現在7
トウヤを連れて、事故があった場所に来ていた。
そこは大きな交差点で、片側四車線の道路が交わる場所だった。
「事故した人のこととか」
わからない。
「車のナンバーとか」
知らない。
それがわかれば、事故が起きる前に車や人をどうにか止めることができると考えたのだろう。けど、答えられなかった。
僕はずっと事故のことを避けてきた。華奈の死を避けて生きてきたのだ。思い出さないように生きてきた。そんな僕が、事故の詳細は把握しているはずがなかった。
それらの質問に、全て首を振って答えると、トウヤは驚きと呆れの混じった声で言う。
「何も知らないんですか」
そう、何も知らない。数年間、華奈のことを避けて、小説を避けて、心の中に存在するもやもやとした感情を避けて生きてきた。
「ごめん」
言い訳もできないので謝ると、
「車の運転手が信号無視をしたせいで、華奈は轢かれたんですよね」
と訊かれる。
僕は頷く。あの時確かに横断歩道は青信号だった。
結局のところ、華奈を救うのなら、事故当日に、その現場に行かない、それしか道はないのだろう。それはトウヤもわかっているのだろうけど。
秋口から年末にかけて華奈の様子がおかしかったこともトウヤの焦りを後押ししているのだろうか。
切迫した表情で、さらに尋ねてくる。
「時間と場所ははっきりと覚えているんですよね?」
「それは覚えてる」
「じゃあ……救急車先に呼んでおくか」
「さすがにそれは……」
思わず呟いた僕の言葉に、トウヤは引っ掛かったらしい。
「え? なんで?」
僕は「あ」と声を漏らす。確かに、今の返答はおかしい。事故で死ぬのなら、一刻も早く病院に連れて行けば死ぬ確率が低くなる。そう考えることは普通で、だから、トウヤの方が正しい。
僕の言葉と態度に違和感を覚えたのだろう、トウヤが僕の顔をじとっと睨む。
「えっと」
「華奈は即死だったんですか?」
「……いや」
「何か隠してるんですか?」
その言葉は疑問形だったけど、ほとんど確信に近い響きがあった。
「もう時間がないんです! 何かあるんだったら教えてください!」
言うべきかわからなかった。これを言ってしまうと、トウヤは華奈を苦しませるかもしれないから。
死ぬより辛い思いを華奈にさせてしまうかもしれないから。
けど、ここで嘘をつくのは卑怯なんだろうか。
僕は息を吐き、トウヤに言う。
「華奈は……事故死したわけじゃないんだ」
ーーーーー
過去8
隣を歩く華奈は、今日もマスクをして、眠たそうな目をしていた。よほど疲れが溜まっているのだろう。
「勉強ってやっぱり疲れるね」
彼女はマスクの下で大きなあくびをする。
模試の会場は大きな予備校を使うので、僕がいつも通っている校舎ではなかった。
帰り道、僕たちは本屋の前を無言で通る。
華奈の決まっている中での最後の新刊の発売日は昨日だったが、華奈はあえてそのことを忘れようとしているみたいだった。僕はその小説を予約して購入していたが、もちろんそのことには触れなかった。
彼女は、一度小説から離れようとしているらしかった。
今日はパソコンも家に置いてきたようだった。
彼女の背中に夕陽が差し込み、髪が鮮やかに照らされる。それを見ていた。見惚れていたのかもしれない。
物事が起こる時に、予兆なんてない。
「東弥(とうや)はさ」
その時の彼女は何を言おうとしたのだろうか。
彼女の声に相槌を打とうとした瞬間のことだった。
危ない、そう思った時には遅かった。彼女の数メートル先に、大きなトラックが迫ってきていた。
体が硬直し、足が動かなくなる。声を上げることもできなかった。
手を伸ばすが、その手が彼女に届くことはなかった。
誰かが救急車を呼んだのだろう。遠くからサイレンの音が近づいているのが聞こえていた。僕の目の前で、華奈は血を流し、意識を失っていた。華奈に触れると、その手には鮮やかな赤い液体がどろっとへばりついた。
心臓が体から抜けたような感覚に襲われる。
どうして華奈は倒れているんだろう。何が起こったんだろう。うまく呼吸ができない。華奈はなんで起き上がらない?
