その日から、煌炎の怒涛の甘やかしがはじまった。
神と人の間に子が宿るなんて、本当に起こり得るの?
そもそも、腹に赤子がいるかどうかわかるには二月か三月は必要なはずでは――?
そんな疑問を差し挟む余地は端からなかった。
「さあ丹華、お食べ。お前の身体はもう、お前ひとりのものではないのだからね」
「あ、ありがとうございます……」
今日も煌炎は香華宮にやってきて、かいがいしく丹華の世話を焼く。どこで手に入れたのか立派な鈴なりの葡萄を手土産に、ひと粒もぎると丹華の口に押し込んだ。
丹華は恥じらいつつも、遠慮がちにぱくりと頬張る。元よりここは彼の膝の上なので、嫌がったところで逃れようもないのだが。
『たんか! たんかごはんたべる?』
『虫いる? 虫たべる?』
「丹華は私の番だ。私の与えたものしか食べない」
小鳥たちが窓辺に集まってきて口々に話しかけるのを、煌炎はすげなく遮った。
美しく愛情深いこの神は、時々少し子供っぽいところがある。煌炎の腕の中で丹華はくすくすと笑った。
「煌炎さまはピーちゃんだった時から、いつも色々な贈り物をわたしにくださいましたね」
ピーちゃんはいつも、丹華に植物の種をくれた。その種が咲かせた草花が、これまでどれだけ丹華の心を癒し、満たしたことか。まさに今、彼がくれたひと粒の葡萄が丹華の喉の渇きを潤したように。
「当たり前だろう。給餌は雄の権能だ。雌に求愛するのにまず餌を与えなくてどうする?」
「えさ……。求愛?」
思わずぽかんと開いた丹華の口元を、煌炎が指でなぞる。
「そうだよ。私はお前に求愛して、お前はそれを受け入れてくれたね。私の与えた餌を、いつも喜んで受け取っていた」
(あの種は餌……つまり求愛のための餌付けだったの!?)
鳥類の雄が捕らえた獲物を雌へ贈り、愛情を示す習性があるとは聞いたことがある。
しかしまさか、ピーちゃんがくれたあの種にそれほど重い意味が込められているとは知らなかったのだ。
「わ、わたし、いただいた種はいつもその、庭に蒔いていて……」
「ああ。お前がなぜそうするのかが、はじめはわからなかった」
だが今は知っているよ、と煌炎は優しく目を細めた。
「大切なものは土に埋めるのが人の子の作法なのだろう?」
「はい?」
「以前、私はお前に紅い宝玉を与えたね」
これくらいの、と親指と人差し指で円を作ってみせる。たしかに、ピーちゃんは一度だけ丹華に宝石を持ってきたことがあった。
(あんまり立派な宝石だったから、ピーちゃんがどこかから盗ってきてしまったのだと思ったのよね……)
まるで燃える炎を閉じ込めたかのような美しい石だった。ひと目でとても高価で貴重なものだと見抜いた丹華は、そこである疑念を抱いたのだ。
――もしやこの宝石は、同じ後宮内の妃嬪のものなのではないか、と。
これだけ立派な宝石が、道端に落ちていたとは思えない。元の持ち主はきっと今ごろ必死に探しているはずだ。
それを丹華が身に着けたり部屋に置いておこうものなら、何かの拍子で見つかった時に泥棒扱いされるのは必至。しかし受け取らないままピーちゃんがどこかに捨ててしまったら、持ち主が可哀想だ。
悩んだ丹華は――その宝石を、香華宮の庭に埋めた。後で持ち主がわかったら、掘り出してそっと返そうと決めて。
「あれは私の心臓だ」
「えええ!?」
衝撃の告白に丹華は跳び上がった。もちろん今も、あの宝石は庭の楓の樹の下に埋まったままだ。
「そ、そんな大事なものをわたし、つ、土に埋めて……!?」
思わず涙目になる丹華。濡れ羽色のまつげが畏れで震え出したのを、煌炎がよしよし、と額の髪を梳いてなだめる。
「心臓と言っても、砕かれて死ぬようなものではない。それくらい大切なものということだ。鳳凰が生涯にたったひとり、魂の番に贈る愛の証――お前はそれを受け取った」
たしかに受け取った。
「そして土に埋めた」
間違いなく埋めた。
「――だから人の子は、大切なものは土に埋めるものだと知った」
「いいい、今から掘り返してきますっ!」
