海よりも空よりも蒼い空に、真っ赤に染まる満月が浮かんだ夜、私は生まれた。
始めは、誰もが私の誕生を心待ちにしていたという。
だが、私が母ー当時の皇后ーの腹から出た瞬間、集まっていた者たちは揃って息を呑んだらしい。
なんでも、母に仕えていた女房の手にいた私は、闇よりも深い黒髪を持っていたから。
私が生まれた一族は、代々銀髪の子しか生まれなかったという。
だから、この国は「銀の国」とも呼ばれていた。汚れなき純銀の国だと。
誰もが月よりも美しい銀色に光る髪の毛を持つ中、私だけが、まるで正しさの中に紛れ込んだ間違いのように黒髪だったのだ。
「この子は呪われている!」
誰かがそう言った。そして、その話は水面に波が連なるように人々に知れ渡っていった。
私を産んだ母は嘆いた。父は悲しみに暮れ、そして怒った。
銀の髪を持たない子など、一族の仲間ではない。
当時の皇帝であった父はそう見なし、私を宮殿から追放したのは、私が5歳の時のことだった。
晴天の空の下、眩しい日差しを身に浴びながら、黄丹色に染まった着物の裾をはためかせて男は歩いていた。月光よりも透き通った銀色の髪が、日差しを透かして輝きを放つ。
堂々とした立ち振る舞いで、何の躊躇いもなく道の真ん中を大股で進む。その姿は、自信という言葉を形にしたようだ。
その後ろには、十ほどの屈強な男たちを引き連れていた。
胸を張る男を先頭とした集団の行進に、道ゆく人々は足を止めて見物する。
「ねぇ、あの人ってまさか……」
「ええ。多分、新しく皇位についたって噂の人ね」
「何でも、旧皇帝を殺したとか……?」
「ご兄弟も惨殺されたようよ」
「まぁ、怖い。まるで死神のような方ね」
「しっ。聞こえるわよ」
当然、男の耳には聞こえていた。だが、彼はまるで何も聞いていないかのような涼しげな表情でその場を過ぎ去っていった。
彼の後に続く者たちも、顔色ひとつ変えずに決まった歩幅で前進する。
やがて、男はとある建物の前で止まった。
「苑鎧よ、ここが例の孤児を集め、女房を育てる宮というのは?」
「はっ。正しくこの場所でございます」
男の質問に、すぐ後ろについていた男ー苑鎧ーがひざまずく。彼だけが、先頭を歩く男、そして他の男とは違う色の服を着ていた。
先頭を歩いていた男は朝日が地平線に顔を出した時の眩しい光の色を纏っているのに対し、苑鎧は深く神秘的な深紫の 袍を着ている。そして、彼らの後ろにつく男はみんな縹色だった。
目も覚めるような色とりどりの男たちの袍は、彼らの階級を表す。
「なるほど。着飾っている場所ほど裏がある、というわけだな……」
男は顔を上げて建物の全貌を見つめ、それから口角をニッと吊り上げた。
「さて、ようやくお目にかかれるのだな。私の妻に」
木の板でできた重みのある扉を開けると、立派な造りの廊下と、見上げるほど高い天井に包まれた広間が男たちを迎えた。
「随分と凝った造りだな」
男は皮肉っぽく思ったことを口にする。
人が入ってきたというのに、宮の中から人が出てくる気配はない。男は苛立ちを覚えながらも、わざと足音を立てた。
しかし、やはり人がやってくる気配は寸分も感じられなかった。
(常識どころか、礼儀もままなってないとは……)
我慢の限界に達した男は自ら叫んだ。
「私の名は清蘭!誰かおらぬか!」
男ー清蘭ーが張り上げた声は、壁に跳ね返って共鳴を繰り返しながら広間へと伸びていき、建物全体を回るように響く。
「はいはい、ただいま参ります!」
ようやく聞くことのできた人の声。嬉々とした返答がどこからともなく返ってきたかと思えば、広間の奥から一人の女が出てきた。
着物の裾を引きずっているが故に、走ってくるにも一苦労をしたようだ。
その女は、清蘭の前に来ると目を見開いた。それから、慌てて恭しく頭を下げた。
「こっ、これはこれは皇帝様!申し訳ございません。少々取り込み中だったもので……」
