あやかし憑き男子高生の身元引受人になりました

(12)

 烏丸の冷静な言葉を聞きながら、暁は十二年前――家を出た翌年の記憶を過らせていた。

 保江の訃報を聞き、一心不乱に駆け戻った実家。
 案の定門前払いをくらい、もみ合いになった挙げ句、玄関先で凍えるほどの冷水を浴びせられた。

 姉さんが亡くなったなんて。
 じゃああの子は? 千晶はどうなるの? 今度はあの子をこの家に縛り付けるつもりなの!?

 散々喚いた挙げ句、暁は父が通報した警察によって連れて行かれた。
 田舎の警察も牛耳る父の権力に、また嫌悪をいっそう濃くしたのを覚えている。

 当時暁は十六歳。今の千晶と同学年だ。
 母親を亡くした四歳の子どもを一人暮らしの学生寮に引き取って育てる。
 そんな芸当は到底できるはずもなかった。

「そんな他人不信野郎も、お前には妙に心を許しているがな」

 烏丸の言葉に、暁はテーブルを拭く手を止める。

「何を期待していたかは知らん。だが、お前の元に行くと家から言質を取ったときのあいつは、酷く満足そうだった。端から見ていて気味が悪いくらいにな」
「でも、それはまた、どうして」
「知らん。逆にお前に聞きたいくらいだ」
「いや、私にだって心当たりはないんだけど」

 本当か、と疑う烏丸の視線に、暁は何度も頷く。

 千晶が生まれてから、保江は子育てに専念するために離れの部屋に移った。
 暁も当時中学生で部活動もあったため、平日はほとんど関わりがなかった。
 休日の空き時間を見つけて千晶の顔を見に行っていたが、逆を言えばそれだけだ。

「うーん。もしかして千晶ってば、子どもの頃から叔母の私に恋でもしてたのかなあ?」
「だとすれば、あいつの目はとんだ節穴だな」
「あはは。確かに」

 そこは本気で同意する。
 万に一つもない、どこの源氏物語だよって話だ。

「ああでも。毎日自分と母親の端正な顔を見続けてきて、逆に平凡以下の叔母の顔に魅力を感じ始めたという可能性もあるか……?」
「与太話はそこまでだ。来たぞ」

 ドアベルが小気味良い音を鳴らし、喫茶店の扉が開く。

 そこにはつい先日も相まみえた、黒いワンピースの少女が立っていた。
 一度目にしたら忘れないニワトリのとさかに似た髪型が、今日もバッチリ決まっている。

「来てくれてありがとう、カミキリちゃん。どうぞ入って」
「こちらこそ! 先日は大変失礼いたしました! 今日はその、千晶様は?」
「あの子は学校。昨日はごめんね。あの子、すごい剣幕で詰め寄っちゃって」
「いえいえそんな! わたくしが紛らわしい行動を取ったことが原因ですので……!」
「落ち着かねえな。いいからひとまず座れ。この喫茶店は今日休業日だ。人目を気にする必要もあるまい」

 ため息交じりに席を促され、カミキリ少女はいそいそと隣の席に腰を下ろした。
 あらかじめ喫茶店のおじさんから了承を得ているお茶を淹れ、二人に差し出す。 

「ここの店主さんとは昔から贔屓にしてもらっててね。店主さんがふらっと遠出するときはいつも、お店の掃除を任されてるんだ」
「そうでしたか! 千晶様のお連れ様は何でも屋を開かれていると、風の噂でお聞きしました!」
「そうそう。今日はこの喫茶店で、あなたのお話をもう少し聞きたいと思ったの。本当は事務所内でと思ったんだけど、ちょっと訳があって」
「要は、その千晶様とやらに、お前との接触を悟られないようにしようって魂胆だ。あいつはお前のことをまだ信用していないからな」
「……うん。もう少しオブラートに包もうか、烏丸!」

 相変わらず言い方に難ありの男に威嚇したあと、改めてカミキリ少女に向き合う。

「聴取っていうほどのことじゃないの。ただ二つ三つ、質問し忘れていただけ」
「琴美様が、何者かに嫌がらせを受けている件でございますね?」

 きゅっと表情を引き締める少女に、暁は目を瞬かせた。

「カミキリちゃん、知っていたの?」
「あの美容室をうろついているあやかしとして、当然その噂も耳に入っておりました。あのカリスマ美容師の鑑のようなお方に、なんと無粋なことでございましょう! わたし、是非ともご協力させていただきますっ!」
「……うん。ありがとう。助かるよ」

 ただ純粋に憧れの人の役に立ちたい。そんな感情がひしひしと伝わるまっすぐな瞳に、暁は胸が温かくなるのを感じる。
 千晶の固く閉ざされた表情が不意に頭を過ったが、うん、きっと大丈夫。

 今は、この子を信じてみよう。



 カミキリ少女は、二ヶ月ほど前にあの美容室の存在を知ったらしい。

 曰く、「それまでもあちこちの美容室を観察して回っておりましたが、あの美容室が一番だと判断しました! なにより、店内の雰囲気が抜群にいいのです!」とのことだ。
 目の前の手帳にサラサラと記述していく。

 ・二ヶ月前→琴美さん、誰かに尾けられ始める気配。カミキリちゃん、美容室通いを始める。
 ・一ヶ月前→琴美さん、自宅に無記名の手紙、職場に無言電話。
 ・最近→美容室のネットレビューの荒らし行為。

 あちこちから仕入れた情報は、それぞれ情報元を記載しつつ時系列に整理していく。

「あれ。何か書き忘れがあるような……あ、そっかそっか」

 暁は冒頭のさらに上に書き足した。

 ・四ヶ月前→琴美さん馴染みの客が来客、以降予約が入らず。


(13)

「あれもこれも思い悩んで、人間様はご苦労なことだな」

 事務所に戻ってからしばらく。
 黙々と手帳に向かう暁に、烏丸がつまらなそうに悪態を吐く。

 はいはいと聞き流しつつ、暁は先ほどカミキリに聞いたことを思い返した。

 カミキリ少女も、琴美に対する嫌がらせのことは把握していた。
 時折、琴美の心労を案じて不審者を探ったこともあるらしいが、結局それらしい者は見つからなかったのだという。

「カミキリちゃんがあの美容室をうろついていたなら、琴美さんの嫌がらせ犯も目撃していないかと思ったんだけどね」
「そう簡単にいけば、お前の商売もあがったりだろ」
「ふは。確かに」

