水を張った盥に着物をつけてジャブジャブと洗いながら、寿々は軽く目眩を覚えた。
あの不思議な夢を見てからというもの、少し体調が悪い気がする。
夢自体は決して嫌なものではなく、むしろ不思議な心地よさすらあったのに。
冷たい水に手をつけたから体がびっくりしてしまったのだろうかと思い、感覚を取り戻そうと拳を開いたり閉じたりしてみた。特に異常はなさそうで、やはり単に疲れているだけかもしれないと考える。
「寿々さん、お手伝いします」
邸の掃除が済んだのか、菊代がそっとそばに来てくれた。だが、洗濯は寿々が頼まれたことだ。手伝うことによって彼女が咎められないか、それが心配になる。
「いいのよ。季節終わりの着物を洗って伸子張りするのは、いつものことだもの」
着物はほどいて反物にしてから洗い、端と端を伸子と呼ばれる竹の棒で挟んでからピンと張り、皺を伸ばしてから乾かす。この作業は季節の変わり目に行われ、衣装持ちの水守家では大仕事となっている。
その大変な仕事だからこそ、富美も富貴子も嬉々として寿々に任せているのかもしれない。そう考えると少し悲しい気持ちになるが、洗濯も針仕事も嫌いではないから、そこまで憂鬱にはならない。
「私も洗ってしまいたいものがあったから、ついでです。さあ、お日様が高く昇る前に終わらせてしまいましょう」
「……ありがとう」
せっかくの親切を無下にするわけにはいかないし、手伝ってもらえるのはありがたかった。
だから寿々は洗うのを受け持ち、伸子張りを菊代にやってもらうことにする。
水の冷たさもやらなければならないことの大変さも変わらないが、誰かが一緒にやってくれると心強い。寿々は先ほどよりも調子を上げて、ジャブジャブと力強く反物に向き合った。
だが、気合いを入れてもやはり、落ちない汚れもある。
「あー……それ、落ちませんか」
動きを止めた寿々の手元を見て、菊代が声をかけた。その鮮やかな花柄の反物には、べったりと茶色のシミがついてしまっている。
「やっぱり、だめみたい。一応、洗う前にシミ抜きはしてみたのだけれど」
「それ、洋食屋さんでついてしまったと言ってましたものね。お醤油のシミも手強いですけれど、カツレツのソースなんてなおのことでしょう」
「富貴子ちゃん、この着物気に入っていたのにね」
落ちないとわかると、寿々は落胆した。去年の秋にも咖喱をつけて汚してしまったことがあったが、それはお日様に当てることで消し去れたのだ。だからこのソースのシミもきれいにしてやれたらと思ったのだが、そう簡単にはいかなかった。
「でも、よかったじゃありませんか。またいつものように『きれいにならなかったら、お姉ちゃんにあげるわ』とおっしゃったのでしょう?」
「それはそうだけれど……ただのあの子なりの気遣いで、本当はお気に入りの着物なんだと思うのよ」
「寿々さんは真面目なんですから」
もらってしまえばいいのにと菊代は軽い調子で言うが、寿々は何となく気が引けた。
富貴子は確かにしょっちゅう新しく着物を仕立ててもらうが、そのどれも蔑ろにしたことはないように思う。おそらく、彼女なりにそれらの着物を、親からの愛情だと受け止めているのだろう。
いつも目の奥に寂しさを抱える異母妹が、きれいに着飾ったときだけ本当に嬉しそうにしているのを見て、寿々なりに感じていることである。
だから、彼女が着物を大事にする気持ちを寿々も大事にしてやりたいのだ。
それに、この着物を汚して帰ってきた日にどうも富美にきつく叱られてしまったようで、しょんぼりしていたのが気にかかる。
「とりあえず洗ったから、干してみようかしら。もしかしたら乾いたら、シミが薄くなるかもしれないしね」
あまり強く擦り続けても生地が傷んでしまうだろうと、ほどほどのところで水から上げた。そして、菊代と協力して反物を伸ばし、竿に干していく。
春の青空の下、洗い上がった色とりどりの反物が並ぶその光景は壮観だ。
それらを見て達成感を覚えたところで、寿々はふらりと足元から崩れるような心地がした。
「寿々さん……!」
「……ごめんなさい。少し目眩が」
倒れる前に、菊代が体を支えてくれた。ひとりでいたならば転倒して、もしかしたら怪我をしていたかもしれない。
「大丈夫ですか?」
「ええ。ここのところちょっと、寝つきが悪いというか不思議な夢を見て、起きると疲れてしまっているのよ」
何となく、無意識でお腹のあたりをさすってしまう。そこには何もないはずなのに、あの夢のせいかあるような気がしてしまっているのだ。
「夢、ですか。確か富貴子お嬢様も夢見が悪いとおっしゃっていましたが」
「そう言っていたわね。でも、私の場合は厭な夢や恐ろしい夢ではないのよ。むしろ、幸せな夢かもしれないわ」
心配そうにする菊代に、寿々はここのところ見る夢の内容をかいつまんで話してみた。
あの日以来、夢にスミという男性が出てくること。その男性は美しく、とても優しくしてくれること。
珠を預かったことや彼が昔の高貴な人のような装束を着ていることは伏せたが、彼と夢の中で過ごす時間が幸せであるのは伝えた。
「まあ……素敵ですね。もしかしたら、まだ見ぬ寿々さんの運命の人なのかも!」
菊代は寿々の話を聞いて、少女のようにはしゃいだ。彼女も二十歳の乙女で、恋人がいても結婚していてもおかしくない年齢だ。この手の話題はやはり好きなのだろう。
「どうかしら……妹の縁談に影響されて、憧れが見せたただの願望だと思うわ」
「そうでしょうか……でも、昔の人は夢に誰かが出てくるときは、その相手が自分を想っているからだと考えていたそうですよ。だから、もしかしたら寿々さんを想っている殿方がいるのかも」
菊代は言いながら楽しくなってしまったのか、ニンマリとしていた。彼女が楽しそうにしてくれたのなら話題を提供したかいがあったと思ったが、はしゃぐ彼女とは対象的に、寿々の血の気は引いたままだった。
「……いけない! 寿々さん、休みましょうね」
「そうね。お茶を一杯いただけたら、気分が良くなりそうな気がするわ」
菊代に支えられ、寿々は厨を目指す。体が冷えたのがいけないのかと思ったが、どうにもそれだけでは片づけられない倦怠感がある。
厨では昼餉の支度をしているのか、食べ物が煮える匂いがあたりに漂っていた。いつもならいい匂いだと食欲を刺激されるのだが、今日は胃の腑のあたりが急に気持ち悪くなり、せり上がってくるものをこらえるために慌てて口元を覆った。
「嫌だわ……! 寿々さん、大丈夫?」
「……ええ。何だか突然、胃がムカムカしてしまって」
「大変! もしかして、朝食の何かに中ったのかしら」
これ以上は歩けないと判断し、落ち着くために一旦、離れの廊下に腰を下ろした。
菊代に背中をさすられるうちにいくらか気分は良くなってきたが、それでも匂いを嗅ぐとやはりまだだめそうだった。
「少し待っていてください。今、お水を取ってきますから」