「いや構わん。それよりも、面を上げよ」
「失礼します」
清蘭から許しをもらって顔を上げた女性は、二十歳を少し過ぎたあたりの年頃だろうか。
まだ若々しく、まとめられた髪も艶があって美しい。
「まさか皇帝様がこんなところにいらしていただけるなんて。お前たち、挨拶しなさいっ!」
女性が叫んだ途端、広間の奥からゾロゾロと女が現れた。
ゆうに三十はいるだろうか。どの女も十代ほどの若さで、流石は侍女を育てる場所というべきか、姿麗しい者ばかりだった。
そう、だったのだが。
清蘭は違和感を覚えた。もう一度、彼女たちをじっくりと眺める。
彼女たちはとても美しい。街に出て歩けば、身分など関係なく男を寄せ集めるであろう。
滑らかな絹のような肌に、うなじの上できっちりと結えられた黒髪、軽く上品な身のこなし。
けれども一つだけ、麗しさとはかけ離れたものを、そこにいる全員が持っていた。
それは、生気を失った瞳。
大きくて整った形にも関わらず、浮かぶ眼球は闇をも吸い込んでしまいそうな色をしていた。
全てを諦め、感情というもの一切を断ち切ったような濁りに、清蘭は眉をひそめた。
彼女たちは廊下の左右に一列に並んで、手を体の前に合わせ、深々と頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました。皇帝様」
息のぴったりあった台詞。だが、その声色にも感情というものは見えない。
声こそもう一度聞きたいとせがむように耳に残るが、何の思いも載せられていない言葉を言わせる気はなかった。
「こちら、修行をしています少女たちでございます。今はまだこのような未熟さですが、皇帝様の元へ送り際には完璧に仕上げますので……」
「いや、どの娘も美しく、しっかりと躾けられている。よほど女官がいい腕をしているのだろう」
「これはこれは。ありがたきお言葉」
女はにっこりと口角を上げた。真っ赤な口紅を塗った唇が三日月型になる。
そんな女の様子を見て、清蘭はフッと鼻で笑った。口ではああ言ったが、実際にはこれっぽっちも思っていない偽りである。
「ところで、お前の名は何という?」
「私めですか?春那と申します」
「なるほど、春那か。それでは、お前に聞きたいことがある」
「はい。何でございましょうか?」
「ここに、銘悠という名の娘はいないか?」
「えっと、それは……」
春那は答えない。だが、彼女の顔が一瞬引きつったのを、清蘭は見逃さなかった。
彼は目を細めて春那に問い詰める。
「いるんだな?」
「えっと、はい、おりますが……」
「どこにいる?案内しろ」
「……」
春那は表情を曇らせ、無言を貫いた。
そこに、清蘭の鋭い視線が刺さる。
「皇帝の命だ」
「……かしこまりました」
流石に皇帝には逆らえないと悟ったのか、春那は深々と頭を下げて清蘭の要求を飲んだ。
「では、着いてきてください」
春那は清蘭にくるりと背を向けると、広間の奥へ歩き出した。清蘭もそれに続く。
彼らは少女たちの間を通って進んでいった。
女官や皇帝が自分たちの前を通過しても顔色一つ、身動き一つしない少女たちを横目で流した。
よく見れば、前髪が長すぎて瞳が見えない少女もいた。そんな者は、大抵服で隠そうとしても隠しきれない痣があった。
ここの暮らしがどれほど過酷かと思うと、彼の胸が痛んだ。
「ここで少々お待ちくださいませ」
広間の中央に来た春那は、清蘭にそう告げて細い廊下へ消えていった。
「清蘭様」
苑鎧が清蘭を呼んだ。
「ああ」
彼は全てを読み取ったように頷いて、瞳を細める。
「恐らく、奴隷のように働かされているな、彼女たち」
「ええ、虐待もされているようですし……やはり裏は深いですね」
肩をすくめる苑鎧に、清蘭は救いようのない笑みを浮かべた。
虐待、強制、嘲笑……。
