前回のあらすじ
いかにも危険の匂いのする実験施設までやってきたのだった。
「はーい、どちら様ですかー?」
どこのお勝手か、と言いたくなるほど平凡な出迎えをしてくれたのは、もはや半分くらい元の色がわからなくなっている白衣を羽織った銀髪の女性だった。
「《巨人の斧冒険屋事務所》から参りました、冒険屋《魔法の盾》の紙月と未来です」
「冒険屋……あー、あー、あー、ちょっと待ってくださいね」
ぱたん、と静かにドアが閉められ、そしておそらくは本人としては隠しているのであろうが、隠し切れない大騒動がドアの向こうで繰り広げられ始めた。
「仮眠中止! 仮眠中止ー! 冒険屋さんもう来たって!」
「ええ? まだ十日くらいは猶予あるんじゃないの……?」
「でも来てるんだって! 起きてアカシ! せめて服着て!」
「わかった、わかったから、揺らさないで……」
「ああ、せめて見える所だけでも片付けないと!」
事前に連絡を入れないとどういうことになるのか、非常に反省させられる音声をお楽しみください。
まるで戦争でもしているのかという激しい物音の続く十分間が過ぎ、そして改めてドアが開かれた。
「お、お待たせしましたー。どうぞ、中へ」
「アッハイ」
仮設実験用施設とやらは、荒れに荒れていた。本人たちは何とか片付けたつもりなのだろうが、そもそもの感性がずれているのだろうか、それとももうどうしようもないとあきらめたのか、たたまれもしない洋服はクローゼットからはみ出ていたし、書籍の類は平然と床に積み上げられていたし、もう何やら片付けようがないと悟ったらしい器具の類が、シーツにくるまれてベッドに放り投げられていた。
少なくともこの乱雑さを理解しているらしい銀髪の女性は引きつった笑顔だが、もう一人の赤毛の女性となるともうへらへらと笑っているのでこちらは自覚なしとみていいだろう。
「えっと、お待たせしました。私が依頼人のユベルです。こっちがキャシィ」
「あはは、どうも」
「今お茶でも入れますので、そこら辺に座ってお待ちくださいな!」
ユベルと名乗った銀髪の女性はそそくさと席を外してしまったが、困ったのは残された紙月と未来である。そこらへんに、と言われても、一応応接セットらしきソファはあるのだが、書類やら書籍やらが積まれていて完全に用をなしていない。
仕方がなく適当に床におろして座ってみたが、埃がまたひどい。
「いやー、ごめんなさいね、もうすこしゆっくりいらっしゃると思ってまして」
そう笑って同じように腰を下ろしたのがキャシィ、なのだろうけれど。
「……? えーと私の顔に何か?」
「ああ、いえ、顔立ちが西方の方っぽいな、と」
紙月たち流に言えば、アジア人顔しているといったところだが。
「ああ、わかります? 実際生まれはそっちの方でして。でも帝国の人には名前が発音しづらいみたいで」
本当は明石菊子というのだと女性は名乗った。
「明石、が言いづらいからいつの間にかキャシィに。ユベルも、本名は夕張つつじって言うんですよ。あ、もう帝国名の方が慣れちゃってますんで、御気兼ねなく」
「はあ、そう言う次第でしたら」
もしかしたら元の世界の人間なのだろうかと思ったのだが、いまいちそのような空気ではない。向こうからこちらをうかがう様子もない。
そして何より。
「唇がちゃんと動いてる」
「だな」
「?」
つまり、紙月たちが日本語を喋っているつもりで話しても、実際には交易共通語として発音されているような、唇の動きと発音とに齟齬がないのである。
「しかし本当に早いおつきでしたね。手紙が届いたころかなーって今朝話してたばかりなんですけれど」
「まあ、魔女の流儀というやつでしてね。もう少し早めに連絡入れるべきでしたけど」
「魔女の流儀。気になりますね。まさか転移呪文でも?」
「空飛んできたって言ったら笑います?」
「飛行呪文! とても興味深い! 当代ではなかなか使える人どころか理論自体も遺失しかけてまして、私たちも遺跡から再発見を試みている最中でして、あ、対物ですか対人ですか? 物を浮かせる呪文があるんですけど、やっぱりあれじゃ飛行には至らないんですよね。自分を浮かせて運ぶような形ではどうしても飛行に至るほどの印象形成に至らず、自分の乗った椅子を自分で持ち上げようとする不格好な感じにしかならないんですよね。そこで自動術式をかけてみてはどうかという試みが現在行われていて、」
「はいはいそこまで」
ものすごい勢いで食いつかれて焦ったところで、タイミングよくユベルが戻ってくれたようであった。実に洗練された所作で甘茶のカップが埃と謎の書類にあふれたテーブルに器用に置かれ、そして、そしてお茶うけになのか、なぜか煮物が出てきた。
「すみません。茶菓子とか用意してなくて。昨晩の余りですけど」
どうやら「まとも枠」ではなく「ややまとも枠」であったようだ。
なお、帝都名物であるという芋の煮物は、しいて言うならば洋風肉じゃがといった具合で、よくよく味が染みていておいしかったのは確かであった。それが茶菓子として通用するかというと全く別の話であったが。
用語解説
・飛行呪文
実は現代では飛行呪文はあまり一般化されていない。
一部の術者たちがそれぞれに確立した流派でやっているため、まず体系化そのものがなされていない。
古代にはよく用いられていたとされる。
