嫁き遅れ公主は鳳凰の番となって瑞宝を宿す

(だまされた……!)

 丹華(たんか)は走っていた。
 ここは緋祥国(ひしょうこく)、皇帝の住まう禁城の後宮である。数多の妃嬪(ひひん)や宮女たちが暮らす広大な地上の園を、丹華はひとり、もつれる足で駆けていた。
 先ほどから喉がカラカラに乾き、心臓は異様な速さで脈打っている。身体の内側が燃えるように熱くなって、全身から大量の汗が噴き出していた。

(まさか白昼堂々、媚薬(びやく)を盛られるなんて! ()侍郎(じろう)、信じていたのに……!)

 身を(けが)されかけた恐怖と、まんまと(はか)られたというくやしさ。思わず涙がにじむのを、流れ落ちる汗とともに拭う。
 追っ手があるかはわからない。しかし立ち止まったら最後、足に力が入りそうもない。
 これまで感じたこともない激しい焦燥に身を焼かれながら、丹華はただひたすら逃げつづけるしかなかった。


 時は少しさかのぼる。

「っくしゅん!」

 ガタガタの木戸の隙間から冷たい風が吹き込んで、朝餉(あさげ)の薄粥を食べ終えたばかりの丹華は細い肩を震わせた。

 丹華は緋祥国の公主、つまり皇帝の血を引く姫君である。――といっても、実の父である先帝は五年前に崩御し、現在は腹違いの弟が即位しているため正確な肩書きは長公主(ちょうこうしゅ)という。

「もう秋も終わりね……」

 花頭窓から見える庭の木々はちらほらと黄や紅に色づきはじめている。中秋節からひと月が過ぎ、ここ数日で朝晩がぐっと冷え込むようになった。

「せめて窓や戸の建付けだけでも直してもらえないんでしょうか」
「無理無理。建物の整備は尚寝局(しょうしんきょく)の管轄でしょう。後宮の六局はすべて皇太后さまが掌握しておられるもの。わたしの要望が通りっこないわ」

 侍女の詩詩(しーしー)が沸かしてくれた白湯をすすり、丹華はあきらめ顔で首を左右に振った。

 ここは後宮のはずれにある香華宮(こうかきゅう)。丹華の住まいだ。
 建物の名前は大層だが、老朽化がひどくところどころガタがきている。室内は物が少なくがらんとしており、侍女は詩詩ひとりしかいない。

 近ごろ後宮すべての建物の大改修が行われたばかりで、ひときわ古いこの香華宮も職人の手が入って屋根の雨漏りや壁のひびが直されるはずだった。「これで冬の隙間風に震えなくてすむわね」と、丹華と詩詩は手を取り合って喜んだものだ。
 ところが蓋を開けてみれば、直されたのは外観の塗装だけ。その結果、香華宮は外から見ると派手派手しいのに中はボロのまま、というなんともちぐはぐな状態になってしまった。
 十中八九皇太后の差し金である。

「あのクソ皇太后、いつか罰が当たりますわ!」
「そんな言葉、誰かに聞かれたら大変よ? いいのよ。『()き遅れの呪われ公主』に余計な費用を割く必要はないわ」

 世間の風評を持ち出して、丹華は自嘲気味に笑った。

 丹華は現在二十二歳。弟の代になっても未婚のまま後宮に留まっている公主は丹華ただひとりだ。
 この国では公主含め女は遅くとも十七までに嫁ぐのが通例なので、二十を超えた丹華は完全な「嫁き遅れ」というわけである。
 あっけらかんと白湯に口をつける丹華に対し、年上の詩詩はぎりぎりと己の衣の袖を噛みしめた。

「嫁き遅れだなんて……! 丹華さまはこれだけお美しいんですもの。(やしき)のことだけでなく、もっと着飾るべきですわ」
「皇太后さまの機嫌を損ねて、お母様の形見を奪われたり食事に毒を盛られるのはもうこりごり。地味に過ごすに限るわ」

 これまで受けた嫌がらせの数々を思い出して、ハァ、とため息をつく。

「皇太后さまったら、またわたしの嫁ぎ先を探してるらしいの。早くわたしを後宮(ここ)から追い出したいけど、結婚して幸せになられるのは許せないみたい。だからできるだけみじめで屈辱的な相手を探しているんですって」

