(15)
今夜一人での警護を決めたのは、あやかしの正体がカミキリ少女だと判明したからだった。
あやかし云々の心配がないと判断できれば、あとは嫌がらせの犯人を通常通り突き止めるだけだ。
よって烏丸に同行してもらう必要もなく、未成年の甥っ子が駄々をこねることもない。
「琴美さんの仕事が終わるのは、あと五分ってところかな」
腕時計を眺めながら、美容室近くで琴美からの連絡を待つ。
以前と同様目立たない色味をまとっていた暁だったが、思いがけず明るい声が掛かった。
「七々扇どの! お久しぶりでございます。以前、貴殿に豆腐作りについてご相談した、小太郎でございます!」
「わ、小太郎君!」
誰もいないと思われた視線をぐぐっと下げると、見覚えのある少年が立っていた。
いつも通り竹笠を頭に乗せ紅葉柄の着物をまとった小太郎が、こぼれ落ちそうな笑みを浮かべている。
手に持つ盆には、もちろん真っ白の豆腐が置かれていた。
「久しぶりだね。その後はどうかな? 豆腐作りを習いにおばあちゃんの家に通ってるんだよね?」
「はいっ。大先生はときに優しくときに厳しく、それは丁寧に豆腐作りを伝授してくださいます。あんな御方に豆腐のいろはを教えていただけるなんて、今自分、とても幸せです……!」
幸せに満ちた小太郎の豆腐が、ふるふると感激に震えている。
以前聞いた話では、この手に持たれた豆腐は先祖より受け継がれてきたものらしい。
そして豆腐作りの免許皆伝を受けた暁には、自ら作った豆腐を自分の盆に置くことができると。
「よかった。小太郎君作の豆腐が盆に乗るのも、もうそろそろだね」
「いえいえ。豆腐作りは一朝一夕で会得できるものではございませんから。大先生の弟子として、地道にじっくり修行させていただきますっ」
「うん。小太郎君が納得できるお豆腐ができたら、私にも是非……、あ、降ってきたね」
頬にあたった滴に気づき、空を見上げる。
夜の雲は辺りに幾分か薄明かりを与えるが、しとしと降り始めた雨は今日の仕事にとってあまりいいコンディションとは言えない。
あらかじめ持ってきていた折りたたみ傘を取り出した。
「小太郎君も、傘に入って。その竹笠だけじゃ冷えるでしょう」
「平気でございます。もとより自分たち一族は、雨の日に活動するのが好きなものでして」
「あ、そうなんだね」
言われてみれば、あやかしの書物にもそのような記述があった気がする。
以前小太郎が事務所を訪れたときも、同じように小雨が降っていた。
「ところで、七々扇どのはこちらで一体何を?」
「うん。ちょっとよろず屋の仕事でね」
あ、仕事が終わったようだ。
耳につけたイヤホンの接続音が聞こえる。
間もなくして琴美が美容室から姿を現したのを目にすると、暁は小太郎の頭をそっと撫でた。
「また何かあれば是非事務所に来てね。それじゃあ、私はこれで」
「はい。どうぞお元気で……、わっ!」
「え?」
小太郎の悲鳴に振り返ると、腰丈ほどの小さな体が大きく前のめりになっていた。
暁は咄嗟に腕を伸ばし、転がる寸前でその体を抱き留める。
無事を確認すると同時に、今小太郎にぶつかっていった人物に噛みつくように声を荒げた。
「ちょっとあんた! 人にぶつかっておいて詫びのひとつも──」
声をかけると同時に、変な直感が走った。
体格的に女。
まだぱらつき程度の雨の中で、深く被った無地のレインコートと、無個性なパンツスタイル。
その手は腰元のポケットに突っ込まれ、まともなカバンも持ち合わせていない。
まるで全ての特徴をかき消そうとしているような人物が、暁と琴美の直線上に立っていた。
そして、ポケット内から一瞬垣間見えたものは。
「──琴美さん、美容室へ!」
『えっ?』
イヤホンに怒鳴るように告げる。
小太郎を道脇に庇ったあと、暁はレインコートの女に向かって駆けだした。