 とはいえ、密かに期待していた証言は得られなかった。
 となると、次の手立てを考えるほかない。

「でも、カミキリちゃんには感謝だよ。色々と有益なことは聞くことができたからね」

 静かに手帳を見つめる暁に、烏丸はそれ以上口を開くことはしなかった。
 先ほど、暁がカミキリに向けた質問は三つだ。

 一つ目は、美容室周辺で不審者を目撃したことはなかったか。
 二つ目は、カミキリが琴美の美容室に通い始めたのはいつ頃か。

 そして三つ目は──『カミキリは最近、誰かの髪を切ったことはないか』だ。

「ふー。疲れたあ」

 作業を一区切りつけると同時に、どっと体が重くなる。
 ここはコーヒーの出番だ。ふらふらと事務書奥の給湯室へ向かうと、暁はポットの電源を入れた。

「ね。烏丸にも、憧れの存在っているの」
「なんだ、藪から棒に」
「いや。カミキリちゃんが言ってたでしょう。琴美さんを始め、美容師の人はみんな自分の憧れだって」

 喫茶店で話したときも、質問事項以外はただひたすらに美容師への思いの丈を話していた。
 普段周囲に、このような話をできる者が少ないのかもしれない。

「カミキリちゃんも、本当に瞳をキラキラさせてた。憧れの人がいると、辛いときも力が出るよねえ」
「まるで自分にも、憧れの対象がいるような口ぶりだな」
「いるよ? 保江姉さん」

 烏丸の瞳が、僅かに見開いた。

「自分で言うのもなんだけど、私って小さいときから問題児でね。感情の起伏が激しいし、気にくわない奴にはしょっちゅう手え出すし、家では厄介者扱いだった」
「……」
「今思えばあの家から逃れたいっていう、子どもながらの抵抗だったんだけど。それでも姉さんだけはいつも優しくて温かくて……本当に大好きだった。もちろん、今でもね」

 保江の微笑みは、暁の記憶に強く焼き付いている。

 どんな感情にあっても、その笑顔を脳裏に見るだけですっと芯が通る気がしていた。
 あの笑顔に恥じる生き方はしたくない、と。

「千晶の奴も、あの女には絶大な信頼を置いていたな」
「そりゃ、千晶にとっては唯一無二のお母さんだもん。信頼して当たり前じゃない」
「……あれも、随分と買い被られたものだ」

 それはどこか含みのある、皮肉めいた言葉だった。

 思わず眉を寄せ視線を向けた暁だったが、そのまま動きを止めた。
 コーヒーのついでに淹れてきたホットミルクが、盆の上でたぷんと波打つ。

 烏丸が浮かべていた表情は、予想していたものとは真逆だった。

 昔を懐古するように、静かに微笑する横顔。
 まるで春の木漏れ日のように儚いそれは、穏やかで優しくて、哀しい。

「……烏丸?」
「なんだ」
「あ、ううん。なんでもない」

 怪訝そうな顔を向けられ、暁は早々に話を切った。

 隣に腰を下ろし、特に会話はないながらも共に時間を有する。
 ホットミルクを無表情で喉に通す烏丸はいつも通りだ。それなら何も問題ない。ただ。

「一人じゃないからね」

 さっき垣間見た横顔が、まるで泣いているように見えたから。

「……は?」
「千晶も烏丸も、一人じゃないからね」

 この二人は、共にありながら時折酷く孤独に浸った目をする。

 人の家に転がり込んでおいて、人の日常に有無を言わさず入り込んでおいて。それはあんまりじゃないか。
 テーブルに置いたままのコーヒーの湯気をぼうっと見送る。
 ゆらゆら、ゆらゆら。

「烏丸には、千晶がいるから。それに、今は私も」
「お前」
「だから」

 一人で寂しそうな顔、しないでね。

 最後まで言葉になったのかはわからない。
 湯気が部屋のどこかへ消えていくように、暁のまぶたは重力に従ってそっと下ろされた。
 そういえば、午前中に一人で体力仕事をこなしたんだっけ……。

「おい」「寝たのか」「業務時間内だろ」「起きろこら」いつの間にか右こめかみに触れた温もりを感じながら、暁は眠りの世界に落ちていく。

「……警戒心皆無じゃねえか。この馬鹿」

 最後に囁かれた言葉は、理解が及ぶより早く睡魔に溶かされていった。


(14)

「さっきの人ってあの人でしょ。七々扇千晶先輩!」

 弾けるような女子の会話の中で、突如飛び出た身内の名前。

 間黒新橋を渡る途中で耳にしたそれに、夕飯の買い物に向かう途中だった暁はぴたりと歩みを止めた。

「あーあ。やっぱり美男美女がくっつくのは自然の摂理ってことかあ」
「あんた、前から槙野先輩のファンだったよね。やっぱ少し複雑?」
「んー。でも七々扇先輩なら許す! さっきも絵になる二人だったし!」

 七々扇千晶なんて名前、同姓同名の人間はほぼいないと考えていいだろう。

 そういえば今日の千晶は、いつもよりも帰りが遅い。
 加えて「槙野先輩」。槙野。
 あれ、その名前って確か──。

「あのー。すみません」
「え」
「わ」

 橋のふちでガールズトークを繰り広げていた女子高生二人に、暁は思わず声をかけた。
 会話の内容から二人とも一年生だろう。一人は繊細かつ計算し尽くされたゆるふわウェーブをなびかせ、もう一人は背中にかかる長さのストレートヘアに白百合のバレッタが留められていた。

 カミキリ少女からずばり告げられた、髪の手入れ不行き届きの指摘が頭を過る。
 ここまでの女子力は、一生暁が身につけることはないだろう。

「今話していた美男美女さんは、一体どちらにいらっしゃいました?」
「え。どちらにって……ど、どうする由香里」
「というか、あなたは何処のどなたですか?」

 案の定、思いっきり不審な目で見られる。
 特に美女側のファンと話していたストレートヘアの子は、先ほどまで笑顔から一転、鋭い視線でこちらを睨みつけている。

「あ、急にごめんなさい。私は……」
「アキちゃん?」

 え、と三人揃って後ろを振り返る。
 暁は手元のスマホを操作するのと、先ほど噂されたばかりの美男美女を目にするのは殆ど同時だった。

「やっぱりアキちゃんだ。こんなところでどうしたの。聞き込みか何か?」
「ううん。たまたま千晶の名前が会話で聞こえたから、つい声をかけちゃって」
「俺の名前?」
「この人は、七々扇くんの家族だよ。中村さん」

 千晶の隣合っていた美女が、一年生二人に笑顔で説明してくれる。どうやらストレートの子とは顔見知りらしい。

「あ、そ、そうでしたか……!」
「失礼しましたっ!」

 ぽっと頬を赤らめた一年生の二人は、そそくさと坂を駆け上っていく。ああ、やっぱりだ。

「お久しぶりです、アキさん」
「夏帆ちゃん」

 槙野先輩と言われた彼女は、以前会ったことのある千晶のクラスメート、槙野夏帆だった。



「はあ? 俺が? 槙野と付き合ってる?」

 夕食を囲みながら先ほど耳にした話を伝えると、千晶はこぼれ落ちそうなほどに目を見開いた。

「確かに放課後少し槙野と話し込んだけど。だからってすぐにくっつけようとするのは、さすがに安直すぎない?」
「私が言ったんじゃなくて、先ほどの一年生の子らが話してたの。美男美女でお似合いだって」
「うーん。美男美女なのは認めるけどねえ」

