異界転生譚シールド・アンド・マジック

前回のあらすじ

帝都からお手紙が届いたのであった。
読まずに食べておけばよかった。





 二人が並んで覗き込んだ手紙には、およそ学者とは思えない、あるいは学者だからこそなのか、ひどい癖字で読みづらい文面が並んでいた。傾けたり遠のけてみたり、近づいてみたり傾けなおしてみたり、二人で何とかして解読した結果はこのようであった。

 つまり、字の汚さもとい難解さとは裏腹に、時候の挨拶から始まり、依頼の結果、予想よりもずっと多くの収穫があったことへの感謝の辞といった至極まっとうな、むしろ文化人的な内容がつらつらと並び、うまく二人の気が緩んだあたりで本題をぶつけてくるというよくできた手紙だった。

 本題はこうだった。

 貴殿等のもたらせし地竜の卵の孵化実験を執り行いたく、地竜討伐の実績ある御二方に是非とも御同席頂きたく候。

 つまり、大分前に帝都に送られたとかいう地竜の卵がどう巡り巡ったのかこの博士とやらのもとに辿り着き、今回孵化させてみようということになったので、万が一の危機の為に地竜を討伐した実績のある紙月と未来にも同席してもらって万難を排したい、とこのような次第であるらしい。

 勿論報酬についても確かな額が約束されていたし、協力者として論文や関係書類にも名を残すことを重ね重ね述べられているのだが、それが嬉しいかどうかと言われると微妙な所である。

「どう考えても失敗するイベントだよな、これ」
「バイオなハザードを予想させる感じだよね」

 古来から、強大な生物を御そうという実験は失敗してヘリコプターが落ちると決まっているものなのだ。

「帝都には行ってみたかったけど、なあ」
「ちょっとついでにって感じじゃないもんね、このイベントの重さ」

 帝都には、メートル法をはじめとした元の世界の知識を持ち込んだ誰かがいるかもしれない、ということを伝え聞いたのは海賊討伐の依頼でのことだった。元の世界に帰る手掛かりがあるかもしれないし、そうでなくても同郷の人間には会っておきたいところであった。

 とはいえ、なにしろ危険物扱いされてなかなか自由に動けない身の上で、ちょっと帝都観光に行ってきますというのは難しかったのである。別にアドゾは止めなかったが、組合は目を光らせていると言われてしまうとさすがにやる気が起きなくなった。

「いいじゃないか。どうせ退屈してたんだろう」

 ところが、そのアドゾが後押ししてきたのである。

「招待状貰ったんなら断る方が失礼じゃあないか」
「そうは言いますけどねえ」
「第一、地竜の孵化実験だって? そんなもの対処できるの、当代でそう何人もいないだろうさ」

 そう言われてしまうと、弱い所であった。
 実際には西部冒険屋組合にニゾやジェンティロといった面子があったように、帝都にも生まれたての地竜ぐらいどうとでもできるような戦力はありそうなものであったが、それでも何かあった時に、どうして来てくれなかったのだと言われると、心苦しい。

「帝都行きたかったんだろ?」
「まあ、ついでがあれば程度ですけど」
「ちょうどいいついでじゃないか。観光しといでよ」
「観光というにはあまりにも重めなイベントなんですけど」
「一生に一度もんだよ、地竜の孵化なんざ」
「そう言われるとなんだか貴重な気がしてきますけどね」

 うだうだともめる紙月とアドゾを止めたのは、手紙から離れて氷柱にへばりついていた未来だった。

「紙月、もういいよ。素直に行こうよ」
「つったってなあ」
「大人には大人の都合があるんだよ」
「へあ?」
「あんたもミライくらい大人になりなってことさ」

 つまりは、ちょうどいい切っ掛けがあったから、アドゾとしては面倒ごと、つまり紙月と未来によそに行ってもらって、少しは気の休まる時間を過ごしたいのだと、そう言うことであった。
 そしてまた更に言うならば、散々締め付けを食らわせてきている西部冒険屋組合の管轄を超えた帝都でひと暴れでもして、すかっと気晴らしでもして来いというのである。

「それにさ、紙月。結局南部でお刺身食べ損ねたじゃない」
「あー」
「帝都だと、南部から直送の冷蔵便でお魚届くから、お刺身食べられるらしいよ」
「おお」

 南部では何度となく生魚を食べる機会があったのだが、連れのハキロとムスコロが絶対腹を下すと怯えに怯えるので、食べ損ねてしまったのである。あれは大いにもったいないことであったと、確かに後悔していたのだ。

「南部よりすっごく高いけど、でもちょうどお金も入ったし、観光料金だと思ってさ」
「ううむ」
「どうせしばらくどこにも行けそうになかったんだし、折角なんだから御呼ばれしちゃおうよ」
「フムン」
「夏が終わるまで西部で氷柱抱いてるなんて、僕、嫌だよ?」

 言葉を重ねられれば重ねられるほど、気持ちはぐらぐら傾いてくる。
 しかし、しかしだ。

「どうしてまたそんなに推すんだ?」
「いや、だって、ほらさ」

 未来ははにかんだように笑った。

「怪獣が生まれるシーンって、やっぱり憧れるじゃないか」

 子供のためなら何でもできる、そんな親心が理解できた瞬間だった。





用語解説

・怪獣が生まれるシーン
 どうしてこうも心をくすぐるのだろうか。
前回のあらすじ

子供の笑顔には勝てなかった。





 帝都は帝国の首都ということで帝都と呼ばれており、スプロの町やミノの町といった風な帝都なんたらという名前はついていないらしい。ということを知ったのは、案内人としてついてきたムスコロから道中で聞いた話である。
 道中と言っても、馬車ではなく、例によって魔女の流儀、すなわち《魔法の絨毯》の上での話だが。

「もともと帝都ってのは、北方の荒涼の大地、いわゆる不毛戦線の向こうにいやがる聖王国に対する防衛陣地として始まったもんなんでさ」

 相変わらず見た目の割にインテリなムスコロは、絨毯の上に小物を並べて簡単な地図を作って見せた。

「辺境から北部までは峰高い臥龍山脈が塞いでやす。西部じゃあご存じ大叢海がうまく蓋をしてくれる形になってやす。ところが帝都の真北のあたりだけがちょうど臥龍山脈と大叢海が途切れた平野が続いていやして、何度となく聖王国はここから攻め入ってきやした。幾度とない争いで荒廃したこの地帯を不毛戦線と呼んでるんですな」

 聖王国というのは、人族のもっとも古い国家であり、文明の神ケッタコッタを信奉する単一種族国家で、そしてかつて東西両大陸をその手中に収めるところまで行った強大な国家であったらしい。
 しかしその専横に神々も嘆き、言葉の神エスペラントが遣わされ、各々の言葉と文化を持って争っていた各種族をひとつなぎの言葉交易共通語(リンガフランカ)で隣人種として結び付け、激しい戦いの末に狭い北大陸に押し込み、封じ込んだ。これが帝国の始まりであるという。

 その後帝国は、何度か内部で分裂しながらも、聖王国に動きがあるたびに一致団結してこれに抗い続け、そしてようやく今のように一つの国家として東大陸を平定したのだという。

「今でも聖王国は健在で、いざとなれば不毛戦線を舞台に対応できるよう、帝都ってのは帝国の文明の発信地であると同時に、軍事の最大集結地点でもあるわけです。……あー辺境除く」
「辺境?」
「辺境てなあ、まず人間が住み着くには向かないってくらい厳しい冬の訪れる土地でしてな。その上、臥龍山脈の切れ目がある」
「じゃあ聖王国がやってくるかもしれないのか?」
「聖王国でさえ来んでしょうな。なにしろ、代わりに飛竜どもがやってくる」