「……すみません」
厨へ行ってお茶を飲んで休憩などと悠長なことは言っていられない。菊代の言葉に甘え、彼女が戻ってくるのを待つことにした。
手巾を懐から取り出し、それで口元を覆うといくらか楽になった気がする。だが、突然の体調不良に戸惑っていた。
(あの人は、悪い感じはしないのだけれど……)
夢で逢うスミという不思議な人が関係しているのかと考えるが、彼を悪く思いたくはなかった。
なぜなら、彼は久々に知り合う優しい他人だ。今、この世界で心底寿々に親切にしてくれるのは菊代くらいのもので、彼女以外に初めての存在だといえる。
だから、彼に遭ったから気分が悪くなっているとは考えたくなかった。
「寿々さん、ほらどうぞ」
「ありがとう……冷たくておいしい」
待っていると菊代が戻ってきて、彼女が湯呑みで持ってきてくれた水を呑むと熱を持っていた喉が落ち着いた。吐くのをこらえたとき、胃液で喉が傷んでいたらしい。
ゆっくり湯呑みを空け、菊代に背中をさすってもらううちに、吐き気はすっかり収まった。これなら、また昼からの仕事はこなせるだろうかと考えていると、背後に険しい気配を感じた。
「あんたたち、一体何をしているの?」
「お、奥様……!」
振り返るとそこには、富美がいた。藤色の地に白の木蓮が描かれた春らしい着物を身につけた彼女はあでやかだが、その顔に浮かぶ表情は険しい。
「寿々さんが目眩を起こして倒れそうだったので、ここで少し休んでおりました。あの、洗濯はもう済んでおりますので……」
菊代が怯えながらも状況を説明すると、珍しく富美はじっと寿々を見た。いつもなら問答無用で怒鳴るか、興味などないといったふうに立ち去るものなのに。
「ずいぶん顔色が悪いじゃないか」
「はい。……少し、吐き気もしておりましたので」
「……あんたまさか、お腹に子でもできたんじゃないだろうね?」
ギロリと睨まれ、寿々は慌てて首を振った。そんなはずがあるはずがない。男性と付き合ったことはおろか、出会う機会すらないのだから。
外で私用で出かける暇すらないと富美も知っているはずなのだが、彼女はまるで汚らしいものでも見るかのような視線を寿々に向けていた。
「どうだろうね。あんたも母親に似て、薄汚い女だから。子供作って、どっかの男のところへ転がり込もうって考えてるんじゃないの?」
「そんな……」
二重の意味で否定しようとしたが、富美は寿々の言葉など聞いていなかった。忌々しそうに顔を背けると、本来の目的だったのか厨へ歩いていってしまった。おそらく、どこかへ出かけるから昼食はいらないと言いに行ったのだろう。
用を済ませて戻ってくると、彼女は今度は一瞥もくれずに本邸へと戻っていった。
(お母様はきちんと夫婦になってから私を授かったのに、なぜあんな言われ方をしなければいけないの……)
富美が去ったあとも母を侮辱された怒りが収まらず、寿々は静かに震えていた。子供を作って男のもとへ転がり込んだというのは、そのまま自身のことではないかと思ってしまう。
だが、富美の中で彼女自身は、妻子ある男性の家庭に入り込んだなどという意識はない。むしろ、長らく水守家に居座って自分の恋路を邪魔したと寿々の母に対して思っているようだった。
「奥様、荒れてらっしゃいますね。……富貴子お嬢様の縁談が、少しもうまくいかないからでしょうか?」
何も言葉を発しなくなった寿々を気遣うように、菊代が言った。その言葉には、どこか富美を咎めるふうがある。
それについては、寿々も同じだった。
「富貴子ちゃんはまだ十五歳なのに、どうしてそんなに急いで婿探しをするのかしら」
「わかりませんけれど、まるで何かに怯えて逃げる先を探すように、縁談をしているようです。奥様が最近熱心に神社だかお寺だかに足を運んでいるのと、何か関係があるのかもしれませんが」
菊代は本邸へ掃除のためなどに出入りしているから、寿々の知らないことまで知っている。あの富美が信心というのは何となく疑わしい気持ちになるが、悪人ほど救済を求めるというものなのかもしれない。
「何にせよ、心配ね。……富貴子ちゃんが追い詰められなきゃいいけれど」
淋しげな目をした富貴子の顔が頭をよぎり、寿々は心配になった。苛烈さでいえば、富貴子は富美に負ける。というより、富貴子は富美にはあまりわがままを言えないようだ。
きつい性格のあの子が、どこか痛々しいほどに必死に母親に気に入られようとする姿を思うと、姉としてやはり心配になる。
心配するだけで、してやれることはきっとないのだが。
「人の心配より、自分の心配ですよ。少しお部屋で休んでいてください。あとで小さめのおにぎりでも運びますから」
「……ありがとう」
菊代の勧めに従って、寿々は自室へと引き上げた。気分の悪さだけでなく、猛烈な眠気にも襲われ始めたのだ。
もしかしたら体が休もうとしているのかもしれない。それなら、その意思に応じるべきだろう。
「……あれは、蛇?」
廊下を歩いていると、視界の端を何か黒いものが横切るのが見えた。裏庭を、黒い紐状のものが進んでいく。
スミの遣いの小蛇だろうかと思ったが、一瞬感じた怖気立つような雰囲気に、すぐに違うだろうと結論づけた。あの白い小蛇は、スミがまとう清浄な空気に似て、清らかだったから。
「もう、だめ……」
ようやく部屋にたどり着くと、寿々は床に脱力すると同時に意識を手放した。
その直後、真っ白になった視界の向こうから、優しく名を呼ぶ声が聞こえてきた。
『寿々』
穏やかな声が呼んでいる。
スミの声だ、と思った瞬間、霧が晴れて彼の姿が現れる。
彼の姿が見えるようになるのと一緒に、今立っている場所の景色も見えてくる。ここは、手入れの行き届いた美しい庭だ。瑞々しい植物と水の気配がする。
『寿々、元気がないのか?』
近づいてきたスミが、身を屈めて顔を覗き込んできた。そうすると、筆で刷いたような美しい黒髪がはらりと揺れる。
古めかしい着物も、涼やかに整った顔立ちも、艶めく長い黒髪も、どこか作りごとめいている。だからやはり、この人は夢の中の人物なのだろうなと思う。こんなに美しい人が、現実にいるわけなどないのだから。
「少し目眩と吐き気がして、とても眠かったんです」
でも大丈夫と続けようとすると、スミが寿々の体をそっと抱き寄せた。不慣れなことに心臓が子鼠のように元気に飛び跳ねたが、決して嫌ではなかったから、寿々はされるがままになっていた。
夢の中で、いつもスミはそうだ。まるで寿々の恋人のように振る舞う。
『馴染まないうちは、体に負担をかけてしまうのだな。——力を貸してやろう』
「ん……」
彼の顔が近づいてきて、あっと思った瞬間には口づけられていた。重ね合わせた唇から、彼の体温が伝わってくる。
それは初めての体験で、寿々の胸をさらに高鳴らせた。若い娘がこんなことをしてはいけないと、頭のどこかで警鐘が鳴る。