今にも庭へ走っていこうと暴れ出した丹華を煌炎が腕の中に閉じ込める。そしてもうひと粒、葡萄を口へと押し込んだ。
「丹華は賢いな。結果的に、あの宝玉を肌身離さず身に着けるより邸の敷地に埋めておいた方がお前の助けになったのだから」
「それはどういう……?」
「宝玉の力が邸全体に及び、冥護の相を得た。だからこの宮でお前を害そうとする者は、私の力で阻まれる」
「……あ……」
いつも、不思議な力に護られているようだと感じていた。皇太后の悪意はこれまで何度も丹華を苦しめたが、命を奪うことまではできなかった。
――それは、煌炎の力だったのだ。
「煌炎さまが、ずっとわたしのことを護ってくださっていたのですね……」
情を通じ、縁を結んだあの日よりもずっとずっと前から煌炎は丹華の側にいた。丹華を一途に愛し、護ってくれていたのだ。
丹華の心に、煌炎を愛しいと想う気持ちがあふれた。同時に、自分の身体にふたりの愛の結晶が宿っているのだという深い実感も。
「お前は『誰のものにもなりたくない』とよく言っていた」
「はい。棲鳳宮の掃除をしていた時に、よくそんな独り言を零していたかもしれません」
「だから私は、お前が自ら私を求める時まで待つと決めた。本当はすぐにでもわが宮に閉じ込めてしまいたかったが……無理矢理お前を手に入れるようなことはしなかった」
煌炎の手が、耳朶をあやすように撫でた。そのまま指は丹華の頬を滑り落ち、華奢な顎を掬い上げる。螺鈿の色彩を持つ瞳が丹華を見た。丹華の瞳も、煌炎だけを映した。ふたりの顔は今にも触れ合いそうなほど近づく。
「煌炎さま……」
「だというのに――なぜお前は、私という番がありながら三度も他人のものになろうとしたんだ?」
「えっ?」
煌炎は急に顔を逸らしたかと思うとハァー、とため息をつく。
「さすがの私もあれには傷ついたさ。それでもちゃんと三度とも、必要最低限の干渉に留めてお前の降嫁先を潰しただろう?」
「降嫁先を……潰す?」
「ああ」
鳳凰神は一点の曇りもない爽やかな笑みを見せた。
「お前が気に病まずに済むかたちで相手の男の羽根をむしり取るのは、少々骨だったよ」
煌炎は丹華を護ってくれていた。
――と同時に、丹華の「嫁き遅れ」の原因も煌炎だったことがこの時明らかになったのだった。
神と人の間に子が宿るなんて、本当に起こり得るの?
そもそも、腹に赤子がいるかどうかわかるには二月か三月は必要なはずでは――?
そんな疑問を差し挟む余地は端からなかった。
「さあ丹華、お食べ。お前の身体はもう、お前ひとりのものではないのだからね」
「あ、ありがとうございます……」
今日も煌炎は香華宮にやってきて、かいがいしく丹華の世話を焼く。どこで手に入れたのか立派な鈴なりの葡萄を手土産に、ひと粒もぎると丹華の口に押し込んだ。
丹華は恥じらいつつも、遠慮がちにぱくりと頬張る。元よりここは彼の膝の上なので、嫌がったところで逃れようもないのだが。
『たんか! たんかごはんたべる?』
『虫いる? 虫たべる?』
「丹華は私の番だ。私の与えたものしか食べない」
小鳥たちが窓辺に集まってきて口々に話しかけるのを、煌炎はすげなく遮った。
美しく愛情深いこの神は、時々少し子供っぽいところがある。煌炎の腕の中で丹華はくすくすと笑った。
「煌炎さまはピーちゃんだった時から、いつも色々な贈り物をわたしにくださいましたね」
ピーちゃんはいつも、丹華に植物の種をくれた。その種が咲かせた草花が、これまでどれだけ丹華の心を癒し、満たしたことか。まさに今、彼がくれたひと粒の葡萄が丹華の喉の渇きを潤したように。
「当たり前だろう。給餌は雄の権能だ。雌に求愛するのにまず餌を与えなくてどうする?」
「えさ……。求愛?」
思わずぽかんと開いた丹華の口元を、煌炎が指でなぞる。
「そうだよ。私はお前に求愛して、お前はそれを受け入れてくれたね。私の与えた餌を、いつも喜んで受け取っていた」
(あの種は餌……つまり求愛のための餌付けだったの!?)
