それからの数日を、丹華はほとんど香華宮の中で過ごした。まだ何か起こるのではと警戒したのもあるし、なんだか体調がすぐれない。それに――。
『たんか! たんかげんきなった?』
『ごはんちょうだい! たんかごはん!』
『きびがいい! きびたべる!』
――この調子である。
あの日以来、丹華は鳥の言葉がわかるようになっていた。後宮に住んでいる小鳥たちはもちろん、上空を横切った雁の群れが「腹減った、疲れた」と会話しているのを聞いてしまった。
それもこれも煌炎と名乗る神と一夜を過ごしてからだ。伝説によれば、鳳凰はあらゆる鳥類の王であるという。
(やっぱり夢じゃなかった……? ピーちゃんが鳳凰さまで、本当の名前は煌炎さまで、わたしが彼と、だだだ男女の、契りを――)
思い出すと顔から火が出そうになって、丹華は庭の隅で座り込んだ。小鳥たちはその周りで「だいじょうぶ?」「あそぼあそぼ」と無邪気にさえずり――。と、その時。
「ぎゃーーっ!」
邸の中から詩詩の叫び声がした。あわてて戻ると、詩詩は臥房の入口で尻もちをついている。何ごとかと中を覗き込めば、陽射し降り注ぐ窓辺にひとりの男が――煌炎が立っていた。
金の髪、緋色の衣。窓からの陽光を浴び佇むその様は、まるで後光を背負っているかのよう。まさしく神の美の体現であった。
「ピ……じゃない、煌炎さま!?」
「やあ丹華。ずいぶんとつれない真似をしてくれるね。これも閨の駆け引きというものか?」
あの日、媚薬の熱に浮かされる丹華を癒した男が、今たしかに目の前にいる。つまり、あの逢瀬は夢ではなく現実だった――。あいまいだった記憶が急に手応えを持ち、丹華の体温は一気に上昇した。
女ふたりが言葉を失う中、煌炎はゆったりした動作で大袖を返すと整った口元を尖らせた。
「朝霞のように消えてしまって、その後一向にわが宮を訪れない。お前のいない一日が、まるで千年の苦厄のようだった」
どうやら、あの日以来丹華が棲鳳宮を訪ねてこないことを不満に思っているらしい。たった数日の不義理をこの世の終わりみたいな調子で嘆かれてあっけにとられたが、彼の秀眉がしゅんと下がると胸が締めつけられる気がする。
「わざと焦らしているのかとも思ったが……理由がわかった」
煌炎は静かな歩みで丹華の目の前までやってくる。あの日と同じ遊色の瞳で丹華を見つめ、絶世の美貌は微笑んだ。
「履がなかったから来られなかったのだろう?」
「はい?」
煌炎が得意げにほら、と取り出してみせたのは一足の錦履。
間違いない。あの日棲鳳宮に置いてきた丹華の履だ。
「人の子は履がなければ歩けないからな」
「あ、ええ、はい……ありがとう……ございます」
この神は、人間がひとり一足しか履を持てないと思っているのだろうか。丹華は差し出された履を受け取り、コクコクと頷くしかなかった。
(優しいかた、なのね……)
少し方向性はずれているものの、彼なりに丹華のことを考え、善意でわざわざ持ってきてくれたのだろうことは伝わった。
煌炎は機嫌をよくしたのか、満足そうに目を細める。長い指で丹華の頬に触れ、耳にかかる黒髪を梳いた。親鳥が雛を慈しむようなその手つき、彼の指先から零れるのは丹華への深い思慕だ。
(この前李侍郎に触られた時は嫌悪しかなかったのに、このかたに触れられるのは嫌じゃない……。むしろ、うれしい)
