「穂乃果の、おばあちゃんが亡くなったんだ。」

ソファに座り直して、浩平はそう話し始めた。穂乃果さんは幼い頃から祖父母と3人で暮らしていた。母親は既になくなってしまっていて、父親とはもう何年も会っていないと。浩平から聞いたことがあった。

「おじいちゃんはボケ始めちゃってるし、穂乃果も疲れ果ててて。おばあちゃんの事も大好きだったから。」

頼る場所もなく、浩平に助けを求めてきたのだという。彼女は今1人で何かを考えることすらできなくて、電話口の声も掠れて消えてしまいそうだったと彼は話した。だから直接会う事はしない約束で、できる範囲で手続きなどを手伝った。途中で穂乃果さんのお姉さんとも連絡をとり、あとは全て彼女に託したという。

「お姉さんいたんだ。」
「そう。めーーーーーっちゃくちゃ仲悪いけどな。」

浩平も理由は詳しく知らないが少し年上のお姉さんとは絶縁状態で、祖母が亡くなったことさえ知らなかったという。最初浩平が連絡をとったときは冷たい態度だったようだが、彼が色々手配してくれたことを知り電話口で何度も謝罪したらしい。身内が迷惑をかけて申し訳ない、あとは全部こちらで引き取ると。

「仕事でもミスが重なっちゃって、でも情けなくて言えなかった。自分のミスの後始末で忙しいなんて、言いたくなかった。」

ゆっくりと彼の頬に手を伸ばす、よく見れば目の下にはクマが出来ていて、顔色も全体的に良くなかった。普段は綺麗にそってある髭も少し生伸びていて、ああ私は。彼に余裕が無いことに気づけていなかった。

脳裏に1度しか会ったことの無い穂乃果さんの横顔が浮かんだ。綺麗な人だった、でもとても寂しげな人だった。

「・・・会いに、行ってあげなくていいの?」

思わず口からそんな言葉が零れた。暗い部屋の中でひとりで膝を抱えているかもしれない。シクシクと涙を流し続けているかもしれない。夜が来ることに震えてまるまっている自分の姿と、彼女の姿が重なった。きっと寂しくて辛い。

「行ってあげなよ。後悔するかもしれないよ。」

ひとりぼっちの彼女を想像するだけで耐えられくなってしまった。私の言葉に浩平は微笑みながらゆっくりと首を振る。「大丈夫。やることはやったし、もう出来ることもない。」微笑みながら私の頭に手を置いた。優しく、優しく、確かめるみたいに、頭を撫でる。

「・・・そう言うと思ったから、里紗が。」
「え・・・?」
「会いに行ってあげなよって。優しいからそう言うと思った。そしたら俺は、会いに行かなきゃいけなくなっちゃう。穂乃果のためじゃなくて、里紗のために。里紗が色んな事をひとりで一生懸命考えてから言葉にしてる事知ってるから。そんな里紗の言葉、無下にできねえし。」

ゆっくりと手を伸ばして、浩平が私の涙をすくってくれる。でも駄目だった、すくってもすくっても涙が溢れて、ああもう、と浩平は笑いながら私をもう一度抱きしめた。俺のシャツがハンカチ替わりな、なんて言って笑って。

「でも俺は嫌だったから。全然心配じゃないって言ったら嘘になるけど、でも一人で待ってる里紗の事を考えたら苦しくて苦しくてどうにも出来なくなる。里紗が一番大切だから、行きたくなかった。・・・でもこうやって泣かせちゃったから、結局駄目だったよなあ俺は。」

私の頭を優しく撫でながら、彼は一つため息をつく。そんなことない、全然ダメなんかじゃない、駄目なのは私だ。否定の意を表したくて大きく首を振った私に、彼はありがと、と呟いた。その瞬間お腹がぐう、と鳴ってしまって2人で目を見合せて笑った。