だが、夢の中だから大胆になっているのか、寿々は自分の心に素直になっていた。唇が触れ合ったときに、はっきりとわかってしまったのだ。この人が好きだ、と。
溶け合うように深い口づけを続けるうちに、寿々は体に温かなものが満ちていくのを感じる。これがスミの言った〝力〟なのだと、頭で理解するより先にわかった。
『これで、少しは楽になったはずだが』
「ありがとう。もうちっとも怠くありません」
唇を離し、スミが覗き込んでくる。水を湛えたような不思議な色の目が、優しく細められて寿々を見つめていた。
この人を好きだと思うし、この人もまた自分を好いてくれているのだと、なぜだかわかる。夢の中だからとことん自分に都合がよくできているのだろうなと思うと、その事実を疑問もなく受け止められた。
『われはいつでも、そなたのことを想っているよ』
優しく慈しむように、スミが寿々の髪に触れてくる。恋人に甘えるのならこうするのだろうなと、寿々は彼の胸に頬を寄せた。
孤独が見せる幻なのだとしても、寿々はスミが好きなのだ。そして彼の存在は、寿々の支えになっている。
『暫しの辛抱だ。時が満ちれば、そなたのそばへ行ける』
スミが名残惜しそうに寿々の髪に口づけてから、再びあたりは霧に包まれ始めた。目覚めが近いのがわかる。
「寿々さん」
体をそっと揺り動かされ、意識が覚醒した。目を開けると、見慣れた顔が覗いていた。
「菊代さん……ごめんなさい。寝てしまっていて」
「少し寝たのがよかったみたいですね。お顔に血の気が戻ってよかった」
気がつくと自分の部屋で、外は明るくて、寿々は自分が昼間に気分が悪くなって眠っていたのだと思い出した。そして、長いこと眠っていた気になっていたが、菊代の様子からまだそこまで時間が経っていないことがわかる。
「約束通り、おにぎりを持ってきましたよ。食べられそうですか?」
「いただきます」
吐き気がしていたのが嘘のように、体が食べ物を欲していた。程よい塩気のおにぎりと、皿に添えられた漬物が嬉しい。一緒に運んできてもらった温かなお茶を飲むと、もうすっかり元気になった気がした。
「おかげさまで、お昼からも元気に働けそうよ」
体に活力が満ちてくると、眠る前は心も弱っていたのがわかる。だが、夢でスミに会えたことと菊代の気遣いによって、すっかり元気になった。
「それはよかったです。じゃあ、いろいろ片づけてしまいましょうね。洗濯したものが乾いたら、次は針仕事ですから」
「ええ、そうね」
その日、寿々は暗くなるまでよく働き、夜は夢も見ないほどぐっすり眠った。
スミに会えないのは残念だったが、そのぶん体は休まった気がする。何より、ここのところ悩まされていた異様な疲れや怠さがなくなり、力がみなぎっているようにも感じられた。
その力の源を意識して辿ると、何となく腹の中心のように思えた。それに気づいたときに、もしかしたらあの珠が体に馴染んだのだろうか——と思い至った。
スミとは夢でしか会えないし、毎日必ず会えるわけではないものの、きっと何かの縁で結ばれているのだろうと、寿々は不思議な気持ちでその事実を受け止めていた。
そう考えることで、つらいことも多い日々を何とか楽しく過ごしている。
だが、その一方で菊代が塞ぎ込んでいることに気がついた。
「菊代さん、何かあったの?」
ある日、朝から菊代が真っ青な顔をしているのに気がついて寿々は声をかけた。仕事は真面目に取り組んではいるが、いつものように潑剌とした様子がないし、手が空くと何かを探しているような、そんな素振りを見せる。
きっと人前では話さないだろうと思い、彼女が裏庭のほうにひとりで向かったのを見て、寿々は声をかけた。誰かがついてきていたのにも気づかないほど憔悴しきっていた彼女は一瞬驚いた顔をしたが、周りに誰もいないのを確認して口を開いた。
「実は……母の形見の櫛がなくなってしまって」
そう言うと、菊代は目を潤ませた。理由を聞けば、彼女が目元を赤くしていたのにも納得がいく。
菊代は、うんと小さいときに水守家にやってきたのだという。身寄りもなく、お腹を空かせていた彼女を気の毒に思い、まだ子供のいなかった寿々の父母が引き取ったらしい。
そのとき、唯一持っていたのがその櫛で、彼女がずっとそれを大切に持ち続けていたことを寿々は知っている。というのも、その櫛を入れていたきれいな小袋は、寿々の母の美緒が着物の端切れで作ってくれたものだということで、以前菊代が見せてくれたのだ。
親の顔も知らない菊代と、早くに母を亡くした寿々は、お互いの寂しさや悲しさを重ね合わせて生きてきた。菊代のほうが二歳上だから、美緒について覚えていることも多かった。
寿々の中にある母の記憶は、菊代から聞かせてもらったものがほとんどかもしれない。幼いときに亡くして失っていく一方だった母との思い出は、菊代の口から語られることで守られていられる。
だが、彼女にはそうして思い出す親の記憶がないのだ。唯一あるのが、拾われたときに持っていたという櫛だけ。
その櫛をなくした彼女の痛みがわからから、寿々も苦しくなった。
「菊代さん、いつ頃、どこでなくしてしまったのかわかる?」
「え?」
「一緒に探したいと思って。菊代さんがあの櫛を大切にしていたのを知っているから、知らんぷりはできないわ」
「えっと……」
よかれと思って申し出たのだが、なぜだか菊代の目が泳いだ。今の発言に動揺するような要素はあったかと、寿々は訝る。
「……余計なお節介だったかしら?」
「いえ、そうではなくて……もしかしたら、もうないのかもしれないと思って……」
言いながら、菊代の声はか細くなっていった。寿々に事実を伝えながらも、それを認めたくないと思っているのだろう。
その悲痛さの理由がわからず、気の毒になった。
「手分けをして探せば、見つかるかもしれないわ」
「違うんです……なくなったのではなく、盗まれてもう捨てられているのではないかと思って……」
そう言ってから、菊代はわっと泣き出した。堪えていたものが、堰を切ってあふれ出してしまったのだろう。
これまで富美や富貴子につらく当たられても、折り合いの悪い使用人がいても、こんなふうに泣くことなどなかった人だ。そんな彼女がこうして泣くのには理由があるのだろうと、寿々は考えた。
「もしかしてだけれど……盗まれたというのには、確証があるのね?」
背中をさすり、なだめながら尋ねると、菊代は弱々しく頷いた。そして十二分にためらってから、恐る恐るといった様子で口を開く。
「昨日、富貴子お嬢様に聞かれたんです。『お前の一番大事なものは何?』と」
「それで、形見の櫛だと答えてしまったのね?」
菊代は頷きながらまた涙をこぼした。後悔しているのがよく伝わってくる。子供のように頼りなく泣くその姿は、見ていてあまりにも胸が痛んだ。
だが、菊代の言葉を疑うわけではないが、富貴子の行動には疑問を持った。