 聞けば飛竜というのは、地竜と同じく竜種の一種で、地竜ほど硬くはないけれど、自由自在に空を飛びまわり、まず攻撃の届く範囲まで引きずり下ろすことが大変であるという。単純な比較はできないものの、およそ人間が相手にするものではないという点では同じだとのことである。

「辺境のもののふたちは、帝国ができた頃から、この飛竜を臥龍山脈の向こうに抑え込むために、大陸中から種族文化問わずに集まった酔狂たちでしてな」
「こっちで例えりゃ、地竜が何頭もやってくるのを退けているわけだ」
「そういうわけでやす。帝国に参加したのも統一戦争のころというくらいで、詳しいことはあまり」
「統一戦争てなあ、いつ頃だい」
「五百年前ですな」
「そんなに経つのに、まだ知られてないのか?」
「いや、その時分の物語なんかは劇ではやったりしてるんですがね、何しろ、その、環境が厳しいでしょう」
「……あー、誰も、行かない、と」
「辺境の連中も、たまには出てくるんですけれど、暑いのが苦手みたいで、もっぱら北部辺りまでしか出てこないみたいですなあ」

 となれば、辺境人に会う機会があるとすれば、北部まで出向くか、死ぬ気で辺境に顔を出すか、あるいは奇特な辺境人がこっちに来てくれるのを待つほかにないわけだ。

「ああ、でも、最近は辺境出の冒険屋が北部で活躍してるみたいですな」
「へえ?」
「なんでも朝飯代わりに乙種魔獣をバリバリ食っているとか」
「帝国人その言い回し好きな」
「まあ冗談はさておき、得手不得手なく魔獣を平らげちまうってのは本当らしいですな」
「いずれ会ってみたいけど、こればっかりは縁だよなあ」
「なんでもパーティの頭は白い髪の娘だそうですから、冒険屋やってりゃそのうち出会うかもしれませんなあ」
「なんだいそりゃ。どんなジンクスだ」
「冒険屋の大家に南部はハヴェノのブランクハーラ家ってのがありまして、八代前から冒険屋やってるんですがね」
「酔狂の極みだなあ」
「その家でも冒険屋として大成するのはみんな白い髪の持ち主だそうでして、昔っから白い髪の冒険屋は旅狂いってえ話なんでさ」
「成程なあ」

 ブランクハーラというのは、交易共通語(リンガフランカ)で白い髪という意味である。

 ブランクハーラの者に誰か会ったことがあるかと尋ねてみれば、子供の頃に西部までやってきたブランクハーラの女に会ったことがあるという。

「《暴風》なんてあだ名された女でしたがね、ありゃあ本当にすさまじいもんでしたよ。二つ名の通り、嵐のようにやってきて、嵐のようにずたずたに引き裂いて、そして嵐のように去っていくんでさ」
「何その天災」
「まさしく天災でしたよ、魔獣どもにとっちゃ。姐さんも大概強いが、あの女も地竜ぐらいはやれたんじゃないかってそう思いますね」
「本人を前に言うじゃないか」
「酔った勢いで斬岩なんてやらかすやつでしたからね」
「岩くらいなら俺だって」
「素手で」
「素手で」
「砕いたとかじゃなくて、岩を、素手で、スパッと切っちまったんでさ」
「人間の話してる?」
「ブランクハーラの話をしてやす」
「ああ、そういうジャンル……」
「全く恐ろしい女でしたよ、《暴風》マテンステロってのは」

 およそそのように話をしているうちに、馬車で最低十日はかかる道は瞬く間に過ぎていったのだった。





用語解説

・聖王国
 人族最古の国家にして、隣人種最大の戦犯。
 かつて東西大陸を支配下に置いたものの、ひとつなぎの言語交易共通語(リンガフランカ)を得た隣人種たちに叛逆され、現在は北大陸に押しやられている。
 今も返り咲く時を待っているとして、帝国と現在もにらみ合っている。

・臥龍山脈
 大陸北東部に連なる険しい山々。巨大な龍が臥したような形であるからとか、数多くの龍が人界に攻め入らんとして屠られ、そのむくろを臥して晒してきたからとか、諸説ある。
 北大陸に竜種たちを抑え込んでくれている障壁でもある。

・不毛戦線
 幾度となく戦場となり、荒れに荒れ果てたことからついた地名。
 聖王国と帝国の国境線ともいえる。

・統一戦争
 五百年前に、南部で連鎖的に発生した戦争をきっかけに、帝国が東大陸統一に乗り出した大戦。
 十年以上かけて帝国が勝者となったが、その後も何度か内乱はあった。

・辺境出の冒険屋
 実は辺境には冒険屋が少ない。皆、自分でどうにかできてしまうくらいに強いからだ。
 その辺境から出てくる冒険屋というものはもっと少なく、ちょっとした話題にはなるようだ。

・ブランクハーラ
 記録に残るだけで八代前から冒険屋をやっている生粋の酔狂血統。
 帝国各地で暴れまわっており、その血縁が広く散らばっているとされる。
 特に白い髪の子供はブランクハーラの血が濃いとされ、冒険屋として旅に出ることが多いという。

・《暴風》マテンステロ
 ブランクハーラの冒険屋。二刀流の魔法剣士。白い髪の女で、気性はいかにもブランクハーラらしいブランクハーラ。
 つまり自分勝手で気まぐれで旅狂いで酔狂。
前回のあらすじ

帝都までの道のりは速いものだった。





 帝都近くまでたどり着いて絨毯を降り、さて、見上げた門は実に立派なものだった。外壁自体がまず他の町々よりもはるかに立派で、比べ物にならない。高く、分厚く、そして土蜘蛛(ロンガクルルロ)のものとみられる装飾が壁面に緻密に彫り込まれているのである。

「こりゃあ、壁面見物してるだけで日が暮れそうだなあ」
「以前来た時に聞いたんですがね。ありゃあ全部ただの彫刻じゃあなくて、魔術彫刻だそうで」

 西部で見かけた刺繍で魔術を織り込むのと同様に、彫刻の形一つ一つが魔術の式となり陣となっているのだそうである。

「そりゃあ、調べてたら日が暮れるだけじゃすまなそうだな」
「何しろ古代からのものもあるんで、大学にゃあ壁面の研究している連中もいるそうでさ」

 主には魔獣除けや、単純な強度の底上げと言ったもののほか、外部からの攻撃に対して自動で反撃するシステムや、悪意ある魔術の侵入を防ぐ機能があるそうである。

「姐さんが使えるかどうかは知りやせんが、転移呪文も帝都の中には侵入できないそうでさあ」
「……それ、試したら怒られるかな」
「あっしのいねえところでやってくだせえ」

 《魔術師(キャスター)》の魔法を、初等のものならすべて揃えている千知千能(マジック・マスター)の紙月である。いくらか高等な呪文とはいえ、転移呪文も心得ている。とはいえ、警告されたうえで使うほど軽率ではなかったが。

 門までの列は長かったが、いざ辿り着いて衛兵に冒険屋章と招待状を見せると、検査もほどほどにさっさと通されてしまった。

「帝都大学より通達が来ております。随分お早いおつきですね」
「魔女のたしなみでね」
「フムン。迎えの馬車を用立てますので、しばしお待ちを」

 慌てた様子で衛兵たちは準備を進めてくれた。
 ムスコロは少し気まずげに、耳打ちした。

「普通は少し前の宿場や町から、飛脚(クリエーロ)なんかでそろそろつきますってえ手紙を出しておくんでさ」
「そういうもんか」
「あっしもこういうきちんとした出迎えは慣れねえんで、すいやせん」
「いや、俺たちも気が付かなかった」

