過去9
「その後は、何もたいしたことはしてない。ただ僕は、必要最低限生きて、退屈な人生を過ごしていただけだよ。前に聞かれたことあったよな。今どうしてるのって。華奈に会う前以下だよ。何も話せるようなことはしていない。ただ、周りに求められるある程度のことをこなしてるだけ。むしろ、そうやって生きようと努力してたかもしれない」
僕の話を聞いているトウヤは口を全く開かなかった。
「でも大丈夫なんだ。華奈は救われているはずだから」
事故に遭う瞬間の彼女の表情が忘れられない。
彼女は、あの瞬間、安堵の表情を浮かべていた。その表情を思い出すだけで、心臓が雑巾のように絞られた感覚になる。あの時の表情は悍ましかった。
あの瞬間、確実に華奈は状況を理解していた。自分のもとへトラックが迫ってきていることを知り、驚き、そしてその表情は即座に切り替わった。どこか恍惚としたような、長い間望んでいたことがやっと叶った、というような満足げな表情を彼女はしていたんだと思う。彼女が追い詰められていたのは知っている。
だから。
「だから、事故を防げなかったら、華奈にはちゃんと自殺させてやってほしい」
もし、事故を防げるのなら、まだ希望はあるかもしれない。華奈がまたパソコンを開くまで待つことができるかもしれない。
けど、事故が起こってしまうのなら。
華奈が心だけじゃなく、身体的にも苦しめられるのなら、その痛みや辛さから解放させてあげるべきだ。その権利が華奈にはある。
「自殺は世間で言われてるほど悪いものじゃないよ。人を救うこともできる手段なんだ」
静かに僕の言葉に耳を傾けていたトウヤは、僕の方へと近づいてきた。
その目を見て、理解する。彼は怒りを抑えられないようだった。
「――お前が!」
僕のスーツに掴みかかる。
「なんで! 事故死じゃなかったのなら! 救えただろ!」
僕は彼にされるがまま、彼の目の中にうつる自分を見ていた。ああ、僕のことが見えるだけじゃなく、触れることもできたのか。ただそう思っていた。
「事故は、どうしようもないかもしれない。それは、確かに不幸としか言えないかもしれない、けどッ! まだ生きてるんだったら! 自殺だったら! 止めれただろ! なんで病院に行かなかったんだ。なんで華奈に会いに行かなかったんだ。なんで馬鹿みたいにのうのうと普通に生活してんだよ。なんで勉強なんかしてんだよ、予備校なんか行ってる暇ないだろ。そんなことしてる場合じゃないだろっ! 華奈はずっと病院で苦しんでいたんだろ! それならお前がそこにいるべきじゃないのかよ、華奈のこと大切じゃなかったのかよ。なんで家にいるんだよ! 病院行けよ! 華奈の側にいろよ!」
「だから、病院に行ったら華奈の負担になるんだよ」
「そう言われたのかよ!」
トウヤの唾が飛ぶ。
「華奈は自殺に救われてる? 長く生きちゃったら、疲れちゃう? あの時の華奈の言葉、お前は聞いてなかったのかよ! 物足りない生活なんて送りたくないって、何かにちゃんと打ち込みたいって言ってたじゃないかっ! そんな華奈が、自殺を本当に望んでやったわけないじゃないかっ!」
あの時華奈は、もう来ないで欲しい、そう言った。
今でも鮮明に覚えている。
華奈の表情、全てを諦めたような、もう希望なんて残っていないというような光のない目。
「逃げただけじゃないのかよ。華奈のことをほんとに考えたんじゃなくて、また見なかったんじゃないのかよ、見ないふりして、それを隠すために、華奈のためっていう大義名分を得て、華奈と顔を合わせるのが辛いから、そうやって理由を作って逃げたんだろ! 自殺が華奈を救った? 冗談じゃないっ! あれだけ夢中になるものがある人間が、なんで生きないことで救われるんだよ!」
「違う! あの時の表情を知らないからそんなことが言えるんだ。僕が病院に行ってたら、確実に華奈の重荷になってたんだよ」
心の奥が、ジュク、と嫌な音を立てる。
「追い詰められて、どうしようもなくなって。縋るべき小説も駄目で。そんな状況だったんだろ、それなら! あれだけ強い華奈がそこまで追い込まれるなら、それは自殺が正しい、じゃない。そんなに苦しんでるなら、あれだけ強い華奈が追い込まれてるからこそ、あなたが、僕が、吾妻東弥が。側にいて彼女のことを支えなくちゃいけなかったんじゃないのかよ!」
トウヤが、叫ぶ。
「お前はずっと嘘をついて、僕のことを騙して。華奈のこと救いたいと、初めから思ってもいないんだよ! 最初から諦めてるんだよ!」
思い切り僕の体を突き放し、トウヤは走って去って行った。
公園に一人、立ち尽くす。
最後にぶつけられたトウヤの叫びが、頭の中で反響していた。
自殺は間違いじゃない。トウヤが自殺を認められないのは、本当に追い詰められた状況を知らないからで、あの華奈の死んだ顔を見たことがないからだ。同じ状況になったら、トウヤだってそう思う。トウヤはあの時の僕なんだから。
その気持ちと、華奈を事故から救いたいと思う気持ちは矛盾していないはずだ。
華奈を事故から救いたい。
事故が起きて華奈が苦しむなら、楽にさせてやりたい。
その二つの思いは、両方持ってるはずだ。よく言われる『自殺=良くないこと』なんて、そんな甘くて無責任な考えは持っていない。
けど。
――最初から諦めてるんだよ!
