玄関を開ければ、部屋は暗かった。ただいま、と小さく呟いてリビングの電気をつける。部屋は寒くて、寝室に里紗がいる気配もなかった。まだ帰ってきていないのだろうか。買ってきたショートケーキを冷蔵庫に入れる。里紗へのお詫びの品だ。彼女はイチゴがとても好きで、ケーキはショートケーキ一択だ。モンブランは邪道、とかなんとか言いながらも俺が食べていると決まって一口をねだってくる。そんなことも不意に思い出してしまって、一人で笑ってしまった。

スーツを脱いで、ため息とともにソファに座り込む。机の上にはラップされたハンバーグが置いてあって、ご飯は炊飯器で保温されたままになっていた。罪悪感に胸が押しつぶされそうで、慌てて冷蔵庫からビールを取り出した。強がりな里紗を、強がらせてしまっているのはいつも俺だ。

何となく里紗が帰ってきたからご飯を食べたくて、缶ビールをちびちび流しながら彼女の帰宅を待っていた。けれど一向に帰ってくる気配はない。スマホに連絡も入っていなくて、こんな事はとても珍しい。職場の後輩とご飯を食べに行ってくるとメールが入っていたけど、場所を聞いておくんだった。

心配な気持ちがピークに達していたころ、玄関のチャイムが鳴る。慌ててドアを開ければ、そこには珍しく泥酔している里紗と、そんな彼女の肩を支える女性の姿があった。その顔には見覚えがあって、ああそうだ、この前里紗といる時にバッタリあったんだ。彼女がよく楽しそうに話す、カワイイに貪欲な後輩だ。

「ごめん遅いのに、ありがとう。」

立ったまま眠っている里紗を引き取ってから、彼女にそう言ってタクシー代を手渡す。里紗ほどではないがお酒が回っているように見えて、けれど大丈夫です、とお金を受け取らずに立ち去ろうとした。慌てて靴を履いて追いかけようとするが、ドアを閉める前に彼女はくるっと振り向いて、何故か俺を睨みつける。

「・・・ええっと?」
「元カノがそんなに忘れられないですか。」
「・・・何の話?」
「しらばっくれても無駄ですからね。里紗さんも気づいてますから。」

真っ赤な顔でそう言いだした彼女に、俺の頭の上には3つくらいハテナマークが浮かんでいた事だろう。とぼけていると思ったのか、三奈ちゃんは眉間のシワを更に深くする。

「元カノと電話する用事なんてあるんですか?それって浮気以外に何の用事ですか?」
「・・・!あれは違くて・・・」
「その言い訳、私じゃなくて里紗さんにしてください。」

俺の言葉を遮ってそう言った彼女は、急に表情を変えた。そして、里紗さんは、と少しこぶしを握り締める。

「・・・・・・里紗さんは強いオンナです。かっこいいし、優しいし、三奈の憧れです。」
「はあ。」
「でも、駄目なんですよ。」
「えーっと、何が?」

何故だか泣きだしそうな顔をして、でも彼女は俺を睨みつける。潤んだ瞳で、真っすぐに。

「駄目ですよ、自分で強いって言わせちゃ。それはただの、呪いになってしまうから。」

彼女の真っすぐな視線に、その言葉に、一瞬呼吸の仕方を忘れてしまった。そのまま彼女はフラフラと歩き出すから、慌ててタクシーを呼ぶ。お金は今度里紗を通して渡してもらおう。

マフラーとコートだけ脱がせて、里紗をベットへと寝かせる。洗面所から彼女のクレンジングシートをとってきて、優しく顔を拭いた。里紗は化粧をしたまま寝てしまう事が何よりも許せないようで、朝起きていつも自己嫌悪に陥る。そんなに?というくらい不服そうな顔で悲しそうに洗顔をするのだが、それすら愛おしく感じてしまっている自分がいる。こんなこと言ったらきっと怒られるけど。

「・・・こうへい?」
「ん。」

一瞬だけ目を開けた里紗は辺りをキョロキョロと見まわして、俺を見つけて安心したように頬を緩めた。彼女の頬を触る、熱い。不意に里紗が俺の腕を掴んだ。両腕を巻き付けて、まるでしがみつくように。

「こうへい。」
「ん?」
「どこにも、どこにも行かないで。」


聞いたことの無い、あまりにも弱弱しい声だった。そもそも里紗がこんなに酔っぱらう事なんて無くて、こんな事を言う事なんて無くて、「駄目ですよ、自分で強いって言わせちゃ。それはただの、呪いになってしまうから。」さっきのその言葉が頭に浮かんだ。どうしようも出来なくて、里紗の事を抱きしめた。強く強く、このまま彼女を潰してしまいたいと思うくらい、他の誰にも触れられないように腕の中に閉じ込めてしまいたいと願うくらい、抱きしめた。