(ここは、そんな闇が渦巻いている箱だ)
悲しくも、清蘭は思ってしまった。
「お待たせいたしました、皇帝様」
暗い廊下から春那が現れた時、後ろにはもう一人の女を連れていた。禁色を避けた鮮やかな色合いの衣を纏い、髪やら胸やらには玉のついた飾りを付けている。
明らかに春那とは違う身なりに、清蘭は少しばかり身構える。
「貴方が、新たなる皇帝様でございましょうか?」
女が口を開いた。小川のせせらぎを聞いているような、何とも透き通る美しい声であった。
「いかにも」
「これはこれは。よくぞここまでお越しくださいました」
女はふわりと綿毛が舞うような身のこなしで頭を下げた。声質、動き、言葉遣い、全てが完璧だった。この世の動作全ては、この女が標準だと言わんばかりに。
「皇帝様にお越し頂き、我々一同、とても嬉しく思います」
女は顔を見せると、にっこりと清蘭に笑いかける。
思わず目が奪われそうだった。彼女の声は清蘭の胸の奥、僅かな隙間から侵入し、じわじわと染み込んでいくーまるで毒のようなー不思議な力があった。
彼女に呑まれまいと、清蘭は目を瞑って己の意思に語りかける。
そして再び目を開けると、愛想良く口角を吊り上げた。
「そこまで歓迎されているとは。私も嬉しく思う」
「ありがたきお言葉」
「お前の名を聞いても良いか?」
「まぁ、私なぞ申し上げるほどの者ではないのですが、どうしてもというなら」
女はさらに笑顔を強めた。
「私の名は妖流にございます」
「妖流、か。うむ、お前の姿にとてもぴったりだ」
「何とまぁお上手ですこと」
妖流が口元に袖を当てて上品に笑う。
清蘭も合わせたように笑いの声を漏らす。そうしてから、フッと表情を引き締めた。
「実はここにいる、とある娘に会いたいんだが……」
「あら、誰のことでしょうか?」
「銘悠という名の子だ」
清蘭がそう告げたとき、一瞬だけ、妖流の気が揺らいだ。
彼女を纏っている雰囲気の一部が剥がれ落ち、その隙間から彼女の本性が垣間見えた、そんな気がした。が、それも束の間。彼女は元のように妖艶な笑みを浮かべる。
「まあ、あの子でしたの?彼女に何か御用で?」
「私の後宮に迎え入れたいと思ってな」
「侍女……いや、彼女なら下女でしょうか?いずれも、その役目なら、彼女にはまだ不十分かと。他の者ならばご用意できますが……」
「いや、世話係として受け入れるのではない」
その言葉に、妖流は顔をしかめた。先ほどよりもはっきりと、その周りに漂う空気を不服の色へと変化させる。
「だとしたら、一体どのようにするのでしょう?」
「後宮に住む妃にでもなってもらおうとな」
「あら、あんな子でよろしくて?」
納得がいかないのか不満があるのか、妖流は余裕の笑みで皮肉を口にした。だが、清蘭は彼女の言葉に一切表情を変えない。
「あの娘こそ、私が欲しいものだ」
「失礼ですが、皇帝様は知っていらっしゃるのかしら?あの子が呪われた子であることを」
「ああ、もちろん知っている。私が耳にしないほうがおかしい」
「そうでしたわね。皇帝様の血縁関係ですもの」
ふふふ、と妖流は笑う。それには、何処となく皇帝である清蘭への侮辱も含まれていた。
「彼女は宮廷を追放された身ですが、そんな者を後宮に入れるのですか?」
「ああそうだ。身分など関係ない。私が求めるのがあの娘ならば、彼女を手に入れるだけだ」
「……」
妖流はしばらくじっと清蘭を見つめた。無表情で、鋭い瞳は何かを見極めているようだった。
やがて、彼女は再び笑顔を浮かべる。
「なるほど。でしたらお呼びいたしますね」
「よろしく頼む」
妖流はくるりと清蘭に背を向け、歩き始めた。彼が求める子がいるところへと。
道の途中、彼女はふと足を止める。そして、誰にいうわけでもない言葉を、息を潜めて零した。
「出来底のない侍女など、幾らでもくれてやる」
(私とは一体何なのだろう?)
