ふたりぼっち兄弟―Restart―



 周りの大人がそういう輩ばかりだったからこそ、自分を可愛がってくれる兄のことが本当に大好きなのだろう。自分を顧みず、兄のため父親の前に飛び出したのは、兄への思いの丈が強い証拠だと零し、益田は空っぽになったカップに目を向ける。

「あの時の坊主は父親と刺し違えても、兄貴を助ける気だったんじゃねえかと思っている。坊主は純粋だが、兄貴への想いが強すぎる。兄貴とは別方向で見境をなくさねえか、俺は心配してるよ」

 つまるところ、兄も弟も兄弟に対する想いが強すぎる。
 そこが長所であり、最大の欠点だろう。


「親も大人も警察も助けてくれねえ。誰も愛してくれねえ。なら、ふたりで生きるしか、あいつらには選択がなかった。どんな地獄を味わってきたんだろうな」


 しばし捜査一課のオフィスから音が消えた。
 誰もが地獄に対する、明確な言葉を探していた。
 しかし、誰もが地獄に対する、明確な言葉は見つけられなかった。
 見つけられるはずがない。これは地獄を味わったものしか、見つけられるはずがないのだから。

「こんな事件なんざ山のようにある。情を寄せるだけ、手前の情が擦り切れちまう。知っていたはずなんだがな」

 同情している場合ではない、と益田は話を切り上げ、署に送られてきた新しい写真について話題を移した。
 事が下川 治樹の耳に入ったら、今まで以上に警察と距離を置きかねない。下川 那智に近づける人間は兄の他に担当医、看護師、そして警察なのだから。

「柴木。まだ下川の兄ちゃんに伝えていないよな?」
「はい」

 ひとつ頷くと、益田は取調べ状況報告書を挟んだファイルをめくり、数枚の写真を抜き取った。

「なら、これは伏せておけ。時期が来たら俺の方で話す。まず俺達がやらなきゃいけねえことは、こっちだ」

 デスクに並べた写真には男女の大学生がそれぞれ写っていた。
 これはあの日、通り魔事件に関わった人間であり、下川 治樹と繋がっている者達だった。

 益田は下川 治樹が事件直前、大学生同士でトラブルを起こしていることを知っていた。それが恋愛関連であることも当然知っている。下川 治樹は交友関係が非常に狭い。弟以外は眼中にない態度を振る舞う男だ。
 そんな男が“恋愛”関連のトラブルを起こした。その直後に事件が起きた。

 一見、関連性が無いように見えるが、どうにも気になる。
 通り魔事件のことだって下川 那智が目的かどうか分からない。本当の目的は『兄』にあるやもしれない。それを裏付けるような言葉を弟本人が、通り魔の口から聞いている。

 下川兄弟の警護しつつ、繋がりのある者達を徹底的に洗い出す。それこそ彼らの家族構成、交友関係、近所からの人物像などなどすべて洗い出す。
 それが今後の予定だと部下の柴木と勝呂に指示した。
 
 
「常に事件は俯瞰しろ。事件前後で起きた問題、行動、関わった人物はすべて洗い出せ。意外なところから犯人像が浮かぶこともある」
 
 


【1】


 突然だが日本の報道問題を取り上げたい。

 被害者となった人間は好きで事件に巻き込まれているわけじゃない。
 事件にも様々なケースがあると思うし、時に被害者に原因があって事件に発展することもあるだろう。一方で何気ない日常を送っているところに、突然災害のように事件に巻き込まれる場合もある。

 俺達はまさに後者で突然、事件に巻き込まれてしまった被害者だ。

 事件のせいで心荒れているんだから、世間様は被害者が声を上げるまでそっとしておくべきだ。つよくそう思う。

 なのに日本の報道ときたら、むやみやたらに現地取材を行い、事件を引っ掻きまわす。被害者の家付近をうろついて近所に取材を申し込むことも多々。

 結果、被害者の特定に繋がる。

 今は情報化社会だ。
 一たび、世間に名前が広がれば、それは半永久的に残る。ネットに流失したら最悪、それを消す術は皆無に等しい。被害者にとってみれば、二次被害もいいところだ。

 つまり何が言いたいかって、被害者の特定に繋がる報道をするんじゃねえ!