鳥類の雄が捕らえた獲物を雌へ贈り、愛情を示す習性があるとは聞いたことがある。
しかしまさか、ピーちゃんがくれたあの種にそれほど重い意味が込められているとは知らなかったのだ。
「わ、わたし、いただいた種はいつもその、庭に蒔いていて……」
「ああ。お前がなぜそうするのかが、はじめはわからなかった」
だが今は知っているよ、と煌炎は優しく目を細めた。
「大切なものは土に埋めるのが人の子の作法なのだろう?」
「はい?」
「以前、私はお前に紅い宝玉を与えたね」
これくらいの、と親指と人差し指で円を作ってみせる。たしかに、ピーちゃんは一度だけ丹華に宝石を持ってきたことがあった。
(あんまり立派な宝石だったから、ピーちゃんがどこかから盗ってきてしまったのだと思ったのよね……)
まるで燃える炎を閉じ込めたかのような美しい石だった。ひと目でとても高価で貴重なものだと見抜いた丹華は、そこである疑念を抱いたのだ。
――もしやこの宝石は、同じ後宮内の妃嬪のものなのではないか、と。
これだけ立派な宝石が、道端に落ちていたとは思えない。元の持ち主はきっと今ごろ必死に探しているはずだ。
それを丹華が身に着けたり部屋に置いておこうものなら、何かの拍子で見つかった時に泥棒扱いされるのは必至。しかし受け取らないままピーちゃんがどこかに捨ててしまったら、持ち主が可哀想だ。
悩んだ丹華は――その宝石を、香華宮の庭に埋めた。後で持ち主がわかったら、掘り出してそっと返そうと決めて。
「あれは私の心臓だ」
「えええ!?」
衝撃の告白に丹華は跳び上がった。もちろん今も、あの宝石は庭の楓の樹の下に埋まったままだ。
「そ、そんな大事なものをわたし、つ、土に埋めて……!?」
思わず涙目になる丹華。濡れ羽色のまつげが畏れで震え出したのを、煌炎がよしよし、と額の髪を梳いてなだめる。
「心臓と言っても、砕かれて死ぬようなものではない。それくらい大切なものということだ。鳳凰が生涯にたったひとり、魂の番に贈る愛の証――お前はそれを受け取った」
たしかに受け取った。
「そして土に埋めた」
間違いなく埋めた。
「――だから人の子は、大切なものは土に埋めるものだと知った」
「いいい、今から掘り返してきますっ!」
今にも庭へ走っていこうと暴れ出した丹華を煌炎が腕の中に閉じ込める。そしてもうひと粒、葡萄を口へと押し込んだ。
「丹華は賢いな。結果的に、あの宝玉を肌身離さず身に着けるより邸の敷地に埋めておいた方がお前の助けになったのだから」
「それはどういう……?」
「宝玉の力が邸全体に及び、冥護の相を得た。だからこの宮でお前を害そうとする者は、私の力で阻まれる」
「……あ……」
いつも、不思議な力に護られているようだと感じていた。皇太后の悪意はこれまで何度も丹華を苦しめたが、命を奪うことまではできなかった。
――それは、煌炎の力だったのだ。
「煌炎さまが、ずっとわたしのことを護ってくださっていたのですね……」
情を通じ、縁を結んだあの日よりもずっとずっと前から煌炎は丹華の側にいた。丹華を一途に愛し、護ってくれていたのだ。
丹華の心に、煌炎を愛しいと想う気持ちがあふれた。同時に、自分の身体にふたりの愛の結晶が宿っているのだという深い実感も。
「お前は『誰のものにもなりたくない』とよく言っていた」
「はい。棲鳳宮の掃除をしていた時に、よくそんな独り言を零していたかもしれません」
「だから私は、お前が自ら私を求める時まで待つと決めた。本当はすぐにでもわが宮に閉じ込めてしまいたかったが……無理矢理お前を手に入れるようなことはしなかった」
煌炎の手が、耳朶をあやすように撫でた。そのまま指は丹華の頬を滑り落ち、華奢な顎を掬い上げる。螺鈿の色彩を持つ瞳が丹華を見た。丹華の瞳も、煌炎だけを映した。ふたりの顔は今にも触れ合いそうなほど近づく。
「煌炎さま……」
「だというのに――なぜお前は、私という番がありながら三度も他人のものになろうとしたんだ?」
「えっ?」
煌炎は急に顔を逸らしたかと思うとハァー、とため息をつく。
「さすがの私もあれには傷ついたさ。それでもちゃんと三度とも、必要最低限の干渉に留めてお前の降嫁先を潰しただろう?」
「降嫁先を……潰す?」
「ああ」
鳳凰神は一点の曇りもない爽やかな笑みを見せた。
「お前が気に病まずに済むかたちで相手の男の羽根をむしり取るのは、少々骨だったよ」
煌炎は丹華を護ってくれていた。
――と同時に、丹華の「嫁き遅れ」の原因も煌炎だったことがこの時明らかになったのだった。