目覚めは最悪だった。

目を開けて自分がどこにいるのかわ分からず、再度目を閉じる。ズキズキと痛む頭で、昨日の事を思い出していた。昨日は浩平とご飯を食べる予定で、でも結局帰りが遅くなっちゃって、そうだ、三奈ちゃんと飲みに行ったんだ。おすすめの居酒屋さんで飲んで、三奈ちゃんいきつけのバーに行って、それから、えーと、それから。

枕元の時計は昼の12時過ぎをさしていた。今日は土曜日だから時間は問題ない。服はやっぱり昨日の服のままで、ああ、でもメイクは落ちている。きっと浩平がやってくれたんだろう。いてて、とこめかみを抑えながらゆっくりと起き上がる。隣に浩平の姿は無くて、リビングにいるのだろうか。それともまた、仕事、だろうか。

ゆっくりとリビングの扉を開ければ、味噌汁のいい匂いがした。机の上には味噌汁と、小さなおにぎりが握ってある。ソファに座ってテレビを見ていた浩平は、私に気づいておはよう、と机を指さした。

「食べれる?」
「食べる、ありがとう。」

味噌汁の匂いにお腹がきゅるるると音を立てる。飲み過ぎた次の日の朝は決まってお腹が空いてしまう。浩平には考えられないと言われたけど、意外とそう言う人って多いんじゃないかと思ってる、勝手にね。

先にシャワーを浴びようか迷って、でもせっかく作ってくれたんだから温かいうちに食べようと、顔だけ洗って椅子に座った。

一口、味噌汁を啜る。うーん、美味しい。二日酔いの体に染みわたる。浩平に向けてグッと親指を立てれば、彼は満足そうにうなずいた。ご飯を食べて、シャワーを浴びて、時刻はもう14時を回っていた。今日は雲一つないような青空で、そんな日の光を部屋の中で浴びるだけでまだ頭がズキズキと痛む。情けないけれどもうひと眠りさせてもらう事にした。ベッドに腰かける私の隣に、浩平も、ゆっくりと腰かける。

「里紗。」
「ん?」
「ごめん、昨日、俺が言い出したのに。」
「いいよ全然。気にしないで。」

ハンバーグ美味しかった、と浩平が言ってくれる。昨日は味見もせずに彼の分だけ用意してしまったから、心の中で安堵した。そうか、タネもまだたくさん残っている。今日中に焼いて冷凍しないと。そんなことをボーッと考えていた私の思考が、止まる。

「俺、浮気なんてしてないよ。」
「・・・・・何も聞いてないじゃん。」

逡巡ののちに絞り出した声は掠れていた。別に聞いてない。聞きたくもない。ていうかなんで急に?ああ、三奈ちゃんかな。もう、余計なこと言ってくれちゃって。頭の中では軽快に口が回っているけど、実際は俯いて固く手を握り締めている。

「穂乃果とは本当に何もなくて。電話をかけてきたのは・・・。」
「だから、何も聞いてないじゃん。」

途中で浩平の言葉を遮った。思っていたよりも大きな声が出てしまって、浩平が少し驚いたように息をのんだのが分かった。何も、聞いてないじゃん。もう一度そう繰り返した声は今度はあまりにも小さかった。心臓が痛い、苦しい。これも二日酔いだ。絶対そうだ。

「・・・里紗?聞いて?」
「聞きたくないよ。聞く事も無いし。」
「おいどうしたの、」
「どうもしてないってば。」

聞きたくなかった、何もかも。だって聞いたら?もし本当に、彼が。彼がそういう事をしていて、もう私とは一緒に居られないと、そう言われてしまったら?下手くそな嘘をつかれて、それを下手くそに信じて、そうやってでしか、一緒に居られなくなってしまったら?

「・・・ちょっと待って。」
「離して。」

何も聞きたくなくてたちあがった私の腕を浩平が掴む。いまだ二日酔いでフラフラな私は情けない事にそのままバランスを崩して元通りベッドに座ってしまう。浩平はベットから下りて、私の前に目線を合わせてかがんだ。

「話したくない?」
「・・・。」
「・・・・・・分かった。」

子供みたいなことをしてしまっているのは分かっている。でも自分ではどうしようも出来なかった。今一言でも言葉を発したら泣いてしまいそうで、俯いて唇を噛むしかできなかった。