「那智。今日は天気がいいぞ。今から散歩でもしないか?」

「お散歩をしたら、また報道陣に居場所がばれるかもしれません。転院したばかりですし、兄さまに迷惑を掛けます。ああ、そんな顔をしないで下さい。おれは大丈夫ですよ。午前中はドリルをしようと思っていましたから」

 ええい。くそったれ共のせいで、那智の自由が無くなっちまったじゃねえか!

 ここ数日、俺は被害者の報道の在り方について怒り狂っていた。

 理由はしごく簡単、入院している那智の下に報道陣の姿がちらつき始めたからだ。
 どこから嗅ぎつけたのかは知らねえが、病院の外に報道陣が見え隠れするようになった。

 中には患者を装って病院に足を踏み入れる彼奴もいる。おおかた週刊誌辺りのハイエナ記者だろう。通り魔や親父の事件に関して、面白おかしく書きたいのか、一般の患者を装って、被害者の那智を張り込みするようになった。

 いやあ、びっくりしたね。
 病院の中庭を散歩中、俺が飲み物を買いに行った、その隙に弟に声を掛けてきたんだから。

 那智は被害者だぞ被害者。
 なのに、当時の事件模様を聴いてくるなんて、どういう神経をしてやがるんだ。殴り飛ばそうかと思ったぜ、まじで。

 さいわい益田の命令で見張っていた覆面刑事達が、那智から記者を遠ざけてくれたおかげで、事なきを得たが、似たようなことが二度、三度と繰り返されてしまい、那智は転院せざるを得なくなった。

 それだけでも腹が立つのに、弟が一日中病室に引き篭もるようになってみろ? 俺の怒りは最高潮だぞ。



 事件以来、那智は車いす生活を強いられている。

 それは那智にとって多大なストレスになっていることを俺は知っていた。
 だからこそ病院の中庭を散歩させて、少しでも笑顔になってもらおうと思っていたのに。

 どんなに俺が大丈夫だと言っても、那智は俺に遠慮して散歩に行きたがらなくなってしまった。

(那智は散歩をすげぇ楽しみにしてた。俺も喜ぶ顔が見たくて外に連れ出してたっつーのに)

 ああくそ、あの記者ども、どうしてくれようか!
 被害者に突撃してくるなんて道徳心ってのが無いのかよ。そりゃ俺も弟以外の人間には、爪先も道徳心ってのはねえが、この仕打ちはあんまりじゃねーかよ。

 行き場のない苛立ちが日本の報道の在り方に結びつき、俺はニュース報道を見る度にストレスを溜めることになった。
 だったら見るなって話なんだろうが……気になるじゃねーかよ。弟の報道なんだから。もちろん那智が寝ている時にこっそりと見ている。こんなん那智に見せられるかよ。

 SNSにも話題にあがっていると聞いたから、これまたこっそり見たんだが、見事に弟の実名が流出していた。
 まじで気が遠のきそうだった。

 特定されているせいで、すっかり那智は有名人だ。どうしてやったらいいんだよ、これ。


(俺も親父にぶん殴られたことせいで、実名が流出したようだけど……那智と比べたら雲泥の差だな)


 親父のことを思い出すと、これまた腸が煮えくり返りそうになる。
 あンのクソ親父、いきなりヒトの頭をかち割りやがって。おかげ4針縫う羽目になったじゃねえか!