 まったく失礼な話である。丹華にも、丹華の婿に選ばれる相手にも。
 しかし皇帝の名で宣旨が下されてしまえば、丹華は従うしかなくなる。

「……やはり出家するしかないかしら……」

 最後のつぶやきは、詩詩にも聞こえぬくらいの小声だった。

 実はこれまで、丹華には三度の縁談があった。公主として生まれた以上、丹華は相手が誰であろうと粛々と従う覚悟でいた。
 だがなぜか、いざ縁談がまとまって降嫁しようとした途端、相手がみな不幸な目に遭う(・・・・・・・・・・・・)のだ。

 一度目の相手は当時の尚書令(しょうしょれい)の長男だった。だが突然父親が失脚し、連座で責任を取らされた。父帝は信頼していた家臣に裏切られた心労が大きかったのか、この後すぐに亡くなってしまった。
 二度目の相手は言葉も通じぬ蛮族の王で、落馬が原因で亡くなった。
 三度目の相手は三十も年上の地方の県令だったが、丹華が輿入れのために禁城を発ったその日に火事で全財産を失った。しかも消し炭になった邸宅から横領の証拠だけが燃えずに出てきたというおまけつき。

 ここまで不幸がつづくと、「丹華長公主は呪われているのではないか」という噂がまことしやかにささやかれはじめた。
 ただでさえ丹華は皇太后に嫌われている。皇帝はまだ御年十二歳で、生母である皇太后がこの国の実権を握っているから、彼女に疎まれている丹華を進んで娶ろうという男が現れるはずもなく――。
 そこに呪いの噂が追い打ちとなって、丹華は完全に嫁ぎ先を失ってしまった。

 こうして、今も丹華長公主は弟帝の妃嬪たちが住まう後宮の隅で暮らしているのである。

「せめて冬に備えてあたたかいお召し物だけでも新調なさいませんか」
「今年は長雨で農作物が不作だったから、民はみんな苦しんでいるの。わたしひとりが贅沢するわけにはいかないわ」

 皇太后が好き勝手に血税を使うせいで、弟帝は民から暗愚と呼ばれているそうだ。
 丹華ひとりが節制したところで後宮が――あるいはこの城全体が浪費をやめねば意味がない。わかっているのに、やめさせるだけの力がないことが心苦しかった。

「そろそろ掃除の時間だわ。詩詩は室内をお願いね。わたしは庭と畑の様子を見て、ついでに棲鳳宮(せいほうきゅう)も掃き掃除してくるわ」
「主上の姉君が畑を作って自給自足の上に掃除までなさるだなんておいたわしい……」

 詩詩の嘆きはもっともだが、丹華は土いじりも掃除もそれほど嫌いではない。暗い気持ちを切り替えて、ほうきを手に外へ出た。
 
 丹華の黒髪は粗末な環境に置かれてもなお艶を失わない。つぶらな瞳に可憐な唇、薄紅色の頬は名の由来である月季花のように愛らしく、にこりと微笑めば彼女を齢より幼く見せた。
 きちんと化粧をして着飾れば、「桃花の精」と(たと)えられた母以上の美姫になるに違いないのに……と詩詩は常々嘆いている。
 もっとも、先帝の寵愛を独占していた母に似ているせいで、皇太后から恨まれてしまっているのだが。

 丹華の母は皇太后にとって憎き恋敵だった。その憎悪は母が亡くなってからも消えることなく、そのまま娘の丹華へ向けられた。父帝が病に伏せたころから嫌がらせは悪化し、幼い息子を帝位に就けてからは害意を隠そうともしなくなった。

(なぜか、命にかかわるような目にだけは遭ったことがないんだけどね)

 実のところ、毒や間者で暗殺を試みられた回数は両手では数えきれない。なのになぜか、それらの目論見はいつも必ず露見し、失敗に終わっていた。まるで不思議な力に護られているように――。

(鳳凰さまのご加護かもしれないわね)

 慣れた手つきで香華宮の庭を掃き終えた丹華は、ほうきを片手に後宮の北へ向かった。
 鬱蒼と茂る木々を掻きわけ、もはや段通(じゅうたん)といってもいいくらい降り積もった梧桐(ごとう)の落ち葉の向こうに、広い石造りの堂がある。
 どこか厳かな雰囲気を持つその建物は、名を棲鳳宮(せいほうきゅう)という。

 かつてこの国に神鳥たる鳳凰が現れた。鳳凰はその羽ばたきで、豊かな実りを地にもたらしたのだという。鳳凰の導きを得た初代皇帝は、鳳凰がこの緋祥国に長くとどまることを願って後宮に神のための住まいを設けた。それがこの棲鳳宮である。

 ところが後宮の北のはずれにあるこの堂、近ごろあまり手入れされていない。別の場所に立派な鳳凰殿が建てられたから棲鳳宮(ここ)はお役御免ということらしいのだが、庭や池も荒れ放題なのを見かねた丹華が時折掃除している。

