朝が来た。ベッドから身を起こす。左胸をさわった。今日も生きている。いつ死んでもいいのだけれど、いつの間にか左胸をさわり、生きているかの確認をする習慣が見についた。カーテンが開いているわけでもないのに部屋全体に明るさが染み込んでいる。午前六時二十四分。手に取ったスマホに表示されていた時刻。ベッドから立ち、自室のドアを開け、階段を下りた。リビングも部屋と同じ状態になっていた。
 普通の家庭なら親や兄弟がいて「おはよう」などの言葉を交わす。私の家は私以外誰もいない。家族は両親だけだったが、私の病気を知った途端私を置いて出ていった。幼ながらに二人から愛されていないと分かっていたし、その方が私も都合が良かった。いなくても困ることはない。
 リビングのカーテンを開けないまま洗面台に向かい、顔を洗う。鏡に映る女と目が合う。そして、キッチンに行った。棚から薬を出して水と一緒に飲む。薬は病気を治すためのものではなく、発作など起こさないようにするためのもの。毎日朝昼晩飲まなければいけないそれはいつも通り無味だった。
 この時間前後に起きることが多いが、別にすることはない。特別何をするわけでもない無音で一人の生活が結構好きだったりする。人間と関わることが嫌いで、人間が嫌いな私にとって最高のひと時だ。
 外に出よう。ふと思った。午前六時三十三分。学校に行くまで時間はまだある。半袖のティーシャツと短いパンツというラフな格好に着替え、スマホを持って、サンダルを履き、家のドアを開けた。目の前には幼少期から見慣れた景色がある。電柱。一軒家。雲一つない空。マンション。蝉の声。眩しくて何回か瞼を閉じた。深呼吸をする。歩き出す。朝だからなのだろうか、人間がいない。世界が私だけになった気分だった。その気分はすぐに風と一緒に運ばれていく。道の角から小さい黒猫が「にゃー」と鳴き出てきた。どうやら世界は私とこの黒猫だったようだ。黒猫を地面から離して、私は自分の腕の中へと招き入れた。何も同時なかったので黒猫を連れたまま歩き出す。一匹で出てきたから野良猫かもしれない。飼おうと思うと同時に名前を考えることにした。
 けれど。けれど、私は死ぬ。人間は皆誰だっていつかは死んでしまう。病気、事故、過労死。自殺も誰かはするかもしれない。私は病気で死んでしまう。幼少期から余命宣告をされていて、死への恐怖は既に無くなっている。ラジオで「交通事故で誰かが亡くなりました」「誰かが通り魔に刺され死亡しました」等のニュースを聞くと、私より先に死ぬと思っていなかったのだろうという感情になる。
 この黒猫だって生き物なのだからいつかは死ぬ。今日かもしれないし、明日かもしれない。もっとずっと先の未来で死ぬかもしれない。いつ死ぬかは誰も予測できないのだ。
 黒猫だからクロ、というのはありきたりで何か違う気がする。もう少し頭を捻らせ、考えたい。もう一度止まりポケットからスマホを取り出した。「黒猫 名前」と検索をかける。黒、猫、黒猫はフランス語やイタリア語でノワール、ネロ、シャノ、シャノワールと言うらしい。お洒落な言い方だと感心しながら気になった名前を言葉にしてみる。
「ノワール、ネロ……よし、お前の名前はネロだ」
うん、意外としっくりくる。私はネロの背中を撫でた。ネロは分かっているのか分からないが、「にゃー」と鳴いた。そういえば、オスかメスかも分かっていない。家に帰ったら色々と調べることが出てきた。
 スマホを持っているのでそのまま時刻を見る。午前六時五十八分。空っぽな家に帰ることにした。今日からは一人ではなく、一人と一匹になる。