眠い。
とにかく眠かった。
夢も見ないほどに深い深い眠りの中で、古槍 紙月は意識が攪拌されるような揺れを感じていた。
「――て!」
揺れ自体は、慣れたものだった。通学に用いる中古車はぎいぎいぎしぎし、よくまあ車検に通るものだという、いい加減死にかけの溜息を洩らしながら頑張ってくれたし、その頑張りを追い詰めるように通学路はせまくうねる山道だった。
「お――!」
なんなら安いからというそれだけの理由で借りているアパートは、幹線道路沿いで往来が激しく、深夜には大型トラックが走るもので、慣れないうちは随分この夜泣きに悩まされたものだった。しかし今となると、人間とは慣れる生き物だというありがたくもない言葉の通り、揺りかごの優しいリズム程度にしか感じやしない。
「―き―!」
ああ、だがそれにしても、その揺れは随分馴染みのない揺れだった。
直接紙月の体を抱き上げて、右へ左へ上へ下へ、こちらの都合などまるで気にした風でもない乱暴な揺れだった。
それにこの甲高い声は、耳に酷く響いた。
「なん……だ……?」
「おきて!」
「なん……?」
「起きてったら!」
そう、それは、確かに紙月の覚醒を促そうとする声だった。
紙月を叩きこそうとする声だった。
だが紙月にはその声に聞き覚えがない。
「起きて起きて起きてー!」
なんだっただろうか。
今日は日曜日で講義もないし、レポートはすべて終わらせてある。
遊びに行くような友達連中は生憎と卒業論文と就活で忙しいはずだった。
「お願いだから起きてー!」
卒業論文を一人手早く終わらせてしまい、就職先に関しても決まらなければうちで拾ってやるという親戚の内定があり、どこか緊張感に欠ける――友達連中に言わせれば「薄情者の裏切り者」であるところの紙月を、この何でもない日曜日に叩き起こそうなんて。
「起きて、ペイパームーン!」
だから、そう、それは紙月を呼ぶ声ではなかった。
それは老舗MMORPGである《エンズビル・オンライン》の世界を股にかけて冒険するプレイヤー、ペイパームーンを呼ぶ声だった。
現実ではついぞ音として聞いたことのないそのハンドルネームの響きに、紙月はのっそりと顔を上げた。
「あ、起きた! よかったー!」
「なん……なに? ……寝落ちしてた……?」
「あ、まだ起きてないっぽい! でもいいや、早く助けて!」
助けて?
紙月にはわからない。
頭がぐらぐらする。二日酔いとか、寝不足からじゃない、物理的に頭がぐらぐら揺れていて現状が把握できない。
わからないなら、呟きは一つだった。
「状況は?」
「スイッチ入ったね! 不明Mob二十、五かな、二十五体! 危険度小だけど、対応を乞う!」
不明Mobだって?
紙月はぐらぐらする頭をひねった。新規Mobの登場はしばらく聞いていないし、最近は狩場も安定していてレアMobだって馴染み顔になってしまったくらいだ。
どんな奴だ?
紙月は揺れる視界の中でディスプレイの灯りを探したが、どうにも見慣れた画面が見えない。
「ど、んな、やつだ?」
「こんなの!」
答えはシンプルだった。
ぐるん、と視点が急に切り替わり、暗かった視界が緑一面の明るい世界に移り変わる。
そしてそこにいたのは、汚らしい乱杭歯をむき出しに吠え立てる、緑色の小人たちだった。
「……はあ?」
小人と言っても可愛らしいものではなく、よくて獣の毛皮を腰に巻き、ほとんどは薄汚れた全裸のちいさなおっさんどもで、そしてそれがみんな手に手に粗末な武器をもってこちらに吠え掛かっているのだ。
「取り敢えず今は《盾の結界》で防いでるけど、効果が切れたら一斉に押し寄せてくるよ」
「ダメージは?」
「全然。でもペイパームーンは一度に喰らったら死んじゃうかも」
意味が分からない。
紙月のプレイしていた《エンズビル・オンライン》は、低スペックなPCでも問題なくプレイできることが売りの一つでもある老舗のMMORPGであって、まかり間違っても近未来な没入型VRMMORPGなどではなかったはずだ。
専門用語を使わずに言えば、昔ながらの画面に向かってピコピコするやつであって、ゲームの中に入り込むようなSFじみたものではなかったはずだ。
だがわからないなりに、夢現な脳にゲーム用語で平然と語りかけられれば、そういうものなんだろうかと思い始めもする。そう、それは夢の中でとんでもない無茶ぶりが平然と当たり前のものとして扱われるような、そんな感覚だった。
「ゴブリン、っぽいな」
「見た目はね。こんなリアルなの見たことないけど」
「まあ、多分無属性の雑魚だろ。そうであってくれ」
「なにに祈る?」
「今日は空飛ぶスパゲッティモンスターにでも」
いつも通りの下らない戯言を、いつも通りのチャットではなく肉声でかわして、紙月はようやく自分を抱き上げる何者かをちらりと見上げた。
それはこのくそったれなリアル・ファンタジー世界に実によく似合った、白銀の甲冑だった。
そしてそのビジュアルは、これがゲームならば紙月が他の誰よりも信頼する姿だった。
「わかった。いつものでいこう。シールド維持。前進。囲ませろ」
「オーケイ。派手に行こうか、ペイパームーン」
「そうだな、METO」
そう、それが紙月の、ペイパームーンの相棒の名前だった。
紙月は子供のころピアニストになることを勧められ、そして途中で飽きて楽器を転々としてきた細い指を持ち上げ、一番馴染んだスタイルに置いた。つまり、一周回ってある意味戻ってきた、キーボードの位置に。
ショートカットリストは変わっていない。ショートカットキーの配置は覚えている。
ファンタジーが当たり前の顔で出てくる夢ならば、そうだというならば、これも当然のように使えてしかるはずだった。
「《火球》……」
ぼ、とバスケットボールほどの火球が空に燃え上がる。火の匂いまで感じるほどのリアルな夢。
紙月は知らず笑っていた。だってそこには、あれほどまでに見たいと望んでいた光景があるのだから。
本来一つずつしか使用することのできない《技能》を同時に複数使用することができるようになる《特性》である《多重詠唱》。
熟練のプレイヤーでも《二重詠唱》か《三重詠唱》程度しか割り振らない、というより、限られたポイントの制限上割り振ることができない、特殊な《特性》。
紙月は、そこに夢を見た。
火球は、紙月の指が想像のキーボード上の想像のショートカットキーを押すたびに増えていく。
一つだけだった火球が二つに増え、三つに増え、紙月はイメージのままにショートカットキーをなぞっていく。
それにつられて火球が増える。
キーを叩くたびに火球が増える。
そのあまりの火勢に、猪突猛進といった様子だったゴブリンどももさすがに面喰い、空を舞う火球を見上げてざわめき始める。だが遅い。もう遅い。もうロックオンは済んでいるのだ。
左手がショートカットキーを叩くのと同時に、右手はゴブリンどもを指さしてクリックしては捕捉している。
そうしてショートカットキーを叩き終えた時、見上げる空は炎に包まれていた。
「……わーお」
「くふっ、くふふふふふっ、見ろ、処理落ちしないぞ!」
「空は落ちてきそうだけどね」
それを単純に杞憂とは呼べない程の光景だった。
紙月がいっそ優しくと言えるほど柔らかくショートカットキーを叩いた数だけ、火球が空を覆っていた。
火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、二十五個の火球が空を焦がしていた。
「夢にまで見たラグなし、フルエフェクト! しかもこんなリアルな!」
「あ、駄目な奴だこれ」
ゴブリンどもは遅まきながらに逃げの一手を選択していた。しかし、やはり、遅すぎる。
最下級呪文である《火球》の詠唱時間は、最大レベルである紙月からすればゼロに等しい。それをわざわざ《遅延術式》で発射を抑えたのは、単にこの光景を見たかったという、紙月の悪癖のためでしかない。
それさえ観終わったのならば、さあ、次は決まっている。
「イグニッション!」
紙月の指先が想像のキーを叩くと同時に、二十五の火球が、二十五のゴブリンに降り注いだ。
用語解説
・異界転生譚シールド・アンド・マジック
いかいてんしょうたん と読む。
・古槍 紙月
主人公その一。二十二歳。大学生。男性。趣味は資格取得。
老舗MMORPGではレア種族であるハイエルフの女性をプレイキャラクターとして使用していた。
《職業》は《魔術師》系列の最上級である《大魔道士》。
ハンドルネームは「ペイパームーン」。
・ペイパームーン
紙月の使用するハンドルネーム及び《エンズビル・オンライン》のゲーム内キャラクター。
抽選でのみ登録できるレア種族であるハイエルフの女性《大魔道士》。
もっぱら砲台役に専念し、防御はすべて相方のMETOに任せていた。
・MMORPG
Massively Multiplayer Online Role-Playing Game(マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム)の略。大規模多人数同時参加型オンラインRPGなどと訳される。
・《エンズビル・オンライン》
紙月のプレイしていた老舗のMMORPG。
・Mob
語源は諸説あるが、基本的に敵のことを指している。
・《盾の結界》
《楯騎士》の代表的な《技能》。
低レベルのMobや攻撃を弾く不可視の結界を自分とその周囲の味方に張り巡らせる。《技能》レベルを上げれば、移動速度は低下するものの、結界を張ったまま移動できるようになる。
『《楯騎士》たるものまずもって守りこそが肝要である。味方を守れずして《楯騎士》は名乗れない。まあ《楯騎士》の死因の六割は味方の誤射だが』
・ゴブリン
現地での呼び名は「小鬼(ogreto)」。
小柄な魔獣。人族の子供程度の体長だが、簡単な道具を扱う知恵があり、群れで行動する。環境による変化の大きな魔獣で、人里との付き合いの長い群れでは簡単な人語を解するものも出てくるという。
・空飛ぶスパゲッティモンスター
空飛ぶスパゲッティ・モンスター教。
実在し、オランダでは宗教団体として認可の下りた列記とした宗教。
そもそもは、「知性ある何か」によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする「インテリジェント・デザイン説」を公教育に持ち込むことを批判するために創始したパロディ宗教。
・METO
メト、と読む。
MMORPG 《エンズビル・オンライン》でペイパームーンとパーティを組んでいたプレイヤー及びそのハンドルネーム。
《楯騎士》と呼ばれる、攻撃手段が極めて乏しい代わりに非常に優れた防御能力を持つ特殊な《職業》。
もっぱらペイパームーンの護衛をしており、砲台役のペイパームーンと合わせて「無敵要塞」と呼ばれていた。
・ショートカットキー
いちいちメニューを開いてスキルを選んで相手を選択して、という煩雑さを回避するために、多くのゲームがそうであるように、《エンズビル・オンライン》においても、キーボードのキーそれぞれにスキルやアイテムなどを設定し、そのキーを押すだけで使用できるシステムが存在した。
これをショートカットと呼び、その割り振られたキーをショートカットキーと呼ぶ。
《エンズビル・オンライン》においては四行九列合わせて三十六個のショートカットを設定でき、またこのショートカットの組み合わせを記録して、いくつかのリストとして保存できた。
・《火球》
《魔術師》やその系列の《職業》が最初に覚えると言っても過言ではない、最初等の《技能》。
火球を生み出し相手にぶつけるというシンプルな魔法で、《技能》レベルを最大まで鍛えたところであまり得のない、本当に初期スキル。
ただし、レベル九十九まで鍛えられた《魔術師》系が使えば、いくら最初等の《技能》でも、生半な防御では耐えられないだろう。
『最初に覚える魔法はいつだってこれと決まっておる。単純故に応用が利くし、火の危険性から魔法の危うさを体感的にも学べる。それに、なにより、格好いいじゃろ?』
・《技能》
《SP》を消費して使用する特殊な行動。魔法や威力の高い攻撃などの他に、《職業》ごとに特色のある《技能》が存在する。一部のイベントやMobには特定の《技能》がなければ攻略が困難または全くできないものも存在する。
・《特性》
《技能》が能動的なものだとすれば、《特性》は受動的、自動的なものだ。選んで使用するわけではなく、覚えているだけで必要な場面で自動的に効果を発揮してくれる。勿論、《SP》など、発動するのに必要な条件がそろっていればだが。