 認めるんかい、という突っ込みはないまま、会話は進む。
 今夜のメニューは豚骨ラーメン。ずずずと麺をすする男二人の姿が、なんだか妙に幼く見える。

「今日はただ、帰り途中に槙野とばったり会ってさ。何か妙に深刻な顔してたから、ちょっと話を聞いたってだけだよ」
「珍しいこともあるな。お前が人の面倒ごとに首を突っ込むとは。今夜は雨だな」
「……ああ、確かにそうだねえ」

 自分でも不思議そうに答える千晶だったが、暁としては夏帆の様子のほうが気になっていた。
 先ほど言葉を交わしたときには、いつもと変わらない様子に見えたからだ。

「槙野はああ見えて苦労性でね。美人が故に周りからの期待も高いし、男女問わずファンも多い。だから、何か悩みがあってもうまくガス抜きできないみたい」
「悩み、あるんだ」
「ん。好きな人がいるんだって」

 それはとてもシンプルかつ、複雑な悩みだった。

「でも、どうしても気持ちを伝えられない相手らしい。相手が誰かは俺にも話さなかったけど。もう顔を見せられないかもしれないって、すごく辛そうでさ」

 顔を見せられない。
 どこか変わった言い回しだ、と暁は思った。

 さらに言えば、あの夏帆からの告白を無碍にする相手がいるとも思えない。
 一体どこの贅沢者だ。

「いやいや、顔が良くても、それだけで告白オーケーされるわけないってば。アキちゃんもしかして、恋バナ疎い?」
「……悪かったな」

 さらりと図星を付かれ、目の前のラーメンをずずずとすすり上げる。

「生物学上は女ですけどね。どうせ疎いですよ。こちとら青春らしい青春は、まるで送ってこなかったもので」
「え、そうなの」
「ん、そうなの」
「じゃあもしかして、恋人いたこともないの」

 ぐいぐい来るなあこの甥っ子は!

「ないよ。悪いか」
「え。ええ。じゃあじゃあもしかして、アキちゃんってまだ」
「おい。食事時に品のない話題はやめろ」
「えー。烏丸だって気になるでしょ」
「こいつの異性経験に興味はない」
「結局言ってるからね! いいから早く食べなさい!」

 噛みつくように言いつけ、空にした器をシンクに置く。
 辛うじて熱を帯びていない頬を確かめながら、暁はちゃっちゃと外出準備を整えた。

「それじゃ、話してたとおり今日は私一人で琴美さんの警護に行くから。二人は仲良く家で留守番しててね」

 早口で言い残し、暁はさっさと家を出た。
 烏丸が予言した通り、雨降りを予感させる湿気った夜だった。


(15)

 今夜一人での警護を決めたのは、あやかしの正体がカミキリ少女だと判明したからだった。

 あやかし云々の心配がないと判断できれば、あとは嫌がらせの犯人を通常通り突き止めるだけだ。
 よって烏丸に同行してもらう必要もなく、未成年の甥っ子が駄々をこねることもない。

「琴美さんの仕事が終わるのは、あと五分ってところかな」

 腕時計を眺めながら、美容室近くで琴美からの連絡を待つ。

 以前と同様目立たない色味をまとっていた暁だったが、思いがけず明るい声が掛かった。

「七々扇どの! お久しぶりでございます。以前、貴殿に豆腐作りについてご相談した、小太郎でございます!」
「わ、小太郎君!」

 誰もいないと思われた視線をぐぐっと下げると、見覚えのある少年が立っていた。

 いつも通り竹笠を頭に乗せ紅葉柄の着物をまとった小太郎が、こぼれ落ちそうな笑みを浮かべている。
 手に持つ盆には、もちろん真っ白の豆腐が置かれていた。

「久しぶりだね。その後はどうかな? 豆腐作りを習いにおばあちゃんの家に通ってるんだよね?」
「はいっ。大先生はときに優しくときに厳しく、それは丁寧に豆腐作りを伝授してくださいます。あんな御方に豆腐のいろはを教えていただけるなんて、今自分、とても幸せです……!」

 幸せに満ちた小太郎の豆腐が、ふるふると感激に震えている。

 以前聞いた話では、この手に持たれた豆腐は先祖より受け継がれてきたものらしい。
 そして豆腐作りの免許皆伝を受けた暁には、自ら作った豆腐を自分の盆に置くことができると。

「よかった。小太郎君作の豆腐が盆に乗るのも、もうそろそろだね」
「いえいえ。豆腐作りは一朝一夕で会得できるものではございませんから。大先生の弟子として、地道にじっくり修行させていただきますっ」
「うん。小太郎君が納得できるお豆腐ができたら、私にも是非……、あ、降ってきたね」

 頬にあたった滴に気づき、空を見上げる。

 夜の雲は辺りに幾分か薄明かりを与えるが、しとしと降り始めた雨は今日の仕事にとってあまりいいコンディションとは言えない。
 あらかじめ持ってきていた折りたたみ傘を取り出した。

「小太郎君も、傘に入って。その竹笠だけじゃ冷えるでしょう」
「平気でございます。もとより自分たち一族は、雨の日に活動するのが好きなものでして」
「あ、そうなんだね」

 言われてみれば、あやかしの書物にもそのような記述があった気がする。
 以前小太郎が事務所を訪れたときも、同じように小雨が降っていた。

「ところで、七々扇どのはこちらで一体何を?」
「うん。ちょっとよろず屋の仕事でね」

 あ、仕事が終わったようだ。

 耳につけたイヤホンの接続音が聞こえる。
 間もなくして琴美が美容室から姿を現したのを目にすると、暁は小太郎の頭をそっと撫でた。

「また何かあれば是非事務所に来てね。それじゃあ、私はこれで」
「はい。どうぞお元気で……、わっ!」
「え?」

 小太郎の悲鳴に振り返ると、腰丈ほどの小さな体が大きく前のめりになっていた。
 暁は咄嗟に腕を伸ばし、転がる寸前でその体を抱き留める。

 無事を確認すると同時に、今小太郎にぶつかっていった人物に噛みつくように声を荒げた。

「ちょっとあんた! 人にぶつかっておいて詫びのひとつも──」

 声をかけると同時に、変な直感が走った。

 体格的に女。
 まだぱらつき程度の雨の中で、深く被った無地のレインコートと、無個性なパンツスタイル。
 その手は腰元のポケットに突っ込まれ、まともなカバンも持ち合わせていない。