トウヤの叫び。
その言葉は、正しいかもしれない。
僕は初めから、華奈のことを救いたいとさえ思っていなかったのかもしれない。
ここで救っても未来の華奈が生き返ることがないと思ったから? 違う。初めから、僕はずっと華奈のために動いているように思ってたけど、華奈の姿に突き動かされている気がしていたけど、そうじゃなかった。
もし、過去に戻ってきた時点で、華奈を救おうと思っていたなら。
過去だと理解して、誰にも見えないし何も触れないと知った後、何も考えず、三日分無駄にした。本当に救いたいという気持ちがあったなら、二週間ほどのリミットの中で、ただ時間を浪費するなんて、そんなもったいないことはしないはずだ。
もっとすぐに動くはずだ。
それに。もし華奈を事故から救いたいと思っているのなら、まず真っ先に華奈に事故が起こることを伝えようと思うはずだ。
トウヤに自分が未来からきた吾妻東弥だと信じさせるために、トウヤに火事のことを伝えた。その方法は、すぐに思いついたことだ。
だったら、同じ方法を――華奈にも事故が起こることを忠告するという手段を取ろうとしなかったのはどうしてだ。
華奈と直接コンタクトを取れないなら、トウヤが僕のことを信じた時点で、トウヤに頼めばよかったのだ。けど、僕はそれをしなかった。
本当に、華奈のことを救おうと思っていたのだろうか。どうして、こんなふうに迷っているんだろうか。どうして、救いたいと言い切れない。
事故寸前の彼女の顔が、引っかかるからだろうか。それともまだ。
僕はずっと、騙しているのだろうか。
最後に、華奈の生きている姿を見よう、そう思ったんだと思う。いや、どうだろうか。自分の気持ちなんか、正確に把握できない。何か別の理由があって、こんな行動をとっているのかもしれない。
かつて何度も訪れた、華奈の小説部屋に向かっていた。真っ直ぐ道を突っ切る。途中の家も、途中の壁も、そんなの無視してすり抜け、ただ真っ直ぐかなの元へと向かう。
走る。上がる息を無視して、
瞬間、地面が消える。
数メートル落下する。
道路脇の土手を転がり落ちる。痛くはなかった。
起き上がりまた駆け出す。
やっと見えてきたマンションのエントランスもオートロックも無視して、中に入る。華奈の部屋に、入り込む。
部屋は真っ暗で、目的の人物はそこにいない。
ただ、めちゃくちゃに荒れた部屋がそこにあるだけだった。
どこだ。
慌てて引き返す。
川を横切り、コンビニの前を通る。
途中、自転車に乗った人間にぶつかりそうになるが、この体はぶつからない。気にしなくていい。
たどり着いたその場所は、華奈と初めてちゃんと話した場所。
喫茶ポワレの前で、僕は足を止める。
窓から、彼女の様子が見えた。彼女は、パソコンには向かっていない。ただ、何もせずそこに座っていて、マスクから覗く目は疲れ切っているように見えた。
途端、身体中が締め付けられたように苦しくなる。
目の奥が熱い。
涙が僕の両目からこぼれ落ちる。
華奈を見るだけで、こんなにも胸が締め付けられる。かつての記憶が、頭の中に鮮明に映し出される。
彼女との会話。
華奈の周りに浮かぶシャボン玉。
彼女に撫でられて気持ちよさそうにしている猫。
彼女が顔の前で揺らしたアイスティー。
初めて見た時の彼女の、激情の目。
何年も前のことなのに、ずっと忘れようとしてきたことなのに。
こんなにも鮮やかに、思い出す。
華奈を救いたいと思ってないのなら、この思い出す景色はなんだ。両の目からこぼれ落ちる涙はなんだ。
自殺が間違いだとは思わない。
こんなにも心が暴れそうになるのは、どうしてだ。
車が、僕のことに気づかず僕を貫通していく。
いっそのこと、この世界から、消えてくれたらいいのに。自分で、過去から消え去る手段を持っていたらいいのに。
轢かれる直前の華奈も、こんな気持ちだったのだろうか。
華奈も自殺する時、こんな感情だったのだろうか。
公園に戻ると、トウヤが待っていた。
「なんで過去に来たの?」
前にも訊かれた話だ。
僕は、あの時に伝えてなかったことを言う。
目の前で女性が線路に落ちたこと。
何もできずにただ見ていたこと。
多分女性は死んだ。望まない事故が起こったのだ。