・多重詠唱
《魔術師》系列の覚える《特性》の一つ。
ふつうは《技能》は一度に一つしか使えず、連続して使用するにも決められた《詠唱時間》や、再度使用するまでのクールタイムである《待機時間》が存在する。
しかしこの《特性》を覚えると、一度に複数のスキルを同時に使用することができるようになる。攻撃しながら回復、また単体魔法を複数の敵に対して使用、とにかく火力を注ぎこみたい、などの利用法があるだろう。
とはいえ《技能》に割り振れるポイントには限りがあり、多重詠唱は同時に使用したいスキルの数だけ取得しなければならないため、精々二つか三つがまともに運用できる限度のようだ。
まかり間違っても最大数である三十六個を埋める奴はそうそういない。
『時間には限りがある。わしらの手にも限りがある。だから効率よく使うには工夫がいるな。口で詠唱しながら右手で魔法陣をかけ。左手はどうした。何なら指ごとに違ってもいいぞい。おぬし自身が魔法となるのだ! わし? わしはゆっくりでいいわい』
・処理落ち
コンピューター、この場合はゲーム上で、何らかの要因で処理が遅れたり、停止してしまうこと。
入力が多すぎたり、描画が膨大であったりする場合に、動作が遅延したり、画面がちらついたりする。
・ラグ
ゲームなどで、処理が遅れてしまうこと。処理落ちのこと。
・フルエフェクト
《エンズビル・オンライン》においては、PCの処理能力の低さなどから描画が間に合わず処理落ちする事例が多々あった。
そのため、攻撃時のエフェクトや《技能》のエフェクトなどを任意でオン・オフできるようになっていた。
・《遅延術式》
《魔術師》系列の覚える《特性》の一つ。
《技能》を選択し、《詠唱時間》が終了した段階で一時的に《技能》の発動を停止させる。これによって好きなタイミングで、しかも即座にスキルを発動できるようになり、ボス戦の前に大技を貯めておくなどということができる。
処理の関係から多重詠唱と併用してしまうが、まさか三十六個フルで使用するプレイヤーがいるとは思わずそのままの仕様で世に出てしまった。
『何事も速いばかりがいいことではない。時にはゆっくりと時を重ねることも、え? なに? 講演の時間? こういうときに役立つ魔法がないもんかねえ』
・イグニッション
点火を意味する英単語。叫ぶ意味は特になく、効果もない。
なんとなく盛り上がっちゃって叫んじゃっただけなのであった。
前回のあらすじ
・ゲームの体で異世界に転生したらしい
・ゲーム内ではない本当の異世界らしい
・けれど、どうやら一人じゃないらしい
これが夢ではない、ということがよくよく身にしみてわかったのは、古槍紙月が体中の体液という体液を胃液に変換して吐き出してしまったのではないかと思う位に吐き戻した後のことだった。
「だ、大丈夫? ペイパームーン」
「だ、大丈夫だ……ってか、お前は大丈夫なのか?」
「ぼくは、なんていうか、鎧の中だし、ちょっと現実感なくて」
「羨ましいような、羨ましくないような、だな」
要は早めに慣れるか、後から慣れるかの違いだろう。
背中を撫でさすってくれるMETOのごつごつとした甲冑越しの手に、紙月はようやく落ち着きを取り戻してきた。
とはいえ、まだ深呼吸はしたくない。
なにしろ周囲には吐瀉物の匂いだけでなく、まだ嘔吐の原因となったものが散らばっているのだから。
「ゲームなら……アイテムドロップして消えてくれるんだけど」
「ゲームじゃあないよ。ペイパームーンが起きるまで、散々試したもん」
そっと見回せば、辺りにはこんがりと焼けた炭のようなものがいくつも転がっていた。
もちろん、それらは炭などではない。
焦げ臭いにおい、脂の焼けるにおい、髪の焼けるにおい、そして肉の焼けるにおいを漂わせるそれは、紙月の放った《火球》二十五発で瞬時に丸焼きにされた二十五体のゴブリンどものなきがらだった。
恐るべき高熱で瞬間的に焼き上げられた死体は、ところによりミディアム・レアといった焼き加減で、いっそのことすっかり炭になってくれていればもうすこしばかり胃に優しい仕上がりだったのだが。
「……本当にうずくまるんだな」
焼死体は筋肉が焼ける時の都合で内側にうずくまるような、いわゆる胎児のポーズをとると聞いたことがあるが、まさか異世界ファンタジー王道のゴブリンでそれをお目にかかるとは思いもしなかった紙月である。
思えばこんなにもいかにも死体そのものと言った露骨な死体と顔を合わせるのも初めてだ。
「大丈夫? 落ち着いた?」
「おう、大丈夫……あー、METO、でいいんだよな」
「そうだよ」
見上げる先の白銀の甲冑に、紙月はどうにも違和感を拭い切れなかった。
紙月の身長が百七十センチメートル程だから、この甲冑は二メートル近いことになる。多少着ぶくれしていたとしても、大きくは変わらないだろう。
それにもかかわらず、その声はえらく甲高いのである。
「……女?」
「男だよ! ……男の子、かな?」
「もしかして、子供なのか?」
「うう……一応、小学生。六年だよ」
「近頃の小学生は発育いいなオイ」
「こんなにでっかくないよ!」
さすがの紙月もそこまでぼけてはいないが、しかし大鎧から子供の声がするというのはどうにも落ち着かないものがあった。
「そういうアニメがあったような気もするが……まあいいや。脱げるのか?」
「どうだろう。脱げても着れなかったら怖いから、試してないんだ」
正論である。
その状態でできることを試しながら、かつ紙月を守ってくれていたのだというのだから、できた小学生である。
「よし、じゃあ今は俺もいるし、ちょっと脱いでみようぜ」
「そうだね。いまなら安全だろうし」
「つっても、一人で脱げるのか?」
「メニューが開けたから、ゲームと同じ感覚で外せると思う」
そりゃよかった、というのが紙月の正直な所だった。それは、勿論手伝いはするつもりだったが、さすがに本物の――いや、本物なのか?――とにかく、甲冑の脱がせ方など知らないのだから。
「装備を選択して、解除、と」
かち、とクリック音がして、鎧はぱしぱしと端から外れながら、どこかへと消えていく。恐らくインベントリ内に引っ込んでいるのだろうが、中身が小さいせいか、紙月から見ると頼りの相棒が指先から順にスライスされている猟奇的な現場に見えてしまう。
しかしそれもすぐに終わり、巨大な甲冑が消えた代わりに、そこには軍服のような詰襟を小さいながらに着こなした、小柄な体躯が佇んでいた。いや、小柄と言っても、小学六年生という自己申告からすれば妥当なのだろうか。
「……よくそんな小さな体で、あんなでかいの動かせたな」
「鎧を着てるときは、自然と動けたんだよね」
「そういうもんか」
「そういうもん」
深く考えるよりは、全てにおいて程々に、そういうものだという思考でいた方が精神衛生上よろしいのかもしれない。紙月がそのようにぼんやり考えていると、METOは不安げに見上げてくる。
「け、敬語とかの方が、よかったかな、ですか?」
ああ、そういうことか、と紙月はおかしくなると同時に、こんな小さな子供を不安がらせている自分のいたらなさにげんなりした。
こんなどことも知れない森の中で、年上の人間を担いで化け物から逃げ回り、そして死体の山を見ることになって、心細いのはどちらだというのだ。
紙月は適当な木陰に腰を下ろし、METOにも勧めた。
おずおずと腰を下ろすMETOに、紙月は頭をガシガシとかいて、少し言葉をまとめた。
「なあMETO。いまさらそんな寂しいこと言うなよ。俺達はそれなりに長いこと相棒やってきたんじゃないか」
「そ、そうかな」
「それにいまだって俺のこと、助けてくれてただろ」
「それは、まあ」
「こんなわけのわからないところで、わけのわからないことになって、いまさらそんな小さなこと言ってる場合でもねえや」
「うん、じゃあ、その」
「おっと、でもペイパームーンは止めてくれ」
急に止められて、METOはきょとんと見上げてくる。その無垢な視線がなんだか気恥ずかしくなって、帽子を目深にかぶった。《魔術師》系列の装備らしいとんがり帽子が、いまはちょうどよかった。
「いや、ゲームの中じゃあいいんだけどよ、こうして顔合わせてハンネで呼ばれると、妙な気恥しさがな」
「じゃあ、なんて呼べばいいかな」
「紙の月で紙月。しづきでいいよ。古槍紙月。大学生だ」
「う、うん、よろしく、紙月」
「で?」
「え?」
「お前だよ。いつまでも名前もわからねえ素性も知れねえじゃ、ちょっと落ち着かねえや」
「あ、そうか。ごめん。えっと、ぼくは未来。衛藤未来」
「ミライ・エトーでM・ETOか。シンプルだな」
「それ言ったら、紙月だって直訳じゃないか」
「お、わかるのか」
「今どきの小学生は英語くらいできるもんだよ」
「若い頃から大変だねえ」
「そんな年寄り臭いこと言って」
話しているうちに段々と、未来は小学生の子供らしい素直さを取り戻していったように思えた。
最初は背筋も伸び、大人びた物言いを心掛けていたようだったが、すぐにどこか甘えたなところのある、子供じみた色を見せるようになった。
「ねえ、紙月」
「なんだ?」
「その、答えづらいことだったらいいんだけど」
「なんだよ相棒、気兼ねすんなって」
「じゃあ、そのさ……紙月って、その、どっちなの?」
「どっちってなんだよ」
「その……男の人なの? 女の人なの?」
しかしさすがにこの質問は大人びているとか子供じみているというものではなかった。
ぎょっとして、紙月はまじまじとこの幼い相棒の顔を見つめてしまった。小さな子供のころならいざ知らず、この年になって性別を聞かれるとは思わなかった。
「わかんねえのか?」
「あー……どっちにも見える」
「どっちにもっつったって……」
ふと気づいて、紙月は相方の小さな体を見下ろしてみた。
軍服のような詰襟は、いくらか派手だが小学校の制服と言えなくもない。
しかし……。
「お前、確かキャラの種族は獣人だったよな」
「え? うん、そうだけど……」
「尻尾生えてる」
「嘘っ!?」
驚いた拍子に、未来の髪の毛が跳ねた。いや、正確にはそれも違う。
「これ……耳か?」
獣の、それこそ犬のようなしっぽが腰からは伸び、髪の束かと思っていたのは獣の耳である。
獣の特徴を持った人型というのは、《エンズビル・オンライン》における獣人という種族の特徴だった。もしゲーム内のキャラクターの特徴が、今の体に適応されているとなれば。
「おいおい……まさか」
そのまさかであった。
紙月がゲーム内で使用していたキャラクターは、抽選でしか登録できないハイエルフという、魔法に秀でるが体力の低い種族であった。その特徴が反映されているらしく、耳は笹穂のように鋭く伸び、手足は以前よりほっそりと、はっきり言って弱々しくさえある。
そして何より。
「女、物……」
ゲーム内ビジュアルが女性の方がかわいいというそれだけの理由で選択した過去の自分を恨みながら、紙月は黒のビスチェ・ドレスに身を包んだ自分を見下ろすのだった。
用語解説
・インベントリ
ゲーム用語。プレイヤーが獲得したアイテムを保管する場所。
《エンズビル・オンライン》においては多くのアイテムに重量値が設定され、プレイヤーの能力値から算出される所持限界量までしかアイテムを保管することができなかった。
・それなりに長いこと
実際には一年ほどだが、それでも一年も同じゲームで遊べば付き合いは十分と言えるのではないだろうか。
・《魔術師》
ゲーム内の《職業》のひとつ。
物理攻撃は得意ではないが、多種多様な属性をもつ魔法攻撃を得意とする他、特殊な効果の魔法を覚えるなど、使用者のプレイヤースキルが試される非常に幅広い選択肢を持つ《職業》。
・衛藤未来
主人公その二。十一歳。小学六年生。男性。趣味はMMORPG。
ゲーム内では人間族より体力面で優遇された獣人の《楯騎士》を使用していた。
ハンドルネームは「METO」。
前回のあらすじ
まさかの女装大学生というキャラクター付けがなされてしまった紙月。
おまけに相方はいたいけな小学生。
事案だ。
これを幸いにもと言うべきか、それとも不幸にもと言うべきか、紙月の肉体はかつての紙月としての特徴をしっかりと中心に保っていた。
つまり、あえて俗な言い方をすれば、ブツはまだ付いていた。
「よかった、のか、良くねえのか……」
素直に女性の体になっていれば服装に困ることもなかったが、しかし二十二年間付き合ってきた男性としての体と一瞬でお別れする羽目になってまともにアイデンティティを保つことができたのか、紙月にはいささか自信がなかった。