煌炎の手は丹華に安らぎと心地よさをくれる。もっと触れてほしいとさえ思う。うっとりしてされるがままになっていたら――急に詩詩が横から丹華を引っ張って引き剥がした。
その手にはいつの間にかほうきが握られていて、ふたりの間に割って入る。
「たっ、丹華さま! この男は何者です!?」
「神だ」
さすがに目の前の男が神を自称するとは予想していなかったのか、詩詩は一瞬ポカンとするも……すぐに調子を取り戻してほうきを構えなおす。
「な~にが神よ、ちょっと見目がいいからってだまされるもんですか! 李侍郎や皇太后の刺客でないという証拠は! 神ならありがたいお告げのひとつやふたつしてみろってのよ!」
身を証立てろと言われて、煌炎は少し考えるようなそぶりを見せる。
「そうだな……。お前の失せ物は清宵宮の手前の銀梅花の茂みの中にある」
「は? な、何を突然……」
「お前が宣託せよと言うからしてやったのだが?」
煌炎は不機嫌そうに詩詩を睥睨した。
そのやり取りを横で聞いていた丹華は、ややあってぽんと手を叩く。
「ねえ詩詩。もしかして失せ物って、跳脱のことじゃ?」
「えぇ~、まさかぁ! …………ほんとに?」
本当は今すぐ走ってたしかめに行きたいのだろう。しかし見知らぬ男と丹華をふたりきりにするわけにもいかないらしく、詩詩はそわそわしだした。煌炎はしばらく何も言わずにただ立っていたが、少しして不意にふわりと窓の方へ手を伸ばす。
「仕方がないから届けさせてやった」
「へ!?」
煌炎の言葉を合図に、バサバサと窓辺に何かが降り立つ。それは一羽の白鷺だった。
くちばしにくわえているのはあの詩詩の跳脱。翼を畳んだ白鷺はしずしずと床を歩いて進み出て、恭しく頭を垂れてから煌炎の手に跳脱を乗せた。花文のあしらわれた銀の跳脱は、そっくりそのままのかたちで詩詩の手に戻ってきた。
「え、うそ、どうやって……ほんとに鳳凰さま……? で、でも、いきなり女人の臥房に入り込むような輩が神だなんて……」
まだ信じきれない様子で手の中の跳脱と煌炎の顔を見比べる詩詩に、白鷺がムッとした様子で悪態をついた。
『偉大なる翺翔瑞君に向かって失礼な人間ですね。くちばしで目玉をえぐってやりましょうか?』
「だっ、だめよえぐらないで! 詩詩はわたしのことを心配するあまり、少し疑い深くなってるだけで……!」
目を狙われては大変だ、と丹華が思わず弁明する。するとたちどころに、丹華以外の全員が驚きの目で丹華を見た。
「丹華さま、一体誰と話してるんです……?」
「ええ、そこの白鷺さんと――あっ」
しまった、と口を押さえる。鳥の言葉が聞こえるということは、まだ詩詩にも話していない。
「丹華。お前は白鷺の言葉がわかるのか?」
「……はい」
「いつから?」
「…………。あなたと褥を共にした日から……」
今さら隠しても仕方がない。煌炎の問いに、丹華は正直に答えた。真っ赤になってうつむくと、白鷺が「なんとまあ」と長い首を縦に伸ばす。
煌炎は一度ゆっくりと瞬きした。それから少々改まった調子で口を開く。
「丹華、お前――――孕んだな」
「?」
すぐには理解が及ばず、丹華は目をぱちくりさせた。
(はらむ……? それって子ができたという意味よね。だ、誰に? 誰の?)