 まるで全ての特徴をかき消そうとしているような人物が、暁と琴美の直線上に立っていた。
 そして、ポケット内から一瞬垣間見えたものは。

「──琴美さん、美容室へ!」
『えっ?』

 イヤホンに怒鳴るように告げる。

 小太郎を道脇に庇ったあと、暁はレインコートの女に向かって駆けだした。
 レインコートの女は一瞬怯んだ様子だったが、暁の接近にポケットに入れていたあるものを目の前に差し出す。
 銀色の刃先。あれは。

「っ、痛……!」
「七々扇どのっ!」
『七々扇さん!?』

 振り回された刃先が、運悪く暁のつかみかかった手のひらをえぐる。

 傷口はそれほど深くない。
 しかし二人の間に舞った細かな血しぶきに、暁はぐっと眉をしかめ、女ははっと息をのんだ。

「七々扇どの! お、お、お怪我がっ」
「小太郎くん、大丈夫。平気だよ」

 受け答えをしている間に、女はきびすを返して逃げていった。
 駅の方向か。出血したまま追いかけるのは得策じゃない。

 小太郎を宥めていると、琴美もまた、血相を変えて駆け寄ってきた。

「七々扇さん! あの、今、一体何が……」
「すみません琴美さん。ちょっと……歩き方を注意されたのが気にくわなかったようで、今の人に軽く突き飛ばされただけです」

「え、でも」と言いかけた小太郎に、すかさず視線で沈黙を促す。
 手のひらの傷を巧妙に琴美の視界から外し、暁は口元に笑顔を浮かべた。

「ただ申し訳ありません。今ので足首を軽く捻ったみたいで……今夜は念のため、タクシーで帰宅してもらえますか」
「あ、それはもちろん! でも、七々扇さんのほうは大丈夫ですか……?」
「大丈夫ですよ。……そうだ。せっかくなので、琴美さんに一つ質問を」

 心配に揺れる琴美の瞳を見つめ、暁は怪我をしていない左の人差し指を立てた。

「以前お話しされていた、なかなかいらっしゃらないお客さまのことです。その方のお名前は……槙野さんじゃありませんか」
「! ど、どうしてそれを?」
「実は少し小耳に挟む機会がありまして。長身でとても綺麗な、ショートヘアの方ですよね?」
「え? いいえ、あの」

 琴美は首を横に振った。

「綺麗な、ロングヘアの子です」

 ああ、やっぱり。
 暁は内心小さく頷いた。


(16)

「ナイフじゃなくてハサミだったの」

 沈黙が重く落ちていた室内で、暁は恐る恐る絞り出した。

「だから、そこまで切れ味いいわけじゃなかったんだ。もう血も止まったし消毒もしっかりしたから、あとは傷口が塞がれば」
「アキちゃん」
「はい」
「黙って」
「……はい」

 叔母と甥の地位が、逆転した瞬間だった。

 琴美をタクシーに乗せたあと、暁は気配を消すようにして一階事務所に舞い戻った。
 心配でついてきた豆腐小僧の小太郎に手伝ってもらいながら、救急セットの中身をあさる。

 そして次の瞬間、必要最低限にしていた事務所内の明かりが全て灯された。
 点けたのは勿論、二階自宅にいたはずの甥っ子と、屋根の上にいたはずの烏丸だった。

「さっきのあやかしに感謝しなくちゃね。危うく怪我をしたいきさつを隠蔽されるところだった」

 先ほどまで洗いざらいの事情を聞かれた小太郎は、すでに事務所をあとにしている。
 ペコペコと頭を下げて戸を閉める姿は、逆にこちらが申し訳なく思うほどだった。

「隠蔽って、そんな大げさな」
「現に、俺たちに気づかれないように傷の手当てをしてたでしょ。あとは大きな絆創膏でも貼っておけば、転んですりむいたとか適当に報告することもできるもんね」
「……ごめん」

 無表情のまま傷口を確かめる甥に、暁は素直に頭を下げる。
 正直、ぎりぎりまで事務所と自宅のどちらに戻るべきか迷っていた。

 もしも逆の立場なら、怪我を隠そうとする千晶を間違いなく叱り飛ばしたに違いない。家族だからこそ知らせてほしい、と。
 でも結局暁は、怪我をなんとか誤魔化すほうを選んだ。家族だからこそ知らせたくない、と。

 家族ってやっぱり難しい。

「心配をかけた自覚があるなら、大人しくしててよね」
「へ? あ……」

 掴まれていた手が、さらに持ち上げられる。
 そのまま吸い込まれるように促された先は、千晶の唇だった。

 触れた柔らかな温もり。予期しなかった状況に一瞬呆けたものの、はっと思い出す。
 千晶の口付けには、傷を癒やす巫の力があるのだ。

「え、と。もう治った……のかな?」
「うーん。思ったより傷が深いみたいだね。これはもうちょっと時間がかかるかも?」

 手のひらから一度離れた唇が、悪戯っぽく弧を描く。
 そんな表情一つさえも絵になる甥に変に感心していると、再び恭しく暁の手が持ち上げられた。

「いい加減にしろ。このエロガキが」

 面倒くさそうに突っ込みを入れたのは、我が物顔で人の事務机を陣取った烏丸だった。

「言っておくがな。こいつの力が発揮できるのは、加害者にせよ被害者にせよあやかしが関わる場合のみだ。人間同士のどうこうには効果はない」
「あ、そうなんだね」

 うん? ということは、どういうことだろう。

「……ちょっと話そうか、キス魔の千晶くん」
「はは、キス魔じゃないよ。それに、今のだってまったくの無駄じゃない。今回怪我をさせてきた加害者が人間だってことが、これではっきりわかったでしょ?」

 咄嗟に出た言い訳のようにも聞こえたが、確かにな、と納得する。

 開いた手のひらには当然、赤黒い傷跡が残っている。
 しかし先ほどと比べ、不思議と痛みが遠のいたような気がした。これももしかしたら千晶の力なのかもしれない。

「それで? 怪我まで負わされてきたんだ。それなりに収穫はあったんだろうな?」
「まるで事務所の所長のようですね、烏丸くん」

 ふんぞり返りながら報告を待つ烏丸に呆れつつ、暁は今夜の出来事を振り返った。

「襲いかかってきたあの女は……間違いなく美容室から出てきた琴美さんを狙ってた。そこに私が出てきたから、相当動転してたみたい。結局私を切りつけたあとは琴美さんに目もくれず逃げていったし。刃傷沙汰に慣れてないね、あれは」
「顔は? 見たのか」
「暗がりでフードを被ってたから、はっきりとは。でも」
「犯人の目星はついてる──、でしょ?」