 それだけじゃ飽き足らず、親父のせいで那智の傷口が開きかけるわ。首に深い引っ掻き傷ができるわ。高い熱は出るわ。俺がそのイカレた頭をカチ割ってやろうか? くそったれめ。

 その一方、俺は益田から当時の那智の行動について、こんなことを聞いた。


『坊主はおめぇさんを守るために、殺意のある人間の前に飛び出した。あんなの自殺行為も同然だ。俺から首を刺したが、おめぇからもきつく言っておいてくれ。俺よりもずっと素直に聞くだろう――あの時の坊主は恐怖も何も感じていない様子だった』


 恐怖も何も、か……。

 俺は冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取り出すと、それを持って那智の下へ向かう。

 転院後も那智の病室は個室だ。
 転院前の病室のように、ソファーやミニキッチンや風呂がついているおかげで、俺は那智の看護をしながらここで寝泊まりしている。
 世間を賑わせているせいで、警察の警護がオプションでついているが、じつに快適な生活だ。

 だけど那智はあんまり良く思っていないようで、早く元気になって退院したいと口癖のように言っている。
 その理由は表立って口にしていないが、俺が理由に絡んでいるのはすぐに分かった。何も言ってこないけど、醸し出す空気が物語っていた。

「ほら。ジュース」

 英語のドリルを解き始めた那智に、オレンジジュースのパックを差し出す。
 嬉しそうに受け取る那智に一笑するも、俺は英語のドリルを流し目にして、静かに眉を寄せてしまう。
 那智は国語や英語といった語学が大の苦手だ。積極的に勉強するのはいつも数学や理科だったはずなのに、ここ最近は語学ばかり勉強している。心境の変化があったのは一目瞭然だ。

「また英語をやってんのか? 勉強はいいけど、あんまり飛ばすなよ。午後から心理療法(セラピー)があるんだからな」

 俺は那智の変化に一抹の不安を感じ、当たり障りのないように話題を振る。少しでも異変があるようなら軌道修正しておくべきだ。手遅れになる前に。
 だけど那智は英語より心理療法に反応した。

「今日は何をするんだろう。一昨日はぬり絵をしましたけど」
「ごめんな那智。心理療法(セラピー)を断ることもできたんだが」

 那智はううん、と首を横に振って、気にしていないことを伝えてきた。

 転院先の病院で那智は心理療法(セラピー)を受け始めた。
 俺は他人と喋れなくなってしまっている弟に問題はない。兄貴と話せるなら大丈夫だろ、と思っている派なんだが、周りは心理療法(セラピー)を受けさせるべきだと強く勧めてきた。
 ストーカー、通り魔、そして親父の事件がイタイケな少年の心を傷つけている、と大人たちは判断したようだ。俺自身も心理療法(セラピー)を受けろ、と勧められたものの……なんだかなぁってかんじ。

(虐待されていた昔は心配されなかったのに、なんで恵まれている今の方が心配されてるんだろな)

 世の中ちっとも分からねえ。

(ま。記者のこともあるし、俺も四六時中、那智の傍にいてやれるわけじゃねえ。手前のやり方でストーカー野郎と決着をつけてえし。色々調べたいこともある。そうなると那智をひとりにさせる時間ができちまう)

 心理療法(セラピー)を受けさせることで、多少はその時間も減ってくれるだろう。
 那智には申し訳ないことをしていると思いつつ、これは必要なことだ。我慢してもらうしかない。

「週三日受けるようにしているが、嫌なら二日にしてもらえるようお願いしてやるぞ」

「ヘーキです。心理療法(セラピー)担当の梅林先生は思ったほど、怖い人間じゃなかったのですし、ぬり絵も面白かったですから。ただ、なんで心理療法(セラピー)でぬり絵をしたのかよく分からなくて……」

 残念なことに、俺もあんまり分かっていない。
 ぬり絵でメンタル回復を図っているのか? ぬり絵で他人と喋れるようになれるなら、とっくに那智は他人と会話していると思うんだが……まあ、口が利けなくていいんだけど。