苛烈な性格だし、残虐性も持っている。しかし、そんな彼女にしては回りくどいやり方のように思えたのだ。
あの子が菊代を傷つけて楽しもうと考えたのなら、櫛を自ら差し出させ、それを目の前で壊すくらいのことはするだろう。
隠れてコソコソ盗み出すことも、それをわからないように捨てることも、日頃の富貴子の振る舞いからは外れているように感じる。
だが、それを菊代に伝えたところで詮無いことだ。
「あの子がどこかにやってしまったのかもしれないけれど、まだ捨てられたかどうかはわからないわ。どうか気を落とさないで、ね?」
励ましてはみたものの、それが少しも菊代の慰めにはならないのはわかっていた。寿々だって、母からもらった何かをなくしたとしたら、落ち込むだけでは済まないだろう。
ましてや、富貴子のような意地悪な人間に大事なものだと知られてしまっているのだ。盗られたり捨てられたりしたかもしれないと思えば、気を落とすどころか心が傷つき、不安になるに違いない。
だから、無意味だとわかっていても慰めずにはいられないのだ。
「落ち着くまで、少しお部屋で休んだらいいわ」
「でも……」
「お茶と、目元を冷やすためのものを持っていくから」
泣いているのを誰かに見られれば、その理由を尋ねられるだろう。櫛をなくしたことも、それに富貴子が関わっているのとも、人には話しにくい。それならば見られないようにするのが懸命だと、寿々は菊代を部屋へと促した。
渋々ではあるものの彼女が自室へ向かうのを見て、寿々も厨へ向かった。温かなお茶を淹れて、それと一緒に水で濡らした手ぬぐいを持っていってやるために。
気持ちがそぞろになっていても自分の持ち場の仕事は終わらせていたようで、菊代の不在は誰にも咎められなかった。だが、誰の目にも様子がおかしいのはあきらかだったから、心配された。
「菊代さん、お嬢様にずいぶん酷く当たられていたようで……『怖い思いをしたくないなら、あんたの大事なものを教えなさい』なんて、脅すみたいなことを言われていたんですよ」
まだここで働き始めて日の浅い年若い少女が、声を潜めていった。菊代が面倒を見ているから懐いているようだ。情報提供はありがたいが、口の軽さが気になる。
「教えてくれてありがとう。でも……あまりそれを人に話してはだめよ? あなたが富貴子ちゃんのことを悪く思っていると思われたら困るでしょう?」
心配して言ったのだが、少女は目に見えて怯えた顔になる。この様子なら、もう十分富貴子の苛烈さは理解しているのだろう。それでも、この子が標的にならないように言っておく必要があった。
本来なら、寿々が使用人たちを守ってやるべきなのだろう。だが、自身も虐げられているため、そんな力も権限もない。だからこそ、こうして裏で気にかけてやるしかないのだ。
お茶と冷たく絞った手ぬぐいを用意して厨を出ると、離れへ続く廊下が何だか暗かった。曇って日が陰ったかと思ったが、どうもそういうわけではなさそうだ。
廊下にだけ、黒い靄が薄くかかったかのように見える。心なしか気温が低く感じられて、ほんの一瞬、寿々は足が竦んだ。
何となく、これ以上先へは進みたくない気がする——そんな忌避感を覚えながらも足を進めると、不気味な声が耳に届いた。
『……どこだ……見えぬ……においはこちらか……』
それは、何かを擦り合わせるような不快な声だった。水の向こうから響いてくるような独特の聞こえ方から、これが人間ではない生き物の声だというのもわかる。
人間ではない得体のしれないものが、何かか誰かを探して離れに近づいているのだ。
それがわかった途端、寿々は血の気が引いた。怖さを振り切って菊代の部屋へ駆けると、足元をサッと避けていくものがあった。
(……私のことを、避けてる?)
寿々が走ると、廊下の黒い薄靄が晴れていくのだ。
そして菊代の部屋の前までたどり着くと、黒いものがいくつも逃げ去るように散ったのを見た。
まるで紐状の蛇のようなものに見え、寿々はゾッとした。
それが一体何なのかは、わからない。だが、何か悪いものが水守家に忍び寄っているのは感じ取っていた。
あれから夜になっても菊代の体調は戻らず、気落ちしたままだった。おそらく、櫛をなくして塞ぎ込んでいるのだけが理由ではない。離れの廊下を覆っていた黒い靄や、寿々を避けていった怪しげな黒いものたちの影響もあるに違いない。
菊代にはよく休むよう言い聞かせ、他の使用人たちにも事情を説明しておいた。万が一明日も調子が悪くても、何とか分担して仕事を回すことができるだろう。
だが、それでは問題の解決にはならない。櫛の行方がはっきりしない限り、菊代はずっと気に病むだろう。
だから、早く元気になってもらうためにも、櫛を見つけてやりたかった。
そのために頼れる相手は現実世界におらず、寿々は祈るような気持ちで眠りについた。
今夜はスミに会えますように、と。いつも優しくしてくれる彼なら、寿々の力になってくれるかもしれないと思って。
その祈りが通じたのか、眠りに落ちると真っ白な霧がかかっていた。彼がいる場所だとわかり、嬉しくなる。
「スミさん」
『寿々か』
名前を呼ぶと霧が晴れ、その向こうから彼が現れる。相変わらず美しく、神秘的な姿をしている。
彼の穏やかな顔を見たら沈んでいた気持ちが少し元気になったが、すぐに問題を思い出した。
『寿々、何か心配ごとがあるのか?』
そっと寿々の眉間の皺を撫で、スミが尋ねてきた。不思議な存在の彼は、やはり寿々のことにすぐ気がついてくれた。
「それが……私の友人が大切なものをなくしてしまい、そのせいで体調を崩してしまったのです」
『だから、寿々も元気がないのだな。友人のことをそれだけ大切に思っているのか』
「はい。……友人と言いましたが、私にとっては姉のような人なのです」
スミなら寿々の気持ちをわかってくれそうな気がして、菊代のことを話した。
寿々にとってどれだけ菊代が大切なのかということも、彼女の失くしものを見つけてあげたいという気持ちも、他の誰かに話してもきっと理解されないだろう。
水守家でのつらい境遇の中であっても生きてこられたのは、菊代の存在があったからだ。
『そうか。その人がつらいと、寿々もつらいのだな』
「そうです。早く元気になってほしいですし、何よりずっと悲しい気持ちのままでいさせたくないので」
『そなたは、やはり清い水のように心地よい乙女だな。そなたの憂いをはらってやるのも、われの務め。——どれ、見てやろう』
スミは慰めるように寿々の髪を撫でてから、おもむろに袖口から何かを取り出した。丸い、金属を磨いた板のように見える。
「それは、何ですか?」
『鏡だよ。これで失せ物の行方を見てやろう。失せ物探しはわれの特技だ』
そう言って、スミは手元の鏡を覗き込んでいる。
隣で寿々も覗き込んでみるが、そこに何かを見出すことはできない。ただ、よく磨かれた金属の表面が輝き、薄く自分とスミの姿が映っているのが見えるだけだ。
