水を張った(たらい)に着物をつけてジャブジャブと洗いながら、寿々は軽く目眩を覚えた。
 あの不思議な夢を見てからというもの、少し体調が悪い気がする。
 夢自体は決して嫌なものではなく、むしろ不思議な心地よさすらあったのに。
 冷たい水に手をつけたから体がびっくりしてしまったのだろうかと思い、感覚を取り戻そうと拳を開いたり閉じたりしてみた。特に異常はなさそうで、やはり単に疲れているだけかもしれないと考える。

「寿々さん、お手伝いします」

 邸の掃除が済んだのか、菊代がそっとそばに来てくれた。だが、洗濯は寿々が頼まれたことだ。手伝うことによって彼女が咎められないか、それが心配になる。

「いいのよ。季節終わりの着物を洗って伸子(しんし)張りするのは、いつものことだもの」

 着物はほどいて反物にしてから洗い、端と端を伸子と呼ばれる竹の棒で挟んでからピンと張り、皺を伸ばしてから乾かす。この作業は季節の変わり目に行われ、衣装持ちの水守家では大仕事となっている。
 その大変な仕事だからこそ、富美も富貴子も嬉々として寿々に任せているのかもしれない。そう考えると少し悲しい気持ちになるが、洗濯も針仕事も嫌いではないから、そこまで憂鬱にはならない。

「私も洗ってしまいたいものがあったから、ついでです。さあ、お日様が高く昇る前に終わらせてしまいましょう」
「……ありがとう」

 せっかくの親切を無下にするわけにはいかないし、手伝ってもらえるのはありがたかった。
 だから寿々は洗うのを受け持ち、伸子張りを菊代にやってもらうことにする。
 水の冷たさもやらなければならないことの大変さも変わらないが、誰かが一緒にやってくれると心強い。寿々は先ほどよりも調子を上げて、ジャブジャブと力強く反物に向き合った。
 だが、気合いを入れてもやはり、落ちない汚れもある。

「あー……それ、落ちませんか」

 動きを止めた寿々の手元を見て、菊代が声をかけた。その鮮やかな花柄の反物には、べったりと茶色のシミがついてしまっている。

「やっぱり、だめみたい。一応、洗う前にシミ抜きはしてみたのだけれど」
「それ、洋食屋さんでついてしまったと言ってましたものね。お醤油のシミも手強いですけれど、カツレツのソースなんてなおのことでしょう」
「富貴子ちゃん、この着物気に入っていたのにね」

 落ちないとわかると、寿々は落胆した。去年の秋にも咖喱(カリー)をつけて汚してしまったことがあったが、それはお日様に当てることで消し去れたのだ。だからこのソースのシミもきれいにしてやれたらと思ったのだが、そう簡単にはいかなかった。

「でも、よかったじゃありませんか。またいつものように『きれいにならなかったら、お姉ちゃんにあげるわ』とおっしゃったのでしょう?」
「それはそうだけれど……ただのあの子なりの気遣いで、本当はお気に入りの着物なんだと思うのよ」
「寿々さんは真面目なんですから」

 もらってしまえばいいのにと菊代は軽い調子で言うが、寿々は何となく気が引けた。
 富貴子は確かにしょっちゅう新しく着物を仕立ててもらうが、そのどれも蔑ろにしたことはないように思う。おそらく、彼女なりにそれらの着物を、親からの愛情だと受け止めているのだろう。
 いつも目の奥に寂しさを抱える異母妹が、きれいに着飾ったときだけ本当に嬉しそうにしているのを見て、寿々なりに感じていることである。
 だから、彼女が着物を大事にする気持ちを寿々も大事にしてやりたいのだ。
 それに、この着物を汚して帰ってきた日にどうも富美にきつく叱られてしまったようで、しょんぼりしていたのが気にかかる。

「とりあえず洗ったから、干してみようかしら。もしかしたら乾いたら、シミが薄くなるかもしれないしね」

 あまり強く擦り続けても生地が傷んでしまうだろうと、ほどほどのところで水から上げた。そして、菊代と協力して反物を伸ばし、竿に干していく。
 春の青空の下、洗い上がった色とりどりの反物が並ぶその光景は壮観だ。
 それらを見て達成感を覚えたところで、寿々はふらりと足元から崩れるような心地がした。