「ぬり絵をするくらいなら、英語をした方がタメになると思うんですけどね」

「那智は英語が苦手だろう?」

 からかってやると、「それでもやるんです」と那智は返事した。
 苦手を苦手のままにしておきたくない。これを弱点にしたくない。

 那智はしごく真面目に答えて、英文法を睨んでいた。さっそく躓いたのか、思いきり唸りながら電子辞書を起動する。

 ますます不安を覚える。
 こんな那智は初めてだ。成長しようとしているっつーか何っつーか……もしかして俺から離れるつもりなのか? それはぜってぇに許さないんだが。

 困惑する俺を余所に那智は言う。国語も英語も絶対に克服する、弱点は全部消してみせると。

「弱点の数だけ、おれは弱くなります。また泣き虫毛虫になる。兄さまの足を引っ張る。守られるだけの存在に成り下がる――そんなの嫌ですから」

 それは思わぬ言葉だった。
 ドリルに目を向ける那智の横顔には本気を感じる。那智は本当に自分の中の『弱点』を消し去ろうと心に誓っているようだった。

「退院したら体力づくりもやらなきゃ。あの時、おれはお父さんに負けてしまったから」

 非力なのも『弱点』だと口走る那智は、少しずつ克服するから待っててね、と俺に笑顔を向けた。

 俺は困惑したまま不安だけ吹き飛んだ状態となった。那智の行動はすべて俺のためだと気持ちが伝わってきたからだ。嬉しい、それはとても嬉しいんだが、やっぱり那智らしくない。

 俺は那智が泣き虫毛虫でも気にしていないのに。今のままでも十分なのに。

「那智。お前、俺が殴られた後、親父の前に飛び出したらしいな」

 うん。那智はひとつ頷いた。

「悪かったな。怖かっただろう?」

 益田には釘を刺しておけ、と言われたものの叱る気持ちにもなれず、俺は那智に詫びた。
 那智にそういう真似をさせてしまったのは俺が不用心が原因だ。おおよそ那智は俺を守るために、自分の容態も顧みず、飛び出したに違いない。
 すると那智は謝られたことに首を傾げ、今日一番の笑顔を見せた。それはどこまでも純粋で無垢な笑顔だった。

「どうして兄さまが謝るんですか。おれは兄さまに『おれ』をあげたんだから、『おれ』は兄さまのために使うべきでしょう? 結果的に負けちゃいましたけど……」

 だから今度は負けない、傷口を蹴られても耐えられるだけの体を持つ。

 那智は唇をひよこのように尖らせて、自分の非力さを『弱点』だと唸った。
 ノートの傍に置いているお揃いのボールペンをペンケースから取り出すと、それを逆手に持ち変えて、軽く振る素振りを見せた。兄を想う純粋な気持ちはどこまでも透き通っていて狂気じみていた。常人なら恐怖を感じるかもしれねえ。

 だけど残念男の俺は心の底から歓喜していた。

 那智が俺中心に物事を考えて、決意を固めて、行動を起こしている。喜ばないわけがない。


(那智の口から、こんなかわいい言葉が聞ける日がくるなんてな)

 つくづく思う、那智はまぎれもなく血を分けた俺の弟だって。手塩に育ててきた甲斐がある。
 とはいえ、とはいえだ。

「那智。俺はお前が傷付くことを望まねえ。体格差で負けると分かった時点で引け」

「えー? 引いちゃうんですか?」

 脹れ面を作る那智にしっかりと釘を刺す。

「努力してもどうにもならねえことがある。お前の体格は親父や俺のように、でかくなれるか分からない。どっちかっていうと那智はババア似だ。容姿はもちろん体格的も華奢だしな」

「勝ち目はないってことですか?」

「正面勝負に持ち込むなってことだ。勝ちてえなら引くことを覚えろ。それも大事な駆け引きの一つだ。負け試合と分かっているのに、正面から突っ込むなんてばかがすることだ。お前はお前のやり方で勝負するべきだ」

「おれのやり方で……」

「例えば、兄さまを例に出すぞ。兄さまはこの生活を勝ち取るため、ババアや親父に正面切って勝負をしたことがねえ。なんでだと思う? 大人の悪知恵に負けると分かっていたからだ」

 両親に事がばれちまったら、あいつらは財力と暴力で屈そうとする。俺はそれを知っていた。
 大人は金を持っている。金は人を動かせる。力を持つ人間を呼びよせることができる。
 そうなれば俺に勝ち目はない。粋がっても所詮、当時の俺は高校生のガキ。大人に勝てるだけの力は持っていなかった。