立ち上がった浩平は、上着を掴む。

「里紗、まだ具合悪いでしょ。俺が外出るから寝てな。」
「・・・・・・。」
「また落ち着いたら連絡して。いつでもいいよ。」

俯いたままの私の頭をポンっと撫でて、浩平はそう言い残して部屋を出て行く。ガチャン、と音がした瞬間、涙が溢れた。ああもう、彼はこんなにも優しいのに。私はどうして優しくなれないんだろう。素直になれないんだろう。こんなにも卑屈で情けないんだろう。

頭まで布団をかぶって泣いた。苦しくて苦しくて、このまま死んでしまいたいと思った。そのうち本当に息が苦しくなって、結局耐え切れず頭を出してしまった。布団にくるまって、一生懸命自分を正当化した。気づけば泣いたまま眠ってしまっていて、時計を見れば20分ほど経過していた。目が腫れているのを感じながら、ボーッと天井を眺める。何もしたくないけど、何もしないでいるのも苦しかった。このままじゃ何も変わらないと、髪をぐしゃぐしゃとしてとりあえずキッチンに立つ。冷蔵庫を覗いて、昨日買ったばかりの袋入りのりんごを見つけた。浩平が好きだから、昨日食後に出そうと思ったのだ。無心で何か作業をしたくて皮をむく。するすると皮をむきながら、そういえばいつから当たり前のように包丁を握るようになったのだろうか、と思い返し始めた。今は暇なときにお菓子作りをしたり、料理本を読んでみたり、楽しいと思いながら料理をしているけれど、浩平と付き合う前は料理なんて全然しなかった。渦を巻く皮の先っぽを人差し指でつまんで、ゆらゆらと揺らす。そうだ、きっかけは、りんごだ。浩平が一番好きな果物。風邪を引いた時も、辛い事があって食欲がない時も、浩平はりんごなら口にした。最初は4等分にしてからじゃないと皮が剥けなかったけど、気づけば丸ごと剥けるようになっていて、嬉しくなって彼に見せれば顔をクシャクシャにして私の頭を撫でた。小さい子を褒めるようだったからなんだか悔しくて拗ねてしまった事も覚えている。

そんなことを思い出していれば4個入りのりんごをすべて切り終えていて、どうしようかと両手を腰に当てた。彼はりんごが好きだけど、りんごのコンポートは嫌いだ。だからアップルパイも食べれない。でも剥いちゃったしな、そうだ、すりおろしてパウンドケーキを作ろう。すりおろしたりんごとつぶしたバナナでつくるパウンドケーキは、浩平のお気に入りだ。

ゴソゴソと調味料棚を漁る。おそらく普通の家よりも充実しているであろう調味料は、浩平のこだわりだ。彼は香辛料が好きで、よく見たこともない香辛料を持って帰ってきては、嬉しそうに説明をしてくれる。私は辛い物が得意ではなくて、でも彼が食べているのをみるとどうしても食べたくなってしまうのだ。一口をねだっては辛いと騒ぎ、そんな私に呆れながらも彼はいつだって牛乳を用意してくれる。

パウンドケーキを焼いている間、まだ手を動かしたくて今度はジャガイモの皮を剥き始めた。昨日のマッシュポテトを作っても、まだ余ってしまっていた。私はジャガイモの皮を包丁でしか剥けなくて、それはピーラーで指を切ってしまった苦い記憶があるからだ。浩平と付き合ったばかりの時、カレーを作ると意気込んだはいいもののゴツゴツしているジャガイモを上手く扱えなくて、手を滑らせて怪我をしてしまった。割とザックリいってしまったけれど恥ずかしさと情けなさで言い出せなかった私は、少ししてその怪我に気づいた浩平をとても慌てさせてしまった。消毒をして絆創膏を貼ってくれ、結局その日は浩平がカレーを作ってくれた。落ち込んでしまった私に、彼は言うのだ。「里紗が作ったカレーを初めて食べられる楽しみがまだ残ってんの、嬉しい。」なーんて。恥ずかしげもなく、言うのだ。

気付けば、ポロポロと涙がこぼれていた。

どうしようもなく、私の頭は浩平の事でいっぱいだった。ううん、頭だけじゃない、心も、思い出も、何もかもが全てが浩平と結びついていて、私という人間をを構成していた。涙でぼやける視界のまま、包丁を動かし続ける。こら、猫の手。料理を始めたばかりの私に、集中するとどうしても左手の指が伸びて力が入ってしまう私に、浩平はいつも笑ってそう言った。そうだ、いつだって隣に立ってくれて、お世辞にも美味しいと言えない料理も一緒に食べてくれた。おいしい、そう言って笑って、私の頭を撫でてくれた。

