「嫌いだよ」
「は?」
私はそう言い返すことしかできなかった。私の目の前に立っているこの嫌なヤツ――。
結夏(ゆなつ)は真顔で私のことをそう言う。不貞腐れた彼の表情はなぜか美術品みたいにクールで、きれいで余計にイライラする。私と結夏に流れる不穏な空気をクラスのみんなはどう思っているんだろう。
「そういう、決まりだからって締め付けてくるの嫌なんだよ」
「知らないんだけど。掃除当番くらいサボらないでよ」
結夏と私は同じグループで掃除当番をさせられている。昨日は最悪だった。同じグループの4人が休んでいた。そして、学校に来ていた結夏は私を無視して、掃除当番をサボった。
みんな私のことを手伝ってくれなかった。みんな身勝手だ。部活に行ったり、勝手にそそくさ帰ったり、バイトに向かったり。クラスは今、三分の一のメンバーがいない。強豪の吹奏楽部が全国大会に行き、強豪のサッカー部、柔道部、テニス部の大会が見事に被った。だから、元吹奏楽部だった私には、今、このクラスに私の友達はいない。
――学校なんてあのとき、爆発して消えたらよかったのに。
「お前、嫌われてるんだよ」
「え?」
「誰も手伝ってくれなかったんだろ。残念だね」
何人かがくすくす笑い始めた。――なんで笑うんだろう。私は100万リットルの雨を一気に受けたみたいにショックだし、惨めな気分になった。
「永瀬絵里葉。真面目キャラ、やめたほうがいいよ。嫌いだから」
結夏はそう言ったあと、バッグから道具を一通り机に入れ始め、私の相手をするのを勝手にやめた。フルネームで私の名前を言うのが嫌味ったらしい。チャイムが鳴り、前側の扉が開く音がした。そっちのほうを見ると、担任がだるそうに教壇まで歩いていた。
☆
屋上で一人でご飯を食べることにも慣れた。吹奏楽部の仲間だった友達は昼練をするから、お昼を一緒に食べることができない。
コンビニで買った菓子パンを食べている。10月のこの街は相変わらず穏やかに見える。遠くの海はキラキラとしていて、まだ、この気温なら、気合を入れたら泳げるんじゃないかって思った。
私の交友関係は、休み時間、吹奏楽部の仲間だった子たちが、早弁をしている隣で一緒に話しているだけだ。
だから、お昼は途端に一人ぼっちになる。
そして、そんな私のことをクラスメイトはあまり良くは思っていない。
唇を何度かブルブルとして、息を吐ききった。少し前だったら、こんなに短く、息を吐ききることはなかったのに。
なんで私はこの学校に来てしまったんだろう。もちろん、トロンボーンを極めるためだった。だけど、それは今年の夏、急になくなった。
☆
バスはまだ来ない。今日も早々に学校を出た。だから、バス停にはまだ誰もいなかった。吹奏楽部のときは、帰りのバスは19時を過ぎていたから、15時を過ぎたばかりの誰もいないバス停でバスを待つのは少しだけ新鮮な気持ちになった。
「なあ、ムカつくんだよ。お前」
あいつの声がした。声のする方を向くと、結夏がゆっくりとこちらへ歩いて来るのが見えた。私は結夏を無視して、視線をバス停の方に戻した。
「無視するなよ」
結夏はもう一度、私にそう言っているみたいだ。結夏は当たり前のように私の隣に立ち、私と同じようにバスを待ち始めた。
――私のこと、嫌いなら話しかけてくるなよ。
「なあ」
私は腹が立って、思わず結夏を睨みつけた。私が睨みつけても結夏は私と目をあわせたまま、視線をそらさなかった。
「やっぱ、ムカつく」
結夏は吐き捨てるようにそう言った。
「は? なんでさ」
「なんでもなにも、ムカつくんだよ。まだ吹奏楽部ですみたいなツラしてるのとか、全部、ムカつくんだよ」