銘悠は一人考える。狭い空間で、灯りもままならない暗がりの中。
人間でなければ、玩具でもない。
侍女でなければ、奴隷でもない。
もしこの世に、言われたものに何でもなれるというものが存在するのならば、私はまさしくそれだろうと思う。
今の私は、下女であった。女官の妖流に言いつけられ、朝からずっと床の掃除をさせられている。
他の者は侍女になるための修行を受けさせてもらえている中、私だけが雑用を押し付けられる毎日だった。
食器を洗え、洗濯をしろ、食事を作れ、だが勝手に物を食べるな。
理不尽で、過酷で、散々な日々。しかし、彼
女の態度は変わらない。
(これも全て、私が忌子であるせいなの?)
好んで呪われた子になったわけじゃない。
望んでこんな髪を得たわけじゃない。
欲してこの生活の下にいるわけじゃない。
変えられるのなら、変われるのなら変えたいと思う。贅沢は望まない。ただ、あの少女たちのように、普通に侍女としての修行を受けさせてもらいたい。彼女たちと対等に扱って欲しい。
そんな、叶いもしない望みに縋っては、絶望に叩きのめさせる。
(私はいつまで、こんな生活を送らなければならないんだろう?)
雑巾で床を擦りながら、今日だけで何度も何度もそんな想いに取り憑かれた。
コンコン、と扉が叩かれる。
銘悠は反射的に立ち上がった。扉の方を見る。
(こんな時に一体誰?)
そう考えた時、大抵浮かんでくるのは妖流だった。そして青ざめる。
掃除に時間は決まっていない。だが、あまりにも遅すぎると様子を見にきて、しまいには叱られる。
今日もそうなるんじゃないか、と思うと体の震えが止まらなかった。
(どうしよう。掃除は終わらせなきゃいけないけど、これを一瞬ではもう無理だ)
さぁ、どうするか。答えは一つしかない。
(諦めて、お仕置きを受けるしかない)
銘悠は恐る恐る、音の鳴った扉を開けた。
「はかどっているかしら?」
そこには案の定、妖流がいた。
「え、ええ……。今取り組んでいる最中でございます」
これを見たら、いや、こんなことを聞いたら妖流はなんと言うか。
お前はこんなことにまだ時間をかけているのか。
何故もっと早く働けない?
こんな簡単なことさえも、お前は使えない。
そんな罵倒が飛んでくるのを覚悟で目を瞑った。だが、彼女の口から発せられたことは、予想もしなかった言葉だった。
「お前を引き取りたいって人がいる。一緒に来なさい」
そんなことを言う彼女の表情は、何処か怖くて、でも何処か嬉しそうだった。
「こちらが銘悠にございます」
妖流がそう言った後ろには、驚きを隠せないでいる表情をした少女が立っていた。
清蘭は息を呑んだ。
先ほどの娘たちのように髪は結われておらず、光沢のある黒色を放って腰まで伸びているし、服装も随分と質素なものだった。
長い前髪から見える瞳も、漆黒と鉛色を混ぜたような、闇深い色合いだった。
けれども、だ。その奥に、彼女を染めてしまった闇の奥には、どんな宝石よりも負けない光がある。
そう、感じ取った。
清蘭の魂が訴える。心臓が高鳴る。
ああ、彼女だ、と。
彼女こそ、自分が探していた人だ、と。
「銘悠、こちらは皇帝様よ」
「皇帝、様……?」
何故自分のところに皇帝様が来るのか?
