男性は落ち着き払った綺麗な低い声で普通に話しているが、それを発しているはずの口が無かった。それどころか、目や鼻、眉でさえも……。
 学生帽の下にはのっぺらぼうのように、何も無い平らな肌色だけが広がっていたのだった。
 莉亜は言葉を失って、唇を戦慄かせていたが、男性は特段驚いていないようだった。ただ「忘れていた」と、呟いただけであった。

「神力を温存して、顔を作っていなかったな。おい、何か媒介になるものは持っていないのか?」
「ばいかい……?」
「何でもいい。そいつの姿を模倣して顔や姿を作るだけだ。その方が一から作るより簡単だからな。絵や写真、本でもいい」
「そんなことを急に言われても……」

 スマートフォンを取り出すが圏外のため、インターネットを使った写真や画像の検索は出来なかった。スマートフォンに保存している写真を見ても、アイドルや芸能人に疎い莉亜の写真一覧には男性の写真は一枚も見当たらない。
 せめて家族や友人の写真を保存していなかったかと写真一覧を探していると、「借りるぞ」と短い言葉と共に男性が莉亜のトートバッグに手を入れる。手にしたのは、猫と桜のブックカバーを掛けた文庫本だった。男性はページを捲ると、折り癖がついていたととあるページを食い入るように眺めだす。

「なんだ。丁度良い媒介を持っているじゃないか。それも絵まで入っている」
「そ、それはっ……!!」

 莉亜は手を伸ばして文庫本を掴もうとするが、それより先に文庫本を中心にして、男性の身体が光始める。莉亜が桜の木から生じた光に覆われた時と同じように、男性も光に包まれたかと思うと、瞬く間に姿が変わり出したのだった。
 時代錯誤なマントと学生服は今風の白いシャツとカジュアルな黒いジーンズに変わり、学生帽は消えて黒い髪が首筋まで流れる。長めの前髪の下には細長い黒目や整った鼻梁、形の良い柔らかな唇が現れたのだった。
 光が霧散した時、そこに居たのは先程ののっぺらぼうではなく、文庫本に書かれた青年――莉亜が愛してやまない推しのキャラクターの姿そのものであった。

「ふむ。最近はこんな姿形が流行っているのか……。人の文化とはつくづく面白い」
「あ、はははは……」

 男性から文庫本を受け取ると、何度も開いて折り癖がついたページを開く。片面には莉亜の推しキャラクターである小説の登場人物の挿絵が大きく載っていた。
 莉亜が持ち歩いている桜と猫のブックカバーを掛けた文庫本――同級生に見られるのが恥ずかしいので、ブックカバーで隠しているだけだが。女性読者を中心に人気急上昇中の小説であった。
 物語は現代日本から明治時代によく似た異世界に転移した主人公である女子大生が不審者として警察に捕まりかけた時に、書生を名乗る青年・花房忍(はなふさしのぶ)に助けられるところから始まる。
 忍の正体はあやかしを退治する陰陽師の末裔であり、一人前の陰陽師になるための最後の試練に必要な条件――自らの伴侶となる女性、を探しているところであった。主人公は元の世界に戻る方法が分かるまで、忍は一人前の陰陽師になるため、一時的な契約結婚する、といった恋愛ファンタジー小説であった。
 陰陽師としてのクールな姿と、主人公に好意を寄せていくにつれて甘く溺愛するようになる忍のギャップに多くの女性ファンが虜になり、原作小説や原作小説のコミカライズを中心に人気を集めるようになった。その忍こそが莉亜が愛する意中の推しキャラクターであり、男性が媒介とした姿であった。
 開き癖がついていたページには現代日本について主人公と忍が話すシーンが書かれており、挿絵には忍が現代日本の大学生だったらこんな格好もするだろうと、主人公が想像した姿がイラストで描かれていた。その忍のイラストが莉亜の好みにぴったりと当てはまったのだった。
 元々、恋愛ファンタジー作品が好きでこの話を読んでいた莉亜だったが、この挿絵がきっかけとなって、忍を推すようになった。
 堅苦しい書生姿の忍の姿と、現代の若者風の気取らない忍の姿とのギャップに莉亜も熱に浮かされたようにすっかり魅了されてしまったのだった。
 何度も開いて眺めている内に挿絵が描かれているページに開き癖がついてしまったのだろう。男性が忍の姿を元にしてくれたのは嬉しいが、推しが身近にいるようで、どこか気恥ずかしさを感じてしまう。
 好きなアイドルや推しの芸能人を目にした時のファンも、こんな気持ちになるのだろうか。