「華奈」
口から漏れた声が震えていた。
わななく手で彼女のことを揺らす。彼女の肩が僕の手形に赤く染まる。
搬送された華奈には緊急手術が施されることになった。
おぼつかない足取りで彼女が運ばれていくのについて行き、彼女が扉の向こうに消えた後、僕は手術室の前でうずくまっていた。
目を瞑ると事故の様子と華奈の表情がフラッシュバックして、吐き気をもよおす。
トイレに行き便器に向かってしゃがみ込む。何度もえづいたが、昼食以降物を食べていない僕の胃からは何も出てこなかった。いきんだせいで、喉の奥がひりひりしていた。
また手術室の前に戻る。椅子はあったが、座る気になれなかった。
壁際で膝を抱えた。目を閉じると気分が悪くなるので、じっと床を見つめる。どこかでストレッチャーが転がる音と、人の足音が耳に届いていた。
どのくらい経っただろうか。
声をかけられ顔を上げると、僕の前に女性がいた。
はっきりした目元と整った鼻筋が華奈に似ていて、その女性が華奈の母親であることをすぐに理解する。
「もしかして……吾妻、くん?」
華奈の母親は不安げな表情でそう尋ねてくる。
「……はい」
「華奈の母親です」
「ああ……」
声がうまく出せない。
「……華奈は」
「中に……」
そう呟いて僕は手術室を指差す。華奈が運ばれていってからずっと、扉の上のライトは点灯したままだ。
「……そう」
落ち着かない様子で扉を見つめる華奈の母親に、僕は何も言うことができない。
「……吾妻くんは、大丈夫? 怪我しなかった?」
はい、と口に出すことも申し訳なくて、ぎこちなく頷いた。
「……すみま――」
謝ろうとした時、ぱちん、という音が響き、空間が少し暗くなる。僕たちが見上げると、手術中の電気が消えていた。
音が聞こえてきて、扉が開く。
華奈の母親が、駆け寄る。
僕はその後ろ姿を、その場に呆然と立ったまま見ていた。
手術のおかげで、命に別状はなかった。ただ、足を大怪我しているせいで、手術が長引いたらしかった。
華奈が病室へと運ばれた頃には、夜になっていた。
あの後華奈の父親も病院に来て、医師が病室で手術や現状を説明しているようだった。
僕は病室に入っていいのかわからず、ずっと部屋の前で立ち尽くしていた。
しばらくして病室の扉が開く。医師と看護師が中から出てきて、僕のことをちらりと見て去っていった。
閉まる瞬間、華奈がベッドに横たわった状態で目を瞑っているのが見えた。目に入った瞬間、胸がぐしゃりと潰されたみたいになる。
僕はそこから動くことができなかった。扉の向こうには、華奈と、華奈の両親がいる。僕はただの部外者だ。華奈の、ただの、クラスメイトだ。
病室から、わずかに女性の泣き声が聞こえる。耳に届いたその声で、僕の心はさらに潰。
そこからさらに数分経っただろうか。
扉がゆっくりと開かれた。扉を中から開いた男性と目が合う。華奈の父親だ。
「……あの」
僕は、揺れる声を出す。
「吾妻くん、だよね」
彼の低い声が病院の廊下に響く。
「……はい」
彼は何かを言いかけて、口をつぐんだ。
首を振り、ゆっくりと呟く。
「華奈は、全身麻酔がまだ効いていて……とりあえず日が変わるまでは目を覚まさないらしい」
「そう……ですか」
「今日は――」
彼は言葉に迷っていた。
「また……明日、でもいいかな」
華奈の顔を見るのが、ということだろう。後、彼と話をするのも、だ。
「……はい、すみません」
「悪いね」
「……いえ、失礼します」
病院を出る。外に出ると、激しい雨が降っていた。
そこで初めてポケットのスマホが振動していることに気付いた。