私は、なんて失礼なんだろう。勝手に彼の事を決めつけて、勝手に諦めた。事実を知ろうとしないまま、そういう事をするヒト、だというレッテルを張った。穂乃果さんからの着信を見た時に、ああ、ついにきたか、と思ってしまったのだ。こんな日が来るのは自分のせいだと、仕方のない事だと私に責める資格なんてないと、だから、諦めなければいけないと。勝手に思ってしまっていた。こんなに近くにいたのに、浩平がどんな人なのか、知っているはずなのに。自分が傷つきたくないから、彼の事を傷つけた。なんて失礼なんだ、こんなの、こんなの最低だ。どれだけ浩平が私の事を大切にしてくれているのか一番知っているはずなのに。不意に指先に鋭い痛みが走って、自分が包丁で指を切ってしまった事に気づく。涙で視界不良のせいだ、くそう。浅い傷だったけど、少しだけ血が滲んだ。水道で洗い流して、消毒をして絆創膏を貼る。そんなことひとりでも出来る、出来るけど、ひとりじゃいやだ。

ガチャン、と玄関が開く音がした。驚いて顔をあげれば、足音がして入ってきたのはコンビニのビニール袋を持った浩平だった。予定よりも早い帰宅に頭の処理が追い付かなくてボーッと彼を見つめてしまえば、彼も数秒私を見つめて、そして焦ったように駆け寄ってくる。私の手を取って、水で流して、救急箱から消毒液と絆創膏を持ってきてくれた。私をソファに座らせてから、器用に私の指に絆創膏を巻き付けて、そして、控え目に私の顔を覗き込む。彼が口を開く前に、手で彼の口をふさいだ。私が、まず私がきちんと話さなければいけない。

「浩平、ごめんなさい。」

浩平は少し目を開いて、私の顔を見た。ソファに座った私と目線が合うように屈んでくれている彼と同じように私もソファから下りて、膝立ちで彼と目線を合わせる。

「仕方ないと思ったの。もし浩平にそういう関係の人がいたとしても、原因は絶対に私だから。大きすぎる心当たりがあるから、責める資格なんてないと思ったから。」

悲しそうに浩平の顔が歪む。私は、浩平が浮気をしていると、自分の中で勝手に決めつけてしまった。そんな器用な人でない事はよく知っているはずなのに。私は彼を信じられなかった、信じなかった。

「本当は浩平にちゃんと聞いて、話さなきゃいけなかったのに、私はそれをしなかった。浩平の話を聞こうとしなかった、自分が傷つくのが怖くて、浩平を傷つけた。」

面と向かって話されるのが怖かった。もう要らないと言われてしまったら?愛想をつかされてしまったら?私は浩平の彼女だけど、でも、性別が女性なだけだ。自分で自分が認められなくて、自身が無くて、卑屈になってしまった。そこにあるのは自分の事や自分の価値観だけで、浩平の事、浩平がくれた言葉たちがはじかれてしまっていた。そんなことにも、私は気づけなかった。

もう、難しい事はどうでもいい。自分の卑屈さも、保身も、全部いらない。
私は、私は。

「私は、私が浩平の事が好きだから一緒にいたい。浩平の事が大切だから、うざいくらいに大切だと伝えたい。私は、私が浩平といて幸せだから、一緒にいたい。」

だから、お願い。

「浩平も浩平が幸せでいるために、私と一緒にいて。」

言い終える前に、視界が暗くなった。彼の腕に包まれたからだ。小さな子供の様にしがみつく私の頭を、彼が優しく撫でる。

「家出てコンビニに寄って、里紗が好きなプリン見つけて、早く買って帰りたいと思っちゃった。」
「・・・うん。」
「もういちごの季節じゃん。里紗いちご好きだけど、でもたくさん食べるとお腹くだしちゃうから、一パックだけ買ってこうかなって。あると里紗全部食べちゃうでしょ。」
「・・・うん。」
「そうだティッシュもきれそうだったから買わないとって。柔らかいやつね。里紗鼻炎持ちなのにいーっつも普通のティッシュで鼻かむからすぐ赤くなっちゃうじゃん、けど、自分では絶対に買わないじゃん。だから俺が買っといてあげないとって。」
「・・・意識したことなかった。」

だろうな、と浩平が笑う気配がする。

「いつだって俺の頭の中はそんなことばっかだよ。里紗の事ばっかりで、他のものが入り込む余裕なんてない。情けないくらいに。」

里紗、と浩平が私の名前を呼ぶ。そうだ、彼に名前を呼ばれるととても安心するんだ。私がここにいる事が心底嬉しいような顔で、私が笑っていても泣いていても怒っていても拗ねていても何度だって名前を呼んでくれるから。ああ、なんて私は、幸せなのか。