いつも通りの朝ならばホームルームを控えてクラスメイトは騒がしくお話をしている。昨日出ていたアイドルがかっこよかった、ゲームでランクが上がったなどの、それぞれが興味のあることを話していて、僕はそれを興味のない振りをしながら聞くのが結構楽しみであった。しかし今日はそんな話はあまりされていない。クラスメイトは忙しなく動いている。
「和田くん、ちょっと運ぶの手伝ってもらえる?」
 近くにいる人なら誰でもいいかのようにクラスメイトの女子に頼まれた。
「うん、いいよ」
 本当ならあまり動く気にはなれなかったし、協調性みたいなのは苦手である。でも変に断ってクラスの中で浮いた存在になるほうがよっぽどごめんだ。
 そう言って物がいっぱい入った重そうな段ボールを抱え、その女子と一緒に階段を降り、自分たちが普段過ごしている教室とは別の教室へ向かった。
 そこに広がっていたのは数々のアトラクション。お世辞にも完成度が高いとは言い難いが、段ボールでここまで仕上げたのはすごいし楽しむ分には十分なクオリティだと感心した。女子が中心となってセッティングを進めている中、ガムテープを丸めてボールを作り、投げ合っている男子の姿も見られた。
こうなってくるとあの決まり文句が頭に浮かぶ。
「ちょっと男子!遊んでないでセッティング手伝ってよ!」
「ごめんごめん、そんな怒んなってー」
 出ました。女子の怒号交じりのちょっと男子攻撃。
 どうやら言ったのは僕らのクラスの文化祭実行委員のようだ。あまりにも僕の想像通りで笑い転げそうになったが、本当に転げたらただの変人だ。ただ顔のにやけは堪え切れず、一緒に段ボール箱を運んだ女子に、なんでにやけてるの、と聞かれてしまった。誤解を招かないように弁解したと思うが、なんて言ったのか覚えていない。
 せっせとクラス全員で準備を進めていく中で、僕は一人の女子の後ろ姿が目に入った。
身長は他の女子と同じくらいで高すぎず低すぎずといったところ、髪の毛は肩にかからないくらいのショートカット。学校指定のスカートの裾は膝頭よりも少し下で、黒のタイツを履いている。体は細く、かよわい印象だが、服装からは真面目な雰囲気が感じられる。
 すると一緒に段ボールを運んだ女子が教室に響く声で言った。
「結衣、ガムテープ持ってる?」
 その名前を聞いたとたんにドキッとした。
 名前を呼ばれた女子は振り返り、僕らと対面する形になった。
 またしてもドキッとした。
「持ってるよー」
「段ボール止めたいから貸して欲しいんだけど」
「いいよ、ちょっと待ってて」
 そう言って彼女は自分の近くに置いていたガムテープをもって、僕らの立っている教室のドア付近に歩いてきた。
 心臓の鼓動が速くなるのを感じる。彼女と僕らの距離が近くなるにつれて鼓動の速さが早くなっていくのが自分でもわかる。落ち着け、僕。
 そして彼女は僕らの目の前に来た。鼓動の速まりは限界を知らず、今にも皮膚を突き破ってくるかのように心臓が動いている。これだけ活発に心臓が動いていれば、隣にいる二人にも音が聞こえてしまうのではないかと思っていたが、そんな僕の勝手な妄想とは裏腹に女子二人は段ボールを止める作業をしていた。
 僕も自分の運んだ段ボールを止めようとため息交じりに、床に転がっていたガムテープに手を伸ばす。そのとき、堅いガムテープではなく、柔らかい皮膚のようなものと触れ合った。僕は条件反射で手を自分の方に引っ込め、ごめんと言いながら顔を上げた。
 顔を上げた先には、ガムテープを持ってきてくれた彼女のきれいな瞳があり、その瞳に吸い込まれそうになった。僕はすぐには言葉が出なかった。
「ごめんね、先に使っていいよ」
 そんな挙動不審な僕とは打って変わって、彼女は無表情のままそう言った。
「ありがとう」
 僕は精一杯の力を振り絞ってそう言い、震える手に苦戦しながらもなんとか段ボールの口を止めることできた。
 そのまま段ボールを教室の片隅に置いて一段落していると、彼女はガムテープをもって先ほどの準備していた場所に戻り作業を進めていた。屈んで背中を丸め、周りの女子たちと楽しそうにアトラクションの細かい箇所のチェックを行っている。
「どこをそんなに見てるのよ」
 ただ彼女の背中をボーッと眺めていた僕に、段ボールの女子がそう聞いてきた。
「別に何も見てないよ」
 彼女を見ていたのがバレるのを恐れ、僕は嘘をつく。ただそんなのは通用しない。
「嘘つきなさいよ。ずっと女子の方ばっかり見て」
「見てないって。アトラクションすごいなぁって感心してたんだよ」
「だよね。まあまあのレベルだと思うわ」
「お子さん連れの家族とかに楽しんでもらえそう」
「友達の弟さんとか妹さんとか来てくれたらいいのにね」
 なんとか話題を逸らせることに成功して他愛のない会話をしていると、遊んでいた男子の放ったガムテープを丸めたボールが、アトラクションのセッティングをしている彼女の背中に直撃した。
「ごめん、大丈夫?」
「全然痛くなかったから大丈夫だよ」
 彼女は笑顔でそう返した。その直後に男子はちょっと男子攻撃を受け、今度こそアトラクションのセッティングに取り掛かり始めた。
 やはり女子のちょっと男子は僕のツボらしく、またにやけていると、段ボールの女子が気持ち悪いという視線を送ってきた。
「なんでそんなににやけてるのよ。気持ち悪い」
「女子って『ちょっと男子ちゃんとやってよ』って本当に言うんだな」
「アホくさ」
 そう彼女は言い捨て、アトラクションの方へ向かっていった。
 一人になった僕は、一生懸命にアトラクションと向き合っている彼女へと視線を向けた。先ほど背中にボールを当てた男子がまだ謝っている。当てられた本人は全然大丈夫と言っているのだからもういいと思うけど。
そんな光景を微笑ましく眺めている一方で、彼女と気兼ねなく言葉を交わせるのが羨ましくも思った。