レインコートの女は一瞬怯んだ様子だったが、暁の接近にポケットに入れていたあるものを目の前に差し出す。
銀色の刃先。あれは。
「っ、痛……!」
「七々扇どのっ!」
『七々扇さん!?』
振り回された刃先が、運悪く暁のつかみかかった手のひらをえぐる。
傷口はそれほど深くない。
しかし二人の間に舞った細かな血しぶきに、暁はぐっと眉をしかめ、女ははっと息をのんだ。
「七々扇どの! お、お、お怪我がっ」
「小太郎くん、大丈夫。平気だよ」
受け答えをしている間に、女はきびすを返して逃げていった。
駅の方向か。出血したまま追いかけるのは得策じゃない。
小太郎を宥めていると、琴美もまた、血相を変えて駆け寄ってきた。
「七々扇さん! あの、今、一体何が……」
「すみません琴美さん。ちょっと……歩き方を注意されたのが気にくわなかったようで、今の人に軽く突き飛ばされただけです」
「え、でも」と言いかけた小太郎に、すかさず視線で沈黙を促す。
手のひらの傷を巧妙に琴美の視界から外し、暁は口元に笑顔を浮かべた。
「ただ申し訳ありません。今ので足首を軽く捻ったみたいで……今夜は念のため、タクシーで帰宅してもらえますか」
「あ、それはもちろん! でも、七々扇さんのほうは大丈夫ですか……?」
「大丈夫ですよ。……そうだ。せっかくなので、琴美さんに一つ質問を」
心配に揺れる琴美の瞳を見つめ、暁は怪我をしていない左の人差し指を立てた。
「以前お話しされていた、なかなかいらっしゃらないお客さまのことです。その方のお名前は……槙野さんじゃありませんか」
「! ど、どうしてそれを?」
「実は少し小耳に挟む機会がありまして。長身でとても綺麗な、ショートヘアの方ですよね?」
「え? いいえ、あの」
琴美は首を横に振った。
「綺麗な、ロングヘアの子です」
ああ、やっぱり。
暁は内心小さく頷いた。
今夜一人での警護を決めたのは、あやかしの正体がカミキリ少女だと判明したからだった。
あやかし云々の心配がないと判断できれば、あとは嫌がらせの犯人を通常通り突き止めるだけだ。
よって烏丸に同行してもらう必要もなく、未成年の甥っ子が駄々をこねることもない。
「琴美さんの仕事が終わるのは、あと五分ってところかな」
腕時計を眺めながら、美容室近くで琴美からの連絡を待つ。
以前と同様目立たない色味をまとっていた暁だったが、思いがけず明るい声が掛かった。
「七々扇どの! お久しぶりでございます。以前、貴殿に豆腐作りについてご相談した、小太郎でございます!」
「わ、小太郎君!」
誰もいないと思われた視線をぐぐっと下げると、見覚えのある少年が立っていた。
いつも通り竹笠を頭に乗せ紅葉柄の着物をまとった小太郎が、こぼれ落ちそうな笑みを浮かべている。
手に持つ盆には、もちろん真っ白の豆腐が置かれていた。
「久しぶりだね。その後はどうかな? 豆腐作りを習いにおばあちゃんの家に通ってるんだよね?」
「はいっ。大先生はときに優しくときに厳しく、それは丁寧に豆腐作りを伝授してくださいます。あんな御方に豆腐のいろはを教えていただけるなんて、今自分、とても幸せです……!」
幸せに満ちた小太郎の豆腐が、ふるふると感激に震えている。
以前聞いた話では、この手に持たれた豆腐は先祖より受け継がれてきたものらしい。
そして豆腐作りの免許皆伝を受けた暁には、自ら作った豆腐を自分の盆に置くことができると。
「よかった。小太郎君作の豆腐が盆に乗るのも、もうそろそろだね」
「いえいえ。豆腐作りは一朝一夕で会得できるものではございませんから。大先生の弟子として、地道にじっくり修行させていただきますっ」
「うん。小太郎君が納得できるお豆腐ができたら、私にも是非……、あ、降ってきたね」
頬にあたった滴に気づき、空を見上げる。