「そ、その、男物の装備って持ってなかったっけ?」
「ねえなあ……効果の高い専用装備って性別限定物ばっかりだったからなあ」
もう少し《エンズビル・オンライン》がジェンダーに関して融通の利くゲームであればよかったのだが、そこはそこ、性別であれ種族であれ、限定という響きをプレイヤー自身が望んでいたのだから致し方がない。
いま紙月が見下ろした限り、その装備は直前のプレイ内容を忠実に再現しているようだった。
頭にかぶっているいかにもと言ったとんがり帽子は《SP》の消費を大幅に抑える《魔女の証明》であるし、履きなれずふらつくピンヒールは《特権階級》といって、移動速度と引き換えに《SP》の自然回復速度を大幅に底上げする装備だ。
ワンピース型、というよりは、分類としてはビスチェドレスになるのだろうか、肩と背中を大胆にさらすドレスは《宵闇のビスチェ》といって魔法防御力を大いに上げる効果がある。
左手の小指に嵌められた細身ながらも細かな装飾のなされた指輪は、《悪魔のエンゲージ》といって、魔法攻撃力をかなり引き上げる指輪型の武器だ。殴ればそれなりのダメージも与えられる。はずだ。
未来に言われて気付いたが、唇には黒のリップが塗られていて、これはアクセサリーの一種である《アモール・ノワール》だろうと思われた。《詠唱時間》と《待機時間》を短縮し、戦闘を有利に運ぶ効果がある。
他にもいくつかのアクセサリーなどを確認し、そして出た結論が、これを着替えるわけにはいかないということだった。
「汎用性で言ったらこれの他にないんだよなあ……」
それこそそのままパーティにでも出れそうな格好ではあるが、何しろゲーム内で、戦闘を前提として組んだ装備である。ある程度どこにでも行けるように汎用性が高いのは確かだが、これ一揃いでゲーム内の稼ぎがあっという間に吹き飛ぶだろういわゆる「ガチ」の装備である。
何が起こるのか、そもそも何が起こったのか全く分かっていない現状、おいそれと着替えるわけにもいかない。
一応そう念じればステータス・メニューが開けたし、インベントリから他の装備も探せたのだが、どれも女性もので、物によってはもっと露出度が高かったり、変に悪目立ちするようなものばかりで、黒尽くめの現状が一番ましと言えばましだった。
「その点、未来はいいよなあ」
「まあ、鎧の下が全裸でないのは助かったけど」
そういう未来は、すでに最初のように白銀の甲冑に身を包んでいた。
何があるかわからない以上あまり無防備に身をさらしているのは得策ではないし、なにより小さい体よりも大きな体の方ができることは多い。
例えば。
「……運ぼっか?」
「……かたじけねえ」
慣れないピンヒールで早々に足を痛めかけている相方を抱き上げて運ぶなどだ。
「小学生に抱き上げられる経験があるとは思わなかった」
「ぼくも大学生を抱き上げるって夢にも思わなかったよ」
とはいえ、見た目には白銀の騎士がほっそりとした淑女を抱き上げているという、それなりには見えそうな絵面ではある。中身が男子小学生と男子大学生であることをのぞけば。
ある種、ジェンダー観に対するPR活動のような奇妙な姿で、二人はしばらく森の中を彷徨った。
森の中で迷ったら迂闊に動いてはいけないとは言うが、そもそもどうやってここに来たのかもわからないうえに、先程は謎の集団に襲われまでしている。一所に座していたところで助けが来る保証もなし、こうして動き回るのもやむなしである。
などということをいちいち考えていたわけではなく、とりあえず行こっか、と全く頭の軽い出発ではあったが。
一時間かそこら、簡単な自己紹介の他、話す話題も尽きて、思いつく限りの疑問もすべてなんなんだろうねで終わってしまい、しりとりになど興じ始めたころ、二人はようやくにして森が途切れ始めることを知った。
「お。林くらいにはなってきたか」
「まばらになってきたね。あ、あれ煙じゃない?」
「ホントだ。人がいるのかね」
「さっきのゴブリンだったり」
などとのんきなことが言えたのはそのあたりまでで、実際に煙に近づいてその物々しさを知るにつれて、二人は顔を見合わせるのだった。
二人がそこに辿り着いたのは、日の傾き具合から言って昼頃のことだったが、森の入り口を塞ぐように逆茂木がいくつも立てられ、かがり火がたかれ、弓矢や斧、古めかしい剣や鉈などで物々しく武装した十数人の男たちが不躾な視線を向けてくるのだった。
自分を抱き上げる腕が緊張に身構えるのを感じた紙月は、まず相方の肩を叩いて落ち着かせてやって、それからその腕からゆっくりと降りた。感触を確かめるように何度か足踏みし、慣れないピンヒールでそれでも精々見られるようにしゃなりしゃなりと歩いて見せる。
「あー、すみませんが、」
「喋った!」
「喋ったぞ!」
「森の中から人が!」
妙な反応である。
改めて顔を見合わせてみるが、相方の顔は兜で見えないし、見えたところで自分と同じように困惑していることだけは確かだろう。
「あー、その」
「やっぱり喋った!」
「喋ったぞー!」
「人間なのか!?」
話が通じない。
と考えて、フムン、と紙月はここに前向きな案件が生まれたことに気付いたのである。
「言葉、通じるっぽいな」
「みたいだね」
どうも見た感じ、アングロサクソンじみた顔立ちの人たちなのだが、先程から口々に発している言葉は聞き慣れた言葉と相違ない。
(というよりは……)
じっと口元の動きを見てみれば、聞こえてくる音と実際の口の動きにはかなり違いがみられる。
「いよいよもって異世界転移ものみたいになってきたぞ」
「やっぱり、自動翻訳ってやつかな」
「まあ、話は早いけどよ」
とにかく、言葉が通じるならば話も通じるはずだ。理性的な相手であれば。
覚悟を決めた紙月はもう一歩踏み出す。
「すみませんが、どなたかお話の出来る方は」
「あ、あんた」
紙月が繰り返そうとしたところで、集団の中から年かさの男が歩み出た。顔立ちが違うためか年齢ははっきりとはわからなかったが、五十かそこらと言ったところだろう。髪には白いものが混じり、体格こそ立派だが、やや衰えが見える。
それでもやはり集団の中の代表格なのだろう、彼が声を発すると同時に、他の者のざわめきもひいた。
「あんた、その、見慣れない格好だが、人族かね」
これには答えに窮した。
なにしろ人間だと言いたいところだが、どうも今の体はそうではないようなのだ。
もし人間だと言って、後から違うとばれたらどうなるのか。
またいま正直に人間ではないと言ったらどうなるのか。
少し考えて、紙月は正直に答えることにした。
彼らが、紙月が言葉をしゃべったことに強く反応したことから、種族がどうとかいうよりは言葉が通じるかどうかを重要視しているように感じたからだ。
「えーと、俺は紙月。ハイエルフ。こっちは未来。獣人だ」
「あ、未来です」
鎧の中から響く違和感に満ちた音声に男たちは少しざわめいたが、それもすぐに収まった。
「はいえるふ、というのは聞いたことがないが……獣人というのは、獣人のことかね。獣の特徴を持った隣人種……」
「あー、多分、そんな感じです、ハイエルフってのは、俺みたいに、耳のとんがったやつで」
「ふーむ……わしも長く冒険屋をやっているが、聞かぬ種族だね」
「あー、まあ、あんまり目立たない種族なんで」
嘘は吐かない範疇で適当に会話をしてみたが、男は前時代的な武装をしている割に理性的なようだった。いや、この世界ではこのスタイルこそが時代に適っているのだろう。むしろ、落ち着いてみてみると、他の男たちが、それこそ農民が武装したといった体であるのに比べて、男は戦うものとして洗練された武装をしているようだった。
それこそが、冒険屋という聞き慣れないワードの所以なのかもしれない。
「それで、俺達は森から出てきたばかりでよくわからないんですが、ずいぶん物々しいようで……」
「おお! そうだ。あんたがた、森の中からやってきたというが、無事だったかね!?」
「へ? え、ええ、まあ、無事と言えば、無事ですけど」
男たちは物々しいなりではあるが純朴なようで、旅慣れない女性そのものにしか見えない紙月が危害に合わなかったことにほっと安堵の息をついているようだった。
「うむ、いまこの森では小鬼の群れが見つかったとの話が出ていてな」
「小鬼? それは?」
「知らんかね。いや、あいつらはまず危険な奴らでな。緑色の子供くらいの大きさの魔獣なんだが、頭もいいし、群れで襲ってくるんで、一人二人でいるときに襲われたらまずたまったもんじゃあないんだ」
身に覚えがありすぎた。
「あの……どれくらいの群れが……?」
「三十はいかないということだったが、まあ儂の経験からも二十かそこらだと思うよ」
身に覚えがありすぎた。
「…………なあ、未来」
「うん、多分、そうだよね」
「どうしたね? ああ、いや、小鬼の群れとすれ違ったかもしれないなどと聞かされたらそら恐ろしいだろう。村まで少し歩くが、ゆっくり休んで、」
「あ、いや、その」
「なあに、安心しなされ。わしと村の若い衆がいれば小鬼どもなんぞ」
「いえですね」
慣れないながらも勇ましく拳を作って笑って見せる村の若い衆には申し訳のないことであったが、この先延々と無駄な作業をさせる事を思えば、いまここで正直に言った方がいい。
いつもすなおに、それが二人のスローガンとして固まった瞬間であった。
「ごめんなさい、多分それ全部やっつけちゃいました」
用語解説
・《魔女の証明》
ゲーム内アイテム。《魔術師》専用の装備。《魔女の集会》と称される一連のイベントをクリアすることで入手できる。
《SP》の消費を大幅に下げる効果がある。
『魔女の証明なんて簡単な物さ。つまり、私だ、って言えばいいのさ』
・《特権階級》
ゲーム内アイテム。女性《魔術師》専用の装備。《七つの大罪》と称されるイベント群のうち《傲慢》をクリアすることで入手できる。
移動速度と引き換えに《SP》の自然回復速度を大幅に底上げする効果がある。
『歩きづらくないかって? 違うわ。歩く必要がないのよ。これは踏みにじるための靴なのだから』
・《宵闇のビスチェ》
ゲーム内アイテム。女性《魔術師》専用の装備。
魔法防御力を大いに上げる効果がある。特定の悪魔系ボスからドロップする。
『暗闇の中で着飾ることを忘れちゃいけないわ。見えないところこそオシャレしなくちゃ』
・《悪魔のエンゲージ》
ゲーム内アイテム。女性《魔術師》専用の装備。分類上「杖」である。
特定の悪魔系ボスから低確率でドロップする。つまり婚約指輪を力技で奪い取っているわけである。
魔法攻撃力をかなり引き上げる指輪型の武器で、武器攻撃力自体もそれなりにある。
『悪魔にも慈悲はある。この指輪がまだ婚約で済んでいるのは、お前が伴侶を得る時のためだ』
・《アモール・ノワール》
ゲーム内アイテム。分類上は「アクセサリ」。満月の夜にだけ開店する店舗で、時間制限付きのミッションをこなすことで入手できる。
《詠唱時間キャストタイム》と《待機時間リキャストタイム》を短縮する効果がある。
『愛を唇に乗せるときは、急がなくていいの。でもしっかりと、確実に』
・白銀の甲冑
ゲーム内アイテム。正式名称《白亜の雪鎧》。
いくつかの高難度イベントをクリアすることで得られる素材をもとに作られる。
炎熱系の攻撃に対して完全な耐性を持つほか、純粋な防御力自体もかなりの高水準にある。
他の高レベル属性鎧と比べて比較的使用されることが多い理由は、「見た目が格好いい」からである。
『極地の万年雪の、溶けては積もる億年の積み重ね、その結晶をいま受け取るがよい』
・自動翻訳
何故か成り立ちもすべて異なる異世界で日本語が通じる現象。そのくせネット用語や俗語は通じなかったりする。言葉が通じない設定にすると転生して一から言葉を学びなおす場合はともかく、転移して身振り手振りでコミュニケーションをとらなければならないとどうしてもテンポが悪くなるので、「そのとき不思議なことが起こった」くらいの勢いで言葉が通じるパターンが多い。そしてそのまま全世界規模で言語が統一されていたりする。
・人族
いわゆる人間のことであるらしい。
それにしても、世界が違うというのにどうして人間はそのまま人間なのだろうか。神の怠慢なのか。
・獣人(nahual)
人族から獣の神アハウ=アハウ(Ahau=ahau)の従属種となった種族とされる。
人族に獣や鳥、昆虫の特徴を帯びた姿をしており、これはその特徴のもととなる動物の魂が影の精霊トナルとして宿っているからだという。
