結局、電話はできなかった。何度も寝て忘れようと布団に潜ったけど、眠ることすらできなかった。電気も全部消して、朝日が出てきたからカーテンを閉めた。今は誰も僕に触れないでほしい。ここまで自分の気持ちに整理がつかないのも初めてだった。全く理解できない。こうなっている全ての可能性を否定した。もしかして、僕たちを捨てた親を見返したいとか、心のどこかで思ってたのか? いやそんなわけない。親の温もりが欲しかったとか? 今さらそれもないだろ。


 プルルルルル。五月蝿い。放っといてくれ。



 プルルルルル。黙れ。関わってくるな。







 プルルルルル。⋯⋯⋯⋯⋯⋯。



 全てが黒に見える。もう生きる気力すら感じられなかった。親が死んだからなんだ。親がいないのが可哀想? じゃあ親の凄さを僕に教えてくれよ。誰もそんなことできない。寂しさ、絶望、嫉妬、羨望、孤独。誰も味わったことないだろ。僕がこんなに一人で頑張ってきたのに。やっぱり報われない。

 ピンポーン。⋯⋯。ピンポーン。⋯⋯⋯⋯。ピンポン、ピンポン、ピンポ、ピンピンポーン。

 ガチャ。

「入るぞー」

 声で米村先生だとわかった。こんな僕を見られたくなくて、布団に潜る。元々包まっていたから、被るだけ。

 床が軋む音。どんどん近づいてくる。

「あーらーたー」

 ガラガラガラ。

「あ、いた。これで無断欠席三日連続だぞ? 何してんだよ」

 無理やり布団を剥がされた。見せたくない自分を見られた。

「何ですか? もう、僕に構わないでください」

 先生の顔は一切見ずに、胡座をかいた。

「学校来いよ」
「もういいですよ、学校なんて」
「石川が待ってるぞ」
「石川は僕がいなくても生きていけるでしょ」
「そんなことないだろ。教室だって新がいないと釈然としないし」
「⋯⋯それは無理があるでしょ」

 先生は言い返せないのか、黙って、

「私だって新がいないと学校がつまらない」

 次の手段を使ってきた。

「もういいでしょ! 僕がいなくて困る人いないだろ! ずっと自分の力だけで生きてきたんだ。自業自得だよ! 死んだところで葬式で泣く人すらいない! 何なら誰が金出して葬式なんてするんだ? ⋯⋯だから、僕はいらない。代用効くし、僕じゃなくてもいいん⋯⋯だ」

 急に暖かく包まれた。急すぎて何もわからなかった。でも、懐かしい感覚があって、完全とは言えないものの、新一に近い感覚があった。

「ごめんな、新。私が、私が全部、全部悪かった。だから、何があったのか教えてほしい」

 先生の声から、初めて自信を感じなかった。肩が少し濡れた。段々抱き締める力が強くなって、先生が何を言っているのかはわからなかったけど、気持ちだけは骨の髄までしっかり伝わってきた。



「母が、死にました」

 スッと言えてしまった。この不幸を移すように、その言葉は簡単に出てきた。

「辛かったな」
「でも、僕は母と話したこともなければ、顔すら知りません」
「それでも母親は特別なんだよ」
「そういうものですか?」
「そりゃあな。よく今まで一人で頑張ったよ。石川とも唄とも違う、本当の一人を知っているのは新だけだもんな」
「何で、今日来てくれたんですか? 何でそんなに僕に構ってくれるんですか」
「もうちょっと、もうちょっとだけ待ってくれ」
「何でなんですか」
「今じゃないんだ」

 言ってくれないと思った。でも、嫌な感覚はない。

「⋯⋯まあ、いいですよ。明日は行きます」
「ありがとう。無理はしなくていいから」

 先生は僕の頭をポンポンと、叩いて出ていった。

 掛けてある時計は二二時を示していた。久しぶりにカーテンを開けると、星が泣いているように輝いていた。『星涙』が頭に浮かんだ。それでも唄に電話する気にはなれなかった。明日学校で謝ろう。それで話を聞いて――。





「大丈夫だよ! そんなの気にしてない」


 え? 



 放課後、僕は第一声で謝った。「大変な時に一言も何も言えなくてごめん」そう言ったら笑顔で返してきた。

「この仕事してて、何もない方が不自然でしょ? 炎上なんてみんなしてるって。だから何とも思ってないよ」

 僕が悪かった。僕が家でウジウジしていたから。唄の笑顔は全てを振り切っていて、もう事は全て終わっていたんだとわかった。


 家に帰ってから石川を河川敷に呼んだ。

 グローブの感覚は違和感しかない。投げるのもキャッチするのも雰囲気でできる。

「何で野球なんだよ」

 投げられたボールを返した。

「ただ話すだけだと、しんみりするだけだろ」

 石川はそれをまた投げる。

「もう大丈夫だよ」

 石川のボールはぎりぎり届かなくて、芝の地面に転がった。

「明日は修学旅行だぞ? 流石に楽しまなきゃだろ」

 拾って、軽く砂を落として、また投げる。

「そうだね」

「近くにこんな広い河川敷あったなんてな」

 石川はピッチャーのような構えをして、緩いボールを投げてきた。

「前に見た星空はもうちょっと奥だけどね」
「それにしてもこの川汚いよな」

 僕も真似して、それっぽくボールを投げてみた。

 変に格好つけたボールはあらぬ方向へ飛んでいった。

「どこもこんなもんだよ」
「上流の方は綺麗って言うじゃん?」

 石川は川の近くに飛んでいったボールを追いかけて、拾った勢いのまま投げてきた。

「ここ下流でしょ」
「そうじゃなくて、人間がいる場所は汚くなるよなって」

 ちょっとサイドスローしてみた。意外とうまくいって、真っ直ぐ飛んだ。

「そうだよ。多分、人間がいなかったらもっと世界が綺麗だったかもね」
「じゃあ世界に希望持つなよ? 希望がなけりゃ絶望もないんだから」

 石川はアンダースローで投げてきた。それはソフトボールだ。

「期待の方が適切だよ」
「細かいこと気にすんなって」

 高橋礼だっけか。あんな感じをイメージした。そのボールは石川の遥か上空を飛んで、川に落ちた。

「悪い」
「⋯⋯帰るか」



「もう電話できなくなるね」

 唄と三日ぶりの電話をした。

「修学旅行が終わったらまたできるよ」

 唄の少し哀愁を漂わせたトーンに、僕の口調も柔らかくなった。

「久しぶりの電話なのに、またできなくなるんだよ?」
「たった三日だよ。修学旅行中も話せる時あると思う」
「どうかなー」

 僕もそれは無理な気がした。生徒会室という特別な空間がなければ、僕たちがまともに話せる場所はない。

「大丈夫だよ」
「先生たちもみんな寝た後に抜け出して、会うとか?」

 あの夏休みが蘇った。背徳感など忘れて、生徒会室で夜中に会った時のこと。でも、

「だめだよ。今回は四日間もあるんだから、ちゃんと寝ないと」
「⋯⋯確かに」
「まあ、楽しもうよ。それで帰ってきたら、その話いっぱいしよ」
「そうだね」