 なにしろ電子メールも電話もない世界である。連絡というものはもう少し気にかけなければならないなと紙月たちは反省した。相手があることなのだから、魔女の流儀だからと何もかも自分の都合で動いていては、いずれどこかで問題が生じていただろう。

 ムスコロのような現地人の案内がこれほどありがたいと思うことはない。
 しかしそのムスコロも、招待されているわけではないし、用事がすむまで観光でもしていやすとさっさと姿を消してしまった。
 なにしろ酒さえ入っていなければ妙に察しのいい男であるから、面倒ごとの匂いを嗅ぎつけたのだろう。山火事を察する野ネズミのごとしである。

 少し待って用意された馬車は、貴族が使いそうな立派な馬車であった。帝都大学の馬車であるという。そして珍しいことに、馬車を引いているのは馬であった。

「いや、馬車なんだから馬なんだけどよ」
()()()()()って、見るのも久しぶりだよね」

 この馬は、いわゆる四つ足で、蹄があって、鬣のある、元の世界と同様の馬であった。帝都では馬と言えばこの馬のことというくらい、蹄ある馬が多く用いられている。これはかつて聖王国、つまり人族の勢力を追い返した時に大量に取り残された馬たちの子孫であるという。

 さて、この用意された馬車に乗って帝都を進むのだが、対聖王国の防衛陣地と聞かされていた二人の目には、帝都はかなり洗練された町並みに見えた。石造りの町並みは、それこそ現代に残るヨーロッパの町並みにも似た市街である。
 馬車の通る車道があり、人の通る歩道があり、上下水道が敷設され、街灯らしきものも等間隔でたてられている。建物は多く三階以上あり、計画的に碁盤目状のブロックが形成されていた。

「これはまた、想像以上の町並みだなあ」
「帝都は聖王国時代の町をそのまま拡張して使っていますからね、遺跡レベルの高度な技術がふんだんに使われています」

 遺跡というと古びたイメージがあるが、この場合、古代の非常に高度な技術が、その知識だけが失われて再研究されているような意味合いである。
 御者によれば特に上下水道などは非常に洗練されており、蛇口をひねれば水が出るというのは、帝都を含め大きな町にしか見られない特徴であるそうだった。

 確かにスプロでも、そう言った施設は見かけたことがない。

 馬車はしばらくアスファルト敷きらしい非常に滑らかな車道を揺れも少なく進み、そしてどこまで進むのかと思ったあたりで、別の門から外に出てしまった。

「おっと?」
「帝都大学は非常に敷地が広大でして、帝都郊外に建てられているんですよ」

 御者によればそのような事であった。

 そうして馬車でしばらく進み、これまた普通の町程度に立派な門をくぐって、それでもまだ大学らしき建物というものは見えない。

「本棟はこれよりさらに先に進みます。我々の目的地である魔術科の実験用仮設施設ははずれの方ですね」

 馬車は進みながら、あちらが魔術科の棟、あちらが農業科の棟、あちらが政治学の棟、と説明していってくれるのだが、成程、帝都大学というのはもう、それ自体が一つの町と思った方がよさそうである。立ち並ぶ棟はそれぞれに馬車で移動するのが普通のようで、かなり贅沢な土地の使い方である。

「もっぱら魔術科のせいです」

 これも御者の言である。

「何しろ学問というものは様々な分野がかかわってくるものですから、昔はそれぞれの棟も近かったのですけれど、魔術科棟から火災やら爆破やら変な煙やら新種の魔獣やらと湧き出てきたので、仕方なくそれぞれの棟を離して安全を図っております」

 それでなくとも学者というものは近づけておいてもいいことはないというのが御者の言で、喧嘩しないように遠ざけておいた方が本人たちのためであるという。なかなかずけずけ言う御者である。

 そのような与太話を繰り広げながら辿り着いたのが、仮設であるという割には立派な木造の建物だった。装飾は少ないが、規模だけなら屋敷と言っていい。

「では、私はこれで」

 そういってさっさと去っていってしまう御者の姿は、あれは逃げ出しているのではと思わせるほどの拙速ぶりである。余程魔術科とやらと関わりたくないらしい。

 そして取り残された二人はというと、ノッカーを鳴らす前に、よくよく脱出経路を相談するのであった。





用語解説

・魔術彫刻
 その掘方や形状そのものが魔法となっている彫刻。
 特定の状況、または呪文などに反応して効果を現す。

前回のあらすじ

いかにも危険の匂いのする実験施設までやってきたのだった。





「はーい、どちら様ですかー?」

 どこのお勝手か、と言いたくなるほど平凡な出迎えをしてくれたのは、もはや半分くらい元の色がわからなくなっている白衣を羽織った銀髪の女性だった。

「《巨人の斧(トポロ・デ・アルツロ)冒険屋事務所》から参りました、冒険屋《魔法の盾(マギア・シィルド)》の紙月と未来です」
「冒険屋……あー、あー、あー、ちょっと待ってくださいね」

 ぱたん、と静かにドアが閉められ、そしておそらくは本人としては隠しているのであろうが、隠し切れない大騒動がドアの向こうで繰り広げられ始めた。

「仮眠中止! 仮眠中止ー! 冒険屋さんもう来たって!」
「ええ? まだ十日くらいは猶予あるんじゃないの……?」
「でも来てるんだって! 起きてアカシ! せめて服着て!」
「わかった、わかったから、揺らさないで……」
「ああ、せめて見える所だけでも片付けないと!」

 事前に連絡を入れないとどういうことになるのか、非常に反省させられる音声をお楽しみください。
 まるで戦争でもしているのかという激しい物音の続く十分間が過ぎ、そして改めてドアが開かれた。

「お、お待たせしましたー。どうぞ、中へ」
「アッハイ」

 仮設実験用施設とやらは、荒れに荒れていた。本人たちは何とか片付けたつもりなのだろうが、そもそもの感性がずれているのだろうか、それとももうどうしようもないとあきらめたのか、たたまれもしない洋服はクローゼットからはみ出ていたし、書籍の類は平然と床に積み上げられていたし、もう何やら片付けようがないと悟ったらしい器具の類が、シーツにくるまれてベッドに放り投げられていた。

 少なくともこの乱雑さを理解しているらしい銀髪の女性は引きつった笑顔だが、もう一人の赤毛の女性となるともうへらへらと笑っているのでこちらは自覚なしとみていいだろう。

「えっと、お待たせしました。私が依頼人のユベルです。こっちがキャシィ」
「あはは、どうも」
「今お茶でも入れますので、そこら辺に座ってお待ちくださいな!」

 ユベルと名乗った銀髪の女性はそそくさと席を外してしまったが、困ったのは残された紙月と未来である。そこらへんに、と言われても、一応応接セットらしきソファはあるのだが、書類やら書籍やらが積まれていて完全に用をなしていない。

 仕方がなく適当に床におろして座ってみたが、埃がまたひどい。

「いやー、ごめんなさいね、もうすこしゆっくりいらっしゃると思ってまして」

 そう笑って同じように腰を下ろしたのがキャシィ、なのだろうけれど。

「……? えーと私の顔に何か?」
「ああ、いえ、顔立ちが西方の方っぽいな、と」

 紙月たち流に言えば、アジア人顔しているといったところだが。

「ああ、わかります? 実際生まれはそっちの方でして。でも帝国の人には名前が発音しづらいみたいで」

 本当は明石菊子というのだと女性は名乗った。

「明石、が言いづらいからいつの間にかキャシィに。ユベルも、本名は夕張つつじって言うんですよ。あ、もう帝国名の方が慣れちゃってますんで、御気兼ねなく」
「はあ、そう言う次第でしたら」