 言葉を引き取ったのは、意外にも千晶だった。

 手のひらの怪我を見ていたはずの視線はいつの間にかこちらに、上目遣いで向けられている。
 大きな瞳。
 中に映り込んだ自分の姿を見つけ、不覚にもどきっと鼓動が鳴った。



「あのー。すみません」

 夕日に照らされ歩く高校生の姿が目立つ、帰宅時間帯。
 いつかと同じ言葉が、橋の上にそっと響いた。

 間黒新橋を歩く一人の女子高生が、駆けられた声に肩を揺らす。

「あなたは……」
「少し話を伺いたいんです。お時間いただけますか。……中村、由香里さん」



 移動した先は、道を少し中に入った先の小さな公園だった。

「何でも屋です。今回ある方から、匿名の嫌がらせを受けているということで、解決を手伝ってほしいと依頼を受けました」

 意外にも素直についてきた女子高生──中村由香里にベンチを譲り、暁は少し離れた場所で遊具に腰を預ける。

「調査の結果、あなたがその嫌がらせの犯人と判断しました。よって、厳重注意をさせていただきます。これ以上の手に出るのであれば、警察に被害届を提出します」


(17)

「……そんな、急に呼びつけられて胸を張られても」

 相変わらず美しいストレートヘアをなびかせ、由香里は困ったように微笑んだ。

「お話しされてることが、よくわかりません。嫌がらせって何の話ですか?」
「間黒駅近隣の美容室勤務の、西岡琴美さんに対するものです。あなたはその女性に恨みを抱き、精神的に追い詰めるような工作を施した」
「私、そんな人は本当に知りませんけど」
「琴美さんはそうでしょうね。でも、あなたは知っていた」

 由香里の態度は、言いがかりをつけられている少し気弱な女子高生そのものだ。
 端から見れば、自分のほうが諫められるほうなんだろうな、と内心苦笑する。

「ちょっとよくわからないんですけど……多分人違いだと思うので、私はこれで」
「牧野夏帆さん」

 その名に、由香里の瞳に初めて動揺が走った。

「あなたは夏帆さんに、ずっと憧れていたようですね。それこそ、中学生のことからずっと。彼女に憧れて、短かったその髪をロングに伸ばしていったとか」
「……」
「同じ高校に合格して、また憧れの存在の近くにいられることにあなたは胸躍らせた。しかしながら新学期に高校で再会したとき、予想外のことが起こっていた」
「っ……」
「夏帆さんは、それまで腰元まで長かった髪をバッサリと短くしていたんです」
「……うるさい! 言うなっ!」

 突然公園内に響いた怒号に、少し離れたところで遊んでいた親子がそそくさと帰り支度を進める。
 よかった。昨日みたいな予期しない被害を、これ以上起こすわけにはいかない。

「それまでの夏帆さんは、ロングヘアがとても印象的な方だったらしいですね。突然ショートヘアになったことに周囲はざわついたものの、すぐに収まった。ロングヘアに酷い執着を持っていた、あなたを除いては」
「夏帆先輩は……ロングヘアであってこそ完璧なのよ」
「……だからプレゼントしたんですか? ショートヘアになった夏帆さんには不要なはずの、お揃いのバレッタを」

 目を剥いた由香里が、自らの髪に留めた白百合のバレッタを手で覆う。
 半分賭けだったが、やはり前に目にしたバレッタは彼女が贈ったものだったらしい。

 普通バレッタというものは、ショートヘアの相手に積極的に贈るものではない。
 つまりそれは、由香里からのメッセージだったのだろう。

 何故、あんなに美しいロングヘアを捨ててしまったのですか──、と。

「琴美さんの家に手紙を投函する人物を、近所の方が目撃していました。貴女の写真を見せたところ、間違いないと証言も得ています」

 それは以前、目黒新橋で初めて言葉を交わしたときに「うっかり撮影していた」スマホ写真だ。
 あの時も由香里の髪には、白百合のバレッタがされていた。

「誰が何に憧れるかは、当人の自由です。ですがそれは、相手に強制すべきことではないでしょう」
「あんたにはわからない! ロングヘアの夏帆先輩がどんなに美しくて、神秘的で、悪魔的だったのか!」
「はあ……まあ、表現には個々の自由がありますからね」
「私は小学生の頃から夏帆先輩を見てきたのよ! それなのにあの美容師、先輩をそそのかして、あの美しい髪にハサミを入れるなんて……!」
「落ち着いてください中村さん。それはあなたの勘違いです」
「……え?」

 沸騰しかけていた彼女の怒りが、一瞬だけ収まったのがわかった。
 さて、うまく納得していただけるだろうか。

「まず一つ目の勘違い。夏帆さんのロングヘアを今のショートにカットしたのは、美容師の西岡琴美さんではありません」
「う、そ。だって夏帆先輩、あの美容師のところに通ってるはずで」
「確かにそうでした。でも、琴美さんが夏帆さんの髪をカットしたのは、四ヶ月前が最後だそうです。そしてそのときはいつも通り、ロングヘアを整えるだけのカットだったと」
「っ、そんなの、その美容師が言ってるだけでしょう!?」
「そして二つ目の勘違い。ロングヘアをショートに切ったのは、紛うことなく夏帆さん自身の意思だったということ」
「嘘! 嘘よ! うそうそうそ!」
「……あーもーうるさいなあ。声があんまり甲高いから、遊具の中で滅茶苦茶反響するよ」
「え……? 七々扇、先輩……?」
「あ、俺のこと知っててくれてるんだ」

 公園中央にあるドーム状の遊具から顔を出した千晶に、由香里は大きく目を見張った。
 そしてすぐに、暁を睨みつける。

「家族とはいえ部外者を呼ぶなんて……随分汚いですね」
「汚い?」

 真っ先に反応したのは、千晶のほうだった。

「少なくとも、自分の勘違いから陰湿な嫌がらせをくり返してきた奴の言う台詞じゃあないよね」
「っ……そ、れは」
「千晶。手出しはしない約束でしょ。いいから、大人しくそこで待ってて」

 暁がそう窘めると、千晶は少し不服げにしつつもドーム状の遊具にもたれかかった。

「夏帆さんはね。ずっとショートヘアにしたかったの。けれど両親の意向や周りの期待から、『自分=ロングヘア』の図式をどうしても裏切ることができなかった」
「夏帆先輩が……?」
「その気持ちが抑えられなくなった夏帆さんは、自分で髪にハサミを入れた。ちなみにその後毛先を整えたのは別の第三者。つまり、今回あなたが琴美さんを狙ったことは、全くの的外れだったというわけです」