後から確認すると、何十件もの着信が入っていた。すべて母からだ。
事故のことは学校に連絡が入っていて、僕の家にも電話がきたらしい、病院まで母親が迎えにきてくれていた。
母は駐車場で待っていたらしく、僕が病院を出たと言うと、すぐに入り口付近に車を寄せてくれた。
車から出てきた母は、無言で僕の頭に手を乗せ、それから淡々と僕を車にのせた。
天井にばらばらと打ち付ける雨の音がうるさかった。
家に着くと、普段料理をしない父がスープを作ってくれていて、何も聞かず暖かいスープを飲ませてくれた。味は全くわからなかった。
次の日、僕は学校を休んだ。病院に行く、と母親に言うと、何も言わずに頷いてくれた。財布だけ持って家を出て行こうとすると、腕を母親に掴まれる。
「送るから」
「いいよ」
「いいから。早く車乗って」
車の窓の中で、景色が流れていく。体が重たかった。臓器が全て石になったんじゃないかと思った。
病院に着くと、母は僕の後ろをついてきた。
病室までの道で考える。
華奈は、目を覚ましているだろうか。
もし覚ましていたら、何を考えているだろうか。
足は痛むだろうか。病室に運ばれる途中、医師が言っていた。足を複雑骨折しているらしい。
華奈は、どんな表情をしているだろうか。辛そうな、それとも、初めて彼女の涙を見たときのように悔しそうな表情をするだろうか。
最近疲れた顔しか見てないが、まだ心の中では、あの激情に溢れた眼差し――そのイメージが根付いていた。
強い華奈は「怪我したのは足だから、手は動かせるの」と言って、パソコンに向かうのだろうか。
それとも……。
病室に近づくにつれ、足が重く、動かしにくくなる。拒んでいるのだろうか。華奈と顔を合わせるのが怖いのだろうか。
病室の扉は開いていて、室内の様子が窺えた。明るい室内が目に入ったのとほぼ同時、中から女性が現れた。華奈の母親だ。
「吾妻くん……」
僕が固まっていると、隣にいた母が、華奈の母親に深々と頭を下げる。
僕は一人ぽつんと、病院の休憩室で座っていた。休憩室は病院にしては騒がしく、患者たちが談笑していたり、見舞いにきたのであろう小さな子が父親のような人と一緒にジュースを飲んでいた。
結局、病室にはまだ入っていなかった。
華奈の母親によると、華奈は朝に一度目を覚ましたが、また眠ったらしい。
母が華奈の母親と話をしている間、僕はその中に入らず一人待っていた。
暫しの間待っていると、母と華奈の母親が戻ってきた。母が「じゃあ、車で待ってるから」と僕に告げて歩いていく。
必然と、僕と華奈の母親だけがその場に残った。
「吾妻くん、座って」
華奈の母親は静かな声でそう言って、休憩室の椅子に座る。促されるまま彼女の前に座り直し、顔を合わせる。
さっきまで聞こえていた周りの人の声や雑音が小さくなった気がした。
昨日眠れなかったのだろうか、目の前に座っている女性の目元は明らかに黒ずんでいて、それが最近の華奈の姿に重なった。親子だからというのもあるかもしれない。
ただ、僕はその表情を見て、少しだけ心が落ち着いた。
言えていなかったことを、ちゃんと言わなければならない。
謝らなければならない。
一度座った椅子から立ち上がり、深々と、頭を下げた。
「ごめんなさい」
頭を下げたまま、言う。
「僕は見ていただけでした。一緒に歩いていた華奈がトラックに撥ねられそうになっているのに。目の前にいたのに……」
「顔を上げて、吾妻くん」
上げられない。取り返しがつかない。
「顔を上げなさい」
少し厳しい口調になった華奈の母親の声に、思わず首を上げ、彼女のことを見る。すると、彼女は柔らかい表情で僕のことを見つめていた。