 丹華が池の落ち葉をほうきで岸に寄せていると、周囲の小鳥たちが集まってきた。

「ちゃんと餌をあげるから、そこに植えた麦の種は食べてはだめよ」

 用意していた餌をまいてやると、小鳥たちは一斉についばみはじめた。言い聞かせが通じているのかは定かではないが、横の麦畑に小鳥たちは立ち入らない。
 ふと空を見上げると、堂の陰から赤い鳥が一羽飛んできて、丹華の頭上を舞うように旋回した。

「あらピーちゃん、ごきげんよう」

 ピーちゃんはこの棲鳳宮を寝床にしている美しい鳥だ。大きさは(ひよどり)くらいで、他のどの鳥とも姿かたちが違う。全体的に赤みがかっていて尾羽は長く、翼の内側は光の角度によって五色に輝いて見える。
 音もなく丹華の腕に下り立ったピーちゃんは、手のひらをくちばしでつついて黒っぽい小石のようなものを数粒置いた。何かの種だ。

「まあ、くれるの? いつもありがとう。早速明日庭に植えてみるわ。どんな花が咲くかたのしみね」

 微笑む丹華の面前で、ピーちゃんは大きく翼を広げてみせた。「とっても綺麗だわ」と褒めると、なんだか誇らしげだ。

「ふふ、あなたがくれた種から増やした麦、もしかしたらこの国の救いになるかもしれないわ。明日、工部侍郎(こうぶじろう)に取れた麦を見せる約束をしているのよ」

 ピーちゃんはよく、どこからか植物の種を運んできて丹華にくれる。一度だけ大きな宝石をくわえてきたこともあって、さすがにその時は困ってしまったけれど。
 もらった種はいつも香華宮の庭に植えている。後宮では見られない花が咲いたり不思議な味の実がなったりと、四季折々の草花は丹華をたのしませた。その中のひとつが、麦の種だったのだ。

 ピーちゃんのもたらした麦は暑さ寒さに強く、毎年立派な穂を実らせた。そのうち香華宮では手狭になってしまって、今は棲鳳宮の庭の隅を間借りして麦を育てている。今年は雨期が長引き国内の穀類が大不作だったにもかかわらず、ここに植えられた麦は枯れることなく元気に育った。

 そこで丹華は考えたのだ。天候不順に強いこの麦の作付けを増やせば、民の助けになるのではないかと。
 工部は国内の農墾や水利を担っている。その次官にあたる侍郎の李氏とは、以前から面識があった。

(もちろん、そう調子よく進むかはわからないけど……わたしも国のために、何かできることをしたいから)

 この件を見届けたら、出家して道観(どうかん)で民の幸せを祈りながら暮らそう――。
 丹華は密かに決意を固めつつあった。


 その夜、丹華は夢を見た。

 真っ白い雲の上のような場所に、ひとりの男が立っている。
 まばゆく輝く黄金の髪。優雅に肩から流れ落ちる長い髪は先にゆくにつれ炎のように赤みを帯びている。極彩色の衣を纏った、世にも美しい男だった。

 知らない男なのに、不思議な既視感と懐かしさがある。同じ夢を何度も見た気がする。
 男は夜光貝の螺鈿(らでん)のように五色に揺らめく瞳で丹華を見た。

『可愛い丹華。一体いつ私のものになるのかな』

 まるで情人(こいびと)に愛をささやく風に。ひどく甘い声音は丹華をどきりとさせた。彼の目に覗き込まれたら思考まで筒抜けになってしまいそうで、小さく首を左右に振る。

「わたしは誰のものでもないわ」

 丹華は丹華自身のものだ。心も、身体も。
 けれどもし、この美しい男に乞われたら――自分は魂すら差し出してしまうかもしれない。そんな陶酔めいた予感が全身を駆け巡る。
 しかし男はただ優しく微笑むばかりで、何も求めてはこない。代わりにそっと、白く長い指で丹華の頬をなでた。

『お前が望めば、いつでもわが宮に迎え入れてやろう。丹華、お前が私の愛に浴し魂の(つがい)となる時を待っているよ』


 次の日の午後、丹華は李侍郎に会うため大蓮池(だいれんいけ)に向かっていた。
 この後宮は正門をくぐってすぐに巨大な池があり、池の中ほどにいくつか両岸から橋の架けられた小島がある。一部の人間はその小島まで立ち入ることができるので、そこで李侍郎と面会の約束をしていた。