トウヤは、目を見開いて聞いていた。
そして、僕に向かって言う。
「その表情はなんだよ」
なんのことだろう。
「なんでそんなに苦しそうな表情してるんだよ」
苦しそうな表情、しているのだろうか。僕が。
「目の前で、また同じような事故があったことを、何もできなかったことを、そんなに辛そうな表情で話す東弥さん――あなたが、なんで自殺を擁護するようなことを言うんだよ」
「君も、あの時の華奈の表情を見たらわかるよ。あんな風にまでなって、ただ生きるってことが正解とは到底思えないんだ」
彼に分かってもらうために、ゆっくりと言う。言い聞かせるように。
「さっきも言っただろう、華奈が自ら死んだのは、間違いなんかじゃないんだよ」
いいながら、心の奥がズクズクと痛んでいた。
「だったら、なんでさっき。なんで華奈を見て泣いてたんだよ。なんでずっと悩んでるんだよ。なんでいつも会う前、ずっと思い詰めた表情をしてるんだよ」
奥の痛みが、刻々と広がっていく。
「本当は、どこかで、自殺を止められたら、とか思ってるんじゃないのかよ。華奈の死を、納得できてないから、過去に戻ってきたんじゃないのかよ。何かをするために、ここに戻ってきたんじゃないのかよ」
「でも僕は……」
情けないけど。
「何もできない。ここでもまた何もしていないんだ」
「してるよ」
トウヤは強い声で言う。
「最近の華奈の様子は、僕も知ってる。生きる一番の目的になってた小説に追い込まれているのも知ってる。だから、その上事故に遭って、自殺にまで追い込まれる気持ちを理解できないとは言わない。言えないよ。けど、東弥さんが、こんな風に過去に来て、こうやって彼女を救おうとするのは、華奈を助けられなかったことの後悔とか、罪悪感が――華奈がまだ生きていたらって気持ちがあったからじゃないのかよ」
華奈を救おうと、できてない。
「ほんとに何もできなかったのかよ。僕は華奈に何かを与えられたって、知ってるよ。だって、あなたは僕だから」
自分の本を僕が読んでいることを知って、照れながら笑った華奈の表情を思い出す。
あの日、映画を見た後、言われたありがとう、を思い出す。
僕の言葉に、小説のヒロインのように、微笑んだ華奈の笑顔を思い出す。
「でも僕は……逃げたんだ」
華奈の自殺を知った後。
華奈からの着信履歴があったことに気づいた。
それは時間的に、華奈が自殺する直前にかけてきたもので。
それはつまり、華奈は自殺する直前に、僕に何かを伝えようと思ったということで。
それが意味するものが、それを考えることがずっと怖かった。
もしあの時、最後の瞬間に華奈が伸ばした手を、僕がまた逃したのだとしたら、そう考えると、どうしようもなく不安になった。
だから、思い込んだ。
自分の感情を、騙した。気持ちを偽った。退屈だということを学校で出さないみたいに、自分の不安を押し込んだ。
華奈が、事故に遭ったことを本当は喜んでいたらいい。
自殺することで、華奈が救われてくれればいい。
それで幸せになってくれていたらいい。
そう思い込んだ。
確かに事故に遭う瞬間、華奈は微笑んでいた。
その気持ちはわからないけど。けど、華奈が死を喜ぶ根拠を見つけて。それに縋って、華奈が死ぬことに希望を見出してくれていたら、と思った。
自殺を選んだ華奈が、死ぬことで癒されていてほしい。
小説という、夢でもあり悪夢でもある存在から逃れて、幸せに死んでくれたらいい。
華奈は死んでよかったんだ、そう思いたい。
自殺は、あの時苦しんでいた彼女のことを救ってくれた、と。
そう思うしかなかった。
華奈のためじゃない。自分を守るため。ずっと、自分の心を騙してた。
気持ちを偽って、抑え込んでいた。
「華奈を助けられていない状態でこんなこと言っても、全く説得力ないかもしれないけどさ、もし、東弥さんがここに来なかったら、僕に話しかけてくれなかったら、華奈が事故に巻き込まれるということも知らなかったし、東弥さんと同じ道を歩んでたはずだ。華奈に迫る危険に全く気づかず、華奈と話すことのありがたみも、何も考えないまま生きているだけだった。それに気づかせてくれたのはさ、それを教えてくれたのは東弥さん、あなたなんだ。東弥さんは、何もしてなくなんかないよ。だから……ありがとうね」