「そんなに私のことがムカつくなら、話しかけないでよ」
私がそう言っても、結夏のムスッとした表情は変わらなかった。
「なにか私にしたら?」
「ああ、いいよ。したらさ、土曜日、顔だせよ」
「は?」
「忘れてたお前の姿、思い出させてやる」
結夏はそう言うと、制服のポケットからiPhoneを取り出した。そして、ラインの友達追加のQRコードを出してきた。
「嫌いなのに友達になるんだね」
「大嫌いだからな」
「意味わからない」
私はそう言いながら、バッグから自分のiPhoneを取り出し、結局、結夏のQRコードを読み取った。
☆
昼下がりの公園は黄色で染まっていた。いくつものイチョウがもうすぐ冬がやってくるのを知らせるように時折吹く、冷たい風に揺れていた。
私と結夏は二人きりでベンチに座って、ただそれを眺めていた。この公園で待ち合わせ、結夏と会って、まだ10分も経っていないだろう。だけど、別に結夏と話すことなんて、あまり思いつかないから、私は黙ったままでいた。
「なんかいる?」
結夏はようやく、私に次の言葉を話しかけた。なんかってなんだよ。
「――飲み物。買ってくるけど」
「じゃあ、一緒に行こうよ」
「そうじゃねぇよ。おごるって言ってるんだよ」
結夏は分が悪そうにそう言った。なんでこんなに不器用なんだろう。こんなに生真面目じゃ、私のことなんてバカにできないじゃん。
「そういうところ、生真面目なんだね」
「お前、可愛くないな。そういうところだけ、づけづけ言ってくるんだから。コーヒーでいい?」
「勝手に決めないでよ」
「じゃあ、なにさ」
「カフェオレ」
私がそう言うと、結夏は立ち上がり、自販機の方までのそのそと歩き始めた。結夏の後ろ姿を見ていても、なぜか、不器用さを感じ、私は思わず笑った。
――なんで、あいつなんかのこと、笑ったんだろう。私。
結夏は白のチノパンのポケットから、財布を取り出し、自販機に小銭を入れている。そして、遠くでピッという音が二回、鳴ったあと、結夏はゆっくりと自販機の前でかがんだあと、また立ち上がり、こちらへ戻ってきた。
結夏はよいしょとダルそうな声でそう言いながら、また私の隣に座った。右手に持っていたカフェラテの缶を私の方に差し出してきた。私が受け取ろうと右手を出した。
「待って。熱いから。萌え袖で受け取ったほうがいいよ」
私は両手のセーターの裾を少しだけ伸ばして、結夏から缶を受け取った。結夏の言う通り、セーター越しで熱を感じた。
「萌え袖、注文するなんて、図々しいね」
「は? そんなことより先に言うことあるだろ」
「からかっただけだよ。ありがとう」
私は左にいる結夏を見ながら微笑んだ表情をつくると、結夏はそっぽを向き、左手に持っている缶コーヒーをあけた。
私もカフェラテの缶をあけて、一口飲んだ。口の中は一瞬で熱くなり、程よい甘さが広がった。
世界はまるで平和そのものだった。掃除当番をサボるとか、そういうことなんてまるで無縁の世界だ。数匹のダックスフンドを散歩させている女の人や、芝生の上にレジャーシートを引き、その上に座っているカップル、ボール遊びする子供たち。
そして、その中の一部として、私と結夏がこの世界の中に溶け込んでいると思うと、不思議な気持ちになった。
「なあ。永瀬絵里葉」
「――フルネームで呼ぶのやめてよ」
「じゃあ――」
「絵里葉でいいよ。普通に」
私はそう言って、結夏の方をもう一度見ると、結夏は缶コーヒーを一口飲んでいた。こいつは私の話を聞いているんだか、聞いていないんだか、よくわからない――。
「絵里葉。なんで俺がお前のことが嫌いなのかわかるか?」