一緒にハンバーグを焼いて食べた。剥いたジャガイモは浩平の好きなポテトフライにした。デザートには私が焼いたパウンドケーキと、浩平が昨日買ってきてくれたショートケーキと、今日買ってきてくれたプリンと。笑えてきてしまうくらいお腹がいっぱいで、もう若くない姉と二人でケラケラと笑い合った。

抱き合って布団の中で眠る。浩平が私の頭を撫でてくれている体温を感じながら、泣いてしまったせいかすぐに強い眠気が襲ってきて意識が地に落ちていく。温かくて、安心して、なんだかふわふわとしていた。

夢の中で、あの日の続きを思い出した。




ねえ、里紗ちゃん。お願い。

『私の事、殺してよ。』

真っすぐな藍の瞳に、私は思わず息をのんでしまった。そこからの事は実はあまりちゃんと覚えていなくて、でも、最初に話した時と同じだった。思考はまとまらないまま、自分でも何を言い出すか何をしだすか分からなかったけど、止めようとも思わずそのまま心に任せた。

一歩、また一歩と踏み出して、そして。

藍より一歩、崖の淵へと近づいた。

崖の下には海が広がっていて、その大きさに圧倒されてしまった。あと一歩踏み出したら、ここから落ちたら、心臓が震えた。

振り返って藍を見つめる。彼女はとても驚いた顔をしていた。笑顔は無くて、涙も止まっていた。そこにはどうしようもなく等身大の、藍がいた。

『藍が死ぬなら私も死ぬよ。』

ほら、おいで。手を差し出す。手を伸ばす。
藍が私の手を取ったら、その時は私はその手を引っ張るしかない。引っ張って、一緒に。そうするしかない。怖いけど、でも藍をひとりぼっちにしてしまう方がよっぽど怖かった。ううん、きっと本当は、自分がひとりぼっちになってしまうのが、一番怖かった。

藍、ほら、おいで。

自分の手が震えているのが分かる。でも、この手を差し出した事を後悔してはいなかった。
私の顔を見て、手を見て、藍の視線は彷徨って。そして、そして。

彼女は、その場に泣き崩れてしまった。
顔を覆って、膝をつけて、わんわんと泣き出す。

手が震えていた、足も震えていた。けれどそれでも、ゆっくりと藍に近づく、近づいて、彼女を抱きしめた。抱きしめて、彼女の頬を両手で包んだ。

『ねえ、藍。本当に。ほんっとうにクソだよね、この世の中。』

涙でぐちゃぐちゃになった顔で、藍は私を見る。私も真っすぐに藍を見つめ返す。そこには私しか映っていないし、私にも藍しか映っていない。私がこの心の奥底から絶えず湧き出てくるようなどうにもできない衝動を伝えたいのは、いつだって藍だけだった。

『どうしようもないアホばっか。私も、アンタも。他の人もみーんなアホ。まじで意味わかんないめちゃくちゃ腹立つ。ああもう!むかつく!!』

言ってるうちに涙が溢れて、きっと今酷い顔をしている事だろう。でもそんなのどうだってよかった。海風の音に、波が崖に打ち付ける音に、負けないように、叫んだ。心から血が出ているみたいだった。

『全部全部要らない!!何にも要らない!みんな消えればいい!!アンタも!わたしも!!馬鹿ばっかりだ!!』
『里紗ちゃ・・・』
『こんな世界生きてる方が馬鹿なんだよ!普通の顔で生きてる方が頭おかしいんだって!!狂ってるんだよみんな!!』

叫びすぎて声が掠れた。湿った空気が肺に入ってきて苦しい。でもどうにも無かった。このドロドロの感情は溢れさせてしまったら止め方が分からなかった。

『あーもう本当にろくでもない!ろくでもないのに!!』

ろくでもないのに、どうしようもないのに。どうして、どうして。

どうして。

『人生を呪いながら、明日着る服を選んじゃうんだろう。泣きながら、ご飯を食べちゃうんだろう。明日の事を考えて、布団に、入っちゃうんだろう。』

涙声の呟きは風に流されてしまった。でもきっと、こんなに近くにいる藍には聞こえていたんだろう。今度は、藍が私を抱きしめる。強く、強く。私たちは泣いた。あの時のように。今度は2人してわんわん声を上げて、子供みたいに泣いた。