 李侍郎に見せるための麦穂の束を抱え詩詩を連れて歩いていると、途中できらびやかに装った妃嬪のひとりとすれ違う。

「あの女、なんで草を抱えてるのかしら」
「長公主は庭に植えられた木の根まで食すような悪食だそうですよ」
「ああいやだ……あまり近づくと嫁き遅れの呪いがうつるわよ」

 年若い妃は侍女たちと目配せし合ってけらけら笑った。皇姉の丹華の方が序列は上であるのに、頭を下げることすらしない。どうせいつものことだ、と丹華はいちいち怒る気も起きなかった。

「丹華さまはちょっと好奇心が強くてなんでも煮て食べてみようとするだけで悪食ではありません!」

 地団駄を踏む詩詩をどうにか落ち着かせ、先を急いだ。
 池にかかる石橋を渡ると小島の中心に四阿(あずまや)がある。黄金の鳳凰像が飾られた屋根の下に、やや太り気味の男の背中が見えた。

「ごきげんよう、李侍郎」

 声をかけると、李侍郎は鞠のように四阿から飛び出してきて文官の作法で拱手(きょうしゅ)礼をした。大きなお腹がつかえているせいでなんだか苦しそうに見える。

「お待たせしてしまったかしら?」
「とんでもないことでございます。さあさあ、どうぞ中へおかけください。香りのよい蜜花茶を持ってまいりました」

 麦の話は、と思ったけれど、せっかくの厚意を無下にするのも気が引けたので黙って座った。
 李侍郎の丸々とした手で黄金色の茶が注がれ、梔子花(くちなし)のような甘い香りが辺りに漂う。白磁の茶杯が丹華の前に差し出されると、後ろに控えていた詩詩がそれを取り上げひとくち飲んだ。毒見である。

「お気を悪くなさらないでね。習慣みたいなものだから」
「長公主さまともあればお口に入れるものまで気を配られるのは当然です」

 李侍郎は笑って同じ茶壺から淹れた茶を飲んだ。詩詩の確認を待ってから丹華も色と匂いを確かめ、口をつける。上等な蜜花茶らしくかなり甘みが強い。一杯飲み終えてようやく、丹華は本題を切り出した。

「李侍郎、文にも書いた通り今日こうしてあなたに来ていただいたのは――」
「そう焦らずにもう一杯どうぞ」

 李侍郎は互いの杯にお代わりを注ぎ、それから声の調子を少し落とした。

「長公主、今回のお話は内政にも関わることです。できればふたりきりでお話したいのですが……」
「わかりました。詩詩、あなたは下がっていて」
「ですが……」
「ここは見通しがいいし、あちらの岸にある柳のあたりからならここがよく見えるわ」

 この小島には視界を遮る木もないし、反対の岸には門を守る兵士がいる。詩詩もしぶしぶ納得して橋を戻っていった。

「ねえ、この穂をご覧になって。蔵書楼で調べたのだけど、この麦はうちの国で一般的なものとは種類が違うみたいで――」

 机上に麦穂や地図やらを広げて、ふたりは話し合いはじめた。ところが長々と話し込んでいるうちに、次第に丹華の身体は奇妙な違和感を訴え出す。

「お顔が赤くなっておられます」
「ええ、ごめんなさい。なんだか少し、熱いわ……」

 動悸がする。頭がくらくらする。熾火(おきび)のような熱が身体の奥でくすぶり、思考が霞む。額にじっとり汗がにじんで、立ち上がろうとした丹華はふらついてしまった。
 倒れかけた身体を李侍郎の両腕ががっちりと受け止めた。丹華がぼんやりした目線で見上げると、彼自身も額から汗を滴らせ、熱っぽい目でこちらを見ていた。

「大丈夫ですよ。ほんの少量の媚薬です」
「……まさか……お茶に……!?」
「遅効性のものですし、ひと口舐めただけの侍女のかたには影響しないはずです。三杯飲んだ私にはよく効いておりますが……ふひ」

 生暖かい息が頬にかかって不快感に顔をしかめた瞬間、丹華は四阿の床に押し倒された。

「きゃっ! な、何を……っ」

 小島には見通しを遮るものは何もないが、四阿は背もたれのある長椅子がぐるりと巡らされている。これでは丹華の姿が外からは見えないかもしれない。

「ふふひ、この細腕で私のためにあの情熱的な恋文(・・・・・・・・)をしたためていらしたのかと思うと、興奮で胸が張り裂けそうです」

(恋文? 何を言っているの……!?)