「ご理解いただけましたか」全ての説明を終え、暁はふうと息を吐いた。
 事情を全て飲み込めば、収まる感情もある。この女の感情はどちらだろうか。

「どうして、なの」
「は?」
「どうしてっ、今さら夏帆先輩はショートにだなんて」
「いやだから、それは完全に個人の自由では」
「あんたのせいでしょ!」

 そう指を指されたのは暁ではなく、千晶だった。

「は? 俺?」
「あんたと夏帆先輩、最近やけに仲がいいものね! あんたが夏帆先輩を誘惑して、ショートがいいってすり込んだんでしょ!?」


(18)

「……うわあ。あんた、誇大妄想が過ぎるんじゃない」
「中村さん、ちょっと落ち着きましょう」
「やめて! 触るな!」

 ああ駄目だ。どうやら事情を飲み込んで収まるものではなかったらしい。

 たくましい想像力で現実を見失った彼女は、ぎりぎりと歯を食いしばり鋭い視線でこちらを見据えた。
 そんな由香里を前に、千晶は面倒くさそうに頭を掻く。「あのさあ」

「あんたのそういう期待とか押しつけ。それがあいつの負担になってたとは思わないわけ」

 由香里の目が、大きく見開かれた。

「周囲の期待に添う自分でいなければ。そうでなければならない。そう思い込んでたってあいつ言ってたよ。いざ髪を切ったら、すごく胸がすっきりしたとも」
「でも! 夏帆先輩、最近様子がおかしかったわ! 何か苦しそうにしてた!」
「それはまったく別の話。それこそ、あんたには関係ない」

 どんどん氷点下になっていく千晶の口調に、暁までもが薄ら寒い心地になっていく。
 いつもの愛想の良さも相まって、今の甥は純粋な残酷さに満ちていた。

「今あんたがすべきことは、自分の過ちを認めて素直に謝罪することだ。馬鹿な勘違いから精神的苦痛を与えた美容師の人にも、とばっちりで怪我をさせたアキちゃんにもね」
「っ……知らない。怪我なんてさせてない。私は、知らない知らない!」

 まあ、そう言うだろうとは予想していた。

 昨夜ハサミで切りつけられた出来事は、端から見れば別件だ。
 嫌がらせの犯人と切りつけた犯人が同一人物という証拠はどこにもない。

 暁としては、琴美への贖罪の気持ちだけ示されればそれでいいと思っていたのだが。

「あんたさ、昨日の夜この人に襲いかかる前に、小さい子どもにぶつかっただろ」
「え」
「その子ども、盆に豆腐を乗せてたんだけど。ぶつかった弾みで、その豆腐が犯人の左手にかかったんだって」

 確かに、そんな話を暁も同席した事務所内で聞いていた。
 でも、その事実を持って甥は一体何を言おうというのだろう。

「だから、なに? 仮に私が犯人だとして、左手にいつまでもその豆腐が残っているとでも?」
「実はその豆腐、普通の豆腐じゃないんだ。あやかしが作った、曰く付きの豆腐」
「……はあ?」

 あやかし、という言葉に、由香里はあからさまに怪訝な表情を作る。
 そんな彼女に、千晶はふっと笑みを浮かべた。

「『豆腐小僧』って知ってる? 江戸後期に現れたとされる妖怪。盆に載せた豆腐を持っている少年の妖怪で、基本的に気弱で優しい性格。実害は殆どない」
「いきなり何の話ですか。オカルト?」
「ただ、一つ語り継がれてることがある。この妖怪が持つ豆腐は、妙な力が宿っていてね」

 豆腐に触れた人物が嘘を吐くと、触れた場所からカビが生える──。

「えっ……、きゃあ!?」

 まるで、千晶の言葉に共鳴したかのようだった。

 由香里の左手が徐々に緑色に染まる。
 見間違いかと思ったが、みるみる顔を強張らせる由香里にその正体がわかった。

 カビだ。
 それは、昨日の切りつけ犯が由香里だという、無言の叫びだった。

「カビの手入れは最初が肝心でね。あまりいたずらに嘘を重ねると、どんどんカビが濃くなり、二度と元には戻らない。まるでピノキオの鼻みたいだね」
「あ、あ、や、うそ……!」
「怖がる必要はない。ただ、嘘を吐かなければいいだけだよ」

 かきむしるように手を払う由香里をあざ笑うかのように、左手は何度でも緑に染まる。
 その光景をしばらく眺めたあと、千晶は再び笑みを向けた。

「さてと。それじゃ、最終確認だ」

 人を断罪する、情け容赦のない笑顔だった。

「驚くほど馬鹿な勘違いのせいで、あんたは一体何をしでかしたの?」



「──ということで、以上がこちらの調査結果です。加害女性の処遇については、被害者である琴美さんの意向に添えればと思っています。必要があれば、私も警察での証言に立ち会います」
「いいえ。この方がちゃんとわかってくださったのなら、もう結構です」

 数日後。
 依頼主の琴美を事務所に迎えた暁は、事の顛末を伝えた。

 報告書の中に「槙野夏帆」の名を入れるか否かが随分と迷ったが、曖昧さ回避のために入れることに決めた。
 曖昧さを少しでも含めば、依頼主の心からの安堵を引き出すのは難しい。

 その名を見た琴美は、当然ながら酷く驚いた様子だった。

「犯人が夏帆ちゃんのファンの子だったなんて驚きでしたが……、夏帆ちゃんは、そのくらい魅力的な子ですからね」

 努めて明るく振る舞う琴美に、暁は苦虫を噛み潰したような心地になる。

 夏帆のファンがしでかした事実を報告するには、夏帆が自ら髪を切ったことも報告する必要がある。
 その事実を口にした瞬間、琴美の瞳がかすかに揺れたことに気づかないわけにはいかなかった。

「でももっと驚いたのが、尾けられている気配がしていた件と他の件が、別人によるものだったことです。自意識過剰でしたね、恥ずかしいです」
「そうとも言い切れませんよ。当の本人も、琴美さんのことを特に憧れの美容師として、熱い眼差しを向けていたみたいですから」

 琴美の顔に、わずかに本物の明るさが戻る。
 視線の先には、膝の上で開かれた一通の手紙があった。

 二ヶ月前から琴美が感じていた妙な視線の正体。
 それは中村由香里ではなく、カミキリ少女の視線だった。
 その直後に、タイミング悪く由香里の嫌がらせが始まったこともあり、同一人物によるものだと錯覚してしまったのだ。

 その事実を伝えると、ショックを受けたカミキリ少女は直接謝罪したいと申し出た。
 しかし彼女はあやかしだ。手元のハサミをどうするのかという問題もある。

 そこで考えた結果、お詫びの気持ちをしたためた手紙を手渡すことにしたのだ。
 ちらりと垣間見た文字はやはり、どこか拙く不安定だ。それでも、今まで抱いていた尊敬の念を余すことなく綴ったのだろう。
 受け止めなければならないことの多い琴美の心を、そっと温めたに違いなかった。