トナルは生まれた時に決定され、これは両親がどのようなトナルを宿しているかに関係なく決まる。そのため、熊の獣人と猫の獣人からカマキリの獣人が生まれるということも起こりうる。とはいえ、基本的には接触することの多い同じトナルを宿して生まれてくることが多い。
どの程度獣の特徴が表出するかは個人個人で違うが、訓練によって表出部分を隠したり、また逆に獣の力を大きく引き出すこともできるとされる。
・冒険屋
いわゆる何でも屋。下はドブさらいから上は竜退治まで、報酬次第で様々なことを請け負う便利屋。
きっちりとした資格という訳ではなく、殺しはしないというポリシーを持つものや、ほとんど殺し屋まがいの裏家業ものまで幅広い。
前回のあらすじ
第一村人発見なるも、どうも様子がおかしい。
聞けば危険なモンスターが出たとか。
ごめんなさい、やっつけちゃいました。
「ごめんなさい、多分それ全部やっつけちゃいました」
その瞬間の村人たちの「こいつ何言ってんの?」といった表情は、二人の胸に微妙に刺さった。素朴な村人たちの準備を無駄にしたこと、そして絶対に信じてねえなこいつらという理解が、二人の胸をちくちく刺した。
「ほ、ほっほっほ、小鬼の群れを全部やっつけたか、また勇ましいことを言いなさる」
冒険屋を名乗る男は笑って見せたが、それでもそこにはいくらか苛立たしげな様子があった。
それはそうだろう。冒険屋というのが響きの通り荒事の専門家だとすれば、この男はプロとして小鬼とやらの駆除を引き受け、それなりの覚悟のもとにここにいるはずなのだ。
それをあっさりやっつけちゃいましたなどと言われれば腹にも据えかねるだろう。
「まあ、そっちのでかい鎧の方……護衛の人かね、その人なら多少の、」
「あ、ぼくは何もしてないです」
鎧の中からの声に、再びのざわめき。その声の甲高さと、発言の内容に、二重に困惑しているようだった。
「じゃあ一体何かね、そっちのお嬢さんが一人で片付けたというのかね!? え!?」
「えー、まあ、そうなりますね」
「ふざけてるのか!?」
ごめんなさい、気持ちはよくわかります、などと言えば火に油を注ぐことになるだろうことは目に見えていた。とはいえどう説明したものかと紙月は悩み、それから、まあどうにでもなれと開き直った。一人ならばそんな開き直りはできなかっただろうが、なにしろ大概のことではどうにもならない、頼りの相棒がすぐ隣にいるのだから。
「大真面目ですとも」
「紙月ちょっとふざけてない?」
「ちょっとだけ」
「お前みたいな細腕に何ができるってんだ!」
「ちょっと魔法が使えまして」
紙月は左手を持ち上げて、指を動かす。傍から見れば幻惑的なその動きは、何ということはない、ショートカットキーを押す動きだ。
途端に《火球》の魔法が発動し、適当に空に向けてはなってやれば、中空ではじけて消えた。
そういえば、燃焼物がないのにこの炎はどうやって燃えているのだろうか。
紙月としては何となく、それこそぼんやりと火球を見上げたつもりなのだが、村人たちにはそれが大いなる余裕ある態度に見て取れたらしい。
「あ、あんた魔術師なのか」
「一応そうなる」
「しかし、いくら何でも一人じゃ小鬼の群れなんざ、」
どうやら魔法を使えることはそこまで不自然ではないらしい、と前向きな検討材料を一つ。
しかし男はそれでも納得がいかないようだった。
となると、普通の魔術師とやらは、小鬼が二十匹も出れば対処できないらしい。
ここで紙月は考えた。
一つは未来と協力して奮戦した、という形。これは物々しい甲冑姿の未来の姿から想像できる武力を考えても妥当な線だろうと思われた。一人一人では無理かもしれないが、二人がかりならやれるかもしれない。こうすれば、彼らの想像する普通の範囲内か、少し外れる程度の強さと認識してもらえる。
そうなれば極端に怪しまれることなく、また常識の範囲内の強さということで敬意も得られる。
もう一つは、紙月が一人で片付けたという、本来の形。これは男の反応からするとかなり常識を逸脱しているらしい。そうなるといらぬ警戒を招くかもしれない。信用されないだけならまだしも、信じられた上で、こっちの方が脅威度が上だと認定されて魔女狩りなんてルートも見えないではない。
安全度でいえば断然前者だが、しかし、小学生の未来を矢面に持ってくるようなのは話の上だけでも気に食わない。
だから後者を、と思ったところで、紙月の肩に不器用な手がのせられた。
「大丈夫、紙月?」
「……ああ、大丈夫さ」
未来からすればただ単に緊張しているのだろうとでも思って声をかけたのだろうが、紙月はそれで少し落ち着いた。将来的な安全を考えた方が二人の為に、つまり未来のためにもなるわけだし、第一、彼を相棒と呼んだのは紙月なのだ。相棒を一方的に守るなんて言うのは、信頼がないみたいじゃないか。
「こっちの鎧が見えません? こう見えて彼は立派な騎士様でね。彼が守って、俺が焼いた。全部じゃないかもしれないが、数えて二十五匹、仕留めたぜ」
そうして未来から勇気を得た紙月の言葉は、不思議と説得力を持って村人たちに受け入れられた。
冒険屋の男も、やや渋い顔ながらもそれならばと頷く他ないようだった。
「うーむ。いや、そういうことならば、あるのだろうな。証は取ってきたかね?」
「証?」
「うむ。小鬼ならば耳を切り取ってくれば、討伐の証明として安いが報酬が出る」
「なんだって? ああ、いや、でも」
「どうしたね」
「全部黒焦げで」
「ああ……いや、まあ安いものだからな」
聞けば一体分の報酬として得られるのは三角貨なる銅貨が相場で十枚で、これは安宿の一番安い飯くらいにしかならないという。逆に言えば、小鬼を一体でも倒せば、その日の一食分にはなるのだった。
確かに安いと言えば安い。
が。
「そう言えば俺達……」
「この世界のお金は持ってないね」
ゲーム内通貨はうなるほどあるのだが、見た目こそ金貨ではあるものの実態は知れたものではないし、本物の金貨であったらそれこそ両替が大変だ。何しろ銅貨十枚で安い飯が一食とかいうレベルだから、迂闊に金貨など出そうものなら追いはぎ天国もいいところだ。
ファンタジー世界に説明なしでゲームの体で放り出されましたに続いて、無一文というニューカマーである。そうとわかっていれば安かろうと焦げていようと多少グロかろうと頑張ったのに。まあ頑張ったところで安飯二十五食分。二人で分けて一日三食食べれば四日と少ししか持たないが。
「うん? どうかしたかね」
「ああ、いえ」
紙月は少し考えて設定を練った。
「いえね、彼と二人で旅してたんですが、やっぱり旅慣れないもんで、気づけば森に迷い込むわ、小鬼の群れに襲われるわで散々な上、もう路銀もなくてすっからかん、どうしたもんかと困っていたところでして」
一応、嘘は吐いていない。
短い間だが二人で森の中を旅してきたし、旅慣れていないし、気づけば森の中だったし、小鬼の群れに襲われたし、路銀がないのも本当だ。ただ言い回しに問題があるだけだ。
「なんとまあ。荷物は《自在蔵》かなんかに持っているのだとしても、そりゃ大変だったろう」
幸いにも冒険屋の男は信じてくれたようで、何度か頷いて、それから親切にもこう提案してくれた。
「どうだろう。わしは小鬼の群れの討伐を依頼されとる。そんで村の若い衆の力も借りて山狩りする予定だったんだが、あんたが倒しちまったってんなら話は早い。わしとあんたらで確認しに行って、討伐証明を切り取って帰ってくるのさ。わしはもともと人助けのつもりだったから、報酬はあんたらで分けるといい」
「え、いいんですか!?」
「なに、わしとしちゃ寝酒がすこし上等になる程度の話だったし、報酬もほとんど、集まってもらった村の若い衆で分けてもらう予定だったからな。お前さん方も、この可哀そうな二人に報酬を渡したんでいいじゃろ?」
若い衆は少し顔を見合わせたようだったが、それでもこの素朴な若者たちは、困った旅人に機会を分け与えることをまったく惜しまなかった。もともとが、自分たちの村を守ることで、そのついでに晩のつまみが一品増えればいいという具合だったのだ。
自分たちの代わりに仕事を片付けてくれた旅人に報酬を寄越すのは、彼らにしてみれば当然だった。
よし、よし、と頷き合って、冒険屋と二人の旅人は早速森に潜った。
道中簡単な会話を繰り返し、二人は冒険屋という男から細々とした知識を得た。そしてまた男もこの二人の恐ろしい世間知らずを思い知り、積極的に様々を教えてやった。
そのようにして小一時間ほどの道のりはすぐにも過ぎ、確認は早々と済んだ。
「いや、驚いたな」
「いやあ、照れるなあ」
「お前さん方のような世間知らずの箱入りがよくもまあ」
「あ、それ褒められてないのはわかる」
手早く小鬼の耳を切り取った冒険屋の男は、コメンツォと名乗った。道中での会話ですっかりと馴染んだこの男は、冒険屋を始めてもう四十年になるという。
冒険屋というものは、今回のように小鬼を退治したり、人々の細々と困ったことや、大掛かりに人足が必要な時などに数となったり、つまりは荒事が多めの何でも屋であるという。
コメンツォはそろそろ引退を考えているが、今回は生まれた村の依頼であったし、依頼主は友人でもあったことから、格安で引き受けたのだという。
「小鬼は危険は危険だが、数体くらいなら、大の大人ならのしてしまえるような相手だからな。報酬も安い。群れになる前に片付けてしまうのが一番なんだが、少しくらいと甘く見ているうちに、今度のように大事になってしまうんだ」
今回は発見が早かったこと、またコメンツォのような冒険屋が手早く支度を整えたことで、二人がいなくても被害は少なく済んだと思われたが、もし手遅れになっていたら、小さな村程度は壊滅していたかもしれないという。
「なにしろ小鬼は増えるのも早いし、増えりゃあ食うもんも足りなくなる。そうすると家畜に手を出すし、そうやって村人とも争う。たまに住み分けの出来ている群れも見かけるが、あれも塩梅よな。どちらかに傾けば、どちらかが崩れる」
残酷なようだが、人間が生きていく上では、やはり駆逐していくほかないのだという。
「今回は、あんたらのおかげで助かったよ。思ったより育った群れだった。わしじゃそろそろ、相手するのも骨だっただろう」
「いやいや、たまたまですって」
「偶然でも、助かった。少し見て回ったが、逃がした奴もいないようだ」
「わかるんですか?」
「奴らは足跡の消し方を知らん。逃げる時には特にな」
「はー、そんなもんですか」
「そんなもん、さ」
四十年選手の冒険屋は笹穂耳にちょいと口を寄せて笑った。
「実は何となくわかる程度なんだがね」
「えっ」
「村の連中の前じゃ、格好つけんと心配させちまうからな」
幸い、この日を境にしばらくの間、小鬼は出なかったという。
用語解説
・三角貨(trian)
この世界で一番額の小さな貨幣のようだ。
銅製で、丸みがかった三角形をしている、ギターでも弾けそうだ。
・《自在蔵》(po-staplo)
空間操作魔術による魔術具。外見以上の空間を内部に作り上げ、収容能力を高められた品物。
紙月たちのアイテムを収めているインベントリとは全く別のシステムによるもので、本来の《自在蔵》は単に見た目のサイズが小さいだけで、重いものを入れればその分重くなるし、容量も普通はそこまではない。
ネーミングはあの有名な漫画家小雨大豆先生の名作「九十九の満月」に登場する同様の効果を持つアイテム「自在倉」より。
・コメンツォ(Komenco)
引退間際の親切な冒険屋。
前回のあらすじ
無事小鬼討伐の証明を手に入れた一行であった。
見事小鬼たちの耳を切り取って帰ってきた三人に、村の若い衆は大いにその無事を喜んだ。また小鬼たちはすっかり退治されていて、しばらくの間は平和だろうことを伝えられて、もう一度沸いた。
「小鬼ってのは、まあ村人にとっちゃ天敵もいいところだからな」
連れだって村に辿り着いたころには日も暮れ始めていたが、若い衆が小鬼討伐の方を持って駆け巡ると、小さな村にこんなにもと思わせるほどの人々が顔を出し、盛大にこの一行を出迎えた。
「おお、コメンツォ、無事にやってくれたようだな!」
「いや、なんとこちらの旅の方々が手伝ってくれてな」
「なんと、それはかたじけねえ! ほらみんな、村の救い主様たちだぞ!」
コメンツォを出迎えたひときわ大柄な男は、村の村長であり、依頼を出したコメンツォの友人であるという。
この村長が大袈裟に声を張り上げると、村の一同がまるで拝むかのように集まってくるものだから、紙月も未来も思わず顔を見合わせた。
