夜の静寂(しじま)を引き裂くような、鋭い声だった。
 それが女の絶叫だとわかったとき、真っ先に寿々の脳裏をよぎったのは菊代のことだった。彼女の身に何かが起きて、それで叫んでいるのではないかと。
 そう思って慌てて部屋を出たが、廊下を絶叫が移動してきているのがわかった。何者かが、叫びながら走ってくる。

「いやっ……いやー! なんで⁉ やだ! あぁっ……!」

 長い髪を振り乱し、半狂乱で走ってくる姿に、寿々はギョッとした。何より、その背後から禍々しい気配が迫ってくるのが恐ろしい。
 だが、もっと恐ろしかったのは、その半狂乱の女が自分の妹だと気がついたときだ。

「……富貴子ちゃん⁉」
「なんであたしのところに来るのっ⁉ 確かにあの子を代わりに差し出したのに!」

 寿々が気づいて駆け寄ろうとしたのと、富貴子が叫んだのはほぼ同時だった。
 富貴子はまだ恐ろしい悪夢にでも囚われているのか、ここがどこなのかもわからぬまま走っていたようだった。しかし、突然身を屈めると、ほとんど四つん這いになってから、どこかへ向かって進み始める。
 それがおそらく菊代の部屋だとわかり、寿々は慌てて駆け出した。

「だめよ! 行かせない! 富貴子ちゃん、落ち着いて」

 獣のような姿になった富貴子に、寿々は抱きついた。落ち着かせたかったのと、止めたかったからだ。
 お守りを持たせているとはいえ、今の富貴子を弱っている菊代に近づけたくない。何より、聞き捨てならないことを耳にしてしまった。

「身代わりって何? 富貴子ちゃん、何かにつけ狙われているの?」
「うるさい! 離して! なんであたしがこんな目に遭わなきゃいけないの……!? いやだ!」

 寿々の腕の戒めから逃れようと、富貴子は暴れた。とても十五歳の少女の細い体から出ている力とは思えないほどの抵抗だ。
 三歳上とはいえ、寿々も決して体格は良くない。踏ん張り、どうにか押さえ込もうとしたが、やがて振り払われてしまった。
 姉を床に投げ飛ばしたことで一瞬我に返ったのか、富貴子は驚いた顔をして寿々を見た。だが、その顔はすぐに歪む。

「……もとはと言えば、あんたが……」

 顔を歪めて、憎々しげに吐き捨てる。なぜこんなふうに憎しみを抱かれているのかと、寿々の胸は痛んだ。
 生い立ちからして、仲良くするのは難しい二人だ。しかし、それでも姉妹なのだ。
 そう思ってこれまで苦手に思いながらもどこか憎みきれずにいたのに、この子にとってはそうではなかったのかと、寿々は泣きたくなる。

「あれ……お守りがない。やったわ!」

 寿々をじっと見つめていた富貴子が、何かに気がついたように声を上げた。そして、仄暗い喜びに顔を輝かせ、にじり寄って来る。

「邪魔だったお守りがない! これでようやく……ずっとあんたが代わりになってくれればと思ってたの!」
「何を言って……」
「あたしじゃなくてあんたが死ねばいい! お姉ちゃんが死ねばいいの!」
「きゃっ……」

 狂気じみた様子の富貴子に掴みかかられたと思ったときには、逃れられなくなっていた。
 彼女に纏わりついていた禍々しい闇が濃くなり、まるで無数の手のように伸びてきた。それが寿々の体に巻きつき、絡め取ろうとする。
 ボトン、と何かが落ちる音がする。
 ボトン、ボトンボトン……と、その音は続く。
 見ると、上から何かが落ちてきている。闇が溶け出して雫となって滴るように。
 滴り落ちた闇はやがて蛇の形となって、這い寄ってきた。それが、伸びてくる手と一緒になって寿々の体に巻きつく。

『これは僥倖(ぎょうこう)

 何かが擦れるような不快な声がした。声というよりは、音だ。耳障りな音が、言葉の形になって聞こえる。
 そして、何かが舌なめずりするのが気配でわかった。
 寿々の視界は真っ黒に塗り潰されて、もう何も見えなくなっているのに。生ぬるい呼気と舌がすぐ近くに迫ってきているのを感じる。
 恐ろしくて逃げ出したいと思うが、雁字搦(がんじがら)めにされ動けない。富貴子に掴まれているからなのか、闇に囚われているのかはわからない。