「吾妻くん」
「…………」
「華奈からよく話が上がるから、どんな子なのかな、と思ってたの」
ただのクラスメイトです。お母さん。
「あれだけ頑なに小説家であることを隠そうとしてた華奈が、唯一小説家だってことを教えた子がいるって聞いて」
ただ、少し話していただけです。たまたまタイミングが合って華奈が教えてくれただけで。
「ああ、その子は華奈のことをちゃんと見てくれているんだなって思ったの」
華奈の母親は「中学校の時のこともあるし」と思い出すように言う。
「華奈のことを思ってくれる、優しい子なんだなって」
僕は首を振る。
違う。僕はそんなに大層な人間じゃない。ただ華奈のかいた小説を知っていただけで、華奈と違って何にも夢中になれないただのクラスメイトなんです。
華奈のことは、そりゃ尊敬していたし、友達だったと思うし、それ以上も――。
けど、僕は華奈のことを何も見れていない。目の前にいたのに、救うことができなかった。カナの手を掴むことが出来なかった。
「だからこれからも」
華奈の母親は、僕に頭を下げてきた。
「華奈と仲良くしてあげてね」
耳を疑う。
おかしい。だって。
娘が事故に巻き込まれたのだ。
そして、その時娘と一緒にいた娘の同級生が、五体満足でその場にいる。娘だけひどい事故に巻き込まれて、隣にいた人は、無傷。
羨む感情とか、やるせない気持ちが絶対にあるはずだ。本音を言うならば、僕の顔なんか見たくないはずだし、同じ事故に遭うならば、その場にいたのに怪我をしなかった人間なんていない方がまだマシなはずだ。
その時、華奈の母親の拳が硬く握られていることに気づいた。
華奈の母親も、気持ちを抑えている。
想いは隠して、僕に気を遣っている。
みんなそう。
当たり前だ。
「華奈を見てきてあげて」という華奈の母親の言葉に、僕は華奈の病室へと向かった。
病室の扉を開けると、ベッドの上に、華奈が座っていた。
彼女を見た途端、胸に穴が開く。
「やあ」
僕が現れたことに特に驚いた様子もない華奈は、こちらを向いて手をあげた。
恐る恐る足を進め、彼女に近づく。
母と廊下を歩いていた時、希望のように思っていた。
「怪我をしたのは足だから、手は動かせるの」そう言って彼女がパソコンに向かう姿。
とんだ思い違いだった。
「私の新作、読んだ?」
開口一番にそう訊いてくる華奈の目は、死んでいた。
感情が欠落している、死んだ魚のような目。
何が、強い華奈は、だ。
やっぱり何もわかってない。華奈のことを一つも見ていない。
「いや……」
購入はした。でも、読んでない。読む気になんてなれなかった。
「そっか」
灯火が消える音がした。
「東弥は、怪我してない?」
頷く。
その音の意味を考える前に、彼女は僕のことを拒んだ。
「お見舞いありがとうね」
そのトーンで全てを悟る。華奈のことを見ていなかったと言いつつも、分かってしまう。明らかな拒絶。
「けど、ごめんね。もう来ないでほしいの」
華奈は火の消えたその目で、僕の目を見ていた。
母に連れられて家に帰る。
「……話せた?」
信号待ちの途中、母は横目で僕を見ながら、そう小さく声を出した。
話せた、だろうか。
「話せたよ」
「そう」
家に着くまでの会話はこれだけだった。
昼食を食べ、テレビを眺め、夕食の時間になって、風呂に入る。寝る準備をして、自室に入る。
母親から「電話かかってきてるわよ」と呼ばれ、行くと、水澄からだった。
『病院……行ったか?』
「はい」
『どうだった?』
「岬と会いました」
『そっか』
「先生は?」
『さっき行ってきたよ』
「そうですか」