 だから俺は暴力に耐えながら、作戦を練って機会を狙っていた。あいつらを不意打ちで屈せる機会を。俺と弟の自由を勝ち取るために。

 那智の努力したい気持ちは分かるが世の中、それだけじゃ通じないことが多い。

「兄さまは兄さまのやり方でお父さんやお母さんに勝った、ということですよね」

「ああ。いくら腕っぷしがあっても、両親相手じゃ一筋縄じゃいかないって分かっていたからな」

「……すごいなあ。兄さまは本当にアタマがいい。ねえ、兄さまはどうしてそんなに賢いんですか? どうやってアタマが良くなったんですか? 参考になる本でも読んだんですか?」

 矢継ぎ早に質問してくる那智は、本当に『弱点』とやらを無くしたいんだろう。弟の本気を感じる。
 俺は小さく噴き出すと那智の両頬を包んで、むにゃむにゃに揉んでやった。

「本も何も読んでねえよ。お前がいたから必死こいて考えただけだ」

 そう、俺がここまで努力できたのは弟の存在があってこそ。
 那智は俺を強いだの賢いだの称賛してくれるが、俺は言われるほど強くも賢くもねえ。ただただ弟と二人で一緒に暮らせる自由が欲しい。その一心で努力しただけのこと。

 「お前の存在が俺を強くさせただけだよ」と言って、俺は那智の額に自分の額をこすり合わせる。


「お前の気持ちはよく分かった。だけど、焦るなよ。那智は那智のやり方で努力すればいい。ああ、だけど無理だけはするな。他人から傷をもらってくれるな。俺が嫉妬しちまうだろう」


 かわいい弟は腕を組んで考え込んでしまった。
 泣き虫毛虫を卒業したい。『弱点』を無くしたい。心に決めた目標はぜんぶ達成したい。

 だけど自分のやり方で勝負しないと正面勝負じゃ勝てない。どうすればいいんだろう。色んな感情が混じっているようで、それはそれは低い声で唸って悩んでいた。


 ただ一つ、那智の中で納得できる答えが出たようで、俺の頬にそっと触れてくる。

「兄さまがいてくれるだけで、おれは頑張れます。それはお約束できます」

 かわいい弟、俺の六つ下の弟、兄さまは悪い人間だから心の中で本音を言わせてくれ。

 いいんだよ那智、そのままでいい。
 お前は『弱点』だらけの人間のままでいい。泣き虫毛虫のままでいい。強くなろうとしなくていい。

 だって『弱点』が無くなるということは他人を怖がらなくなるということ。せっかく那智は他人を恐れて距離を置いているのに、口が利けなくなっているのに、それを克服するなんて勿体無い。
 どんなに俺のためだと言っても、やっぱり俺はお前が強くなることを望まない。頼られなくなるなんて、しごくツマラネェじゃねえか。

 お前は俺だけを求めて、頼って、他人を拒絶してくれたら、それでいいんだよ。

(兄貴を求める那智の姿が、なによりも俺はかわいい。興奮する)

 求められることで興奮するなんざ、我ながら厄介な性癖だよな。自覚はある。

(それでも止められねえ。俺は求められたい。那智に求められたい)

 ああくそっ、やばくなってきた。

(今までは兄心でどうにかねじ伏せていたのに……那智、お前が俺の制御を外したせいだぞ。お前が「くれる」って言うから)

 俺はおもむろに那智の首に目を向けた。
 そこには包帯が厳重に巻いてある。親父がつけた引っ掻き傷とやらは、あの下で眠っているんだろう。考えるだけで嫉妬に狂いそうだった。羨ましい、とても妬ましい。俺だって傷をつけたいのに。那智は俺のものなのに。そこに他人の傷があると思うだけで許せない。どうしても許せない。

 気づくと俺は那智の包帯を解いていた。
 那智の素っ頓狂な声が聞こえるけど、俺は構わずに包帯を解いて、ガーゼをベッドの上に落として、それから。それから。ああ、傷が見える。太いミミズ腫れが見える。あれは親父が那智につけた傷。他人の傷!