「いや、いや、すまんな。何しろ田舎者だから、素直というか、純朴というか」
「いえいえ、わかります」
「それに娯楽がないもんだから、お前さん方はいいカモだ」
「えっ」
「えっ」
「はっはっはっ」
わっと群がった村人たちは、次々に小鬼退治の話をせがんだ。頼りのコメンツォと言えばこちらも大いに盛りに盛った武勇伝で村の連中を楽しませているし、ついて行っただけの村の若集もそれにのっかるものだから、気づけば小鬼たちは総勢百体を超す軍隊となり、紙月の魔法も森を焼くような神話の世界の魔法のように語られた。
勿論、いくら純朴な村人たちと言えど、これが出鱈目で、精々が十か二十くらいのを囲んで退治したのだということは察しがついている。だが盛り上がれるときに盛り上がれなければ、こう言った村には本当に娯楽というものがないのだった。
静かな農村はすぐにも祭の様相を示し、あちらこちらで出鱈目に楽器の音がし始めるや、誰が決めたでもなくそこらで輪ができて、歌うもの、踊るもの、はやし立てるものがそれに続いた。そしてやがてそれらは一つの大きな輪になって、人々はかがり火を中心に踊りだした。
「わーお」
「すごく……その、ノリのいい人たちなんだね」
「暇な農村なんてこんなものさ。忙しいときは忙しいが、暇なときは本当に暇だから、持て余した時間で磨いた芸達者が多いしな」
少しして落ち着いて、楽器を弾いていた男たちが、彼らなりに精いっぱい都会風にこじゃれた礼をして見せた。
「やあ、やあ、あたしら暇人楽団の腕が錆びつく前に、朗報を持ってきてくださってありがとうよ」
「なにしろ村の祭以外じゃうるさいって追い払われちまうもんだから」
「今日は普段静かにやってる分、盛大にやらせてもらうよ」
太鼓のようなもの、マンドリンのようなもの、ヴァイオリンのようなもの、笛のようなもの、それぞれに楽器を携えた暇人楽団とやらたちは、素人楽団にしては実にいい音色を響かせて、紙月たち旅人に挨拶して見せた。
「歓迎されてるぜ」
「なんだか恥ずかしいかも」
「よーし、お返しに俺達も楽しませてやろう」
「え、なに?」
「祭と言ったら、決まってる。踊るのさ」
「ええ!?」
紙月が面白がって、ステータス画面から装備を変えた。動きやすい靴にしたのだ。
「安心しろ、ダンスはちょっとやったことがある。リードしてやるよ」
そう言って輪に飛び込んでしまうから、未来もおっかなびっくり続くしかない。
田舎の村に似合わない洒落たドレスの魔女と、見上げるような大甲冑に人々は最初どよめいたが、面白がった暇人楽団が盛大に一曲やり始めると、場はすぐに盛り上がった。
「さあほら、手を引いて、右、左、お次はターンだ」
「わ、わわ、わあ!」
「よしよしいい感じだ」
紙月がリードし、未来がそれになんとかついて行き、くるりくるりと出鱈目に踊り出すと、人々もまたそれを真似て踊り出した。
誰がか酒を開けたらしく、場は一層盛り上がる。
コメンツォが後で説明してくれたところによれば、こう言う祭は、吟遊詩人を連れた見世物の一行がやってくるときや、年に一度の祭の時くらいしかないらしく、娯楽に飢えた人々にとって今回の小鬼退治は、それに匹敵するくらいの朗報であったらしい。
また、彼らが気兼ねなく酒を開け騒げるのは、二人のおかげで誰も怪我をすることなく帰ってこれたからだという。いくら小鬼相手とはいえ、場合によっては大怪我を出してもおかしくなかったところを、貴重な働き手がみな無事で帰ってきたのだ。これ以上の朗報はない。
地に足を生やして生きるような農村の人々にとって、これがどれだけ生きる活力につながるかと、感謝されてかえって気恥ずかしくなったほどだった。
踊りがひと段落すると、今度は御馳走の出番だった。祭の合間合間で飯の支度を拵えてくれた女たちが、次々にテーブルを持ってきては並べて、その上に祭の御馳走を並べていった。
ご馳走と言えど何しろ何の準備もなかったことであるし、貧しい農村であるから、そんなに大したものが出るわけではない。それでも主役の二人の前には農村としては実に豪勢に盛りつけられた料理が並んだ。
「おお、すごいな! こいつはなんです?」
「うん、うん、お前さん大嘴鶏は見たことあるかね、ほら、小屋につないであった鶏がいるだろう」
「ああ! あの乗れるくらい大きな!」
「実際乗れるんだが、あれの肉と卵を使ったオーヴォ・クン・ラルドだ。ものは簡単だが、何しろ見た目が豪勢だろう」
「確かに、こんなに頂いていいんですか?」
「なに、お前さん方が主役だ!」
大皿にどんと盛られたのは、山盛りのふかし芋に、分厚いベーコン、それにダチョウの卵かと思う位に大きな目玉焼きだ。さらりとした黒いソースがかかっている。
卵は半分に切られていたが、それでも普通の鶏の卵が十かそこらはいるだろう大きさだ。
「普段は卵はスープに割り入れたり、村で分けたりするんだが、祭りのときはこうして主役に食ってもらうのさ。都会じゃまずこんなのは見れないだろう」
ふかし芋はどこかねっとりとして山芋のようだったが、素朴な塩味が利いていて、なかなかに飽きがこない。それに腹にたまる。
ベーコンは、これは変わった感じだった。豚ではなく、大嘴鶏という巨大な鶏のベーコンなのだ。少し肉質が固いようにも感じられるが、皮の部分の脂身と足してちょうどよい具合だった。それにしてもこんなに巨大な鶏の肉というのは、驚きだった。
卵の方は、これが最も驚いた。
卵自体の味は、いつも食べている鶏の卵と同じか、少し味が濃く感じる程度だったが、これにかけられているソースの塩気と言ったら、まるで醤油のそれなのだ。動物質のこってりとした味わいではあるのだが、同時にさっぱりと力強いうまみのある塩気だった。
「んー! これ美味しいです!」
「お、猪醤が気に入ったかね!」
「アプロ・サウツォって言うんですか! 地元の味に似てます!」
「そうかそうか! 角猪が取れ過ぎた時にしか作らんのだがね、今年は随分獲れたから、多めに作ったんだよ。良かったら一瓶持っていくかね」
「喜んで!」
酒が入っているからか、祭の勢いなのか、実に太っ腹な話だ。
一升瓶ほどの土瓶に入った猪醤をインベントリにしまい込んで、紙月はほくほく顔だ。
今後、日本の味が恋しくなった時に、まあ魚醤と醤油くらい違うは違うが、懐かしむ程度には楽しめそうだ。
「あのさ、紙月」
「ん、どうした未来。食わないのか」
「ぼく、鎧脱がないと食べられないじゃん」
「あ、そっか」
紙月は少し考えて、それから、大きく手を打ち鳴らせると、かえって人の目を呼んだ。
「さあさお立ち合い! 小鬼退治を頑張ってくれた俺の仲間を紹介しよう!」
「ちょっと紙月!?」
「見るも勇猛、見上げるような巨体だが、何しろこいつは魔法の鎧! さあさ中身を御覧じろ!」
ほら未来、と急かされて、仕方なしに鎧をインベントリに放り込むと、以前と同じように鎧は端から外れて虚空へと消えていく。その光景に一同は大いにざわめいたが、その中身、つまり未来の子供の姿が現れると大いに沸いた。
「なんとあんた、そんな子供だったのかね!」
「そのなりでえらいねえ!」
「よし、よし、一杯食べるといい!」
特に女たちからの人気が大きかった。
小さな子供に守られたと村の若集はちょっと気不味い顔だったが、それでも誉めそやされて調子に乗った未来が、御馳走の乗ったテーブルを片手で持ち上げる段にはかえって大いに盛り上がった。
未来は姿こそ子供だし、実際も小学生だが、一年間紙月がみっちりとパワーレベリングを施した、レベル九十九の《楯騎士》だ。防御に特化しているとはいえ前衛職、その腕力は並の男たちでは敵うまい。
若衆たちが酔いに任せて次々に腕相撲を挑んでは、ころりころりと紙相撲のように転がされて行く様はいっそ面妖だ。
一方で、最初から近接戦闘を積極的に捨てている紙月などは、御覧の通りの腕力しかないが。
(というより、下手すると前の体より落ちてるかもしんねえな)
何しろ装備の中には、力強さと引き換えに魔法的能力を上げるものもある。そうでなくても非力なハイエルフなのだから、何かあった時の為に軽くトレーニングくらいしてかないとまずいかもしれない。体力資本の世界のようだし、必要ないということはあるまい。
などとぼんやり考えていたら、不意に体が宙に持ち上がり、ぎょっとさせられる。
「お、わっ、なんだ!?」
「どう紙月? ぼく、こんなに力持ちだよ?」
見れば未来の小さな体が、平然と紙月の体を抱き上げていた。
腕相撲でひとしきり若衆を転がして、次の力自慢ということらしい。あたりを見れば中年たちが無理をして、嫁さんたちを抱きかかえては腰を痛めていた。
「わ、わかったわかった、怖いからおろしてくれよ」
「紙月は怖がりだなあ」
などと言いながら未来は一向におろしてくれない。祭の空気にあてられたかと思えば、ずいぶん顔が赤い。
「ひっく」
「お前、もしかして、飲んでんのか?」
「飲んでない、っく」
「飲んでんだな?」
「飲んでないもん」
明らかに酔っ払いの言動である。
叱りつけてもいいが、小学生の酔っぱらいなど相手にしたことがない。どうしたものかと紙月が頭を抱えていると、不意にずるずると未来の体から力が抜けて、紙月も自然と解放される。酔いつぶれたらしい。
「まったく、まるで子供だ、というべきか」
そりゃあ、子供なのだ。
ここまで気を張ってくれたことの方を、むしろ褒めてやるべきだろう。
「すまないが連れが潰れちまった。どこか屋根を貸してもらえるかい」
紙月の小さな体を抱き上げてコメンツォに告げると、村の客だからと村長の家の客間を貸してもらえた。
ベッドは一つだったが、細身の紙月と小さな未来には、ちょうどよいサイズだった。
用語解説
・大嘴鶏(Koko-ĉevalo)
極端な話、巨大な鶏。
草食よりの雑食で、大きなくちばしは時に肉食獣相手にも勇猛に振るわれる。主に蹴りの方が強烈だが。
肉を食用とするのは勿論、騎獣として広く使われているほか、日に一度卵を産み、また子のために乳も出す。農村でよく飼われているほか、遊牧民にとってなくてはならない家畜である。
一応騎乗用と食畜用とで品種が異なるのだが、初見の異邦人にはいまいちわかりづらい。
・オーヴォ・クン・ラルド(ovo kun lardo)
要するにベーコンエッグ。
・猪醤(aprosaŭco)
肉醤(viandsaŭco)の一種で、ここでは角猪を用いた調味料。
肉、肝臓、心臓をすりおろしたものを塩漬けにして、発酵・熟成をさせたもの。酵素によってたんぱく質がアミノ酸に分解され、力強い旨味を醸し出す。
・角猪(Korn-apro)
森林地帯に広く生息する毛獣。額から金属質を含む角が生えており、年を経るごとに長く太く、そして強く育つ。森の傍では民家まで下りてきて畑を荒らしたりする害獣。食性は草食に近い雑食だが、縄張り内に踏み入ったものには獰猛に襲い掛かる。
・《楯騎士》
ゲーム内《職業》のひとつ。
武器を装備できない代わりに、極限まで防御性能を高めることのできる浪漫職。
遅い、重い、硬いの三拍子そろって、扱いづらい。PvP、つまり対人戦では、並のボスより硬いとして敬遠されるが、攻撃手段がほとんどないため、味方との連携が試される。
前回のあらすじ
未成年の飲酒、ダメ、ゼッタイ。
翌朝目を覚ますと、未来はすでに目を覚ましていた。
「あ、お、おはよう紙月」
「ん……おはよう、未来」
寝起きの悪い紙月とは異なり、未来はすっかりパッチリ目を覚まして、歯など磨いているくらいだった。
「……歯?」
「どうしたの?」
「歯ブラシなんてよくあったな」
時代設定どうなってんだと首を傾げた紙月に、未来はおかしそうに笑った。
「インベントリあさってみなよ。これゲームのアイテムだよ」
「アイテム……あー、《妖精の歯ブラシ》か!」
それはMMORPG、《エンズビル・オンライン》内において手に入れることのできたアイテムだった。
象牙でできた実に立派な歯ブラシなのだが、実は装備品で、これを装備した状態で敵を倒すと、《牙》や《歯》といったドロップ・アイテムが、店売りするより高額なゲーム内通貨として手に入るという特殊な効果があった。
何かのイベントの際に活躍するときがあって、持っていたままだったのだ。
桶に汲んだ水で顔を洗い、歯を磨き、いくらかさっぱりした紙月は、ふと思いついて着たまま寝てしまった装備を改めてみた。
「……皴にもなってないな」
「口紅も落ちてないね」
「え、あ、そういえばそうか。顔洗ったのにな」
しかしこの口紅は装備品だ。恐らくステータスメニューで操作することで解除できるのだろう。