だが、彼の目には何かが見えているらしい。じっと見つめる彼は、徐々に難しい顔をするようになっていった。
『その櫛はもしかしたら、身代わりに差し出されたのかもしれぬな』
「え? 身代わりって……?」
彼の口から出た不穏な言葉に、胸がざわりとする。やはり何かよくないことが起きているのだということは、理解できてしまった。
『これは、一筋縄では取り戻すことはできないだろう。だが、取り戻さねば持ち主も危ない』
「え……」
不吉な予言めいた言葉に、寿々はますます不安になる。その不安を感じ取ったのか、スミは鏡をしまって、そっと抱きしめてくれた。
『そなたの近くに、良からぬものと縁を結んだ者がおる。その影響だな』
「良からぬもの……」
『恐れるな。こういったものと向き合うとき、恐れの心が何よりまずい。それに、寿々はわれと縁づいておる。われとの縁が、そなたを必ず守るだろう』
結ばれた縁を強めるかのように、スミは寿々に口づけた。触れ合った場所から、力がみなぎってくるようだ。
彼の纏う澄んだ空気に似た何かが体に入り込んでくるのを感じる。それが体を満たすにつれて、先ほどまで胸を占めていた不安や恐れが、霧が晴れるように消え去っていくのがわかる。
それとは反対に、視界は白くなっていく。目覚めの時間だ。
「……菊代さん」
恐れも不安もなくなって爽やかな目覚めだと思いたかったが、覚醒するとすぐに、菊代の問題を思い出した。
スミの言葉を信じるならば、今彼女は非常に危険な状態にあると言えるだろう。
明かり窓からはまだ光が射さず、外が暗いのがわかる。もしかしたらまだ目覚めていないかもしれないが、起きてくるまで待ってもいいのだろうかと寿々は躊躇った。
昨日体調が悪かったのだ。無事に起きられたかどうか確かめに来たと言えば問題ないと考え、ひとまず着替えて部屋を出た。
今日は天気が悪いのか、部屋の外に出ても暗い。それに、どことなく湿って淀んだ空気が満ちているようで、気がつくと鳥肌が立っていた。
あのときと同じだ。菊代の様子を見に行こうと廊下を進むとき、厭な気配を感じて怖気がした。
だが、昨日と違うのは、今このあたりに満ちているものは少しも寿々に干渉できないということだ。避けたり霧散したりする間もなく、寿々が進めば禍々しい気配がなくなる。
まるで清浄な水の膜でも纏って歩いているようだと気がついて、その意味がわかった。
(これが、スミさんの言っていたものなのね)
彼は、自分との縁が寿々を守ると言っていた。その言葉の通り、禍々しい気配から守ってくれているようだ。
その事実に勇気づけられた寿々は、菊代の部屋に向かった。また昨日の黒い蛇のようなものがいたらどうしようかと思ったが、いなかった。寿々の纏う清浄な気配に、逃げ出しただけかもしれないが。
「菊代さん、入るわね」
そっと襖越しに声をかけると、ひゅっと息を呑むのが聞こえた。怖がらせてはいけないと思い、急ぎ襖を開けて顔を見せる。
菊代は、布団の上に体を起こしていた。無事に目覚められたのだとほっとしたかったものの、掛け布団を頭から被ってこちらの様子を伺っているのは、尋常ではない。
ひと目で、何かあったのだとわかった。
「どうしたの、菊代さん……寒気がするの?」
違うとわかっていても、何と声をかけたらいいのかわからなかった。震えてはいるが、おそらく寒いからではないのだろう。
昨日よりさらに血の気の引いた顔で、目を潤ませ、菊代は震えていた。消沈しているのではなく、あきらかに何かに怯えている。
「……お、お……恐ろしい夢を、見てしまって……」
「それで、眠れなかったのね……」
「私……きっともうすぐ、化け物に捕まって食べられてしまうのだわ……!」
なだめようとする寿々を振り切り、菊代は悲鳴のように言ってから被った布団の前をかき合わせた。そうしなければまるで、その〝化け物〟とやらに見つかってしまうとでもいうように。
昨日とは違い、はっきりと何かに怯えている。昨日は櫛が失われたことと、それに関連して何か漠然とした不安を感じている様子だったのに。
「菊代さん、落ち着いて。夢の中に、化け物が出てきたの?」
これ以上怯えさせたいわけではないが、話を聞かなければ始まらない。
寿々は布団越しに菊代の背中を撫で、努めて優しい声で話しかける。彼女を守るには、まず彼女の心をこちらに引き戻さなければならない。でなければ、その〝化け物〟とやらがやってくるより先に彼女の神経が参ってしまうだろう。
「……たぶんですけれど、富貴子お嬢様がずっと怯えてらしたものって、これだったんだす……だから、私を……」
少し落ち着きを取り戻した菊代が、声を落としていった。だが、その声には確信が篭っているように聞こえる。
主人を貶めるようなことは言えないが、もう彼女は自分をこんなふうにした原因を理解しているのだ。
「それは……身代わりにされたかもしれないということ?」
スミが言っていたことを思い出し、寿々は尋ねた。
ひとつひとつ、物事が繋がっていくようだ。
「そうです……お嬢様の身代わりにされたから、化け物が私のところに……そのために、私の大事なものについて尋ねたのだわ……」
言葉にしながら、菊代は確信を強めていったのだろう。その顔からは、恐怖のあまりどんどん血の気が引いていく。
スミの言葉と彼女の言ったことを合せると、いろいろなことがわかってくる。
おそらく、富貴子は何か悪いものに目をつけられていたのだ。そのせいで、ずっと夢見が悪かった。
それに関係して、富美は神社や寺に信心していたのだろう。慌てて縁談を探していたのも、その関係なのかもしれない。
(櫛を取り戻すのが難しいというのは、こういうことだったのね。でも、取り戻さないと菊代さんが……)
スミの言葉を思い出し、寿々は焦った。状況が呑み込めるにつれて、非常にまずいということがわかってくる。
どうにかしなければ、きっと富貴子の代わりに菊代が化け物に攫われてしまうのだ。
そうならないように、守ってやりたい。だが、どうすればいいのか全くわからない。何より、寿々は自分が無力であることを弁えている。
「菊代さん、手を出して」
寿々は首元に手をやり、そこにかけていた紐を引っ張った。すると、着物の下の胸のあたりから、小さなお守り袋が現れる。
それは、寿々が肌見放さず着けているお守りだ。今は亡き美緒が、寿々のために遺してくれた手作りのお守り。
「これは……」
「私のお母様が作ってくれたお守りなの。よく見たら、あなたの櫛を入れていた袋と同じ布なのよ。……櫛の代わりにはならないだろうけれど」
「でも……」
躊躇う菊代の手に、寿々はお守りを握らせた。これは彼女に必要なものだから。
「ずっと私を守ってきてくれたものだから、きっと効果があるわ。あなたを守ってくれるはず」
「……ありがとうございます」