 もしかしたら元の世界の人間なのだろうかと思ったのだが、いまいちそのような空気ではない。向こうからこちらをうかがう様子もない。

 そして何より。

「唇がちゃんと動いてる」
「だな」
「?」

 つまり、紙月たちが日本語を喋っているつもりで話しても、実際には交易共通語(リンガフランカ)として発音されているような、唇の動きと発音とに齟齬がないのである。

「しかし本当に早いおつきでしたね。手紙が届いたころかなーって今朝話してたばかりなんですけれど」
「まあ、魔女の流儀というやつでしてね。もう少し早めに連絡入れるべきでしたけど」
「魔女の流儀。気になりますね。まさか転移呪文でも?」
「空飛んできたって言ったら笑います?」
「飛行呪文! とても興味深い! 当代ではなかなか使える人どころか理論自体も遺失しかけてまして、私たちも遺跡から再発見を試みている最中でして、あ、対物ですか対人ですか? 物を浮かせる呪文があるんですけど、やっぱりあれじゃ飛行には至らないんですよね。自分を浮かせて運ぶような形ではどうしても飛行に至るほどの印象形成に至らず、自分の乗った椅子を自分で持ち上げようとする不格好な感じにしかならないんですよね。そこで自動術式をかけてみてはどうかという試みが現在行われていて、」
「はいはいそこまで」

 ものすごい勢いで食いつかれて焦ったところで、タイミングよくユベルが戻ってくれたようであった。実に洗練された所作で甘茶(ドルチャテオ)のカップが埃と謎の書類にあふれたテーブルに器用に置かれ、そして、そしてお茶うけになのか、なぜか煮物が出てきた。

「すみません。茶菓子とか用意してなくて。昨晩の余りですけど」

 どうやら「まとも枠」ではなく「ややまとも枠」であったようだ。
 なお、帝都名物であるという芋の煮物は、しいて言うならば洋風肉じゃがといった具合で、よくよく味が染みていておいしかったのは確かであった。それが茶菓子として通用するかというと全く別の話であったが。





用語解説

・飛行呪文
 実は現代では飛行呪文はあまり一般化されていない。
 一部の術者たちがそれぞれに確立した流派でやっているため、まず体系化そのものがなされていない。
 古代にはよく用いられていたとされる。

前回のあらすじ

散らかり、荒れ果てた研究所へようこそ。





 そもそもの話として、どうしてまたよくわからない鉱石を集めていたような学者が地竜の卵の孵化実験などしているのかということを尋ねてみると、それは逆なのだという答えが得られた。

 つまり、先に地竜の卵が彼女らの手元に来て、その調査のために鉱石を必要としていたということなのである。

「卵内部を窺う透視術式にはアスペクト鉱石を触媒として用いることが一般的なんですけれどこの鉱石が面白いことに純度も大事ですがその質量に比例して透視精度を」
「簡単に言うと卵の中身を確認してみるのにたくさんあの鉱石が必要だったんですね。石食い(シュトノマンジャント)の素材は魔術科で欲しがってる人がいましたのでついでで。協賛ってやつですね」

 キャシィが盛り上がってユベルがなだめるというか放置するというのがこのコンビの流れであるらしかった。

 ともあれ、この二人が地竜の卵の調査を任され、そのために鉱石を必要としていたということは分かった。

「お二人はその、地竜の専門家、ということに?」
「とんでもない。私たちは、その、何というか……もっとこう……」
「私は魔獣全般の、特に魔獣特有の魔術式の研究をしています。キャシィはもっといい加減です」
「いい加減?」
()()()()なんですよ、言ってみれば。面白そうであれば何でもします」
「はあ」
「一応、これでも優秀なのは確かなのでご安心ください。優秀ではあります」

 能力と人間性というのは必ずしも一致するものではないらしい。
 あはははー、と能天気そうに笑う姿には邪気はないが、同時に優秀そうという空気もない。

「まあさすがに初見で信用してください、危険があるかもしれない実験に参加してくださいというのは難しいかもしれませんので、一応簡単な自己紹介を。私はこれでも帝都大学で教鞭をとっている教授です」
「教授さん」
「キャシィも一応助教授の資格は持ってます」
「すごいのかな?」
「すごそうではある」
「うーん、学者相手だったらもう少し説明しやすいのに……あ、そうだ、私の発明品見ます?」

 せっかくなので見せてもらったのは、一見ごてごてした鎧である。

「資材運ぶのに結構重宝するんですよ」
「フムン?」
強化鎧(フォト・アルマージョ)といいます。霹靂猫魚(トンドルシルウロ)という魔獣の電流術式を流用しています。筋肉に適切な電流を流して、いわゆる火事場の馬鹿力をいつでも出せるようにしたものですね」
「成程、それで資材運びにね」
「でもそれって、あとで疲れるんじゃ?」
「そうですね、筋肉痛待ったなしです。でも外力で補助する既存の強化鎧よりはかなり小型になって、ようやく試用できるかもってくらいにはなってますね」
「出力は着用者次第、か」
「そこが難点ですね。ある程度鍛えた冒険屋さんなんかは自力でそのくらいできますから、実用段階まではまだまだ」

 その他にもユベルは様々な研究成果を披露してくれた。

「例えばこれなんかは、試作品の飛行具ですね」
「ひこうぐ?」
「空を飛ぶ道具です」

 そう言って見せてくれたのは、何やらごてごてとした機械がついたような、板である。

「こちらの操作盤で遠隔操作できます。こんな感じで……」

 ユベルが一抱えもありそうな操作盤とやらをいじると、その板が重低音を響かせながら、ゆっくりと空中を移動する。

「室内なのでゆっくり動かしてますけれど、実際には人が走る程度の速度は出ます」
「遠隔操作可能な距離はどれくらい?」
「これは試作品なので、まあ十メートルくらいですかねえ。きちんと調整すれば二十くらいは行けそうです」
「乗っても大丈夫かな?」
「うーん、その鎧だとちょっときついかもです。出力が内蔵してる魔池(アクムリロ)頼りなので……」
「あく、なんですって?」
魔池(アクムリロ)ですね。ようするに、魔力をため込んだ石だと思ってください」
「電池みたいなものか」
「成程」
「私は主に魔法を使えない人たちが魔法を使えるようにという観点で発明していますから、どうしても普通の魔道具よりごてごてするし、出力で劣るんですよねえ」

 普通の魔道具と言われて思い当たるのが、精霊晶(フェオクリステロ)を用いた道具の類である。例えば火精晶(ファヰロクリスタロ)を用いた小さなコンロであったり、風精晶(ヴェントクリスタロ)を用いた《金糸雀の息吹》などである。
 そう言った品々のことを話すと、ユベルは頷いた。

「あれらは極めて単純な、火精晶(ファヰロクリスタロ)であれば火を起こす、風精晶(ヴェントクリスタロ)であれば風を起こすといった、精霊の力を特定の形に向けて発揮しているんですね」

 例えばこれなどは、と取り出したのは、以前冒険屋ニゾが使ってみせた《静かの銀鈴》である。

「これは振れば一定範囲内の音を遮断する効果がありますが、これは金属自体に練りこまれた風精晶(ヴェントクリスタロ)が、風の流れを遮断することで音を遮断しているという造りです。これは《金糸雀の息吹》に比べるとかなり複雑な仕組みですけれど、やってることは同じです」