他にも一通り見てみたが、寝ている間にしわが寄ったり、ほつれてしまったりというところは見られない。ゲーム内アイテム様さま、と言ったところか。
「にしても……」
気になってわきのあたりなどに鼻を寄せてみたが、体臭もしない。
先程身だしなみを確かめてみた時に気付いたが、髪も脂っぽくなったりしていない。顔を洗った時や歯を磨いた時も、そこまで汚れを感じなかった。
気になりだすと確かめずにはいられなくなって、紙月は未来を呼び寄せた。
「おーい未来」
「なにしづ、きっ!?」
「ちょっとごめん」
紙月は未来の頭に鼻先を突っ込み、それからひょいと抱き上げてわきのあたりにも鼻を突っ込んだ。
暴れることもせず、というよりは突然の暴挙に完全に硬直してしまった未来をそのままおろし、紙月は満足したようにうなずいた。
というのも、未来の体からはきちんと匂いがしたからであった。
髪の毛は少し脂が回っているし、体臭も、まだ一晩だから大したものではないが、子供っぽい匂いが確かにした。自分の体の体臭がごくごくわずかなことに比べるとこれは大きな違いだ。
「どうやらこの体はきちんと種族を再現してるみたいだな」
「うえ!? え!? なに!? いまのなに!?」
ようやく再起動して後ずさる未来を気にすることもなく、紙月は自論を展開していく。
「つまりさ、俺の体はハイエルフなんだけど、もともとエルフは新陳代謝が低いらしいんだよな。ハイエルフとなると半分精霊に片足突っ込んでるから、多分新陳代謝が全然ないんだ。だから垢もないし、匂いもしない」
これは便利だった。恐らくデメリットの再現も享受しなければならないだろうが、非力さなどは相方がいればどうとでもなる。
「で、獣人の場合は新陳代謝は普通みたいだな。特に獣臭いってこともない。でも普通に匂いはするし、多分しばらくすれば垢も目立ってくるだろ」
「あー……あー、そういうこと、ね。うん。そっか」
未来は何度か頷いて、それから気になるのか何度か自分の匂いを嗅いでいた。
「気になるなら洗ってやろうか?」
「えっ、あらっ!?」
「《浄化》かけりゃ多分綺麗になるだろ」
「え、あ、あー、うん、そう、そうかもね」
《浄化》というのは魔法《技能》のひとつで、汚泥や汚損といったステータス異常を回復するものだ。
試しに実際にやってみたところ、未来の足元から頭まで水の柱のようなものが速やかに撫で上げていき、そして消えていった。
「結構あっさりしてんな……どうだ?」
「匂いが薄くなってる。それにお肌もつるつるだ」
「美肌効果もあるんじゃないだろうな」
ともあれ、これで旅の心配は一つ減った。
他にも使えるものがないか、インベントリをあさってみると、なかなか頼れそうなものがいくつか見つかった。例えば回復系アイテムは食料品の形を取っていることが多く、素材の多くも食べられそうなものばかりだ。またアイテムには野営に役立ちそうなものも多かった。
「ただ、換金できなさそうなのがつらいな」
「多分これ一個でもオーパーツだもんね」
昨日見た限りでは、少なくとも農村レベルではそこまで非常識なものの類はない。街や都市などに行けばもう少しはっきりしてくるのだろうけれど、現状では気安く経済を破壊してしまってよいとも思えない。
二人が整理もそこそこに起き出すと、とっくに起きて仕事についていた村長は畑で、奥さんが屑野菜のスープと硬いパンの朝食をふるまってくれた。昨夜とは大違いだが、恐らくこれが標準なのだろう。
紙月がもそもそと食欲もわかないまま食べている間に未来はペロリと平らげてしまったので、残りも譲った。
「いいの?」
「ハイエルフってあんまり食べないみたいなんだよ。昨日食べたせいか、全然食欲がない」
これは便利であると同時に、かなり悔しい話でもある。せっかくの異世界の料理が楽しめない可能性も出てきたのだ。まあ幸いにも獣人の相方はずいぶん食べそうだから、二人で分ければちょうどよいかもしれない。
簡単な朝食を済ませ、二人は村長とその奥方に礼を言って家を出た。
何をするでもなくぼんやりと村を見て回っていると、同じように暇そうなコメンツォと顔を合わせた。
「よう。昨日は随分と楽しい夜だったな」
「やあ、お陰様で」
「なに、なに、お陰様はこっちの言葉さ。随分盛り上げてもらった」
コメンツォはあぜ道に腰を下ろし、二人もまたそれに続いた。
「ここは俺の故郷でね。若い頃は二度と帰るもんかと思っていたが、年を食ってくると、どうしても足を運んじまうもんだ」
「そろそろ引退を考えてるんでしたっけ」
「そうだ。最後の一仕事のつもりだった。実際、気が抜けちまうと、もう一度冒険屋ってのは、ちと、つらい」
「村の仕事に?」
「まあ、そうだな。狩人でもいいし、用心棒みたいな形でもいい。幸い、村長とも仲がいい。小さな畑でも持って、な。まあ耕し終えるまでに、俺の腰も曲がっちまうかもしれんが」
この言葉を聞いて、紙月はふと思いついた。ずいぶんよくしてもらったし、礼をしたいと思っていたのである。
「家は決まってるんですか?」
「空き家が一軒ある。畑跡は随分土が固くなってるから、掘り起こすのが少し骨だがな」
それで決めた。
「俺の魔法の練習に付き合ってもらえませんか」
「なに?」
「畑を耕す魔法があるんですよ。礼と思って」
「頼めるなら、こちらから頼みたいが、いいのかね」
「もちろん」
素直に礼をしたいといっても、受け取ってもらえそうになかったからである。これはコメンツォも察したようで、ばつの悪そうににやっと笑って、それからこっちだと案内してくれた。
村はずれの空き家の傍には、確かにすっかり雑草にまみれて、荒れ地になった畑の跡がある。
「草を抜いて、耕して、呼吸させてやらにゃならん。草を焼き払ってもらうだけでも、助かるが」
「やってみましょう」
紙月はまず、小鬼たちを仕留めた時と同じように、《火球》で草を焼き払った。あとに残らず、燃え広がず、瞬間的に焼き払ってくれる魔法の火は、雑草だけを綺麗に焼いてくれた。
「おお、すごいな。こりゃあ確かに小鬼どもも敵うまい」
「それからもういっちょ」
ショートカットリストを、土属性魔法のものに切り替える。
「《土槍》」
《土槍》は、土属性の最初級の魔法《技能》である。
効果は簡単で、地面から土の槍を突き出して、相手を足元から攻撃する。これだけだ。空を飛んでいる相手には届かないし、水場などでも使えない。低確率で敵を転倒させられるが、そのくらいのメリットなら、普通はもっと上等な魔法を覚える。
それを三十六連。
「お、おおっ!?」
するとどうなるかというと、焼き払われた畑跡の土が、おのずから一斉に地面をかき回しながら地中から突き出し、そして崩れていく。
「いまのじゃ浅いかもしんないから、もう一回」
もう三十六連。
同じように土がかき乱されるが、先程よりも柔らかくなっているからか、より深いところから土が掘り出され、立派な槍となって虚空を貫き、そして崩れる。
あとに残るのはすっかり柔らかく耕された畑である。
「あんた……すごい魔法使いなのかもしれんな」
「特別サービスってことで」
《SP》を使用する感覚なのか、すうっと体から何かが抜けるような奇妙な心地がしたが、それもすぐに回復してしまう程度のものでしかない。
「参ったな。これじゃあしっかり畑仕事して、村に根付くしかないな」
「しっかり根付いてくれよ」
「ああ、そうさせてもらうよ」
自分は助かったが、あんたたちはこれからどうするのかと尋ねられて、二人は顔を見合わせた。
目的という目的もなく、目標という目標もないのである。
強いて言うならば元の世界に帰ることだが、そのヒントが簡単にそこら辺に転がっているとも思えない。
なので素直にとくにあてもないと伝えると、コメンツォは少し待っていてくれと小屋に入り、少したってから封筒を手に戻ってきた。
「当てがないなら、あんたらの腕だ、冒険屋で食っていくのはどうだ」
「冒険屋?」
「何をしてもいいし、何をしなくてもいい。何か目的があるなら、それを探しながら冒険屋で食っていくってのはありだと思うぞ」
コメンツォが渡してくれた封筒は、推薦状だという。
「少し行った先にある町の冒険屋事務所に宛てたものだ。俺が抜けたばかりだから、雇ってくれると思うよ」
「なにからなにまですみません」
「なに、なかなか面白いものを随分見せてもらったからな」
「ありがとうございます」
「町までは少し、歩く。明日はうちから市へ向かうものがあるから、明日の朝、一緒に行くといい」
そうさせてもらうことになった。
用語解説
・《妖精の歯ブラシ》
ゲームアイテム。装備した状態で敵を倒すと、ドロップアイテムのうち《歯》や《牙》に該当するアイテムが店舗での販売額よりも高額のお金に変換されて手に入る。
『おや、歯が抜けたのかい。それなら枕の下に敷いてみるといい。翌朝には妖精がコインに換えてくれるから……おや、だからって抜いちゃダメだったら!』
・《浄化》
魔法《技能》の一つ。汚泥、汚損、毒、呪いといったステータス異常を回復させる。
『《浄化》の術で気を付けにゃならんのは、カビの生えたパンにかけても、腹を下すか下さんかは運しだいちゅうことじゃな』
・《土槍》
《魔術師》やその系列の《職業》覚える最初等の土属性魔法《技能》。
地面から土の槍を繰り出す魔法であって、地面を耕すのが目的ではない。
ただし、レベル九十九まで鍛えられた《魔術師》が使えば、いくら最初等の《技能》とはいえ、どんなかたい地面でも耕すことができるだろう。。
『足元からの攻撃というものは、どんな戦士にもある程度利くもんじゃ。褒めてやるからわしに悪戯を仕掛けた奴は名乗り出なさい。怒らんから』
前回のあらすじ
冒険屋コメンツォの推薦で、当座の目的として冒険屋を目指すことにする二人だった。
その日は一日、村の中を何となく歩いて、気が付いた時にちょっとした手伝いをしてみた。力仕事であれば小さくとも未来が役に立ったし、作物の育ち具合がいまいちよろしくないとなれば、紙月が《回復》をかけてやれば解決した。
そのようにして一日を潰し、村長の家で再び休ませてもらい、翌朝、出立となった。
農村の朝は早く、特に市に出るからには、日の出る頃には出立だという。
未来はともかく紙月は起きる自信がなかったので、《ウェストミンスターの目覚し時計》というアイテムをセットした。
これは本来ステータス異常である睡眠状態を回復させるアイテムなのだが、時刻を定めてアラームを鳴らすこともできる文字通りの目覚し時計だった。
日の出より恐らく少し早めだろうという時刻に設定してみれば、リンゴンリンゴンという鐘の音とともに、恐ろしくすっきり目覚められた。まどろみすらない。疲れた感じもない。完璧な目覚めというものがあるのならば、あるいはこのようなものなのかもしれない。
未来は目を覚まして目の前に紙月がいるという状況に最初慌てたが、すぐに現状を思い出したのか、気恥しそうに朝の身だしなみを整えた。ベッドが一つしかないから、一緒に使っていたのである。
二人が身だしなみを整えて村長の家を出ると、気の利いたことで、巨大な鳥の引く荷車が家の前に停まっていた。
「やあ、すまない。待たせたかな」
「いんや、早めに来とったんでさ。森の魔女様を待たせたら申し訳ねえんで」
昨日一日、村のあちこちで人助けした二人は、すっかり森の魔女とその騎士として敬われるようになっていた。
否定してもきりがないしそのままにしているが、何とも、気恥しい。
乗ってくれという言葉に甘えて二人は早速荷車に腰を下ろしたが、実に揺れる。
サスペンションも何もないような簡単な作りであるし、道も、舗装されているとはいいがたい、踏み固められた土の道だから、これは仕方がない。
揺れに慣れている紙月は尻が痛いなと思う程度だったが、未来は落ち着かないようで、何度も座り方を変えてはいるようだった。
「その町って言うのには、どれくらいで着くんだい」
「そうですなあ、一里ほどですから、まあ半刻も見てもらえれば」
「どのくらいって?」
「一時間くらいらしい」
コメンツォから聞いたところによれば、時間は日の出から日の入りまでを六つに分けて、一刻二刻と数えるらしい。不定時法なのではっきりと定まっているわけではないが、仮に十二時間を六つに分けていると考えれば、一刻で二時間、半刻で一時間ということになるだろう。
最初のうちは物珍しくあたりを見る余裕もあったが、なにしろなにもない。すぐに飽きてしまって、今度は今後の方針や現状といったものを話し合ってみたが、なにしろお軽い当世の大学生と、まじめだが経験の乏しい小学生である。すぐに話は行き詰った。
