玄の国は雨季に入ったらしい。雨が続き、川沿いの村々で被害が出ていると知った白桜は状況を確認しに行くことになった。会議のために長く屋敷を空けていた白桜は、鈴の顔を見るためにと一度屋敷に戻っただけですぐに出かけてしまう。
「お気をつけて」
「鈴も体に気を付けろ。すっかり顔色もいい、戻ったらようやくおまえを抱ける」
 耳元でささやかれた言葉に顔が熱くなる。
「お、お戻りになるのを、お、お待ちしております」
 なんだかふしだらな言葉に思えた。白桜が怪訝な顔をしているかもしれないと慌ててその顔を見上げると、なんだか嬉しそうに微笑んでいるのと目が合う。
「私も戻るのが楽しみだ」
「あ、あの、そういう意味では」
「ではどういう意味だというのだ」
「お、ご無事で戻られるのを楽しみにしておりますと……」
「まあいい、答えは戻ってからその体に聞く」
 白桜は真っ赤な顔のままの鈴の頬を撫でてから、屋敷を旅立った。

 雨の被害は想像以上に大きく、白桜はなかなか屋敷に戻れずにいた。そんな最中、白桜の帰りを待ちながら降り続く雨を眺めでいた鈴のもとに、一つの知らせが入ったのである。
「お父様が……」
 人の世から届いたその知らせは、父に関するものだった。鈴が白桜に嫁いで間もなく、流行り病に倒れたのだという。長く患っていたがもう長くはないだろう、最期に一目鈴に会いたいというものだった。
「白桜様に許可をいただいてからの方がよいと思います」
 悩む鈴に玉はそう告げた。
「黒虎さんに頼んで白桜様に連絡をとってもらいましょう」
「それがいいと思います! 私、手配をしてきますね! 急がないと出発が次の満月になってしまいます」
 玉は大きな目をキリリと光らせてから部屋を出た。
 黒虎伝手で白桜からの返事が来たのは、手紙を出してすぐのことだった。返事の速さに驚いたが、嬉しくも思う。
「鈴様、ご主人様からが許可がおりたようですよ! 旦那様も一緒に行かれるとのことです。満月が終わるまではむこうとの世界のつながりが強くなるんです。満月を過ぎると次の満月まで戻ることが出来なくなりますから、お仕事を急いで片付けてくださったのでしょう」
「本当ですか! 嬉しい、白桜様も一緒にいらしてくださるなんて」
「正直心配していたのです。もしも向こうにお戻りになられたら、人の世が恋しくなってしまうのではないかと思って……でも、旦那様がご一緒なら寂しくなることもありませんよね」
「心配しないで玉、一目お父様にお会い出来たら戻ります。私の居場所はもうここだから。私は、あやかしたちと暮らすうちにあなたたちのことがすごく好きになりました」
「それを聞いて安心しました。向こう帰っても、早く戻ってきてくださいね」
ふわふわとした玉の頭をなでながら、鈴は頷いた。

「奥様」
 満月が近づいた夜のこと、眠っていた鈴は誰かに起こされた。体を起こすと、黒虎が枕元に腰かけている。
「黒虎さん、もどったのですか。お仕事お疲れさまでした、あの、白桜様は?」
「白桜様は少し用事が出来てしまって満月の夜に戻れそうにありません。ですので私だけ先に戻ったのです」
「それは、申し訳ないことをしました。ありがとうございます黒虎さん」
「さぁ奥様、人間の世へと急ぎましょう」
「こんな夜更けにですか」
「私も奥様をお送りしたらすぐに白桜様のもとに戻らなければならないのです、時間がありません」
「わかりました、急ぎましょう」
 真っ黒な装束に身を包んだ黒虎に連れられ、鈴は月夜の中を走っていった。月明りに照らされた霧の中を進み、気が付けば鈴の生まれ育った村が目前に見えていた。
「黒虎さん、ありがとうございます。あの、迎えの時間は……」
「明日の夕方には迎えに上がります。それまで、どうぞゆっくりしてきてください、ごゆっくり」
 目を細めた黒虎の顔がいつもと違って見えたが、夜の闇のせいだろう。鈴は歩きなれた道を、緊張した面持ちで走っていった。
「た、ただいま戻りました。お父様は!」
 懐かしい我が家に戻ると、悦子は目を見開いた。
「まぁ、本当に戻ってきたのね」
「あ、あの、お父様は……」
「とっくに亡くなりましたよ」
「そんな……」
「この家の主は私の新しい夫です。喪が明けたので再婚したんですよ。もうあなたとは赤の他人です」
「……」
「主人、最期に鈴さんに会いたいと言っていましたのに、その時は帰りもしないで離縁されたらすぐに帰ってくるなんて……なんて親不孝な娘なのかしら。主人が可哀そうでしたわ」
 鈴は力を失い、その場にへたり込んでしまった。