「――私が生真面目だからじゃないの?」
「違うよ。お前は全く変わってしまったから、嫌いなんだよ。俺は」
「は? 意味わからないんだけど」
弱い風で、イチョウ並木のイチョウが音を立てて、揺れた。黄色が揺れるたびになにか心を揺さぶられているようなそんな気がした。
「――なんで、あんなことしたんだよ」
結夏にそう言われても何もピンと来なかった。
「あんなことって、なにさ」
「学校に爆破予告したの本当はお前だろ」
また、風が吹き、あたりの木々がざわめきだした。私はすっと弱くため息をついた。上を向くと、青空は宇宙まで突き抜けるくらい、透明で高く感じた。
☆
「――なんで、私ばっかり」
「やっぱりそうなんだ。仲間は売ったくせに」
「違うって」
「えっ」
「だから、違うんだって!」
あたりに私の高く張った声が響いた気がした。私たちの近くを歩いていた何人かの人から、視線を感じる。――無性に腹が立つ。なんで私ばかり、こんな目に合わなくちゃいけなんだ。
「言い逃れしたくなるよな」
「だから、違うから私の話、聞いて」
「は? 意味わかんないんだけど」
「だから、聞いて」
今まで誰も私の話なんて聞こうともしてこなかった。事情をわかっている吹奏楽部の仲間だけが、このことを知っている。だけど、同学年の仲間、数十人がそれを知っていたところで、学校での私の今の立場は変わらなかった。
「――私じゃないんだけど」
「え、だって、トロンボーンのあいつが犯人だって言われてるじゃん」
「だから、違うんだって。それ、私じゃないの」
結夏の顔には言い逃れするなって書いてあるように感じた。――酷い。
「じゃあ――」
「もう一人のトロンボーンだった子なの!」
結夏を見ると驚いた表情をしていた。今、驚いていても結夏はきっと信じてはくれないと思う。
「だって、吹奏楽部、辞めたの爆破予告のすぐあとだろ」
「――私だって、続けたかったよ。だけど、止めざるを得なかったの」
ほら、やっぱりとでも言いたいのかな。結夏は。
「じゃあ、なんで」
「病気」
そう言うと、結夏は私をじっと見つめてきた。目を細め、何かを訴えかけてくるようなそんな目で私のことを見てくる。
「気管支の病気」
「――そうなんだ」
結夏の声は消えそうなくらい静かだった。いつも、ギャーギャー言ってるその声がいつもそのくらいならいいのにって思った。
「私、夏休み前、1週間くらい休んだでしょ? そのとき、病院行ってたの。それで、少しだけ落ち着いたから、学校に戻った日に爆破予告の事件があった。そして、その日に私は吹奏楽部を辞めた」
「へぇ。偶然にしては出来すぎてるね」
「私だって思ったよ。だって、その次の日に吹奏楽部を辞めた子が同じ楽器の子で、それも爆破予告が理由だって」
「へえ。共犯者、お前じゃないってことか」
私はまた、ため息をついた。そして、カフェラテを一口飲んだ。全部、嫌だ。瑞葉。私と一緒にトロンボーンをやっていた。瑞葉は陽キャで性格的に合わなかった。
だけど、瑞葉はやってはいけないことをした。それも大会まであと3ヶ月切ったタイミングで。
「――私の話、信じてくれないでしょ」
「――だったら、最初から、言ってくれたらよかったのに」
「いや、意味わからないし」
また、沈黙が流れた。お互いに黙ったまま、何かを考えているようなそんな時間の流れ方だ。そもそも、爆破予告事件は一人が退学したことで、事件はそれで丸く収まったはずだ。ただ、共犯者だった瑞葉だけ、なぜかお咎めなしだった。なんで私はコイツにこんなこと言っているんだろう。
結夏は右手で前髪を何度かかきあげたあと、すっと息を吐いた。