自分が消えてなくなるのが、どうしようもなく怖い。生まれてきた意味を、生きていく意味を、探してしまうのだ。この世界を、諦めきれないのだ。




『…藍、これ。』

浴衣の小さな手持ちカバンから、もうボロボロになってしまった赤い表紙の日記帳を取り出す。それを見て驚いたように藍は私の方を見た。

『・・・持っててくれたんだ。』
『こんな怖いの捨てられないって。』
『それもそうか。』

2人で小さく笑う。歩き疲れて、泣き疲れて、私達はもうヘトヘトだ。
展望台の中心には小さなプレハブ小屋があって、その端っこで、小さく三角座りをしていた。私達しかいない小屋の中はとても静かで、お互いの息遣いさえ聞こえてくる。

なんとなく、成人式に藍の日記帳を持っていきたかった。私がハタチになれたのは、ハタチまで生きられたのは、まぎれもなく彼女のお陰だから。彼女との思い出があったから、今思い出すと恥ずかしくなるくらいに世界を呪った日々があったから、私は今日まで自分の足で立っていられた。

『あ、ちょっと待ってて。』
『ん?』

日記帳をペラペラとめくる。うわあ、汚い字、と藍が恥ずかしそうに笑って、私は最後のページの一番下にペンを走らせた。

日記に一日付け足して、藍に返す。
それと一緒に髪についていた髪飾りを一つ、藍の耳元にさした。赤い椿の花だ。


『里紗ちゃん。』

座ったまま、私達は少しの間一緒に眠った。別れ際、すでに歩き始めていた藍が振り返って私の名前を呼ぶ。

『口から心臓が飛び出そうなくらい、って言い方するじゃん。驚いた時とか、緊張してる時とか。』
『・・・うん。』
『私ね、どうしようもなく悲しくて吐きそうなくらい泣いてる時も、何もかもが憎くて妬ましくてふざけんなって怒ってる時も、嬉しくてなんだかくすぐったくて笑ってる時も、よく、心臓飛び出そうになる。うーん、こう、体の奥深くから何かが溢れてくるみたいに。』
『・・・うん。』

なんとなく、私にも分かった。藍が言葉にしたい衝動が。いつだって良くも悪くも私を突き動かす、抑えきれないドロドロとしたものだ。火傷しそうなくらい熱くて、私の中に潜んでいるものだ。

『私、ずっと考えてるの。この衝動?感情?を、こんな凶暴なものを、普通の顔で生きてる人たちはどうやって隠してるんだろうって。というかこれをなんて表現すればいいんだろうって。こんなに私の大部分を占めてるのに、上手く言葉に出来ないことがもどかしい。』

でもね、と彼女が笑う。

『このドロドロのグチャグチャが私の本体なのも、世界の何もかもが憎くて何もかもが愛おしいのも、紛れもない事実だから。上手く隠せなくても、名前なんて付けられなくても、振り回されてばかりでも、私からどうにも切り離せないものであることには変わりないから。』

里紗ちゃん。

『もし私の心臓が本当に飛び出ちゃった時はさ、その時はさ。里紗ちゃんがもらってね。』

なんて、冗談ぽく彼女は笑った。

特に連絡先は聞かなかった。聞くという考えも無かった。この世界のどこかで生きてさえいてくれれば、それだけで十分だと思った。きっとその気持ちは、最上級の愛だった。






【8月15日

崖の下には海が広がっていた。ここから落ちたらきっと命はないだろう。
崖の上で、彼女は。

彼女は、私の手を掴まなかった。】



藍は、わたしの手を掴まなかった。

それだけでもう、十分だったんだ。