鈴は雲の中を飛んでいるかのような気がした。自分を抱き上げる逞しい男の顔を見上げる。
「あ、あの……」
「どうした」
「本当に私を……」
「なんだ、往生際の悪いことを言うな。この期に及んで嫌だとは言わせない。安心しろ、悪いようにはしない」
「なぜ、助けてくださったのですが、それに、どうして私の名を……」
 矢継ぎ早に頭に浮かぶ疑問を口にすると、男は口元を緩めた。
「質問攻めだな、まあ無理もない。おまえは私に選ばれた。おまえが私を呼んだから……それ以上に、理由はいらないだろう。さあ、私の屋敷はもうすぐだ」
「あの、お名前を教えてください」
「そうだな、おまえはまだ私の名を知らないのだな。鈴、私は白桜(はくおう)。おまえたち人間の多くは私を狐と呼ぶのだろうな」
「白桜様」
「そう、おまえの夫になる男の名だ。ほら見えて来たぞ、おまえの家だ」
 白桜がそう言うと、霧が晴れ、目の前に見事な屋敷が現れた。村では見たこともないような豪奢な屋敷に、鈴は目を見開く。
「戻ったぞ」
 白桜が玄関に入ると、大勢の使用人がずらりと並んで出迎えていた。みな鈴のような人間の容姿とはどこか違う。三つ目の者、一つ目の者。耳の長い者や、猫のような姿の者――一目で人とは異なる生き物であることが分かった。ここが、人ならざる者――つまりはあやかしの世界であるという事実がストンと鈴の中に落ちてくる。
「私の花嫁の鈴だ。みんな、よくしてやってくれ。鈴、屋敷の中を案内する。ついて来い、(ぎょく)、鈴を背に乗せろ」
 白桜に連れられるまま、広い屋敷の中を進む。自分の足で歩くわけではなく、大きな猫のようなあやかしが背に乗せてくれた。身重の鈴を歩かせるわけにはいかないと白桜が呼んだのだ。名を玉というらしい。村に住み着いていた茶トラの猫にそっくりだ。
屋敷の中には多くの使用人がいるようで、どの場所でも忙しそうに働いている。白桜は慕われているのだろう、白桜が姿を見せるとみな手を止めて笑顔を見せた。
「立派なお屋敷ですね」
「そうだろう、私はこの世界の北側にある(げん)を治めているあやかしだ。おまえが望むものは、なんでも用意してやる。疲れただろう、部屋でゆっくりと休むといい」
 玉の背に乗り、鈴は自室として宛がわれた二階の部屋に通された。大きく開かれた窓から、見事な中庭の見える部屋である。中に三人の女がいて、鈴の姿を見ると礼儀正しく頭を下げた。
「鈴様、なんなりとお申し付けください」
「あ、ありがとうございます」
 鈴が戸惑うように視線を泳がせると、ひとりの女中がにっこりと笑顔を見せた。
「戸惑いになられるのもわかります。ですが、あなたは我々の主人である白桜様が選ばれたお方、どうか堂々となさってください、私共も誠心誠意尽します」
「ありがとうございます」
 何かあったらお呼びくださいと言い残して、女中たちは席を外した。部屋の中にひとりになった鈴は大きく開けた窓から庭を見渡し、あまりの美しさにため息を吐く。
「夢を見ているみたいで、少し恐ろしいわ。本当に、あの人の妻になるのかしら……」
 あまりに唐突なことばかりで、頭がついていかない。だが、腹部に手を当てると確かにそこに命を感じた。
「母に、なるのだ」
 会って間もない男の子を産むことになるなど、想像もしていなかった。だが、白桜に対して嫌な気持ちは一つも浮かんでこない。それどころか、あの美しい瞳を思い浮かべるだけで、鼓動が早くなる。それを嬉しく思うなど、はしたないのではないかと、鈴はブンブンと首を横に振る。
「あんなに美しい人の妻になるなんで、信じられない……」
ひとり呟くと、誰かの気配を感じた。