「なあ。同じトロンボーンのやつ、名前なんて言うの?」
「――瑞葉」
「絵里葉、お前さ、このままでいいのかよ。周りのやつ、みんなお前が爆破予告したと思ってるよ」
「わかってるよ。そんなの。わざわざそんなこと言わないでよ」
「――悪かった。ただ、俺が言いたいのは、悔しくないのかよってことだよ」
「――もういいよ」
そう言ったあと、私は残りわずかになったカフェラテを一気に飲み干した。
「殺そう」
私は思わず、空になった缶を落としそうになった。
☆
「社会的に」
「――なにそれ」
「瑞葉を」
結夏を見ると、結夏はじっと前を見ていた。何度見ても、整った橫顏でそんな彼がそんなことを言いだすから、私はどうすればいいのかわからなくなった。結夏の頬にかかる前髪が弱く揺れた。
「殴り倒すの?」
「バカ。それだと、こっちが社会的に抹殺されるじゃねーか。もっと上手くやるんだよ。瑞葉がお前をうまく利用したみたいに」
陰湿――。
「別に私、そんなの求めてないんだけど」
「じゃあ、絵里葉はこのままでいいのかよ」
「――嫌だよ。嫌だけど、仕方ないよ」
「わかった。じゃあ、俺が勝手にやるわ」
結夏はそう言ったあと、コーヒーを一気に飲み干し、そして、立ち上がった。
「ちょっと、待って」
「なにさ。じゃあ、殺るの?」
「その聞き方やめて」
結夏はふっと息を漏らして弱く笑った。私はそんな結夏を見ても、笑える気にはなれなかった。
「俺さ、本当は生真面目でバカなやつってタイプなんだよね」
「なにそれ」
「だから、こないだみたいに掃除当番サボったくらいで怒られるのちょっと、嬉しかったんだ」
「は? なにいってるの?」
どさくさに紛れて。本当になに言ってるんだろう。結夏は――。
「だけど、お前はバカ過ぎるから、利用される」
「なにそれ」
私はそう言ったあと、弱く息を吐いた。
「は?」
私はそう言い返すことしかできなかった。私の目の前に立っているこの嫌なヤツ――。
結夏(ゆなつ)は真顔で私のことをそう言う。不貞腐れた彼の表情はなぜか美術品みたいにクールで、きれいで余計にイライラする。私と結夏に流れる不穏な空気をクラスのみんなはどう思っているんだろう。
「そういう、決まりだからって締め付けてくるの嫌なんだよ」
「知らないんだけど。掃除当番くらいサボらないでよ」
結夏と私は同じグループで掃除当番をさせられている。昨日は最悪だった。同じグループの4人が休んでいた。そして、学校に来ていた結夏は私を無視して、掃除当番をサボった。
みんな私のことを手伝ってくれなかった。みんな身勝手だ。部活に行ったり、勝手にそそくさ帰ったり、バイトに向かったり。クラスは今、三分の一のメンバーがいない。強豪の吹奏楽部が全国大会に行き、強豪のサッカー部、柔道部、テニス部の大会が見事に被った。だから、元吹奏楽部だった私には、今、このクラスに私の友達はいない。
――学校なんてあのとき、爆発して消えたらよかったのに。
「お前、嫌われてるんだよ」
「え?」
「誰も手伝ってくれなかったんだろ。残念だね」
何人かがくすくす笑い始めた。――なんで笑うんだろう。私は100万リットルの雨を一気に受けたみたいにショックだし、惨めな気分になった。
「永瀬絵里葉。真面目キャラ、やめたほうがいいよ。嫌いだから」
結夏はそう言ったあと、バッグから道具を一通り机に入れ始め、私の相手をするのを勝手にやめた。フルネームで私の名前を言うのが嫌味ったらしい。チャイムが鳴り、前側の扉が開く音がした。そっちのほうを見ると、担任がだるそうに教壇まで歩いていた。
☆
屋上で一人でご飯を食べることにも慣れた。吹奏楽部の仲間だった友達は昼練をするから、お昼を一緒に食べることができない。