 今日は僕の通う城南高校の文化祭の日である。
 城南高校では、毎年六月の最後の土日に文化祭を開催することが伝統というか習わしとなっている。
 昨日は、出し物こそなかったが、体育館に全校生徒や教職員が集まり、クラスごとの『三十秒CM合戦』や有志による『叫べ!こんなぶっちゃけあります!』といった企画が行われた。正直な話、当日の出し物よりも、生徒にとっては前日に開かれるこういった企画の方が楽しみだったりするのだとか。『三十秒CM合戦』では、僕らのクラスの某テレビ番組を真似たCMが、学年の中での優秀作品に選ばれた。僕は作成に一切関わってないけど。
 一年生と二年生は各クラスで出し物。三年生はかき氷やカレーなどといった食品を販売する出しものをすることになっており、僕ら二年一組のクラスの出し物は…簡単に言うと縁日みたいなもの。
 射的や輪投げなど定番のものから、段ボールで作ったベルトコンベアに積み上げられた缶のターゲットを係員が動かし、その動くターゲットに向かって柔らかいボールを蹴り、ターゲットを倒すという少し凝ったものまである。あくまで高校の文化祭なので、金銭的な作成はあまりできなかったが、段ボールで作ったとは言えないほどのクオリティである。時間を潰すにはもってこいだ。
 飛び交う生徒の意気揚々とした声。
 浮かれるなというが、自身も少し浮足立っている教員。
 色とりどりに飾り付けられた教室。
 今日は文化祭なのに変わらず朝練習に励んでいる野球部員。
 例年と何ら変わらない文化祭だ。
 ただ今年は違う‼
 今年は…
 その瞬間、教室の後ろのドアが勢いよくガラッと開いた。
「おーい、そろそろ朝のホームルームの時間だから切り上げて戻って来いよー」
 そう言ってきたのは二年一組、僕らの担任である春本先生だ。担当の教科は日本史。いつもスポーティなジャージ姿で、今の季節なら半袖長ズボンといったところだ。今日は襟付きで胸元にピンクのくまさんのマークが入ったシャツを着ている。
 まだ三十代前半と若い春本先生は気さくで生徒からの人気が高い。女子バレー部の顧問でもあり、万年一回戦敗退だったチームを三回戦進出まで導いたらしい。
 …三回戦がどこまですごいのかは分からないけど。
 先生という存在とあまり会話をしたことがない僕であるが、興味があって一度だけ、日本史の先生になった理由を聞いたことがある。
『俺の下の名前が秀頼でな。豊臣秀頼と同じだって運命感じちゃったんだよ‼』
 という返答が返ってきたのだ。
 内心は正直面白くなかったが、いい先生だなという印象を受けた。
「それじゃ、いったん片付けて教室に戻ろうか」
 そう実行委員の人がみんなに指示を出した。
「うまくできてるじゃねーか!参加費としてお金もらうか⁉」
「だめですよ先生」
 春本先生の渾身の冗談にも表情一つ変えずに突っ込みをする実行委員。その瞬間の春本先生の表情は少し寂しげだ。幼い子供のようで、男の僕ですら少しかわいらしく感じてしまう。ただ、そんな裏表のない春本先生だからこそ、男女を問わずクラスの仲は良い。今だってみんなで文句も言わず片付けを進めている。
「よし、あらかた片付いたから教室に戻りましょう。ホームルームの後も少し作業するので、またこの教室に集まってください」
 実行委員の言葉にみんなが「はーい」と答える。
 クラスメイトが仲の良い友達と教室に戻る中、僕は一人で教室へと向かった。
 僕たち二年一組の教室は、文化祭の出し物では使わないため、机が配置されたままになっている。他のクラスは自分たちのクラスで出し物を行うため、教室内の机などは大きなスペースへ出している。教室の地べたに座るなんて、僕には考えられない。机があってよかったなと心底思う。
 僕の席は窓際の一番後ろだ。ここからは皆の背中が一望できたり、こっくりこっくりと頭を左右に振りながら居眠りをする人を見つけることができたり、授業中に違うことをしていても見つかることが少ないという利点だらけだ。
 二年一組では月の始めに席替えを行うことになっている。

