もう、誰もいない。喧騒としていた学校はもうなくて、生徒会室のような静けさが屋上にもあった。

「え⁉︎」

 やっと起きた。もうすっかり夜で、僕と唄の文化祭は迎えることなく終わった。唄は今の今まで気を失っていて、僕は目の前で気を失って倒れた唄をおんぶして、屋上に連れてきた。誰の邪魔も入らないところで、ゆっくりさせてあげたかった。唄をおんぶする時に目に入ったのは隈で、寝る間も惜しんで頑張っていたのがわかった。

「どういうこと?」

 唄は急に立ち上がって、目を大きく見開いた。

「シンデレラは榊原にやってもらったよ。USの発表の件は桐谷さんに事情話したんだ。殴られそうだったけどね。琴さんには先生に頼んで、心配ないって言ってもらった。桐谷さんとは会えなかったけど、先生も見当たらないって言ってたから平気だと思う」

 僕の住んでいるところより都会だからか、星も全然見えなかった。だから起きるまで、ずっと唄のことを見ていた。何よりも綺麗な気がした。そして今も唄を見ている。

 唄の顔はそれを聞いてからずっと筋肉が揺るぎ切っていた。何を思ったのか読み取れなかったけど、もう目は逸らさない。

 唄は大きく息を吐いて、ダーという声を出した。

「やっちゃった」

 自分の中で整理がついたのか、唄は全部吹っ切れたように笑った。その顔を見て、僕もやっとどこかの力んでいた筋肉が緩いだ気がした。

「これからどうする?」

 コンクリートの地面に座る僕の横に、唄も腰を下ろした。

「そうだね。お礼に何か一つ言うこと聞こうか!」

 隣でこっちを見る唄が横目に入る。何かに期待している眼。何を言って欲しいのか全く検討がつかない。

 目の前には人類の功績である光が広がっていて、そこからは星を見ている時のような静観さは感じられなかった。

「僕、今まで頑張ったことが全然ないんだ。頑張ることにもエネルギーが必要だと思うんだよね。だからなんで唄がそんなに頑張るのか知りたい。唄が頑張る理由を教えてよ」

 唄の目を見て言った。瞳には僕の顔が写っている。そこに映る僕は唄から見えている僕で、僕が知っている僕よりいい男に見えた気がした。

「⋯⋯いいよ」

 唄は下唇を噛んで、少し間を置いた。唄の中でこれを伝える勇気はかなりのものだったんだろう。どんな答えでも、受け止める。その覚悟はあの夏休みからできていた。



 僕と唄はある小学校の門の前に来た。「私の人生の分岐点」それがこの学校だという。古臭いどこにでもある市立小学校。

「私は小三の頃に死んだんだ」

 何を言っているのかわからなかった。今、隣にいるのは唄だ。それが何かの比喩表現だということは流石にわかったけど、やっぱり意味はわからない。

「一回死んだから、そこで私は自分を殺したの」

 震えている手が見えた。声も上擦っていた。僕の手は自然と唄の手に伸びていて、包み込むようにして、握った。

「優しいよ、やっぱり」

 いつの日か聞いたその言葉。そんなに遠くない日の話のはずなのに、夢の向こう側で言われたような懐かしさが込み上げてきた。

 唄は歩き出して、少し離れた横断歩道で止まった。海がよく見える場所。水平線の位置もはっきりと確認できた。人工物じゃない方がやっぱり好きだ。心の波が鎮まる。僕の手の中で震えるものも、段々と小さくなっていった。

「ここでね、私は死ぬはずでさ。でも死ななかったんだ。その代わりに大事な人が死んだんだ。だから自分を殺したんだよ。この二回目の人生は私のものじゃないから、その人のように生きて、その人になりきって、その人が色々な意味で救うであろう人を、私は助けるって決めたの。だから私は私じゃないの。頑張り続けなきゃいけないの」

 はっきりとは何もわからない。でも何となく言いたいことはわかって、僕とは真逆を選んだのが唄だった。

「私、何も言ってないよね。でもこういう言い方しかできない」
「それでいいよ。話してくれたことが嬉しいし、ゆっくりでいいんだ」

 言ってくれた。唄がいつも隠している部分を僕に明かしてくれて、それだけで本当に嬉しかった。
「でも、僕の前ではその人のための唄はやめてほしい。僕は電話している時の唄と一緒にいたいと思うんだ」
「それ告白と一緒だよ?」

 確かにそうかもしれない。でも今伝えたかった。好きなんて気持ち、今もわからない。この間、唄が言っていた好きという気持ちが正しいなら、僕のこれは好きなんだと思う。

「僕の中で失いたくないものはこういう何気ない会話で、落ち着ける場所で、唄との電話だから」
「でも私が新くんの前から逃げちゃうかも」
「その時は追いかけるよ」
「絶対?」
「うん」

 もう、絶対失いたくない。

 大切なものが今ここではっきりとわかった。これ以上――、唄だけは、絶対に手放したくない。もう自分の気持ちに嘘はつけなかった。

「海、見に行こうよ」

 唄は繋がったままの手を強引に引っ張って、僕も一緒に砂浜へ降りた。制服だけど何も関係ない。

 砂浜に膝をついて、山を作った。それでトンネルを掘って、向こうには唄の手があった、ザラザラする手はなんか面白くて、勝手に口角が上がった。

「まだ時間あるね」
「明日振り休だけど、いつ帰る?」
「気が済んだら」
 今の唄は本気で楽しんでいる気がする。柔らかい表情に僕の心も温かくなった。
「わかった。次、どこ行く?」
「山登りしたい」

 近くの山で検索したら出てきたそこそこ有名そうな山へ向かった。登り切るのに所要時間は二時間。制服のまま登って、ズボンに泥がつくのを感じて、毎回払っていると、「そんなの気にしないの!」と、唄が言ってきた。Googleの言う通り、二時間で登り終えて、頂上から見る景色は絶景だった。

「あそこら辺、私の家じゃない?」
「じゃあ僕の家あそこ?」
「でも、あれ? おかしいな」

 絶対に見えるはずのない自分の家を探す唄。僕もそれに乗っかった。こういう馬鹿をしたのは初めてかもしれない。

「全部捨てたーーい!」

 山彦を求めたのか、唄は急に叫んだ。その後、僕を見てくしゃっと笑った。

「あー!」

 負けじと僕も叫んだ。この後、本当に好きだ! なんてことを言いたかった。

 僕は唄が好きで、好きで、好きで、たまらないのを初めて理解した。唄から目が離せなくて、この唄を独り占めしたくて、僕の前でこうして笑っていてほしい。僕はそれを込めて、唄に優しく笑いかえした。