混乱する丹華を、煌炎が抱き上げた。神たる男は丹華を己の頭より高い位置に据え、そのかんばせを五色の光が揺らめく瞳で覗き込む。見上げる表情は抑えきれない愛しさに満ちていて、彼の愛の深さを教えていた。
「ああ、丹華……私の魂の番よ。お前は私の子を身籠った。胎に神の力を宿した。だから私の眷属である鳥の声が聞こえるのだよ」
「え……」
「えええええええええ!?」
丹華の叫びは香華宮の外まで響き渡り、詩詩は衝撃のあまり倒れた。
『たんか! たんかげんきなった?』
『ごはんちょうだい! たんかごはん!』
『きびがいい! きびたべる!』
――この調子である。
あの日以来、丹華は鳥の言葉がわかるようになっていた。後宮に住んでいる小鳥たちはもちろん、上空を横切った雁の群れが「腹減った、疲れた」と会話しているのを聞いてしまった。
それもこれも煌炎と名乗る神と一夜を過ごしてからだ。伝説によれば、鳳凰はあらゆる鳥類の王であるという。
(やっぱり夢じゃなかった……? ピーちゃんが鳳凰さまで、本当の名前は煌炎さまで、わたしが彼と、だだだ男女の、契りを――)
思い出すと顔から火が出そうになって、丹華は庭の隅で座り込んだ。小鳥たちはその周りで「だいじょうぶ?」「あそぼあそぼ」と無邪気にさえずり――。と、その時。
「ぎゃーーっ!」
邸の中から詩詩の叫び声がした。あわてて戻ると、詩詩は臥房の入口で尻もちをついている。何ごとかと中を覗き込めば、陽射し降り注ぐ窓辺にひとりの男が――煌炎が立っていた。
金の髪、緋色の衣。窓からの陽光を浴び佇むその様は、まるで後光を背負っているかのよう。まさしく神の美の体現であった。
「ピ……じゃない、煌炎さま!?」
「やあ丹華。ずいぶんとつれない真似をしてくれるね。これも閨の駆け引きというものか?」
あの日、媚薬の熱に浮かされる丹華を癒した男が、今たしかに目の前にいる。つまり、あの逢瀬は夢ではなく現実だった――。あいまいだった記憶が急に手応えを持ち、丹華の体温は一気に上昇した。
女ふたりが言葉を失う中、煌炎はゆったりした動作で大袖を返すと整った口元を尖らせた。
「朝霞のように消えてしまって、その後一向にわが宮を訪れない。お前のいない一日が、まるで千年の苦厄のようだった」
どうやら、あの日以来丹華が棲鳳宮を訪ねてこないことを不満に思っているらしい。たった数日の不義理をこの世の終わりみたいな調子で嘆かれてあっけにとられたが、彼の秀眉がしゅんと下がると胸が締めつけられる気がする。
「わざと焦らしているのかとも思ったが……理由がわかった」
煌炎は静かな歩みで丹華の目の前までやってくる。あの日と同じ遊色の瞳で丹華を見つめ、絶世の美貌は微笑んだ。
「履がなかったから来られなかったのだろう?」
「はい?」
煌炎が得意げにほら、と取り出してみせたのは一足の錦履。
間違いない。あの日棲鳳宮に置いてきた丹華の履だ。
「人の子は履がなければ歩けないからな」
「あ、ええ、はい……ありがとう……ございます」
この神は、人間がひとり一足しか履を持てないと思っているのだろうか。丹華は差し出された履を受け取り、コクコクと頷くしかなかった。
(優しいかた、なのね……)
少し方向性はずれているものの、彼なりに丹華のことを考え、善意でわざわざ持ってきてくれたのだろうことは伝わった。
煌炎は機嫌をよくしたのか、満足そうに目を細める。長い指で丹華の頬に触れ、耳にかかる黒髪を梳いた。親鳥が雛を慈しむようなその手つき、彼の指先から零れるのは丹華への深い思慕だ。
(この前李侍郎に触られた時は嫌悪しかなかったのに、このかたに触れられるのは嫌じゃない……。むしろ、うれしい)
