「ねぇ、聞いてる?未来」
始業式に向かう途中。春の風が私のスカートをなびかせる。川沿いに立っている桜の木から風に乗って飛んできた桜の花びらが彼の髪の毛に付着した。
それを見つめていると、私の大好きな彼の声が私を呼んだ。
「あ、ごめん。何の話だっけ」
「部活のマネージャーの話だってば」
彼はいつも“部活のマネージャー”の話をする。
私達の学校は他よりも校則が厳しく、なんのためだか分からないようなものまで存在する。特に私が1番面倒だと感じているのは、特別な事情がない限り部活に入らなければならないということ。1年生の時は、その特別な事情をたくさん考えたりもしてたけど、今となれば時間の無駄だと過去の自分に言いたいくらいだ。
「その子がどうかしたの」
私はわざと少し不機嫌な声をした。その子の話なんて、聞きたくなかったから。
それでも彼はお構い無しに話を続ける。
「俺が試合中に怪我しちゃったんだけど、俺が普通泣きたい立場じゃん?なのにマネが1番大きい声で泣いたんだよね」
彼は晴れ渡った青い空を見上げながら、その時の状況を思い出しているのか、頬を少しピンク色に染めながらくすりと笑った。
どうして、その笑顔を見せる相手が私じゃないんだろう。そう思わずにはいられなかった。
「マネージャーなら、選手を支えなきゃいけないのに泣くとかダメだね」
私はそう言いながら鼻で笑った。どうしても、どこでもいいからその子の悪い所を見つけたかった。そうでもしなきゃ、優斗がもっと離れていくような気がしてならなかった。
でも、間違っていたんだ。彼は、私みたいに卑怯な考えを持つ子じゃなくて、その子みたいになんにでも一直線に努力して、頑張って、喜怒哀楽を表情に見せる子が好きなんだ。
ずっと一緒にいるんだから知っている。だから私は、彼に想われる側の人間にはなれない。
選ばれるのはいつも、私じゃない他の誰か。
私の言葉に彼は眉間に皺を寄せた。
「お前、それ本気で言ってんの?」
優斗からお前と呼ばれる時はいつも、大喧嘩をする前の前兆だ。
「あ、当たり前じゃん、マネージャーは」
あぁ、どうして私はいつも、ここで意地を張ってしまうんだろう。素直になればいいのに。
「マネージャーは俺らと同じ選手だ。喜んだり泣いたりして、何がいけないんだよ…部員とマネに支えるなんて言葉はないんだ」
彼は怒りを隠しながら、私の言葉を遮って淡々と話した。君は優しいから。優しいから、強く思いをぶつけないで自分の気持ちを押し殺している。そんな彼の優しさを、私は知っている。
どうしていつもこうなってしまうんだろう。
「もう、いいわ」
彼はそう言うと私の言葉を無視して行ってしまった。1回も振り返ることはなく、姿を消してしまった。
確かに私の言い方も悪かった。でも、好きな人が好きな人の話をして、耐えられるわけないじゃない。
鼻先がつんとしたのを感じ、慌てて上を向いた。私の気持ちとは裏腹に、空には青く透き通った色が広がっていた。私も、あの空みたいに綺麗な心になりたいな、なんて訳のわからないことを思ってしまう。謝らなきゃ。誰だって、大切な人を悪く言われたら怒るのも当然だ。私だって誰かが優斗を悪く言ってたら怒るだろう。
そこには、虚しく踏まれていた桜の花びらだけが残されていた。

私の苗字は天野だから、出席番号は1番か2番になることは確実。そう思って席を確認すると、案の定1番だった。正直黒板が見えにくくて好きではないが、苗字に文句を言っても意味がないので諦めた。クラスメイトはあちこちに輪を作っていて、初日で1年の楽しさが変わると言っても過言では無い。しかも私の席は1番右の1番前なので、いつも輪に入ることが難しい。去年は優斗が同じクラスで会話をする時に呼んでくれたりと助けてもらってばかりだったが、今年はそうもいかない。
私があたふたと焦っていると、突然私の肩にとんとんと指で呼ばれた。後ろを向くと、そこにはお人形さんのような可愛らしい子が座っていた。
「あなた、お名前は?」
彼女の可愛くて落ち着く声がそう言った。
「あ、天野 未来です」
緊張してしまい、敬語になってしまったことを笑われた。
「あはは、なんで敬語なの?タメ口でいいのに」