「私も夢のようだと思っている。本当におまえを妻に迎えることが出来るとは……」
「……白桜様!」
「勝手に入ってきて悪かった。驚かせたな」
「いえ、ここはあなたのお屋敷ですから。私を、以前からご存知だったのですか?」
 鈴の問いかけに、白桜は優しい笑みを浮かべた。
「時期が来れば色々と話してやろう。今は体を労われ、大事にしろ」
 白桜は鈴の髪を優しく撫でると、立ち上がった。
「私は戻る、鈴は休め。体を大事にしろ」
「あ、あの」
「なんだ」
「私には大きな火傷の痕が……そんな私を妻になど……」
 鈴は自分の右手に視線を落とした。醜い火傷の痕が、おまえは傷物だと罵ってくるようだ。自然と着物の裾で隠したくなる。だが、白桜はその傷に優しく触れてきた。
「隠す必要はない。この傷は、おまえの優しさと勇敢さを表したものだ。この火傷の痕は、私にとってかけがえのないものだ」
「え……」
 白桜様は、なにかご存知なのだろうか。
「休め、またくる」
離れていく手のぬくもりを寂しいと感じながら、鈴は白桜の背を見送った。

 翌朝から、白桜は毎日のように鈴のもとを訪れた。
「鈴、今日からは玄の国を案内してやろう」
「本当ですか?」
「おまえに私の国を知ってもらいたいというのもあるし、なによりおまえを見せびらかしたい」
「わ、私を……?」
 白桜の言葉に鈴は赤面した。
「そうだ、私の美しい妻を皆に見せたい」
「白桜様、私がいることをお忘れでは?」
 真っ赤になって俯く鈴の前にぬっと玉が顔を出した。
「あぁ玉、いたのか」
「いますよ!」
「悪いが今日は私の馬で出かけるから、おまえは留守を預かってくれ」
「ずるいですよ~私も奥様と出かけたいです」
「今日は譲れ、鈴は私のものだ」
 白桜はそう言うと鈴の体を抱き上げて部屋から出て行く。
「白桜様、自分の足で歩けます」
「そういうな、私がこうしたいのだ」
 そういわれると言い返すことが出来ない。鈴は頬が熱くなるのを感じた。
 どうしてこの人は、私のことをこんな風に扱ってくれるのだろう。
 そう思うと同時に腹部に手を当てる。
 この子のため……かな。
 出会ったばかりの白桜が自分を大事にする理由など知れている。ふっと自分の頭に浮かんだ願望を一蹴した。
「これが私の馬だ」
 白桜が『馬』だという生き物を、鈴は今までに見たことがなかった。見上げた馬は鬣は太陽の日を浴びて青白く輝いている。
「綺麗な馬ですね。名前は何というのですか」
(すい)という。この国で一番早い馬だ」
 白桜は鈴を彗の背に乗せると、自分もその後ろに乗る。
「さぁ、私の国を見てくれ」
 白桜が手綱を引くと、彗は天高く舞い上がった。驚いた鈴は白桜の体にひしと抱き着く。白桜は片方の手でその体を支えた。
「も、申し訳ありません、驚いてしまって……」
「そうだな、人の世の馬は飛ばないのだろう。驚かせてすまなかった。ほら見ろ、向こうに見えるのが八龍湖、あそこの山は、鳳凰山だ。あの山は、春になると美しい桜が咲き、秋には紅葉する」
 玄の国は美しく、人々の暮らしも穏やかなようであった。
 なにより、白桜はゆく先々のあやかしたちからも好かれているようであった。
「白桜様は、素晴らしい領主様なのですね」
 鈴が尊敬の眼差しを向けると白桜は少し寂しそうな顔になった。
「そうでもない。反りが合わない者もいる」
 僅かに鈴を抱きしめる手に力が込められたような気がした。
 まるで、鈴に離れないでくれと懇願するかのように。
 完璧に見える白桜様だって、何かに悩んでおられるのだ……
 そうわかると、鈴はこの、今はまだ形ばかりの夫の力になりたいと思った。