「背丈は書かれていなかったから、俺が知っている男を参考にした。それ以外にもいくつか。この絵の男とはかけ離れてしまったかもしれないが……」
「……いえ、大丈夫です。ファンのイメージを壊すことなく再現できています」

 それどころか、男性の背丈や手足の長さ、声の高低、話し方にはどこか懐かしさを感じた。莉亜自身は覚えはないが、身体や心が覚えているような不思議な感覚。
 物心がつく前に好きだった物や懐かしい物に触れた時の感じに近いかもしれない。

「それで、猫を追いかけて気づいたらここに居たと言っていたが、それだけでは生身の人間はここには来られない。誰かに招かれたか、それとも通行手形を持っていない限りは……。ここは人の世界とあやかしの世界の狭間に存在しているのだからな」
「そう言われても……」

 その時、「にゃぁ~ん」という猫の鳴き声と共に男性の身体をよじ登ってくる白と黒の塊があった。よく見ると、その塊は黒と白の毛が生えたキジ白の猫であった。その猫の顔を見た莉亜は思わず叫んでしまう。

「あっ! その猫!!」
「なんだ。ハルを知っているのか?」
「その猫にお守りを盗られたんです! 後を追いかけて、それで気づいたらここに……」
「ハルが護符を……」

 そう呟くと、男性は肩に登ってきたキジ白の猫を撫でる。どうやら先程莉亜のお守りを盗んだキジ白の猫はハルという名前らしい。ハルと呼ばれた猫は、莉亜の代わりに答えるかのように鳴いたのだった。

「ということは、お前はハルに招かれたのか」
「招かれたことになるんですか? 私……」
「ハルはこの神域と人の世界を自由に行き来できる。俺が使役している神使(しんし)だ。たまにこうして行く当てのない者を、ここに招くことがある。あやかしや神、後は道に迷った死者の霊魂を」
「私はあやかしや神でも無ければ、死者でもありませんが……」
「生身の人間を招いたのは初めてだが、まあ偶然だろう。大方お前が持っていたお守りを食い物と勘違いしたか」
「食べ物……」

 食べ物の単語に反応して莉亜のお腹が情けない音を鳴らす。思い返せば、夕食のおにぎりをハルに奪われてそれきりだった。今の時刻は分からないが、夕食の時間は過ぎてしまったかもしれない。すると、男性がカウンター席を指したのだった。

「これも何かの縁だ。夕餉がまだなら食べて行くか? 丁度、これから店を開けるところだったからな」
「ここってお店だったんですか……?」
「ここは握り飯を出す店だ。店主はこの俺」
「おにぎり処ってことですか?」
「人の世に合わせて言うなら、そういうことになるか。うちはおむすびしか出さない。味も塩を振っただけだ。具材は何も入れていない、というよりは、目下検討中だ」
「検討中ということは、今は塩おにぎりしかメニューが無いということなんですね」
「まだ始めたばかりだからな。これから考えるところだ。無理に食べて行けとは言わん。俺の神使が迷惑を掛けたようだからな。これくらいはさせてくれ」

 男性は肩からハルを下ろすと指を鳴らす。するとカウンター内の灯りがともされ、カウンターキッチンが姿を現したのだった。
 よく磨かれた流し台とコンロ、業務用と思しき大きな釜とレトロなデザインの冷蔵庫、まな板や木製のしゃもじ、おひつを始めとする調理器具が並んでいた。奥には土やタイルで出来た竈もあるようだった。

「何度も人の世界に足を運んで真似て作った炊事場だ。『かうんたーきっちん』というものらしいな」
「そうですね」
「これから作るから適当に座って待っていてくれ。人の世界と違って、火は俺の神力で熾しているからすぐに飯が炊ける。火の神に頼んでもいいが、あいつらは根っからの商売気質だからな。高くつく」