コンビニで買った菓子パンを食べている。10月のこの街は相変わらず穏やかに見える。遠くの海はキラキラとしていて、まだ、この気温なら、気合を入れたら泳げるんじゃないかって思った。
私の交友関係は、休み時間、吹奏楽部の仲間だった子たちが、早弁をしている隣で一緒に話しているだけだ。
だから、お昼は途端に一人ぼっちになる。
そして、そんな私のことをクラスメイトはあまり良くは思っていない。
唇を何度かブルブルとして、息を吐ききった。少し前だったら、こんなに短く、息を吐ききることはなかったのに。
なんで私はこの学校に来てしまったんだろう。もちろん、トロンボーンを極めるためだった。だけど、それは今年の夏、急になくなった。
☆
バスはまだ来ない。今日も早々に学校を出た。だから、バス停にはまだ誰もいなかった。吹奏楽部のときは、帰りのバスは19時を過ぎていたから、15時を過ぎたばかりの誰もいないバス停でバスを待つのは少しだけ新鮮な気持ちになった。
「なあ、ムカつくんだよ。お前」
あいつの声がした。声のする方を向くと、結夏がゆっくりとこちらへ歩いて来るのが見えた。私は結夏を無視して、視線をバス停の方に戻した。
「無視するなよ」
結夏はもう一度、私にそう言っているみたいだ。結夏は当たり前のように私の隣に立ち、私と同じようにバスを待ち始めた。
――私のこと、嫌いなら話しかけてくるなよ。
「なあ」
私は腹が立って、思わず結夏を睨みつけた。私が睨みつけても結夏は私と目をあわせたまま、視線をそらさなかった。
「やっぱ、ムカつく」
結夏は吐き捨てるようにそう言った。
「は? なんでさ」
「なんでもなにも、ムカつくんだよ。まだ吹奏楽部ですみたいなツラしてるのとか、全部、ムカつくんだよ」
「そんなに私のことがムカつくなら、話しかけないでよ」
私がそう言っても、結夏のムスッとした表情は変わらなかった。
「なにか私にしたら?」
「ああ、いいよ。したらさ、土曜日、顔だせよ」
「は?」
「忘れてたお前の姿、思い出させてやる」
結夏はそう言うと、制服のポケットからiPhoneを取り出した。そして、ラインの友達追加のQRコードを出してきた。
「嫌いなのに友達になるんだね」
「大嫌いだからな」
「意味わからない」
私はそう言いながら、バッグから自分のiPhoneを取り出し、結局、結夏のQRコードを読み取った。
☆
昼下がりの公園は黄色で染まっていた。いくつものイチョウがもうすぐ冬がやってくるのを知らせるように時折吹く、冷たい風に揺れていた。
私と結夏は二人きりでベンチに座って、ただそれを眺めていた。この公園で待ち合わせ、結夏と会って、まだ10分も経っていないだろう。だけど、別に結夏と話すことなんて、あまり思いつかないから、私は黙ったままでいた。
「なんかいる?」
結夏はようやく、私に次の言葉を話しかけた。なんかってなんだよ。
「――飲み物。買ってくるけど」
「じゃあ、一緒に行こうよ」
「そうじゃねぇよ。おごるって言ってるんだよ」
結夏は分が悪そうにそう言った。なんでこんなに不器用なんだろう。こんなに生真面目じゃ、私のことなんてバカにできないじゃん。
「そういうところ、生真面目なんだね」
「お前、可愛くないな。そういうところだけ、づけづけ言ってくるんだから。コーヒーでいい?」
「勝手に決めないでよ」
「じゃあ、なにさ」
「カフェオレ」
私がそう言うと、結夏は立ち上がり、自販機の方までのそのそと歩き始めた。結夏の後ろ姿を見ていても、なぜか、不器用さを感じ、私は思わず笑った。
――なんで、あいつなんかのこと、笑ったんだろう。私。