『食らうてやろう、食らうてやろう』

 闇が揺れていた。それが笑っているのだと気がついたとき、さらに怖気が走る。
 闇は、寿々の恐怖を嘲笑(あざわら)っているのだ。

(これが、菊代さんが言っていた化け物……)

 夢の中、こんなものに追い回されたら、あれだけ弱り切るのも理解できた。そして、富貴子がこんなものに長いこと苦しめられていたのかと思うと、あの荒れようは理解できる。
 だが、だからといって自分の身に起きていることを受け入れられるわけではない。

(嫌だ……食べられたくない。このまま死ぬなんて、嫌……)

 この先の幸せなど見えぬ人生ではあったが、死にたかったことなどない。
 母を亡くして、変わってしまった父を目の当たりにして、埋められない孤独を感じながら生きてきた。継母や異母妹との関係はつらかった。
 それでも、生きてさえいればと思って日々を過ごしていた。
 それなのに、こんなふうに化け物に捕まって食べられてしまうなんて。

『ようやく女を食えると思ったら、まさかあの者の力を宿す女を食えるとは』

 喜ぶ闇の声を聞いて、寿々はハッとした。
 〝力を宿す〟という言葉を聞いて、思い出したのだ。
 スミのことを。彼から珠を預かっていることを。それから、彼にとても大切にされていることを。

(いやだ……死にたくない!)

 闇に呑まれて自分の体がどこからどこまでなのかわからなくなりつつあったが、寿々は腕に力を込めてみた。足を踏んばってみた。身を捩ってみた。
 すると、自分の体の輪郭を思い出す。自分の体の在り処を思い出す。

「……スミさん、……たすけて……」

 寿々は、愛しい人の名を呼んだ。
 夢でしか会えない、不思議な想い人の名を。それが、自分の心を強くするのを、本能で理解したから。
 それに、恐れの心が何よりまずいとスミが言っていたことを思い出したのだ。だから、少しでも恐怖を薄めるために、彼のことを強く想う。
 すると、どこからか清浄な匂いがした。そして、水の気配が近づいてくる。

「——わが花嫁に手を出すな」


 爽やかな水の気配とともに現れたものが、そう言い放った。
 その耳に馴染んだ声に、寿々の胸は高鳴る。自分の願望が聴かせた幻聴ではないことを確認するために、その名を呼んだ。

「スミさん!」

 寿々が呼ぶと、ザパンと波が起きた。周囲の闇を押し流し、清浄な気配を纏った美しい人が現れる。
 夜の闇の中にあってもはっきりその姿を見ることができるのは、彼がほんのり青く光を放っているからだ。その神秘的な美丈夫を前にして、寿々は悟った。
 やはり夢の中で逢うこの方は、人ではないのだと。自分の愛しい人は、人間ではないのだと。
 だが、そんなことはどうだっていい。自分の危機に彼が駆けつけてくれたことが、本当に嬉しい。

「よくもその穢らわしい手で、寿々に触れたな」 

 スミが腕をふるうと、その先に剣が生まれ、目の前の闇を切り裂いた。

『ギャッ……』

 一太刀浴びせるたびに、闇が斬られていく。容赦のない連続での斬りつけに、ついに闇は引き絞られるような悲鳴を上げて、夜の中を散っていった。

「逃げただけだ。また力を蓄えれば、性懲りもなく出てくる。何せ請われて出てきたのだ。人間が約束を守るまで、執拗(しつこ)く付き纏うだろう」

 化け物が見えなくなったことに安堵した寿々だったが、スミが忌々しそうにいった。
 闇が晴れたことで、より一層スミは輝いて見える。神々しいとは、こういうことをいうのだろうなと寿々は思った。
 その美しい姿につい見惚れてしまいそうになったが、近くに富貴子が倒れていることに気がついてそちらに駆け寄った。

「富貴子ちゃん! 富貴子ちゃん、大丈夫?」

 富貴子の体はぞっとするほど冷たくなっていた。口元に手をやればかろうじて呼吸があるのはわかるが、硬く目は閉じられ、目覚めそうにない。

「その娘は、あれとの繋がりが強すぎる。じき目覚めるだろうが。あれとの約束を果たすために生み出されたのだろうが、哀れなことよ」

 スミは富貴子をじっと見て言った。口では哀れだと言ってはいるが、その目が冷たいことに気がついてしまった。まるで、先ほどの闇に対峙しているときのようだ。

「あの、それはどういう意味ですか? 約束を果たすために生み出されたって……」
「あれはあんな(なり)でも神は神。その神に贄を差し出すと約束して、己の願いを叶えた者がおるのだ」
「……それって富美さんが、自分の願いを叶えるために富貴子ちゃんを差し出す約束をしていたってことですか? そのために生み出されたってことは、お腹にいたときから……」