 鼻息荒くのしかかられ、丹華は混乱した。
 たしかに何度かこの男宛てに文は書いた。だが、その内容は今回の相談に関することだけで何も色っぽいところなどない。それが何をどうしてだか、彼の中で丹華と自分は相愛の仲であると認識されているようだった。

「尊き御身であるあなたと平民の私が夫婦となるためには、平素とは異なる順序でこと(・・)を進める必要があるのです。――既成事実を先に作ってしまえば、主上も我々の仲を認めざるを得ない」
「!?」

 この男が何をしようとしているのかを察して丹華は震え上がった。頭上で押さえつけられた左手が、母の形見である金細工の(かんざし)に触れた。
 迷う暇などない。丹華は簪を頭から抜き取ると、渾身の力で李侍郎の腕に突き刺した。

「ぐあああっ!」

 痛みで男がのけ反りひるんだ隙に、今度は思い切り急所を蹴り上げる。
 李氏はうめき声すらあげられず、もんどり打って倒れた。丹華はなんとか震える足で立ち上がり、後宮側にかかる橋へと逃げ出した。

「詩詩……! 詩詩は……!?」

 思い切り叫んだつもりなのに、喉から出たのはかすれ声。詩詩がいるはずの柳の岸辺を見るも、そこには誰の姿もなかった。まさか、詩詩の身にも何かあったのか――。

(だめ……何も、考えられない)

 冷静な思考は媚薬の熱に阻まれる。あともう少し逃げ出すのが遅かったら、自ら望んで李侍郎に身を差し出していたかもしれない。
 丹華は腿にまとわりつく(くん)の裾をたくし上げ、がむしゃらに走った。香華宮に逃げ帰ってはすぐに居場所が割れてしまう。この恐ろしい媚薬(どく)が身体から抜けきるまで、誰にも会うわけにはいかなかった。
 もつれて何度も転びかけながら走って走って、木々をくぐり梧桐の落ち葉を踏み分けた末に、どうにかたどり着いたのは後宮の北のはずれ、棲鳳宮だった。

「身を、隠さなきゃ……」

 息も切れ切れに、おぼつかない足取りで堂の軒下まで歩く丹華の後ろを、集まってきた小鳥たちが心配そうについてきた。

「お願い、開けて。お願い。中に入れて……!」

 弱々しい吐息で神に哀訴し、ただ助かりたい一念で両開きの扉を叩いた。棲鳳宮は常に締めきられているので丹華は中に入ったことがない。それでももう、他に逃げ場がなかった。

『ようやく私の番になる覚悟ができたということか?』

 その時突然、強烈な光が扉からあふれた。丹華はまぶしさに耐えきれず目を瞑る。
 目蓋に焼きつくほどの光量が弱まって恐る恐る目を開けると、いつの間にか見知らぬ場所にいた。

 どうやら室内らしい。朱塗りの高い格子天井から珊瑚の珠簾(じゅれん)が幾重にも吊り下がり、床は鏡のように磨かれた大理石。ふと前を見れば、皇帝の玉座とも見紛う翡翠を彫り込んだ椅子に、ひとりの男が座っている。

 長く豊かな金の髪。ゆるく束ねられた先だけが、炎のように赤く揺らめいている。五色の糸で唐花文を縫い取った、鮮やかな緋色の衣を纏っている。あまりに神々しく、あまりに美しい男だった。
 男は長い脚を組んだまま、床に座り込んでいる丹華を極上の笑顔で見下ろした。

「うれしいよ丹華。この日を指折り数えて待ったかいがあったというものだ」
「ここは……? あなた、どなた……?」

 丹華の反応に男は黄金のまつげをぱちくりさせたが、「ふむ? そういえばこの姿で言葉を交わしたことはなかったかもしれないな」と掛けていたから椅子から立ち上がる。孔雀の尾羽のように後方に垂らされた虹色の内裳の裾が、男の動きに合わせてしゃらりと音を立てた。

「ここは棲鳳宮。私は鳳凰――真の名を翺翔瑞君(こうしょうずいくん)煌炎(こうえん)という」
「鳳凰……煌炎、さま?」
「他ならぬお前だから許していたが、神鳥たる鳳凰に向かって『ピーちゃん』などという不敬な呼び名はどうかと思うぞ」

 煌炎と名乗った男は、大袖をひるがえして丹華の前に片膝をついた。差し出された手を取ると、丹華の心臓はひときわ大きく跳ねる。まるで、歓喜にむせぶかのごとく。

「ひどく熱いな」

 気遣うような声音で煌炎が頬を撫でた。触れられた箇所がカッと熱を持ち、同時に丹華の心に深い安堵を運んでくる。

(ああ、わたし、何度もこんな風に彼に触れられたことがあるわ……夢の中で)