仕方なしにしりとりでもしてみるが、これはなかなかに面白い収穫を得られた。
「りんご」
「ゴマ」
「孫の手」
「手袋」
「六波羅探題」
「なにそれ」
「そのうち歴史で習う」
「ふーん……い、い、イルカ」
「かもめ」
「めだか」
と本人たちは順調にやっていたのだが、これがふしぎと御者席の村人にはさっぱりルールがわからないらしい。
「そりゃ、魔女様の禅問答か何かですかい?」
「いや、これは、あ。あー、いや、そんなものさ。気にしないでくれ」
「どうしたの?」
「しりとりは俺達の間でしかできないようだ」
何故かと言えば、言葉が通じているように見えるのは謎の自動翻訳によるものであって、実際には全然違う言葉をしゃべっているのだ。だから単語も全く別の発音をしているはずで、それらの頭をとっても尻をとっても、彼らの言葉と日本語とでは全く違うのだから、成立しようがない。
「はー……じゃあまず言葉を覚えないとしりとりもできないね」
「なまじ通じちまってるから、覚えるの大変そうだな」
そのようにして妙に間延びした一時間を経て、一行は町へたどり着いた。
町は簡単な柵で覆われてはいたが、精々が建物を立派にして、道も舗装してあるかという程度で、村を大きくしたようなものと言った規模であった。聞けばもっと大きな街などは外壁があるようだが、ここにはそのようなものはない。
一応の門があって、村人はそこで手形を出して、通過した。彼とはここでお別れである。
二人の番が来て、身分証明か通行手形を出すように言われたので、コメンツォに言われたように推薦状を出すと、コメンツォの名前が利いた。
「なんだ、コメンツォさんの知り合いか。事務所は大通りをまっすぐ突き抜けて、左手の方に看板が見えてくるよ」
「看板?」
「大きな斧の形をしてる。すぐわかるよ」
「ありがとう」
二人は町に入り、未来は早速事務所に向かおうとしたが、紙月がそれを止めた。
「先に鎧を着ちまえ」
「どうして?」
「街中ではぐれても困るし、それに、冒険屋ってのはきっとやくざな連中だろう。俺と、小学生のお前じゃ、舐められるかもしれん」
「成程。鎧ならそんなことないもんね」
「そういうことだ」
物陰で着替えて、ふたりは早速大通りを進んでいった。
大通りには方々の村から集まった人たちによって市が形成されていて、作物や、卵、肉や種、苗、中には石や木材、薪といったものまで、さまざまなものが売りに出されていた。
気にはなるが、それはこの一風変わった二人組に向けられる視線も同じようで、足を止めたらそのまま捕まりそうだと、二人は颯爽と通り抜けようとして、紙月がピンヒールに慣れず転び、結局抱き上げられて進むこととなった。
「すまん」
「靴替えたら?」
「せめてお前と目線合わせようとすると、ヒールでもないとなあ」
「ああ、うん、そう、それならしかたないかな」
余計に目立つようになったので速足で進むと、やがて市が途切れ、きちんとした店舗を持つ店が並ぶ通りに出た。
左手を見て歩くと、確かに大きな斧の形をした看板が見える。
「というより」
「大きな斧になんか書いてあるって感じだよね」
実物の大斧にしか見えない。それも、未来が両手で持ち上げてどうにか様になるといった巨大な斧である。勿論、張りぼてではあるのだろうが、確かに目を引くし、威圧感もある。
実態はよく知らないが、冒険屋という響きには実に似合っていた。
建物は二階建てで、外から見た感じ、ちょっとした下宿かアパートといった感じだ。
ドアを開けて中に入ってみると、中身も実際そんな感じで、すぐ横に受付のような、カウンターがあるばかりである。
成程これが冒険屋の事務所なのか。と思って見回してみる。
のだが。
「……あれ?」
「誰もいないね」
「朝早すぎたか?」
市にやってくる荷車に乗せてもらったんだから、確かに朝は早い。早すぎるほど早いのかもしれない。街の人間の生活リズムは知らないが、夜明けから一時間後というのはまだ寝ている時間帯なのかもしれない。
「というか、俺なら寝てる」
「ぼくも起きたばっかりとかかな」
「出直すか?」
「うーん、暇をつぶせるところがあるといいんだけど」
「あれ、お客さん? 早いね」
二人がドアを開けたところで問答していると、後ろから声がかかる。
「ごめんだけどちょっと詰めてね。荷物が多いもんだからさ」
「あ、ごめんなさい」
二人が道を開けると、両手にたっぷりの袋を抱えた女性がよっこらせと入ってきて、カウンターにそれを積み上げる。中身は食料品の類のようだ。
女性はがっしりとした体躯ながらも柔らかい顔立ちで、いかにも下宿のおかみさんといった風貌だった。
「こっちこそごめんなさい。ちょっと買い出し出てたから。えーと、お客さん?」
「あ、いえ、紹介があって」
「紹介?」
紙月が推薦状を渡すと、女性は中を改めて、ふむんと頷いた。
「なんだ、冒険屋の推薦か。コメンツォの推薦ってことは凄腕だね?」
「いやあ、比べたことが」
「やだねえ、冒険屋やろうってんなら、そこは胸を張らなきゃ。見栄があたしらの名刺じゃないか」
からからと笑うおかみさんは、よし、よしと頷いて、二人を頭のてっぺんから足元まで眺めた。
そしてまたよし、よし、と頷いて、カウンターの奥に引っ込んだ。
「なんにしろ、若手が来てくれるのはありがたいよ。コメンツォが抜けてちょっと困ってたんだ」
「じゃあ雇ってもらえます?」
「推薦状もあるし、断るほど人出がないんだよ」
改めて受付のカウンターに腰を下ろして、おかみさんはにっかり笑った。
「なにはともあれ、ようこそ《巨人の斧冒険屋事務所》へ。あたしは所長のアドゾ」
「あー。紙月です。よろしく」
「未来です」
こうして、冒険屋事務所へとたどり着いたのだった。
用語解説
・《回復》
最初等の回復魔法《技能》。《HP》を少量回復する。より上位の回復魔法も存在するが、ボスなどと戦う場合には、専門の回復職でもなければ回復薬に頼った方が効率は良い。
『《回復》は覚えておいて損はないぞ。大概の傷には効くし、重ね掛けもできる。問題は、なんで治るのかはいまだにわからんちうことじゃな』
・《ウェストミンスターの目覚し時計》
睡眠状態を解除するアイテム。効果範囲内の全員に効果があり、また時刻を設定してアラーム代わりにも使用できた。
『リンゴンリンゴン、鐘が鳴る。寝ぼけ眼をこじ開けて、まどろむ空気を一払い、死体さえも目覚めだす』
・《巨人の斧冒険屋事務所》(Toporo de altulo)
スプロの町(Spuro)に存在する冒険屋事務所のひとつ。
荒くれ者が多く、看板に斧を飾るように、所属する冒険屋も斧遣いが多い。
・アドゾ(Adzo)
《巨人の斧冒険屋事務所》の所長。
四十がらみの人族女性。
怪力を誇り、看板の斧を持ち上げることができるのは彼女の他数名しかいないという。
前回のあらすじ
冒険屋事務所に辿り着いた二人を出迎えたのは、いかにもなおかみさんであった。
無事冒険屋事務所に辿り着き、早速冒険屋になる、というわけにはいかなかった。
というのも、じゃあさっそくこれに名前を、と言われて取り出された契約書が読めず、書けなかったからである。
「なんだい、あんたら文字ができないのかい」
「いやあ、森から出てきたもんで」
「なんだそりゃ。でも文字が読めなきゃ困るね。書けない分には適当な文字でいいんだけど、読めないと、後で揉めるからって組合で止められてるのさ」
もっともな話である。
とはいえ急に文字を覚えるというとも難しいなと顔を見合わせていると、アドゾはパンと手を叩いた。
「よし、よし、じゃあ紹介状書いたげるから先に神殿に行っといで」
「神殿?」
「このまま大通りを左に歩いて行って、突き当りに神殿があるから、そっちで覚えてくるといい」
そう言って放り出されてしまったが、さすがに途方に暮れる二人である。
「神殿、ねえ。教会とか神殿とかが読み書き教えてくれるってのはそれっぽいけど」
「どれくらいかかるかなあ」
「一年で済むと思うか?」
それまで路銀をどうしようと思いながら取り敢えず向かってみると、なるほど立派な建物の並ぶ通りに出る。
道行く人に聞けば、このあたりの建物はみな神殿で、それぞれに神様を祀っているという。
二人が行くように言われたのは言葉の神エスペラントの神殿である。
道行く人はみな神殿に足を運ぶだけあって人が良く、聞けばこれこれこう行ってと親切に道を教えてもらえた。
「はいはい、迷える人よ、今日はどうしました」
顔を出してみれば受付のようなものがあり、声をかければなんだか神父なんだか牧師なんだか医者なんだかよくわからないことを言われる。
「読み書きを覚えて来いと言われまして」
「はいはい。どなたかの紹介?」
「あ、はい。これ紹介状です」
「あー、アドゾのところの。お金はあります?」
「いや、全く」
結局小鬼の分の報酬は事務所で換金してもらおうと思っていたのだが、そのまえに放り出されたのである。
「いいですいいですよ。組合に通しておきますので。それでどうしましょうか。読みだけなら二十分くらい。読み書きなら三十分くらいですかね」
「えっ」
「えっ」
「そんなに早いんですか」
「朝早いからまだ空いてますしね」
どういう理屈なのか。
しかし三十分で読み書きができるようになるならばと申し込んでみれば、早速奥の小部屋へと連れていかれる。
椅子に座らされて、じゃあこれをと渡されたのは、いくらか厚めの冊子である。だいぶくたびれていて、ありがたい聖書という感じでもない。見れば棚には在庫がたっぷりあるし、何なら値札も見えた。
「ここでじっくり読んでいってくださいな。終わったら棚に戻して、声かけてお帰りください」
「はあ」
「じゃあごゆっくり」
「えっ」
本当にそのまま、受付の人は去っていった。
説法などもない。
冊子の表紙を見てみたが、何やら見覚えのない言葉が書いてあるらしいのだけれど、まるで読めない。かろうじてアルファベットかなとは思うのだが、癖の強い筆記体で読めやしない。
なんなのかと思いながら冊子を開いてみたが、そこにはさらさらと筆記体で何か書かれていて、内容はと言えばまるで読めない。読めるわけがない。読めるわけがないのだが、何となく目が吸い寄せられて、気づけばぱらりぱらりとページをめくっている。
読めないままぱらぱらとめくっていくと、読めないのだが何となくわかったような気がしてくる。ときどき何かにつまずいた時はページを戻るのだが、そのページを読み直して戻ってみると、やっぱり何だか分かったような気がする。
ドレスと甲冑が並んで本にのめりこんでいる様はなんだか異様であるが、二人はまるで気にした様子もなく没頭しているし、時折通りがかる人も、その格好には小首をかしげるが、やっていること自体には何も疑問を抱かないらしく、自然に通り過ぎていってしまう。
十分かそこらして一度頭から最後まで読んでしまい、もう一度頭から開くと、今度は先程よりもわかったような気がする。先程までは名詞なんだか動詞なんだかそれすらもわからなかったのだが、今度はそのあたりの関係というものが読めてくる。いや、相変わらず読めているわけではないのだが、それでも何となく全体の輪郭というか雰囲気のようなものがわかってくるような気がする。
普段読書など全然しないというのに、不思議と集中力が途切れない。そして読むということにもう疑問が起きない。
また十分ほどしてもう一度頭から読み始めると、今度はきちんと文として読めてくる。文という文に輪郭が感じられ、その構成がすんなりと頭に入ってくる。つっかかることがなくなり、するりするりと文の内容が読み解けてくる。わかったような気がするのではない。読めるのである。ぐいぐい読める。
そしてまた十分ほどしてすっかり読み終えると、ようやく顔を上げることができた。
そうして目をぱちくりさせていると、瞼の裏に文字がちらつくような気さえする。
先に読み終えた未来が自分の読んでいた本の表紙を向けてくるので、紙月は咄嗟にそれを読み上げた。
「馬鹿でもわかる算術基礎」
そのようにして、二人は文字を読めるようになっていた。
ことこうなると、書けるということには全くの疑念もわかなくなってきた。
試し書き用にとインクとペン、紙を持ってきてくれたのだが、使い方の慣れないこれらの道具にもあっさりと手は馴染み、自然と簡単な文章を書けるようになっていた。
「はい、大丈夫みたいですね」
「すごいな、これは」