 スミの言葉に、寿々は血の気が引いていくのがわかった。恐ろしい事実が、彼の言葉で浮かび上がってきてしまったから。
 富美は、水守家に嫁ぐためにあの邪悪な神に願いをかけたのだろう。愛する男と一緒になるために邪魔だった、男の妻を排除するよう願ったのだろう。

「……罪が罪を呼び、この家はすっかり(よど)んでしまったな。——そこにいるのだろう? 愚かな水守家の現当主よ。ここへ来て、己の罪を告白せよ」

 スミが、どこかを睨みつけてから言った。すると、廊下の突き当りからそろりと、人影が現れるのが見えた。いつの間に潜んでいたのだろうか。
 揺らめくような足取りでスミの前に現れ、平伏するその男の姿を見て、寿々は悲しくなった。
 それは父だ。
 おそらく父は富貴子の悲鳴を聞いて部屋を出たくせに、彼女が錯乱している間も、寿々が闇に襲われているときも、何もせずただ息を潜めていたのだ。そのくせ、スミを恐れて今は、彼の前に姿を現した。

「水守家の本来の役目を忘れ、玉森の娘を害し、悪しきものを招き入れたこと、理解しておるのか?」
 
 冷たく尋ねるスミに、父は震えて伏しているだけだ。顔を上げて彼を直視する勇気が、恐らくないのだろう。

「スミさん……水守家の本来の役目って、何ですか? それに、玉森の家……母の実家というのは一体……」

 父が答えぬ代わりに、寿々は己で知りたいと思った。この家の娘でありながら、何も知らされずに生きてきた。この家の役割も、犯した罪も。

「水守家は、われの神域を守る役目を負う一族だ。家を守護し、富めるようにしてやる代わりに、われの力が衰えぬよう代々仕え続ける。われの神域——玉森の血筋に度々生まれ変わってくるわれの水の乙女を庇護する役目を負いながら、いつしか玉森の家よりも己たちが偉いと思い込むようになった。だから、己たちは繁華な土地に暮らし、玉森を僻地に追いやったのだ」

 スミの言葉には、冷たい棘があった。
 難しいことはわからないが、水守家がスミとの約束を反故(ほご)にし、彼の怒りを買っているのは理解できた。
 その怒りを一心に浴び、父は震えている。

「……た、玉森の家の者は、人としての生活に向かぬ者ばかり。それならばと、人里より奥の住みよい地で暮らせるよう勧めただけで、追いやる意図は……」
「人以外の声を聞くことができるから人ではないと? 人ではないから人扱いしなくても良いという考えか?」

 言い訳をしようとして、父はさらにスミの怒りを買った。射抜くように睨まれ、すくみ上がっている。
 その父の言い訳に対してスミが言った言葉を聞いて、寿々は唐突に理解した。

「……人ならざるものたちの声が聞こえたのって、玉森の……お母様の血筋の力だったのね。じゃあ、お母様も生き物たちの声を聞いていたのかしら?」

 思わぬ母との繋がりが判明して、寿々は嬉しくなった。母を亡くしてからずっと、寄る辺のない気持ちでいた。だから、少しでも自分の存在に結びつくものがあるとわかると、それだけで嬉しい。

「玉森の者なら、多少はな。だが、そなたのように強く力が発現することはない。そなたは特別なのだよ。われの水の乙女だから」
「水の、乙女……?」

 先ほどから、スミが〝水の乙女〟という言葉を口にするとき、とても優しい顔をするのに気がついた。(いと)しむような響きがこもるのを聞いて、それが彼が自分へ向ける愛の正体なのだと感じた。

「水の乙女とは、遥か昔、われが弱り切って消え入りそうだったときに、その身の内にわれを受け入れ、力を分けてくれた者のことだ。そなたにもわかる言葉でいえば、花嫁だな。水の乙女、わが花嫁——そなたは、われの妻の生まれ変わりだ」
「え……」 

 驚くと同時に、寿々は納得してもいた。
 なぜ彼が自分を慈しんでくれるのかを。なぜ彼をすんなり受け入れ、愛しく想うのかを。
 己の魂が遥か昔から彼に結びついているというのなら、すべて受け入れられる気がした。