「そ、そうだよね」
「うん!私は和泉 愛っていうの、これから1年間よろしくね」
彼女の笑顔は、まるで花を咲かせるかのように可愛かった。この笑顔を見て惚れない男子はいないんじゃないかと思うほどに。
彼女が未来って呼んでもいい?と問いかけてきたので、私は頭を縦に思いきり振った。じゃあ私も愛って呼んでもいいかなとぎこちなく訊ねると、もちろん!と言ってくれた。
もっと話したかったが、すぐに担任の先生が来てしまったため、少し悲しみながらも先生に目を向けた。
「えーこれから1年間このクラスを担当する鈴木です、よろしくお願いします」
とても真面目、というわけでも体育会系の人というわけでもなく、失礼ながらもあんまりぱっとしない先生だなというのが第一印象だった。
友達を作れて浮かれていたから、今日1番大切な事を忘れかけていた。
謝るとは言ったものの、私は文系を選択して、優斗は理系を選択したため始業式以降はもう別々になってしまった。
この高校は文系と理系で東棟と西棟で分かれてしまうため、会うことは滅多にないのだ。学校で無理なら家に行けばいい。そう思った私は先生が話を終わらせた途端すぐに帰る支度を始めた。新しく配られた教材が思った以上に重く、来年もこれを体験しなければいけないのかと思うと気が引ける。
私は大きな溜息をつく。愛に挨拶をして、よし、と小声で意気込んでから教室を飛び出した。

私と優斗は幼稚園からの仲で、親同士も仲が良い。よくお互いの家族みんなでお出かけしたり、バーベキューをしたりでお世話になっている。家が隣な事もあり、今も関係が続いているのだ。優斗は中学の時から成績優秀で、県内でもトップレベルの高校を狙っているという事を聞いてから、私も同じ高校に行きたいと思って猛勉強したのが懐かしい。試験の手応えはそこそこだったから、発表されるまでとても不安だった。元々上の下、中の上くらいの成績を維持していた私にとっては、人生の1度目の試練といってもいいくらいに頑張ったのだ。無事自分の受験番号があってお母さんとお父さんと3人で泣きながら喜んでたっけ。もうあれから1年も経ったのか。私達の仲が続いてるといっても、1度だけ接するのが難しい時期があったのだ。
中学2年の時から周りは思春期に入り、男女が話すだけで好意があるという謎の噂を流されるという恐怖から、学校では優斗に話しかけることも少なくなってしまっていた。それでも彼はそんな事には臆せずに私の元へ来てくれて、更に好きという気持ちは増すばかりだった。もしかしたら両想いなのかな、と思う時がなかったわけじゃない。でもその思いは呆気なく壊された。ある日の事、彼がいつも通り私の元へ来た時、とある男子が大声で「優斗まさか、天野のこと好きなのかー?!」そうクラス中に聞こえるような声で叫んだ。私は恥ずかしくて視線を下に向けた。それでも、嘘をつかない彼がなんて言うのか気になってドキドキしていたのも事実。少しの沈黙の後、彼はこう言った。
「こいつとは何もないよ、ただの幼なじみってだけだから」
その時思った。私はいつまで“ただの幼なじみ”として振る舞えるだろうかと。
私は酷い人間だから、彼の好きと私の好きは違うから。いつかあなたのことがずっと好きだったって伝えたくなる時が来ちゃうから。
彼がこの時、初めて嘘をついてて欲しいと思った。人の嘘は嫌いだけど、どうか私への優しさの嘘であってほしいと願った。
私はゆっくりと顔をあげ、彼を見つめる。彼の綺麗な瞳には、迷いなんてなかったかのようにまっすぐしていた。
あぁ、本心なんだ、私はただの幼なじみ止まりなんだと痛感した。
叫んだ男子がなんだつまんねーと言い、面白くなくて悪かったなとふざけ合っている。
私にとってこの日は、失恋を知らされる残酷な日となった。

意気込んだのはいいものの、優斗はすでに今日から部活が始まっているのだ。彼は昔からサッカーをやっていて、高校でもサッカー部に入った。去年は1年にも関わずベンチ入りを果たしたとか。私は特に好きな事や趣味がないから、部活中でも優斗を眺めることが出来る美術部に入った。美術部の教室にある窓からは、校庭が広がっているため、サッカー部を観ることができるのだ。美術部は文系の東棟である1階にあって、私の教室は2階。1年の時から文系に入ろうと思っていたから、近いこともあって悩むこと無く決めることが出来た。