結夏は白のチノパンのポケットから、財布を取り出し、自販機に小銭を入れている。そして、遠くでピッという音が二回、鳴ったあと、結夏はゆっくりと自販機の前でかがんだあと、また立ち上がり、こちらへ戻ってきた。
結夏はよいしょとダルそうな声でそう言いながら、また私の隣に座った。右手に持っていたカフェラテの缶を私の方に差し出してきた。私が受け取ろうと右手を出した。
「待って。熱いから。萌え袖で受け取ったほうがいいよ」
私は両手のセーターの裾を少しだけ伸ばして、結夏から缶を受け取った。結夏の言う通り、セーター越しで熱を感じた。
「萌え袖、注文するなんて、図々しいね」
「は? そんなことより先に言うことあるだろ」
「からかっただけだよ。ありがとう」
私は左にいる結夏を見ながら微笑んだ表情をつくると、結夏はそっぽを向き、左手に持っている缶コーヒーをあけた。
私もカフェラテの缶をあけて、一口飲んだ。口の中は一瞬で熱くなり、程よい甘さが広がった。
世界はまるで平和そのものだった。掃除当番をサボるとか、そういうことなんてまるで無縁の世界だ。数匹のダックスフンドを散歩させている女の人や、芝生の上にレジャーシートを引き、その上に座っているカップル、ボール遊びする子供たち。
そして、その中の一部として、私と結夏がこの世界の中に溶け込んでいると思うと、不思議な気持ちになった。
「なあ。永瀬絵里葉」
「――フルネームで呼ぶのやめてよ」
「じゃあ――」
「絵里葉でいいよ。普通に」
私はそう言って、結夏の方をもう一度見ると、結夏は缶コーヒーを一口飲んでいた。こいつは私の話を聞いているんだか、聞いていないんだか、よくわからない――。
「絵里葉。なんで俺がお前のことが嫌いなのかわかるか?」
「――私が生真面目だからじゃないの?」
「違うよ。お前は全く変わってしまったから、嫌いなんだよ。俺は」
「は? 意味わからないんだけど」
弱い風で、イチョウ並木のイチョウが音を立てて、揺れた。黄色が揺れるたびになにか心を揺さぶられているようなそんな気がした。
「――なんで、あんなことしたんだよ」
結夏にそう言われても何もピンと来なかった。
「あんなことって、なにさ」
「学校に爆破予告したの本当はお前だろ」
また、風が吹き、あたりの木々がざわめきだした。私はすっと弱くため息をついた。上を向くと、青空は宇宙まで突き抜けるくらい、透明で高く感じた。
☆
「――なんで、私ばっかり」
「やっぱりそうなんだ。仲間は売ったくせに」
「違うって」
「えっ」
「だから、違うんだって!」
あたりに私の高く張った声が響いた気がした。私たちの近くを歩いていた何人かの人から、視線を感じる。――無性に腹が立つ。なんで私ばかり、こんな目に合わなくちゃいけなんだ。
「言い逃れしたくなるよな」
「だから、違うから私の話、聞いて」
「は? 意味わかんないんだけど」
「だから、聞いて」
今まで誰も私の話なんて聞こうともしてこなかった。事情をわかっている吹奏楽部の仲間だけが、このことを知っている。だけど、同学年の仲間、数十人がそれを知っていたところで、学校での私の今の立場は変わらなかった。
「――私じゃないんだけど」
「え、だって、トロンボーンのあいつが犯人だって言われてるじゃん」
「だから、違うんだって。それ、私じゃないの」
結夏の顔には言い逃れするなって書いてあるように感じた。――酷い。
「じゃあ――」
「もう一人のトロンボーンだった子なの!」
結夏を見ると驚いた表情をしていた。今、驚いていても結夏はきっと信じてはくれないと思う。