ほっとしたのか、菊代はポロポロと涙をこぼし始めた。先ほどとは様子が違う。少しでも落ち着かせることができたのだとわかって、寿々も安堵した。
おそらく今、彼女に必要なのは安心感だ。お守りの効能が実際にあるのかどうかではない。自分を守ってくれる拠り所となるものがあるかどうかが、踏ん張らなければいけないときは必要なのだ。
「それじゃあ、そのお守りをしっかり握りしめて休んで。寝不足なまま働けなんて言えないもの。今日寝てちゃんと回復してくれるのが一番助かるわ」
「……では、お言葉に甘えますね」
よほど気を張って疲れていたのだろう。菊代は寿々の言葉に従って横になり、すぐに寝息を立て始めた。
眠ることができるなら、回復するだろう。
しばらく見守って、彼女がうなされる様子がないのを確認してから部屋を出た。
それから、厨へ行って日頃菊代が主だってやっている仕事の肩代わりをした。あらかじめ昨日のうちに事情を話していたからか、他の使用人たちも手伝ってくれた。頼まずとも、進んで掃除などを済ませてくれる者もいた。
周囲に大いに助けられて仕事を進める合間に菊代の様子を何度か確認しに行ったが、昼過ぎには起き上がって食事が摂れるようになっていたし、夕方には顔色もほとんど元通りといえるほどに回復していた。
離れの廊下に厭なものが立ち込めることも、黒い蛇のようなものが這回っていることもなかった。
そうして何事もなく夜を迎えたため、寿々はこのままが事が済むだろうと安堵していた。
朝が来れば菊代が元気な姿を見せてくれ、また一緒に働けるようになるだろうと。
だが、そんな期待を裏切るように夜半過ぎ、水守邸に悲鳴が響きわたった。
夜の静寂を引き裂くような、鋭い声だった。
それが女の絶叫だとわかったとき、真っ先に寿々の脳裏をよぎったのは菊代のことだった。彼女の身に何かが起きて、それで叫んでいるのではないかと。
そう思って慌てて部屋を出たが、廊下を絶叫が移動してきているのがわかった。何者かが、叫びながら走ってくる。
「いやっ……いやー! なんで⁉ やだ! あぁっ……!」
長い髪を振り乱し、半狂乱で走ってくる姿に、寿々はギョッとした。何より、その背後から禍々しい気配が迫ってくるのが恐ろしい。
だが、もっと恐ろしかったのは、その半狂乱の女が自分の妹だと気がついたときだ。
「……富貴子ちゃん⁉」
「なんであたしのところに来るのっ⁉ 確かにあの子を代わりに差し出したのに!」
寿々が気づいて駆け寄ろうとしたのと、富貴子が叫んだのはほぼ同時だった。
富貴子はまだ恐ろしい悪夢にでも囚われているのか、ここがどこなのかもわからぬまま走っていたようだった。しかし、突然身を屈めると、ほとんど四つん這いになってから、どこかへ向かって進み始める。
それがおそらく菊代の部屋だとわかり、寿々は慌てて駆け出した。
「だめよ! 行かせない! 富貴子ちゃん、落ち着いて」
獣のような姿になった富貴子に、寿々は抱きついた。落ち着かせたかったのと、止めたかったからだ。
お守りを持たせているとはいえ、今の富貴子を弱っている菊代に近づけたくない。何より、聞き捨てならないことを耳にしてしまった。
「身代わりって何? 富貴子ちゃん、何かにつけ狙われているの?」
「うるさい! 離して! なんであたしがこんな目に遭わなきゃいけないの……!? いやだ!」
寿々の腕の戒めから逃れようと、富貴子は暴れた。とても十五歳の少女の細い体から出ている力とは思えないほどの抵抗だ。
三歳上とはいえ、寿々も決して体格は良くない。踏ん張り、どうにか押さえ込もうとしたが、やがて振り払われてしまった。
姉を床に投げ飛ばしたことで一瞬我に返ったのか、富貴子は驚いた顔をして寿々を見た。だが、その顔はすぐに歪む。
「……もとはと言えば、あんたが……」
顔を歪めて、憎々しげに吐き捨てる。なぜこんなふうに憎しみを抱かれているのかと、寿々の胸は痛んだ。
生い立ちからして、仲良くするのは難しい二人だ。しかし、それでも姉妹なのだ。
そう思ってこれまで苦手に思いながらもどこか憎みきれずにいたのに、この子にとってはそうではなかったのかと、寿々は泣きたくなる。
「あれ……お守りがない。やったわ!」
寿々をじっと見つめていた富貴子が、何かに気がついたように声を上げた。そして、仄暗い喜びに顔を輝かせ、にじり寄って来る。
「邪魔だったお守りがない! これでようやく……ずっとあんたが代わりになってくれればと思ってたの!」
「何を言って……」
「あたしじゃなくてあんたが死ねばいい! お姉ちゃんが死ねばいいの!」
「きゃっ……」
狂気じみた様子の富貴子に掴みかかられたと思ったときには、逃れられなくなっていた。
彼女に纏わりついていた禍々しい闇が濃くなり、まるで無数の手のように伸びてきた。それが寿々の体に巻きつき、絡め取ろうとする。
ボトン、と何かが落ちる音がする。
ボトン、ボトンボトン……と、その音は続く。
見ると、上から何かが落ちてきている。闇が溶け出して雫となって滴るように。
滴り落ちた闇はやがて蛇の形となって、這い寄ってきた。それが、伸びてくる手と一緒になって寿々の体に巻きつく。
『これは僥倖』
何かが擦れるような不快な声がした。声というよりは、音だ。耳障りな音が、言葉の形になって聞こえる。
そして、何かが舌なめずりするのが気配でわかった。
寿々の視界は真っ黒に塗り潰されて、もう何も見えなくなっているのに。生ぬるい呼気と舌がすぐ近くに迫ってきているのを感じる。
恐ろしくて逃げ出したいと思うが、雁字搦めにされ動けない。富貴子に掴まれているからなのか、闇に囚われているのかはわからない。
『食らうてやろう、食らうてやろう』
闇が揺れていた。それが笑っているのだと気がついたとき、さらに怖気が走る。
闇は、寿々の恐怖を嘲笑っているのだ。
(これが、菊代さんが言っていた化け物……)
夢の中、こんなものに追い回されたら、あれだけ弱り切るのも理解できた。そして、富貴子がこんなものに長いこと苦しめられていたのかと思うと、あの荒れようは理解できる。
だが、だからといって自分の身に起きていることを受け入れられるわけではない。
(嫌だ……食べられたくない。このまま死ぬなんて、嫌……)
この先の幸せなど見えぬ人生ではあったが、死にたかったことなどない。
母を亡くして、変わってしまった父を目の当たりにして、埋められない孤独を感じながら生きてきた。継母や異母妹との関係はつらかった。
それでも、生きてさえいればと思って日々を過ごしていた。
それなのに、こんなふうに化け物に捕まって食べられてしまうなんて。
『ようやく女を食えると思ったら、まさかあの者の力を宿す女を食えるとは』
喜ぶ闇の声を聞いて、寿々はハッとした。
〝力を宿す〟という言葉を聞いて、思い出したのだ。
スミのことを。彼から珠を預かっていることを。それから、彼にとても大切にされていることを。
(いやだ……死にたくない!)
