鈴が白桜の屋敷で過ごすようになって一月ほどが過ぎた。白桜は都での会議に参加するため連日家を空けていた。一人玄の国に残された鈴は、白桜の住まう世界を知ろうと屋敷のいたるところに顔を出して回った。おかげで初めは遠巻きに鈴を見ていた使用人たちともすっかり打ち解け、中でも玉は鈴に懐いてどこへ行くのもついて回るようになった。
「奥様、私の背にお乗りください。今日はどこへ行かれますか?」
「今日は炊事場で食事の用意を手伝いたいの」
「またそんな仕事をなさって、ご主人様に叱られますよ。この前だって洗濯を手伝って叱られたばかりではありませんか」
「でも、じっとしているのは性に合わなくて……」
「時には休むことも大事なのです。なにより、立派なお世継ぎを産むのが奥様の大事なお役目なのですから」
鈴がわずかに膨らみ始めた腹部を撫でる。まだ顕著ではないが、体には確かな変化が起こり続けていた。
 玉の背に乗って炊事場を目指している途中、誰かの話し声がした。
「あの人間の小娘、いったいいつになったらいなくなるのかしら」
梅花(ばいか)! 奥様に対してそんなことを言うもんじゃないわ」
「納得がいかないのよ、白桜様には、人間の娘なんかよりも同じ狐の私の方が似合うと思うでしょう?」
「こら! そんな失礼なことを言っているとご主人さまに言いつけるわよ! 鈴様はご主人様が自らお選びになった奥様なのよ」
「ふん、本当のことじゃない。玄の国を治める条件に、人間の嫁を貰うことだとでもあったのかしら、だってほら、人間を娶るのは強いあやかしだという証明になるでしょう? そうでもないと納得できない、ふざけているにもほどがあるわ! その上子供までもうけているるなんて……! いったいどうやって白桜様を誑かしたのかしら! ずっと白桜様のそばにいたのは私だったのに……!」
「梅花、いい加減にしな!」
「見た目だって、あんなに醜い火傷の痕がある女より、私の方が美しいに決まっているじゃない! あんな小娘……」
「梅花、いい加減あきらめなって。そもそもおまえは端から相手にされてないじゃないか。鈴様はとてもよい方だし、追い出されたくなかったら滅多なことを言うもんじゃないよ」
 仕事仲間になだめられたところで、梅花と呼ばれた狐のあやかしは納得した様子を見せなかった。
 美しい狐のあやかしの言葉に、鈴は心の中に冷たい風が吹いたような気持になっていた。
『玄の国を治める条件が、人間の嫁を貰うこと……』『強いあやかしであることの証明……』
「奥様」
 ふいに呼ばれて、鈴ははっとした。玉が心配そうな顔でこちらを見上げてくる。
「奥様、あやかしのなかにもいろいろなものがいるのです。どうか気になさらないでください、梅花は少々思い込みの激しいところがあるのです。白桜様のことが好きで好きで、周りが見えなくなっているのですよ。だからあのような失礼なことを……嫌な思いをさせて申し訳ありません」
「ありがとう玉。大丈夫、気にしていませんよ。お屋敷のみんながよくしてくれるからすっかり甘えてしまっていたけれど、すべてのあやかしが私を受け入れてくれるとは思っておりません」
 そもそも人の世では誰にも受け入れられなかったのだ。玄の国は鈴を優しく受け入れてくれた。
「この屋敷の多くのあやかしは、奥様のことが大好きです。あ、中でも一番奥様のことが好きなのは私ですよ! 私はお優しい奥様が大好きです~」
「ありがとう玉」
 ゴロゴロと喉を鳴らす玉に鈴は笑顔を見せたが、内心は不安でいっぱいだった。梅花の言葉から、白桜が鈴を選んだ理由がなんとなくわかったからだ。つまり梅花のいうように白桜は玄の国を治めるべく自分を娶ることにしたのだろう。都合がよかったのだ。人の世から逃げたいと願った自分ならば、人の世を連れ出すのに説得などする必要がない。問題は、人間である自分が、あやかしである白桜の子をきちんと産むことなど、本当にできるのだろうかということだ。
 その不安を具現化したかのように、ある朝鈴は自分の体に異変が起こっていることに気が付いた。
「……お腹の中が変なの」
「それは大事です! すぐに医師を呼んでまいります!」