 翻って、とユベルは空中に浮かんだ板に腰かけた。

「この浮遊という現象は、一見風精晶(ヴェントクリスタロ)の仕事のように見えますが、もし風精晶(ヴェントクリスタロ)で揚力を生み出した場合、常に風が発生して消費が莫大になるだけでなく、周囲への影響が大きすぎます」
「じゃあどうやって浮かしてるんです?」
「うーん、非常に説明しづらいんですけれど、えっとですね、物が落ちるということはですね、」
「重力を操ってるんですか?」
「重力! どこでその言葉を?」
「あー、まあ、魔女のたしなみとして」
「素晴らしい! そう、重力への干渉がこの浮遊術式の肝なんです。単に重力を軽減するだけではふわふわと頼りありませんから、適切な斥力を発生させることで同一座標に固定できるということがこの発明の素晴らしい点でして、そのあたりを感性でどうにかできる魔術師どもは全く理解してくれないんですよわかりますかこの屈辱が! 木から林檎(ポーモ)が落ちる理屈さえも想像していない古典的世界観の持ち主たちがよりにもよってこの私の発明した、機械的魔術装置を『漂う板』呼ばわりしやがるんですよクッソいま思い出しても腹が立つあの教授いつかとろかした乾酪(フロマージョ)を鼻に詰めて」

 しばらくお待ちください。

「というわけでして、理論がもう少し整理されて、必要な術式を絞ることができれば、もっと小型化することも可能なんです、この《静かの銀鈴》のようにね」
「よくわかりました」
「うん。もうお腹いっぱい」
「あ、ユベル終わった?」

 訂正事項。
 『まだまとも枠』改め『マッド二号』。





用語解説

・アスペクト鉱石(Aspekto)
 透視術式の触媒として用いられる。精錬して純度を上げ、加圧して密度を上げることで、より精密な透視が可能となる。

強化鎧(フォト・アルマージョ)(fort armaĵo)
 外部動力でアシストするパワードスーツではなく、着込んだものの筋肉に微細な電流で刺激を与えて反射速度やいわゆる火事場の馬鹿力を発揮させる鎧。実験段階である。

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)(tondro-siluro)
 大きめの流れの緩やかな川に棲む魔獣。成魚は大体六十センチメートル前後。大きなものでは二メートルを超えることもざら。水上に上がってくることはめったにないが、艪や棹でうっかりつついて襲われる被害が少なくない。雷の魔力に高い親和性を持ち、水中で戦うことは死を意味する。身は淡白ながら脂がのり、特に揚げ物は名物である。

魔池(アクムリロ)
 魔力をため込んでおける媒体。無色の精霊晶(フェオクリステロ)などとも言われる。

・浮遊術式
 重力に干渉することで物体を浮遊させている、らしい。

前回のあらすじ

マッドが一人、マッドが二人。





 両博士のマッド具合もとい優秀さがよくよくわかったところで、話題は地竜の卵へと移っていった。

「魔獣の専門家として、と言いたいところですが、何しろ地竜の卵の観察はこれが初めてでして、おそらく古代聖王国時代でさえこんな研究はなかったでしょうね」
「つまり我々が世界で最初、と言いたいところなんですけどねえ」
「そうではない、と?」
「どうもそうなんじゃないかな、と」

 両博士の言うところによれば、今回発見された地竜の卵は、自然下のものとして見るにはあまりにも不自然な点が多いとのことだった。

「まず我々は、この卵を奇麗に掃除しました」
「そこから」
「ええ、()()()()なんですよ」
「この卵は奇妙なほど清浄な状態で保たれていました。つまり、地面に接していた部分を除いて、これと言って汚れなどが見当たらなかったんです」
「…………それが?」
「わかりませんか。つまり、この卵は()()()()()んですよ」

 小首をかしげる二人に、両博士はいくつかの書類を取り出した。

「年代測定呪文によれば、この卵はまだ若いもののようでしたが、それでも、十年か、二十年程経っているようでした」
「そんなに卵のままなんですか?」
「大型の魔獣には珍しいことではありませんね。休眠状態のようなものです」
「問題はそこではなく、それだけ森の中で放置されていたにしては、表面に汚れがないということです」
「そっか。十年も転がってて汚れない訳ないですもんね」
「そうです。そしてさらに奇妙な点が、周囲が平穏すぎるということですね」
「平穏?」

 ユベルは地図のようなものを取り出して二人に見せた。それはあの卵の見つかった森とその付近の地図であるらしい。

「この地点が卵の見つかった地点で、このまっすぐと伸びる破壊痕が、御二方が討伐した地竜の進路です」
「成程」
「そしてこちらの短い破壊痕が、卵から孵ったとみられるもう一頭の進路です。こちらはかなり前のもののようで、すでに森が回復しつつあり、はっきりとした進路は追えていません」
「十分破壊されているように見えるんですけど」
「新しい傷跡についてはそうです」

 キャシィが言うのは、つまりこの卵を産んだ親の地竜はどうなったかということであった。

「ここに卵を産んだ地竜が十年前か二十年前にいたとすれば、当然この辺りはその当時破壊されつくされているんですよ。幼体ではない、立派な巨体を誇る成体の地竜によって」
「成体ってどれくらいの大きさなんですか?」
「少なくとも体長十メートルは超えます。観測史上最大は、えーと、」
「二十五メートルですね。個体名ラボリストターゴ。討伐済みです」
「討伐できたんだそんなの」
「まあ百年以上前の記録ですから、伝説みたいなもんですけど」

 少なくとも十メートルを超える怪獣がのしのしと破壊して回ったとしたら、それは十年か二十年前のことだとしても記録に残っていることだろう。森にも破壊の跡が残っていておかしくない。しかし実際には卵だけが残されており、その卵もきれいなものだという。

「騎士ジェンティロたちが回収してくれた卵の殻も調べてみましたが、こちらはコケや土埃など、古い方で二十年程度、新しい方、つまりあなた方が討伐した方でも年単位で経過しているように見受けられる汚れかたでした」
「それってつまり……」
「ええ。まるで誰かが卵だけをここに放置したみたいじゃないですか。それも一度だけでなく、継続的に」

 これは奇妙な話であった。そもそもが目撃証言自体少ない地竜という生き物の卵を、それも間をおいておきに来るというのは、どう考えても自然現象などではありえない。

「最初はもしかすると地竜って生えてくるのでは、とも思ったんですけど」
「あ、思ったのはキャシィ(このバカ)だけです。お間違えなく」
「まあさすがにそんなことはなかろうと現地の調査も続けてもらった結果、人為的な痕跡が見つかりました」
「つまり」
「つまり本当に文字通り、誰かが卵だけ置いていったんですよ」
「た……托卵?」
「そんな面倒見れなくなったから捨ててきましたみたいな発想やめてください」

 叱られてしまった。

 とにかく、とユベルは言う。

「我々は、というより正確にはもうちょっと上の方々は考えました。これは一体どういうことなのだろうかと」

 例えば、地竜の卵をたまたま発見した冒険屋が、売れるかもと思ってここまで運んだものの、何かしらの理由で冒険屋側が失踪。確かに売れるかもしれないが、わざわざ運び込んだ先が西部の森の中というのも意味が分からない。もっと喧伝したことだろう。

 ではたまたま見つけてしまった領主が、危険なので他の領まで捨てに行ったのだろうか。いや、それならば破壊してしまった方が早いだろうし、危険を冒してまで他領に運び入れる意味が分からない。では逆に、秘密兵器として領主が秘匿していたのか。いや、うっかり自領で孵ってあわや大惨事だった。