闇に呑まれて自分の体がどこからどこまでなのかわからなくなりつつあったが、寿々は腕に力を込めてみた。足を踏んばってみた。身を捩ってみた。
すると、自分の体の輪郭を思い出す。自分の体の在り処を思い出す。
「……スミさん、……たすけて……」
寿々は、愛しい人の名を呼んだ。
夢でしか会えない、不思議な想い人の名を。それが、自分の心を強くするのを、本能で理解したから。
それに、恐れの心が何よりまずいとスミが言っていたことを思い出したのだ。だから、少しでも恐怖を薄めるために、彼のことを強く想う。
すると、どこからか清浄な匂いがした。そして、水の気配が近づいてくる。
「——わが花嫁に手を出すな」
爽やかな水の気配とともに現れたものが、そう言い放った。
その耳に馴染んだ声に、寿々の胸は高鳴る。自分の願望が聴かせた幻聴ではないことを確認するために、その名を呼んだ。
「スミさん!」
寿々が呼ぶと、ザパンと波が起きた。周囲の闇を押し流し、清浄な気配を纏った美しい人が現れる。
夜の闇の中にあってもはっきりその姿を見ることができるのは、彼がほんのり青く光を放っているからだ。その神秘的な美丈夫を前にして、寿々は悟った。
やはり夢の中で逢うこの方は、人ではないのだと。自分の愛しい人は、人間ではないのだと。
だが、そんなことはどうだっていい。自分の危機に彼が駆けつけてくれたことが、本当に嬉しい。
「よくもその穢らわしい手で、寿々に触れたな」
スミが腕をふるうと、その先に剣が生まれ、目の前の闇を切り裂いた。
『ギャッ……』
一太刀浴びせるたびに、闇が斬られていく。容赦のない連続での斬りつけに、ついに闇は引き絞られるような悲鳴を上げて、夜の中を散っていった。
「逃げただけだ。また力を蓄えれば、性懲りもなく出てくる。何せ請われて出てきたのだ。人間が約束を守るまで、執拗く付き纏うだろう」
化け物が見えなくなったことに安堵した寿々だったが、スミが忌々しそうにいった。
闇が晴れたことで、より一層スミは輝いて見える。神々しいとは、こういうことをいうのだろうなと寿々は思った。
その美しい姿につい見惚れてしまいそうになったが、近くに富貴子が倒れていることに気がついてそちらに駆け寄った。
「富貴子ちゃん! 富貴子ちゃん、大丈夫?」
富貴子の体はぞっとするほど冷たくなっていた。口元に手をやればかろうじて呼吸があるのはわかるが、硬く目は閉じられ、目覚めそうにない。
「その娘は、あれとの繋がりが強すぎる。じき目覚めるだろうが。あれとの約束を果たすために生み出されたのだろうが、哀れなことよ」
スミは富貴子をじっと見て言った。口では哀れだと言ってはいるが、その目が冷たいことに気がついてしまった。まるで、先ほどの闇に対峙しているときのようだ。
「あの、それはどういう意味ですか? 約束を果たすために生み出されたって……」
「あれはあんな形でも神は神。その神に贄を差し出すと約束して、己の願いを叶えた者がおるのだ」
「……それって富美さんが、自分の願いを叶えるために富貴子ちゃんを差し出す約束をしていたってことですか? そのために生み出されたってことは、お腹にいたときから……」
スミの言葉に、寿々は血の気が引いていくのがわかった。恐ろしい事実が、彼の言葉で浮かび上がってきてしまったから。
富美は、水守家に嫁ぐためにあの邪悪な神に願いをかけたのだろう。愛する男と一緒になるために邪魔だった、男の妻を排除するよう願ったのだろう。
「……罪が罪を呼び、この家はすっかり澱んでしまったな。——そこにいるのだろう? 愚かな水守家の現当主よ。ここへ来て、己の罪を告白せよ」
スミが、どこかを睨みつけてから言った。すると、廊下の突き当りからそろりと、人影が現れるのが見えた。いつの間に潜んでいたのだろうか。
揺らめくような足取りでスミの前に現れ、平伏するその男の姿を見て、寿々は悲しくなった。
それは父だ。
おそらく父は富貴子の悲鳴を聞いて部屋を出たくせに、彼女が錯乱している間も、寿々が闇に襲われているときも、何もせずただ息を潜めていたのだ。そのくせ、スミを恐れて今は、彼の前に姿を現した。
「水守家の本来の役目を忘れ、玉森の娘を害し、悪しきものを招き入れたこと、理解しておるのか?」
冷たく尋ねるスミに、父は震えて伏しているだけだ。顔を上げて彼を直視する勇気が、恐らくないのだろう。
「スミさん……水守家の本来の役目って、何ですか? それに、玉森の家……母の実家というのは一体……」
父が答えぬ代わりに、寿々は己で知りたいと思った。この家の娘でありながら、何も知らされずに生きてきた。この家の役割も、犯した罪も。
「水守家は、われの神域を守る役目を負う一族だ。家を守護し、富めるようにしてやる代わりに、われの力が衰えぬよう代々仕え続ける。われの神域——玉森の血筋に度々生まれ変わってくるわれの水の乙女を庇護する役目を負いながら、いつしか玉森の家よりも己たちが偉いと思い込むようになった。だから、己たちは繁華な土地に暮らし、玉森を僻地に追いやったのだ」
スミの言葉には、冷たい棘があった。
難しいことはわからないが、水守家がスミとの約束を反故にし、彼の怒りを買っているのは理解できた。
その怒りを一心に浴び、父は震えている。
「……た、玉森の家の者は、人としての生活に向かぬ者ばかり。それならばと、人里より奥の住みよい地で暮らせるよう勧めただけで、追いやる意図は……」
「人以外の声を聞くことができるから人ではないと? 人ではないから人扱いしなくても良いという考えか?」
言い訳をしようとして、父はさらにスミの怒りを買った。射抜くように睨まれ、すくみ上がっている。
その父の言い訳に対してスミが言った言葉を聞いて、寿々は唐突に理解した。
「……人ならざるものたちの声が聞こえたのって、玉森の……お母様の血筋の力だったのね。じゃあ、お母様も生き物たちの声を聞いていたのかしら?」
思わぬ母との繋がりが判明して、寿々は嬉しくなった。母を亡くしてからずっと、寄る辺のない気持ちでいた。だから、少しでも自分の存在に結びつくものがあるとわかると、それだけで嬉しい。
「玉森の者なら、多少はな。だが、そなたのように強く力が発現することはない。そなたは特別なのだよ。われの水の乙女だから」
「水の、乙女……?」
先ほどから、スミが〝水の乙女〟という言葉を口にするとき、とても優しい顔をするのに気がついた。愛しむような響きがこもるのを聞いて、それが彼が自分へ向ける愛の正体なのだと感じた。
「水の乙女とは、遥か昔、われが弱り切って消え入りそうだったときに、その身の内にわれを受け入れ、力を分けてくれた者のことだ。そなたにもわかる言葉でいえば、花嫁だな。水の乙女、わが花嫁——そなたは、われの妻の生まれ変わりだ」
「え……」
驚くと同時に、寿々は納得してもいた。
なぜ彼が自分を慈しんでくれるのかを。なぜ彼をすんなり受け入れ、愛しく想うのかを。
己の魂が遥か昔から彼に結びついているというのなら、すべて受け入れられる気がした。
「見つけるのが遅くなってすまなかった。……それもこれも、この男が自らの利益のために寿々を隠していたからだ」
スミが鋭い視線を向けると、父は弾かれたように顔を上げた。
「違う! 俺は寿々を……玉森の家に生まれたからという理由で贄にされる女たちを救いたかっただけだ!」
「ではなぜ虐げた? 美緒が死んでからいない者として扱ったくせに」
「それは富美がそうしろと……」
「結局は、邪なものに取り憑かれた女の言いなりになっていただけではないか。それで美緒を死なせ、家に邪悪を蔓延らせ、もうひとりの娘もこんなふうにして……最も、この娘は半分以上はお前の娘ではなく、あれと交じってできたようなものだろうがな」