 控えていた玉は慌てて医師を呼びいった。しばらくして訪れた医師の言葉を聞いて、鈴は心の中が空っぽになってしまったかのような感覚にとらわれた。自分の腹の中には、もう何もいないのだという。白桜との子は、露のように消えてしまったのだ。淡々と告げる医師の言葉を、鈴は憎らしく感じた。いや、憎らしいのは自分自身だ。白桜の子を流してしまった自分のことを鈴は責めた。
 どうして、自分はもっと慎重に過ごせなかったので。白桜様に言われていたではないか、体を大事にしろ、と。
「しばらく一人にしてください」
 床から起き上がった鈴は一人庭園を見ていた。白桜は屋敷を空けている。戻って来た彼に、なんと伝えたら良いのだろう。そんなことを考えていた鈴の耳に、誰かの話し声が聞こえてきた。梅花と黒虎のようだ。
「あの小娘、白桜様の子を流したらしいのよ。ああ、とってもいい気味だわ」
「梅花、そういうことを言うものじゃない、鈴様は沈み込んでおられる」
「そもそも人間の娘ごときが、あやかしの子を授かるなんておかしな話だと思ったのよ。人間とあやかしでは、精の込め方が異なるそうじゃない。稀に授かる人間もいるそうだけど、奥様はそうじゃなかったみたいね。白桜様も、焦っていらっしゃったから都合よく社にいた女をお連れになったのでしょうけれど、あのまがい物の奥様が子供を産めないとなれば、きちんとした子供を産める側室を迎える必要があるわ。ねぇ、私を迎えるよう白桜様に進言してよ兄さん。奥様は寿命だって短いのだし、亡くなれば私が正妻の席に座るわ。ほんの数十年くらい待てるわよ」
「おまえ……よくそんなことが言えるな。いい加減にしろ」
「ふん、いいわよ、兄さんが協力してくれないなら私にだって考えがあるんだから」
「梅花、ろくでもないことを考えるなよ。白桜様の怒りを買うぞ」
「大丈夫よ、あの方だって、私の方がご自分にふさわしいって本当はわかっているはずよ」
 梅花の言葉は、きっと正しいのだろう。だからこそ、こんなにも心に痛みを感じるのだと、狐の兄妹の会話を聞きながら鈴は苦しい気持ちになった。
「まがい物……」
 ぽつりとつぶやいた言葉に、思わず乾いた笑いが漏れた。
「人間の私が、いいえ、私なんかが、白桜様に見初めてもらえたのは、何かの間違いだったのだ……」
 悲しい現実を突きつけられた鈴は、虚ろな瞳で庭を見つめていた。いつまでもこうしているわけにはいかない。鈴は頭を振ると前を見つめた。
「私に、出来ることを探そう。なにか、私のままで白桜様のお役に立てることを」
 ありのままの自分を受け入れるしかない。ただ、子供が流れてしまったことを白桜がどう思うのかが怖かった。このまま離縁されることだって十分にあり得る話だ。そうなれば――
「鈴」
 突然、大きな手に優しく包まれた。
「白桜様……まだ、戻られる予定ではなかったはず……」
「おまえの体に異変があったと黒虎が連絡してきたのだ。慌てて戻った」
 温かな腕に包まれ、こらえていた涙が流れ出す。白桜の子がいなくなったとわかり、鈴はたとえようのない悲しみにのまれていた。涙を、ずっとこらえていたのだ。
「申し訳ありません、申し訳ありません……」
 とめどなく流れ落ちる涙を、白桜の大きな手が拭う。
「謝る必要は何もない」
「ですが、私……あなたとの大切な子を……」
「これは、自然なことだ。私にもわかっていた、人間とあやかしでは、子の成し方が異なること。だから、これは私の責任だ、おまえのせいではない」
 白桜はそう言って鈴の頬を撫でると、口を開いた。
「おまえの体調がよくなったら――」
「ご主人様! 白桜様! どこにおいでですか」
 梅花の声が響いた。
「なんだ、鈴と大事な話をしようとしているのに。騒々しい奴だ……」
 白桜がため息をついたところで梅花が姿を見せた。
「見つけましたよ白桜様、勝手に都での会議を抜けて来たりしたら駄目ではありませんか! こんなところで油を売っていないで早くお戻りになってください。今度は私が付き添います、兄さんでは不安ですからね」
「梅花」
「なんですか白桜様」