華奈は幸せに死んだとして割り切って。そして僕はその希望の死を受けて、乗り越えて生きていく。
それでよかった。よかったはずなのに。
乗り越えられるはずなんかなかった。
いつだって、華奈のことが頭にチラついて。
本屋を――小説を避けて生きてきて。
あえてつまらないような生き方をして。少しは変わったはずの気持ちを無理やり華奈と会う前にまで戻して。
本気というものを知らないフリをして時を過ごしてきた。
けど結局、何かを避けるというのは、その何かをずっと意識していることと同じで。
ずっと小説を意識しながら今日まで生きてきた。事故を目の当たりにして、それを過去の出来事と重ねて。過去にまで飛んできて。
忘れられるはずがなかったのだ。
華奈のことを、終わったものとして扱うことなんてできなかったのだ。
ずっと華奈が心の中にいた。
本当は。初めて会話した時のように、生き生きとした表情をしていて欲しかった。僕の言葉に喜んだ、その表情を守りたかった。
泣いていても、前を向いている彼女でいて欲しかった。彼女の表情から意志が消えて欲しくなかった。
本当なら、事故から彼女を助けたかったし、彼女と一緒にいて、ずっと彼女のことを支えたかった。
「そっか」
ありがとうね、か。記憶の中で誰かに微笑まれた気がした。
心から思う。
華奈を事故から救いたい。
事故が起きて華奈が苦しむなら――いや、そうだとしても、支えたい。
でも、事故を防ぐことも、自殺を止めることも。何が華奈にとっていいのか、そんなものはわからない。
わからないままだ。
彼女の声が聞こえた気がする。僕は、トウヤに最後に訊く。
「君が、僕らがどれだけ助けたいと思っても、それは華奈のことを傷つける結果にしかならないかもしれない。それでも、無責任に華奈のことを助けるのか」
トウヤは、迷いのない表情で首を横に振る。
「無責任じゃない。無責任になんてしない。僕が、責任を取るから。絶対に、華奈のことを支えるから」
強い言葉でそう言い切るトウヤの目は、誰かのものに似ていて。
「それ、華奈に言う台詞」
僕は思わず笑みを漏らし、呟いた。
途端、視界にずっとかかっていた靄が晴れたような気がした。
華奈とシャボン玉を見た時のような、小説を読んだ時のような心の暖かさを感じられた。
「トウヤ」
「はい」
かつてのように、僕はトウヤに向かって頭を下げる。
「頼む。華奈を救ってほしい」
華奈にもし事故のことを言ったら、トラックの目の前で見せた表情を浮かべるかもしれない。でも。
自殺の前じゃなく、事故の前に戻ってきたのには理由があるはずで。
事故を防ぐことのできる今だからこそ。
自殺じゃなく、事故を防ぎたい。
トウヤなら彼女を救ってくれる。そんな確信があった。
「わかりました。任せてください。安心して見ていてください」
僕は何もできない。過去を変えても、未来は変わらない。華奈は生き返らない。けど、過去のトウヤは、華奈を救って生きていける。
その手助けをできるのなら。
事故の日の出来事を全て教えることで、過去の華奈が事故に遭わないのなら。あんな思いをしないなら。
説明を終える。
「明日は、僕も二人の後ろを歩いていくから。見守ってるから。それで、何か異変があったらすぐに知らせる――」
なんて、いつだって、時間は僕たちに優しくない。
体に異変があった。
いつもの、夜になって体の分子が空気に溶けていくような感覚、それとは違う。体が全てバラバラになって、分解されて――ああ、消えるんだなと思った。
過去の時間が終わるんだとわかった。
あと、一日なのに。
あと、一日だから、か。
「やっぱり明日は一緒にいられない」
「どうして」
そう言うトウヤにも、なんとなく状況は理解できたのだろう。
「ごめん。けど、わかるんだ」
昔の自分と会話するのもこれで最後だろう。
華奈の生きている姿も、もう一生見られない。
けど、この場所で華奈が生きていられるのなら。
「頼んだよ。頼むから、華奈を事故から救ってあげて――」
その瞬間、僕は意識を失う。
気づけば、耳をつんざくような電車の音が響いていた。