「私には、もう何も残っていません。結婚なんて始めから考えていなかったんです。――あの人には、きっと相応しい女性が他にいますから」

 晃光にずっと言えなかったことが、そのときになってようやく口を割って出た。

(結局、最後まであまり『晃光さん』と呼ぶこともできなかったわね……)

 そう、なぜか今になって香澄は気付いた。一度だけ抱きしめられた彼の腕の感触が、肌には不思議と残されたままだった。

 晃光の母親が、香澄の左手薬指の指輪に気付いて眉を寄せた。

「あなた、晃光が勝手に作って贈った正式な婚約指輪は、まだはめていないのね?」

 力強い確認に、香澄はこくりと頷いた。

「この婚約指輪は、お返しします」

 香澄は、父の仏壇に預けていた婚約指輪のジュエリーボックスを取り出し、彼の母親に手渡した。

(――楽しい思い出は、これだけで十分よ)

 香澄の薬指に、今でもはめられたままでいる仮の婚約指輪。これだけあればいいと思えた。彼には十分よくしてもらえた、もう、いい。