「見つけるのが遅くなってすまなかった。……それもこれも、この男が自らの利益のために寿々を隠していたからだ」

 スミが鋭い視線を向けると、父は弾かれたように顔を上げた。

「違う! 俺は寿々を……玉森の家に生まれたからという理由で(にえ)にされる女たちを救いたかっただけだ!」
「ではなぜ虐げた? 美緒が死んでからいない者として扱ったくせに」
「それは富美がそうしろと……」
「結局は、邪なものに取り憑かれた女の言いなりになっていただけではないか。それで美緒を死なせ、家に邪悪を蔓延(はびこ)らせ、もうひとりの娘もこんなふうにして……最も、この娘は半分以上はお前の娘ではなく、あれと交じってできたようなものだろうがな」

 次々と罪を突きつけられ、ついに父は慟哭した。
 その声に意識を引き戻されたのか、寿々の傍らに横たわっていた富貴子が目を開けた。

「……あたし、お母様に利用されていたの?」

 今目覚めたと思ったが、どうやら違ったらしい。ずっとスミと父の会話を聞いていたようで、その衝撃に震えている。

「あたしがずっと化け物に狙われてたのは、お父様に愛されないのもは、お姉ちゃんとは全然違うのは、全部全部お母様のせいなの……!?」

 恐怖が、渇望が、不満が、今この瞬間一気にあふれ出したのだろう。
 富貴子は再び絶叫した。その聞く者の心が震えるような叫びに、寿々は泣きそうになった。
 この子が悪いわけではないのに。きっと背負わされた業に、性格が歪められてしまっただけだ。

「お母様……お母様!」
「あの女なら、もうここ邸にはいない。……神との約束を反故にしたのだ。返し(・・・)を恐れて、とっとと逃げ出したのだろう」
「そんな……」

 こんなときでも名を呼ぶのは己の母なのだなと、聞いていて寿々は哀れになった。
 おそらく富美も、縁談を慌てて探していたということは、富貴子を逃してやるつもりはあったのだろう。だから丸々愛情がなかったわけではないはずだ。
 だが、それを今この子に伝えたところで詮無いことは、寿々にはわかった。その代わりに、ギュッと抱きしめる。

「富貴子ちゃんは、お姉ちゃんが守ってあげる」

 目の前に苦しんでいる人がいるなら、救ってやりたい。それが血を分けた妹ならなおさらだ。
 利用されるだけで愛されず、捨てられてしまったと思いこんでいる富貴子に必要なのは、どこまでも堕ちていきそうなその手を握ってやる存在だ。
 この世のどこにも居場所がないなどとは、絶対に思わせてはならない。その一心で、泣き叫ぶ富貴子を抱きしめる。

「そなたに死ねと望んだ女を、抱きしめるのか」

 呆れるような、心配するような声でスミが言った。
 彼の言い分もわかる。普通ならばそうだろう。
 だが、これが己の性分なのだ。きっと、遥か昔にスミを受け入れた水の乙女も、こんな心持ちだったに違いない。

「手の届く距離に助けを求める人がいるなら、救ってあげたいんです」
「……そなたはいつでも、そう言うのだな」

 スミは切なそうに目を細めて言ってから、静かに一度手を打った。
 すると、清らかな風とともに一瞬、邸の中に水が満ちた。それが過ぎ去ったのち、あたりにあった禍々しさの名残りはすっかりなくなった。
 荒れ狂っていた富貴子も、寿々の腕の中で安らかな寝息を立てている。

「水守家の当主よ」

 平伏していた父に、スミが呼びかける。禍々しさが去ると同時に落ち着きを取り戻したのか、父はその呼びかけに素直に従い、顔を上げた。

「寿々はわれの子を孕んでおる。つまりは、われの正式な花嫁だ」
「……!」

 その言葉に驚いたのは父だけではない。当然、寿々もだ。
 だが、寿々は驚きののちに、すべてを理解した。
 夢の中で初めて出会ったときに、珠を預かったこと。あれこそが、スミの子だったのだと。そして、それがすべての始まりだったと。

「わが妻、寿々が許すのなら、またこの家を守ってやってもいい」

 スミが言うと、父は驚いたように寿々を見て、それから頭を下げた。
 そうして親に頭を下げられるのは悲しい気持ちになるが、だからといって憎いとか嫌だとか、そんな気持ちでは片づけられない。それに、簡単に切り捨てられもしない。
 だから、寿々は頷いた。

