朝のキンと冷えた空気を感じて、寿々(すず)は目を覚ました。薄く目を開ければ、世界はまだ完全には光を取り戻してはいない。
 そんな早くから、寿々の一日は始まる。
 勢いをつけて布団から抜け出すと、ぶるりと震えた。春先とはいえ、まだ朝は冷える。
 体から熱が逃げてしまうより先に、着物を着替える。といっても、寝間着用の薄く擦り切れて所々継ぎを当てている襤褸から、まだ見られるものへと着替えるだけだ。
 着替えが済むと布団を畳み、まず(くりや)へ向かう。いつもはお勝手から裏へ出て水汲みをするのだが、今日はそれどころではなさそうだった。

「ちょっと! 早くそれをどうにかしてよ!」
「も、申し訳ございません」

 興奮気味の怒声と、それに怯えて謝罪する声が本邸へと続く廊下から聞こえてきた。すぐに誰の声かわかり、寿々は慌ててそちらへ駆けた。

「早く! そいつをつまみ出してちょうだい! 鶏の餌にでもしてしまえばいいんだわ!」

 そう叫んで髪を振り乱しているのは、妹の富貴子だった。日頃は猫の目のように愛らしい目元をつり上げ、怒りに頬を上気させている。
 富貴子(ときこ)が指差す先には小さな蛇がおり、それを見つめてひとりの女性が震えていた。もっとも、蛇を恐れて震えているのか、富貴子の剣幕に怯えているのかはわからないが。

菊代(きくよ)さん、どうしたの?」

 どちらに声をかけるのか迷い、寿々は結局怯えている女性——菊代に尋ねた。すると彼女は寿々に気づいて、少し安堵した表情を見せた。

「それが、富貴子お嬢様がこちらへやってきて、この蛇を見つけて……」
「怖がっているのね?」
「……はい」

 富貴子の様子を〝怖がっている〟と表現するのは抵抗があるが、滅多なことは言えない。これ以上この子の機嫌を損ねていいことなんて、まるでないからだ。

「早くやってちょうだい! この家に勝手に入ってきた罰よ! それとも菊代、あんたが代わりに罰を受ける?」

 寿々とコソコソ話していたのが気に入らないのか、富貴子はさらに目をつり上げて言った。それを聞いて、菊代は縮み上がった。
 富貴子はもともときつい性格をしているが、時々こうして尋常ではないほどの苛烈さが顔を覗かせる。使用人にも当たりがきついため、若い娘など長くは居つかないのだ。だから、昔からずっといる菊代がよく当たられている。

「富貴子ちゃん、落ち着いて。この蛇は噛まないから、そんなに恐れなくてもいいの」

 まずはなだめなければと、努めて穏やかな声で寿々は声をかけた。すると、まるで今この瞬間に寿々の存在に気がついたとでもいうように、富貴子は目を見開いた。富貴子は時々、こんなふうに寿々のことが見えていない。

「お姉ちゃん、いつの間にいたの……まあいいわ。そうよね、お姉ちゃんが処理すればいいんだわ。あんたはお姉ちゃんなんだから、あたしの代わりに怖い思いでも痛い思いでもすればいいの!」

 そうひと息に言い切ると、ふんと鼻を鳴らして富貴子は本邸のほうへ戻っていった。長い廊下を端までいってようやくその背中が見えなくなると、菊代がほぉ……と息を吐いた。

「こんなときだけ『お姉ちゃん』だなんて、都合のいいことをおっしゃいますね」

 呆れたように言う菊代に、寿々は曖昧な笑みで応じた。同じことを思ったが、あえて口にすることはしない。

(まだあの子が私を姉と呼んでくれるだけ、いいのだわ……)

 寂しさと痛みが胸を刺すのを感じながら、改めて問題となっていた小蛇と向き合う。

「この子、迷い込んできてしまったのね……可哀想に」

 寿々がそっと手を差し伸べると、すくみあがっていた小蛇は、頼るようにしゅるりと手首に巻きついてきた。美しい、青みがかった光沢のある白蛇だ。
 その白蛇のひんやりとした感触に驚いたが、恐れるようなものではない。むしろ、寄る辺のないか弱い存在に愛しさすら覚える。

「菊代さんも蛇が怖かったの?」
「いえ……蛇よりも富貴子お嬢様が恐ろしくて……ここのところ夢見が悪いそうで、たまに早朝に水を持ってくるようにと離れへ頼みに来られるのですが」
「夢見が……」

 心配だと思いつつも、寿々の意識は手首の小蛇へとすぐ移った。この子をどこかへ放したら、すぐに朝の用意をしなくてはいけない。

「この子を裏庭に放してくるわ。戻ったら、朝餉の支度を手伝うから」

 菊代に安心させるように微笑んでから、寿々は裏庭へ向かった。そして、この小蛇を放すのに適切な場所を探して視線を巡らせる。
 鳥に見つかって突かれては可哀想だし、猫に狙われてもいけない。それならばと、池のほとりの背の低い庭木の下へ放してみる。
 椿の下の陰をじっとうかがってから、小蛇はしゅるしゅるとその陰へと下りた。その頼りない姿に、寿々は心配になる。