次々と罪を突きつけられ、ついに父は慟哭した。
その声に意識を引き戻されたのか、寿々の傍らに横たわっていた富貴子が目を開けた。
「……あたし、お母様に利用されていたの?」
今目覚めたと思ったが、どうやら違ったらしい。ずっとスミと父の会話を聞いていたようで、その衝撃に震えている。
「あたしがずっと化け物に狙われてたのは、お父様に愛されないのもは、お姉ちゃんとは全然違うのは、全部全部お母様のせいなの……!?」
恐怖が、渇望が、不満が、今この瞬間一気にあふれ出したのだろう。
富貴子は再び絶叫した。その聞く者の心が震えるような叫びに、寿々は泣きそうになった。
この子が悪いわけではないのに。きっと背負わされた業に、性格が歪められてしまっただけだ。
「お母様……お母様!」
「あの女なら、もうここ邸にはいない。……神との約束を反故にしたのだ。返しを恐れて、とっとと逃げ出したのだろう」
「そんな……」
こんなときでも名を呼ぶのは己の母なのだなと、聞いていて寿々は哀れになった。
おそらく富美も、縁談を慌てて探していたということは、富貴子を逃してやるつもりはあったのだろう。だから丸々愛情がなかったわけではないはずだ。
だが、それを今この子に伝えたところで詮無いことは、寿々にはわかった。その代わりに、ギュッと抱きしめる。
「富貴子ちゃんは、お姉ちゃんが守ってあげる」
目の前に苦しんでいる人がいるなら、救ってやりたい。それが血を分けた妹ならなおさらだ。
利用されるだけで愛されず、捨てられてしまったと思いこんでいる富貴子に必要なのは、どこまでも堕ちていきそうなその手を握ってやる存在だ。
この世のどこにも居場所がないなどとは、絶対に思わせてはならない。その一心で、泣き叫ぶ富貴子を抱きしめる。
「そなたに死ねと望んだ女を、抱きしめるのか」
呆れるような、心配するような声でスミが言った。
彼の言い分もわかる。普通ならばそうだろう。
だが、これが己の性分なのだ。きっと、遥か昔にスミを受け入れた水の乙女も、こんな心持ちだったに違いない。
「手の届く距離に助けを求める人がいるなら、救ってあげたいんです」
「……そなたはいつでも、そう言うのだな」
スミは切なそうに目を細めて言ってから、静かに一度手を打った。
すると、清らかな風とともに一瞬、邸の中に水が満ちた。それが過ぎ去ったのち、あたりにあった禍々しさの名残りはすっかりなくなった。
荒れ狂っていた富貴子も、寿々の腕の中で安らかな寝息を立てている。
「水守家の当主よ」
平伏していた父に、スミが呼びかける。禍々しさが去ると同時に落ち着きを取り戻したのか、父はその呼びかけに素直に従い、顔を上げた。
「寿々はわれの子を孕んでおる。つまりは、われの正式な花嫁だ」
「……!」
その言葉に驚いたのは父だけではない。当然、寿々もだ。
だが、寿々は驚きののちに、すべてを理解した。
夢の中で初めて出会ったときに、珠を預かったこと。あれこそが、スミの子だったのだと。そして、それがすべての始まりだったと。
「わが妻、寿々が許すのなら、またこの家を守ってやってもいい」
スミが言うと、父は驚いたように寿々を見て、それから頭を下げた。
そうして親に頭を下げられるのは悲しい気持ちになるが、だからといって憎いとか嫌だとか、そんな気持ちでは片づけられない。それに、簡単に切り捨てられもしない。
だから、寿々は頷いた。
「スミさん、この家を守ってください。私の家族を、どうか守って」
「わかった。——では、時満れば迎えに来よう」
空が白んでいき、朝が来たのがわかった。
長い夜が明けたのだ。
世界が明るくなるにつれて、そこにあったスミの姿が薄くなっているのがわかった。
朝靄にかすんでいくように、見えなくなっていく。
それが寂しくて、寿々はつい手を伸ばした。
「スミさん」
「……またすぐに、夢で逢おう。われらの魂は、同じ場所にある」
消え入る直前に、スミが愛しげに寿々の髪を撫でた。それだけで、寿々の胸の中は温かな気持ちで満たされる。
***
「お姉ちゃん、ここはどうしたらいいの? 難しいわ」
よく晴れた春の陽射しが注ぐ縁側で、富貴子は針と布を手に唇を尖らせていた。その手元を覗き込み、寿々は笑う。
「そこはね、針を半分だけ出して、布の向きを変えるの。そうすれば、縫い目を表に見えないようにできるから」
「んー、できないわ」
「見ててね」
富貴子から針と布を受け取ると、寿々は目の前でやってみせた。これまで針仕事とは無縁で生きてきた彼女だが、これからは身につけておいたほうがいいだろうから。
大事なことは何ひとつ身につけさせなかった上、いなくなってしまった富美に代わって、寿々は今、富貴子に教育を施している。
今後どこに嫁ぐにしても、婿を取るにしても、自分の身の回りの世話はひと通りできたほうがいいはずだから。
「どうしよう……あたし、お姉ちゃんみたいにちゃんとできるようになる気がしない」
「大丈夫よ。練習よ、練習。お針ができれば、自分で着物を縫うこともできるのよ? 富貴子ちゃん、おめかし好きでしょ?」
「えー。自分で縫うのは嫌」
わがままばかり言う富貴子に、寿々は笑った。呆れ半分、可愛さ半分だ。
寿々は今、富貴子から譲られた上等な着物を身に着けている。似たげな雰囲気の華やかな着物を着て並ぶ姿は、まさに姉妹そのものだ。
顔立ちは似ていなくても、やはり血を分けた二人だからまとう雰囲気は似ている。
それに、憑き物が落ちた今、富貴子は可愛らしい妹になっている。
これまで荒れた性格をしていたのは、あの邪なものの影響を受けていたかららしい。そして、時折寿々の姿が見えなかったのも、悪しきものから守るという、亡き母が遺したお守りの効力ゆえのことだったのだ。
今はお守りをつけていても、富貴子が寿々を見失うことはない。
「お姉ちゃんはいいなー。神様のところに嫁ぐから、お針なんてしなくてもいいんでしょー?」
針仕事の練習に飽きてしまった富貴子は、そんなことを言って寿々の肩にしなだれかかる。これが彼女なりの甘え方だとわかっているから、寿々もそのままさせておく。
「それはどうかわからないけれど、嫁ぐ前に富貴子ちゃんには、お針もお料理も、ひと通り仕込むわよ。富貴子ちゃんが困らないようにね」
「……はぁい」
もっと早くにこのような時間が取れればよかったなと、寿々は後悔した。傷つくことを恐れて深く関わることを避けてしまっていたが、もっと早くにこの子を抱きしめていれば、もっと早くに苦しみから解き放ってやれていたのではと思う。
だが、後悔したところで仕方がないから、これからを精一杯過ごすのだ。
「お二人とも、お茶が入りましたよ。休憩にしませんか」
盆を手に、菊代がやってきた。悪しきものが去ったあと、彼女はすっかり元気になっている。そして、富貴子の良き指導係をしてくれている。
「やったー」
「休憩が終わったら、富貴子お嬢様はお料理の練習ですよ。野菜の皮むきくらいを習得していただきます」
「えー」
菊代は寿々のように甘くはないから、なかなかいい先生をやれているようだ。その姿を見て、寿々は安心する。
(私がいなくなってからも、きっと大丈夫ね)
寂しさを覚えつつも、スミのもとへ嫁ぐ日がやはり待ち遠しかった。
夢では会えるが、やはり起きているときに会いたい。始終離れがたく想うのは、魂が結びついているからだろうか。
これは、水神様と水の乙女の物語だ。
何度生まれ変わっても巡り合い、巡り合うたび恋をする、悠久に続く恋人たちの物語。