夜の雲は辺りに幾分か薄明かりを与えるが、しとしと降り始めた雨は今日の仕事にとってあまりいいコンディションとは言えない。
あらかじめ持ってきていた折りたたみ傘を取り出した。
「小太郎君も、傘に入って。その竹笠だけじゃ冷えるでしょう」
「平気でございます。もとより自分たち一族は、雨の日に活動するのが好きなものでして」
「あ、そうなんだね」
言われてみれば、あやかしの書物にもそのような記述があった気がする。
以前小太郎が事務所を訪れたときも、同じように小雨が降っていた。
「ところで、七々扇どのはこちらで一体何を?」
「うん。ちょっとよろず屋の仕事でね」
あ、仕事が終わったようだ。
耳につけたイヤホンの接続音が聞こえる。
間もなくして琴美が美容室から姿を現したのを目にすると、暁は小太郎の頭をそっと撫でた。
「また何かあれば是非事務所に来てね。それじゃあ、私はこれで」
「はい。どうぞお元気で……、わっ!」
「え?」
小太郎の悲鳴に振り返ると、腰丈ほどの小さな体が大きく前のめりになっていた。
暁は咄嗟に腕を伸ばし、転がる寸前でその体を抱き留める。
無事を確認すると同時に、今小太郎にぶつかっていった人物に噛みつくように声を荒げた。
「ちょっとあんた! 人にぶつかっておいて詫びのひとつも──」
声をかけると同時に、変な直感が走った。
体格的に女。
まだぱらつき程度の雨の中で、深く被った無地のレインコートと、無個性なパンツスタイル。
その手は腰元のポケットに突っ込まれ、まともなカバンも持ち合わせていない。
まるで全ての特徴をかき消そうとしているような人物が、暁と琴美の直線上に立っていた。
そして、ポケット内から一瞬垣間見えたものは。
「──琴美さん、美容室へ!」
『えっ?』
イヤホンに怒鳴るように告げる。
小太郎を道脇に庇ったあと、暁はレインコートの女に向かって駆けだした。
レインコートの女は一瞬怯んだ様子だったが、暁の接近にポケットに入れていたあるものを目の前に差し出す。
銀色の刃先。あれは。
「っ、痛……!」
「七々扇どのっ!」
『七々扇さん!?』
振り回された刃先が、運悪く暁のつかみかかった手のひらをえぐる。
傷口はそれほど深くない。
しかし二人の間に舞った細かな血しぶきに、暁はぐっと眉をしかめ、女ははっと息をのんだ。
「七々扇どの! お、お、お怪我がっ」
「小太郎くん、大丈夫。平気だよ」
受け答えをしている間に、女はきびすを返して逃げていった。
駅の方向か。出血したまま追いかけるのは得策じゃない。
小太郎を宥めていると、琴美もまた、血相を変えて駆け寄ってきた。
「七々扇さん! あの、今、一体何が……」
「すみません琴美さん。ちょっと……歩き方を注意されたのが気にくわなかったようで、今の人に軽く突き飛ばされただけです」
「え、でも」と言いかけた小太郎に、すかさず視線で沈黙を促す。
手のひらの傷を巧妙に琴美の視界から外し、暁は口元に笑顔を浮かべた。
「ただ申し訳ありません。今ので足首を軽く捻ったみたいで……今夜は念のため、タクシーで帰宅してもらえますか」
「あ、それはもちろん! でも、七々扇さんのほうは大丈夫ですか……?」
「大丈夫ですよ。……そうだ。せっかくなので、琴美さんに一つ質問を」
心配に揺れる琴美の瞳を見つめ、暁は怪我をしていない左の人差し指を立てた。
「以前お話しされていた、なかなかいらっしゃらないお客さまのことです。その方のお名前は……槙野さんじゃありませんか」
「! ど、どうしてそれを?」
「実は少し小耳に挟む機会がありまして。長身でとても綺麗な、ショートヘアの方ですよね?」
「え? いいえ、あの」
琴美は首を横に振った。
「綺麗な、ロングヘアの子です」
ああ、やっぱり。
暁は内心小さく頷いた。