 男性はシャツの袖を捲って流し台で手を洗うと、調理器具の隣に置いていた竹の蓋を取る。その下からは竹で編んだざると水気を切った米が現れたのだった。
 
「それは?」
「米揚げざるだ。洗った米の水気を切るのに使う」
「水気を切るんですか? 炊く時にまた水を入れるのに?」
「その方がしっかり炊けるからな。弾力のある米が炊き上がる。それにあまり長時間水に付けておくと、米が割れてしまうらしい」

 男性は米と水を窯に入れると、竈に持って行く。薪を入れた焚口の前に膝をつくと、唇に指を当てて何かを唱える。やがて男性はその指を焚口に入れると、すぐに煙を巻き上げながら薪が燃え出したのだった。魔法のように一瞬で火が点いた竈に莉亜が感嘆の声を上げると、「驚くのはまだ早いぞ」と男性に言われる。

「お前たち。力を貸してくれないか?」

 男性は足元に向かって声を掛けると、何かオレンジ色のものを投げたので、莉亜もカウンターから身を乗り出して視線の先を追いかける。すると、赤色とオレンジ色が入り混じった小さな炎を纏った小人たちが、炊事場の隅に置かれたドールハウスサイズの小さな社から続々と出て来たのだった。
 
「その子たちは妖精ですか?」
「いや。こいつらは火の神から生まれた切り火だ」
「切り火?」
「火の神が力を使った際に飛び散った火や燃え残った火から生まれた火の神の化身だ。火の神ほどの力は無いが、火や炎を操る力を持っている。今はうちの炊事場に住んで、店を手伝ってもらっている」
「投げたものは何ですか?」
「労働の対価である果物を乾燥させたものだ。『どらいふるーつ』と言ったな。本来なら果物を供えるところだが、人の世界に行った際、土産として買ってきたところすっかり気に入られてな。それ以来、労働の対価は乾燥させた果物を渡している」
 
 切り火と呼ばれた小人たちは男性が投げたオレンジ色のドライフルーツ――見たまま、オレンジだと思うが、を大切そうに拾ったかと思うと、一斉に頭と思しき場所に突き刺す。すると顔と思しき辺りが、咀嚼しているかのように小さく動き出したのだった。
 
「切り火もドライフルーツを食べるんですね……」
「神やあやかしも、人と同じで食べないと生きていけないからな。神力――神としての力が強い者なら数百年ぐらい食べなくても生きていけるが」

 目や口が無いのにどうやって食べているのか気になって切り火たちを見ていると、莉亜の視線に気付いたのか、オレンジのドライフルーツを頬張っていた切り火のひとりが小さく会釈をしてくれる。莉亜が「可愛い」と呟くと、全身を真っ赤に燃やしながら竈に向かって駆け出してしまったのだった。
 
「褒められて照れたな」
「分かるんですか?」
「炎の色を見れば分かる。それより今から切り火たちが竈の火を調整するぞ」

 竈に集まった切り火たちが小さな手を一斉に上げると焚口の火が強くなる。釜が噴きこぼれそうになると、切り火たちは協力して釜の蓋を開けると隙間を作っていたのだった。
 切り火たちが竈で調理をする姿が、童話で読んだ妖精たちが料理をする愛らしい姿に似ていたので、莉亜はスマートフォンでその姿を撮影しようとする。しかし長ネギを切っていた男性に、「神やあやかしは映らないぞ」と教えられたので諦めざるを得なかった。その男性は切り火たちに釜を任せている間、乾燥わかめを水で戻すと、水を入れた鍋に昆布を入れて出汁を取り始めたのだった。

「お味噌汁ですか?」
「ああ。店内で食す者には汁物も提供している。具は日替わり。今日はわかめと長ネギの味噌汁だ」
「味噌汁は竈で調理しないんですね」
「汁物はコンロで調整した方が楽だからな。それに万が一にも中身が零れて、切り火たちに掛かったら大変だろう」

