「ほら。ジュース」
英語のドリルを解き始めた那智に、オレンジジュースのパックを差し出す。
嬉しそうに受け取る那智に一笑するも、俺は英語のドリルを流し目にして、静かに眉を寄せてしまう。
那智は国語や英語といった語学が大の苦手だ。積極的に勉強するのはいつも数学や理科だったはずなのに、ここ最近は語学ばかり勉強している。心境の変化があったのは一目瞭然だ。
「また英語をやってんのか? 勉強はいいけど、あんまり飛ばすなよ。午後から心理療法があるんだからな」
俺は那智の変化に一抹の不安を感じ、当たり障りのないように話題を振る。少しでも異変があるようなら軌道修正しておくべきだ。手遅れになる前に。
だけど那智は英語より心理療法に反応した。
「今日は何をするんだろう。一昨日はぬり絵をしましたけど」
「ごめんな那智。心理療法を断ることもできたんだが」
那智はううん、と首を横に振って、気にしていないことを伝えてきた。
転院先の病院で那智は心理療法を受け始めた。
俺は他人と喋れなくなってしまっている弟に問題はない。兄貴と話せるなら大丈夫だろ、と思っている派なんだが、周りは心理療法を受けさせるべきだと強く勧めてきた。
ストーカー、通り魔、そして親父の事件がイタイケな少年の心を傷つけている、と大人たちは判断したようだ。俺自身も心理療法を受けろ、と勧められたものの……なんだかなぁってかんじ。
(虐待されていた昔は心配されなかったのに、なんで恵まれている今の方が心配されてるんだろな)
世の中ちっとも分からねえ。
(ま。記者のこともあるし、俺も四六時中、那智の傍にいてやれるわけじゃねえ。手前のやり方でストーカー野郎と決着をつけてえし。色々調べたいこともある。そうなると那智をひとりにさせる時間ができちまう)
心理療法を受けさせることで、多少はその時間も減ってくれるだろう。
那智には申し訳ないことをしていると思いつつ、これは必要なことだ。我慢してもらうしかない。
「週三日受けるようにしているが、嫌なら二日にしてもらえるようお願いしてやるぞ」
「ヘーキです。心理療法担当の梅林先生は思ったほど、怖い人間じゃなかったのですし、ぬり絵も面白かったですから。ただ、なんで心理療法でぬり絵をしたのかよく分からなくて……」
残念なことに、俺もあんまり分かっていない。
ぬり絵でメンタル回復を図っているのか? ぬり絵で他人と喋れるようになれるなら、とっくに那智は他人と会話していると思うんだが……まあ、口が利けなくていいんだけど。