美術部は明日から始まるそうで、1年生が入部体験に来る。私は高校から美術を始めたから、後輩に教わる事がないように頑張ろうとは思うが、やはり緊張はしてしまう。それでも、昔優斗が教えてくれた「全力で頑張っている人の中で、中途半端な気持ちで行ってはいけない」という言葉。その日から私は、何かしら行う時は、下手でもダサくても本気でがんばる、そう思いながら取り組んでいるのだ。私にとって優斗は好きな人でもあり、尊敬する人でもある。
学校の脇の道を歩いていると、フェンス越しにサッカー部が大声で掛け声を出しながら練習試合をしていた。
サッカー部が強いこの学校で、ベンチ入りも難しいと言われている中、彼は高二にも関わらずスタメンだとか。本当になんでも出来てしまうんだなと私は思った。
私はフェンスに指を絡め、試合を見ていると前半のおわりを告げる笛の甲高い音が鳴り響く。選手達はこっちにも聞こえる声で疲れただのマネ水お願い!だのと叫んでいる。
私もマネージャーに入ろうと思わなかったわけではない。それでも、私情で選手と向き合うのは最低なことだと思ってしまったため、優斗の誘いを断ってしまったのだ。
私はまた、深い溜め息をついた。優斗が朝言ってたマネって、あの子かな。遠くからで見えないけれど一生懸命だということは伝わってきたのが悔しかった。フェンスを握り締めた音が小さく響いた。
私はフェンスから指を離して、家に向かった。

夕日が帰路を照らす中、私は優斗の家の前にいた。おばさんには中にいていいよと言われたが、丁重にお断りした。優斗が見えた途端に駆けつけたいと思ったから。
去年は1年生だったから片付けなどをさせられていて、いつも帰りが7時くらいだと言っていた。
でも2年生になってからはやらなくていいらしく、恐らく6時くらいに帰ってくるだろうと思っていた。
日が沈み、スマホをタップして時間を確認する。7時12分。1年生の手伝いをしてるんだ、だから大丈夫。事故になんかあってない。
そう思った途端、不安の波が押し寄せてきて怖くなってしまった。
私は急いで道を走った。少し息切れしてきた頃、川沿いで休憩がてら歩いていると、前から人影が見えた。月明かりで照らされた彼は、優斗だった。
彼は目を見開き、そのまま通り過ぎようとした。私はそういうひとつひとつに傷ついて、喜んで、悲しんで。
それでも、私はもう逃げないと決めた。ちゃんと向き合うと決めたんだ。
横を通った彼の手首を掴んで、私は今の思いを伝えた。
「朝は本当にごめんなさい。ムキになってた、マネージャーさんにもほんとに申し訳ないと思ってる。ほんと、ごめん」
彼は止まって、私の方を見る。こんな時に思うのはおかしいけれど、やっぱり彼は笑顔に似合うなって思ってしまった。私のためにそんな顔してないで欲しいなんて、わがままかな。
「俺こそ、ごめん。言い過ぎた」
「ううん、優斗は正しい事言ったんだから、謝らなくていいんだよ」
私はそう言って微笑んだ。彼はぎこちなく笑ってから、帰ろっかと優しい声で言い歩き始めた。
「にしても、今日は随分遅かったね、後輩のこと手伝ってたの?」
「ううん、もう暗くなってたからマネのこと送ってた」
そっか、私はなるべく声を明るくして返事をした。私が寒い中待ってた時間、2人は仲良く帰ってたのか。事故にあったかもなんて、心配してた自分が馬鹿みたいだ。
「なーんだ、そうなら家で待ってればよかった。ずっと外で待ってたんだからね」
「え、そうなの、ごめんね。風邪ひいてない?」
「うん、大丈夫」
お願いだから、もう優しくしないでほしい。どんどん好きになっちゃうから。その優しさは、マネの子にだけにしなきゃだめだよ。なんて言えたらいいのに。言ったら言ったで、後悔するだけなのに。
さっき彼の手首を掴んだ右手だけがやけに熱かった。
今夜は星が輝いていた。私もあの星のようになりたいなんて、ばかげたことを願っていた。