「本当にありがとうございました。お陰さまで平穏な生活に戻ることができそうです。これもみんな、七々扇さんのお陰です」
「いいえ。もしもまた何か困りごとがありましたら、いつでもご連絡くださいね」
「ふふ、そうさせてもらいます。それじゃあ、私はこれで」


(19)

「あ、すみません。ご迷惑でなければもう少しだけ──」
「アキちゃん、ただいまっ」

 そのとき、事務所の戸が開く音とともにはっと息をのむ音が届いた。

「え、琴美さん……!?」
「夏帆ちゃん!」

 千晶に背中を押されて現れた夏帆の姿に、琴美はソファーから腰を浮かせた。
 四ヶ月ぶりの対面だ。驚愕の表情を浮かべた二人だったが、しばらくすると琴美の口が開く。「……あーあ」

「やっぱり悔しいなあ。勝手だけど、夏帆ちゃんの髪を切るのは私だって、妙な自負があったから」
「っ、琴美さん……、本当に本当にすみませ……」
「すごく似合ってるよ、ショートヘア」

 謝罪の言葉に覆い被せるように発せられた言葉に、夏帆は目を見張った。

「あんまり綺麗な髪だから、私、そのヘアスタイルを維持することばかり考えていたんだね。もっと夏帆ちゃんの本当の要望を聞けば良かった。美容師失格だね」
「そんなことありません! 私、琴美さんには本当に感謝していて、琴美さんとの時間がとても嬉しくて……」

 本当は、ずっと、琴美さんに会いたかった……。

「夏帆ちゃん」

 顔を歪めた夏帆は、ぱっと床に視線を落とす。
 そんな夏帆の頭を、琴美は優しく撫でた。身長は夏帆の方が遥かに高いが、そこには年上の温かな包容力があった。

「こんな未熟な私で良かったら、是非また美容室に来てね。今よりももっと夏帆ちゃんに似合うショートヘアに仕上げてみせるから」

 顔を伏せたまま、夏帆が何度も頷く。
 その夏帆の姿は、いつもの大人びた女性ではなく一人の女子高生だった。扉にもたれて成り行きを見守る千晶と目が合い、そっと目を細める。

 彼女は、確かに恋をしていた。

 可愛らしい雰囲気で笑顔が少し幼い。仕事に強い信念を持った──素敵な大人の女性に。

「もう顔を見せられない」という、以前聞き及んだ言葉が現実にならなかったことに、暁は心から安堵した。
 願わくば、「どうしても気持ちを伝えられない」という言葉もまた、現実になりませんように。



「へえ。それじゃ、槙野の髪を整えたのは、あのカミキリだったんだ」

 その日の夜。
 食卓を囲んでいる中で千晶が眉を上げた。

「カミキリちゃんに聞いたの。三ヶ月前に、河原で自分の髪をバラバラに切っている女子高生を見つけたこと。見るからに訳ありだったしそのままの髪じゃ何処にも行けそうにない彼女に了承を得て、今のショートヘアに整えてあげたんだって」

 最初にカミキリ少女は言っていた。人に望まれることなく、髪を切り落とすことはしない──と。
 つまり、人から「望まれれば」切る機会もあったのではないか。
 そう考えて投げかけた質問が、今回思わぬ形で真相に近づく手助けとなった。

 とはいえ、まさか当の女子高生が憧れの美容師のお得意様だったとは、カミキリ少女も夢にも思わなかったに違いない。

「どうりで。自分で切ったにしては整いすぎてると思ってたんだよね」

 私は自分で切ってるけどね、と暁は胸の中で独りごちる。

 今まではそんな頓着も気にならなかったが、今の暁は甥の身元引受人だ。
 身だしなみを整えるためにも、今度カミキリ少女に髪を整えてもらおうか。考え巡らせるうちに、あることを思い出す。

「そういえば、あれから文献に当たってみたんだけど」
「うん? 文献?」
「豆腐小僧の豆腐に触れたあと、嘘を吐くとカビが生える……だっけ? それって本物の豆腐小僧から直接教わった知識なの? 書籍には、そんな記述どこにもなかったんだけど」
「あー。あれはね、ハッタリ」
「ハッタリ!?」

 悪びれることなく白状した甥っ子に、暁は声を裏返した。

「ハッタリって、え。つまりあれは口から出任せってこと?」
「うん。そうなるかな」
「おい。飯時にカビの話をするな。飯がまずくなる」

 千晶の隣でパンケーキを頬張る烏丸に構わず、暁は追求を続けた。
 説明によれば、小太郎から切りつけ犯に豆腐がかかったことを耳にし、手っ取り早く小芝居を打ったのだという。

「お陰で簡単に事実確認ができたし。終わりよければすべてよし、でしょ」
「そ、それじゃあ、実際彼女の左手に生えてきた緑色のあれは……」
「あれは正真正銘のカビだよ。幻だけどね。烏丸に頼んで、頃合いを見て幻術を使ってもらったんだ」
「いい加減にしろ。カビの話ならあとでやれ」
「いや、カビを生やした本人が何を言ってるの!?」

 常識人の顔をした烏丸も、どうやら一枚噛んでいたらしい。
 自身のあずかり知らぬところで起こっていた、色んな意味ですれすれの計画。たまらず暁は眉間を揉んだ。

「だって仕方ないでしょ。あの女、アキちゃんに手を出したんだから」
「はい?」
「あの美容師の人のことだけなら、ここまで首を突っ込むつもりはなかったけれど。自分の持ち物に手を出されるのは、我慢できない質だから」
「……」

 とてもいい笑顔で告げられた言葉に、暁は目を瞬かせるほかなかった。
 自分はいつから、甥っ子の持ち物になったのだろう。

「それに、あの場への同行はきちんと話し合って決めたことでしょ。アキちゃんがこの手の怪我を隠したことに対するお詫びに、さ」

 暁の手のひらにまだ残る絆創膏を、千晶が指さす。
 この怪我が完治するまでは、甥には頭が上がる気がしない。

「それはそうだけど。でももう、あんな無茶しちゃ駄目だよ」
「断言できない。この怪我だって、実は今もまだ痛むんじゃないの」
「っ、ひゃ」

 食卓を囲む時間が、ピタリと止まった。

 ばっと負傷した手を口元に当て、思わずぱっと視線を逸らす。
 傷部分を軽く撫でられただけだ。それなのにこんな変な声を出してしまうなんて。
 じわじわと頬に集まる熱を、どうにかして周囲に払う。