 やはり切り火たちも水を掛けると消えてしまうのかと莉亜が考えている内に、竈からは米が炊ける音が聞こえてくる。そして店内には炊き立ての米特有の美味しそうな匂いが漂い出したのだった。
 切り火たちは扇ぐように何度も腕を振り下ろしては火の勢いを弱くしていくと、やがて火を消して釜に蓋をする。完全に火が消えると、役目を終えたのか、ぞろぞろと炊事場の社に戻り出したのだった。
 そんな切り火たちに莉亜が小さく手を振ると、気づいて手を振り返してくれる子や照れて全身を真っ赤に燃やしながら社に走って行く子、我関せずといったように莉亜を無視する子に分かれた。みんな同じように見える切り火たちにも性格による違いがあるのかもしれない。
 米を蒸らしている間に男性は鍋から味噌汁の用意を続けていた。火を点けた鍋から昆布を取り出して味噌汁の具材を入れた鍋に味噌を溶くと、蒸気と共にふんわりとした味噌の香りに包まれる。炊き立ての米と作り立ての味噌汁の匂いに、再び莉亜の空腹が刺激されるとお腹を鳴らしたのだった。
 味噌汁の用意を終えると、男性は竈から釜を持って来る。木製のおひつに蒸らした米を移すと、手際よく三角形に作っていく。
 家庭科の授業で知ったが、おにぎりの形というのは地域によって違うらしい。言われてみれば、莉亜の実家は円型だったが、友人が持って来るおにぎりは三角形だった。大学に入学して自炊してくる子たちのおにぎりを見れば、俵型や球型の人もいた。
 その形が流行った理由や由来は地域ごとにそれぞれあるので、どの形が正解ということは無いらしい。ただおにぎりから自分の知られざるルーツを知ることが出来るので、食を通して各自のルーツを学ぶ食育の一環として、家庭科の調理実習や課題で作らせる学校もあるとのことであった。
 男性は軽く塩を振ると、桜模様の角小皿に塩おにぎりを二個並べる。味噌汁を黒塗りのお椀によそうと、おにぎりと共に四角形の黒天朱のお盆に載せたのだった。

「待たせたな。遠慮なく味わうといい」

 目の前に差し出された塩おにぎりとわかめと長ネギの味噌汁に誘われるように、莉亜の手が自然と伸びる。手に持ったおにぎりはまだ程よく熱を帯びており、作り立ての手作りおにぎりならではの温かさに手の中が温まる。

「いただきます」

 おにぎりを口に含んだ瞬間、塩と米のあまじょっばさに口の中が満たされる。握っている時は目分量で塩を振っているように見えたが、塩加減と米とのバランスが絶妙に保たれており、どちらかの味の邪魔をすることもなく、お互いを引き立て合っていた。米自体にも弾力があり、米の一粒一粒がしっかりしているからか、おにぎりとしての形と味を際立たせているようであった。
 莉亜の実家では米を研いだ後はすぐに水に付けてしまったからか、柔らかく粘りの強い白飯だった。炊飯前に水切りしていたという男性が炊いた米は実家の白飯と同じに見えて食感から違っていた。そこには炊き方や米や塩の種類といった違いも関係するだろうが、一番はこの男性が食べる人を想って作るからこそ表現できる味と食感なのだろう。自分が作っても同じように作れる自信が無かった。
 これまで中に具材が入っていない塩おにぎりには物足りない印象を持っていたが、このおにぎりにはそんな根底を覆してしまうような、新しい発見を見出したような気がした。
 そんなことを考えていたからか、急に実家のおにぎりが恋しくなってしまう。円型で柔らかく、気を付けて食べないと形が崩れてしまうような大ぶりのおにぎり。子供の頃は食べづらさに鬱陶しさを感じて、コンビニエンスストアやスーパーマーケットで売られている市販のおにぎりの方が美味しいとさえ思っていた。それがまだ一人暮らしを始めて数週間しか経っていないのに、久しく食べていないような気持ちになる。

「……その様子だと、美味しいものでは無かったようだな」
「えっ?」
「顔を拭いた方が良い。お前、さっきから泣いているぞ」