 脳髄に響く甘い声。優しく長い指。こちらを見つめる瞳の、夜光貝の螺鈿を思わせる遊色の光。そのどれもを、丹華の魂は知っていた。

「薬を、盛られたの。媚薬を……」

 丹華は震える手で煌炎の交領の襟を掴んだ。大きな目を涙で潤ませ、いくつもの色が揺れて混じり合う彼の神秘の瞳を見た。

「ピーちゃん……煌炎、さま。おねがい、助けて……」

 はしたない願いだとわかっていた。しかし不思議と迷いや不安はなく、こうなることが運命だったのだとすら思えた。
 答えの代わりに返ってきたのは包み込むような抱擁。煌炎は丹華の前髪をかき上げ、露わになった額に唇で触れた。水鳥の羽毛にも似た、軽やかな口づけだった。

「案ずるな。優しく優しく抱いてやろう」

 煌炎が微笑む。丹華を横抱きにしたまま、少しの重みも感じさせることなくふわりと立ち上がった。

 あたたかく逞しい腕の中で雛鳥のように慈しまれて、丹華はその日、神の寵を得た。


 なんだか辺りが明るい。丹華は陽光の気配ともに微睡から目覚めた。
 ぼんやりと薄目を開けるとそこは――真紅の(とばり)がかかった、黄金の臥榻(しんだい)の上。

「――――っ!?」

 ふと隣を見た丹華は、思わず悲鳴を上げそうになって口を押さえた。丹華のすぐ横で、長い金髪を白絹の(しとね)に流したとんでもない麗人が眠っている。――いや、彼自身の言によればこの男は人ではなく神だ。
 あわてて起き上がって自分の身体をまさぐると、なんと何も着ていない。

 丹華はもう何が夢で、どこからが現実なのかもわからなかった。ただ帳の合間から床に落ちた己の服を拾い集め、襟をかき合わせて裙はあべこべに巻いた。(くつ)が見当たらないので裸足のまま床に下りると、足に力が入らず身体が崩れ落ちる。

(ええええ!?)

 丹華は混乱したまま床を這って、どうにかこうにかこの臥房(しんしつ)らしき空間の扉を探し当てると押し開けた。
 するとそこは見慣れた棲鳳宮の前庭だった。日の位置から見るに刻は隅中(ひるまえ)。後ろを振り返れば、既に扉はひとりでに閉まって沈黙していた。石造りの堂はいつものように古めかしく、あのきらびやかな空間につながっているとはとても見えない。……やはり夢だったのだろうか。
 呆然とする丹華の前に、いつものように小鳥たちが集まってきた。

『たんか! たんかおはよう!』
『たんかごはんは? ごはんちょうだい!』
『むぎはだめ? むぎたべてもいい?』

 丹華の口があんぐりと開いた。高欄や地面にとまってこちらを見る小鳥たちが、なんと口々に人の言葉をさえずるではないか。

『たんかほうおうさまのつがいになった?』
『ごはんない? ごはんないの?』
『たんかのじじょ、たんかの巣でたんかまってる!』

 何がなんだかわからない、とめまいがしかけた丹華は、脳天気な小鳥たちのおしゃべりの中に詩詩の様子を漏れ聞いてハッとした。
 そうだ。詩詩はあの後一体どうなってしまったのか。
 丹華はすぐさま脇目も振らずに走り出し、一路香華宮へ向かった。

「詩詩! いるの!?」

 帰り着いて部屋の扉を開くと、長椅子に詩詩が座っていた。しかしその表情からいつもの明るさはぬけ落ち、目の周りは泣きはらして真っ赤になっている。きっと昨夜は一睡もせずに丹華の帰りを待っていたに違いない。

「丹華さま! よくぞご無事でお帰――」

 駆け寄ってきた詩詩が、丹華の乱れた襦裙(じゅくん)と土まみれの裸足を見るなり青ざめた。

「ああまさか……丹華さま……」
「ち、違う! 私は無事よ! 昨日はその、棲鳳宮に隠れていて……変なところで眠ったら、ちょっと着崩れちゃって! 履は脱げてなくしたの!」

 嘘ではないが嘘である。
 ただ少なくとも、詩詩が想像するような恐ろしい目には遭わずには済んだ――はずだ。

「詩詩の方こそ大丈夫なの?」
「はい。昨日はあの時……柳の下から丹華さまのお姿を見ておりましたところ、急に皇太后の侍女たちが現れて……」

 詩詩は突然現れた皇太后の侍女たちに集団で囲まれて岸から引き離された上、身につけていた跳脱(うでわ)を奪われてしまったのだそうだ。

「まあ! あの跳脱は後宮勤めをはじめる時にご両親からいただいた大切なものではなかった?」
「はい……でも、そんなことはいいんです。どうにか振りきって戻ったらもう丹華さまはいらっしゃらなくて、李侍郎が兵士に担がれて連れ出されるところで……!」