「スミさん、この家を守ってください。私の家族を、どうか守って」
「わかった。——では、時満れば迎えに来よう」

 空が白んでいき、朝が来たのがわかった。
 長い夜が明けたのだ。
 世界が明るくなるにつれて、そこにあったスミの姿が薄くなっているのがわかった。
 朝靄(あさもや)にかすんでいくように、見えなくなっていく。
 それが寂しくて、寿々はつい手を伸ばした。

「スミさん」
「……またすぐに、夢で逢おう。われらの魂は、同じ場所にある」

 消え入る直前に、スミが愛しげに寿々の髪を撫でた。それだけで、寿々の胸の中は温かな気持ちで満たされる。


***

「お姉ちゃん、ここはどうしたらいいの? 難しいわ」

 よく晴れた春の陽射しが注ぐ縁側で、富貴子は針と布を手に唇を尖らせていた。その手元を覗き込み、寿々は笑う。

「そこはね、針を半分だけ出して、布の向きを変えるの。そうすれば、縫い目を表に見えないようにできるから」
「んー、できないわ」
「見ててね」

 富貴子から針と布を受け取ると、寿々は目の前でやってみせた。これまで針仕事とは無縁で生きてきた彼女だが、これからは身につけておいたほうがいいだろうから。
 大事なことは何ひとつ身につけさせなかった上、いなくなってしまった富美に代わって、寿々は今、富貴子に教育を施している。
 今後どこに嫁ぐにしても、婿を取るにしても、自分の身の回りの世話はひと通りできたほうがいいはずだから。

「どうしよう……あたし、お姉ちゃんみたいにちゃんとできるようになる気がしない」
「大丈夫よ。練習よ、練習。お針ができれば、自分で着物を縫うこともできるのよ? 富貴子ちゃん、おめかし好きでしょ?」
「えー。自分で縫うのは嫌」

 わがままばかり言う富貴子に、寿々は笑った。呆れ半分、可愛さ半分だ。
 寿々は今、富貴子から譲られた上等な着物を身に着けている。似たげな雰囲気の華やかな着物を着て並ぶ姿は、まさに姉妹そのものだ。
 顔立ちは似ていなくても、やはり血を分けた二人だからまとう雰囲気は似ている。
 それに、憑き物が落ちた今、富貴子は可愛らしい妹になっている。
 これまで荒れた性格をしていたのは、あの邪なものの影響を受けていたかららしい。そして、時折寿々の姿が見えなかったのも、悪しきものから守るという、亡き母が遺したお守りの効力ゆえのことだったのだ。
 今はお守りをつけていても、富貴子が寿々を見失うことはない。

「お姉ちゃんはいいなー。神様のところに嫁ぐから、お針なんてしなくてもいいんでしょー?」

 針仕事の練習に飽きてしまった富貴子は、そんなことを言って寿々の肩にしなだれかかる。これが彼女なりの甘え方だとわかっているから、寿々もそのままさせておく。

「それはどうかわからないけれど、嫁ぐ前に富貴子ちゃんには、お針もお料理も、ひと通り仕込むわよ。富貴子ちゃんが困らないようにね」
「……はぁい」

 もっと早くにこのような時間が取れればよかったなと、寿々は後悔した。傷つくことを恐れて深く関わることを避けてしまっていたが、もっと早くにこの子を抱きしめていれば、もっと早くに苦しみから解き放ってやれていたのではと思う。
 だが、後悔したところで仕方がないから、これからを精一杯過ごすのだ。

「お二人とも、お茶が入りましたよ。休憩にしませんか」

 盆を手に、菊代がやってきた。悪しきものが去ったあと、彼女はすっかり元気になっている。そして、富貴子の良き指導係をしてくれている。

「やったー」
「休憩が終わったら、富貴子お嬢様はお料理の練習ですよ。野菜の皮むきくらいを習得していただきます」
「えー」

 菊代は寿々のように甘くはないから、なかなかいい先生をやれているようだ。その姿を見て、寿々は安心する。

(私がいなくなってからも、きっと大丈夫ね)

 寂しさを覚えつつも、スミのもとへ嫁ぐ日がやはり待ち遠しかった。
 夢では会えるが、やはり起きているときに会いたい。始終離れがたく想うのは、魂が結びついているからだろうか。


 これは、水神様と水の乙女の物語だ。
 何度生まれ変わっても巡り合い、巡り合うたび恋をする、悠久に続く恋人たちの物語。