その後も心配される言葉をかけられたが、僕の声を聞いてだろう。『落ち着いたら学校来いよ』とだけ言って、水澄は短く電話を終わらしてくれた。母に電話を変わって、自室に戻る。
そうか、先生も病院に行ったのか。
華奈はどんな目をしていたのだろう。
華奈の表情を思い出した途端、目眩を覚え、僕は床に崩れる。
――もう来ないでほしいの
耳の中で何度も聞こえる声。
華奈の母親とは対称な言葉。
――華奈と仲良くしてあげてね
だけど、華奈の母親の意見で。
華奈の母親も、心から、完全に僕のことを華奈の良い友達と思えていないはずだ。どうしてうちの子だけが、そんなふうに思う気持ちが絶対にあったはずだ。それを抑え込んで、隠して僕に優しい言葉をかけてくれただけだ。
だから、華奈の意見は別だったというだけだ。
いや。違う。
強く握りしめられた拳。
華奈も、華奈の母親も、同じだ。同じことを思っている。
ただ、華奈は本心を。華奈の母親は本心を隠した嘘で。
いや、別に嘘でもいい。
「華奈のことをちゃんと思ってくれる子」と言っていた。
ああ、そうか。
華奈のことをちゃんと思うなら、こうやって全く怪我もなくのうのうと生きている僕は、華奈に顔を見せるべきではないんじゃないか。
彼女は僕のことを拒絶した。
華奈は絶対に人のことを考えて行動する。それくらいは、今まで一緒にいたからわかる。僕にしか小説家であることを伝えなかった彼女だからわかる。
友達を作りたいと、心のどこかで思いながらそれを我慢していた彼女だから。
だから、そんな風に人のことを考えながら動く彼女が「もう来ないで」と言ったのは。
それは、どれだけ考えても、それでも僕が近くにいることが自身の負担にしかならないと判断したからではないのだろうか。
唯一の希望である小説に追い込まれて、辛くて。そんな状況で事故に巻き込まれて。そんなふうに散々な状況に陥って。いや、陥ったからこそ、僕に来ないでと言った。
そうだ。
彼女が小説から距離を置いたみたいに。
僕も、彼女から離れるべきだ。
また、退院して、華奈が元気になったら。
大怪我をして、小説も手放して。けど、華奈はいつか退院して、小説もまた書き始める。あんなに強い目で泣いていた華奈なら、絶対。
そしたら、華奈がまた小説を書き始めるみたいに、僕も彼女に顔を見せればいい。
それまで僕にできることなんか、何もない。
華奈を思うなら。ちゃんと思うなら。
それで、いいはずだ。
脳裏に、彼女の死んだような目がチラついた。が、その映像を押さえ込み、僕は布団に入った。
眠ることはできなかったが、朝日が部屋に差し込んできた頃、怪我もしていない僕に学校を休む権利なんかあるのだろうと思い始め、布団から出て学校に行く準備を始めた。
少し早く家を出て、学校までの道を歩いていく。寒かったが、手袋もマフラーもしなかった。
冷えた指先の痛みが、その時の僕には必要だった。
「大丈夫か?」
学校に着くとすぐ、水澄が声をかけてきた。
僕は、彼の目を見ずに答える。
「……僕は怪我してないので」
「いや、体じゃなくて……心が」
水澄の気遣いも、鬱陶しかった。
大丈夫じゃないのは、僕ではない。今も病院にいる華奈だ。僕は事故にも遭ってない。僕はただそこに立っていただけだ。
「しんどかったら無理しなくてもいいぞ」
「いえ」
僕が今感じている重みなんか、華奈と比べたら大したことない。
結局僕は、何もしてないのだから。
そもそも、華奈と違って僕は何にも夢中になってない。無理なんかしたことない。
華奈に触発されたフリをして勉強していただけ。
目の前で華奈が事故に遭ったのに、見ていただけ。