「だって、吹奏楽部、辞めたの爆破予告のすぐあとだろ」
「――私だって、続けたかったよ。だけど、止めざるを得なかったの」
ほら、やっぱりとでも言いたいのかな。結夏は。
「じゃあ、なんで」
「病気」
そう言うと、結夏は私をじっと見つめてきた。目を細め、何かを訴えかけてくるようなそんな目で私のことを見てくる。
「気管支の病気」
「――そうなんだ」
結夏の声は消えそうなくらい静かだった。いつも、ギャーギャー言ってるその声がいつもそのくらいならいいのにって思った。
「私、夏休み前、1週間くらい休んだでしょ? そのとき、病院行ってたの。それで、少しだけ落ち着いたから、学校に戻った日に爆破予告の事件があった。そして、その日に私は吹奏楽部を辞めた」
「へぇ。偶然にしては出来すぎてるね」
「私だって思ったよ。だって、その次の日に吹奏楽部を辞めた子が同じ楽器の子で、それも爆破予告が理由だって」
「へえ。共犯者、お前じゃないってことか」
私はまた、ため息をついた。そして、カフェラテを一口飲んだ。全部、嫌だ。瑞葉。私と一緒にトロンボーンをやっていた。瑞葉は陽キャで性格的に合わなかった。
だけど、瑞葉はやってはいけないことをした。それも大会まであと3ヶ月切ったタイミングで。
「――私の話、信じてくれないでしょ」
「――だったら、最初から、言ってくれたらよかったのに」
「いや、意味わからないし」
また、沈黙が流れた。お互いに黙ったまま、何かを考えているようなそんな時間の流れ方だ。そもそも、爆破予告事件は一人が退学したことで、事件はそれで丸く収まったはずだ。ただ、共犯者だった瑞葉だけ、なぜかお咎めなしだった。なんで私はコイツにこんなこと言っているんだろう。
結夏は右手で前髪を何度かかきあげたあと、すっと息を吐いた。
「なあ。同じトロンボーンのやつ、名前なんて言うの?」
「――瑞葉」
「絵里葉、お前さ、このままでいいのかよ。周りのやつ、みんなお前が爆破予告したと思ってるよ」
「わかってるよ。そんなの。わざわざそんなこと言わないでよ」
「――悪かった。ただ、俺が言いたいのは、悔しくないのかよってことだよ」
「――もういいよ」
そう言ったあと、私は残りわずかになったカフェラテを一気に飲み干した。
「殺そう」
私は思わず、空になった缶を落としそうになった。
☆
「社会的に」
「――なにそれ」
「瑞葉を」
結夏を見ると、結夏はじっと前を見ていた。何度見ても、整った橫顏でそんな彼がそんなことを言いだすから、私はどうすればいいのかわからなくなった。結夏の頬にかかる前髪が弱く揺れた。
「殴り倒すの?」
「バカ。それだと、こっちが社会的に抹殺されるじゃねーか。もっと上手くやるんだよ。瑞葉がお前をうまく利用したみたいに」
陰湿――。
「別に私、そんなの求めてないんだけど」
「じゃあ、絵里葉はこのままでいいのかよ」
「――嫌だよ。嫌だけど、仕方ないよ」
「わかった。じゃあ、俺が勝手にやるわ」
結夏はそう言ったあと、コーヒーを一気に飲み干し、そして、立ち上がった。
「ちょっと、待って」
「なにさ。じゃあ、殺るの?」
「その聞き方やめて」
結夏はふっと息を漏らして弱く笑った。私はそんな結夏を見ても、笑える気にはなれなかった。
「俺さ、本当は生真面目でバカなやつってタイプなんだよね」
「なにそれ」
「だから、こないだみたいに掃除当番サボったくらいで怒られるのちょっと、嬉しかったんだ」
「は? なにいってるの?」
どさくさに紛れて。本当になに言ってるんだろう。結夏は――。
「だけど、お前はバカ過ぎるから、利用される」
「なにそれ」
私はそう言ったあと、弱く息を吐いた。