 と、那智が両手で軽く俺の体を押し、傷口をおもむろに掻き始める。
 同時に「だめだよ」と担当医の注意する声がひとつ。

 それによって俺はようやっと我に返った。

「那智くん。勝手に包帯を取ってはいけないよ。痒かったのかい?」

 うんうん、那智は何度も頷き、勉強用のノートに『兄さまに無理を言って診てもらっていました』と返事していた。包帯を解いた犯人を明かすことはなかった。
 俺は那智と担当医のやり取りを尻目に、深いため息を漏らしてしまう。

(ばかやろうが。俺は何やってるんだよ)

 理性を失っていたとはいえ、もう少しマシな行動を起こせっつーの。
 いくらなんでも首の包帯を取ったら担当医が訝しがるだろうが。那智の機転で何事もなく終えたが、さすがに今のは軽率だった。まじで軽率だった。

 担当医がいなくなる頃合いを見計らい、俺はスツールに腰を掛けて、ベッドの上で横になる那智に声を掛ける。

「那智。さっきは」

 悪かった、という言葉は塞がれてしまった。

 まじで何が起きているか分からなかった。
 いきなり那智が腕を伸ばしたと思ったら、小さな両手で頬を包んできて唇を重ねてきたんだぜ? そりゃ驚くよりも先に混乱しちまう。
 目を点にする俺の唇に人差し指を当て、那智は目じりを下げる。

「言い訳はなしです。あんまりうるさいと、口を塞いじゃいますよ」

 つまるところ、謝ってくれるな、と那智は言いたいらしい。
 いや、俺の驚くところはそこじゃなくてだな……。

 途方にくれている俺を余所に、意気揚々と行動を起こしてくれた那智は「あれ?」と言って顎に指を当てる。

「先に『あんまりうるさいと、口を塞ぐぞ』だったっけ。ううん、台詞の後にキスが良かったかもしれない。難しい」

「……那智。兄さまはとても混乱しているんだが」

「分かります。おれもキスをしてみて、キスは台詞の前より後の方が良かったかな、と反省しています」

 びっくりするくらい会話が噛み合ってねえ。
 すげえな。何年も那智と一緒にいるのに初めてだぞ。

「えーっとだな。那智くん。一応聞くぞ。今のは一体なんだ?」

 額を押さえながら、行動の意味を改めて聞く。
 すると那智はいたずら気に笑って、「ごめんなさいを聞きたくなかっただけですよ」

「兄さまったら、いつも自分の気持ちを隠しちゃうから。我慢しなくていいって言ってるのに。おれは兄さまの望むことをしたい。兄さまが喜んでくれるなら、おれも嬉しいのに」

 落ち込む姿は見たくない。
 那智はきっぱりと言い切り、それゆえの行動だったと微笑んだ。

 「何も言えなくなったでしょう?」と、からかってくる那智は、面を喰らっている俺を見て、調子に乗ったようだ。

「しょぼくれている兄さまが可愛く見えたのもキスした理由ですね」
「は?」

「おれは日々ドラマやアニメを観て学んでいるんですよ、兄さま。大好きな人が可愛く見えたらキスをする。これドラマの鉄則です。いまの兄さまはちょっと前に見た学園ドラマのヒロインっぽかったので、これはちょっとやっちゃおうかな、と思いまして」

「…………那智くん。お前の目には、兄さまがヒロインに見えたと?」

「はい。ちっちゃいことで落ち込む兄さまは、とても可愛かっタタタタタ! どうして頭を押さえるんですか! 兄さま、本当に可愛かったですよ嘘じゃないですよ! アダダダダダ! 縮むっ! ちぢむっ!」

 誰が、誰の、なんだって?

「まじで那智くんっ、どうしてくれようかなぁ! 兄さまは今、とてもとても恥ずかしい気持ちでいっぱいなんだが?!」

「なるほど、照れてるんですね! イタタタタッ、またぐりぐりする!」
「この野郎っ。兄さまの兄心を踏みにじりやがって! 可愛いと言われて、兄さまはとても傷付いたぜ?」

「かわいいお兄ちゃんだって、この世の中いっぱいいると思いますよ?」
「そういうことじゃねえよ、ばかたれ! これでも俺はお前を思って、真剣に申し訳ないと思っていたのに」

「うんうん、ちっちゃいことで悩んじゃう。オトメゴコロにはよくあることです」
「とことん兄さまに喧嘩売ってきやがるな。那智クーン」

「いいじゃないですか。兄さまだって、おれに『兄さま』をくれたんですから、おれのやりたいことをしただけですよー」

「それとこれは話がべつだ、べつ!」

 大体誰がヒロインだって、だれが!
 いいか、こういうことは兄貴が弟にするもんだろうが。可愛い弟に兄貴からするもんだろうが!