いかにも危険の匂いのする実験施設までやってきたのだった。
「はーい、どちら様ですかー?」
どこのお勝手か、と言いたくなるほど平凡な出迎えをしてくれたのは、もはや半分くらい元の色がわからなくなっている白衣を羽織った銀髪の女性だった。
「《巨人の斧冒険屋事務所》から参りました、冒険屋《魔法の盾》の紙月と未来です」
「冒険屋……あー、あー、あー、ちょっと待ってくださいね」
ぱたん、と静かにドアが閉められ、そしておそらくは本人としては隠しているのであろうが、隠し切れない大騒動がドアの向こうで繰り広げられ始めた。
「仮眠中止! 仮眠中止ー! 冒険屋さんもう来たって!」
「ええ? まだ十日くらいは猶予あるんじゃないの……?」
「でも来てるんだって! 起きてアカシ! せめて服着て!」
「わかった、わかったから、揺らさないで……」
「ああ、せめて見える所だけでも片付けないと!」
事前に連絡を入れないとどういうことになるのか、非常に反省させられる音声をお楽しみください。
まるで戦争でもしているのかという激しい物音の続く十分間が過ぎ、そして改めてドアが開かれた。
「お、お待たせしましたー。どうぞ、中へ」
「アッハイ」
仮設実験用施設とやらは、荒れに荒れていた。本人たちは何とか片付けたつもりなのだろうが、そもそもの感性がずれているのだろうか、それとももうどうしようもないとあきらめたのか、たたまれもしない洋服はクローゼットからはみ出ていたし、書籍の類は平然と床に積み上げられていたし、もう何やら片付けようがないと悟ったらしい器具の類が、シーツにくるまれてベッドに放り投げられていた。
少なくともこの乱雑さを理解しているらしい銀髪の女性は引きつった笑顔だが、もう一人の赤毛の女性となるともうへらへらと笑っているのでこちらは自覚なしとみていいだろう。
「えっと、お待たせしました。私が依頼人のユベルです。こっちがキャシィ」
「あはは、どうも」
「今お茶でも入れますので、そこら辺に座ってお待ちくださいな!」
ユベルと名乗った銀髪の女性はそそくさと席を外してしまったが、困ったのは残された紙月と未来である。そこらへんに、と言われても、一応応接セットらしきソファはあるのだが、書類やら書籍やらが積まれていて完全に用をなしていない。
仕方がなく適当に床におろして座ってみたが、埃がまたひどい。
「いやー、ごめんなさいね、もうすこしゆっくりいらっしゃると思ってまして」
そう笑って同じように腰を下ろしたのがキャシィ、なのだろうけれど。
「……? えーと私の顔に何か?」
「ああ、いえ、顔立ちが西方の方っぽいな、と」
紙月たち流に言えば、アジア人顔しているといったところだが。
「ああ、わかります? 実際生まれはそっちの方でして。でも帝国の人には名前が発音しづらいみたいで」
本当は明石菊子というのだと女性は名乗った。
「明石、が言いづらいからいつの間にかキャシィに。ユベルも、本名は夕張つつじって言うんですよ。あ、もう帝国名の方が慣れちゃってますんで、御気兼ねなく」
「はあ、そう言う次第でしたら」
もしかしたら元の世界の人間なのだろうかと思ったのだが、いまいちそのような空気ではない。向こうからこちらをうかがう様子もない。
そして何より。
「唇がちゃんと動いてる」
「だな」
「?」
つまり、紙月たちが日本語を喋っているつもりで話しても、実際には交易共通語として発音されているような、唇の動きと発音とに齟齬がないのである。
「しかし本当に早いおつきでしたね。手紙が届いたころかなーって今朝話してたばかりなんですけれど」
「まあ、魔女の流儀というやつでしてね。もう少し早めに連絡入れるべきでしたけど」
「魔女の流儀。気になりますね。まさか転移呪文でも?」
「空飛んできたって言ったら笑います?」
「飛行呪文! とても興味深い! 当代ではなかなか使える人どころか理論自体も遺失しかけてまして、私たちも遺跡から再発見を試みている最中でして、あ、対物ですか対人ですか? 物を浮かせる呪文があるんですけど、やっぱりあれじゃ飛行には至らないんですよね。自分を浮かせて運ぶような形ではどうしても飛行に至るほどの印象形成に至らず、自分の乗った椅子を自分で持ち上げようとする不格好な感じにしかならないんですよね。そこで自動術式をかけてみてはどうかという試みが現在行われていて、」
「はいはいそこまで」
ものすごい勢いで食いつかれて焦ったところで、タイミングよくユベルが戻ってくれたようであった。実に洗練された所作で甘茶のカップが埃と謎の書類にあふれたテーブルに器用に置かれ、そして、そしてお茶うけになのか、なぜか煮物が出てきた。
「すみません。茶菓子とか用意してなくて。昨晩の余りですけど」
どうやら「まとも枠」ではなく「ややまとも枠」であったようだ。
なお、帝都名物であるという芋の煮物は、しいて言うならば洋風肉じゃがといった具合で、よくよく味が染みていておいしかったのは確かであった。それが茶菓子として通用するかというと全く別の話であったが。
用語解説
・飛行呪文
実は現代では飛行呪文はあまり一般化されていない。
一部の術者たちがそれぞれに確立した流派でやっているため、まず体系化そのものがなされていない。
古代にはよく用いられていたとされる。