 となれば、やはり。

「帝国はこれを他国による破壊工作であると疑っています」
「他国って、つまり」
「我らが怨敵、帝国の長らくの宿敵、聖王国の仕業であると」





用語解説

・ラボリストターゴ(Laboristo tago)
 体長二十五メートルを超える超大型の地竜。だったとされる。
 百年以上前の伝説のため、はっきりとした記録は残っていない。

前回のあらすじ

地竜の卵には破壊工作の疑いありと論じる両博士であった。





「我々は一研究者ですので、あまり多くは知らされておりません。しかし帝国は冒険屋組合に掛け合って、すでに事態の調査を手掛けているようです。もしかするとあなた方も、聖王国の破壊工作と思しき異常事態に遭遇したことがあるのでは?」

 ユベルの問いかけにはっと思いついたのは、先の海賊船事件である。

「そう言えば、ハヴェノで受けた依頼で、海賊船を討伐したんだが、最新鋭だとかいう船よりよっぽど進んだ潜水艦だったな」
「潜水艦! つまり、海中に潜って進むという?」
「自在に進めるかどうかは見てないですけど、海中から現れたのは確かですね」
「そのような技術を帝国は保有していません。ファシャであっても持ち合わせていないでしょう。いないはずです! まだ動力船構想が仕上がったばかりなんですよこっちは!?」
「ですよと言われても」
「それを! 海中に! これは間違いなく聖王国の仕業です!」
「そう、なのかなあ」
「そう、なのです!」

 キャシィが断言するところによれば、現在東西大陸で最も先進的なのが巨大な魔力炉のエネルギーで推進機を回転させて進む動力船構想とやらで、これもまだ試作機が出来上がったばかりだという。それを一足飛びで飛び越えて、潜航可能にする技術は、いくら何でもまだ机上にしかないという。

 そうなるとそんなものを引っ張り出してこれるのは、古代聖王国時代からの技術をほぼ正当なままに受け継いでいる聖王国をおいて他にはないという。

「他に詳しい点は!?」
「あーっと、なんだっけ、対魔法装甲が優秀だとかで、俺の魔法防がれたんですよね」
「地竜殺しの魔法を防ぐ!? 手加減したんですか!?」
「いや、普通に沈めるつもりだったんだけど、しれっと受け流されました」
「それだけの魔法を攪乱解除する対魔法装甲なんて、それこそ帝都の城壁張りじゃないですか!?」
「俺に言われても」
「むむむむ……はっ、もしかして先ごろ大量に持ち込まれた材木みたいなやつですか!?」
「いや知らないですけど……でも帝都に運んで調査するとか言ってたような」
「うん、確かにそう言ってたね」
「こっちが忙しすぎて忘れてましたけど、えーとどこやったっけ」

 二人は整理という名の隠ぺいをしたばかりの部屋をひっくり返してくしゃくしゃになった書類を見つけ出してくると、大いに騒ぎ出した。

「これですよこれ! 積層装甲に塗装基盤式送力装置!」
「なん……なんですって?」
「積層装甲に塗装基盤式送力装置ですよ! 何枚もの装甲版を重ねて防御力を高めると同時に、魔導体を装甲に直接塗り込むことで、送力線を介することなく外部まで魔力を伝達させる新概念装甲! ご覧になった潜水艦には外部に砲口などが見当たらなかったでしょう!?」
「あ、ああ、そう言えば、つるんとしてたな」
「そうです! 最外部の装甲にはなんと塗装式の! 塗装式ですよ! 塗装式の魔導砲! これによって表面の凹凸をなくして防御力を増すと同時に、既存の魔導砲に見られた彫刻部分などの欠損をよりたやすく補修することができるんです!」
「お、おう」
「開閉部が極端に少なく気密性を高められ、仮に陸上でこんな兵器を持ってこられたら重砲でもないと装甲ぶち抜けません――ところがどっこい! 装甲版に金属装甲も用いられている粘り強い積層装甲が物理防御も万全にしているわけです! 何やったらこんな怪物沈められるってんですか!?」
「えーっと、体当たりで」
「質量攻撃! まあそりゃそうなりますよね。これだけの強力な魔力炉積んでる対魔法性能抜群の塊ぶち抜くとしたらそうなりますよね」
「魔力炉?」
「そう、魔力炉! 魔力を注ぎ込むことその魔力量を増大させる拡張装置! いったいどんな燃料燃やせばこれだけの出力を保てるのか!」
「そういえば、潜水艦の乗組員、かなり凄腕の魔術師だったな」
「魔術師! 聖王国の魔術師ともなればこのくらいの規格なら……参考までにどの程度の腕前でした?」
「短い詠唱で船上を丸焼けにするくらいだったね」
「素晴らしい! それだけの実戦魔術師がまだ存在していたとは! 百年間ただ眠ってたわけではないようですね聖王国も!」

 何やら大はしゃぎの二人にドン引きせざるを得ない紙月と未来であったが、こうして説明されると、いよいよもってあの海賊の異常さというものが見えてきた。技術的にも裏付けがあるというのは、何とも言えない説得力を持って聖王国暗躍説に信ぴょう性を与えるのだった。

「俺、覚えてろって言われちまったよなあ」
「自爆したけど、あれ、本人は生き延びてそうだよねえ」

 フラグというのならば再戦フラグが立っているのだろう。件の炎の魔術師とは。

「まあ、とはいえこの規模の潜水艦が大量に建造されているわけではなさそうですね」

 騒ぎ負えてすっきりしたのか、キャシィはけろりとした顔でそう言ってのける。

「そうなんですか?」
「恐らくですけれど。もっと建造されていたなら今も通商破壊は止んでいませんよ……というより、通商破壊は二の次で物資の獲得が目的だったみたいですし」
「そういえば、執拗なまでに荷物を根こそぎにしてるんだったな」
「多分、向こうも余裕がなかったんでしょう。北大陸から南部の海までは、ぐるっと大陸を回ってくる必要がありますからね」

 成程それは長い旅路であったことだろう。現行の帆船に比べて乗組員の数はかなり少なく済んだだろうという調査結果が出ているらしいが、それでも人間が動かしている以上、食料や水というものは欠かせない。船を沈めなかったのは、沈めるまでもなく制圧できるという自信があった以上に、沈めたら物資が手に入らないという切実な事情があったのだろう。

「御二方は何かと縁がありそうですねえ」
「そうですかねえ。あとは、精々大嘴鶏食い(ココマンジャント)の大量発生とか石食い(シュトノマンジャント)の大量発生くらいですよ」
「大いに関係ありそうじゃないですか」
「ええ?」
大嘴鶏食い(ココマンジャント)の大量発生なんて滅多にないですし、折り悪く十何年に一度かというクリルタイの頃に発生するなんて時期が良すぎますね。石食い(シュトノマンジャント)だって人が出入りしてる鉱山にはもともとそんなに湧くもんじゃないんですから」
「おいおい、陰謀論は勘弁してくださいよ」
「ふふふ、まああんまり脅かすのはこれくらいにしておきましょう」
「肝心の地竜の卵という、連中につながるかもしれないものが手中にあるわけですしね」
「ふふふ」
「ふふふあははははははははッ!!」