「寿々さん……!」
「……ごめんなさい。少し目眩が」

 倒れる前に、菊代が体を支えてくれた。ひとりでいたならば転倒して、もしかしたら怪我をしていたかもしれない。

「大丈夫ですか?」
「ええ。ここのところちょっと、寝つきが悪いというか不思議な夢を見て、起きると疲れてしまっているのよ」

 何となく、無意識でお腹のあたりをさすってしまう。そこには何もないはずなのに、あの夢のせいかあるような気がしてしまっているのだ。

「夢、ですか。確か富貴子お嬢様も夢見が悪いとおっしゃっていましたが」
「そう言っていたわね。でも、私の場合は(いや)な夢や恐ろしい夢ではないのよ。むしろ、幸せな夢かもしれないわ」

 心配そうにする菊代に、寿々はここのところ見る夢の内容をかいつまんで話してみた。
 あの日以来、夢にスミという男性が出てくること。その男性は美しく、とても優しくしてくれること。
 珠を預かったことや彼が昔の高貴な人のような装束を着ていることは伏せたが、彼と夢の中で過ごす時間が幸せであるのは伝えた。

「まあ……素敵ですね。もしかしたら、まだ見ぬ寿々さんの運命の人なのかも!」

 菊代は寿々の話を聞いて、少女のようにはしゃいだ。彼女も二十歳の乙女で、恋人がいても結婚していてもおかしくない年齢だ。この手の話題はやはり好きなのだろう。

「どうかしら……妹の縁談に影響されて、憧れが見せたただの願望だと思うわ」
「そうでしょうか……でも、昔の人は夢に誰かが出てくるときは、その相手が自分を想っているからだと考えていたそうですよ。だから、もしかしたら寿々さんを想っている殿方がいるのかも」

 菊代は言いながら楽しくなってしまったのか、ニンマリとしていた。彼女が楽しそうにしてくれたのなら話題を提供したかいがあったと思ったが、はしゃぐ彼女とは対象的に、寿々の血の気は引いたままだった。

「……いけない! 寿々さん、休みましょうね」
「そうね。お茶を一杯いただけたら、気分が良くなりそうな気がするわ」

 菊代に支えられ、寿々は厨を目指す。体が冷えたのがいけないのかと思ったが、どうにもそれだけでは片づけられない倦怠感がある。
 厨では昼餉の支度をしているのか、食べ物が煮える匂いがあたりに漂っていた。いつもならいい匂いだと食欲を刺激されるのだが、今日は胃の腑のあたりが急に気持ち悪くなり、せり上がってくるものをこらえるために慌てて口元を覆った。

「嫌だわ……! 寿々さん、大丈夫?」
「……ええ。何だか突然、胃がムカムカしてしまって」
「大変! もしかして、朝食の何かに(あた)ったのかしら」

 これ以上は歩けないと判断し、落ち着くために一旦、離れの廊下に腰を下ろした。
 菊代に背中をさすられるうちにいくらか気分は良くなってきたが、それでも匂いを嗅ぐとやはりまだだめそうだった。

「少し待っていてください。今、お水を取ってきますから」
「……すみません」

 厨へ行ってお茶を飲んで休憩などと悠長なことは言っていられない。菊代の言葉に甘え、彼女が戻ってくるのを待つことにした。
 手巾を懐から取り出し、それで口元を覆うといくらか楽になった気がする。だが、突然の体調不良に戸惑っていた。

(あの人は、悪い感じはしないのだけれど……)

 夢で逢うスミという不思議な人が関係しているのかと考えるが、彼を悪く思いたくはなかった。
 なぜなら、彼は久々に知り合う優しい他人だ。今、この世界で心底寿々に親切にしてくれるのは菊代くらいのもので、彼女以外に初めての存在だといえる。
 だから、彼に遭ったから気分が悪くなっているとは考えたくなかった。

「寿々さん、ほらどうぞ」
「ありがとう……冷たくておいしい」

 待っていると菊代が戻ってきて、彼女が湯呑みで持ってきてくれた水を呑むと熱を持っていた喉が落ち着いた。吐くのをこらえたとき、胃液で喉が傷んでいたらしい。
 ゆっくり湯呑みを空け、菊代に背中をさすってもらううちに、吐き気はすっかり収まった。これなら、また昼からの仕事はこなせるだろうかと考えていると、背後に険しい気配を感じた。

