あれから一週間。僕は誰とも話していなかった。発した言葉は兄への自分語りだけ。唄からの電話も無い。

 あんな終わり方をしたんだからお互い話しづらいに決まっている。USの生配信が目についた。<なんか今日、声の調子悪い?>、<USってこんなだったっけ?>、<高校生だからこんなもんか>。そんな批判するコメントを目で追っていた。

 彼女のことを何も知らないくせにって思った。そんなことを言いたくなっている僕もこいつらと同類で、ただの知ったかぶりと変わらない。僕は何をしているんだろう。コメントはしなかったけど、擁護したい気持ちが募っていく。

 こうしてネットで誹謗中傷する大半の人は、どうせ八つ当たりか、自分のどこかにあるコンプレックスを拗らせた捻くれものだ。何かうまくいかなくて、それを批判という形で自分を正当化して、煽って。そんなもので取り繕っても何も意味はない。

 そんなことに必死になって、現実を見つめられていないんだ。そうやって批判ばかりするな。心からそう思っているなら顔を出して言えばいい。アドバイスになるからできるだろ。それ以前に僕がそんなこと言っても、お前誰だよってなる。肩書きなんて、何もない薄っぺらいやつが唄にどうこう言うな。そんなことを思っている僕も薄っぺらい。本当にダサい⋯⋯。こうしてずっと唄の配信見てるなんて言ったら、引かれるだろうな。

 毎日見ていたことを唄に言う。頭に浮かんだ唄の姿は笑っていた。ただの妄想だけど、内心どう思っているかなんて知らないけど、多分嫌悪感があっても顔に出すことなんてないだろう。



 スマホが鳴った。すぐに反応してスマホを見た。

 石川〉おーい

 LINEが来ていた。ここ数日ずっとこの調子で、何日も未読無視をしている。気がつくと石川からだけで五十件も溜まっていた。

 新〉何だよ

 LINEの通知は溜まる一方で、そろそろだるくなってきた。

 LINEの通知数が溜まるのは好きじゃない。だから、通知を減らすだけの理由で返信をした。

 石川〉やっと返ってきた。今日暇だろ?
 新〉暇だけど、出かけたくない
 石川〉おっけい。駅前のサイゼな。なるはやで
 新〉おい

 反応すると、一方的に今日の予定を決められた。行くとは一言も言っていない。僕のメッセージを最後に既読はつかなかった。気づけば一三時で、昼もまだだったから、ちょうど良い。適当な服に着替えて、サイゼに向かった。



 中に入ると、ファミレスにしては閑散としていて、客も少なかった。

「あ、きたきた。こっちこっち」

 一番角の四人席に石川を見つけた。見慣れない女子の後ろ姿もある。帰ろうか迷ったけど、僕は黙って石川の隣に座った。俯きながら、石川の肘を小突く。「何だよ」石川は僕の耳元で囁いた。「聞いてない」僕も石川にしか聞こえない声で返す。「⋯⋯前みろよ」謎に落胆されたような視線を感じ、前を見た。