「鈴さんが嫁いだ先の方から離縁されたと連絡が来たときは呆れてしまいました。まぁ、いただくものはいただきましたし、うちとしては文句などありませんよ。ただ、あなたを食べさせるような余計なお金はありませんから、鈴さんにも外で働いていただこうと思います」
「離縁……どういうことでしょうか……」
「あら、何も聞いていないの? 先日うちに結婚準備金や何やらを持ってきた若い男の方がいらっしゃって、鈴さんが戻ってくるって言うからびっくりしたのよ。まぁ、当然といえば当然よね、私のような美しい女が花嫁選ばれるならわかりますけれど、あなたのような傷物の娘をあのような美丈夫が妻にするなんておかしいと思ったのですよ」
「白桜様が……私を離縁なさったのですか……」
 危篤だという父はすでになく、あんなにも鈴のことを大事にしてくれた白桜は鈴を離縁したという。理解が少しも追いつかなかった。
「私は、お父様が危篤だと聞いてこちらに一目会いに来ただけなのです。白桜様は水害の被害を見に出かけていらっしゃって……」
「あら、見え透いた嘘を。ご主人のあやかしが家を空けておられるのは、あなたに駄々をこねられるのが面倒だと思ったからじゃありませんか? 話に聞くとせっかくの子も流してしまったそうじゃありませんか。あなたが妊娠などするから一応責任をとってくださったのでしょうけれど、不良品の女はいらないと思われたのでしょう。使いの方はなんでも新しいあやかしの妻を娶る予定だと仰っていましたよ」
 悦子の言葉が、鈴の心の中に鉛のように落ちてくる。
「そうだ、ちょうど都の遊郭からきた男が娘を買いに来ているんですよ、鈴さんはまだ若いのだから、出戻りの娘でも出稼ぎに行けますよ。話を付けておきます」
「ま、待ってください!」
「自分の食い扶持ぐらい自分で稼ぎなさい」
「お義母様! 私は……」
 悦子は鈴の話を聞こうともせず家を出て行った。
「白桜様がそんなことを……信じられない。いったい、何がどうなっているの」
とにかく明日の夕方に黒虎に話を聞いてみるしかない。現状が呑み込めずに必死に思案していると、玄関から見たことのない男が入ってきた。
「ただいま……おや君は……なるほど、離縁されたという鈴さんだね。可愛らしいお嬢さんじゃないか、先方も惜しいことをしたものだ。本当に、愚かなやつだ……」
 男は以前の庄屋と同じように値踏みをするように鈴をジロジロと眺めてくる。
「大人しそうなお嬢さんだ。若くて可愛らしいし、美人だった母親によく似ている。この屋敷を君が相続するんだったら君の方を嫁にもらいたかったな、悦子は気性が荒いから。それに、君を妻にした方があの男へのいい復讐になりそうだ」
 そういって男は鈴に手を伸ばそうとする。鈴は身を守るように体を固くした。
 この人は、なぜお母様のことを知っているの……? それに、あの男というのは……。
 鈴が疑問を思い浮かべたときだ、扉が勢いよく開いて、尖った声がした。
「あなた! 何をしているの!」
「おや、おかえり悦子。鈴さんに挨拶をしていただけさ。離縁されたのならこの家で一緒に暮らすんだろう?」
「いいえとんでもない、鈴さんは遊郭で働いてもらうことが決まりましたよ」
「そんなの可哀そうだ、この家で働いてもらったらいいじゃないか」
 ニコニコと楽しそうに笑う男は悦子の新しい夫だろう。悦子はギロリと鈴を睨んだ。まるで自分の夫をたぶらかすなとでも言いたそうな視線を向けてくる。
「厄介者の鈴さんには明日にこの村を出てもらいます」
 遊郭の男と話を付けてきたらしい悦子は、村を出るのは翌日だと告げた。
「待ってください、明日の夕方に使いの方が私を迎えに来るのです」
「なにを言っているのです。そんなものくるわけがありません、いい加減理解なさい」
 鈴の部屋はすっかり悦子の物置きとなっており、鈴は客間に布団を敷くと横になった。自然と涙があふれてくる。なにがどうなっているのかわからない。父が亡くなっていたことも、白桜に離縁されたことも、たまらなく悲しいことだった。あやかしの国へ届いた便りはずっと前のものだったのか。あやかしの国で生活すると決めたからには、父の死に目には会えないと覚悟しなければいけなかったのかもしれない。だが、夫となった白桜のことは、どうしても納得ができなかった。
「白桜様……どうして……」
 白桜の優しい眼差しを思い出しながら、鈴はハラハラと涙を流した。
「泣いていたって駄目よ、本当に白桜様が離縁を申し出たのか、彼の言葉で聞かない限り、納得なんてしたくない。あの優しい眼差しを、言葉を、偽りだと思いたくない」
 明日になれば人買いに連れて行かれてしまう。白桜に会うためにどうにかして玄に戻らなければと、鈴はこっそりと家を抜け出し、山へと入っていった。