 六月の頭に席替えをして、僕はこの席をくじ引きにより獲得することができたのだ。仲のいい友達に髪の毛をわしゃわしゃされながらも席に着いた。二年生の教室は三階であるため、窓から見える外の眺めは最高だった。六月はいいことあるぞ、なんて考えながら大きく背伸びをしていたときだった。
 そんな利点がどうでもよくなるほど、もっっっと重大なことが起きた。
『よろしくね』
 彼女は短い髪の毛を揺らしながら後ろを振り返り、優しい声でそう言った。
『ん、よろしくー』
 僕は気怠そうにそう返答した。
 すぐに彼女は前を向いた。
 本当は心臓が飛び出そうだった。
 前の席に着いたのは山本結衣だった。

 席に着いて当時の会話や心境を思い出していると、教室の前方のドアから例の彼女が友達と入ってくるところが見えた。
 ……入ってくる瞬間に目に入るとか、僕どれだけ意識してるんだよ。
 彼女は、後ろで結んだポニーテールが特徴的な友達と別れ、僕の前に位置している机に向かって俯きながら歩いてくる。その間、僕は一時も彼女を見ることはできなかった。そして、彼女は席に腰を下ろすと、すぐに何かを書き始めた。気になってそれを覗き込みたい衝動に駆られたが、他の生徒からストーカーと勘違いされたくないのでやめておいた。
 二分くらいだろうか。何も考えずに、視界いっぱいに広がる快晴の青空を眺めていたときだった。自分の机の上に、半分に折られた一切れの紙が落ちてきた。紙は何か書くためのものだな…書く?
 そのとき前の席の彼女の「書く」という動作を思い出した。もしかして…という期待を抱きつつ、折られた紙を勢いよく開いた。

『今日は約束通り十三時に一棟の昇降口でいい?』

 そこには彼女の整ったきれいな字が書かれていた。習字でも習っていたのだろうか。
 そんな彼女は何事もなったかのように前方を見据えている。

『うん』

 本当は『楽しみだね!』とかそういった気の利いた一言を添えると良いのだろうけど、この二文字を書くことで精一杯だった。緊張で手が震える。
 僕はその紙切れをトイレに行く振りをして彼女の机に置いた。そのまま前方のドアに手をかけた瞬間、彼女の方を向くと、すでに紙切れは机の端に追いやられていた。そりゃたった二文字を読むのに一秒もかからない。そう思いながらドアを開けると、段ボールの女子がいて、にやけた顔をまた見られ、気色悪いと蔑まされてしまった。