「あんたたち、一体何をしているの?」
「お、奥様……!」

 振り返るとそこには、富美がいた。藤色の地に白の木蓮が描かれた春らしい着物を身につけた彼女はあでやかだが、その顔に浮かぶ表情は険しい。

「寿々さんが目眩を起こして倒れそうだったので、ここで少し休んでおりました。あの、洗濯はもう済んでおりますので……」

 菊代が怯えながらも状況を説明すると、珍しく富美はじっと寿々を見た。いつもなら問答無用で怒鳴るか、興味などないといったふうに立ち去るものなのに。

「ずいぶん顔色が悪いじゃないか」
「はい。……少し、吐き気もしておりましたので」
「……あんたまさか、お腹に子でもできたんじゃないだろうね?」

 ギロリと睨まれ、寿々は慌てて首を振った。そんなはずがあるはずがない。男性と付き合ったことはおろか、出会う機会すらないのだから。
 外で私用で出かける暇すらないと富美も知っているはずなのだが、彼女はまるで汚らしいものでも見るかのような視線を寿々に向けていた。

「どうだろうね。あんたも母親に似て、薄汚い女だから。子供作って、どっかの男のところへ転がり込もうって考えてるんじゃないの?」
「そんな……」

 二重の意味で否定しようとしたが、富美は寿々の言葉など聞いていなかった。忌々しそうに顔を背けると、本来の目的だったのか厨へ歩いていってしまった。おそらく、どこかへ出かけるから昼食はいらないと言いに行ったのだろう。
 用を済ませて戻ってくると、彼女は今度は一瞥もくれずに本邸へと戻っていった。

(お母様はきちんと夫婦になってから私を授かったのに、なぜあんな言われ方をしなければいけないの……)

 富美が去ったあとも母を侮辱された怒りが収まらず、寿々は静かに震えていた。子供を作って男のもとへ転がり込んだというのは、そのまま自身のことではないかと思ってしまう。
 だが、富美の中で彼女自身は、妻子ある男性の家庭に入り込んだなどという意識はない。むしろ、長らく水守家に居座って自分の恋路を邪魔したと寿々の母に対して思っているようだった。

「奥様、荒れてらっしゃいますね。……富貴子お嬢様の縁談が、少しもうまくいかないからでしょうか?」

 何も言葉を発しなくなった寿々を気遣うように、菊代が言った。その言葉には、どこか富美を咎めるふうがある。
 それについては、寿々も同じだった。

「富貴子ちゃんはまだ十五歳なのに、どうしてそんなに急いで婿探しをするのかしら」
「わかりませんけれど、まるで何かに怯えて逃げる先を探すように、縁談をしているようです。奥様が最近熱心に神社だかお寺だかに足を運んでいるのと、何か関係があるのかもしれませんが」

 菊代は本邸へ掃除のためなどに出入りしているから、寿々の知らないことまで知っている。あの富美が信心というのは何となく疑わしい気持ちになるが、悪人ほど救済を求めるというものなのかもしれない。

「何にせよ、心配ね。……富貴子ちゃんが追い詰められなきゃいいけれど」

 淋しげな目をした富貴子の顔が頭をよぎり、寿々は心配になった。苛烈さでいえば、富貴子は富美に負ける。というより、富貴子は富美にはあまりわがままを言えないようだ。
 きつい性格のあの子が、どこか痛々しいほどに必死に母親に気に入られようとする姿を思うと、姉としてやはり心配になる。
 心配するだけで、してやれることはきっとないのだが。

「人の心配より、自分の心配ですよ。少しお部屋で休んでいてください。あとで小さめのおにぎりでも運びますから」
「……ありがとう」

 菊代の勧めに従って、寿々は自室へと引き上げた。気分の悪さだけでなく、猛烈な眠気にも襲われ始めたのだ。
 もしかしたら体が休もうとしているのかもしれない。それなら、その意思に応じるべきだろう。

「……あれは、蛇?」

 廊下を歩いていると、視界の端を何か黒いものが横切るのが見えた。裏庭を、黒い紐状のものが進んでいく。
 スミの遣いの小蛇だろうかと思ったが、一瞬感じた怖気(おぞけ)立つような雰囲気に、すぐに違うだろうと結論づけた。あの白い小蛇は、スミがまとう清浄な空気に似て、清らかだったから。

「もう、だめ……」

 ようやく部屋にたどり着くと、寿々は床に脱力すると同時に意識を手放した。
 その直後、真っ白になった視界の向こうから、優しく名を呼ぶ声が聞こえてきた。