、うん。ありがと」

 左手の買い物袋も持ち上げられた。一人で買い物に来たつもりが手ぶらになってしまい、なんとなく手持ち無沙汰になってしまう。

「それにしても、烏丸の人間の姿ってかなり久々だねえ。人間に化けるのは好かんって、前に言ってなかったっけ?」
「あ、そうなの?」
「必要があれば化ける。あやかしの姿ままじゃ、買い物袋だけが家まで浮遊することになるだろが」
「あ、それは困る」

 一応合いの手を挟みながら、自宅兼事務所まで再び歩き始める。
 それでも男二人の間に流れる不穏な空気は、解消されないままだった。

 琉々の事件が落ち着いて以降、この二人の関係性がどこかおかしい。

 もともと腹を割って本音で語る仲ではあったようだが、最近は特に何かにつけ言葉にトゲがある。
 まるで子ども同士の喧嘩みたいだ。

「ただいまー」
「アキラ!」「アキラが来タ!」「おかえリ!」

 自宅の中へ入ると、ダイニングテーブルの上で三匹の小鬼がぴょんぴょんと飛び跳ねる。
 しかし次の瞬間、アキラの後ろに連なる男二人を見てさっと顔色を変えた。

「ひゃっ! 千晶様、ダ!」「烏丸様、も、帰っタ!」「恐れ多イ、多イ!」

 家鳴たちの慌てふためきように、暁はこっそり苦笑をこぼす。
 この家に住み着いて以降、この二人に対してはずっとこの調子なのだ。

「あのね家鳴くんたち。そこまで畏まらなくても、この二人は君たちを取って食いはしないよ?」
「だメ! 恐れ多イ!」「千晶様、力強イ! 巫様!」「烏丸様も、力強い。テング!」
「……」

 キャーキャー騒ぎながら身を寄せ合う小鬼たちを眺めながら、今耳にした言葉を脳内で繰り返す。
 ええっと、ちょっと待て。

 今、この子らはなんて言った?