「疲れているのなら、少し休んでからお帰り。でもね、二度とここへ来てはだめよ。ここには恐ろしい人間がたくさんいるからね」

 言い聞かせるように言えば、小蛇はその黒い目で見つめ返してきた。まるで言葉がわかるかのように。

『ありがとう。怖かったよ。でも、(ぬし)様に頼まれたから、ここへ来なくちゃいけなかったんだ』

 可愛らしい子供のような声が聞こえてきて、少しドキリとした。だが、驚いたのも一瞬のこと。寿々はこういったことには慣れていた。

「それじゃあ、お役目を果たせたのね。よかったわ」

 寿々が声をかけると、小蛇はペコリと会釈をするような動きをしてから、陰の奥へと進んで見えなくなった。
 ひと仕事終えた気分になって、寿々は溜め息を吐く。

(蛇の声を聞いたのは、初めてだったわ。対面する機会がなかったものね)

 厨へ向かいながら、今しがたの出来事を振り返る。そこに特に驚きはない。
 というのも、昔から寿々は時々、生き物の声を聞いていたから。
 決まってそれは水の向こうから聞こえてくるような不明瞭なものだが、生き物の声と思しきものをこらまで度々聞いてきた。
 もちろん、ある程度年齢がいけばそれが普通ではないことはわかっていた。何より、そんな不気味なことを言えば余計に疎まれるようになることも。
 だから、これまで誰にも話したことはない。ただでさえ悪いこの家での待遇を、これ以上悪くなどしたくはないから。

 厨へ戻ると菊代たち数人の使用人たちと手分けして、朝餉の支度に取りかかった。
 本邸に住まう主人家族たちのものも、自分たち使用人たちのものも同時に作っていく。
 味噌汁、焼き魚、卵焼き、お新香といったおかずがつく主人家族の朝餉を本邸へ運び終えたあと、使用人たちも残り物で慌ただしく食事を済ませる。
 本邸に居場所のない寿々は、こうして使用人たちと食事を摂るのが当たり前になっているのだ。
 そうしなければ継母——富貴子の母である富美(ふみ)に、様々な難癖をつけて虐められるから。富貴子が小さなうちはまだ我慢ができたが、口が達者になった彼女が富美と一緒になって意地悪を言うようになってからは、使用人たちのいる離れが寿々の居場所になった。

「まあ、賑やかしいことですね」

 朝食の片づけを終え次の仕事へ移ろうかとしていると、表の騒がしさを耳にして菊代が言った。

「お義母様たちがおでかけになるのね」
「富貴子お嬢様、また新しくお着物を仕立てられるそうです。大事な時期だからと」
「大事な時期……縁談のことね」

 厨は裏庭に面しており、ちょうど邸から出て俥を待たせている場所の声がよく聞こえてくるのだ。
 富美と富貴子が車夫に何かいろいろと指示しているのが聞こえてくる。母娘揃ってきつい口調だが、声色からして機嫌はよさそうだ。買い物へ行くのが楽しみなのだろう。

「そんなにしょっちゅうお着物を仕立てるほど余裕がおありなら、旦那様は寿々さんにも少しは何か仕立てて差し上げたらいいのに」

 華やぐ二人の声を聞きながら、菊代は悔しそうに言った。二歳ほど年上の彼女は、どこか寿々の姉のようだ。使用人とはいえ、寿々のことを一番気にかけてくれている。
 そんな彼女の優しさから出た言葉だとわかっていても、寿々の胸は痛んだ。

「仕方がないのよ。お父様は富貴子ちゃんが可愛いんだもの」

 これまで幾度となく、自分に言い聞かせてきた言葉だ。そして、継母である富美にも何度も言われてきた。

 三歳のとき、長く寝ついていた母が亡くなった。その直後、大きなお腹を抱えてやってきたのが、富美だった。
 富美は後妻の座に収まり、富貴子を産んだ。その意味を知ることになるのはもう少し大きくなってからだったが、母の死去時にすでに富美のお腹に富貴子がいたという事実は、何より寿々の心を傷つけた。
 父にとって母は、そして寿々は大切ではなかったのだ。
 富貴子が生まれてから、ことあるごとにその事実を突きつけられる。

『仕方がないじゃないの。あの人は富貴子が可愛いんだから』

 馬鹿にしたように、吐き捨てるみたいに富美が言ったのは、父が寿々の誕生日を忘れて富貴子と出かけてしまったときだったか。もしくは、母の命日を忘れたときだったか。
 とにかく、勝ち誇ったように笑う富美の顔と声は、ずっと忘れられない。
 そして、すべてを諦めたのだ。
 父から愛されることも。この水守家の長女として生きることも。
 父にとって娘は富貴子ただひとり——その事実を受け入れてからは、寿々は母の旧姓である玉森を名乗っている。
 何も知らない外の人は、水守家の離れで玉森寿々という使用人が働いていると思っているし、寿々もそれでいいと思っている。
 古くからいる菊代だけが、寿々が本来なら水守家の長女であることを知っている。