 兄さまはヒロインみたいでカワイイ? うるせえよ! 那智お前っ、泣き虫毛虫中坊のくせになんっつーことをしやがるんだ! 変なところでばかみてぇに行動力を発揮しやがって!


 俺はこめかみに青筋を立てたまま、那智の両頬を引っ張る。

「俺はどこでお前の育て方を間違えたんだろうなー? なー?!」
「兄さま、お顔が真っ赤。かわいい」

 こいつ……。

「なーち。あんまりうるさいと、口を塞ぐぞ」
「おお、兄さまが言うと様になりますね! でも顔が赤いと説得力があんまりっ、いひゃひゃひゃ。兄ひゃまのまけずぎらひぃー」

 負けず嫌いで結構、俺は弟に対して負けず嫌いだ阿呆!

 負けず嫌いだから俺は那智に強くなってほしくないし。俺よりも優位に立ってほしくないし。俺よりも頼りになる人間になってほしくないんだ。この兄心が分かるか、愛しい弟くんよ!

 そんな兄の心を読んだのか、那智は「やったもん勝ちです」と赤い舌を出した。負けた兄貴は今日から弟の可愛いヒロインだとからかい、堂々と勝利宣言してきやがった。

 よーし、よし、よし。
 なるほどな、お前はとことん兄さまに喧嘩を売るつもりなんだな。那智から仕掛けてきた喧嘩だ。後悔するんじゃねえぞ……あ、ずりぃお前! 枕を盾に使うんじゃねえ! 逃げるんじゃねえ!

「テメェ。自分から喧嘩を振ってきたくせに、逃げるなんてふざけんなよ!」

「兄さまが言ったじゃないですか。正面から喧嘩したらばかを見るって。おれは賢く引いているだけですよ! ちゃんと引くことを覚えました! えらいですね! 褒めてくれてもいいですよ!」

「生意気なことばっか言いやがって! くら那智、待ちやがれ!」

 俺と那智は枕を挟んで、くだらない攻防戦を繰り広げた。
 枕をひったくっては取り返し、取り返されてはまたひったくり。やっとのことで枕を床に落とすことに成功すると、俺は未だに可愛いカワイイとからかってくる那智を顔を挟んで、引き攣り笑いを浮かべながらベッドに押さえつける。

 やっと捕まえた。散々可愛いとからかってきやがった弟クンよ。覚悟はいいか? ん? 

「あー……下川の兄ちゃん。朝っぱらから賑やかだな」

 邪魔が入ったことで、またしても軍配は弟に挙がってしまう。
 不機嫌に顔を上げる俺は扉の方を見やった。そこにはこめかみをさすっている益田やら、遠い目を作っている勝呂やら、微動だにしていない柴木やらが立っていた。

 おい、いつ病室に入って来やがった。ノックはしたか?
 あ、那智の奴、隙を突いて布団に潜っちまいやがった。まじ勝ち逃げは許さねえんだけど!

「兄ちゃん。お取込み中のところたいへん申し訳ないが、ちょっと聞いていいか? ……おめぇら、何しているんだ」

「見りゃわかるだろ、兄弟喧嘩だ」

 それ以外、何に見えるんだよ。
 お前らこそ朝っぱらから顔を出すなんて、相当な暇人だろうが。さっさと刃傷事件を起こした通り魔を捕まえてほしいんだが? ほしいんだが?
 嫌味ったらしく文句を投げてやるが、益田は右から左に流すだけ。それどころか那智に「ちと兄ちゃんを借りるぞ」と言って、俺を手招いてきた。