そんな疑問に満ちて、でも自分で分かるわけでもなく、銘悠は瞳を見開く。コテンと首を傾げる。
清蘭は、そんな日常の一環に過ぎない仕草に心を奪われた。
(なんて、なんて愛おしいんだ)
彼の心臓はドクドクと激しく脈打つ。
やはり彼女だったのだ。ようやく会えた。
その言葉が喉まで出かかって、すんでのところで抑える。
そして、銘悠に向けて微笑んだ。
「お前が銘悠という名の娘か?」
「……」
「こらっ、しっかり答えなさい」
妖流が声を荒げて彼女の肩を叩く。
すると、銘悠はゆっくりとした動作で、しかし滑らかに体を使って礼をした。
「はい、そうでございます」
鈴を転がしたような声に、一瞬のことながら清蘭は聞き入ってしまう。
彼女の声は妖流と違い、透き通った美しさがあるにも関わらず、誰かを支配するような毒などではなく光へ導いてくれるような優しさがあった。
「あの……何故皇帝様が私のことをお呼びしたのでしょうか?」
「銘悠!無駄口を叩くのではありません」
「いや、構わん。それに、確かに気になるであろう」
清蘭は二人をなだめてから、銘悠に向き合う。
「お前を、私の後宮の妃に迎え入れようと思うのだ」
「えっ、わ、私を後宮に……それも、妃に……っ!?」
「ああ。そして後宮で暮らして欲しい」
「えっと……それは、どういうことで……?」
銘悠は頭の理解が追いつかなかった。
あり得ない。皇帝様は一体何を仰っているんだろう?
「どういうことも何も、そのままの意味だ」
皇帝様は柔らかく笑う。その表情に、偽りや騙しは見えなかった。つまり、本心からそう思っているとのこと。
誰かの陰謀か、自分をおとしめる罠を疑っていた銘悠はますます混乱する。
「本当に、この娘で良いのですね?」
妖流が念を押すように言う。
その言葉を聞いた途端、銘悠はバッと顔を上げて彼女を見つめた。
何故この人はこんなことを言うんだろう?
まるで私が後宮に行くことを許しているようではないか。
何の役にも立たない私を、この人が後宮に送り出すはずがない。
私を虐げていたこの人が、私を皇帝様の元に送り出すことなんて許さないはずなのに。
目の前で何が起こっているのか、妖流や清蘭が何を考えているのか。
銘悠には知る術がなかった。
観覧の渦に置き去りにされた銘悠を他所に、二人は会話を続ける。
「ああ。私が探していたのは間違いなくこの娘だ」
「ふふっ。皇帝様は先ほどからそればっかり。よほどこの子が欲しいようですね」
「そうだな。少なくとも、私の魂は喉から手が出るほど望んでいる」
妖流のからかいさえも受け入れてしまう清蘭の心は、全てが銘悠に持ってかれていた。彼女を見た時から、いや、彼女がここにいると知ってから。
(彼女を手に入れるためにはどんな手を使っても構わない)
そんな熱い想いが、彼の中で燃えている。
「では、どうぞこの子を連れなさって下さい。後悔して追い返しても遅いですからね」
「ははっ、そのようなことには神に誓っても至らないから安心しろ」
二人は笑った。だが、その笑顔にはまた別の顔を隠している。
傍観していた銘悠は、そんなことを思った。
「では、銘悠」
不意に清蘭が彼女の名を口にする。
「えっ、あ、はい……」
「行くぞ」
「え、行くって……?」
「後宮に決まっているだろ。今日からお前は私のものだ」
皇帝様のものって……。彼は独占欲が強いのか、と銘悠は心の中で苦く笑った。
突然呼び出されたかと思えば、皇帝様の目の前に出され、挙げ句の果てに後宮へ招かれる。
一体神はどういう吹き回しでこんな運命を運んできたのだろう?