「……弁えてしまえばね、そんなに辛いこともないのよ? 菊代さんがいてくれるし」

 気の毒がる菊代を安心させようと笑ってみたが、うまくできた自信はなかった。
 まったく何も知らないで生きてきたのなら、もしかしたらこんなに傷つくこともないのかもしれないと思う。
 幸せを、親の愛を知らずにいたのなら、ただ今の日々を送ることに痛みはなかったはずだ。
 だが、寿々の中にはおぼろげながらも幸福な日々の記憶がある。
 まだ母が生きていて、父も優しくて、幸せだった頃の記憶が。
 父が寿々を肩車して庭を歩いて、額に枝が当たって小さな傷ができてしまったとき。慌てる父をなだめ、母が薬を塗ってくれた。「寿々の可愛い顔に傷が残ったらどうしよう」とうろたえる父に、母は言った。「その傷ごと愛してくれる人に娶られればいいの。この子なら出会えるわ」と。
 それを聞いた父が、「どこにもお嫁になんかやりたくない」と言って、寿々を抱きしめた。
 梅の花が咲き誇る、空気の澄んだ春先のこと。寿々の中にある、たぶん一番幸福だった頃の記憶。
 その記憶と季節が被るからか、ここのところ寝る前にはつい思い出してしまう。
(お父様に愛されなくなってから、ずっと不幸だわ……)
 暗がりの中、布団に入って目を閉じて、寿々はそんなことを考える。
 母が亡くなったことも、継母や異母妹が意地悪なのも当然つらいが、何よりつらいのは父が自分のことをいないものとして扱うことだ。
 母が亡くなったのはきっと天命だったから仕方がないし、富美や富貴子が前妻との子である自分を疎むのも理解はできるのだ。
 だが、父の態度の豹変ぶりは、どうやったって呑み込むことができない。だから時々猛烈に寂しくなって、眠る前なんかに思い出して泣いてしまうこともある。
 そのせいなのだろうか。不思議な夢を見た。
 夢の中、真っ白な霧に包まれて何も見えなかった。寒くもなく暑くもない、不思議な場所だ。
 そこにぼんやりと佇んでいると、不意に声が聞こえてきた。

『そこの方、こちらへ来てくれぬか?』

 低く落ち着いた、男性の声だ。何か困り事だろうかと、導かれるように寿々は声のしたほうへ進む。

「あの……どうされましたか?」

 進んでみて、ここだと思う場所までやってきたが、霧のせいなのか声の主の姿は見えない。訝るように声をかけると、すぐ近くに気配を感じた。

『これを、預ってほしいんだ』
「これ? ……あ」

 あたりを見回すと、すぐ近くに珠が浮いているのが見えた。弱々しくはあるが光を放っているため、霧の中でも見つけることができた。
 
「預かるって、えっと……どうやって?」

 ひとりでに宙に浮いているようなものに触れてもいいものかと、寿々は戸惑う。だが不思議と、男性の頼みに対する拒絶感はなかった。

『その珠を、身の内に引き受けてくれるだけでよい。できるはずだ。それが本来のそなたの役目だからな』
「役目……」

 普通ならば、何を言われているのかと訝るものだろう。しかし、男性の言葉に疑問を覚えることはなかった。
 これが夢だとはっきり認識しているからかとも思うが、おそらくそうではない。
 役目という言葉を聞いて、腑に落ちる心地がした。きっと寿々は〝これ〟を、あるいは〝彼〟を知っているのだ。
 寿々は胸のあたりで組んでいた手をほどき、両腕を広げてみた。それから、自分の内側に珠を受け入れるのを想像してみる。
 すると、珠は吸い寄せられるようにゆっくりと寿々に近づいてきて、やがて腹の中に入っていった。
 抵抗なく入っていくかに思えたが、それをすっかり受け入れると、カッとそこが熱を持つのがわかった。

「は、ぁ……」

 その熱を御すように寿々がそっと息を吐くと、徐々に馴染んでいくように感じられた。熱がほのかな温かみに変わるにつれて、周囲の霧も晴れていく。
 やがて、手を伸ばせばすぐ届く距離に男性の姿が見えた。
 まだ完全に晴れたわけではないが、薄靄の向こうに、昔の高貴な方が身につけるような装束を纏った美しい人がいるのがわかる。

『やはり、そなただったのだな。今朝は、遣いが世話になった』

 男性がそう言って、薄く笑むのが見えた。
 〝遣い〟という言葉に、寿々はすぐにあの小蛇を思い浮かべる。

「あの子は……小蛇は無事ですか?」
『ああ。じきに会える』

 再び霧が濃くなり始め、男性の姿が見えなくなっていく。
 寿々はそれがひどく名残惜しくて、ほとんど見えなくなった男性へ呼びかける。

「あの……! あなたのお名前は?」

 視界は真っ白になり、自分の姿すら見えなくなった。
 寿々の問いは虚空に消えたかに思えたが、直後、響くような声が返ってくる。

『われはスミ。——またな、寿々よ』

 そこで、目が覚めた。