「私は妻の体を心配して戻ってきた。都には黒虎が残っている。会議など、私がいなくともどうにでもなる、だが、鈴のそばには私がいなければいけない」
 白桜の言葉に、梅花は悔しそうに歯を食いしばる。
「私は仕事に戻ります!」
 白桜は気遣うような目で鈴を見た。
「梅花の父親には私がこの国を継ぐときに世話になったのだ。その恩もあってこの屋敷で雇っている。兄の黒虎にもよく働いてもらっている。梅花のおまえに対しての態度がなっていないことは承知している。だが、恩のある者の血縁者だ、ないがしろにはできない。すまないが少しばかり我慢してくれ」
「大丈夫です。梅花さんの気持ちも、わかるような気がします」
 梅花は白桜のことが好きなのだ。ずっと好きだったのだ。いつかは自分が妻にと思っていたのかもしれない。そうだとすれば、突然現れた自分のことを面白く思わないのは当然のことだ。
「ですが、色々と考えてしまうこともあります」
「考えること?」
 鈴はぐっと唇をかんだ。言葉にすれば虚しくなるかもしれない。虚しくなってしまうほどに、鈴は白桜のことを想うようになっていた。
「私は、白桜様にはふさわしくないのだろうと……わかっております。だから、梅花さんの気持ちもわかります」
 こぼれ落ちた言葉は、あまりに虚しかった。そんなことを言ったところで、白桜は答えを持たないだろう、自分を選んだのは、ただ『都合が良かった』からだろうから。
 以前白桜様は私が恩人だと仰ったけれど、私にそんな記憶はない。人違いとわかっても、もう帰すに帰せなくてここに置いてくださっているのだ……。
「私は……」
 言葉とともに再び涙がこぼれ落ちる。
人間の女を妻にと求めていた時に、ちょうどよく表れた私。
あやかしの子を産むことができない私。
あやかしである白桜様よりも、ずっと早く死ぬ私。私を憐れんでそばに置いてくれるとしても、あやかしにとってはほんの一瞬のことに過ぎないのだ。
 私は、白桜様にとって、何になるのだろう――
 そんなことをぐるぐると考えていても答えが出ないことは、誰よりも鈴がわかっていた。それでも考えてしまう。自分は、白桜にとってまがいものの妻なのか――
「鈴」
 鈴の思考を止めるように、白桜は優しい声で名を紡ぐ。
「鈴、おまえが何を心配しているのかはわからないが、おまえのことは、私が望み、選んだのだ」
 白桜の言葉に鈴は耳を疑う。
「話さなければと思っていいたのだ。鈴、おまえには呪いがかかっている。そのせいで過去のことを、私のことを、思い出すことができないのだ」
「私に……呪いが……?」
「解けなくともよいと思っていた。夢のような出来事に私も舞い上がっていたのだ。ずっと、おまえを妻にしたいと思っていたのだから。妻に迎えるならおまえしかいないと思っていた。だからあの満月の夜、おまえの声が聞こえたときは嬉しかった」
「どうして、私を――」
 どこかで、白桜に会ったことがあるだろうか――。記憶を探っても思い出せるものは何もない。呪いのせいなのだろうか。鈴が困惑していると、白桜は優しい笑みを浮かべた。
「鈴、人間たちは時に私たちあやかしを神と崇め、また時に災いの種として忌み嫌ってきた。私は、かつてはあの社に祀られていた神の眷属であった。人々は狐の姿をした眷属の私にも敬意を払ったものだ。だが、時が経つとともに人々の信仰は離れた。社は廃れ、神も社から離れ神々の国へと戻った。私の相方であった狐も、最後の力を振り絞ってあやかしの国へと戻っていった。私もこの国へと戻らなければならなかったのだ。だが、その時には私はすでにあやかしの国へと戻る力すら失っていった。私は、そのまま消える運命にあった。だが、そんな私をおまえが助けてくれたのだ」
「私が?」
 鈴は人違いではないかと思った。白桜を助けるような、そんな大層なことをした覚えは一つもない。だが、そもそも自分には母が死ぬまでの記憶がないのだ。困惑した表情を浮かべる鈴の頬に、白桜はそっと触れた。
「覚えてはいないか、おまえは、以前火傷を負った狐を助けたことがあるだろう。そのあと、朽ちた社に手を合わせてくれたことも……」
 鈴は記憶を手繰る。そんなことがあっただろうか――