銘悠には、清蘭の言っていることにまだ現実味を感じていなかった。
そして、それは清蘭自身も承知している。
彼はスッと手を差し出した。悶々と考え込んでいた銘悠は、清蘭の手に思考を止めて、顔を上げた。
清蘭は満月が微笑んだような表情で、銘悠を真っ直ぐに見つめる。
彼女は清蘭の顔と手を行ったり来たり眺めて、やがて、恐る恐るその手を取った。
暖かい。そう、銘悠は思う。
心が落ち着く温もりが、流れてくる。
ドクン、と銘悠はの心臓が突然跳ねた。その瞬間、彼女の脳内に「何か」が浮かんだ。
桜の木の下、花びらが舞う空を背景に、誰かが自分に手を出している。
それは、覚えのない記憶。私の中にあるのに、身に覚えがないようなもの。
だけど、無性に懐かしい。
銘悠は繋いだ手をじっと見つめる。
何だろう。いつか、こんな気持ちを感じたことがあった気がする。
彼女はその感覚の意味が知りたくなった。けれども、まだ自分では分からない。
「では行くぞ」
清蘭はくるりと踵を返して歩き出した。
「え、あっ……」
待って下さい、と言う隙も与えず、彼は銘悠の手を引っ張っていく。彼女は困り果てた顔をするも、清蘭に従うしかなかった。
何気なく、背後を振り返る。
妖流は、銘悠を連れて立ち去る清蘭を止めることもなく、ただ見つめていた。そして、銘悠が振り返ったことに気づくと、微笑みを讃えて手を振る。
銘悠は背筋に寒気が走った気がした。
私を嫌っていた人が、後宮に行く見送りで笑顔を浮かべるなんて……。そう思うと、何とも言えない恐怖が押し寄せてきたのだ。
ここから離れられるのは良かった。
彼女は心底安心し、清蘭に連れられるまま宮を後にした。
「さぁ、着いたぞ。これが後宮だ」
「うわぁ」
庶民の家から離された一角、先ほどまで生活していた宮とは規模が違う大きさの後宮を前に、銘悠は簡単の声を漏らす。
光がなかった瞳が、急に、まるで宝石のように輝き出す。顔を上げて、それでも全体的は捉えきれなくて、数歩後ずさった。
初めて見るものを前にはしゃぐ銘悠に、清蘭は目を細めた。後ろに着く苑鎧も、娘を愛でる父親の如く微笑んでいる。
「なんて大きい……こんな建物を、人が作れるなんて」
「そうか?お前が生まれた宮廷の方が大きいと思うが……?」
清蘭は単なる疑問から言った言葉だったのだろう。だが、それを聞いた銘悠は生き生きとした表情を無くして、俯いた。
清蘭と苑鎧が同時に目を見開く。
(これを聞くのは流石にまずかったか)
と気づいた時にはもう遅い。
銘悠の心は既に沈んでいた。
彼女に昔の記憶がどれだけあるか、それがどのようなものか。確かめてから聞いても良かったのではないか。
清蘭は自分の過ちに後悔する。
銘悠を深く傷つけてしまった。もう二度と話してくれなかったらどうしよう。
けれども、そこまでの心配はいらなかった。
銘悠は再び顔を上げる。やはり、彼女の顔から輝きは消えていた。だが、憎しみや怒りは見えない。ただただ、目を伏せて唇を噛んでいた。
やがて、銘悠は語る。
「幼い記憶は、ほとんど残っていません。……それに、さほど外には出してもらえなかったので」
「閉じ込められていたのか?」
「そこまでではないですけど……あまり出歩くことを許されなかったものですから」
私が、呪われた子だから。
銘悠は息を吐くように呟いた。
(ああ、彼女はきっと、宮にいた頃も辛い経験を味わっていたに違いない)
清蘭は銘悠の境遇を考え、心を痛める。
また同時に、清蘭は悲しみに暮れた。
(記憶がないということは、もしかしたら「あの事」も覚えていないかもしれない)
自分の中にはあるのに、彼女の中で薄れかかっているであろう記憶。通じないのが、言えないのがもどかしい。
そんな葛藤が、彼の中で巻き起こっていた。
(いや、今は悩むべきではないか)
そう、まだなんだ。清蘭はそう結論づける。
そして、グイッと銘悠の手首を掴んだ。
「わっ」
「なら、これから沢山外に出て知るといい」
(どんな美しいものでも、どんな綺麗なものでも、なんでも見せてやる)
半端強引に彼女を引っ張りながら、後宮へ入っていった。
残された苑鎧と他の男たちは、ポカンと間抜けな表情でしばらく固まった。が、不意に苑鎧が吹き出す。
「全く、皇帝様ときたら。もう少し気の利いたことができないものですかね」
そういう彼の口元は、しかし笑みが浮かべられていた。
「挙げ句の果てに二人だけで先に行っちゃって。置いて行かれた僕たちのことも少しは考えてもらいたい」
やれやれ、と肩をすくめた後、彼は後宮を眺めてから、暖かい陽気に包まれたような、穏やかな気持ちが広がった。
「これから頼みますよ、銘悠様」