華奈が病室で死んだ目を向けて、ただ帰っただけ。
「無理なんかしてません」
心配そうな水澄に顔を合わせ、にこりと微笑む。
「大丈夫です」
それだけ行って、教室へと足を進めた。
席につくと、隣の席のクラスメイトが僕の方へと椅子を向けた。
「お、風邪か?」
昨日僕が休んだ理由だろう。
「……そうそう」
僕は声が裏返らないように気を付ける。
「知ってるか? ……岬、事故に遭ったらしい」
ひゅっと、喉の奥が縮む。
「……そう、なんだ」
「なんだ、冷たいな」
「いや……大きな事故?」
僕は初めて聞いたみたいな表情で尋ねる。
「らしい、入院だって」
「……まじか」
うまく驚いた表情を作れたと思う。
「災難だよなぁ」
クラスメイトは、眉を下げてそう言った。
なんだよ、それ。なんでそんな顔してるんだ。
災難なんて、そんなもんじゃない。ずっと抱えてたんだ。華奈はいつだって重圧を背負っていた。
普段話したこともないお前が、何を悲しそうな顔してんだよ。
何も知らないくせに……何も。
いや、何も知らないのは僕の方だ。何も知らないくせに知ったふりをしていたのは僕の方だ。
華奈をこれ以上傷つけるのが怖い。
華奈にもう、迷惑をかけるわけにはいかない。
顔を見せることは、華奈にとっての負担になる。
華奈の両親だって、僕が病院に現れることで華奈が辛い思いをするなら、来て欲しくなんてないはずだ。
僕は、淡々と日常を過ごしていた。
学校で授業を受けて、予備校に行き、本を読まずに家に帰る。
静かに、生きる。
朝のために目覚ましをかける。
通知を確認する。
ほら、華奈から連絡は入っていない。これでいい。
数日後、家で予備校の課題をやっていたら、母が勢いよく僕の名前を呼んだ。
先生からの電話、そう言う母の尋常じゃない声に慌てて電話をとると、
『吾妻……』
水澄の声が掠れていた。
「先生?」
『岬が……』
「華奈が、どうしたんですか」
普段落ち着いている水澄の声が揺れているせいで、僕も華奈のことを苗字で呼ぶように切り替える余裕がなくなる。
『岬が』
続く水澄の言葉に、心臓が貫かれた気がした。
『自殺した……』
「……は?」
『…………』
「は……? えっ、じ……じ……さつ?」
じさつ。
自殺。
頭の中で漢字に変換された瞬間から、一気に全身が冷えていく。
「え……華奈が? 自殺?」
『そうだ……病院で、屋上から飛び降りたんだ』
「どういう……」
地面がなくなったように感じ、僕はその場に崩れ落ちる。目の前が真っ暗になる。
エンバーミングされた華奈の不自然に安らかな表情がそこにあった。
その表情とは対照的な――最後に見た華奈の死んだような目を思い出し、口元を抑える。口の中に酸味が広がった。
その表情は、小説に対する不安や、大切なもののせいで追い込まれることの恐怖、自分だけが事故に巻き込まれたことへの不満、不幸な出来事への苛立ち、そういったものが現れたもののはずだ。
追い込まれていた。
ずっと、長い間背負ってきた。
――そんなに長く生きちゃったら、多分疲れちゃう
彼女に生き返りたいか聞いた時、確かそう言っていた。
彼女は自分で、これ以上生きるのは疲れるとわかったから、それで生きることを終わらせたんじゃないか。彼女は、これ以上生きても不幸しかないと悟ったんじゃないだろうか。
あれだけ強い華奈がそこまで追い込まれたんだ。あの華奈が自殺を選んだんだ。それなら。
華奈の自殺は正しいものだと思った。
自殺というものは、今まで夢中になって小説に向き合ってきた彼女が、逃げ道として選ぶことを許された権利なんじゃないかと。
そう思った。
そうだ。
自殺が、彼女の救いなんだ。