「ご、ごめん。びっくりして私、なんか変な声を」
「びっくりして、か。本当にそれだけ?」
「ちょ、千晶、何するの……!」

 嫌な予感が的中した。

 新しいおもちゃでも見つけたような甥の手が、再び暁の手を捕らえようと動く。
 咄嗟に暁が席を立とうと腰を浮かせた。

「あ」
「え」
「やめろ」

 低く重い響きとともに、暁の視界が黒の着物に覆われた。
 いつの間にか暁の隣に立った烏丸が、差し出された千晶の手を取り動きを封じている。

「え、と。烏丸……?」
「へえ。意外と紳士なんだ。長いことつるんできたけど、初めて知った」
「知るか。夕食くらい静かに食べさせろ。騒々しい」

 烏丸の肩越しに見える千晶の表情が、わずかに鋭さを帯びる。
 相変わらずこの二人、仲がいいのか悪いのかわからない。

 何やらさらに妙な空気になったのを肌で感じながら、暁はひとまず無事に元の席に腰を下ろした。

「そういえば、ずっと不思議だったことの答えが出たんだ」
「不思議だったこと?」
「ん。どうして面倒ごとが御免なはずの自分が、わざわざ槙野の悩みを聞こうと思ったのか」

 二人で仲良く下校していた、あの時のことか。
 そういえばあの時も烏丸に指摘され、千晶自身も腑に落ちないように首を傾げていた。

「多分、アキちゃんを側で見てたからだよ。だから俺も、誰かのためになれたらって思えたんだと思う」
「……」

 千晶にとっては、なんでもない会話の一つだったのだろう。
 しかしながら淀みなく告げられた言葉は、暁の胸をじんと痺れさせた。

 誰かのためになれたら。それはずっとずっと、自分自身に求めてきたことだったから。

 もしかしたらほんの少しだけでも、憧れの存在に近づけているのだろうか。
 いつの間にかまた何かを言い合っている二人を眺めながら、暁は小さく口元に笑みを浮かべた。



(1)

 今年の東京の夏は、蒸し鍋に入れられてるのかと錯覚を起こすほどに暑い。

「ごめんなさいねえ、こんな暑い日に」
「いいえ。大丈夫ですよ。危ないので、少し下がっていてくださいね」

 脚立の上から声をかけると、暁は額の汗を拭って作業に入った。

 部屋の一角にある天板をよいしょと外すと、かすかにほこりの匂いが届く。
 持ち上げた板を横にずらし、そっと穴に頭を突っ込んだ。
 額に取り付けたヘッドライトのスイッチを入れると、暗がりだった空間がぱっと明るくなった。

「……」
「どうかしらね? やっぱりヤモリか何かがいるのかしら?」
「……ああ、そうみたいですね。作業に少し時間がかかると思いますので、別室でお待ちいただけますか。終わり次第声をお掛けしますので」

 あらかじめ用意していた言葉を告げると、谷中のおばあちゃんは柔和な笑顔で頷いた。

 扉が閉じたのを確認したあと、暁は再び薄暗い屋根裏に顔を突っ込む。
 ここ最近、天井裏から何やら小さな物音をが聞こえる。
 久しぶりに電話を受けた谷中のおばあちゃんからの話に、暁はふと思い当たることがあった。

「さてと。お話は聞いていたよね、『家鳴(やなり)』さんたち?」

 努めて優しく囁いた暁に、天井裏に潜んでいた生き物がばっとこちらを振り向いた。
 やばいな。最近ますますあやかしの勘が磨かれてきている。

 家鳴は「鳴家」「鳴屋」とも記され、家の軒下や縁の下に住まう妖怪だ。
 家のあちこちでみしみしと音を立てるいたずら者で、姿形は小鬼。
 暁の目の前にいる者は、こぶし大のサイズといったところか。

「ついつい住み着いちゃうのはわかるよ。私もこの家に来るのは好きだから。でもね、ここのおばあちゃん、君たちの立てる音に最近なかなか寝付けないでいるの」
「……」
「そうだな、君たちが物音以外の悪さをしないと約束できるなら、しばらくうちにおいで。高校生の甥っ子と無愛想なカラスのあやかしがいるけれど、物音には頓着しないだろうから」
「……いいのカ?」「我々が行ってモ?」「カラス、我らを食べないカ?」

 おっと。一匹かと思っていたが、奥に重なって実は三匹だったようだ。
 ぴょんぴょんと飛び回るようにして、家鳴三兄弟が嬉しそうに問いかけてくる。動くたびに、やはり音がキシキシ鳴っていた。

「大丈夫。烏丸は君たちを食べたりしないから。他にいいねぐらを見つけるまで、うちにおいで。それでもいい?」
「いイ!」「いイ!」「いいゾ!」

 交渉成立だ。

 鞄からあらかじめ用意していた大きめの虫取りかごに、ひとまず移動してもらう。
 友好の証しとして中にクッキーをひとつ差し出すと、小鬼たちはすぐさまそれにかぶりついた。

 軒下に他になにもいないことを確認した暁は、脚立をゆっくり降りていく。

「やはり家鳴の小鬼らだったか」
「っ、とと!」

 最後の一段を危うく踏み外しそうになる。
 なんとか体勢を立て直した暁の足元には、優雅に毛繕いをする三毛猫──クルミの姿があった。

「クルミさん。もう、びっくりさせないでくださいよ」
「猫は基本的に爪音以外は静かに動くものだ。そこの不躾な小鬼らと違ってな」

 どうやら、ご主人の悩みの元凶だった家鳴の小鬼たちに多少の恨みがあるらしい。
 クルミが虫取りかごをじろりと睨みつけると、小鬼らはひゃっと入れ物の奥に身を隠した。
 軒下に続く通路さえあれば、暁より先にクルミが解決していたかもしれない。物理的に。

 谷中のおばあちゃんの家で飼われているこの猫は、化け猫だ。
 千晶が家に転がり込んできてすぐに対話したあやかしで、長寿ということもありその佇まいも荘厳なものを感じる。
 正体を知って以来、暁は自然とこの猫に敬語を使っていた。

「お主の家に引き取るのか。家鳴はその音以外はほとんど実害はない。だが一方で、災いの前兆ともされている者らだぞ」
「だからといって、ただ住み処を奪うだけなんてできませんので。迷惑にならない転居先を探して、そちらに案内するつもりです」
「……まあ、さして問題にはならぬか。我と同様、お主の家には強力な用心棒がいるようだからな」
「? それは……烏丸のことですか?」

 問いかけにクルミはゆったりと頷いた。

「今はお主の甥を住み処に、悠々自適に過ごしてる様子だがな。随分と丸くなったものよ」
「もしかしてクルミさん、烏丸とお知り合いで?」
「顔を合わせたことはない。齢を重ねている者で彼奴のことを知らぬ妖怪は、そうはおらぬ」

 それは暁にとって意外な事実だった。
 千晶だけでなく、どうやら烏丸もあやかし界隈で著名な存在だったらしい。


あやかし憑き男子高生の身元引受人になりました

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