優斗と仲直りした翌日。彼は朝練があるみたいで先に行ってしまっていた。私も今日から美術部が始まる。去年よりも成長しているといいななんて、努力次第で変わることを願っていた。美術部には朝練なんてないから、昨日と変わらない朝を送っていた。
学校に着いたら愛と話したいなと思っていたが、私が教室に入った時にはまだいなかった。ホームルーム5分前になって、後ろの椅子が動く音がした。
「未来おはよー」
愛から話しかけてくれたことが嬉しくて私も笑顔でおはようと返した。
「来るの遅かったね、寝坊?」
私がさりげなく聞くと、彼女は綺麗に切りそろえられているボブの髪をとかしながら、口を動かした。
「私部活のマネージャーやってて、朝練があったんだ。ちょっと選手と話し込んじゃって遅くなっちゃった」
へへへと笑う彼女は同性から見ても可愛いなって思った。彼女からはその人と話せたことが嬉しいんだなという感情が伝わってきた。もしかしたら、その人のことが好きなのかもしれないと未来は思った。
朝練、か。優斗も朝練があるって言ってたよね。まさか、ね。朝練がある部活なんて、サッカー部以外にもたくさんあるし大丈夫。それにもしサッカー部でも、選手だってたくさんいるし。
私はそう心の中で唱えながら彼女の話に相槌を打っていた。これはたとえばだけど、愛の好きな人が優斗だったら、心から応援できるのかなと不安な気持ちになる。友達だから、とか、彼女の方がお似合いだ、とか。そんな自分の逃げ道に彼女を使ってしまうのではないかと思ってしまう自分が嫌だった。
考え込んでしまっていたら、愛がどうしたのと心配の言葉をかけてくれた。笑顔で返すと彼女もほっと安堵していた。
それでもやはり何の部活なのか気になってしまった。
「ねぇ、マネージャーって」
何の部活?と聞こうとしたところで、またもタイミング悪く先生が来てしまった。
どうしたの?と彼女が問いかけてきたが、意気消沈してしまったため、なんでもないとごまかして前を向いた。
その後も聞くタイミングや流れがなかなかなく、あっという間に放課後を迎えてしまった。
「じゃあ私、部活行ってくるね!未来も美術部頑張れ!」
彼女は手を振りそう言った。私はこれがチャンスだと思い、彼女に訊ねようとした時だった。
私の右斜め前にある扉から、聞き馴染みのある声がしたのだ。
「愛、顧問が校庭行く前に職員室来てだってさ。話したいことあるらしいよ」
私は唖然としてしまい、我に返って振り返る。
そこには、予想通り私の大好きな人がいた。
「あ、優斗!うん、わかった!」
後ろの方から、愛の幸せが伝わるような、嬉しそうな声が聞こえた瞬間、私は悟った。2人は両想いなのだと。私が、2人の邪魔者だったんだと。
そう気付いた途端、ここにいるのが恥ずかしくなって、私は逃げるように教室を出ようとした時だった。
「未来もこの教室だったんだ、愛と友達?」
優斗が私の事を見ていてくれたことに喜ぶ自分が、愛の友達といっていいのか分からなくて、答えることを躊躇してしまった。
「そうだよー、2年になって初めてできた自慢の友達なの!」
私が何も言わなかったからなのか、愛が優斗の質問に答えてくれた。私にとっては助かった事だけど、愛からしたらどうして友達と答えてくれなかったのだろうと不安になることかもしれなかったのに。
「ありがとう、愛も私にとって自慢の、友達、だよ!」
この笑顔が、偽物だということに誰が気付いてくれるのだろう。辛いと気付いてくれる人はいるのだろうか。運命なんてあるわけないんだってことは、私が1番よく知ってるじゃないか。
「そ、それじゃ私部活行ってくるね」
この場から逃げたいなんて、言い訳でしかない事は、分かってる。それでも、ふたりが楽しそうに話している姿、なんて見たくなかった。
それに、2人が両想いだって分かってるのは私だけだと思うから、2人の幸せを願うのが友達なのではないのだろうか。
私はそう心に訴えかけて、自分の思いに蓋をし続けなければならないんだ。
2年生になって初めての部活、私は集中することが出来なかった。
ふとした瞬間、愛と優斗が結ばれないでほしいなんて心のどこかで願っている自分がいることに気付いて、放課後誰もいない美術室で涙を流したのだった。