 どう考えても徹夜明けのハイなテンションか、悪役側のマッドサイエンティストだった。





用語解説

・積層装甲に塗装基盤式送力装置
 オニオン装甲にプリント基板式送電装置もとい積層装甲に塗装基盤式送力装置。
 複数の素材からなる装甲版をそれぞれが支えあうように複雑に積層することで従来の船舶よりも格段に防御力を底上げされた装甲。気密性も高い。
 またこの装甲には、魔力伝達性の高い素材を直接塗り込み、焼き付けることで、送力線などを必要とせずに外部まで魔力を伝達させることに成功している。

・塗装式の魔導砲
 魔力伝達性の高い素材を直接塗り込み、焼き付けることで形成された魔導砲。魔導砲の位置の調整ではなく術式の調整によって照準を定めるため技術難度はかなり高くなっているが、外部との接点を減らし気密性を上げられるほか、技術に通じてさえいれば修復がたやすい。

・魔力炉
 製造コストそのものが非常に高いものの、少ない魔力を大幅に底上げして拡大することができる炉である。帝国でもまだ大掛かりなものは数多くない。

前回のあらすじ

マッド解説回。





「はい、というわけでこちらが地竜の卵でございます」
「そんな料理番組みたいに言われましても」
「実際美味しいんですかね。地竜って」
「…………亀っぽいし、臭みが強そうだよなあ」
「それって泥臭さのイメージなんじゃない?」
「かもしれん。どちらにしろ食う気にならんなあ」
「御二方は研究心に乏しいですねえ」
「研究者って新発見した生き物は食うって聞くけど……」
「少なくともユベルは研究した魔獣は一通り食べてますよ」
「研究員がおいしくいただきました。ご安心ください」
「なにも安心できない」

 案内された先は、中庭のように開けた場所だった。地面が掘りぬかれており、そこに埋められた大きな金属製の容器に、ごろんと地竜の卵が転がされている。そのサイズが二メートル近くあることを除けば、完全に鍋の中の卵にしか見えない。遠近感が狂いそうな光景だった。

「到着予定がもう少し先だったので急遽準備を整えています。ちょっとお待ちくださいね」
「ああ、いえ、なんかすみません」
「いえいえ、はやく実験できて私たちも楽しいですから!」

 健全な笑みではあるのだが、発言の内容はマッドでしかない。
 子供のように純真な笑みが、怖い。

「いやあ、しかし地竜の孵化なんて、本当に、帝国史に残る実験ですよ」
「竜種ってのは、そんなに難しいんですか。辺境じゃあ飛竜を飼育してるって聞きましたけど」
「あれは環境がいいですよね。飛竜がいくらでも湧いて出てきて、しかもその飛竜をおやつ代わりにできるような人たちがいて」
「つまり辺境が特殊なだけだと」
「そうですよ。普通は竜種っていうのは遭遇するのも稀なんです。地竜なんて、十何年かに一度観測される程度ですし」
「それでも十何年かに一度は出るんですね」
「人里、人の目のつく範囲にってことですね。帝国も広いですけれど、その分目の届かないところって多いですから」

 そう言われれば、町から町までは馬車で二日とかがざらであるし、森などは大きく迂回することもある。地竜がいくら巨大な怪獣だとしても、ド田舎の辺鄙な森の中を歩き回っている分には誰も気づかない訳である。

「今のところ帝都大学で捕捉しているのは二頭です。どちらも成体で、十二メートルと十五メートル。カトリーノとツァミーロと名付けられています。カトリーノは三年、ツァミーロは十二年追いかけられていますけど、どちらも産卵したことはありません」
「十二年も追いかけてるんですか?」
「専門の観測班がいるくらいですよ。彼らのおかげで、地竜は海か臥龍山脈に出くわすと少しずれて引き返すという行動が判明しました」

 危険ではないのかという問いかけに、十分に距離はとっていると前置きしたうえで、キャシィは笑った。

「というのは彼らの報告書の建前で、実際にはよじ登ってもほとんど無反応らしいですよ。うかつに鼻先に出ようものならパクリとやられかねないらしいですが、それ以外は外敵どころか障害とさえ思っていないんでしょうね。五年前にツァミーロが、火山の噴火を察知して殻にこもったことがあるくらいですよ。それだって結局遠すぎて影響ありませんでしたし」

 この二頭に関しては何年か先の進路予測までたっていて、重大な都市侵害を防ぐための早期進路変更さえ彼らの任務に入っているらしい。

「新規の地竜の発見報告なんてもうカトリーナ以来ですからね。それが幼体と卵だなんて、業界が大騒ぎでしたとも」
「お二人が討伐した幼体の遺体も、大学で回収して調べさせてもらったんですよ」
「何かわかりました?」
「馬鹿げた生き物だということくらいですね」

 かなり状態が悪かったため、そこまで詳しい調査はできなかったらしい。申し訳なくもあるが、しかし初見の敵に対してやりようは考えられなかったので仕方がない。
 それに、死骸に対してでさえ、相当に強化を施した斧でようやく首を切り落とせたほどの硬さだったのだ。まともにやりあっていればこちらが押し切られていたかもしれない。

 《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》というものは、ハマれば強いがそれ以外はピーキーすぎるのだ。

「ああ、でも、腸内細菌の帳簿が作れたのは大きな発見でした。未発見の微生物で盛沢山でしたよ」
「微生物の観察もしているんですか?」
「ええ。あとで顕微鏡覗きます?」

 そう言って示された機械は、紙月の知る顕微鏡よりもいくらかオカルティックな代物だった。つまり、検体の安置された箱の上に水晶玉が乗っていた。これを覗き込んで、魔力で倍率を変えるらしい。奇妙な道具だった。未来は早速興味深そうにのぞき込み、キャシィに使い方を習っていた。

「面白いことに今回気付いたんですが、地竜の腸内細菌と石食い(シュトノマンジャント)の腸内細菌には一部同種のものが発見されまして、つまり、金属や鉱石類を消化分解して栄養とする類のやつなんですけど、いやー、いったいどこでこんな微生物が住み着いたんでしょうかね。案外石食い(シュトノマンジャント)と地竜って近縁種なのかもしれませんねえ」
「勘弁してくださいよ。地竜が鼠算式に増えたらたまったもんじゃない」
「あはは。まあ言っても毛獣と甲獣ですしねえ」

 これはこの異世界の言い方で、おおむね哺乳類と爬虫類、特に甲羅のある亀などの区別と言っていい。おおむねというのは、異世界ファンタジーらしく、どうも元の世界通りの分類に従うという訳にはなかなかいかないからだった。

「紙月紙月、すごいよ」
「おう、どうだった」
「思ったよりうじゃうじゃいた」
「そっかー……俺そう言うの苦手だから遠慮するわ」
「えー、仕方ないなあ」

 仕方がないのだった。
 虫でもなんでも、細かいものがうじゃうじゃしているのはあまり得意ではないのだ、紙月は。反射的に焼き払ってしまっても責任はとれない。

「んー、では男の子の喜びそうなもので、骨格図とか」
「あー、まあ、うじゃってる微生物よりは」
「骨だ!」

 正確には縮尺模型らしく、テーブルに乗る程度のサイズに縮められた地竜の骨格が正確に再現されているという。こうしてみると、リクガメやゾウガメか何かのようにも見えた。あるいは、どうにもとげとげとした全体から言って、ワニガメか。