 元はといえば、自分が彼女を小島から下がらせたせいでこんなことになってしまったのだ。おいおいと泣きだした詩詩の背をさすってやりながら、丹華は己の浅はかさに歯噛みした。

(でも、皇太后さまの侍女が絡んできたのが偶然だったとは考えにくいわ……。まさかこの件に皇太后さまが関わっている?)

 もしかしたらはじめから、詩詩はなんらかの手段で遠ざけられる手はずだったのかもしれない。そしてそのまま、丹華は李侍郎に――。
 想像しただけで身が凍る。ふたりはしばらく無言のまま抱き合って、再会の喜びを分かち合った。
 それからの数日を、丹華はほとんど香華宮の中で過ごした。まだ何か起こるのではと警戒したのもあるし、なんだか体調がすぐれない。それに――。

『たんか! たんかげんきなった?』
『ごはんちょうだい! たんかごはん!』
『きびがいい! きびたべる!』

 ――この調子である。

 あの日以来、丹華は鳥の言葉がわかるようになっていた。後宮に住んでいる小鳥たちはもちろん、上空を横切った(がん)の群れが「腹減った、疲れた」と会話しているのを聞いてしまった。
 それもこれも煌炎と名乗る神と一夜を過ごしてからだ。伝説によれば、鳳凰はあらゆる鳥類の王であるという。

(やっぱり夢じゃなかった……? ピーちゃんが鳳凰さまで、本当の名前は煌炎さまで、わたしが彼と、だだだ男女の、契りを――)

 思い出すと顔から火が出そうになって、丹華は庭の隅で座り込んだ。小鳥たちはその周りで「だいじょうぶ?」「あそぼあそぼ」と無邪気にさえずり――。と、その時。

「ぎゃーーっ!」

 邸の中から詩詩の叫び声がした。あわてて戻ると、詩詩は臥房の入口で尻もちをついている。何ごとかと中を覗き込めば、陽射し降り注ぐ窓辺にひとりの男が――煌炎が立っていた。
 金の髪、緋色の衣。窓からの陽光を浴び佇むその様は、まるで後光を背負っているかのよう。まさしく神の美の体現であった。

「ピ……じゃない、煌炎さま!?」
「やあ丹華。ずいぶんとつれない真似をしてくれるね。これも(ねや)の駆け引きというものか?」

 あの日、媚薬の熱に浮かされる丹華を癒した男が、今たしかに目の前にいる(・・)。つまり、あの逢瀬は夢ではなく現実だった――。あいまいだった記憶が急に手応えを持ち、丹華の体温は一気に上昇した。
 女ふたりが言葉を失う中、煌炎はゆったりした動作で大袖を返すと整った口元を尖らせた。

朝霞(あさがすみ)のように消えてしまって、その後一向にわが宮を訪れない。お前のいない一日が、まるで千年の苦厄のようだった」

 どうやら、あの日以来丹華が棲鳳宮を訪ねてこないことを不満に思っているらしい。たった数日の不義理をこの世の終わりみたいな調子で嘆かれてあっけにとられたが、彼の秀眉がしゅんと下がると胸が締めつけられる気がする。

「わざと焦らしているのかとも思ったが……理由がわかった」

 煌炎は静かな歩みで丹華の目の前までやってくる。あの日と同じ遊色の瞳で丹華を見つめ、絶世の美貌は微笑んだ。

(くつ)がなかったから来られなかったのだろう?」
「はい?」

 煌炎が得意げにほら、と取り出してみせたのは一足の錦履(きんり)
 間違いない。あの日棲鳳宮に置いてきた丹華の履だ。

「人の子は履がなければ歩けないからな」
「あ、ええ、はい……ありがとう……ございます」

 この神は、人間がひとり一足しか履を持てないと思っているのだろうか。丹華は差し出された履を受け取り、コクコクと頷くしかなかった。

(優しいかた、なのね……)

 少し方向性はずれているものの、彼なりに丹華のことを考え、善意でわざわざ持ってきてくれたのだろうことは伝わった。
 煌炎は機嫌をよくしたのか、満足そうに目を細める。長い指で丹華の頬に触れ、耳にかかる黒髪を梳いた。親鳥が雛を慈しむようなその手つき、彼の指先から零れるのは丹華への深い思慕だ。