煌炎の手は丹華に安らぎと心地よさをくれる。もっと触れてほしいとさえ思う。うっとりしてされるがままになっていたら――急に詩詩が横から丹華を引っ張って引き剥がした。
その手にはいつの間にかほうきが握られていて、ふたりの間に割って入る。
「たっ、丹華さま! この男は何者です!?」
「神だ」
さすがに目の前の男が神を自称するとは予想していなかったのか、詩詩は一瞬ポカンとするも……すぐに調子を取り戻してほうきを構えなおす。
「な~にが神よ、ちょっと見目がいいからってだまされるもんですか! 李侍郎や皇太后の刺客でないという証拠は! 神ならありがたいお告げのひとつやふたつしてみろってのよ!」
身を証立てろと言われて、煌炎は少し考えるようなそぶりを見せる。
「そうだな……。お前の失せ物は清宵宮の手前の銀梅花の茂みの中にある」
「は? な、何を突然……」
「お前が宣託せよと言うからしてやったのだが?」
煌炎は不機嫌そうに詩詩を睥睨した。
そのやり取りを横で聞いていた丹華は、ややあってぽんと手を叩く。
「ねえ詩詩。もしかして失せ物って、跳脱のことじゃ?」
「えぇ~、まさかぁ! …………ほんとに?」
本当は今すぐ走ってたしかめに行きたいのだろう。しかし見知らぬ男と丹華をふたりきりにするわけにもいかないらしく、詩詩はそわそわしだした。煌炎はしばらく何も言わずにただ立っていたが、少しして不意にふわりと窓の方へ手を伸ばす。
「仕方がないから届けさせてやった」
「へ!?」
煌炎の言葉を合図に、バサバサと窓辺に何かが降り立つ。それは一羽の白鷺だった。
くちばしにくわえているのはあの詩詩の跳脱。翼を畳んだ白鷺はしずしずと床を歩いて進み出て、恭しく頭を垂れてから煌炎の手に跳脱を乗せた。花文のあしらわれた銀の跳脱は、そっくりそのままのかたちで詩詩の手に戻ってきた。
「え、うそ、どうやって……ほんとに鳳凰さま……? で、でも、いきなり女人の臥房に入り込むような輩が神だなんて……」
まだ信じきれない様子で手の中の跳脱と煌炎の顔を見比べる詩詩に、白鷺がムッとした様子で悪態をついた。
『偉大なる翺翔瑞君に向かって失礼な人間ですね。くちばしで目玉をえぐってやりましょうか?』
「だっ、だめよえぐらないで! 詩詩はわたしのことを心配するあまり、少し疑い深くなってるだけで……!」
目を狙われては大変だ、と丹華が思わず弁明する。するとたちどころに、丹華以外の全員が驚きの目で丹華を見た。
「丹華さま、一体誰と話してるんです……?」
「ええ、そこの白鷺さんと――あっ」
しまった、と口を押さえる。鳥の言葉が聞こえるということは、まだ詩詩にも話していない。
「丹華。お前は白鷺の言葉がわかるのか?」
「……はい」
「いつから?」
「…………。あなたと褥を共にした日から……」
今さら隠しても仕方がない。煌炎の問いに、丹華は正直に答えた。真っ赤になってうつむくと、白鷺が「なんとまあ」と長い首を縦に伸ばす。
煌炎は一度ゆっくりと瞬きした。それから少々改まった調子で口を開く。
「丹華、お前――――孕んだな」
「?」
すぐには理解が及ばず、丹華は目をぱちくりさせた。
(はらむ……? それって子ができたという意味よね。だ、誰に? 誰の?)
混乱する丹華を、煌炎が抱き上げた。神たる男は丹華を己の頭より高い位置に据え、そのかんばせを五色の光が揺らめく瞳で覗き込む。見上げる表情は抑えきれない愛しさに満ちていて、彼の愛の深さを教えていた。
「ああ、丹華……私の魂の番よ。お前は私の子を身籠った。胎に神の力を宿した。だから私の眷属である鳥の声が聞こえるのだよ」
「え……」
「えええええええええ!?」
丹華の叫びは香華宮の外まで響き渡り、詩詩は衝撃のあまり倒れた。