「こうして見ると典型的な甲獣なんですよね。ただ骨の強度は尋常ではなくて、そもそも皮と肉引っぺがすところからして相当難航しました」
「そう言えば俺達も首落とすの苦労したもんなあ……どうやったんです?」
「破壊系の魔法得意な人たち総出でなんとか。結構仲悪い人とかもいたんですけど、最終的には垣根を乗り越えて握手する程の難事でした」
「帝都の魔術師でもそこまで大変なのか……」
「で、ある程度解体できたら後はもう最低限の検体とって、酸性粘菌くんで骨の周りの肉溶かして骨取り出しました」
「酸性……なんですって?」
「酸性粘菌くんです。魔法生物としてはよくある方で、見た目涼しげな透き通った粘菌なんですけど、肉食で、酸性の体液でじわじわと溶かしては食べる子です」
「スライムだ……」
「スライムだな……」

 見ますか、と言われたがこれ紙月は遠慮しておいた。余り気持ちの良い代物ではなさそうだ。
 一方で未来は嬉々として見に行き、そのあたり男の子だなあと紙月は思うのだった。そして不意に自分の性別を思い出してへこむのであった。最近女装に慣れ過ぎてちょっと危うい瞬間があるのだ。女子トイレに入りそうになる時とか。男子トイレに入れば入ったでそれはそれで絵面がひどいのだが。

「紙月すごいよー!」
「おう、どうだー」
「思ったより食欲旺盛」
「あんまり聞きたくなかったなそれは」





用語解説

・カトリ―ノとツァミーロ(Katrino, Camillo)
 地竜。それぞれ十二メートルと十五メートル。
 いわゆる地竜という生き物の典型的なイメージは彼らによるものである。

・腸内細菌と顕微鏡
 この世界ではすでに微生物レベルの小さな生き物の世界にまで見識が及んでいるようである。
 とはいえその知識の多くはいまは亡き旧聖王国時代に培われた知識・技術であるらしく、帝国における技術発展は遅々として進んでいないようだが。

・酸性粘菌
 強酸性の体液を分泌して対象の肉を奇麗に溶かして食べてしまう肉食性の魔法生物。人工物。
 肉は食べるけど骨は食べない、といった風な調整ができ、魔力での操作も楽なため、実験にもよく用いられる。
 不法投棄ダメ。絶対。

前回のあらすじ

骨格標本って男の子だよな。





「あ、どうもー、遅くなりましてー」
「えー、いえいえー急にお呼び立てしちゃってー」

 そんな朗らかな挨拶とともに仮設実験場にやってきたのは、法衣とでもいうのだろうか、ゆったりとしたローブをまとった眠たげな眼の女性だった。
 どうも研究者や学者という風には見えないし、かといって紙月たちと同じ冒険屋のようにも見えない。

「あ、こちら、万一の護衛でついてくださってる冒険屋のシヅキさんとミライさんです」
「あ、どうもー、よろしくお願いしますー」
「あ、はい、よろしく」
「よろしくお願いします」

 どうにも気の削がれる緩やかな喋り方の女性は、シュビトバーノと名乗った。

「シュビトバーノさんは孵化実験に協力してくださる、風呂の神官さんなんですよ」
「風呂の神官?」
「ご存じありません?」
「いや、知ってはいますけど」

 風呂の神殿と言えば、帝都主体で衛生観念を広めている今日日、どこの町にも存在するメジャーどころの神殿である。その風呂の神の神官と言えば、風呂を沸かしたり温泉を湧かしたりといった法術が有名で、いわゆる神官というイメージより風呂屋のイメージが強い。
 実際本人たちも風呂屋として営業している節がある。

 その風呂屋が孵化実験に何の用があるのかと思えば、こういうことらしい。

「地竜の卵の孵化条件ははっきりとは解明できていないんですけれど、この状態でも呼吸していることは確かなんです」
「まあ、卵も呼吸するとは聞いたことがある」
「で、大型の魔獣の卵というものは、同時に食事もするものなんです」
「食事?」
「正確には周囲の大気から魔力を吸い上げて、孵化する為の熱量としてため込むんですね」
「はあ、成程」
「これは強い魔獣ほどそう言う傾向があって、恐らく卵の栄養だけでは足りないものと推測されます」
「そこで! 風呂の神官さんの出番なのです!」
「つなぎがよくわかりません」

 つまりこういうことらしかった。

 風呂の神官の生み出す温泉水には高濃度の魔力が含まれ、これが自然と癒しの術式になって、温泉に浸かる人々に治療回復効果を与えるのだという。この温泉水の適度なぬくもりと豊富な魔力、そして新陳代謝の活発化などの効果を複合的に与えられることで卵の孵化が促進されるのではないかという仮説が立っているのだそうだった。

「……仮説ですよね?」
「いくつかの魔獣の卵では有意な時間差が確認されています。いくつかは失敗して茹で卵にしちゃいましたけど」

 それがアカデミック・ジョークなのは本気なのかはともかくとして、どうやらある程度確度の高い情報ではあるらしい。
 そしてどうやら本人たちはかなり真面目らしかった。

「では、早速実験を開始します、各自所定の位置についてください」

 などと言われても所定の位置など聞いていない。ちらりと伺えば、お任せしますとばかりににこやかに微笑まれる。まあ、万一の時の対処を任されているのだから、ある程度自由にさせてもらえた方が楽ではある。
 一応、盾役である未来は紙月をかばうように一歩踏み出し、紙月はその陰から覗き込むようにしながら構えた。

 そして風呂の神官シュビトバーノは、とことこと卵の入った金属桶に近づき、おもむろに手に持った水瓶を逆さに返した。するとどうしたことだろうか。とてもではないが小さな水瓶から出てくるとは思われない量の水が、それも湯気を立てる温泉水がこんこんと湧き出ては金属桶を満たしていくではないか。

「質量保存の法則どうなってんだ……」
「紙月がそれ言う?」
「それもそうだった」

 魔術師ができるのだから、神の力を借りる神官ができないという道理もなかった。

 しばらくして湯が金属桶を満たし、卵を沈めてしまうと、シュビトバーノは水瓶を返して、やはりとことこと暢気に帰ってくる。

「ユベルちゃん、今回もお仕事ってこれだけー?」
「はい、ありがとうございました!」
「なんだか悪いわねえ。今度神殿に来たら割り引くわー」
「ありがとうございます!」

 そうしてとことこと去っていく風呂の神官であった。

「いや、えっ、マジであの人これで終わり!?」
「ご安心を、風呂の神官の湧かせた温泉は、神の力で冷めないということです」
「すごいけどそう言うことではなくて!」

 何しろ壮大に実験だなんだと言っておきながら、やっていることは巨大な鍋で巨大な卵をとろ火で茹で卵にしているだけである。むしろ温泉卵だ。

「しかも全然反応ないし!」
「いやあ、さすがにそんなにすぐには孵化しませんって」
「そうなんですか!?」
「当たり前じゃないですか」
「今更のように当たり前を持ち出してくる!?」
「紙月は本当に突っ込みが好きだよね」
「俺は心底裏切られた気分だよ!」

 頼りの未来にまで裏切られ、紙月の繊細なメンタルはボロボロだった。少なくとも自分でそのように述懐する程度には余裕があり、およよよよと泣き真似までする程度に余裕綽々だったが。

「で、実際のところどれくらいかかりそうなんですかね」
「さすがに地竜ほどのサイズは初めてなので厳密な所はわかりませんが、ほかの大型魔獣の卵での実験結果からすれば、一日かからないくらいと思われます」
「んっ……このイベント消化的にはクッソ長いけど卵の孵化と考えると短いくらいの感じ……!」
「絶妙に文句が言いづらいくらいだよね」

 さすがに万一の備えとはいえずっと見張っているという訳にもいかず、両博士と交代で見張ることとなった。





用語解説

・シュビトバーノ(ŝvitbano)
 風呂の神官。帝都で神官やっているあたりエリートなのかというと別にそう言う訳ではない。