これは200年前に起こった龍の乙女と呼ばれた巫女の悲劇とすべての元凶である男の一族の呪いの始まりの物語。


人間と妖が共存する世界でまだ神との繋がりが今よりも深かった頃。
美しい海に囲まれた村に龍族の始祖で人間と妖達を統率し観測する神の一人である龍神・白堊(はくあ)の娘・香月柑奈(かんな)と漁師の息子である佐々間士郎が仲睦まじく暮らしていた。
人と妖の絆を繋ぎ止める"龍の乙女"である柑奈は、しっかりと巫女としての勤めをこなし、誰隔てなく接し村の皆からとても愛されて大事にされていた。
士郎も父親から継いだ漁師の仕事をこなしながら柑奈を支えていた。
二人はとうの昔に結婚を約束した仲となり、龍神・白堊も愛する娘が彼女が愛する人である士郎とならきっと実りのある結婚になるであろうと信じて疑わなかった。それは村に住む者達も同じ気持ちだった。
だが、その願いは2人の幸せを妬む者の嫉妬と憎悪によって脆くも砕かれてしまう。

それは柑奈が妖狐の総領からの求婚を断った頃から異変が始まった。
以前から柑奈は妖狐のからの求婚に対する執拗さに頭を悩ませていた。龍神以外の神々からも苦言を受けていたが妖狐は気にも留めることはなかった。
柑奈から「私には心に決めている人がいるから受け入れることはできない」と丁重に告げられたからといってすぐに諦める様な者ではなかった。寧ろ、柑奈への執着の歪んだ愛情、そして、彼女の婚約者である士郎に対して憎悪を更に膨らませた。
妖狐の歪んだ想いが形となってしまったのは士郎と柑奈の婚姻の儀の日。2人にとって一生忘れる事のない最高に幸せな一日になる筈だった。
親族や村の者、妖や神々からの大勢の祝福を受けた夜。
幸せの絶頂にいた2人の前に妖狐は現れた。突然狙いは龍の乙女である柑奈とその婿になった士郎の命。妖狐が手に持つ刃が士郎に向けられ彼の腕を傷つけた。切り裂かれた左腕からは赤い鮮血が滴り落ち、血に染まった袴の袖の布の破片が地面に散乱する。

「柑奈様。俺を選んでください。まだ間に合います。この男は貴女の足枷となる。俺なら…!!!」

妖狐の脅迫にも近い要求に柑奈は恐怖に怯む事なく、愛する人に刃を向けられ傷付けられた事、そして、幸せな時間を壊された事に静かに怒りを見せる。いつ自分の中で眠る龍の力を暴走させてしまってもおかしくなかった。彼女の妖狐への答えはもうとっくに決まっていた。

「何度来ようと応えは同じ。私の愛する人に傷付ける様な男を選ぶわけがなかろうか。幾ら妖狐の総領といえど士郎を襲った貴様を私は決して許さぬ。龍の乙女として、龍神白堊の娘として貴様を罰する」
「………っ!!どうして僕を選んでくれないんです…?こんな男に俺は負けるのですか…?こんな無能に、何者でもないただの人間に……っ!!!!」
「何も解っていないのね。否…解ろうとしないと言った方が正しいか」
「何も解っていないのは貴女だ!!柑奈!!!」

士郎の顔に恐怖の色は微塵も感じられない。どんな悪意でも受け入れてみせると身構えていた。
その態度にさらに怒りを覚えた妖狐は再び士郎に刃を向ける。突き刺さる様な殺意に躊躇など無い。

「俺を殺したって何も変わらない。彼女はアンタのモノになんかならない。どんなに足掻いてもな」
「黙れ!!人間の分際で龍の乙女に見染められて…!!なんで、なんで、なんでお前なんかが…なんで、何も能のない貴様なんかが彼女の隣にいるんだ!!!」

今度こそ息の根を止めてやると再度士郎に襲いかかる。
一刻も早く目の前にいる人間の男を無惨な目に遭わせ殺してしまいたい。龍の乙女への執着と怒りと殺意が妖狐を駆り立てる。
あの人間を男を殺してしまえば彼女はようやく自分を握ってくれるであろう。
たが、妖狐の身勝手過ぎるその想いは士郎の悲鳴に近い叫びと真っ赤な鮮血と共に打ち砕かれた。

「柑奈」

妖狐が手に持つ刃は人間である士郎には振り下ろされず血も流れなかった。顔に付いた血も彼のモノでもない。
地面に倒れ込んだのは純白の白無垢。
それは一番迎えたくなった事態が起きてしまった瞬間。

「え…」
「そんな、待って、嫌だ!!!柑奈ーー!!!」

士郎の今にも泣きそうな顔と声。酷く焦る彼が大事そうに抱えている白い何か。夥しい量の赤い鮮血は白無垢と士郎の顔と手と袴を染めてゆく。
妖狐の刃は本来なら目の前で泣き叫ぶ男に振り下ろされる筈だった。

「死なないでくれ、嫌だ、こんなの…っ」
「……何…?」
「ダメだ…ダメだ…!!俺を1人にしないでくれ頼む…!!!」

目の前に起きている事態を把握できていない妖狐は士郎が抱きかかえているモノをそっと見下ろす。
妖狐の目に映った"白いモノ"は彼を酷く狼狽えさせた。

「かん、な…?」
「早く婚姻の儀の続きをしよう?みんな待ってるよ?…だから、だから、早く目を覚ましてくれ柑奈ぁ…!こんなの嫌だよ…!!」

真っ赤に染まった白無垢姿の柑奈に士郎は必死に声をかける。彼女の肉体から生気を失われ青白く冷たくなってゆく。赤い血だけが流れ続ける。

(なんであの男が生きて…)

気高き龍の乙女は自らの命を身勝手で歪な想いでできた刃に差し出したのだ。全ては大切な人の命と幸せ守る為。迷いなんてなかった。
愛する士郎の腕の中に抱かれている柑奈に後悔はなく幸せそうな顔で2度と目覚める事のない眠りについた。


(士郎。生まれ変わったらもう一度恋人になってくれる?そうしたら今度こと式を最後まで成し遂げるの。誰にも邪魔されず、幸せになるのよ。人間に生まれ変われなくてもいい。士郎が、彼が私の傍に居てくれればそれで十分よ)


全身に走る激痛と共に意識を手放す前にぼやけ始めた視界の中で士郎を見つめていた柑奈は最期の願いを呟く。最期の力を振り絞って士郎の頬に手を伸ばそうとするが途中で力付き地面に落ちた。
士郎は冷たくなった柑奈の顔にそっと頬擦りをする。何もできず、守られてばかりだった自分が許せなかった。

(何もできなかった。あの妖狐の言う通り俺は無力で。守られてばかりで…そのせいで柑奈は…柑奈は…)

柑奈の血で染まった妖狐の刃は、彼が引き起こした惨状を物語っている。目の前の現実が放心していた感情を一気に湧き上がらせた。

「ち、違う…!!!そんな、どうして……?ぼ、僕のせいじゃない…」
「……」
「っ、全部お前が悪いんだ!!お前が柑奈の前に現れたから!!!全部おまえがやった事なんだ!!! !僕は悪くない!!!」

龍の乙女を殺した妖狐は全ての責任は人間である士郎にあると叫びながら狼狽えながら逃げ去ってゆく。
死に絶えた花嫁を抱きかかえ涙に暮れる花婿を残して卑怯な妖狐は現実から逃げたのだ。