「子どもなんかにやらせると、手が覚えないんで字が汚くなるんですけど、大人だとまあ、時間もないですし仕方ないですからね。綺麗な字を維持したかったら毎日練習でもしてください」
「これ、忘れたりはしないんですか?」
「使わない言葉なんかは忘れてきますよ。それは誰でも一緒。試験の一夜漬けには向きませんよ」
ともあれ、これで一応言葉は覚えたわけである。
「異世界すごいね」
「異世界というか、神様がいるんだな」
「あ、そう言えば」
言葉の神エスペラントと言ったか。
何となく聞き覚えがあるようなないような響きだが、ともあれこれで言葉を覚えられた。
「これでしりとりができるな」
「違うでしょ」
「そうだったそうだった。早速事務所に戻るか」
事務所に戻ってみると、受付では年の若い男が待ち構えていた。
「お、あんたらが新入りだね。おかみさん、奥で待ってるよ」
言われて奥の応接室とやらに顔を出すと、ソファとローテーブルの応接セットに契約書を並べてアドゾが待ち構えていた。
「や、おかえり。さっさと書いてもらおうか」
なるほど、神殿の効果というものは全く疑われることのないものであるらしかった。
二人は早速席に着き、未来がペンを手に取りかけたが、紙月がそれを止めた。
「契約書はきちんと読まないとな」
とはいえ簡単なもので、冒険屋はその進退を自由に決められる、つまり辞めるのは自由ということや、依頼料からは組合費や仲介料といったものが天引きされること、寮を使用する場合の取り決めなどが書いてあるもので、裏をかくような文章はない。
「ん、わかった。寮は使わせてもらいたい。二人で一部屋、空いてますか?」
「空いてるよ。規約はまたもうちょっと細かくなるけど、簡単に言や、物を壊すな、汚すな、売るな、くらいさ。門限はない。飯もない。ただ設備は使っていい。基本自己責任」
「便所は?」
「一階に共用がある」
「風呂は?」
「神殿通りに風呂の神殿がある。なんなら割引券が受付にあるよ」
「わかった」
「サインしていい?」
「よさそうだ」
二人がサインをすると、アドゾはにっかりと笑って。二人の肩を叩いた。
「よし、よし、今日からよろしく頼むよ。とはいえ、まだ見習いだからね。ちょいと実力を見せてもらおう」
「実力?」
「コメンツォの推薦状には二人で小鬼二十五体を倒したとあったね」
「あ、これ、証明です」
「ふん……焼けてるが、確かに二十五だ」
アドゾは手金庫から銅貨の入った袋を取り出して、几帳面に数えてから寄越した。
「二百……五十、枚。ちょうどだね」
「確かに」
「まあ数は揃えてきたけど、所詮小鬼だからね。もうちょっと実力のわかると相手で試験したい」
「試験次第で昇給?」
「そこまでじゃないよ。でもいい依頼はやれるかもしれないね」
まだ日も高いので、早速その日のうちに出かけることとなった。
用語解説
・言葉の神エスペラント
かつて隣人たちがみな言葉も通じず相争っていた時代に現れ、交易共通語なるひとつなぎの言語を授けて、争うだけでなく分かり合う道を与えたとされる。
・風呂の神殿
風呂の神マルメドゥーゾ(Mal-Meduzo)を崇拝する神殿。
入浴することが祈祷の形であるという一風変わった神殿で、非常に洗練された浴場を公衆に有料で開いている。
衛生目的で帝国政府が補助金を出しているので、今一番伸びている神殿ともいわれる。
前回のあらすじ
言葉の神エスペラントの加護でこの世界の文字の読み書きを習得した二人。
お勉強の後は、体育の時間。
「んじゃま、今日はよろしくたのむよ」
「よろしくお願いします」
見届け人兼、慣れない見習い二人の補助としてつけられたのが、少し先輩にあたるハキロという男だった。三十少し前と言ったところで、貫禄を見せようとしてかひげなど生やしているが、若々しい顔立ちのせいでかえって浮いて見えていた。
「えーっと、シヅキとミライだったな。いままで魔獣の相手は?」
「この前の、小鬼というやつだけです」
「小鬼はまあ、数の内にはなあ。いや、二十五匹だったか。数ではあるよな、うん」
「今日は何という奴を?」
「まあ小鬼よりは手ごわい。豚鬼っていう」
「おるこ」
「小鬼のでかいやつみたいなんだけどな、未来よりは小さいけど、大の大人よりはちとでかい」
「じゃあ大分強いんですか?」
「普通のおっさんよりは強い。だが冒険屋は普通のおっさんより強くなきゃやってられないだろ」
「確かに」
ハキロという男は噛み砕いたものの言い方ができるようだった。
「ちなみに俺は普通のおっさんより強いが、普通のおっさん相手でもさすがに集団が相手だと敵わん」
「成程」
ハキロという男が冒険屋の一番低いところだと仮定すると、豚鬼とやらに勝てるのが冒険屋としての最低限のあたりであるらしい。
その冒険屋の試金石ともいえる魔獣が、近くの森で見られたらしい。
「豚鬼も群れをつくる。でも気性が荒いから、普通はリーダー格がいないと群れにならない。今回のも恐らく一頭か、いてもつがいの二頭だってことだ」
「それ以上だったら?」
「逃げる」
「逃げていいんですか?」
「逃げなきゃ誰が豚鬼の群れを報告するんだよ」
「それもそうか」
「まあでも、一頭でも危ないからな。急いで倒す。早めの対処だな」
ハキロとの話では、一頭であれば、どちらか一人か、二人がかりでやってもらう。二頭なら二人がかりで。それ以上なら逃げる、ということになった。
豚鬼の実力がわからない以上、また自分たちがどれくらい戦えるのかわからない以上、二人もこれに同意した。
豚鬼が出たというのは、少し離れた森であった。つまり、村のあった近くの森である。歩いていくのかと思ったら、馬車を使うという。
「冒険屋は何かと足が入用だからな。今回はお前さんたちの試験ってことで、特別に事務所のを一台使っていいことになった。普段は有料だから、気をつけろよ」
馬車を引くのは二足歩行の恐竜のような動物だった。
巨大な鶏も見たのだからそこまで驚きは大きくなかったが、さすがに爬虫類は迫力が違う。
「お、狗蜥蜴を見るのは初めてかい」
「ええ、フンド、ラツェルトって言うんですか?」
「こう見えて雑食で、大人しいやつだよ。馬にも使うし、荷牽きもできる。よくしつけた奴なら子供の面倒だって見るさ」
ハキロがなでるとハフハフと舌を出すあたりは、なるほど犬のようでさえある。首元にはたてがみもあるし、触ってみれば温血動物であるようだ。
鎧という安全圏の中にいるからか、それとも彼の中の男の子が年齢相応に騒ぐのか、未来はこの狗蜥蜴がすっかり気に入ったようだった。
幌のついた車に乗り込み、いざ駆けだすと道のりはすぐだった。
なにしろ、この狗蜥蜴という生き物は足が速かった。そしてまた車もただの荷車とが違って簡単なサスペンションが組み込まれているらしく、揺れも少ない。
風を頬にうけながらきゃいきゃいと楽しんでいれば、森につくまではすぐだった。
森の入り口で車を止め、三人は森に踏みこんだ。
御者が離れても心配がないというのが、この力強い馬の良いところでもあった。
「豚鬼を見つけるのにはちょっとしたコツさえ覚えればすぐだ」
「コツ」
「やつら、独特のにおいがするんだ。悪臭ってわけじゃないけど、豚鬼臭さっていうのかね。掘り返したばかりの土のような感じがする」
「成程」
それなら昨日、畑を耕して嗅いだばかりである。
ハイエルフはそこまで嗅覚が強くないようでいまいちわからないが、獣人の未来は早速顔をあちらこちらに向けて匂いを嗅いでいる。
「わかるのか?」
「なんとなくは。でも、多分普通の人よりは嗅ぎ分けられていると思う」
「未来は獣人だったか。熊か何かか?」
「なんだろ。犬?」
「きっと狼だよ」
「なんにせよ鼻は利きそうだな」
しかし、異常は匂いよりも先に音として現れた。
「ハキロさん」
「なんだ」
「豚鬼って物凄く暴れるの?」
「何にもないのに大暴れしてたらおかしいだろう」
「おかしいですよね」
「おかしいな」
まるで大男が何人も暴れるような音である。
叫び声のような声も聞こえるし、木が圧し折れるようなめしめしといった音も聞こえる。
すでに一行は脚を止めて、各々に身構えていた。
血の匂いだ、と未来が鋭く言ったが、言わずともすでに二人にも惨劇の匂いが感じ取れていた。
じりじりと足を進めていくと、木々の向こうに豚鬼の姿が見えた。一頭、二頭、……五頭はいる。群れだ。
もっともその群れの殆どはすでに死んでいて、残る一頭も今しがたバリバリと頭から食われているところだったが。
「一頭もいなくなりましたけど、どうします?」
「逃げたい」
「俺もです」
「しかし腰が抜けて無理だ」
「勘弁してくださいよ」
目の前の惨劇に、つまりは食い散らかされた豚鬼に、薙ぎ払われた森の木々、そしてその中心で絶賛お昼御飯中である巨大な怪物の姿に、胃の中身を吐き戻さなかったのは単にそれどころではなかったからに過ぎない。
すっかり腰を抜かしたハキロも大概だが、紙月も足が震えてピンヒールで走るなんてことはできそうにない。頼りの未来は鎧の上からなのでよくわからないが、完全に硬直しているように見えた。
昼飯に夢中になっている隙にいくらか後ずさりながら、紙月はハキロに尋ねた。
「ハキロさん、あれは?」
「お、俺も話にしか聞いたことがないが、多分地竜だ。そんなに大きくないから、まだ幼獣だと思うが」
「あれで小さいのかよ……」
なにしろ豚鬼を頭からバリバリとやってのける怪物である。
巨大な亀のような姿なのだが、頭から尾まで五メートルはありそうだし、高さも紙月とどっこいくらいだろう。苔むしたような全身は非常に攻撃的な棘に覆われており、特にその大きな口と言ったら、未来のような大甲冑でも平気でバリバリとやってしまいそうである。
「どういうやつなんです」
「迂闊に手を出さなきゃ大人しいやつらしい。ただ、どこまでもまっすぐ歩いて、進路上のものを何でも壊して食べちまうから、見つけたらすぐに避難警報を出さにゃならん」
「倒し方は?」
「倒し方!? 竜種だぞ! 勝てるかよ!」
成程、と紙月は振り返った。振り返った先、つまり地竜の進む先には、村がある。小さい村は、きっとこの巨大な怪物が通り過ぎた後は何にも残るまい。それを見て見ぬふりするというのは、没義道にもほどがあるだろう。
コメンツォに折角用意してやった畑も、台無しになる。
「未来」
「うん、わかった」
「ハキロさん、俺達はちょっとあいつを止めることにする」
「ば、馬鹿言うんじゃねえ! 早く逃げねえとお前たちまで!」
「なに……無理無駄無謀はいつものことだ」
「そうそう。何しろぼくら、無駄の塊でできてるもん」
「何故ならそこに、」
「浪漫があるから!」
「お、お前ら一体……?」
紙月はとんがり帽子の下で不敵に笑った。
「《選りすぐりの浪漫狂》。世界の果てを見てきた二人さ」
用語解説
・ハキロ(Hakilo)
二十代後半の人族男性。斧遣い。
冒険屋としては一般的な強度と、《巨人の斧》冒険屋事務所の中では比較的良心的な人柄を誇る。
レベルに換算すると二十弱程度か。
・豚鬼(Orko)
緑色の肌をした蛮族。動くものは基本的に襲って食べるし、動かないものも齧って試してから食べる非文明人。
人族以上の体力、腕力と、コツメカワウソ以上の優れた知能を誇る。
角猪を家畜として利用することが知られている他、略奪した金属器を使用する事例が報告されている。
・狗蜥蜴(Hundo-lacerto)
二足歩行の雑食性の鱗獣。首元にたてがみがある。群れをつくる性質があり、人間をそのリーダーとして認めた場合、とても頼りになるパートナーとなってくれるだろう。
・地竜
空を飛ぶことはできないが、飛竜以上に体表が頑丈過ぎてまともに攻撃が通らない非常にタフな竜種。
硬い、重い、遅いと三拍子そろっており、さらに外界に対してかなり鈍いので、下手をすると攻撃しても気づかれないでスルーされることさえある。
問題は、一度進路を決めるとどこまでもまっすぐ進むため、進路上の障害物は城壁だろうと街だろうと何もかも破壊して進むことで、歩く災害と言っていい。
・《選りすぐりの浪漫狂》
《エンズビル・オンライン》において、極振りをはじめとした尖り過ぎた性能を鍛え上げた廃人諸君を畏敬と畏怖とドン引きを持って呼び習わすあだ名。キャラも狂っているしプレイヤーも狂っているともっぱらの噂。一度酔狂でギルドを組んで大規模PvPに参戦した際に敵味方問わず盛大な犠牲者を出しているはた迷惑な面子。
紙月は多重詠唱《マルチキャスト》で魔法を連発し過ぎてサーバーを落としたことがある。
未来は砦の入り口で紙月と組んで通せんぼして、「無敵要塞」「詰んだ」「不具合」などと呼ばれた。