 ――そこには雫がいた。




 綺麗な純白のワンピースに身を包んで、軽く化粧もしていた。

 気がつくはずもない。いつも白いパジャマのようなものを着ていたし、病院にいる時と違って、長い髪も細かく編み込んでいた。

「新兄」

 唄はいつも病院で見ていた笑顔をここでもしてくれた。

「お、おい。退院したのか?」

 石川は僕の問いに静かに頷いた。

 あり得ない。

 それが率直な僕の感想だった。

「新兄の服装、なんかさ……」

 雫は急に笑顔から引き攣った顔になって、下から上へとスキャンするように、僕を眺めた。お互いいつもと違う服装で、これもなんだか新鮮味がある。

「何も聞いてなかったから」

 そして、石川を睨んだ。

 こんなことなら早く言って欲しい。雫がいたならもう少し服装も考えてきた。それに雫が退院なんて朗報ならすぐに向かったのに。

 今になってあの異常なLINEの数にも納得がいった。

「そう睨むなって、サプライズの方が嬉しさ増すだろ?」
「そうそう!」

 プレゼントも用意したかった。引退祝いなんてもっと盛大にやってもよかったんだ。

 僕の頭には色々と不満が過ぎるけれど、そんな気持ちと変わって、二人の息の合った言葉に自然と笑みが溢れた。

「まあ、今回はいいよ、今日は僕が奢る」

 プレゼントの代わりにと思って言った。

 味気ない気はしたけど、しょうがない。

「え! あのケチな新が奢るってよ!」
「えー! ありがと!」

 僕も今日くらいはいいだろうと、狭い懐を大きく開いた。

 この笑顔が見られただけで満足だし、これからも見ることができると思えば、安いもんだ。そうだ。これからは雫は病院じゃなくて、石川の家に行けば会えるのか。

 これからは普通の元気な女子として生きる雫を想像して、表情筋が綻ぶ。



「いつかの約束覚えてる?」

 唄は安いドリアを頬張りながら、僕に言ってきた。

「何が?」
「ディズニーだよ! ディズニーランド!」
「そんなことあったっけ?」
「えー新兄ひどっ!」



 忘れるはずもない。

 中三のちょうどこれくらいの時期。初めて一人で雫に会いに行ったことがあった。その時に約束したことだ。



 *


「もし、私の病気良くなったらディズニー行こうよ」

 痩せ細っていて、今にも尽きそうな命の灯火が見えた気がした。人間の体はこんなにも脆い。少し調子が悪いだけで口内炎ができたり、ニキビができたりする。肉体と精神は比例していない。休みたくても元気だから休めない。こんな体でも目の奥はどこか希望に満ち満ちていて、精神は僕よりよっぽど元気があるように見えた。

 この時の僕は全てがつまらなかった。いつも新一の反対を目指していた。

 中学の頃は周りが人の目を気にする気持ち悪い人だらけで、僕なんかは変人扱い。いつも一人の僕は格好の獲物で、案の定いじめられていた。

 人生楽しくないやつをいじめるとか鬼畜の所業だ。

 別に気にしていなかったけど、僕が死んだらこいつら後悔するかな? って思っていつ死のうか迷っていたくらいにはしんどかった。要するに、病んでいたんだ。

 高校に入ってからは、そんなIQの低い人もいなくなって、その考えは変わったけど、当時は自殺であれば、新一とは違うからセーフ。とかも考えていた。

 でも、雫を見ると、まだ僕は恵まれていると思えた。最低だ。

 雫の眼を見ていたらもう少し生きようかななんて⋯⋯。

 それが何回も続いたんだ。

 その日も雫を見て、活力を得ようと思っていた。

「いいよ。じゃあ石川にも――」

 その言葉を止めるように、僕の服の袖が軽く摘まれた。

「二人で、ね?」

 雫は上目遣いで、僕に言ってきた。少し見惚れて、その眼差しに一瞬だけ恋を感じた気がした。初めての感覚で、僕はこの時生きていることを実感した。

「……わかった」

 本当に些細な会話。でも僕にとっては掛け替えの無いものだった。新しい感情を植え付けてくれた。それだけで虚無感という果てしない苦痛から救われた気がした。



 *



 その時のことを雫はまだ覚えていた。

 あの時の雫がいなかったら、僕は多分自殺していた。

 でも、別に好きになったとかではなかったと思う。

 僕の中から一時的に死にたいとい気持ちを忘れさせてくれた。まるで危険ドラッグのような、今思えば依存していたのかもしれない。ある意味、僕の生きる希望だったのかもしれない。死にたい気持ちを忘れられるからなんて、失礼すぎるし、不純なんて言葉じゃ表しきれないほどに濁っている。それでも僕は雫に感謝をしている。


「わかったよ。じゃあ夏休み中に行こうか」

 僕は雫のためならと思って言った。

 雫の顔はぱあっと明るくなる。

「俺は?」

 石川が寂しそうに言うと、雫は「また今度ね!」と言って、優しく突き放した。

「兄離れかぁ」

 石川のトーンはさらに下がった。オレンジジュースをストローで吸って、小さく縮まる石川。

 僕の勝手な恩返しに石川はいらないよ。



「新兄、生徒会はどうなの?」
「まあ、ぼちぼちかな」
「美人の会長さんとは何もないの?」

 何もないといえば何もない。あるとするなら絶賛不仲中と言うべきだろうか。

 結局、なんて言えばいいのかわからなくて言葉が出ない。

「その顔は失恋か?」

 僕が黙り込むと、石川が間に口を挟んできた。

「えー新兄が失恋! その会長さんもわかってないなー」

 雫の気遣いは逆に心が抉られる。

 何もない。ないのだが、もし失恋だとしても、唄が僕を振るのは当たり前だ。告白すらしていなければ、恋愛的な意味では好きですらない。もしどちらかがあったとしても、あまりに釣り合わない。

「そんなんじゃないよ。本当に何もないから。最近は話さないし」
「えー、ほんとかな?」
「僕は好きな人なんかいないし、いたら雫とディズニーは行かないよ。たとえ、石川の妹でもね」

 少し臭い台詞だったか。

 でも、本心からだったから、別に恥ずかしくもない。

「新くんカッケェな」

 石川は関心するように僕に言った。多分、素で言ったんだろう。少しも癇に障らなかった。



 それからも教室での様子や、期末考査の結果、球技大会の話なんかをした。

 時間が過ぎるのはあっという間だった。すっかり暗くなって、まだ中学生の雫を遅くまで外に置いていくわけにはいかない。だから少し早めにファミレスを出た。

「新兄、バイバイ!」
「うん」
 二人は僕に背を向けて、駅へ向かった。




 ――三日後、雫は死んだ。――