(この前李侍郎に触られた時は嫌悪しかなかったのに、このかたに触れられるのは嫌じゃない……。むしろ、うれしい)

 煌炎の手は丹華に安らぎと心地よさをくれる。もっと触れてほしいとさえ思う。うっとりしてされるがままになっていたら――急に詩詩が横から丹華を引っ張って引き剥がした。
 その手にはいつの間にかほうきが握られていて、ふたりの間に割って入る。

「たっ、丹華さま! この男は何者です!?」
「神だ」

 さすがに目の前の男が神を自称するとは予想していなかったのか、詩詩は一瞬ポカンとするも……すぐに調子を取り戻してほうきを構えなおす。

「な~にが神よ、ちょっと見目がいいからってだまされるもんですか! 李侍郎や皇太后の刺客でないという証拠は! 神ならありがたいお告げのひとつやふたつしてみろってのよ!」

 身を証立てろと言われて、煌炎は少し考えるようなそぶりを見せる。

「そうだな……。お前の失せ物は清宵宮(せいしょうきゅう)の手前の銀梅花の茂みの中にある」
「は? な、何を突然……」
「お前が宣託せよと言うからしてやったのだが?」

 煌炎は不機嫌そうに詩詩を睥睨(へいげい)した。
 そのやり取りを横で聞いていた丹華は、ややあってぽんと手を叩く。

「ねえ詩詩。もしかして失せ物って、跳脱(うでわ)のことじゃ?」
「えぇ~、まさかぁ! …………ほんとに?」

 本当は今すぐ走ってたしかめに行きたいのだろう。しかし見知らぬ男と丹華をふたりきりにするわけにもいかないらしく、詩詩はそわそわしだした。煌炎はしばらく何も言わずにただ立っていたが、少しして不意にふわりと窓の方へ手を伸ばす。

「仕方がないから届けさせてやった」
「へ!?」

 煌炎の言葉を合図に、バサバサと窓辺に何かが降り立つ。それは一羽の白鷺(しらさぎ)だった。
 くちばしにくわえているのはあの詩詩の跳脱。翼を畳んだ白鷺はしずしずと床を歩いて進み出て、恭しく頭を垂れてから煌炎の手に跳脱を乗せた。花文のあしらわれた銀の跳脱は、そっくりそのままのかたちで詩詩の手に戻ってきた。

「え、うそ、どうやって……ほんとに鳳凰さま……? で、でも、いきなり女人の臥房に入り込むような輩が神だなんて……」

 まだ信じきれない様子で手の中の跳脱と煌炎の顔を見比べる詩詩に、白鷺がムッとした様子で悪態をついた。

『偉大なる翺翔瑞君(こうしょうずいくん)に向かって失礼な人間ですね。くちばしで目玉をえぐってやりましょうか?』
「だっ、だめよえぐらないで! 詩詩はわたしのことを心配するあまり、少し疑い深くなってるだけで……!」

 目を狙われては大変だ、と丹華が思わず弁明する。するとたちどころに、丹華以外の全員が驚きの目で丹華を見た。

「丹華さま、一体誰と話してるんです……?」
「ええ、そこの白鷺さんと――あっ」

 しまった、と口を押さえる。鳥の言葉が聞こえるということは、まだ詩詩にも話していない。

「丹華。お前は白鷺(この者)の言葉がわかるのか?」
「……はい」
「いつから?」
「…………。あなたと褥を共にした日から……」

 今さら隠しても仕方がない。煌炎の問いに、丹華は正直に答えた。真っ赤になってうつむくと、白鷺が「なんとまあ」と長い首を縦に伸ばす。
 煌炎は一度ゆっくりと瞬きした。それから少々改まった調子で口を開く。

「丹華、お前――――(はら)んだな」
「?」

 すぐには理解が及ばず、丹華は目をぱちくりさせた。

(はらむ……? それって子ができたという意味よね。だ、誰に? 誰の?)

 混乱する丹華を、煌炎が抱き上げた。神たる男は丹華を己の頭より高い位置に据え、そのかんばせを五色の光が揺らめく瞳で覗き込む。見上げる表情は抑えきれない愛しさに満ちていて、彼の愛の深さを教えていた。

「ああ、丹華……私の魂の番よ。お前は私の子を身籠った。胎に神の力を宿した。だから私の眷属である鳥の声が聞こえるのだよ」
「え……」

「えええええええええ!?」

 丹華の叫びは香華宮の外まで響き渡り、詩詩は衝撃のあまり倒れた。