 思い出せない……。
「ごめんなさい」
 鈴は申し訳無さそうに首を横に振った。
「焦るな、思い出さなくともかまわない。私にとって、大切なのは、おまえが今私のそばにいるということだ」
 優しく抱きしめてくれる白桜の期待に答えられない自分が悲しくなる。だが、思い出そうとすれば思い出そうとするほど、頭の中に黒い炎のようなものが燃え盛って頭が割れるように痛くなるのも事実だった。
「頭が痛いのか?」
「すみません、少し……昔のことを思い出そうとすると、頭が痛くなるのです」
 なんでもないことのように笑って見せると、白桜は難しい顔をしてこちらを見ていた。
「す、すみません……」
「謝る必要はない。過去のことなど、思い出さなくていいのだ、昔語りなどして悪かった。もう、思い出そうとするな、おまえは、何も気に病まず私のそばにいたらいい」
 そういったきり、白桜は何かを思案するかのように黙り込んでしまった。
 鈴は眼下に見える景色に見とれるふりをしながらも、心の中が苦しくなるのを感じた。
「さぁ、体が冷えてもいけない。そろそろ屋敷に戻ろう」
 白桜が手綱を引くと、彗はあっという間に向きを変え、屋敷へと戻っていった。
「部屋に連れて行こう」
 屋敷につくと、白桜はひょいと鈴の体を抱き上げた。
「じ、自分の足で歩けます」
 白桜の顔がいつもよりも近くにあってドキドキしてしまう。顔が熱い。
「私の精を受けたことで体が疲れていることだろう。流れた後は余計に倦怠感が伴うはずだ。早く回復しろ、そうなれば今度は人間のやり方で子を成そう。おまえは、あやかしの子を産める体質だ」
「ど、どういうことでしょうか……」
「今はわからぬならわからぬままでいい。安心しろ、私が全部教えてやる」
 白桜の言わんとしていることは鈴にもなんとなくわかった。湯気が出ているのではないかと思うほどに顔が熱くなる。
 白桜の手によって部屋に戻ると、玉がぴょんと駆け寄ってきた。
「ご主人様、ずるいですよ。奥様を運ぶのは私の特権です」
「そういうな、私にも運ばせろ」
「ご主人がこんなにも女の人を大事にする方だとは知りませんでした」
「鈴が女だから、妻だからという理由だけで大事にしているわけではない、鈴だからだ」
「あぁあぁこんなにものろける方だとも知りませんでした」
「鈴の体調が落ち着いたら教えてくれ、私は一度中央へ戻る」
 白桜は玉に鈴を託すと部屋を出た。
「奥様、お外は寒くありませんでしたか? 今お茶をお持ちしますね」
 そう言って部屋を出た玉は、あっという間に戻ってきた。玉が器用にお盆を背に乗せて持って来てくれた湯呑を手に取る。
「ありがとう」
 すぅっと口を付けると、温かい物が喉を通って体を心から温めてくれる。ほっと落ち着くと、梅花の言葉や白桜の言葉を思い出した。
「ねぇ、玉」
「なんでしょうか?」
 ふと浮かび上がった疑問が口をつく。
「あ、あの。この国を継ぐのに人間の妻を娶る必要があるの?」
 梅花の言葉が浮かび上がる。白桜の言葉を嬉しいと感じながらも、なにか引っかかるものがあったのは、このことだ。鈴の問いかけに、玉は大きな目をにゃっと見開いた。
「ご存じありませんか、あやかしと人間というものは、互いに影響を及ぼし合うものなのだそうです。よい影響も、悪い影響もでございます。時に、人間と結婚したあやかしが強い力を得ることがあるそうです。白桜様は狐のあやかし、狐は数の多いあやかしですし、本来一つ国を治めるほど大きな力のあるあやかしではございません。白桜様のような狐は珍しいのです。あぁあぁ、ですから、力を得るために奥様を妻にと考えられたわけではないと思います。あれだけ奥様のことを大事にされておられますし、見ているこちらが恥ずかしくなってしまうほど白桜様は奥様のことを考えていらっしゃいます」
玉の最後の言葉に鈴は赤面してしまって何も聞き返せなくなってしまった。あやかしと人間の間にそんな関係があるとは思いもしなかった。だが、もしも自分が白桜に良い影響を与えることができたら嬉しいとは思う。自分がそんな存在になれるとは到底思えないのだが、願うことなら許されるだろう、と。